首頁 Tags 益田藤兼

Tag: 益田藤兼

三百六十位人物:北条氏直、足利晴氏、松平秀康、岡吉正、一栗高春、北条景広、富田隆実、木下昌直、岡部元信、円城寺信胤、遠藤直経、岡本禅哲、安倍元真、大宝寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫広門、春日元忠、戸蒔義広、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣、高島正重、佐伯惟教、山上照久、毛利元清、阿蘇惟光、織田秀信、正木為春、大関高増、鵜殿長照、那須資胤、織田信孝、西園寺実充、北畠具藤、奥平貞能、尼子勝久、北条氏秀、天野隆重、北畠晴具、朝比奈泰能、京極高吉、松平秀忠、畠山政繁、山村良候、林秀貞、高森惟直、畠山義隆、北畠具房、田尻鑑種、一色義幸、土居清良、平岡房実、小梁川宗秀、石成友通、武田信豊、徳永寿昌、本願寺教如、高梨政頼、片桐且元、朝倉景紀、赤松則房、小島職鎮、横瀬成繁、浦上宗景、佐世元嘉、木造具政、成田長泰、益田藤兼、福原資保、宮部継潤、三雲成持、小野崎従通、大田原資清、志道広良、真田幸昌、木下秀頼、伊達実元、内ヶ島氏理、浅利勝頼、安東茂季、寒川元隣、杉重良、桑名吉成、斯波義銀、織田信勝、泉田胤清、百地三太夫、畠山義慶、有馬義貞、猪俣邦憲、加藤嘉明、稲富祐直、平野長泰、波多野宗高、浅井久政、国分盛顕、児玉就忠、山口重政、石川康長、那須資景、赤星統家、赤松晴政、京極高次、斯波詮直、山崎片家、最上義時、相良頼房、松本氏輔、柴田勝豊、戸沢政盛、藤方安正、脇坂安治、原田信種、小寺政職、猪苗代盛国、岡家利、蒲生秀行、鳥屋尾満栄、吉弘鎮信、村井貞勝、一迫隆真、蘆名盛興、小野寺輝道、神代勝利、篠原長房、島津豊久、矢沢頼康、来島通康、阿蘇惟種、阿蘇惟将、阿蘇惟豊、阿閉貞征、安芸国虎、安見直政、安宅冬康、安田顕元、安田能元、朝倉景隆、安富純治、安富純泰、伊集院忠倉、伊集院忠棟、伊集院忠朗、伊達盛重、伊東義益、伊東祐慶、伊東祐兵、伊奈忠次、井伊直孝、磯野員昌、一栗放牛、一色義清、一色義道、一色藤長、稲葉貞通、宇喜多忠家、宇山久兼、宇都宮高武、羽床資載、臼杵鑑続、延原景能、延沢満延、遠山景任、塩屋秋貞、奥平信昌、岡部長盛、岡本頼氏、屋代景頼、屋代勝永、屋代政国、温井景隆、温井総貞、下間仲孝、下間頼竜、加須屋真雄、河尻秀長、河尻秀隆、河田長親、河東田清重、河野通宣、河野通直、河野通直、花房職秀、花房正幸、花房正成、皆川広照、垣屋光成、垣屋続成、角隈石宗、葛山氏元、葛西俊信、葛西親信、葛西晴胤、樺山久高、蒲生賢秀、蒲池鑑盛、肝付兼護、肝付良兼、関一政、関盛信、岩上朝堅、岩清水義教、岩清水義長、願証寺証恵、吉見広頼、吉見正頼、吉川経安、吉川経家、吉田孝頼、吉田康俊、吉田重俊、吉田重政、吉良親実、久慈信枚、久能宗能、久武親信、久武親直、宮城政業、朽木元綱、魚住景固、近藤義武、金子元宅、金上盛備、九戸康真、九戸実親、九戸信仲、九戸政実、窪川俊光、窪田経忠、熊谷元直、熊谷信直、隈部親永、結城政勝、兼平綱則、犬甘久知、犬童頼兄、原胤栄、原胤貞、原長頼、原田宗時、古田重然、戸川秀安、戸川達安、戸沢政重、戸沢盛重、戸沢道盛、戸田勝成、後藤高治、後藤勝元、後藤信康、御子神吉明、御宿政友、公文重忠、弘中隆兼、江井胤治、江上武種、江村親家、江馬輝盛、江馬時盛、江里口信常、溝尾茂朝、甲斐親英、荒木氏綱、香川之景、高橋鑑種、高原次利、高山友照、高城胤則、高城胤辰、高梨秀政、高梨頼親、国司元相、国分盛氏、黒岩種直、黒川晴氏、佐久間安政、佐久間勝政、佐久間盛政、佐竹義久、佐竹義憲、佐竹義斯、佐竹貞隆、佐田鎮綱、佐田隆居、佐波隆秀、佐野宗綱、佐野房綱、最上家親、最上義守、妻木広忠、斎藤龍興、細野藤敦、鮭延秀綱、三好義興、三好秀次、三好政康、三好政勝、三好存保、三好長逸、三村家親、三村元親、三村親成、三沢為清、三木国綱、山崎家盛、山崎長徳、山田宗昌、山田有栄、山田有信、山内一豊、山名豊定、山名祐豊、四釜隆秀、市川経好、志賀親次、志賀親守、志賀親度、志村光安、斯波義冬、斯波経詮、斯波長秀、氏家吉継、氏家守棟、寺崎盛永、寺沢広高、寺島職定、慈明寺順国、慈明寺定次、七里頼周、執行種兼、車斯忠、種子島恵時、種子島時堯、酒井忠勝、酒井敏房、秋月種実、秋月文種、十河義継、楯岡満茂、小笠原信浄、小笠原成助、小笠原長雄、小笠原貞慶、小貫頼久、小山高朝、小山秀綱、小田氏治、小田守治、小田政光、小田友治、小幡憲重、小峰義親、小野木重次、松浦鎮信、松永久通、松永忠俊
三百位人物:三好清海、三好伊三、肝付良兼、由利鎌之助、肝付兼亮、肝付兼護、穴山小助、島津豊久、伊集院忠倉、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎、山浦国清、高梨政頼、屋代政国、屋代勝永、須田満親、須田長義、蘆田信蕃、小笠原長時、小笠原秀政、犬甘政徳、犬甘久知、二木重吉、溝口貞泰、木曾義利、諏訪頼忠、保科正俊、三木顕綱、三木国綱、長尾晴景、上杉景信、色部勝長、色部顕長、色部長実、河田長親、北条景広、本庄慶秀、安田能元、甘粕景継、鬼小島弥太郎、水原親憲
三百六十位人物:北条氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北条景広、富田隆実、木下昌直、岡部元信、円城寺信胤、遠藤直経、岡本禅哲、安倍元真、大宝寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫広門、春日元忠、戸蒔義広、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣、高島正重、佐伯惟教、山上照久、穂井田元清、阿蘇惟光、織田秀信、正木為春、大関高増、鵜殿長照、那須資胤、織田信孝、西園寺実充、長野具藤、奥平貞能、尼子勝久、上杉景虎、天野隆重、北畠晴具、朝比奈泰能、京極高吉、徳川秀忠、上条政繁、山村良候、林秀貞、高森惟直、畠山義隆、北畠具房、田尻鑑種、一色義幸、土居清良、平岡房実、小梁川宗秀、岩成友通、武田信豊、徳永寿昌、本願寺教如、高梨政頼、片桐且元、朝倉景紀、赤松則房、小島職鎮、横瀬成繁、浦上宗景
吉見正賴 Yoshimi Masayori(1513年-1588年) 吉見賴興的五子,正室為大內義興之女,通稱四郎,法名周鷹。 吉見氏源於清和源氏支流,源賴朝之弟源范賴出任西國鎮撫,將其第五子源賴澄分封於出雲國仁多郡吉見莊,從此賴澄一支便以「吉見」為姓。弘安五年(1282年),由於對元軍警備,吉見賴行入主石見擔任地頭一職,在津和野築城,為石見吉見氏。戰國時代的吉見氏與毛利氏一樣,在大內、尼子兩強之間掙扎求存。 父親吉見賴興時吉見氏臣服於大內氏,享祿五年(1532年),父親亡故,長子興成早世,次子隆賴繼承家督卻於天文九年(1540年)亡故。在家臣的支持下原於津和野興源寺出家的正賴,還俗繼承吉見氏家督。 正賴為人正直剛毅,深得大內義興的喜愛;義興遂將其養女嫁給正賴,並與正賴約定「世代聯姻」。但是在尼子經久咄咄逼人的攻勢下,正賴仍然被迫倒向尼子,並於大永三年(1523年),參加了尼子家對大內家在安芸國的要衝——鏡山城的攻擊。正賴在此期間與同屬尼子陣營的毛利元就相遇,兩人一見如故,結為摯友。 天文十年(1541年),尼子經久病死,正賴立刻重新倒向大內。之後正賴在大內的支持下逐一攻略石見的親尼子勢力,並於天文十二年(1543年),出征尼子氏的月山富田城、於第一次月山富田城合戰。 天文十五年(1546年)奪得了對石見銀山的控制權,從而一舉成為石見的最大勢力。同年毛利元就也攻克了安芸國佐東銀山城,殺掉了有名無實的安芸守護武田元和;之後又迫使穴戶元源、天野興景等安芸有力國人降服,至此制霸安芸。 天文二十年(1551年),大內家重臣陶隆房(陶晴賢)舉兵叛亂,迫使大內家家督大內義隆在長門國大寧寺切腹。正賴因其妻子是大內義興養女的緣故,立即聯絡對陶晴賢不滿的大內家另一重臣、豐前守護代杉重矩(陶、杉和內藤是大內家的支柱,分別世襲周防、豐前和長門守護代)夾擊陶晴賢。然而陶晴賢輕而易舉地就平定了豐前並誅殺杉氏滿門。 天文二十一年(1552年)5月,派遣家臣下瀨左京助去吉田郡山城懇請毛利元就及其子隆元派遣援軍。毛利氏以關係毛利家的家運需慎重對應加以婉拒。下瀨左京助無功而返。 天文二十三年(1554年),陶晴賢發動大軍聯合益田氏攻打吉見氏。正賴被迫放棄了絕大部分的領土,集中全部兵力死守本城三本松城。三本松城是西國有名的堅城之一,陶晴賢見不宜強攻,遂下令圍城。三本松籠城戰打了足足半年,就在正賴幾乎就要撐不住了的時候,他的摯友毛利元就開始攻略周防,許多對陶晴賢不滿的大內家臣紛紛投降毛利。此時陶晴賢也認識到毛利元就才是自己最大的敵人,便主動與正賴議和,在正賴送出嫡子廣賴為人質後收兵回到周防以抵禦毛利。 弘治元年(1555年),陶晴賢以優勢兵力同毛利元就會戰於安芸嚴島,兵敗切腹。戰勝後的毛利元就立即以迅雷不及掩耳之勢展開了對大內領的猛攻,正賴也起兵響應,包圍了宿敵益田氏益田藤兼的七尾城,逼使益田氏向毛利氏臣服,不久便制壓了石見全境。 弘治三年(1557年)毛利軍攻克大內家本城-周防國山口館,陶晴賢所擁立的大內家家督大內義長(大友晴英)切腹,獨霸西國二百餘年的西國探題大內家從此煙消雲散。正賴成為毛利元就的家臣,元就同樣地信賴正賴的清廉的性格。 天正十年(1582年),正賴讓出家督給兒子廣賴,隱居於指月城直到天正十六年(1588年)逝世,享年76歲,法號周鷹寺殿月左鷹公大居士。 出處 http://baike.baidu.com/view/1907883.htm 出處 http://blog.sina.com.cn/s/blog_4c17f64301009nhc.html
熊谷信直 Kumagai Nobunao(1507年-1593年) 平安時代末期に平氏との戦いで活躍した熊谷直実の直系の子孫である。安芸国の国人領主であり、安芸の守護を務めていた安芸武田氏家臣となっていた。 父の元直は武田元繁に従い、永正14年(1517年)に毛利元就率いる吉川・毛利連合軍と戦い、有田中井手の戦いで討死している。この一件もあり、この頃は毛利氏と敵対関係であった。大永4年(1524年)に周防・長門の大名・大内義興が安芸に侵攻し、安芸武田氏の居城・佐東銀山城を包囲した。大内軍の一部が三入庄まで進出したため、八木城主香川吉景らの支援を得て、大内軍を打ち破った。同年7月には、父の仇であった毛利元就の指揮下に入り、香川光景・三須房清らと大内包囲軍に奇襲をかけ、散々に打ち破った。仇であった元就の戦いぶりを間近に見た信直は、元就に対する認識を変え、毛利氏との和解へと繋がった。 大永7年(1527年)に同じ安芸武田家臣の船山城主・山中成祐が信直を暗殺しようとして失敗。3年後にこの仇を討ち、弟の直続、家臣の岸添直清、末田直道らと謀って山中成祐兄弟を討ち取った。 天文2年(1533年)に所領の問題と武田光和夫人であった妹への待遇への不満、大内氏・毛利氏・熊谷氏の密約が漏れたこと、信直が武田氏の所領を横領したことなどで武田氏と対立。ついには自身の居城である三入高松城が攻撃を受けた。兵力は1000余で、それを二手に分け、三入高松城を攻撃するのは総大将武田光和以下、品川信定他200、もう一軍の総大将は武田一門の伴繁清、それに従うのは香川光景、己斐直之、熊谷一族の山田重任、温科家行、飯田義武、板垣繁任などのそうそうたる顔ぶれであった。それに対して熊谷勢は信直を総大将とし、弟の直続、末田直忠・直久兄弟、岸添清直、水落直政らがこれに従った。 三入庄に侵攻した伴繁清率いる武田軍は三入横川表に進出し、防備を固めていた熊谷信直配下300と激突した。この横川表の戦いにおいて少数の熊谷勢は奮戦して、総大将の伴繁清を負傷させた。また三入高松城へ侵攻した本隊も多くの死傷者を出し、撤退を余儀なくされた。これを横川表の戦いと言う。 この合戦を期に毛利氏との連携を強め、その指示へ従うようになった。 天文9年(1540年)、出雲の戦国大名・尼子詮久(後の尼子晴久)が安芸に侵攻。毛利元就の居城・吉田郡山城へと攻め寄せた。また牛尾幸清が兵2000を率いて佐東銀山城に入り、周辺をうかがった。籠城しながらも、毛利元就は神出鬼没の戦いぶりで尼子軍を翻弄し、大内氏の援軍として陶隆房が兵10000を率いて来ると、翌10年(1541年)に尼子詮久は撤退した。信直は三入高松城を守っていたが、佐東銀山城内の牛尾幸清が撤退するに及び、八木城主香川光景と追撃をかけるが、間に合わなかった(吉田郡山城の戦い)。 同年5月には元就の命に従い、宍戸隆家、香川光景らと旧主・安芸武田氏を攻撃。佐東銀山城を包囲してついに落城させ、安芸武田氏当主・武田信実は出雲に逃亡した。これにより、鎌倉時代より続いた安芸武田氏は終焉を迎えた。 天文11年(1542年)、大内義隆は勢力の衰えた尼子氏を討つべく山口を出陣。途中、三入庄の観音寺に宿泊して、出雲へ侵攻した。赤穴城の戦いで熊谷勢は苦境に立たされ、信直の弟直続が討死した。その後、月山富田城を包囲攻撃するも、吉川興経らの寝返りもあり、結局月山富田城攻略に失敗。熊谷勢も無残な退却戦となり、香川光景らと共に退却していたが、出雲鳶ノ巣川で一揆衆の襲撃を受け、乱戦の後に死地を脱した(月山富田城の戦い)。 天文16年(1547年)には娘の芳桂(新庄局)を毛利元就の次男・吉川元春に嫁がせ、毛利氏との関係を強化し、一門衆として扱われるようになった。 天文17年(1548年)8月、信直は元就と共に山口の大内義隆を訪問。翌年の3月まで山口に滞在した。そして天文19年(1550年)9月、元就の命を受け、月山富田城の戦いで煮え湯を飲まされた幽閉中の吉川興経を天野隆重と急襲して殺害した。興経の首は信直家臣の末田直共が取った。 天文20年(1551年)、大寧寺の変で大内義隆が家臣であった陶隆房の謀反により横死した。毛利氏は徐々に独立を志向し、陶氏率いる大内氏に従属を続けながらも、安芸国内の統一を目指した。翌21年(1552年)は5月に備後で尼子氏と対陣。7月には祝貞近を攻撃。9月には義隆の残党が立て籠もる安芸槌山城を攻略、平賀隆保らを討ち取った。また翌22年(1553年)には、鶴首城主・三村家親を支援した吉川元春に従い、備中猿掛城主・庄為資を攻撃して降伏させた。 天文23年(1554年)、折敷畑の戦いでも吉川軍主力として奮戦。陶軍を掃討し、宮川房長を自刃に追い込んだ。同年6月、陶軍の残党を打ち破り、廿日市周辺を征圧した。同年9月に、毛利軍は信直の婿であった野間隆実が籠もる矢野城を攻撃した。野間隆実の妻は信直の長女であったため、隆実は信直を通じて降伏したが、三入庄に移送されて暗殺された。基本的に降伏した者を赦す元就であったが、陶氏との決戦を目の前にしてやむを得ず緊急措置に至った。 天文24年(弘治元年、1555年)、陶晴賢(隆房より改名)率いる大内軍20000が厳島に上陸。毛利軍の拠点で、己斐直之が籠もる島内の宮尾城を包囲攻撃した。信直は4人の息子高直、直清、広真、三須隆経らと兵を率いて、落城寸前となった宮尾城への援軍として入城した。旧暦10月1日に毛利元就率いる本隊が奇襲をかけた際に、城から撃って出て陶軍を撃破、晴賢を討ち取った(厳島の戦い)。 同年の防長経略にも参戦、岩国へ進出して杉隆泰の鞍掛山城を攻略した。翌弘治2年(1556年)から3年(1557年)にかけて山口を制圧。逃亡した大内義長を追って長門勝山城を包囲し、内藤隆世は自刃。降伏した義長も最終的には自刃して果てた。 永禄元年(1558年)には石見出羽に進出して小笠原長雄を破り、福屋隆兼も打ち破った。12月には中村康之と石見最大の国人であった益田藤兼を降伏させた。これらの功もあり、13代将軍足利義輝は永禄3年(1560年)、信直を伊豆守に叙任した。翌年には毛利氏に降伏していた本城常光を暗殺。この時、信直も軽症を負った。 永禄5年(1562年)10月、元就率いる出雲遠征軍の一員として、出雲白鹿城を攻撃。城主・松田誠保は必死の防戦に努めたが、白鹿城は落城し、毛利軍は攻略に成功した。同年冬には出雲洗骸に陣を築いて月山富田城攻略の拠点とし、熊谷父子もそこに滞在して次の戦いに備えた。何度かの攻城戦の結果、元就は攻城の無理を悟り、長期攻囲作戦に切り替えた。そのため月山富田城内の兵糧は底をつき、徐々に逃亡兵が出るようになった。 永禄9年(1566年)11月、尼子義久・倫久・秀久兄弟は降伏し、大名としての尼子氏は滅亡した。 永禄11年(1568年)、吉川元春に従い熊谷親子は北九州に進出。博多を望む要衝・筑前立花山城を包囲攻撃し、援軍に現れた大友軍と激突した。立花山城は落城し、毛利氏の手中に収まったが、大内輝弘らが周防に乱入したため、立花山城を放棄して輝弘を討った(大内輝弘の乱)。 信直は元春と共に、中国地方各地を常に吉川軍の主力として転戦。最終的には国衆最高の16000石を得た。しかし天正7年(1579年)に嫡男の高直が病死、嫡孫の元直を補佐し、文禄2年(1593年)に病死した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E4%BF%A1%E7%9B%B4
益田元祥 Masuda Motoyoshi(1558年-1640年) 父は益田藤兼、母は石津経頼の娘。妻は吉川元春の娘。幼名郎,改名元祥→牛庵,通称又兵衛,戒名桃林院殿前鴻臚全紹圀大居士。 永禄11年(1568年)、毛利元就を烏帽子親として元服する。 天正6年(1578年)の上月城の戦いに吉川元春・元長父子と共に参加、天正8年(1580年)には反旗を翻した伯耆羽衣石城主南条元続を攻め、所領を賜っている。天正10年(1582年)の備中高松城の戦いにも元春に従軍、同年に父から家督を譲られる。 主君の毛利輝元が豊臣秀吉に臣従すると、主従共に秀吉の天下統一戦に従い、天正13年(1585年)の四国攻めに参戦して伊予高尾城攻めで奮戦、天正14年(1586年)の九州征伐にも参加して豊前宇留津城攻撃で功績を挙げた。慶長元年(1596年)、豊臣姓を下賜された。天正18年(1590年)の小田原征伐にも毛利水軍を率いて三沢為虎・熊谷元直・吉見広頼らと共に伊豆下田城を落とした。文禄の役は吉川広家に従って出陣、碧蹄館の戦いでもその武略を発揮し明の軍勢を撃退している。慶長の役でも渡海して朝鮮に渡り、蔚山城の戦いにおいても広家と共に敵を撃退している。 慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、次の天下人と予想される徳川家康への接近を広家と熊谷元直・宍戸元続と共に図る。しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは輝元は西軍に味方し、元祥も西軍として広家に従い富田信高の伊勢安濃津城を攻略するが、9月15日の関ヶ原の本戦では戦闘に参加しなかった。 戦後、輝元は周防・長門の2ヶ国に減封され、益田氏の領地であった石見も没収されることとなった。徳川家康は元祥の行政手腕を高く評価しており、大久保長安を通じて本領の安堵と徳川家臣としての重用を条件とし勧誘されたが拒絶、新たな所領となった長門阿武郡須佐へと移住、北の石見口の守りを担当、福原広俊と共に長州藩の政治を任された。 慶長6年(1601年)に毛利氏領国だった備後・安芸に入部した福島正則が毛利氏が慶長5年に徴収した租米の弁償を要求、元祥は福原広俊と共に解決に尽力し、慶長7年(1602年)までに完済した。慶長9年(1604年)の萩城の築城を担当、翌年の江戸幕府からの江戸城普請に選ばれている。しかし、萩城の工事で熊谷元直・天野元信と諍いを起こし、元直らが処刑される騒動に発展した(五郎太石事件)。また、父の代から吉見氏と争っていた領地を輝元に与えられたが、憤慨した吉見広長が慶長9年(1604年)に出奔している。 元和6年(1620年)、孫の元尭に家督を譲って隠居したが、元和9年(1623年)に輝元から藩政を委託され、毛利秀元・清水景治と共に財政再建に取り組んだ。 毛利氏の主要な合戦の大半に参加して武功を挙げた元祥であったが、武勇だけではなく行政手腕に非常に優れた武将であった。 周防・長門の2ヶ国に減封され、財政が極度に悪化した毛利氏は慶長12年(1607年)に検地を行ったが、内容は収入の73%を徴収するという高税をかけているため、慶長13年(1608年)に山代慶長一揆が発生、重税に苦しむ農民の逃亡と畑の荒廃をもたらした。元祥・秀元らは寛永2年(1625年)に検地を再実施、税率を50%に引き下げて農民の負担軽減を図った。収入は慶長12年の頃より減少したが、この検地で打ち出した石高が長州藩の基盤となった。同時に家臣団の大幅な所領改替も行われ、藩主家の直轄領が収入高の土地を中心に増加、藩主の権力伸長にも繋がった。 また、寛永5年(1628年)に一揆が起こった山代地方を調査、寛永8年(1631年)に貢租を紙に変更して紙を徴収する請紙制を実施した。紙は大坂で売却され大きな利益を上げた。農民保護と田畑復興政策も実行、借金の利息を減らし、逃亡した農民の呼び戻しや新田開発にも取り組み財政再建に全力を尽くした。結果、寛永9年(1632年)に長州藩の負債を返却、余剰金及び米の備蓄も可能になり、長州藩の江戸時代における財政基盤を固めることに成功した。同年に藩政から引退、寛永17年(1640年)9月22日に死去。享年83。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A%E7%94%B0%E5%85%83%E7%A5%A5
益田藤兼 Masuda Fujikane(1529年-1597年) 享禄2年(1529年)、石見で生まれる。周防・長門の大名大内氏の傘下の国人領主の1人であった。初陣は天文12年(1543年)の第一次月山富田城の戦いとされ、当時15歳であった。翌13年(1544年)、祖父の益田宗兼が死去し、益田氏の家督を継承する。家督継承時も父は存命であったが、父の尹兼は藤兼の資質を見抜き、益田氏の家督を継承しなかったと言われている。しかし尹兼も優秀な武将であり、藤兼を補佐して益田氏を盛り立てた。尹兼と将軍(1546年に就任)の足利義藤(後の義輝)よりそれぞれ一字を貰い受け藤兼と名乗ったのもそれからまもなくのことと思われる。 主君の大内義隆と重臣・陶隆房(晴賢)との間が不穏になってきた頃、藤兼は近隣の国人領主である吉見氏と所領を巡って争っている。その一方で後述の義隆死後には一族の三隅兼隆を討伐し(兼隆は降伏し逃亡)、周布氏当主の周布元兼を従え、勢力拡大に腐心している。 天文20年(1551年)、晴賢が大内義隆に謀反を起こす。益田氏と陶氏は姻戚関係(晴賢の祖母が藤兼の高祖父・益田兼堯の娘)であったため、晴賢の謀反に協力し義隆を自害に追い込んだ(大寧寺の変)。藤兼は当時石見にあり、吉見氏の所領に侵攻したが、逆襲を受け退却している。そして相良武任の子の虎王を石見で捕らえ殺害している。その後、晴賢が擁立した義隆の甥・大内義長に外交手腕を評価され重用された。 天文20年から24年(1555年)にかけて藤兼は吉見領に侵攻しているが、吉見正頼率いる吉見勢も頑強な抵抗を見せる。天文23年(1554年)、大内氏の大軍が三本松城を攻撃し、三本松城の戦いが開始される。大内軍は三本松城を落とすことができず、最終的には吉見正頼との講和が成立する。同年、晴賢の命令で尼子晴久との同盟を締結した。 しかし、天文24年の厳島の戦いで、毛利元就の奇策により晴賢が厳島にて討死。晴賢の側で多くの功績を収めてきた藤兼は、大内義長と共に毛利元就の最大の標的となったのである。 弘治2年(1556年)には元就の次男・吉川元春が石見に侵攻を開始する。藤兼は七尾城を増改築し、居城を移した。6月には益田領への侵攻が開始され、年末には益田氏周辺の小豪族も益田領へと侵攻を開始した。吉見正頼も益田領へと侵攻し、諸城を攻撃している。翌3年(1557年)3月、藤兼は毛利氏に降伏。翌4月に元就は大内義長を自害に追い込み、大内領をほぼ手中に収めた(防長経略)。 元就は「義隆を殺した大罪人」である事に加え、藤兼が長年吉見正頼と対立したことを勘案し、もし藤兼を許せば正頼がへそを曲げて叛逆するかもしれないという懸念から藤兼の処刑を考えていたが、元春がその武勇を惜しんで助命したため、本領を安堵され、以後は毛利氏の家臣となった。永禄4年(1561年)には福屋隆兼が反乱を起こすと討伐に赴き、10月には北九州へと転戦し、大友宗麟と戦っている。永禄5年(1562年)には長年の懸念であった吉見氏との所領問題に毛利氏の裁定を仰ぎ、小競り合いがあったもののこれを解決している。 永禄6年(1563年)頃より、元就は尼子氏を倒すべく軍を動かす。白鹿城を落とし、永禄8年(1565年)には月山富田城を包囲する。この時に広瀬川で藤兼の家臣・品川勝盛が山中幸盛と一騎打ちを行い、討死した。しかし尼子氏は大勢を覆すことができず、翌9年(1566年)に降伏した(第二次月山富田城の戦い)。 永禄10年(1567年)以降は尼子氏や大友氏との戦いで出雲・伯耆・豊前を転戦して活躍。元亀元年(1570年)には家督を嫡子の元祥に譲る。同年、石見で反乱を起こした三隅隆繁・国定兄弟を討伐して大いに戦功を挙げた。その後は元祥に元春の娘を娶わせるなどして毛利氏との関係を強めた。翌2年(1571年)にも布部山の戦いで吉川軍の一部として尼子再興軍を撃破している。 老境に入ると、所領の神社仏閣を再建し、手厚く保護し、慶長2年(1597年)に死去した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A%E7%94%B0%E8%97%A4%E5%85%BC

Send this to a friend