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益田景祥 Masuda Kageyoshi(1577年—1630年) 父は益田元祥、母は吉川元春の娘、毛利元就の外孫。正室は児玉元良の娘。再室は臼杵甚右衛門の娘;通称は七内、修理亮、河内守。官位は従五位下、諸大夫。号は道半。 はじめ筑前国の名族・宗像氏の養子となるが、兄の益田広兼が急死したため、父元祥に乞われて実家に戻る。 武人としての器量があったため小早川隆景に仕え、当時、若年ながら朝鮮出兵で活躍し隆景に軍功を称えられ偏諱を貰い景祥と名のる。隆景が武家清華家に列した時に、諸大夫成している。その死後、豊臣秀吉から筑前名島周辺1万石で隆景の養子である秀秋に仕えるように命じられたが苦慮の末、毛利輝元の直臣となった。関ヶ原の戦いの後、防長転封の時に父の元祥と共に奔走し、萩城の築城や萩藩の経済を立て直すなどの支配体制確立に功があった。 益田氏宗家は兄の子元堯が継いだため分家して、はじめ周防右田で2,500石、長門江崎を経てのちに寛永2年(1625年)、周防国吉敷郡問田深野などで4,096石の知行を貰い、藩の寄組に列した。寛永7年(1630年)7月13日山口において死去。享年54。笠松山麓に葬られる。家督は嫡男の就固が継いだ。 なお、小早川隆景夫人が夫の死後景祥を頼り、問田に移り住んだことから問田大方と呼ばれる。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A%E7%94%B0%E6%99%AF%E7%A5%A5
福原広俊 Fukuhara Hirotoshi(1567年-1623年) 安芸毛利氏の家臣。毛利氏の一族である安芸福原氏13代当主。 永禄10年(1567年)、12代当主・福原元俊の子として誕生。祖父は11代当主・福原貞俊。子は同名の14代当主・元俊(隠岐守)など。 毛利輝元に仕え、天正19年(1591年)に家督を継承する。吉川広家と共に家中で重きをなし、朝鮮出兵に力を発揮した。関ヶ原の戦いにおいては、西軍に味方した毛利氏の断絶を防ぐため、広家・宍戸元続・益田元祥・熊谷元直と談合の上で徳川家康に内通、領国安堵の約束を取り付けたが、戦後約束は反故にされ、輝元が減封されると広俊も本領を維持できず、以後は長門吉敷の地を領した。輝元は隠居したため、嫡男で幼少の秀就を広家・益田元祥・毛利秀元と共に支えた。 江戸において江戸幕府との折衝にあたり、毛利氏の居城の場所選定を本多正信・正純父子と話し合い(結果は萩城に決定)、慶長11年(1606年)の江戸城普請を担当するなど幕府との関係維持に腐心、長州藩内部の問題解決にも尽力、萩城築城中に起きた熊谷元直粛清事件(五郎太石事件)で藩内の動揺を鎮め、藩の政策決定にも関わっている。また、大坂の陣に際して佐野道可事件が発覚すると処理に奔走、元和2年(1616年)に国許へ戻り、元和8年(1622年)に嫡男の元俊に家督を譲り隠居した。 翌9年(1623年)に死去。子孫は代々長州藩の家老を務めた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E5%BA%83%E4%BF%8A#.E7.A6.8F.E5.8E.9F.E5.BA.83.E4.BF.8A_.2813.E4.BB.A3.E5.BD.93.E4.B8.BB.29
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