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三好政康 Miyoshi Masayasu(生年不詳-没年不詳) 三好三人衆の1人。初め右衛門大輔政生、続いて下野守政康と名乗る。後に出家し、釣竿斎宗渭(ちょうかんさいそうい)と名乗った。 続柄に関しては諸説あり、『続応仁後記』では「三好之長の次男の孫三郎頼澄」とされる。また、『三好別記』によると「三好之長の弟・勝時の子である政長の子」とあり、『狩野文書』の元亀二年七月晦日付け一任斎宛足利義昭御内書によると、一任斎こと政長の子・三好政勝に宛てた手紙の書出しに「舎兄下野守跡職并自分当知行事」と記され、下野守政康は政勝の兄と記されている。また『芥川系図』では「政長の子、右衛門大夫政勝の弟」とする。頼澄の子とする場合、兄は三箇城主三好政成とされる。 なお、政康という名は『細川両家記』の誤謬が伝播したものといわれ、他の一次史料などによれば本名は政生(まさなり)となっている。 はじめ細川晴元の家臣として仕え、一族の三好長慶と争うが、後に和解勧告に応じ臣従。長慶の勢力拡大に貢献し、弘治元年(1555年)の丹波八上城攻めや永禄5年(1562年)の畠山高政攻め(久米田の戦い、教興寺の戦い)に参陣して武功を挙げた。長慶の死後は甥の三好義継の後見役の1人として台頭、三好長逸・岩成友通と共に三好三人衆と呼ばれ、松永久秀を含め三好家中で重きをなした。おしどりを形どった花押を用いていたという。永禄8年(1565年)5月19日、他の三人衆と共に三好氏と対立する室町幕府13代将軍足利義輝の御所を襲撃して殺害した(永禄の変)。 しかし、次第に畿内の主導権をめぐり久秀と三人衆との関係は悪化。11月16日、三人衆は河内飯盛山城を襲撃し、義継の身柄を河内高屋城に移すと、義継に久秀との断交を約束させ、義輝の従弟の阿波公方の一族足利義栄を14代将軍に擁立し、三好氏の本拠地である阿波の篠原長房の協力を得ることにも成功した。12月下旬には義栄に御教書を発行させ、軍を久秀の本拠地大和に進駐させ、筒井順慶らを味方につけ久秀を脅かした。一方の久秀は紀伊に逃れていた畠山高政・安見宗房らを扇動して高屋城を襲撃させ、永禄9年(1566年)2月に河内において畠山軍は三人衆に決戦に及んだが、三人衆は2月17日の上芝の戦いで畠山軍に大勝、久秀は大和へ退却する。4月に三人衆は再び大和に侵攻したが、久秀は城を脱出し堺において味方の軍を結集して、再び高屋城を脅かした。そのため三人衆は義継の親征を仰ぎ、摂津の池田勝正や淡路の安宅信康の援軍も得て久秀の3倍の軍で堺に迫ったため、5月30日に久秀は戦わずして逃亡した。この時、阿波の篠原長房が足利義栄を擁し大軍を率いて兵庫に上陸すると、三人衆はようやく長慶の喪を発表して葬儀を実行し、長房の援軍も得て三人衆は畿内の反対勢力をほぼ一掃することに成功した。 8月23日には義栄を摂津越水城に迎え主君として遇したが、これが義継の不興を買い、永禄10年(1567年)2月に義継は出奔、久秀を頼って三人衆と敵対するようになり、三好康長らも三人衆から離反したため、久秀は復権し三好家は再び分裂抗争することになった。大和での東大寺の大仏の炎上事件がおきたのもこの時期の戦乱においてである(東大寺大仏殿の戦い)。しかし戦局は三人衆が有利で、東大寺での敗戦後から立ち直り久秀方の信貴山城を落とし多聞山城を包囲した。 永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を擁立して上洛してくると、義継・久秀らが織田氏に接近する一方で三人衆は信長との敵対の道を選んだが、9月29日に勝竜寺城と淀城が敗れるとほぼ総崩れとなり、政康も城主であった山城木津城から退いた。以後は石山本願寺や信長と不仲となった義昭らを巻き込み信長との抗争は激化したが、畿内での兵乱(元亀兵乱)が信長の優位で決着すると政康の動向は不明となった。死去した時期について、今谷明は消息不明になり没年すら定かではないとしている。一方で天野忠幸は、『二条宴乗記』における永禄12年(1569年)5月26日の記事から5月3日に阿波で死去したと指摘している。 なお、豊臣氏に仕え、大坂夏の陣において88歳という高齢でありながら最期まで秀頼に従い戦死した三好清海(みよし せいかい)という人物が政康の後身という俗説がある。また、講談に登場する真田幸村の部下の「真田十勇士」の1人である「三好清海入道」のモデルになったとされることがある。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E5%BA%B7
三好義賢 Miyoshi Yoshikata(1527年?-1562年) 三好元長的次子、正室為久米義廣之女、繼室為岡本牧西之女・小少將;幼名千滿丸,別名物外軒、之虎、實休,戒名實休居士。 天文十三年(1544年),跟隨兄長三好長慶進入京都,長慶跟隨細川氏當主細川晴元,義賢則仕於細川分家・阿波守護讚州細川當主細川持隆,從此開始在四國的影響力。 天文十六年(1547年),細川晴元與細川氏綱、畠山政國、遊佐長教等勢力在攝津爆發捨利寺之戰,義賢做為細川晴元方將領出戰獲得勝利。此後隨著三好的勢力逐漸擴大,相繼轉戰讚岐、和泉等地。而由於其弟十河一存後來成為和泉國岸和田城主,讚岐一國實際上也由其支配,因此囊括三好勢力在四國的政治及軍事。 天文二十二年(1553年)6月,與其弟十河一存共同在見性寺內殺害細川持隆,並擁立其子細川真之作為傀儡。此舉雖引起持隆舊臣久米義張、佐野丹波的反抗,但亦被義賢所平定,從此完全掌握讚州細川家,稱為阿讚眾的阿波、讚岐國人眾從此歸入三好政權的勢力。 永祿三年(1560年),與兄三好長慶一同戰勝畠山高政及安見宗房,之後被委派管理河內一國。 永祿五年(1562年),遭受得到紀伊根來眾援助的畠山高政反擊、於和泉的久米田之戰中戰死,年三十六歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E7%BE%A9%E8%B3%A2
三好長逸 Miyoshi Nagayuki(生年不詳-沒年不詳) 三好氏の家臣。三好一族の長老的立場であり、松永久秀と共に三好政権の双璧と称される。三好三人衆の1人で、その筆頭格であった。 通称は孫四郎、初名を長縁ともいう。法号は宗功。さらに元亀年間からは「北斎宗功」の号を名乗り始める。官位は従四位下日向守。子に三好久助(久介、長将とも)がいる。 続柄は諸説あり、『続応仁後記』によれば三好之長の四男・孫四郎長光の子が日向守長縁(長逸)とされる。『細川両家記』などでは之長の子は「芥川次郎長光・三好孫四郎長則」であり、この三好長則の子にあたるともいう。「芥川系図」に拠ると、長縁は「初名定康、芥川三郎・日向守・従五位下・入道号北斎。芥川三郎長光の子」とされている。『史略名称訓義』では、長縁について「豊前守之康の男、彦次郎也」であり、三好政康の兄弟とする。 生年は不明だが、永正12年(1520年)に祖父とされる之長と父とされる長則が等持院の戦いで戦死しており、長則の子だとすれば出生はそれ以前ということになる。 三好長慶に仕える三好一族の1人(従叔父)として、長慶とその治世を支える。三好一族は多くが細川家の内紛の中で命を落としており、長慶が若年の頃に彼を後援してくれた三好連盛も没落し、三好政長は父・三好元長の仇であり敵対関係にあったため、長逸は長慶から頼れる一族の年長者として信頼された。長逸の活動範囲は広く、山城、摂津、河内、丹波、大和と三好家の勢力圏全域に文書を発給し、所領安堵や年貢の督促などを行っている。 天文18年(1549年)の江口の戦いで細川晴元の部将・香西元成を攻撃。天文19年(1550年)に京都奪回を図り近江国から攻めてきた細川軍を長慶の弟・十河一存らと迎撃して阻止(東山の戦い)。長慶に反発して晴元と共に近江に亡命した室町幕府13代将軍・足利義輝とも戦った。天文21年(1552年)に長慶と義輝が和睦を結ぶと送迎役の1人として義輝を亡命先の近江から出迎えている。 天文23年(1554年)に有馬重則の要請に応える形で播磨国人・別所就治の三木城を攻撃して付城を落とし、弘治元年(1555年)の丹波の波多野晴通討伐(これは敗北し、松永長頼に代わった)など長慶の勢力拡大に貢献し、三好一族の中でも長慶に最も信頼されて、永禄元年(1558年)頃までには山城飯岡城主に任ぜられ、山城南半分の統治を任されている。同年5月、再び長慶と義輝が対立して如意ヶ嶽に陣取ると6月に松永久秀と共に将軍山城に向かい、11月に両者が和睦するまで戦った(北白川の戦い)。永禄4年(1561年)に長慶の子・三好義興が義輝を屋敷で歓迎した際に接待役の1人を務めている。 また、松永久秀と共に訴訟の取次ぎ・長慶の補佐などを扱う側近として長慶に重用されて同名衆にも列せられ、長慶の弟・実休、息子の義興や久秀よりも先に永禄3年(1560年)に従四位下に叙せられた。これは長逸の三好家中における地位の高さ、影響力の大きさを示すものとされる。同年に長慶が摂津芥川山城から河内飯盛山城へ移り、代わりに芥川山城を与えられた義興が幕府出仕のため京都に常駐するようになると、不在の芥川山城を任されるなど非常に三好家の中で重要な地位を占めていたことが伺える。 長慶と義興の死後は長慶の甥で幼少の当主・三好義継を他の三人衆(三好政康、岩成友通)や松永久秀らと共に補佐し、永禄8年(1565年)5月19日には三好氏の障害となっていた足利義輝を暗殺した(永禄の変)。しかし、三好家中における主導権争いから久秀とは次第に対立を深め、11月16日に飯盛山城にいた義継を高屋城へ移し、義継を説き伏せ久秀討伐の大義名分を獲得、永禄9年(1566年)に入ると両者は交戦状態に突入した。三人衆は本国阿波を支える篠原長房と義継の大叔父・三好康長、久秀と敵対していた筒井順慶と組んで久秀と戦った。一方の久秀は畠山高政・安見宗房らと結んで対抗した。 こうした戦乱の最中に外国人の保護を行い、永禄8年7月、ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスが京都から追放されて堺に赴く際、長逸は護衛のために家臣を同行させ、通行税免除の允許状を与えている(『フロイス日本史』)。このためフロイスは長逸を異教徒でありながらも「生来善良な人」「教会の友人」と記している。永禄9年(1866年)にも長逸について記録していて、「天下の4人の執政のうちの1人」「堺市内にきわめて豪華で立派な邸宅を有した」などと称えている。 三人衆は摂津と堺を狙う畠山軍を撃破(上芝の戦い)、筒井順慶と結託して松永久秀の本拠地信貴山城・多聞山城を包囲したが、両者共に決め手が無く争乱は長期化していった。この過程で永禄10年(1567年)、2月に三人衆に不満を抱いた義継が久秀の下へ逃亡、10月10日に三人衆の軍勢が陣取った大和東大寺を松永軍が攻撃し焼亡する事件(東大寺大仏殿の戦い)が起きている。また、その10日後には長逸の嫡男・久助が山城普賢谷で松永方の軍勢に討ち取られた。義継・久秀にこのような抵抗を受けつつも、戦局は全般的に久秀を大和に封じ込めていた三人衆方の優勢で進んでいて、三人衆が義輝の従弟にあたる足利義栄を14代将軍に就任させたことも優位に繋がった。特に義栄の将軍就任直後に出された御供衆の名簿に「三好日向守」として加えられており、当時対立関係にあった義継と同格の立場(三好長慶以降、三好宗家の当主は御供衆の資格で将軍に仕える事が許されていた)になったことが注目される。 しかし永禄11年(1568年)、織田信長が6万と号する大軍を擁し、永禄の変で三好方が取り逃がした義輝の弟・足利義昭を押し立てて上洛を開始した。この動きに対し、三人衆はかつての宿敵である近江の六角義賢や紀伊国の国人衆、高野山等と結んでこれに徹底して対立する姿勢を示す一方で、三人衆の攻撃を受け劣勢に立っていた三好義継・松永久秀はいち早く信長に恭順する。長慶没後の三好家内紛の悪影響は甚大であり、信長の上洛を受けて六角義賢は近江を追われ(観音寺城の戦い)、将軍に擁立した足利義栄も上洛出来ず急死、三人衆方の国人衆や幕府奉公衆らからも織田方への寝返りが続出、三人衆もそれぞれの居城を落とされ逃亡した。長逸は細川信良(昭元)と共に芥川山城に籠城したがあえなく阿波へ退散した。 永禄12年(1569年)の本圀寺の変において、長逸は兵3,000を率いて摂津国池田方面から来援する織田方の池田勝正、細川藤孝、三好義継らの軍勢を桂川で迎撃したが激戦の末に敗北(桂川の戦い)、これにより三人衆の勢力は本国阿波まで後退してしまう。 しかし元亀元年(1570年)、長逸は篠原長房らと共に四国における三好軍をまとめあげ再度の反攻を図った。6月、摂津池田城で謀反を起こして城主・池田勝正を追放した荒木村重ら池田二十一人衆に呼応して摂津に軍を進めた(野田城・福島城の戦い)。織田側が戦いを有利に進めるが、摂津に本拠をもつ石山本願寺が突如、織田軍を攻撃(石山合戦の勃発)。三好軍は紀州勢や一向一揆の参戦、さらに織田方にとっての後方である近江での浅井長政・朝倉義景連合軍の攻勢に助けられ、一時的に織田軍を摂津・河内から駆逐する成果を上げた。だが三好軍にも追撃の余力はなく、11月には反織田の諸勢力と共に信長との間に和議が結ばれている。 この和議は翌年早くも破られ、三人衆は摂津・河内を拠点に石山本願寺と連携しつつ信長包囲網の一角を担った。しかし、本国阿波で三好長治が篠原長房を殺害し、家中の不和を招くなどの混乱もあり、積極策を取れないまま三好軍は徐々に衰えていく。元亀4年(天正と改元、1573年)、足利義昭自身が決起し、これに義継・久秀らが呼応してはじめて三好一族の足並みが反織田で一致した。だが同年の武田信玄の病死が反織田方にとって致命的な一撃となり、三好一族を含めた畿内の反織田勢力も一気に瓦解に突き進む。義昭は畿内から追放、三人衆の1人・岩成友通は淀城で戦死、浅井長政・朝倉義景も織田軍に討たれた。 長逸については、摂津中嶋城にて信長が派遣してきた軍勢と戦い、敗北して城を逃れたのが確認できる最後の事跡である。一説にはこの合戦で討ち死にしたともされるが、その死を確認できる史料はなく、長逸のその後については隠居・幽閉説など各種の説が存在する。政康は行方不明となり、義継は義昭を匿ったため織田軍に討ち取られ、反対に久秀は信長に降伏して生き延びた。長治は阿波の内乱で敗死、康長を始め他の三好一族は信長に臣従・討伐され、大名としての三好氏の勢力は消滅した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E9%80%B8
飯尾定宗、土岐頼芸、内ヶ島雅氏、明叔慶浚、浅井亮親、多賀貞能、足利義晴、朽木晴綱、三淵晴員、細川藤賢、武田元光、武田信豊、粟屋光若、赤井時家、酒井豊数、下間頼慶、本泉寺蓮悟、富樫晴貞、十市遠忠、越智家増、柳生家厳、筒井順興、筒井順政、湯川直光、畠山稙長、畠山政国、衣笠範景
十市遠勝 Tochi Tookatsu(生年不詳-1569年) 1545年(天文14年)、父遠忠が亡くなると家督を継いだが若年ということもあって、父の代から争っていた筒井氏の侵入を許した。 1546年(天文15年)8月20日、十市衆を率い、竹内城を攻めて敗れ、吉野に落ち、その与党も柳本に退いた。 1559年(永禄2年)、三好長慶の重臣松永久秀が大和国に侵攻。松永方に対して多武峰などの要所で抵抗戦を展開した。 1562年(永禄5年)、畠山高政に属して三好実休を攻略し、和泉国久米田で破って(久米田の戦い)高屋城を奪取した。同年5月、畠山方として教興寺の戦いに参戦するが敗れて湯川直光らが討死している。松永方に抵抗していたが、ついに松永方に降り、娘のおなへ(御料)と重臣大木重介の子息を人質として多聞山城に送り、からくもその旧領を維持する。 1567年(永禄10年)10月10日、東大寺大仏殿の戦いを切っ掛けに三好三人衆と松永久秀が対立し、遠勝は三好方となったため、家中が内部分裂する。 1568年(永禄11年)2月20日、森屋城の秋山直国を攻略して落とす。3月12日、今井の河合清長の居宅で三好三人衆の三好長逸、篠原長房と誓紙を取り交わす。しかし、8月27日、松永久秀に通じた秋山氏の反撃を許して龍王山城から十市城へ退去した。9月、箸尾氏も松永に組し、秋山と策応して十市領の蚕食を企てた。10月に入って、久秀は信長の援軍2000人を得、ますます攻略にあたった。筒井・十市の連合軍は諸城をつらねてこれに対抗したが、一城また一城と相次いでおとされ、11月には、十市衆のまもった大西城も、秋山勢を先鋒とする松永久通に降った。十市家にその者ありと知られた森本主水介・中井才三郎など屈強の者どもが討ち死にしたのはこの時である。遠勝も遂にその勢いに対抗し切れず、再度久秀に内応することにいたった。 1569年(永禄12年)10月24日、病死。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%B8%82%E9%81%A0%E5%8B%9D
安見直政 Yasumi Naomasa(生年不詳-1571年?) 大和国人越智氏の家臣・中村圓賀の子で、安見氏の養子に迎えられたといわれる。軍記物などの史料では直政(なおまさ)とされているが、古文書で確認できる名は宗房である。当初は大和国人である鷹山弘頼と共に行動しており、山城上三郡に影響を及ぼしていたことから、当初は木沢長政の配下にあり、太平寺の戦いの前に細川晴元方に転じ、その後畠山家に仕えたと推測されている(弓倉弘年・小谷利明らの研究による)。 天文21年(1552年)に畠山家を牛耳っていた遊佐長教が暗殺されたことに伴い、宗房は河内の実力者萱振氏や野尻氏を謀略によって滅亡させ、更に長年の協力者であった鷹山弘頼も殺害、畠山高政を守護に擁立し丹下盛知とともに家中の実力者となった。また滅ぼした野尻氏には息子を養子として入れ、野尻宗泰と名乗らせている。 なお、宗房を守護代とするのは「足利季世記」などの後世の軍記にしか見られない。「天文日記」では畠山氏における宗房の地位は遊佐・丹下・走井といった重臣層に比べて、少なくとも本願寺からは明らかに格下として扱われており、いくら宗房に力があるとはいえ守護代になれる家柄ではなかったと思われる。(代わって守護代になったと伝えられる湯川直光についても同様)。小谷利明氏の見解ではこの時期に守護代に近い立場についていた人物として遊佐太藤の名が挙げられている。 天文22年(1553年)の13代将軍足利義輝と三好長慶の対立の際には三好方に属し丹下盛知と共に援軍に赴いている。永禄年間には狭山池の治水工事を計画している。しかし、主君高政との対立が徐々に表面化し、永禄元年(1558年)には高政が紀伊に出奔。翌永禄2年(1559年)8月、三好長慶の援助を受けた高政と戦いこれに敗北し大和に没落する。しかし高屋城に戻った高政はやがて長慶と不和になり、翌3年(1560年)5月には和睦して復帰する。以降は高政に従い、永禄3年での三好氏との戦い(敗北して高政と没落)や、久米田の戦い・教興寺の戦いにおいても協力している。 将軍義輝が暗殺された永禄の変が起きた際には、早々に義輝の弟である覚慶(足利義昭)の擁立の支援を求め、越後国の上杉謙信に畿内情勢を報告するなど、幕府のために働いた。またこの頃から遊佐姓を名乗るようになっている。三好三人衆と松永久秀が対立すると、高政・秋高兄弟と共に久秀に味方し河内復帰を目論むも敗れている。義昭が織田信長に擁立され上洛し将軍に就任すると、高政・秋高と共にこれに従い、ようやく河内へ戻った。また「言継卿記」によればこの際に幕府奉公衆に取り立てられたという 永禄12年(1569年)、遊佐信教と共に高政の弟・秋高(政頼)を当主に擁立し、再度高政を追放したとされるが、弓倉弘年氏の指摘によるとこの追放劇は「足利季世記」などの軍記物しか見られず、また内容も永禄元年の争いの焼き直しであり事実ではないと思われる。義昭上洛以降は高政・宗房共に河内支配に関わる形跡が少なくなり、それぞれ穏便な形で秋高・宗泰に家督を譲り在京していたのではないかと思われる。 また元亀2年(1571年5月に交野城にいたところを松永久秀に誘殺されたとされるが、この際に殺された人物は「安見右近」としか書かれておらず、宗房と同一人物かは疑わしい。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%A6%8B%E5%AE%97%E6%88%BF
岩成友通 Iwanari Tomomichi(生年不詳-1573年) 三好氏の家臣で、三好三人衆の1人。姓は石成とも書く。通称は主税助。 別名に長信(ながのぶ)とも言い、元亀元年から「長信」の名乗りを使用している。三好長慶の奉行人として頭角を現し、三好政権の中枢を占めるに至った。三好政権における出世頭ともいえる人物である。 友通の出自は不明とされる。室町時代の多くを通じて細川氏の支配下であった大和石上神社の摂社に「石成神社」があることから、大和出身ではないかという見解がある他、備後国品治郡石成郷といった地名があることから、それらの土地の土豪との関係を推察されることが多い。『史略名称訓義』には「岩成古〔原文ママ〕通」に註して「主税助と号、種成と名く、備後国岩成荘住人岩成蔵人正辰の男」と記される。また、京都郊外の西九条の下司を務めていたが、やがて三好氏に臣従したともされる。『東寺百合文書』所蔵の三好元長の家臣塩田胤光が発給した文書に「岩成」の名字が見える他、同所蔵の文書には、下司の「岩成」が西九条の荘園を押領したという記述も見られる。今谷明は「阿波出身でないのは確実」と断言しており、いずれにしても、松永久秀と同様に畿内で登用されたと思われる。 史料における初見は天文19年(1550年)であり、北野社の大工職の相論において、照会の役を務めていることが確認される。翌天文20年(1551年)11月には、堺で開かれた天王寺屋の津田宗達(津田宗及の父)の茶会に出席している。その後は三好長慶の下で奉行衆として仕えた。永禄元年(1558年)の将軍山城占拠に参戦(北白川の戦い)しており、この従軍が軍事行動における友通の初見とされる。永禄5年(1562年)に六角義賢が京都に侵入した時は室町幕府13代将軍・足利義輝の警護を行った。 長慶の死後、三好三人衆の1人(他の2人は三好長逸、三好政康)として甥の三好義継の後見役を務めた。永禄8年(1565年)の足利義輝暗殺(永禄の変)をはじめ他の三人衆と行動を共にし、松永久秀や畠山高政としばしば戦った。 また永禄9年(1566年)には、土豪の中沢満房、革嶋一宣らの立て籠もった山城勝竜寺城を攻め落とすと、友通は敵対した土豪達を厳しく追及、革嶋一族を始め多くの土豪を追い出し、手に入れた土地の多くを新しい領主に与えた。同時に勝竜寺城を居城とし、山城西部の西岡を支配した。これは、勝竜寺城を拠点に西岡地区に新たな支配を確立させようとする、斬新な手法であると評価される。また、勝竜寺城も、戦の際に土豪が立て籠もる施設程度であったものが、友通が入城・整備して拠点とすることで、土豪をまとめ上げる政権の拠点として生まれ変わった。友通はそうした点から、勝竜寺城の「最初の城主」とも評される。 永禄10年(1567年)に1万の軍勢を率いて池田勝正と共に大和東大寺で久秀と対陣したが、久秀の奇襲を受けて敗北(東大寺大仏殿の戦い)。翌永禄11年(1568年)に織田信長が上洛してくると、三好長逸、三好政康、篠原長房らと連携し、それまで敵対していた六角義賢と手を組んで強く抵抗したが、守城の勝竜寺城を攻撃され退去した(勝竜寺城の戦い)。しかしこの際、他の畿内の城が抵抗らしい抵抗もせずに降伏してゆく中、友通の籠る勝竜寺城と池田勝正が籠る摂津池田城だけは強硬に抵抗した。これは、友通による支配が一定の奏功をし、土豪達が彼の元に結束していたことの証とされる。敗退の推移について、『多聞院日記』『言継卿記』によれば、永禄11年9月27日に友通は信長に抵抗して勝竜寺城へ籠城したとあるが、9月29日には落城している。言継卿記の翌永禄12年(1569年)の1月8日の記述によれば、勝竜寺城には細川藤孝が入城している。友通が勝竜寺城主であったこの時期には、光源院から勝竜寺城主である友通に礼物が送られていたことが「光源院文書」から判明しているが、9月21日とあるだけで年月は未詳となっている。永禄12年1月に信長の庇護下にあった義輝の弟・足利義昭の宿所を襲撃しているが撃退された(本圀寺の変)。 この後、信長に臣従し、信長から細川藤孝宛ての書状で「表裏なき仁」などと書かれるなど信頼関係が築かれたようだが、後に将軍・義昭が各地の大名に指令を送り信長に敵対すると(信長包囲網)、これに反応して信長に再び対立姿勢を打ち出した。しかし、天正元年(1573年)、信長の命を受けた三淵藤英・細川藤孝らの軍勢に山城淀城を攻められて奮戦したものの、内通していた味方(番頭大炊助、諏訪飛騨守)の裏切りに遭い敵中に孤立し、藤孝の家臣の下津権内(おりつ ごんない)と組み合いとなり堀に落下、水中で討ち取られ戦死した(第二次淀古城の戦い)。享年は詳らかでないが、今谷明は43歳と推定している。また、友通と併せて、岩成方の軍勢340名が戦死した。 三好長逸は行方不明となり、三好政康は既に死去していた。結果、三好三人衆は完全に崩壊した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%88%90%E5%8F%8B%E9%80%9A
松永久秀 Matsunaga Hisahide(1510年-1577年) 父母不詳、正室為三好長慶之女.松永女房、繼室為廣橋兼秀之女.廣橋保子、側室為小笠原成助之女;通稱松永彈正,別名霜台、號道意,戒名妙久寺殿祐雪大居士。 早年 久秀出身記載不明,一說出生於永正七年(1510年),出生地有阿波國、山城國西岡、攝津國五百住等多種說法,出仕前身份可能為商人、國人眾或三好長慶的寵童,甚至有觀點認為久秀與齋藤道三是舊相識。 三好家臣 天文九年(1540年),久秀成為細川晴元部下三好長慶的右筆,在天文十一年(1542年)有作為武將在山城國南部出陣的記錄。久秀作為三好長慶的親信,深得長慶的信任。天文十八年(1549年),三好長慶將細川晴元及足利義晴、義輝驅逐至近江國,成功控制京都後,久秀出任三好氏家宰。天文二十年(1551年),久秀與弟弟松永長賴在相國寺之戰中擊敗三好政勝、香西元成。三好長慶平定攝津國後,天文二十二年(1553年),久秀出任攝津國瀧山城城主。同年,與弟弟松永長賴進攻丹波國的波多野晴通,再次擊退三好政勝、香西元成的援軍。弘治二年(1556年),被任命為京都奉行,獲得彈正忠的官位,後又迎娶三好長慶的女兒作為正室。 永祿二年(1559年),三好長慶委任久秀攻取大和國。9月,久秀將居城移至大和國信貴山城。永祿三年(1560年)6月,三好長慶征討河內國,久秀率軍封鎖信貴山城與河內國之間的道路。11月,久秀平定大和國北部,在信貴山城營造四階櫓天守閣,同年又攻破興福寺,成功控制大和一國,三好家勢力達到全盛期。久秀因為攻取大和國的功績獲得極高的地位,他自稱為藤原氏、源氏的後代,被授予從四位下.彈正少弼的官位,與三好長慶的嫡子三好義興一起擔任將軍足利義輝的相伴眾,並獲得足利義輝的允許,可以使用帶有自己家紋的塗輿。 篡奪主家 永祿四年(1561年),久秀與三好義興在將軍地藏山之戰中敗於六角義賢軍。 畿內霸主三好家自永祿四年(1561年)開始接連遭受打擊,逐漸走向衰落。這一年,有「鬼十河」之稱的三好長慶的四弟十河一存與久秀在有馬溫泉療養時突然死亡。據說當時十河一存騎一匹葦毛馬,久秀探望十河一存時說此馬不祥,但十河一存沒有聽從久秀的勸告,在乘馬前往有馬溫泉的途中墜馬身亡。也有觀點認為十河一存與久秀長期不睦,他的死是久秀下的毒手,但這種觀點尚無確切證據。 永祿五年(1562年),三好長慶的二弟三好義賢在久米田之戰與畠山高政、根來眾交戰中戰死。畠山高政乘勝包圍三好長慶的居城飯盛山城,三好長慶在三好一門眾及久秀、筱原長房等重臣聯軍的幫助下,成功解圍,並在隨後的教興寺之戰中大敗畠山高政聯軍。10月,久秀奉命成功討伐背叛三好長慶的幕府政所執事伊勢貞孝、貞良父子。同年,久秀又在大和國營造多聞山城,大和國人十市遠勝降服。但教興寺之戰的勝利只是迴光返照,悲劇仍然不斷地降臨在三好家。 永祿六年(1563年)9月,三好長慶最為器重的嫡子三好義興在芥川山城突然死亡,有觀點認為久秀害怕三好家出現一位出色的接班人,因此毒殺三好義興,接連遭受喪親之痛的三好長慶隨後一病不起。12月,久秀將家督讓與嫡子松永久通後宣布隱居,但仍掌握實權。永祿七年(1564年),久秀向三好長慶進讒言,誣陷三好長慶的三弟安宅冬康謀反,三好長慶隨後將安宅冬康召至飯盛山城命其切腹。同年8月10日,三好長慶病逝,一說他被久秀或三好三人眾毒殺。三好長慶死後,他的養子三好義繼繼承家督,而家中實權則落入久秀及三好三人眾手中。 永祿之變 三好長慶死後,作為室町幕府征夷大將軍的足利義輝致力於恢復幕府的榮光,他一方面向劍術家塚原卜傳、上泉信綱學習劍術,成為劍豪將軍;另一方面積極調停大名之間的衝突,這引起久秀和三好三人眾的不安。永祿八年(1565年)6月17日,久秀和三好三人眾以參拜清水寺為名,向京都集結約1萬人的軍隊,隨後襲擊將軍官邸二條御所。足利義輝雖奮力迎敵,斬殺多人,但無奈叛軍人數眾多,自身受傷多處,最後被長槍刺死,足利義輝的三弟足利周暠也遭到殺害,母親慶壽院自殺身亡,這場震驚日本的謀殺行動史稱永祿之變或永祿大逆。久秀和三好三人眾隨後立足利義維之子足利義榮為傀儡將軍,而足利義輝的二弟、在興福寺出家的覺慶在細川藤孝、一色藤長等人的幫助下,投靠近江國的和田惟政,後輾轉前往越前國投奔朝倉義景,還俗後改名為足利義昭。 爭奪畿內 永祿之變過後半年,久秀與三好三人眾迅速反目。永祿八年(1565年)12月,三好三人眾率軍襲擊久秀控制下的飯盛山城,三好義繼被迫到高屋城避難。得到主公三好義繼、三好康長、安宅信康等三好一門眾支持的三好三人眾聯合大和國人筒井順慶,又向將軍足利義榮徵得討伐令。陷入孤立的久秀隨後與畠山高政、安見直政及根來眾結盟。永祿九年(1566年),雙方在堺近郊交戰,上芝之戰爆發,久秀不敵逃亡至堺,筒井順慶趁勢奪回筒井城。但久秀隨後邀請堺的豪商津田宗達作為調停人,雙方達成合議。 永祿十年(1567年),不滿作為傀儡的三好義繼投奔久秀,三好三人眾於是聯合筒井順慶等反松永勢力向大和國進兵,隨後在東大寺布陣。同年11月19日,久秀與三好義繼聯合軍夜襲三好、筒井聯軍,雙方交戰時東大寺被戰火燒毀,由於大火迫使三好、筒井聯軍撤兵,久秀取得勝利,但東大寺是否被久秀主動放火燒毀尚存爭議。 久秀雖然取得東大寺之戰的勝利,但與實力強大的三好三人眾交戰時仍處於劣勢。永祿十一年(1568年)7月,信貴山城被攻克,久秀被迫據守多聞山城。當久秀即將敗亡的時候,上洛的織田信長挽救他的命運。 背叛信長 永祿十一年(1568年)9月,織田信長擁立足利義昭上洛,三好三人眾不敵,敗逃至阿波國。久秀與嫡子久通和三好義繼在芥川山城迎接織田信長,久秀向織田信長獻上名茶器九十九發茄子和名刀天下一振之吉光,並允諾獻出人質,以此為條件,向織田信長降服。織田信長則許諾赦免久秀殺害將軍足利義輝的罪名,並答應幫助他奪回大和國的支配權。在得到細川藤孝、和田惟政和佐久間信盛2萬援軍的幫助下,久秀展開反攻。次年,大和國被平定,筒井順慶的勢力遭到驅逐。 永祿十三年(1570年),織田信長出兵討伐越前國的朝倉義景,卻在途中得知妹夫淺井長政背叛的消息。織田信長腹背受敵,被迫分散撤退。在撤退過程中,久秀成功說服近江國的朽木元綱,讓信長順利通過他的領地返回岐阜城。同年,久秀將自己的女兒過繼為織田信長的養女,隨後送往三好三人眾處作為人質,雙方達成和解。 元龜二年(1571年),不甘心成為傀儡將軍的足利義昭聯合武田信玄、淺井長政、朝倉義景、本願寺、三好氏、六角義賢及延曆寺組成信長包圍網。久秀起兵響應,聯合三好義繼發動叛亂,但在進攻筒井順慶的領地時反遭擊破(辰市城之戰),松永、三好聯軍大敗,筒井城、高田城等城池相繼被奪,最後在佐久間信盛、明智光秀的仲介下,雙方議和。隔年3月,久秀又連和三好義繼攻打町山昭高的交野城,織田信長派遣柴田勝家等人支援下,久秀跟三好義繼棄戰退兵(交野城之戰),元龜四年(1573年),武田信玄病死,信長包圍網破裂。在反織田勢力逐個被消滅的背景下,久秀親自前往岐阜城,向織田信長獻出多聞山城和不動國行之刀等寶物表示降服。 身亡 天正四年(1576年),久秀隨佐久間信盛參與石山合戰。但在次年,久秀的宿敵筒井順慶被織田信長授予大和守護的職位。9月,久秀撤回協助信長進攻石山本願寺的兵力,並呼應上杉謙信、毛利輝元、本願寺等反織田勢力,據守於信貴山城再次反叛。織田信長派松井友閒安撫,但久秀拒絕降服。 織田信長得知消息後,下令將久秀作為人質的兩個孫子在京都六條河原處死,隨後以織田信忠為總大將,筒井順慶、明智光秀、細川藤孝、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽氏勝為副將,率軍4萬包圍信貴山城。一說織田信長多次派人勸說久秀獻出茶器古天明平蜘蛛投降,但遭到久秀的拒絕。久秀本想依靠信貴山城的堅固進行防戰,但前往本願寺求援的家臣森好久卻被筒井順慶用金子三十兩收買,作為奸細入城的200名織田軍鐵炮隊在三之丸叛變,織田軍迅速攻破城池。久秀隨後在信貴山城的天守閣放火,久秀、久通父子二人切腹或投火自盡。另一個流傳甚廣的說法是久秀將炸藥放入古天明平蜘蛛,點燃炸藥爆炸身亡。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80
松永長賴 Matsunaga Nagayori(生年不詳-1565年) 父母不詳、正室為內藤國貞之女;通稱甚介、號蓬雲軒;繼承內藤氏,改名內藤宗勝。 長賴與兄長松永久秀同為三好氏家臣,與擅用謀略的兄長久秀相比,長賴為人誠實擅長武藝,受到主君三好長慶的信賴。相對於久秀,長賴在三好家出頭的日子更早,久秀後來在三好家中位處高位,長賴的功勞亦不少。 天文十八年(1549年),三好長慶上洛並且負責防衛管領細川晴元和第13代將軍足利義輝等室町幕府人物身處的京都,卻強奪公家的領地作為自己的知行。天文十九年(1550年)11月至翌年2月,三好氏進犯由近江的六角定賴保護並且身處中尾城的足利義輝,是為中尾城之戰;7月14日,細川晴元率領香西元成和三好政勝等丹波眾發動相國寺之戰,試圖重返京都,但是長賴和其兄久秀一同將晴元軍擊敗。 天文二十二年(1553年)9月,長賴與兄長一同出征丹波,包圍晴元勢力的波多野晴通守衛的八上城,但是在元成和政勝攻下由丹波守護代內藤國貞防衛的八木城後,長賴改為出兵奪還八木城,並且迎娶國貞之女,繼承內藤氏,改名內藤備前守之餘,出家號蓬雲軒宗勝,最終長慶將丹波的事務交託給長賴處理。弘治三年(1557年),為令波多野晴通投降,長慶出兵丹波並且佔領冰上郡以外整個丹波,促使負責管理丹波的長賴勢力大幅提升,甚至長賴足以援助逸見昌經進軍若狹。 其後,長賴繼續在長慶麾下效力,永祿元年(1558年)5月,義輝和晴元等人從近江上洛,長賴與其兄在將軍山城和如意嶽一帶與幕府軍交戰,是為北白川之戰,而在永祿二年(1559年)和翌年的出征河內遠征和永祿五年(1562年)與畠山高政之間爆發的教興寺之戰,長賴亦有率領丹波國眾出戰,獲譽為三好政權下有力的軍團長。 然而,丹波國人的反抗不斷,在永祿四年(1561年),長賴意欲強化支配的同時卻招致國人眾反響,面對波多野氏和赤井氏等勢力的反抗,最終長賴在永祿八年(1565年)於攻擊丹波國人荻野直正(赤井直正)的居城黑井城的戰役中戰死。長賴死後,波多野秀治和赤井直正等人在丹波崛起,三好氏在當地的勢力大幅衰退。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E9%95%B7%E8%B3%B4
湯川直光 Yukawa Naomitsu(生年不詳-1562年) 湯川氏は甲斐源氏の流れを組み、熊野街道の要衝であった道湯川(現・和歌山県田辺市中辺路町道湯川)を領したことに始まり、南北朝時代に湯川光春が牟婁郡から日高郡にかけて広大な勢力を築いて亀山城を築城した。戦国時代に入り、直光は当時の交通の要衝であった小松原館(現・和歌山県立紀央館高等学校、湯川神社)を築城して平時の居館としたという。 享禄元年(1528年)、摂津江口の戦いで三好長慶の軍勢に敗れたが、山科本願寺の証如の助力もあり小松原館に帰還。天文年間に感謝の意を込めて一堂(現・浄土真宗本願寺日高別院)を建立し、次男の信春を出家させて住職とした。 元来、河内と紀伊は畠山氏の領国であったが、永禄元年(1558年)、河内から守護畠山高政が河内守護代安見宗房に追放され紀伊に下向してきたため直光は迎え入れ、翌永禄2年(1559年)に三好長慶と湯川氏の尽力により河内に返り咲いた高政は、この功を高く評価し直光を宗房に代わる河内守護代に任じた。ところが、河内を上手く治められなかったため永禄3年(1560年)に高政に守護代を罷免させられ紀伊へ退去、宗房に交代させられた。これが長慶の河内侵攻を招き、高政・宗房は河内を奪われ紀伊へ亡命した。 永禄5年(1562年)3月5日、河内奪還を狙う高政の命で湯川衆を率いて従軍し、河内で長慶の弟・義賢が率いる三好軍を撃破した(久米田の戦い)。5月19日の教興寺の戦いでは三好長逸らの軍勢を雑賀衆と共に迎撃していたが、長慶の子・義興の軍勢が参加したことで劣勢となり戦死した。跡は長男の直春が継いだ。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%B7%9D%E7%9B%B4%E5%85%89
畠山高政 Hatakeyama Takamasa(1527年-1576年) 大永7年(1527年)、畠山政国の嫡男として生まれる。 高政が若年の頃の畠山氏は、天文15年(1546年)に三好政長と摂津の舎利寺の戦いで、勝利するなど細川氏綱を奉じて細川晴元に対抗していたが、河内における実権はほぼ河内守護代の遊佐長教に握られている状態だった。しかし天文20年(1551年)に長教が暗殺されたのを契機として天文22年(1553年)に家督を継ぐ。 その後は天文22年の足利義輝と三好長慶の争いでは長慶に丹下盛知・安見宗房を援軍に送るなど長慶との同盟関係を維持していたが、永禄元年(1558年)11月30日に宗房との対立が表面化し、居城の河内高屋城を追放されて堺に逃れる。その後三好の力を借りて永禄2年(1559年)8月2日宗房らを追放して高屋城に復帰するも、永禄3年(1560年)に今度は長慶と対立して宗房と和解する。そのため、その年の11月13日に、三好軍が高屋城を占拠して高政・宗房らは没落した。 河内守護畠山氏は守護代遊佐氏が力をつけるにつれ圧迫される傾向にあったものの、守護の軍事動員権までは放棄しておらず、また紀伊においては遊佐氏の影響を受けない一定の支配力を保っていた。このため紀伊の軍勢を率いて永禄4年(1561年)、細川晴之(細川晴元の次男)・六角義賢と共に京都に進軍し、一時的に長慶を京都から追い出すことに成功する。永禄5年(1562年)3月5日には久米田の戦いで、長慶の弟である三好実休を討ち取るという大戦果を収めて、高屋城を奪還する。しかし、続く5月20日の教興寺の戦いで敗れ、河内における支配権を失い、紀伊に後退した。 永禄9年(1566年)、13代将軍足利義輝(義澄の孫)が討たれると、義輝の実弟である足利義昭(当時は義秋)を支持し、将軍にするための援助を続けた、更に三好家の家中分裂が起きると松永久秀方に与する。永禄11年(1568年)には上洛してきた義昭および織田信長に従い、三好氏に奪われていた旧領の一部も安堵され、畠山氏の繁栄を図った。義輝の暗殺前後に家督を弟の畠山秋高に譲っており、上洛後は在京している姿が記録に見える。ただ完全に隠居したわけではなく、元亀元年(1570)の野田・福島の戦いでは河内に下向して義昭・信長と戦っている。 なお遊佐信教・安見宗房が高政の弟・秋高(政頼)を当主に擁立し、高政を追放したという話は、弓倉弘年氏の指摘によるとこの追放劇は「足利季世記」などの軍記物しか見られず、また内容も永禄元年の争いの焼き直しであり事実ではないと思われる。 天正元年(1573年)に弟の畠山昭高が信教に殺されると挙兵し河内に進攻したが、敗北し紀伊に後退する。天正3年(1575年)に信長によって高屋城は破却された。 その後は河内・紀伊を流浪して天正4年(1576年)10月15日に失意の内に死去した(50歳)。晩年はキリスト教の洗礼を受けた。池田丹後守、伊地地文太夫らと関わりがあったため、彼らからキリスト教を紹介されて洗礼を受けたのではないかと推測されている。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E9%AB%98%E6%94%BF
足利義昭 Ashikaga Yoshiaki(1537年-1597年) 足利義晴的次子、母為近衛尚通之女.慶壽院、側室為さこの方(宇野氏)、小宰相局(大河內氏);法號覺慶,還俗後名為義秋,後改名為義昭、戒名靈陽院昌山道休。 將軍之路 出生後,被外祖父近衛尚通收為猶子;而兄長足利義輝早已被立為嗣子,根據當時足利將軍家的慣例,未能獲得嗣子地位的將軍之子都要出家,因此被送入佛門,進入興福寺的一乘院,法名覺慶。 義昭在興福寺擔任權少僧都的高級官職,本來他一生應該是在擔任高級僧官中度過的。但在永祿八年(1565年)發生永祿之變,第13代將軍足利義輝連同其母親慶壽院一起,被松永久秀、三好三人眾弒殺;擔任鹿苑院院主的弟弟周暠也被久秀誘殺。由於害怕殺害義昭會引發興福寺僧眾的敵對情緒,松永久秀沒有殺害義昭,而是將其暫時囚禁在興福寺。但不久忠於足利義輝的一色藤長、和田惟政、仁木義政、三淵藤英、細川藤孝,以及大覺寺門跡義俊(近衛尚通之子)等幫助義昭逃出囚牢。 在此期間的文書中,義昭被稱作「將軍家的當主」、「矢島的武家御所」等。4月21日被敘為從五位下左馬頭的官位。經過奈良、木津川逃到伊賀國後(伊賀國的守護是將軍的近臣仁木義政,該國國人服部氏後來追隨義昭),通過近江國六角義賢的許可後暫時居住在甲賀郡的和田城(和田惟政的居城,位於伊賀和近江交界之處)。 義昭試圖再興正統的足利將軍家的威權,永祿九年(1566年)2月17日,還俗,改名為足利義秋。和田惟政(甲賀住人)和仁木義政(伊賀住人)的斡旋下,六角義賢、義治父子同意讓義昭以野洲郡矢島村(今守山市矢島町)為住所。 居住在矢島御所的義昭,積極同管領畠山高政、關東管領上杉輝虎、能登守護畠山義綱(居住在近江滋賀郡)取得聯絡,希望得到支持。河內國的畠山高政積極支持義昭,其弟弟秋高野表示支持。得知此事後,三好三人眾率3000騎襲擊矢島御所;大草氏等奉公眾(將軍親衛隊)浴血奮戰擊退進攻。但義昭發現自己視為心腹的南近江領主六角義治竟然暗中與三好三人眾勾結,義昭只得在8月前往投奔武田義統,前往若狹國。但當時若狹武田氏正處於家督爭奪和重臣謀反的內亂中,無法支援義昭上洛;武田義統僅派遣弟弟武田信景前往追隨義昭。義昭只得前往越前國,請求朝倉義景(仁木義政的親族)出兵上洛。義昭上奏朝廷,將義景的母親封為從二位官位。但義景只有對足利將軍家的連枝鞍谷公方足利嗣知(足利義嗣的子孫)擁上將軍之位有興趣,對還俗的義昭一點興趣也沒有。義昭長期滯留越前,上野清延、大館晴忠等幕府重臣紛紛前往越前參見將軍。 永祿十一年(1568年)4月15日,義昭在越前舉行元服禮,由朝倉義景擔任加冠役。同時由於「秋」字不吉利,改名義昭。在朝倉家重臣明智光秀的介紹下,前往尾張國,尋求管領斯波氏的有力家臣織田信長的幫助。 再興幕府 永祿十一年(1568年)9月,織田信長擁護義昭上洛,途中又受到美濃齋藤氏、北近江淺井氏、南近江六角氏等勢力的支持,在織田信長、淺井長政等警護下進軍京都。中途六角氏由於有力支族箕作氏的叛亂而撤退,在父親足利義晴所建的桑實寺駐紮,順利到達京都。三好三人眾退出京都。10月18日朝廷封義昭為征夷大將軍,同時敘從四位下參議兼左近衛權中將的官位。 就任將軍的義昭下令將對暗殺兄長足利義輝持縱容態度、慫恿天皇封足利義榮為將軍的近衛前久流放,並讓二條晴良復任關白之職。義昭又將自己的偏諱授予管領細川昭元、畠山昭高,以及關白家的二條昭實,試圖鞏固自己的統治,掌握兄長義輝所擁有的山城國御料所。同時在山城國設置守護,令三淵藤英據守伏見城。在政務上,義昭同兄長義輝一樣,任命攝津晴門為政所執事,任命飯尾昭連、松田藤弘等為奉公眾,再興幕府。之前因反叛義輝而被滅的伊勢氏,其末裔伊勢貞興被義昭允許再任官職。 當時義昭暫時以山城國本國寺(位於今京都府京都市山科區)為居住地。永祿十二年(1569年)正月,織田信長率部返回美濃、尾張時,三好三人眾趁機反撲,襲擊本國寺(本國寺之變)。奉公眾和明智光秀所率的織田軍奮勇抵抗,北近江的淺井長政以及攝津國的池田勝正、和田惟政等也奮戰,擊退三好三人眾的進攻。 這次事件暴露出本國寺守備不足的現狀,因此義昭請求織田信長重建兄長足利義輝建造的烏丸中御門第(舊二條城),以之為將軍邸。重修的烏丸中御門第新挖兩道護城河,並翻修加高石垣,增強防禦機能。只有世代擔任室町幕府奉公眾的武士和高級守護大名才能進入拜見。 與織田信長發生對立 義昭依據當初的許諾,就任將軍之後,在10月24日給予織田信長「御父織田彈正忠(信長)殿」的尊稱,以尋求信長對幕府的支持。 織田信長將義昭扶上將軍之位後,其對尾張、美濃的領有權得到認可,並被封為和泉守護,得到昔日三好氏的領地和泉國(繁榮的界港在該國轄下)。同時義昭對其他武將論功行賞,池田勝正被任命為攝津守護,畠山高政、三好義繼各被封為河內半國守護。織田信長被任命為管領代,其地位與管領相當;此後義昭又向朝廷推薦信長擔任副將軍,但被信長推辭,改封彈正忠。 然而義昭一心想要復興室町幕府,而織田信長則有用武力統一天下的野心,因此兩者最終關係逐漸惡化。織田信長為限制將軍的權力,於永祿十二年(1569年)正月頒布《殿中御掟》9條,並脅迫義昭承認。這使幕府將軍的行動受到很大的制約。翌年正月又追加5條,信長更進一步限制幕府的權力。元龜元年(1570年)4月,織田信長討伐越前大名朝倉義景,但就在此時織田氏的同盟淺井長政與信長反目,導致信長大敗。早已對信長的專橫十分不滿的義昭趁機與信長決裂,元龜二年(1571年)左右向上杉輝虎(謙信)、毛利輝元、本願寺顯如、武田信玄、六角義賢等大名發出御內書,下令討伐信長。這些大名加上與信長敵對的朝倉義景、淺井長政、松永久秀、三好義繼以及三好三人眾、延曆寺僧兵等勢力,形成信長包圍網。 元龜三年(1572年)10月,信長向義昭送達17條意見狀,批評義昭的一些舉措。此時東方的武田信玄率兵進軍京都,12月22日在三方原之戰中擊破織田信長的盟友德川家康,信長陷入窘境。義昭趁機任命寵臣山岡景友(六角義賢的重臣以及幕府的奉公眾)為山城半國守護。翌年正月,信長欲遣子入質於義昭以求和解,但遭義昭的拒絕。義昭在近江的今堅田城和石山城為幕府軍的據點,舉起反對信長的旗幟,但數日後兩城皆被攻陷。同時東方戰線的武田信玄病重,武田軍於4月開始撤回本國,12日信玄逝世。 織田信長攻入京都,在知恩院布開陣勢。幕臣細川藤孝、荒木村重等人見大勢已去,投降信長。但是不知道武田信玄已經去世的義昭據守自己的居城烏丸中御門第繼續抵抗。信長再次提出和解,但義昭認為信長沒有信用,斷然拒絕。織田信長威脅幕臣以及義昭的支持者,聲稱若不投降,自己將會攻打上京並將此整個地區焚為焦土。同時包圍義昭的居城烏丸中御門第。另一方面,織田信長尋求朝廷的支持,4月5日,在正親町天皇敕命下,雙方講和。 但是義昭於7月3日宣布背棄和約,在三淵藤英、伊勢貞興以及公家奉公眾的簇擁下逃往南山城的要害槙島城(山城國的守護所)舉兵。槙島城建在宇治川和巨椋池水系交叉處的島上,是義昭近臣真木島昭光的居城,為兵家必爭之地。烏丸中御門第的守軍於3日投降信長,信長率7萬大軍包圍槙島城。7月18日織田軍開始攻城,槙島城的建築被破壞,義昭以自己的兒子義尋為人質,向織田信長投降。 被逐出京都 織田信長將義昭逐出京都,並將足利將軍家在山城、丹波、近江、若狹等地的御料所據為己有。織田信長以天下人(掌握日本實權的人)自居,挾持幕府將軍和天皇支配京都周圍的地區,並充當各地大名紛爭的調停人。放逐將軍後,織田信長保持天下人的地位,現在日本的歷史教科書一般認為此時室町幕府滅亡。但事實上根據《公卿補任》的記載,此後的義昭依然長期保持著征夷大將軍的職位。天正元年(1573年)8月,織田信長滅亡朝倉氏,9月滅亡淺井氏,信長包圍網完全瓦解。織田信長於次年任命塙直政為山城、大和守護,鞏固織田氏在畿內的支配權。 義昭雖被放逐後,退往枇杷庄(今京都府城陽市),在本願寺顯如的介紹下前往河內國三好義繼的處點若江城,以羽柴秀吉擔任護衛。義昭仍開設幕政,以伊勢氏、高氏、一色氏、上野氏、細川氏、大館氏、飯尾氏、松田氏、大草氏等勢力為幕府的中樞,組成奉公眾和奉行眾,並授予近臣和大名室町幕府中的官職。除近畿周邊的信長勢力圈以外(北陸地方、中國地方、九州地方),義昭依然保持著被流放以前的權威,甚至對京都五山的住持還有任命權。織田信長與三好義繼的關係惡化後,義昭於11月5日移駕到和泉國的界。義昭曾提出要返回京都,但織田信長提出人質的要求,最終交涉決裂。 天正二年(1574年)移駕紀伊國興國寺,又移駕泊城。當時紀伊國是管領畠山氏的轄境,值得一提的是畠山高政的重臣湯川直春的勢力在當時很強大,直春的父親湯川直光擔任河內守護代一職。 天正四年(1576年),義昭移駕到毛利輝元轄下備後國的鞆。鞆是當年足利尊氏接受光嚴上皇追討新田義貞院宣的地方,對於足利將軍家可謂是有淵源的地方。第十代將軍足利義材在此處受到大內氏的支持,從而回到京都。因此這被足利將軍家當作吉祥之地。此後義昭在此地開設流亡幕府,史稱「鞆幕府」。義昭在鞆以備中國的御料所所進獻的年貢,以及足利將軍家任命京都五山住持所獲得的禮錢維持生活,同時收到宗氏、島津氏通過明日貿易獲得的財政收入,近畿、東海以外支持足利將軍家的武家很多。鑒於此,義昭向全國大名下達討伐織田信長的御內書,天正4年甲斐的武田氏、相模的北條氏、越後的上杉氏結為同盟,但收效甚微。 信長的死以及回到京都 天正五年(1577年)上杉謙信在手取川之戰擊破織田軍,但上杉謙信在天正六年(1578年)死去。天正八年(1580年)石山本願寺投降信長,織田氏勢力達到鼎盛。然而天正十年(1582年)明智光秀發動本能寺之變,織田信長及其子信忠皆死去。此時義昭身在備後國的鞆。而明智光秀麾下的家臣,如伊勢貞興、蜷川貞周等,多為昔日室町幕府的幕臣。 義昭趁此好機欲返回京都,尋求毛利輝元的支持;另一方面尋求羽柴秀吉和柴田勝家的支持。毛利氏中親秀吉派的小早川隆景等極力反對送義昭到京都,認為這樣會使羽柴氏和毛利氏之間關係冷淡。但天正十一年(1583年)毛利輝元、柴田勝家、德川家康著手籌備支持義昭上洛。同年,毛利輝元臣服於羽柴秀吉。天正十四年(1586年)羽柴秀吉成為關白太政大臣。此後進入「關白秀吉、將軍義昭」並立的2年時期。在此兩年裡,豐臣秀吉逐漸統一天下。 天正十五年(1587年),豐臣秀吉在九州征伐期間途經備後國沼隈郡的津之郡村,在田邊寺訪問義昭,二人交換太刀。次年薩摩國島津氏歸順秀吉,義昭回到京都,天正十六年(1588年)2月9日與關白豐臣秀吉一起參見正親町天皇,辭去征夷大將軍之職並出家,法號昌山。朝廷給予其准三後的待遇。 晚年 豐臣秀吉將山城國的槙島城給予他當作居城,並給予義昭一萬石的領地。由於義昭是前將軍的緣故,豐臣秀吉才給予他這樣高的待遇。在豐臣秀吉侵略朝鮮之際,義昭率兵200人來到肥前名護屋,參加戰鬥。 晚年與斯波義銀、山名豐國等,成為太閣豐臣秀吉御伽眾的成員,受到太閣的親近。慶長二年(1597年)在大阪死去,年六十一歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD

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