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三百八十五位人物:石卷康敬、石川家成、南部利直、赤穴盛清、赤松政秀、赤尾清綱、跡部勝資、千葉重胤、千葉邦胤、川上久朗、川上忠克、川村重吉、淺野長政、淺野長晟、淺利則祐、淺利賴平、前波吉繼、相良晴廣、增田長盛、足利義氏、太田康資、太田氏資、太田重正、大浦為則、大館義實、大久保忠佐、大久保忠世、大久保長安、大崎義隆、大西賴晴、大西賴武、大道寺政繁、大友義統、大友親家、大內義長、大掾貞國、瀧川雄利、谷忠澄、丹羽長重、淡河定範、池田恒興、池田勝正、池田長正、竹內久盛、築紫惟門、中川清秀、中村一氏、中野宗時、豬去詮義、豬苗代盛胤、朝倉景鏡、長宗我部盛親、長船綱直、長船貞親、長倉祐政、長續連、上杉景信、長尾當長、長野藤定、長野稙藤、長連龍、鳥居元忠、津田重久、天野景貫、田結庄是義、田中吉政、土屋昌恒、土居清宗、土橋守重、島村盛實、島津義虎、島津歲久、島津忠直、藤田信吉、藤方朝成、德田重清、那須資晴、內藤清成、內藤隆春、鍋島勝茂、南條元續、南條廣繼、南條宗勝、南條隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寢重張、禰寢重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗實、畠山義綱、畠山義續、八戶政榮、塙直政、塙直之、板倉勝重、飯尾連龍、富田景政、富田重政、武田義信、武鎗重信、服部友貞、福原貞俊、福留儀重、平岡直房、平岡賴勝、平賀元相、平田光宗、片倉重長、保科正俊、母里友信、芳賀高繼、芳賀高定、蜂屋賴隆、蜂須賀家政、豐島重村、北楯利長、北條高廣、北條氏勝、北條氏照、北條氏房、北信愛、牧野康成、堀秀治、本山茂宗、本多重次、本多忠政、本多忠朝、本堂忠親、明石全登、明智秀滿、毛屋武久、毛利秀元、吉川元長、吉川廣家、毛利勝永、木下秀秋、木曾義康、木村重成、木脇祐守、問註所統景、問田隆盛、矢作重常、矢澤賴綱、藥丸兼將、柳生宗矩、有馬晴信、遊佐信教、遊佐盛光、遊佐續光、里見義賴、里見忠義、立原久綱、立石正賀、留守顯宗、留守政景、龍造寺家就、龍造寺信周、龍造寺政家、龍造寺長信、鈴木重兼、鈴木重則、鈴木重朝、浪岡顯村、六角義治、垪和康忠、簗田晴助、簗田詮泰、蘆田信蕃、蠣崎慶廣、蠣崎守廣、蠣崎盛廣、龍造寺家晴、富田氏實、佐藤好信、三好長治、小幡信貞、大田原綱清、仙石秀久、稻富祐秀、支倉常長、秋山虎繁、原虎胤、織田信秀、船尾昭直、澀江政光、酒井政辰、安藤良整、長尾種常、志馱義秀、平林正恒、神保氏張、瀧野吉政、蜷川親長、井戶良弘、箸尾高春、宇喜多詮家、中島元行、豐永勝元、長壽院盛淳、橫山喜內、向井正綱、北條早雲、太田資長、尼子經久、長尾為景、淺井亮政、大友義鑑、龍造寺家兼、宮本武藏、佐佐木小次郎、二階堂盛義、梶原景宗、福留親政、小牧道家、南光坊天海、森成利、簗田政綱、毛利良勝、最上義忠、森忠政、木村定光、以心崇伝、林信勝、秋月元種、井田親之、服部康成、浪岡慶好、遠藤盛胤、川島宗泰、保土原行藤、小田邊勝成、黑澤道家、梅津憲忠、岡本宣綱、須田盛久、長尾景廣、大道寺直次、中山照守、塙安友、前田利政、生駒一正、上田重安、桑山重晴、關盛吉、田丸直昌、小笠原秀政、木曾義利、千村良重、宮部長房、新庄直賴、新庄直忠、小川祐忠、京極高知、松井康之、筒井定慶、松倉重政、南條元忠、南條元清、石野氏滿、有馬則賴、有馬豐氏、赤松則英、赤松廣秀、福原長堯、長船定行、毛利元康、毛利秀包、宍戶元續、福原廣俊、仁木義治、吉田政重、佐竹親直、秋月種長、種子島久時、赤座吉家、足立重信、石田重家、太田一吉、大谷吉治、大野治房、大野治胤、奧村永福、金森可重、上泉泰綱、郡宗保、小西行景、高橋統增、德川家光、速水守久、福島高晴、前田利常、水野勝成、脇坂安元、村井長賴、由布惟信、小野鎮幸、飯田直景、柳生宗章、柳生三嚴、赤池長任、和久宗是、東鄉重位、安井成安、山田長政、天草時貞、伊東祐益、三浦按針、猿飛佐助、霧隱才藏、穴山小助、海野六郎、望月六郎、筧十藏、根津甚八、由利鎌之助、三好清海、三好伊三、加藤段藏、蠣崎基廣、下國師季、雫石詮貞、大崎義宣、相馬顯胤、蘆名盛舜、二本松義國、二階堂輝行、留守景宗、懸田俊宗、安東堯季、安東舜季、淺利則賴、天童賴長、天童賴貞、鮭延貞綱、結城政朝、佐野豐綱、那須高資、宇都宮尚綱、真里谷信應、長尾憲長、上杉朝定、太田資顯、藤田康邦、松平廣忠、平手政秀、遠山友忠、木造俊茂、小山田信有、板垣信方、甘利虎泰、橫田高松、高遠賴繼、小笠原長時、小笠原貞種、三木直賴、長尾晴景、長尾房長、椎名長常、神保覺廣、溫井續宗、堀江景忠、朝倉孝景、六角定賴、進藤貞治、朽木稙綱、粟屋勝久、武田義統、本願寺証如、願証寺蓮淳、波多野稙通、內藤國貞、細川持隆、細川氏綱、香川元景、香西元成
三百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名盛氏、佐竹義重、山内上杉憲政、結城晴朝、里見義尭、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角義賢、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆
五百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名止々斎、佐竹義重、上杉憲政、結城晴朝、里見義堯、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角承禎、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、足利義輝、足利義昭、福島正則、加藤清正、大谷吉継、島清興、竹中重治、井伊直政、榊原康政、片倉景綱、伊達成実、津軽為信、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、蒲生氏郷、鈴木重秀、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花道雪、立花宗茂、高橋紹運、鍋島直茂、細川幽斎、細川忠興、浅井亮政、林羅山、土井利勝、酒井忠世、青山忠俊、足利義明、稲葉貞通、真田幸昌、小幡景憲、蘆名盛舜、尼子経久、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵
那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之
椎名康胤 Shiina Yasutane(生年不詳-1576年) 越中国の国人。松倉城主。椎名慶胤の子と推定される。 椎名氏は、越中新川郡の守護代の家柄であった。ところが、椎名慶胤が神保慶宗の乱に加担したため守護代職を越後長尾氏に奪われ、後継の椎名長常はその又守護代として越後長尾氏に服属していたものの、長尾為景の死後に神保家再興を成し遂げた神保長職の攻勢を受けて衰退していた。そのような情勢の中、康胤が家督を継いだ。 弘治3年(1557年)、能登畠山氏の内紛である弘治の内乱に際し、椎名宮千代(後の康胤かは不明)は、八代俊盛を海路援軍として畠山義綱方へ送っている。内乱は椎名氏が支援した畠山義綱方が勝利し、畠山氏との関係を深めた。 永禄2年(1559年)夏、神保長職が再び椎名氏への攻勢を強めたため、康胤は越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)に援軍を要請し、永禄3年(1560年)3月、上杉軍により富山城、増山城は陥落し、長職は逃亡した。危機を脱した康胤は、同年の景虎の関東出陣に従軍している。しかし神保長職が勢力を回復し、永禄5年(1562年)9月5日、神通川の戦いで椎名軍は神前孫五郎を討ち取られるなどの大敗を喫し、居城の金山城(松倉城)まで攻め込まれる事態となった。ところが、翌月には再び謙信が来援し、遂に長職を降伏へと追い込んだ。これは康胤が長尾一族の長尾景直を養子に迎えており、強固な上杉氏との結びつきによるものといえた。しかし、宿敵・神保長職は神保氏と関係が深い能登畠山氏の仲介により中郡(婦負・射水郡)の支配権を安堵され、康胤には不満の残る処置となった。 一方で謙信は、関東出陣中の居城春日山城の留守を康胤に任せるなど康胤に信頼を寄せていたが、永禄11年(1568年)7月、康胤は甲斐国の武田氏の調略に応じ、上杉氏を離反した。永禄12年8月、康胤の離反を受けて、上杉謙信は越中に出陣して松倉城を包囲したが、守りは固く、10月には包囲を解いて帰陣した。 その後、三木良頼の仲介で上杉氏と和睦し、大坂本願寺へ援軍を派遣したりしたが、元亀3年5月、武田信玄の西上作戦支援のため、加賀一向一揆が越中に侵攻したことに呼応し、再び反上杉の動きを示したため、一揆勢を撃破した上杉軍に再び居城松倉城を攻囲され、元亀4年正月、謙信の養子である長尾顕景を通じて降伏開城した。その後の康胤の消息は不明であるが、一説には、天正4年(1576年)、一揆方として籠城していた砺波郡の蓮沼城を上杉軍に攻略され、自害したという。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8E%E5%90%8D%E5%BA%B7%E8%83%A4
河田長親 Kawada Nagachika(1545年-1581年) 河田元親的長子、正室為北條高廣之女;幼名岩鶴丸,號禪忠。 據藤原氏河田系圖所載,河田氏份屬藤原鎌足的後裔,但歷經上百年的流傳,到父親元親的時代,河田家這一脈已相當沒落了。時值永祿二年(1559年),越後大名上杉謙信上洛參見將軍足利義輝時,中途前往近江日吉大社朝拜並與六角氏會面,當時僅十四歲的長親隨父親及鄰近其他小國人眾前往接風,謙信慧眼識英雄,認為年少的長親具有不錯的才能因而將他收為側近,在回轉越後時,河田一族便隨著上杉家遷往越後居住。 由於長親溫厚的性格和智略,使他很快受到上杉謙信的重用,負責對越中方面外交工作的奉行職,並在永祿四年(1561年)上杉謙信南下關東攻打北條家時出陣,擔任上野沼田城的城將,於翌年出兵至柏崎和上杉軍會合。永祿八年(1565年)上杉謙信出兵下總協助盟友里見家時,長親也和北條高廣擔任在沼田當地集結軍勢的準備工作,隔年再次出兵關東時,也與直江景綱、北條高廣一同被任命為維持軍紀的奉行。 永祿十年(1567年),長親負責調停了犬茂島一帶土地界線劃分的爭執,長親雖是上杉家的新進將領,但是短短數年間卻已立下不遜於許多元老宿將的功勳,因此贏得上杉謙信的高度信賴,所以在古志長尾氏的景信隨謙信改姓上杉進入春日山城奉公後,上杉謙信便讓長親繼承古志長尾氏的家名,成為栖吉城主,統率謙信的旗本軍團「栖吉眾」,但是長親為區分主從之別,雖繼入古志長尾氏,平時卻絕少使用,對外文書仍是自稱「河田長親」。 永祿十一年(1568年),長親和蘆名家的平田舜範交誼促進上杉、蘆名兩家的友好,以牽制叛將本庄繁長。同時謙信和越中一向一揆的矛盾也越加強化,又有武田信玄從中主導,雙方衝突日劇,原本臣屬上杉家的越中大名椎名康胤因不滿上杉謙信饒過宿敵神保家並且與之結盟以扶助畠山義綱回歸能登,令椎名氏始終無法獨大於越中,而接受武田信玄的策反,叛出上杉家,轉而和一向一揆合攻神保家。為了救援神保家,長親受命領栖吉眾擔任先鋒隨上杉謙信出兵越中攻打椎名氏,戰後謙信遂以長親擔綱越中魚津城主,和新庄城的鰺坂長實同為上杉家越中攻略的中心人物,和一向一揆展開拉鋸戰,同時長親也負責和能登大名畠山家的外交事宜,與畠山家重臣遊佐續光多有書信往來,也身任宮津八幡宮的社職,已穩定當地民心。 元龜三年(1572年),越中的上杉勢力跌到前所未有的低點,儘管長親與鰺坂長實始終奮戰不懈,但是在有地頭蛇椎名康胤之協助下,一向一揆的戰況越發有利,當年六月雙方更是合兵包圍了神保家的火宮城,其後鰺坂長實救援失利,火宮城失陷更一鼓作氣攻下了神保家的居城富山城,神保家投降一揆眾,一時越中反上杉的勢力大振。 同年八月,為此大怒的上杉謙信憤而以直江景綱為大將出兵,在鼬川擊破了神保、一揆聯軍,並於十月增兵魚津城,讓長親出戰尻垂同樣大破神保、一揆聯軍,並攻陷椎名康種的越中金山城。翌元龜四年(1573年),上杉軍攻下神保家的富山城,越中再度改幟。隔年武田信玄故於上洛之戰後,越中一向一揆失去了背後支持者,加賀的一向一揆也和織田家交戰無法長期增援越中,上杉謙信趁此大好形勢,再度加緊出兵,長親負責引領各路上杉軍猛攻各處反上杉勢力的城池,越中一向一揆、神保、椎名等先後於天正二年(1574年)戰敗臣服,神保家中親近武田家的神保長住遭到放逐,原來椎名氏的居城松倉城也交給長親。 至此,上杉謙信終於完全攻佔越中,有鑑長親在越中戰陣的功勞,獲加封越中太田下鄉的領地,同時父親元親擔任富山城主,輔佐長親統轄越中。戰後長親為了鞏固上杉家對越中的支配於今泉另築新城,並建制經營松倉金山為上杉的軍費開源。 翌天正五年(1577年),上杉謙信意圖讓畠山家送入上杉家的人質畠山義春,即謙信的養子上杉政繁繼承畠山家,藉以掌握能登一國,但是遭到了畠山家權臣長續連的反對,謙信便以此名義大舉出兵能登,攻打七尾城。是役之中,長親亦隨軍出征,為策反遊佐續光出有大力,因此在上杉謙信將主力轉往手取川迎戰來援長續連的織田軍時,長親便和鰺坂長實共同處理七尾城的接收事務。 天正六年(1578年)三月九日,上杉謙信於春日山城急死,長親悼念主恩出家入道,號禪忠。因為謙信生前未確立繼承人,兩名養子上杉景勝、上杉景虎各擁家臣對立,在這場被稱為御館之亂的繼承糾紛中,長親支援上杉景勝,但伯父河田重親及古志長尾氏的原當主上杉景信卻投向景虎方,使得古志眾一時分裂成兩方。在上杉家陷入內亂的同時,於手取川之戰中敗退的織田家大將柴田勝家也伺機捲土重來,在鎮壓加賀一向一揆後以長連龍為引導,攻奪能登,直逼越中而來。越中南方的飛驒也因謙信之死改幟,由織田信長的連襟姉小路賴綱帶頭服從織田家,並且讓降將神保長住對越中的神保家舊將進行游說,說動了齋藤信利兄弟、菊池武勝、屋代一族、神保長張等改投織田家。作為上杉家派駐越中的最高軍政指揮官,長親在家內生亂同時仍從容不迫以穩定局勢為先,未直接參與御館之亂的戰事,保住上杉家在越中的優勢。 同年九月,織田信忠為了響應神保長住的策反,派遣家臣齋藤長龍領兵穿越飛驒增援越中戰線,聯合叛出上杉家的蛇尾城主齋藤利信一同攻打今泉城,長親獲訊後隨即增兵今泉城以堅守對抗織田軍,齋藤長龍見攻城不力便趁夜退走,長親、椎名小四郎見機不可失遂啣尾追擊織田軍,不料反被齋藤長龍巧妙利用地形,借月岡野的由寬漸窄的扇狀地形,一舉反攻,今泉城淪陷。 長親乃是謙信信用多年的要將,儘管織田家在月岡野之戰一度佔了上風,但越中大部分城池仍是為長親所掌握,為了降低攻略越中的難度,在獲得織田信長首肯後,柴田勝家在天正八年(1580年)潤三月採用懷柔手段承諾劃割長親的家鄉近江一部份作為條件,試圖誘降長親,卻為長親嚴詞拒絕。 翌天正九年(1581年)三月,長親因急病於越中松倉城辭世,年37歲。 長親死去後,上杉家失去足以繼續拱衛的有力武將,在魚津城之戰失敗,越中一國大半落入織田家手中。而長親死後,其子河田岩鶴丸隨之夭折,改由三弟直親之子河田親詮繼任當主。雖然家名得以保持,但在上杉軍門中河田氏的兵權已大幅縮減,由長親一代構成的栖吉眾亦告瓦解,在上杉家改封會津後,河田親詮為改封至田村郡領三千石,後又關原之戰上杉家減封遷至米澤時,擔任信夫郡代,配屬御馬迴組存至幕末。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/78823155/
畠山義続 Hatakeyama Yoshitsugu(生年不詳-1590年) 第7代当主・畠山義総の次男として生まれる。長兄で嗣子である義繁(よししげ)がいたが早世したため、後継者となる。天文14年(1545年)に父・義総が死去すると、家督を継いで第8代当主となる。しかし、義続の頃には家臣団による権力争いが頻発した。 天文16年(1547年)には加賀に追放されていた叔父の畠山駿河が一向一揆の助力を得て能登に攻め込んでくる(押水の合戦)。天文19年(1550年)には重臣の遊佐続光と温井総貞の権力争いのため七尾城が一部焼失するなど、義続は家臣団をうまく統率することができなかった。 この結果、大名権力が失墜し、重臣達は大名権力を傀儡化する畠山七人衆と呼ばれる年寄衆組織を作り、実権を握った。天文20年(1551年)に義続はこれら一連の騒乱の責任を取る形で、家督を嫡男の畠山義綱に譲って隠居し、以後は義綱の後見人を務めた。 その後は大名権力の回復を目指し、弘治元年(1555年)に義続は畠山七人衆の実権を握る温井総貞を他の重臣と協力して誅殺した。こうして一時は大名権力を取り戻したのだが、その後にさらなる権力強化を図ってかえって重臣の反発を招き、永禄9年(1566年)に重臣によって孫の畠山義慶が擁立されると、義続は義綱と共に国外追放とされてしまった(永禄九年の政変)。 その後、六角氏と縁戚関係があったために六角氏の領国である近江坂本に逃げ延び、永禄11年(1568年)に義綱と共に能登復帰を目指して挙兵したが失敗した。天正18年(1590年)3月12日に死去。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E7%BE%A9%E7%B6%9A
畠山義綱 Hatakeyama Yoshituna(生年不詳-1594年) 畠山義續的長子、母不明、正室為六角義賢之女;幼名次郎,別名義則、義胤,戒名德榮。 義綱出身於能登畠山氏,畠山氏本出自桓武平氏,鐮倉時代被北條氏消滅,當主畠山重忠之妻(一說重忠之女)改嫁足利義純,足利義純改姓畠山,並繼承畠山家的舊領。畠山氏的血統從「平氏」變成「源氏」。源氏畠山家後分為二本松畠山家、河內畠山家和能登畠山家等。河內畠山家躋身室町幕府三管領氏之一,該族的家督之爭是「應仁之亂」的起因之一。二本松畠山氏後為伊達政宗所滅,河內、能登畠山氏家督逐漸淪為家臣的傀儡,先後退出曆史舞台。 天文二十一年(1551年),父親義續為前年發生的「能登天文之內亂」負責而隱居,於是把家督之位讓予義綱。但是在義綱政權初期,因為義續是後見人,義綱在弘治元年(1555年)之前都沒有主體行動。 弘治元年(1555年),因為「畠山七人眾」(重臣們為把大名傀儡化而建立的政治合議組織)崩壞,中心人物溫井總貞被義續・義綱父子等人暗殺。在這次暗殺事件後,溫井氏與和溫井氏相當親密的三宅氏以加賀一向一揆為己方發動大規模的反亂,一時間外浦被佔領(弘治之內亂)。但是這次內亂亦在永祿三年(1560年)期間被義綱方鎮壓。在這次內亂的過程中,義綱方的士氣高昂,於是大名專制支配被確立。 這次內亂終息的永祿三年(1560年)至永祿九年(1566年)時期是末期能登畠山家比較安定的時期。在能登國內沒有家臣謀反或內亂發生。還有向將軍家的贈答在永祿四年(1561年)再度開始,氣多社的興建亦得到朝廷許可而得以實行。後來在永祿五年(1562年)被上杉謙信攻擊的神保長職向義綱請求仲介並調停成功等,開始在外交活動上活躍。同年接受正親町天皇的敕許而再度興建能登一宮,自身亦通過朝廷和幕府來寄進7千疋錢。 但是反抗以義綱為中心的大名專制支配的長續連、遊佐續光、八代俊盛等重臣在永祿九年(1566年)發動政變並把義續・義綱父子追放(永祿九年之政變)。因此義綱等人逃往有親戚關係的六角氏領地近江阪本。 以奪回能登為目標的義綱等人在六角氏的支援以及與上杉謙信和神保長職等人的合作,在永祿十一年(1568年)侵攻能登,但是失敗並敗退。之後復權的策劃亦沒能成功。 有史料指義綱後來成為豐臣秀吉的家臣,但是不能確定。文祿二年(1593年)於近江伊香郡(余吳町)的余吾浦死去。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E7%BE%A9%E7%B6%B1
神保長職 Jinbo Nagamoto(生年不詳-1572年?) 永正17年(1520年)、越中守護・畠山尚長(尚順の改名後)と越後守護代・長尾為景の連合軍に敗れて自刃した神保慶宗の子とされる。神保氏嫡流の通称である「宗右衛門尉」を継承していることから、その後継者を自認していたことは確かである。慶宗には小法師という嫡子がいたことから、それが後の長職である可能性は高い。慶宗が畠山尚慶(尚順(尚長)の初名)より偏諱を賜ったのに倣い、長職も同じく畠山尚長より「長」の1字を受けたものとみられる(しかし前述の通り慶宗はやがて尚順から独立する動きをとって敗死しており、家督継承時には畠山氏とは疎遠になっていたものと思われる)。 江戸時代の史書『越登賀三州史』において富山城を築城した水越勝重なるものが、「後に神保越中守長職と称す」とありかつては同一人物と考えられていたが、これは誤伝で勝重は長職の家臣であることがわかっており、現在では長職の命を受けた勝重が築城を奉行したと考えられている。また、長職が越中守を称した事実はない(越中守を称したのは息子の神保長住である)。 長職は没落していた神保家の再興に努め、享禄4年(1531年)加賀国における享禄の錯乱に守護方連合軍の一員として出兵するまでに勢力を回復させた。もっともこの時、神保勢は一揆勢に大敗を喫している。さらに長職は天文12年(1543年)頃、神通川を越えて新川郡に東進して富山城を築き、椎名長常と国人衆を巻き込み越中を二分した越中大乱と呼ばれる大戦を引き起こした。長職は更に南進して城生城主斎藤氏を一年余に渡って包囲するなど猛威を奮い、天文13年(1544年)、能登畠山氏の仲裁により大乱は集結したものの、常願寺川以西を併呑し、神保家を越中最大の勢力に築き上げた。 永禄2年(1559年)、再び椎名氏への圧迫をはじめ、長尾景虎(前述の長尾為景の子、のちの上杉謙信であり、以下「謙信」とする)により仲裁を受けるが、その後も椎名氏への攻撃を止めなかったため、永禄3年(1560年)、謙信の越中出兵を招いて敗北し、富山城を放棄して増山城へ逃げ込んだ。その後、畠山氏の仲介を受けて上杉謙信と和睦している。しかしその後も甲斐の武田信玄と通謀して椎名氏への圧迫を続けたため、永禄5年(1562年)の7月に謙信の再侵攻を受けて敗北した。しかし上杉軍が帰国するとすぐに再起し、9月5日には神通川の合戦で上杉方・椎名勢を撃破し、同族の神保民部大夫、椎名家重臣の神前孫五郎を討ち取り、松倉城下まで椎名氏を追い詰めたが、翌月再び謙信の侵攻を受けて居城増山城を包囲され、またも能登畠山氏の仲介で降伏している。 長職は神通川以東を失ったが、本領の射水・婦負二郡の支配権は従前通り認められた。能登畠山氏との友好関係によって上杉氏を牽制したためとの説もある。しかし、永禄9年(1566年)に能登畠山氏に内紛が起こり、畠山義綱父子が重臣により追放されると、長職は上杉謙信と共同して義綱の能登復帰作戦を支援するが、永禄11年(1568年)、椎名康胤が上杉氏を離反して武田・一向一揆方に立つと、神保家中は嫡子・神保長住を仰ぐ家老寺島職定を中心とする反上杉派が台頭し、親上杉派の家老小島職鎮と対立した。長職は長住一派を弾圧し、それまで親密だった一向一揆への攻撃を開始したため家中は分裂し内戦状態となった。上杉家の介入によって反上杉派は壊滅したが、神保家の上杉氏への従属を深める結果となった。長住は出奔して後に京で織田信長に仕えた。 しかし一方で長職は中央の動きも注視しており、上洛前の織田信長とも誼を通じていた。永禄13年(1570年)1月、足利義昭を擁し上洛を果たした織田信長が全国の有力諸大名に上洛命令を発すると、長職はこれに名代を派遣している。しかしこの頃神保氏は内紛の結果疲弊し、家中の実権は次第に親上杉派の老臣小島職鎮に牛耳られていた。長職は剃髪して宗昌と号し、家督を次男神保長城に譲っていたが、元亀2年(1571年)末頃、再び立場を一変させ、一向一揆と和睦し、反上杉の立場をとった。しかし長職はその後史料に表れず、程なく没したものと思われる。 長職の反上杉路線は長城に継承されたが、天正4年(1576年)、足利義昭により第三次信長包囲網が形成されると、上杉家は反織田信長の立場を鮮明化し、北陸地方へ大規模な侵攻を行った。この際に増山城は攻略され、長城の消息も途絶えてしまい、ここに長職の再興した神保氏嫡流は滅亡した。織田家へ仕えた嫡子長住は、一時は富山城主に返り咲いたものの、その後信長により追放され、庶流の神保氏張が後に佐々家、次いで徳川家に仕えて辛うじて戦国時代を生き抜いた。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BF%9D%E9%95%B7%E8%81%B7
足利義昭 Ashikaga Yoshiaki(1537年-1597年) 足利義晴的次子、母為近衛尚通之女.慶壽院、側室為さこの方(宇野氏)、小宰相局(大河內氏);法號覺慶,還俗後名為義秋,後改名為義昭、戒名靈陽院昌山道休。 將軍之路 出生後,被外祖父近衛尚通收為猶子;而兄長足利義輝早已被立為嗣子,根據當時足利將軍家的慣例,未能獲得嗣子地位的將軍之子都要出家,因此被送入佛門,進入興福寺的一乘院,法名覺慶。 義昭在興福寺擔任權少僧都的高級官職,本來他一生應該是在擔任高級僧官中度過的。但在永祿八年(1565年)發生永祿之變,第13代將軍足利義輝連同其母親慶壽院一起,被松永久秀、三好三人眾弒殺;擔任鹿苑院院主的弟弟周暠也被久秀誘殺。由於害怕殺害義昭會引發興福寺僧眾的敵對情緒,松永久秀沒有殺害義昭,而是將其暫時囚禁在興福寺。但不久忠於足利義輝的一色藤長、和田惟政、仁木義政、三淵藤英、細川藤孝,以及大覺寺門跡義俊(近衛尚通之子)等幫助義昭逃出囚牢。 在此期間的文書中,義昭被稱作「將軍家的當主」、「矢島的武家御所」等。4月21日被敘為從五位下左馬頭的官位。經過奈良、木津川逃到伊賀國後(伊賀國的守護是將軍的近臣仁木義政,該國國人服部氏後來追隨義昭),通過近江國六角義賢的許可後暫時居住在甲賀郡的和田城(和田惟政的居城,位於伊賀和近江交界之處)。 義昭試圖再興正統的足利將軍家的威權,永祿九年(1566年)2月17日,還俗,改名為足利義秋。和田惟政(甲賀住人)和仁木義政(伊賀住人)的斡旋下,六角義賢、義治父子同意讓義昭以野洲郡矢島村(今守山市矢島町)為住所。 居住在矢島御所的義昭,積極同管領畠山高政、關東管領上杉輝虎、能登守護畠山義綱(居住在近江滋賀郡)取得聯絡,希望得到支持。河內國的畠山高政積極支持義昭,其弟弟秋高野表示支持。得知此事後,三好三人眾率3000騎襲擊矢島御所;大草氏等奉公眾(將軍親衛隊)浴血奮戰擊退進攻。但義昭發現自己視為心腹的南近江領主六角義治竟然暗中與三好三人眾勾結,義昭只得在8月前往投奔武田義統,前往若狹國。但當時若狹武田氏正處於家督爭奪和重臣謀反的內亂中,無法支援義昭上洛;武田義統僅派遣弟弟武田信景前往追隨義昭。義昭只得前往越前國,請求朝倉義景(仁木義政的親族)出兵上洛。義昭上奏朝廷,將義景的母親封為從二位官位。但義景只有對足利將軍家的連枝鞍谷公方足利嗣知(足利義嗣的子孫)擁上將軍之位有興趣,對還俗的義昭一點興趣也沒有。義昭長期滯留越前,上野清延、大館晴忠等幕府重臣紛紛前往越前參見將軍。 永祿十一年(1568年)4月15日,義昭在越前舉行元服禮,由朝倉義景擔任加冠役。同時由於「秋」字不吉利,改名義昭。在朝倉家重臣明智光秀的介紹下,前往尾張國,尋求管領斯波氏的有力家臣織田信長的幫助。 再興幕府 永祿十一年(1568年)9月,織田信長擁護義昭上洛,途中又受到美濃齋藤氏、北近江淺井氏、南近江六角氏等勢力的支持,在織田信長、淺井長政等警護下進軍京都。中途六角氏由於有力支族箕作氏的叛亂而撤退,在父親足利義晴所建的桑實寺駐紮,順利到達京都。三好三人眾退出京都。10月18日朝廷封義昭為征夷大將軍,同時敘從四位下參議兼左近衛權中將的官位。 就任將軍的義昭下令將對暗殺兄長足利義輝持縱容態度、慫恿天皇封足利義榮為將軍的近衛前久流放,並讓二條晴良復任關白之職。義昭又將自己的偏諱授予管領細川昭元、畠山昭高,以及關白家的二條昭實,試圖鞏固自己的統治,掌握兄長義輝所擁有的山城國御料所。同時在山城國設置守護,令三淵藤英據守伏見城。在政務上,義昭同兄長義輝一樣,任命攝津晴門為政所執事,任命飯尾昭連、松田藤弘等為奉公眾,再興幕府。之前因反叛義輝而被滅的伊勢氏,其末裔伊勢貞興被義昭允許再任官職。 當時義昭暫時以山城國本國寺(位於今京都府京都市山科區)為居住地。永祿十二年(1569年)正月,織田信長率部返回美濃、尾張時,三好三人眾趁機反撲,襲擊本國寺(本國寺之變)。奉公眾和明智光秀所率的織田軍奮勇抵抗,北近江的淺井長政以及攝津國的池田勝正、和田惟政等也奮戰,擊退三好三人眾的進攻。 這次事件暴露出本國寺守備不足的現狀,因此義昭請求織田信長重建兄長足利義輝建造的烏丸中御門第(舊二條城),以之為將軍邸。重修的烏丸中御門第新挖兩道護城河,並翻修加高石垣,增強防禦機能。只有世代擔任室町幕府奉公眾的武士和高級守護大名才能進入拜見。 與織田信長發生對立 義昭依據當初的許諾,就任將軍之後,在10月24日給予織田信長「御父織田彈正忠(信長)殿」的尊稱,以尋求信長對幕府的支持。 織田信長將義昭扶上將軍之位後,其對尾張、美濃的領有權得到認可,並被封為和泉守護,得到昔日三好氏的領地和泉國(繁榮的界港在該國轄下)。同時義昭對其他武將論功行賞,池田勝正被任命為攝津守護,畠山高政、三好義繼各被封為河內半國守護。織田信長被任命為管領代,其地位與管領相當;此後義昭又向朝廷推薦信長擔任副將軍,但被信長推辭,改封彈正忠。 然而義昭一心想要復興室町幕府,而織田信長則有用武力統一天下的野心,因此兩者最終關係逐漸惡化。織田信長為限制將軍的權力,於永祿十二年(1569年)正月頒布《殿中御掟》9條,並脅迫義昭承認。這使幕府將軍的行動受到很大的制約。翌年正月又追加5條,信長更進一步限制幕府的權力。元龜元年(1570年)4月,織田信長討伐越前大名朝倉義景,但就在此時織田氏的同盟淺井長政與信長反目,導致信長大敗。早已對信長的專橫十分不滿的義昭趁機與信長決裂,元龜二年(1571年)左右向上杉輝虎(謙信)、毛利輝元、本願寺顯如、武田信玄、六角義賢等大名發出御內書,下令討伐信長。這些大名加上與信長敵對的朝倉義景、淺井長政、松永久秀、三好義繼以及三好三人眾、延曆寺僧兵等勢力,形成信長包圍網。 元龜三年(1572年)10月,信長向義昭送達17條意見狀,批評義昭的一些舉措。此時東方的武田信玄率兵進軍京都,12月22日在三方原之戰中擊破織田信長的盟友德川家康,信長陷入窘境。義昭趁機任命寵臣山岡景友(六角義賢的重臣以及幕府的奉公眾)為山城半國守護。翌年正月,信長欲遣子入質於義昭以求和解,但遭義昭的拒絕。義昭在近江的今堅田城和石山城為幕府軍的據點,舉起反對信長的旗幟,但數日後兩城皆被攻陷。同時東方戰線的武田信玄病重,武田軍於4月開始撤回本國,12日信玄逝世。 織田信長攻入京都,在知恩院布開陣勢。幕臣細川藤孝、荒木村重等人見大勢已去,投降信長。但是不知道武田信玄已經去世的義昭據守自己的居城烏丸中御門第繼續抵抗。信長再次提出和解,但義昭認為信長沒有信用,斷然拒絕。織田信長威脅幕臣以及義昭的支持者,聲稱若不投降,自己將會攻打上京並將此整個地區焚為焦土。同時包圍義昭的居城烏丸中御門第。另一方面,織田信長尋求朝廷的支持,4月5日,在正親町天皇敕命下,雙方講和。 但是義昭於7月3日宣布背棄和約,在三淵藤英、伊勢貞興以及公家奉公眾的簇擁下逃往南山城的要害槙島城(山城國的守護所)舉兵。槙島城建在宇治川和巨椋池水系交叉處的島上,是義昭近臣真木島昭光的居城,為兵家必爭之地。烏丸中御門第的守軍於3日投降信長,信長率7萬大軍包圍槙島城。7月18日織田軍開始攻城,槙島城的建築被破壞,義昭以自己的兒子義尋為人質,向織田信長投降。 被逐出京都 織田信長將義昭逐出京都,並將足利將軍家在山城、丹波、近江、若狹等地的御料所據為己有。織田信長以天下人(掌握日本實權的人)自居,挾持幕府將軍和天皇支配京都周圍的地區,並充當各地大名紛爭的調停人。放逐將軍後,織田信長保持天下人的地位,現在日本的歷史教科書一般認為此時室町幕府滅亡。但事實上根據《公卿補任》的記載,此後的義昭依然長期保持著征夷大將軍的職位。天正元年(1573年)8月,織田信長滅亡朝倉氏,9月滅亡淺井氏,信長包圍網完全瓦解。織田信長於次年任命塙直政為山城、大和守護,鞏固織田氏在畿內的支配權。 義昭雖被放逐後,退往枇杷庄(今京都府城陽市),在本願寺顯如的介紹下前往河內國三好義繼的處點若江城,以羽柴秀吉擔任護衛。義昭仍開設幕政,以伊勢氏、高氏、一色氏、上野氏、細川氏、大館氏、飯尾氏、松田氏、大草氏等勢力為幕府的中樞,組成奉公眾和奉行眾,並授予近臣和大名室町幕府中的官職。除近畿周邊的信長勢力圈以外(北陸地方、中國地方、九州地方),義昭依然保持著被流放以前的權威,甚至對京都五山的住持還有任命權。織田信長與三好義繼的關係惡化後,義昭於11月5日移駕到和泉國的界。義昭曾提出要返回京都,但織田信長提出人質的要求,最終交涉決裂。 天正二年(1574年)移駕紀伊國興國寺,又移駕泊城。當時紀伊國是管領畠山氏的轄境,值得一提的是畠山高政的重臣湯川直春的勢力在當時很強大,直春的父親湯川直光擔任河內守護代一職。 天正四年(1576年),義昭移駕到毛利輝元轄下備後國的鞆。鞆是當年足利尊氏接受光嚴上皇追討新田義貞院宣的地方,對於足利將軍家可謂是有淵源的地方。第十代將軍足利義材在此處受到大內氏的支持,從而回到京都。因此這被足利將軍家當作吉祥之地。此後義昭在此地開設流亡幕府,史稱「鞆幕府」。義昭在鞆以備中國的御料所所進獻的年貢,以及足利將軍家任命京都五山住持所獲得的禮錢維持生活,同時收到宗氏、島津氏通過明日貿易獲得的財政收入,近畿、東海以外支持足利將軍家的武家很多。鑒於此,義昭向全國大名下達討伐織田信長的御內書,天正4年甲斐的武田氏、相模的北條氏、越後的上杉氏結為同盟,但收效甚微。 信長的死以及回到京都 天正五年(1577年)上杉謙信在手取川之戰擊破織田軍,但上杉謙信在天正六年(1578年)死去。天正八年(1580年)石山本願寺投降信長,織田氏勢力達到鼎盛。然而天正十年(1582年)明智光秀發動本能寺之變,織田信長及其子信忠皆死去。此時義昭身在備後國的鞆。而明智光秀麾下的家臣,如伊勢貞興、蜷川貞周等,多為昔日室町幕府的幕臣。 義昭趁此好機欲返回京都,尋求毛利輝元的支持;另一方面尋求羽柴秀吉和柴田勝家的支持。毛利氏中親秀吉派的小早川隆景等極力反對送義昭到京都,認為這樣會使羽柴氏和毛利氏之間關係冷淡。但天正十一年(1583年)毛利輝元、柴田勝家、德川家康著手籌備支持義昭上洛。同年,毛利輝元臣服於羽柴秀吉。天正十四年(1586年)羽柴秀吉成為關白太政大臣。此後進入「關白秀吉、將軍義昭」並立的2年時期。在此兩年裡,豐臣秀吉逐漸統一天下。 天正十五年(1587年),豐臣秀吉在九州征伐期間途經備後國沼隈郡的津之郡村,在田邊寺訪問義昭,二人交換太刀。次年薩摩國島津氏歸順秀吉,義昭回到京都,天正十六年(1588年)2月9日與關白豐臣秀吉一起參見正親町天皇,辭去征夷大將軍之職並出家,法號昌山。朝廷給予其准三後的待遇。 晚年 豐臣秀吉將山城國的槙島城給予他當作居城,並給予義昭一萬石的領地。由於義昭是前將軍的緣故,豐臣秀吉才給予他這樣高的待遇。在豐臣秀吉侵略朝鮮之際,義昭率兵200人來到肥前名護屋,參加戰鬥。 晚年與斯波義銀、山名豐國等,成為太閣豐臣秀吉御伽眾的成員,受到太閣的親近。慶長二年(1597年)在大阪死去,年六十一歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD
遊佐續光 Yusa Tsugumitsu(生年不詳-1581年) 遊佐總光之子(一說遊佐秀賴),妻為平信光の娘;受畠山義續偏諱「續」字,名為續光,能登畠山七人眾之一。 天文二十二年(1553年),與同是七人眾的溫井總貞爭奪能登畠山家中的主導權,但在大槻一宮之戰中敗北,逃往加賀國。 弘治元年(1555年),在溫井總貞遭到畠山義綱的誅殺之後才回來再當重臣,之後掌握畠山家中實權。 永祿九年(1566年),將畠山義續、義綱父子放逐到國外,並擁立義綱之子畠山義慶為魁儡。天正二年(1574年),畠山義慶突然死亡,有遭到續光暗殺的一說。 當織田信長的勢力延伸到能登地區時,親織田派的重臣代表長續連勢力抬頭。因此親上杉派的續光一時失去主導權。 天正五年(1577年),當越後的上杉謙信進攻能登時成為內應,並殺害長續連一族,降伏上杉後完全掌握能登的支配權。 但是在上杉謙信死後,織田軍再次攻入能登地區,續光之子遊佐盛光為保命而投降信長,織田信長以殺害長續連一族之罪,將續光父子處極刑(信長公記)。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E4%BD%90%E7%BA%8C%E5%85%89

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