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三好康長 Miyoshi Yasunaga(生年不詳-1585年?) 三好氏の1人で、初めは甥に当たる本家当主三好長慶の弟で阿波国主の三好実休に仕え、篠原自遁・加地盛時と共に実休の家臣として活動した。永禄元年(1558年)に長慶が京都郊外で室町幕府13代将軍足利義輝・細川晴元と対峙した際は実休ら四国勢の先鋒として畿内に上陸、永禄3年(1560年)の河内遠征でも実休の名代として長慶と対面、永禄5年(1562年)3月の久米田の戦い、同年5月の教興寺の戦いなどで活躍した。実休の死後は拠点を河内高屋城に移し、他の家臣団と協力して実休の遺児長治を支えた一方、茶人としての活動も見られ、津田宗達・宗及父子の茶会に度々出席している。 長慶の死後大甥に当たる三好義継(長慶の甥)が相続したが、三好三人衆と松永久秀が敵対し、家中が割れると康長は三人衆に同調し、永禄9年(1566年)2月の上芝の戦いに参戦、5月に久秀が侵入した堺を三人衆と共に包囲した。しかし、翌永禄10年(1567年)2月に義継が突如三人衆の下から逃れて高屋城から脱出、堺へ赴き久秀と手を結ぶと、康長と安見宗房も久秀側へと鞍替えしたが、永禄11年(1568年)2月には三人衆が担いだ14代将軍足利義栄の将軍就任の祝賀会と考えられる大宴会に出席しており、その頃には義継の元を去っている。この宴会には、阿波三好家の大軍を率いる篠原長房も参加しており、三人衆は松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城を落とすなど(信貴山城の戦い)、松永勢を追い込んでいた。 しかし、15代将軍足利義昭を擁立した織田信長が同年9月7日に岐阜を出立、9月25日には大津まで兵を進めると三人衆の軍は崩壊し、29日に三人衆の1人で山城勝龍寺城主岩成友通が降伏、30日に摂津芥川山城で織田軍に抗戦した三人衆筆頭の三好長逸が細川昭元と共に退去、10月2日には三好康長も摂津越水城を放棄した篠原長房らと共に阿波へ落ち延びた。翌永禄12年(1569年)1月に康長は三人衆と共に和泉に上陸、京都本圀寺に滞在していた義昭を襲撃したが、細川藤孝や義継、摂津国人伊丹親興・池田勝正・荒木村重らの援軍に敗れ、再度阿波に逃れた(本圀寺の変)。 しかし、元亀元年(1570年)6月、三好長逸に通じた荒木村重が池田勝正を追放すると、7月21日に康長と三人衆は摂津中嶋に上陸し、野田城・福島城を築城する。織田軍は8月26日から9月23日にかけてこれを攻めるも、石山本願寺の参戦もあり攻城戦に失敗(野田城・福島城の戦い)、更に、9月27日には篠原長房率いる阿波・讃岐の軍勢が兵庫浦に上陸し山城へ向けて兵を進めたが、11月21日に久秀の仲介により長房・康長・三人衆は信長と和睦した。 元亀2年(1571年)5月、松永久秀と三好義継が信長に反旗を翻し、長房・康長・三人衆・荒木村重と共に河内の畠山昭高、大和の筒井順慶、箸尾為綱、摂津の和田惟政を攻めている。更に元亀3年(1571年)中には、将軍・足利義昭も加わり信長包囲網が形成された。 しかし、天正元年(1573年)、長房が三好長治に誅殺され阿波三好家からの支援が絶たれてしまう(上桜城の戦い)。同年7月に義昭も信長に敗れ追放(槇島城の戦い)、続いて11月に義継が討たれ三好本家が滅亡(若江城の戦い)、12月に久秀も降伏し三人衆も壊滅する中、康長は高屋城にあって三好一族の中で最後まで畿内で抵抗を続けたが、天正3年(1575年)4月に松井友閑を通じてついに降伏した(高屋城の戦い)。同年7月、所持していた名物三日月葉茶壷を信長に献上している。その後は、信長から重用されたようで、石山本願寺との和睦交渉の担当や、河内半国の支配を命じられている。 織田家において、康長は四国に強い地盤を持つ三好一族として四国攻略の担当とされ、主な活動の場を四国に移し、安宅信康の勧誘工作、当時長宗我部氏に属して岩倉城主であった子の三好康俊を寝返らせるなど成果を挙げている。ただ常時四国にいたわけではなく、河内領内の都合もあり、頻繁に河内と四国を行き来していたようである。天正4年(1576年)、石山合戦の一環として信長の部将・塙直政の与力とされ本願寺包囲網に加わったが、本願寺の奇襲を受けて逃亡、塙直政は戦死している(天王寺の戦い)。 天正9年(1581年)、康長は四国征伐の先鋒として阿波に再び渡っていたが、この際、信長の3男・神戸信孝を養子とする事が決定され、四国統一の暁には阿波一国を与えられる約束をされたと言う。ところが、翌天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が明智光秀の手勢に攻撃され横死した為、四国征伐は中止となり、康長は四国から逃亡し河内に帰った。その後は日の出の勢いで四国統一を目前にした長宗我部元親に対抗するため、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い秀吉の甥・治兵衛(三好信吉、後の豊臣秀次)を養子として迎えている。なお、康長と治兵衛の養子縁組は信長生前の天正7年(1579年)11月段階で既に実施されており、秀吉-康長ラインと光秀-元親ラインの対立が本能寺の変の一因であったとする説もある。 天正10年9月の紀州・根来寺攻めに参加しているのが最後の従軍記録であり、康長のその後の行方は詳しくわかっていないが、『宗及記』では天正12年(1584年)8月28日に津田宗及の茶会に出席しており、『元親記』では、天正13年(1585年)に秀吉に降伏した元親を出迎えている旨の記載がある。少なくとも、この辺りまでは存命していたものと思われる。 なお、本来の後継者である嫡男康俊は、三好三将と呼ばれる阿波三好家の重臣を謀殺してその首級を手土産に長宗我部氏に寝返った上、康長の四国到来に呼応して再度の反乱を試みたが、失敗して討ち果たされた。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%BA%B7%E9%95%B7
三百位人物:羽柴秀次、石川五右衛門、久武親直、三好政勝、一条兼定、河野通直、来島通康、松平忠吉、阿蘇惟将、松平忠輝、柳生宗厳、松浦鎮信、相良義陽、相良頼房、深水長智、犬童頼安、伊東義祐、伊東祐兵、稲富祐直、島津家久、種子島時尭、母里太兵衛、伊集院忠朗、伊集院忠棟、新納忠元、京極高次、花房職秀、柳生宗矩、百地三太夫、大内義長、大友義統、岩城重隆、赤井直正、本願寺証如、尼子国久、尼子勝久、里見義頼、吉田孝頼、龍造寺政家、鈴木重則、足利義氏、千葉胤富、斯波義統、相良晴広、東郷重位、武田信廉、武田義信
飯尾定宗、土岐頼芸、内ヶ島雅氏、明叔慶浚、浅井亮親、多賀貞能、足利義晴、朽木晴綱、三淵晴員、細川藤賢、武田元光、武田信豊、粟屋光若、赤井時家、酒井豊数、下間頼慶、本泉寺蓮悟、富樫晴貞、十市遠忠、越智家増、柳生家厳、筒井順興、筒井順政、湯川直光、畠山稙長、畠山政国、衣笠範景
下間賴廉、細川幽齋、村上義清、朝倉義景、織田信忠、成田甲斐、井伊直虎、母里友信、森長可、世良田元信、大祝鶴、望月千代女、櫛橋光、石川五右衛門、弥助、山内千代、朝倉一玄、織田信長、織田信長、豐臣秀吉、德川家康、德川家康、伊達政宗、武田信玄、真田信繁、上杉謙信、毛利元就
畠山昭高 Hatakeyama Akitaka(1534年-1573年) 畠山政国の3男で高政、政尚の弟。初名は政頼(まさより)、秋高(あきたか)。官位は左衛門督。 兄・高政を補佐して三好長慶と争う。後に高政から家督を譲られ当主となったと目されており、足利義秋(のち足利義昭に改名)の一字を貰いうけ秋高と名乗った。なお、後に将軍になった義昭から「昭」の字の偏諱を重ねて与えられ昭高と改名したといわれるが、疑義が呈されている。 13代将軍足利義輝に相伴衆として近侍していたが、永禄の変において義輝が殺害されると、弟の義秋がいる近江の矢島御所に仕えた。矢島御所においては高政の重臣である安見宗房と共に義秋の将軍就任に尽力した。 永禄11年(1568年)に足利義昭が織田信長と共に尾張から上洛してくると、河内の高政もこれを支持する。高政は幕府を再興した義昭と信長に河内半国守護を認められた。しかし翌年、兄が重臣の遊佐信教によって紀伊に追放されると、新当主として擁立される。 元亀2年(1571年)には、河内の上半国の守護に任じられていた三好義継が反乱を起こし松永久秀と共に河内の畠山方の諸城を攻撃すると、宗房と共にこれに抵抗する。しかし遊佐信教が三好氏と同調する気配を見せたため、昭高は信長の妹を妻とし、織田氏の援軍を得て信教を倒そうとした。元亀3年(1572年)閏1月4日には、信教による昭高暗殺未遂が発生した(『多聞院日記』)。しかし、天正元年(1573年)、足利義昭と信長の対立が激化すると義昭方に付いたため(『顕如上人御書札案留』)、信長の後ろ盾を失い信教に殺された。信教は昭高の死後復帰を図った高政を退けるも、昭高の義兄である信長によって滅ぼされた(高屋城の戦い)。 その後河内は信長の家臣である佐久間信盛の統治下におかれ、畠山氏の旧臣の多くも信盛の指揮下におさまり、紀伊において命脈を保つのみとなる。しかし畠山氏の家督は甥の畠山貞政に継承され、江戸時代にも高家として存続した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E6%98%AD%E9%AB%98
畠山高政 Hatakeyama Takamasa(1527年-1576年) 大永7年(1527年)、畠山政国の嫡男として生まれる。 高政が若年の頃の畠山氏は、天文15年(1546年)に三好政長と摂津の舎利寺の戦いで、勝利するなど細川氏綱を奉じて細川晴元に対抗していたが、河内における実権はほぼ河内守護代の遊佐長教に握られている状態だった。しかし天文20年(1551年)に長教が暗殺されたのを契機として天文22年(1553年)に家督を継ぐ。 その後は天文22年の足利義輝と三好長慶の争いでは長慶に丹下盛知・安見宗房を援軍に送るなど長慶との同盟関係を維持していたが、永禄元年(1558年)11月30日に宗房との対立が表面化し、居城の河内高屋城を追放されて堺に逃れる。その後三好の力を借りて永禄2年(1559年)8月2日宗房らを追放して高屋城に復帰するも、永禄3年(1560年)に今度は長慶と対立して宗房と和解する。そのため、その年の11月13日に、三好軍が高屋城を占拠して高政・宗房らは没落した。 河内守護畠山氏は守護代遊佐氏が力をつけるにつれ圧迫される傾向にあったものの、守護の軍事動員権までは放棄しておらず、また紀伊においては遊佐氏の影響を受けない一定の支配力を保っていた。このため紀伊の軍勢を率いて永禄4年(1561年)、細川晴之(細川晴元の次男)・六角義賢と共に京都に進軍し、一時的に長慶を京都から追い出すことに成功する。永禄5年(1562年)3月5日には久米田の戦いで、長慶の弟である三好実休を討ち取るという大戦果を収めて、高屋城を奪還する。しかし、続く5月20日の教興寺の戦いで敗れ、河内における支配権を失い、紀伊に後退した。 永禄9年(1566年)、13代将軍足利義輝(義澄の孫)が討たれると、義輝の実弟である足利義昭(当時は義秋)を支持し、将軍にするための援助を続けた、更に三好家の家中分裂が起きると松永久秀方に与する。永禄11年(1568年)には上洛してきた義昭および織田信長に従い、三好氏に奪われていた旧領の一部も安堵され、畠山氏の繁栄を図った。義輝の暗殺前後に家督を弟の畠山秋高に譲っており、上洛後は在京している姿が記録に見える。ただ完全に隠居したわけではなく、元亀元年(1570)の野田・福島の戦いでは河内に下向して義昭・信長と戦っている。 なお遊佐信教・安見宗房が高政の弟・秋高(政頼)を当主に擁立し、高政を追放したという話は、弓倉弘年氏の指摘によるとこの追放劇は「足利季世記」などの軍記物しか見られず、また内容も永禄元年の争いの焼き直しであり事実ではないと思われる。 天正元年(1573年)に弟の畠山昭高が信教に殺されると挙兵し河内に進攻したが、敗北し紀伊に後退する。天正3年(1575年)に信長によって高屋城は破却された。 その後は河内・紀伊を流浪して天正4年(1576年)10月15日に失意の内に死去した(50歳)。晩年はキリスト教の洗礼を受けた。池田丹後守、伊地地文太夫らと関わりがあったため、彼らからキリスト教を紹介されて洗礼を受けたのではないかと推測されている。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E9%AB%98%E6%94%BF
足利義昭 Ashikaga Yoshiaki(1537年-1597年) 足利義晴的次子、母為近衛尚通之女.慶壽院、側室為さこの方(宇野氏)、小宰相局(大河內氏);法號覺慶,還俗後名為義秋,後改名為義昭、戒名靈陽院昌山道休。 將軍之路 出生後,被外祖父近衛尚通收為猶子;而兄長足利義輝早已被立為嗣子,根據當時足利將軍家的慣例,未能獲得嗣子地位的將軍之子都要出家,因此被送入佛門,進入興福寺的一乘院,法名覺慶。 義昭在興福寺擔任權少僧都的高級官職,本來他一生應該是在擔任高級僧官中度過的。但在永祿八年(1565年)發生永祿之變,第13代將軍足利義輝連同其母親慶壽院一起,被松永久秀、三好三人眾弒殺;擔任鹿苑院院主的弟弟周暠也被久秀誘殺。由於害怕殺害義昭會引發興福寺僧眾的敵對情緒,松永久秀沒有殺害義昭,而是將其暫時囚禁在興福寺。但不久忠於足利義輝的一色藤長、和田惟政、仁木義政、三淵藤英、細川藤孝,以及大覺寺門跡義俊(近衛尚通之子)等幫助義昭逃出囚牢。 在此期間的文書中,義昭被稱作「將軍家的當主」、「矢島的武家御所」等。4月21日被敘為從五位下左馬頭的官位。經過奈良、木津川逃到伊賀國後(伊賀國的守護是將軍的近臣仁木義政,該國國人服部氏後來追隨義昭),通過近江國六角義賢的許可後暫時居住在甲賀郡的和田城(和田惟政的居城,位於伊賀和近江交界之處)。 義昭試圖再興正統的足利將軍家的威權,永祿九年(1566年)2月17日,還俗,改名為足利義秋。和田惟政(甲賀住人)和仁木義政(伊賀住人)的斡旋下,六角義賢、義治父子同意讓義昭以野洲郡矢島村(今守山市矢島町)為住所。 居住在矢島御所的義昭,積極同管領畠山高政、關東管領上杉輝虎、能登守護畠山義綱(居住在近江滋賀郡)取得聯絡,希望得到支持。河內國的畠山高政積極支持義昭,其弟弟秋高野表示支持。得知此事後,三好三人眾率3000騎襲擊矢島御所;大草氏等奉公眾(將軍親衛隊)浴血奮戰擊退進攻。但義昭發現自己視為心腹的南近江領主六角義治竟然暗中與三好三人眾勾結,義昭只得在8月前往投奔武田義統,前往若狹國。但當時若狹武田氏正處於家督爭奪和重臣謀反的內亂中,無法支援義昭上洛;武田義統僅派遣弟弟武田信景前往追隨義昭。義昭只得前往越前國,請求朝倉義景(仁木義政的親族)出兵上洛。義昭上奏朝廷,將義景的母親封為從二位官位。但義景只有對足利將軍家的連枝鞍谷公方足利嗣知(足利義嗣的子孫)擁上將軍之位有興趣,對還俗的義昭一點興趣也沒有。義昭長期滯留越前,上野清延、大館晴忠等幕府重臣紛紛前往越前參見將軍。 永祿十一年(1568年)4月15日,義昭在越前舉行元服禮,由朝倉義景擔任加冠役。同時由於「秋」字不吉利,改名義昭。在朝倉家重臣明智光秀的介紹下,前往尾張國,尋求管領斯波氏的有力家臣織田信長的幫助。 再興幕府 永祿十一年(1568年)9月,織田信長擁護義昭上洛,途中又受到美濃齋藤氏、北近江淺井氏、南近江六角氏等勢力的支持,在織田信長、淺井長政等警護下進軍京都。中途六角氏由於有力支族箕作氏的叛亂而撤退,在父親足利義晴所建的桑實寺駐紮,順利到達京都。三好三人眾退出京都。10月18日朝廷封義昭為征夷大將軍,同時敘從四位下參議兼左近衛權中將的官位。 就任將軍的義昭下令將對暗殺兄長足利義輝持縱容態度、慫恿天皇封足利義榮為將軍的近衛前久流放,並讓二條晴良復任關白之職。義昭又將自己的偏諱授予管領細川昭元、畠山昭高,以及關白家的二條昭實,試圖鞏固自己的統治,掌握兄長義輝所擁有的山城國御料所。同時在山城國設置守護,令三淵藤英據守伏見城。在政務上,義昭同兄長義輝一樣,任命攝津晴門為政所執事,任命飯尾昭連、松田藤弘等為奉公眾,再興幕府。之前因反叛義輝而被滅的伊勢氏,其末裔伊勢貞興被義昭允許再任官職。 當時義昭暫時以山城國本國寺(位於今京都府京都市山科區)為居住地。永祿十二年(1569年)正月,織田信長率部返回美濃、尾張時,三好三人眾趁機反撲,襲擊本國寺(本國寺之變)。奉公眾和明智光秀所率的織田軍奮勇抵抗,北近江的淺井長政以及攝津國的池田勝正、和田惟政等也奮戰,擊退三好三人眾的進攻。 這次事件暴露出本國寺守備不足的現狀,因此義昭請求織田信長重建兄長足利義輝建造的烏丸中御門第(舊二條城),以之為將軍邸。重修的烏丸中御門第新挖兩道護城河,並翻修加高石垣,增強防禦機能。只有世代擔任室町幕府奉公眾的武士和高級守護大名才能進入拜見。 與織田信長發生對立 義昭依據當初的許諾,就任將軍之後,在10月24日給予織田信長「御父織田彈正忠(信長)殿」的尊稱,以尋求信長對幕府的支持。 織田信長將義昭扶上將軍之位後,其對尾張、美濃的領有權得到認可,並被封為和泉守護,得到昔日三好氏的領地和泉國(繁榮的界港在該國轄下)。同時義昭對其他武將論功行賞,池田勝正被任命為攝津守護,畠山高政、三好義繼各被封為河內半國守護。織田信長被任命為管領代,其地位與管領相當;此後義昭又向朝廷推薦信長擔任副將軍,但被信長推辭,改封彈正忠。 然而義昭一心想要復興室町幕府,而織田信長則有用武力統一天下的野心,因此兩者最終關係逐漸惡化。織田信長為限制將軍的權力,於永祿十二年(1569年)正月頒布《殿中御掟》9條,並脅迫義昭承認。這使幕府將軍的行動受到很大的制約。翌年正月又追加5條,信長更進一步限制幕府的權力。元龜元年(1570年)4月,織田信長討伐越前大名朝倉義景,但就在此時織田氏的同盟淺井長政與信長反目,導致信長大敗。早已對信長的專橫十分不滿的義昭趁機與信長決裂,元龜二年(1571年)左右向上杉輝虎(謙信)、毛利輝元、本願寺顯如、武田信玄、六角義賢等大名發出御內書,下令討伐信長。這些大名加上與信長敵對的朝倉義景、淺井長政、松永久秀、三好義繼以及三好三人眾、延曆寺僧兵等勢力,形成信長包圍網。 元龜三年(1572年)10月,信長向義昭送達17條意見狀,批評義昭的一些舉措。此時東方的武田信玄率兵進軍京都,12月22日在三方原之戰中擊破織田信長的盟友德川家康,信長陷入窘境。義昭趁機任命寵臣山岡景友(六角義賢的重臣以及幕府的奉公眾)為山城半國守護。翌年正月,信長欲遣子入質於義昭以求和解,但遭義昭的拒絕。義昭在近江的今堅田城和石山城為幕府軍的據點,舉起反對信長的旗幟,但數日後兩城皆被攻陷。同時東方戰線的武田信玄病重,武田軍於4月開始撤回本國,12日信玄逝世。 織田信長攻入京都,在知恩院布開陣勢。幕臣細川藤孝、荒木村重等人見大勢已去,投降信長。但是不知道武田信玄已經去世的義昭據守自己的居城烏丸中御門第繼續抵抗。信長再次提出和解,但義昭認為信長沒有信用,斷然拒絕。織田信長威脅幕臣以及義昭的支持者,聲稱若不投降,自己將會攻打上京並將此整個地區焚為焦土。同時包圍義昭的居城烏丸中御門第。另一方面,織田信長尋求朝廷的支持,4月5日,在正親町天皇敕命下,雙方講和。 但是義昭於7月3日宣布背棄和約,在三淵藤英、伊勢貞興以及公家奉公眾的簇擁下逃往南山城的要害槙島城(山城國的守護所)舉兵。槙島城建在宇治川和巨椋池水系交叉處的島上,是義昭近臣真木島昭光的居城,為兵家必爭之地。烏丸中御門第的守軍於3日投降信長,信長率7萬大軍包圍槙島城。7月18日織田軍開始攻城,槙島城的建築被破壞,義昭以自己的兒子義尋為人質,向織田信長投降。 被逐出京都 織田信長將義昭逐出京都,並將足利將軍家在山城、丹波、近江、若狹等地的御料所據為己有。織田信長以天下人(掌握日本實權的人)自居,挾持幕府將軍和天皇支配京都周圍的地區,並充當各地大名紛爭的調停人。放逐將軍後,織田信長保持天下人的地位,現在日本的歷史教科書一般認為此時室町幕府滅亡。但事實上根據《公卿補任》的記載,此後的義昭依然長期保持著征夷大將軍的職位。天正元年(1573年)8月,織田信長滅亡朝倉氏,9月滅亡淺井氏,信長包圍網完全瓦解。織田信長於次年任命塙直政為山城、大和守護,鞏固織田氏在畿內的支配權。 義昭雖被放逐後,退往枇杷庄(今京都府城陽市),在本願寺顯如的介紹下前往河內國三好義繼的處點若江城,以羽柴秀吉擔任護衛。義昭仍開設幕政,以伊勢氏、高氏、一色氏、上野氏、細川氏、大館氏、飯尾氏、松田氏、大草氏等勢力為幕府的中樞,組成奉公眾和奉行眾,並授予近臣和大名室町幕府中的官職。除近畿周邊的信長勢力圈以外(北陸地方、中國地方、九州地方),義昭依然保持著被流放以前的權威,甚至對京都五山的住持還有任命權。織田信長與三好義繼的關係惡化後,義昭於11月5日移駕到和泉國的界。義昭曾提出要返回京都,但織田信長提出人質的要求,最終交涉決裂。 天正二年(1574年)移駕紀伊國興國寺,又移駕泊城。當時紀伊國是管領畠山氏的轄境,值得一提的是畠山高政的重臣湯川直春的勢力在當時很強大,直春的父親湯川直光擔任河內守護代一職。 天正四年(1576年),義昭移駕到毛利輝元轄下備後國的鞆。鞆是當年足利尊氏接受光嚴上皇追討新田義貞院宣的地方,對於足利將軍家可謂是有淵源的地方。第十代將軍足利義材在此處受到大內氏的支持,從而回到京都。因此這被足利將軍家當作吉祥之地。此後義昭在此地開設流亡幕府,史稱「鞆幕府」。義昭在鞆以備中國的御料所所進獻的年貢,以及足利將軍家任命京都五山住持所獲得的禮錢維持生活,同時收到宗氏、島津氏通過明日貿易獲得的財政收入,近畿、東海以外支持足利將軍家的武家很多。鑒於此,義昭向全國大名下達討伐織田信長的御內書,天正4年甲斐的武田氏、相模的北條氏、越後的上杉氏結為同盟,但收效甚微。 信長的死以及回到京都 天正五年(1577年)上杉謙信在手取川之戰擊破織田軍,但上杉謙信在天正六年(1578年)死去。天正八年(1580年)石山本願寺投降信長,織田氏勢力達到鼎盛。然而天正十年(1582年)明智光秀發動本能寺之變,織田信長及其子信忠皆死去。此時義昭身在備後國的鞆。而明智光秀麾下的家臣,如伊勢貞興、蜷川貞周等,多為昔日室町幕府的幕臣。 義昭趁此好機欲返回京都,尋求毛利輝元的支持;另一方面尋求羽柴秀吉和柴田勝家的支持。毛利氏中親秀吉派的小早川隆景等極力反對送義昭到京都,認為這樣會使羽柴氏和毛利氏之間關係冷淡。但天正十一年(1583年)毛利輝元、柴田勝家、德川家康著手籌備支持義昭上洛。同年,毛利輝元臣服於羽柴秀吉。天正十四年(1586年)羽柴秀吉成為關白太政大臣。此後進入「關白秀吉、將軍義昭」並立的2年時期。在此兩年裡,豐臣秀吉逐漸統一天下。 天正十五年(1587年),豐臣秀吉在九州征伐期間途經備後國沼隈郡的津之郡村,在田邊寺訪問義昭,二人交換太刀。次年薩摩國島津氏歸順秀吉,義昭回到京都,天正十六年(1588年)2月9日與關白豐臣秀吉一起參見正親町天皇,辭去征夷大將軍之職並出家,法號昌山。朝廷給予其准三後的待遇。 晚年 豐臣秀吉將山城國的槙島城給予他當作居城,並給予義昭一萬石的領地。由於義昭是前將軍的緣故,豐臣秀吉才給予他這樣高的待遇。在豐臣秀吉侵略朝鮮之際,義昭率兵200人來到肥前名護屋,參加戰鬥。 晚年與斯波義銀、山名豐國等,成為太閣豐臣秀吉御伽眾的成員,受到太閣的親近。慶長二年(1597年)在大阪死去,年六十一歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD

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