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三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、木下秀吉、斎藤道三、松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田晴信、飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、長尾景虎、長尾顕景、樋口兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、毛利元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友義鎮、龍造寺胤信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義秋、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、戸次鑑連、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、久慈為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、後藤基次、山中幸盛、陶隆房、吉弘統虎、吉弘鎮種、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、石川信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、木下秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、武田盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、三木自綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、細野光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新斎、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠隣、城井正房、大熊朝秀、氏家行広、池田知正、土井利勝、徳山則秀、平田範重、穴山信君、一条兼定、堀秀政、百々安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、佐竹義広、三善一守、板部岡江雪斎、岡本顕逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、浅野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重経、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、三木嗣頼、和田惟政、新発田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大内定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長増、安東実季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間頼照、酒井家次、宇都宮朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪頼忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色満信、真壁氏幹、本庄実乃、大田原晴清、中村春続、朝比奈信置、安藤守就、山名豊国、鵜殿長持
五十位人物:佐竹義宣、長野業正、太田三楽齋 / 太田資正、北條氏政、可児吉長、北條綱成、風魔小太郎、武田信繁、高阪昌信、內藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生石舟齋 / 柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安國寺恵瓊、黑田長政、宇喜多秀家....
五百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名止々斎、佐竹義重、上杉憲政、結城晴朝、里見義堯、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角承禎、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、足利義輝、足利義昭、福島正則、加藤清正、大谷吉継、島清興、竹中重治、井伊直政、榊原康政、片倉景綱、伊達成実、津軽為信、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、蒲生氏郷、鈴木重秀、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花道雪、立花宗茂、高橋紹運、鍋島直茂、細川幽斎、細川忠興、浅井亮政、林羅山、土井利勝、酒井忠世、青山忠俊、足利義明、稲葉貞通、真田幸昌、小幡景憲、蘆名盛舜、尼子経久、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、羽柴秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、津軽為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、羽柴秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路頼綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、分部光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、、
深水長智 Fukami Nagatomo(1532年-1590年) 相良氏の家臣。歌人。三河守。剃髪して深水宗方(そうほう)(三河入道)とも言う。祖は相良氏4代・相良長氏の孫である長陸。父は深水頼金、子は深水摂津介。養子は深水頼蔵。 深水氏は代々、相良氏の奉行職(執政)を務める家柄であったが、この長智は特に奉行としての手腕に長けた名臣として名高い。教養人だった最初の主君相良晴広の影響で、和歌や連歌にも長じ、元亀3年(1572年)に主君・相良義陽の側室である了信尼が難産であると聞き、長智が「露零(おち)ちて その葉はかろき 小松原」と発句すると安産になったとの逸話がある。 天正9年(1581年)に義陽が戦死すると、義陽の遺児・忠房を犬童頼安と擁立かつ補佐、また義陽の弟である相良頼貞が家督を奪わんと挙兵した際もこの問題の収拾に努めた。また、島津義久の病気養生の願掛けの為に一万の発句をするなどしており、その後の島津氏との関係を良好に保つことができたのも、この長智の功績である。 豊臣秀吉の九州征伐が始まると島津氏と共に闘うが、義久が八代から退去すると、人吉まで退去していた長智は、忠房の後を継いだ相良頼房がこのとき日向国にいた為、その弟である長誠を連れて八代城に出向き秀吉と会見、相良氏の存続について交渉しそれを承認させている。このとき、秀吉は長智の交渉能力や連歌の才を大いに気に入り、秀吉の直轄領である水俣地方の代官を任された。秀雅百人一首(弘化5年刊)には、”空蝉の羽より軽き身を持ちて 筑紫よしとは如何にいうべき”という彼の歌がある。 天正15年(1587年)に肥後国人一揆が勃発した際に頼房が、秀吉の命で佐々成政に助勢しようとした島津義弘、伊集院忠棟の軍を、自分を攻めてくるものと勘違いした成政の依頼で入国を阻むという失態を犯した際も、長智は大坂へ上洛し秀吉に陳謝、許しを得ることに成功している。 天正18年(1590年)に病没。法名は「権大僧都法印宗方」。墓は深水長命寺(現:相良三十三観音16番札所 深水観音)にあり、現在は歯の神として信仰されている。 嫡子の摂津介が既に戦死していたため、長智の弟・深水織部の子である頼蔵が跡を継いだ。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E6%B0%B4%E9%95%B7%E6%99%BA
犬童頼兄 Indo Yorimori(1568年-1655年) 永禄11年(1568年)、肥後国南部の大名・相良氏の重臣である犬童頼安の子として誕生した。 はじめは延命院の稚児であったが、父頼安が島津氏との戦いで水俣城を守った際に寺を抜け出して共に籠城したことから、以後は武将として仕えた。 家老深水長智は頼兄の才覚を認めて、死去した嫡子の代わりに自らの後継にしようとしたが、竹下監物ら深水一族により慣例に背くと反対されたため、藩主相良頼房の許しを得て、甥で養子とした深水頼蔵を奉行とし、頼兄をその補佐役とするように主張した。しかし頼房は、頼蔵よりも才気のある頼兄をむしろ信頼して、2人を同格の奉行とすることにした。しかし、これが原因で両者は益々不仲となった。 頼兄は頼房の信頼を得て家老となり、天正20年(1592年)2月1日、相良姓を与えられ、相良兵部少輔頼兄を名乗った。同じく頼蔵にも相良姓が与えられたが、両人の不和は様々な支障を生じるようになっており、頼房もこれを憂慮し朝鮮出兵の際には両人に誓紙を書かせた。同年3月1日からは朝鮮出兵にも副軍師として頼房と頼蔵と共に渡海している。 文禄2年(1593年)、深水一族で頼蔵派である竹下監物とその嫡子らの知行が、太閤検地により真先に召し上げられた際に、監物はこれを頼兄の計略と訝ったため深水一族600人は湯前城に籠城する事態が起きた。これは頼房の命で監物ら数名が切腹して沈静化したが、この頼兄(犬童氏)と頼蔵(深水氏)の対立は明治を迎えるまで打ち続く人吉藩の藩内抗争へと繋がっていくわけである。朝鮮出兵から帰国した頼蔵は、暗殺を恐れて肥後の加藤清正を頼った。実父の織部ほか深水一族も相次いで佐敷に出奔したので、頼兄は家臣の流出を止めるべく一勝地に人をやって捕え、73名の深水一党を斬った。これには庇護者であった加藤家が怒り、豊臣秀吉の惣無事令が禁じる私闘であると訴え出た。しかし頼兄は巧みな弁舌で奉行の石田三成を納得させ、おとがめなしとなった。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは相良氏は西軍につき、伏見城の戦いなどで率先して戦ったが、その後、大垣城にあるとき、9月15日の本戦で西軍が大敗したと知って、徳川家臣井伊直政と内通していた頼兄は、頼房に東軍に寝返るように進言し、同じく内通していた秋月種長・高橋元種兄弟と共に、西軍諸将を謀殺して、相良氏の存続を成し遂げた。これらの功績から頼兄は筆頭家老として国政を任され、人吉藩2万2千石のうち、半分近い8000石を与えられた。 しばらく後、徳川家の時代になったことで、関ヶ原の戦後交渉で恩があり、同じ兵部少輔であった井伊直政をはばかって頼兄は清兵衛尉と官位を改めた。 頼房の晩年は執務全般を頼兄が専断することを許し、すべてを取り仕切るようになっていた。頼房の死後は相良頼寛に仕えたが、まだ若い主君は、藩主を凌ぐ勢力となった清兵衛一派を嫌っては折り合いが悪かった。真偽のほどはわからないが、藩主が市房山詣での途上で頼兄の屋敷に挨拶にきた際に、藩主を暗殺しようとして失敗したという民話も伝えられている。 島原の乱の際は頼寛は参勤で江戸におり、頼兄の息子の相良頼安(内蔵助)と孫である相良頼章(喜兵次)が、藩主名代として出陣した。 寛永17年(1640年)、頼寛が「頼兄は専横の家臣である」と幕臣阿倍正之と渡辺図書助宗綱に相談した。阿部が大老土井利勝に報告したところ、土井は頼兄親子を江戸に呼び寄せて幕臣から訓戒させてはどうかと頼寛に内談したが、頼寛は清兵衛一派の報復を恐れてこれを承知せず、頼兄親子の横暴を長々と書状にしたためて報告した。これを受けて江戸幕府は公儀として対応することになり、頼兄は江戸に召された。この一大事に人吉藩は改易か取り潰しかと騒ぎになり、当時すでに73歳の頼兄は江戸に発った。箱根を越えると武器を取り上げられ、囚人同然の待遇となった。また出立は極秘であったが、国許では頼兄の養子(義子)である田代半兵衛(半兵衛の母の再嫁先が頼兄)が叛乱を起して、百数十人が死傷する騒ぎとなった。 8月11日、藩主頼寛は、家老頼兄が私曲13ヶ条の罪を犯したとしてこれを幕府に訴えた。結局、頼兄は津軽へ流刑に処されたが、徳川家康にも仕えた長年の功績もあって実際的には強制隠居・蟄居であり、頼兄は米300俵30人扶持を与えられ、従者6人(7人とも)と共に弘前城の西方の高屋村に置かれたが、そこで火災が起こったために鏡ヶ池の畔に移り住んだ。なお、現在の青森県弘前市相良町は頼兄の屋敷があったことに由来している。 明暦元年(1655年)、津軽で客死。享年88。法名は天金本然大居士。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E7%AB%A5%E9%A0%BC%E5%85%84
相良義陽 Sagara Yoshihi(1544年-1581年) 相良晴廣的長子、母為上田織部允之女-內城;幼名萬滿丸、通稱四郎太郎、初名賴房,受將軍足利義輝偏諱「義」字,改名義陽。 相良家本為藤原南家乙麻呂流一脈的後裔,以藤原為憲的後裔周賴為遠祖,因世居遠江引佐郡相良莊,故稱為相良氏。後在源平合戰時,相良家屬於平氏一方,所以在源賴朝開創幕府後,相良家被遠放到九州肥後擔任多良木莊的地頭,後一度分成以多良木莊的上相良氏跟人吉莊的下相良氏,在進入戰國時代後下相良氏的相良長續,擊敗上相良氏,一統肥後球磨、八代、葦北三郡。後來十六代當主相良義滋無嗣,遂引一族的上村賴興之子為繼,也就是義陽之父相良晴廣,相良晴廣為相良家的一代英主,在實父上村賴興的輔佐下,不但開通對明朝的貿易,同時沿襲前代大名的法規,更完善地制訂出相良氏法度中後二十一條,同時善待百姓加強民政方面的建樹,鞏固了相良家對南肥後的統治。 天文二十四年(1555年),父親晴廣於八代鷹峰城病故,年僅十二歲的義陽繼為第十八代當主,由祖父上村賴興擔任後見役,弘治二年(1556年)二月,義陽元服,改名義陽,介入鄰近國人眾棲本氏和上津浦氏的爭端,作為棲本氏的援軍出陣,擊退上津浦氏的後援天草氏、志岐氏,成功促成天草氏單方面和棲本氏的和議。同年六月,義陽在祖父上村賴興策劃下奪取了菱刈氏的大隅大口城。翌年,祖父上村賴興病故,義陽也旋即陷入了危機之中,上村賴興之子,也就是義陽的親叔父,上村城主上村賴孝、豐福城主上村賴堅、岡本城主稻留長藏三人欺義陽年少,欲仿效三家分晉之舉分別圖謀相良家所領有的球磨、八代、葦北三郡,甚至外引日向真幸院的北原氏及薩摩菱刈氏為援。但是因為上村氏久於相良家中獨佔權柄,和相良家的譜代家臣時有摩擦,因此雙方一直暗中互相監視,而此次上村氏的圖謀也正是因為如此走漏,使義陽的迅速反制的寬裕時間,以東長兄、丸目賴美、深水長智三奉行起兵鎮壓,於同年六月十日自八代領兵至東山城對豐福城進行急襲,上村賴堅兵敗逃入領內的福善寺,但仍遭相良軍包圍被逼自害。 七月,義陽出兵攻落上村氏家臣上村外記位於肥薩國線上境的久木野城,並擊破來援的菱刈氏,同時率軍包圍上村城、岡本城。八月,為援助上村賴孝,菱刈重住領援軍再度助陣,卻被義陽擊潰,中斷了上村兄弟與薩摩間的連接,上村賴孝 、稻留長藏兵敗逃入日向、薩摩,最後雖然被允許歸參,但是義陽仍在永祿十年(1567年)時以深水長則將之攻討殺害,並且迫脅賴孝之子上村賴辰自盡。 永祿二年(1559年),擊潰上村氏時的功臣東長兄、丸目賴美對立,家中頓時分成兩派,最後更演變成一場激烈的內戰,東長兄在義陽支持下取的大義名分,而丸目賴美則與親弟湯前城主東直政聯合,雙方於獺野原之戰中一決勝敗。最後,東長兄取得勝利,東直政戰死,丸目賴美逃往日向投靠伊東氏。翌年,在家中權臣自相殘殺完畢後,相義陽出面收拾殘局,頒佈領內政令約束一門、家臣,對須惠、深田、木上、犬童等上村國人眾賜褒狀,同時迎協力六百騎參戰的日向米良氏中的米良半右衛門為客將,重新加強相良家對球磨、八代、葦北三郡的支配,並且將合議制逐步轉變為中央集權。 永祿三年(1560年),義陽迎娶日向大名伊東義祐之女千代鞠為妻,同時制霸於薩摩的島津義久為了在攻打大隅同時避免與肥後方面的衝突,向義陽送去表達親交之意的起請文,後於有馬、大村兩家攻打棲本氏時,義陽為鞏固自家在肥後的地位,與天草氏聯合派遣援軍,並促使棲本與上津浦兩家休兵。永祿五年(1562年),義陽作為伊東義祐的援軍,參加攻打日向真幸院的北原氏,伺機瓜分原屬於北原氏的領地,同時也和鄰近的阿蘇家執政甲斐宗運親近結交,兩人在白木妙見社交換焚燒誓紙結義。永祿七年(1564年),義陽受賜將軍足利義輝的偏諱「義」字,改名為義陽,同時敘任從四位下修理大夫的官職,並且仲介天草氏和上津浦氏和談,當時義陽年二十一歲,也讓相良家達到全盛時代,同時島津義久也在成功威脅真幸院北原氏臣屬,撕破與相良家之間的關係,頻頻出兵與球磨、葦北的國境。 永祿十年(1567年),島津義久以重臣新納忠元北上配置於市山城攻打大口城,義陽遂與菱刈氏結合進行固守,在赤池長任、岡本賴氏等家臣勇將的活躍下於初栗合戰中成功擊退島津軍。永祿十二年(1569年),島津義久遣其弟家久再度攻打大口城,家久巧用計謀將相良軍誘出城外,後於砥上設置伏兵,一戰擊破相良軍,奪下大口城。 為了防備島津家的侵略,義陽不但進一步透過甲斐宗運加強與阿蘇家盟約,同時聯合姻親日向伊東氏,並經由岳父義祐和佔據豐前、豐後的大友家結盟。元龜三年(1572年)五月,義陽與岳父伊東義祐聯合出兵向島津義弘的飯野城進攻,伊東祐安率兵三千從三山城出發,義陽同時率領援軍出陣,意圖一鼓作氣攻破島津家。不料,事與願違,伊東軍在木崎原之戰中大敗,島津義弘以十分之一的兵力擊破,所幸身在後軍的義陽及時見機撤回球磨方保全全軍,然而昔日制霸日向一國的伊東家卻從此式微,一蹶不振,大批家臣倒戈島津家,引發「伊東崩」,島津義久於同年佔領日向全境,統合薩摩、大隅、日向三國,也給領南肥後三郡的義陽帶來了更大的壓力。 天正六年(1578年),大友宗麟慘敗於島津氏之手,勢力亦告衰退,肥後變成了繼大友家後新崛起的肥前龍造寺隆信和薩摩島津義久的競食之地,本來大友家老底仍在,若是有其共同分擔島津氏的兵力,義陽仍然可以爭取到喘息空間,但是面臨龍造寺家侵攻的大友宗麟最後選擇放棄日向、肥後,透過織田信長向島津家提出和議,島津義久亦鑑當前大敵已變成龍造寺隆信,遂同意之,同時也開始加強對相良、阿蘇的攻略,自葦北、宇土方面出兵攻入相良領,破壞原來相良、阿蘇犄角相守的形勢。 天正九年(1581年),島津義久起兵越過肥薩國境攻打葦北水俁城,由於義陽早已為此役準備好長期戰,並且配置家中猛將犬童賴安率七百城兵鎮於此地,頑強抗戰多次來犯的島津軍,最後義久轉換策略以包圍取代猛攻,以長期戰的方式跟相良家對耗。面對臨境的島津大軍,義陽深知實力已相差懸殊,相良家大勢已去,為保全家名轉向宿敵島津家乞和,割讓葦北一郡,讓渡水、湯浦、津奈木、佐敷、市野瀨五城,並交出相良忠房、長每二子當作人質,但是義久考量到相良家屈辱的心情,為顯示己方的大度,將人質送還相良家,義陽也在臣服島津家後也發揮其影響力仲介鄰近國人名和氏投入島津家麾下。 義陽降伏島津家同年,島津義久便下令要求義陽攻擊往日盟友阿蘇家,義陽和阿蘇氏筆頭家老甲斐宗運素來交誼深厚,義久此策很明顯是要本為盟交的相良氏與阿蘇氏彼此消耗實力,不論勝敗,島津家都是得利的漁翁。相良勝,可伺機併吞阿蘇;阿蘇勝,可削弱相良氏在肥後的實力方便日後島津家統治當地。同年十二月,義陽統領八百軍勢自八代城出發,聯合名和氏的援軍翻越了邊境姿婆神卡,侵入益城郡攻打山崎村,擊破當地守將伊津野山城守的部隊,將其討殺。之後義陽將本陣設於村內的響野原,並派遣東左京進擔任先鋒率領別動隊,接連攻下阿蘇氏支城甲佐城和堅志田城,斬殺守將西村金吾,並進而攻取赤峰尾城、豐內城,持續往甲斐宗運親鎮的御船城進襲,但是義陽對自己反水攻擊盟友的行徑並不樂意,甚至多次口出「也許會戰死在此」之類萌生死意的言語。 十二月二日,天未明,由於前一天下雨起霧,甲斐宗運善用天時隱密行軍對相良軍本陣發起奇襲,以洋槍隊為先陣迂迴至相良陣的另一側鳴槍射擊驚醒仍在夢鄉的相良軍,同時領兩百騎兵殺入陣中,趁相良軍分不清方向產生恐慌心理時兩造夾擊,營造出四面八方皆有來敵的態勢,導致相良軍混亂全潰,同時甲斐宗運也利用對義陽佔據姿婆神卡不滿的成願寺、江林寺、海上庵僧兵衝擊義陽本營。大亂之中,義陽身邊自犬童長門以下十五名近眾討死,自大將以下共三百餘人陣亡,全軍潰散,敗回八代。義陽戰死陣中,享年三十八歲,法名玉井院越江蓮芳。 在義陽戰死後,長子忠房隨之急病過世,遂由次子長每繼位,家臣深水長智及犬童賴安分別從文武方面的輔佐,在豐臣秀吉征伐九州時,在深水長智的斡旋下獲得人吉兩萬石的安堵。之後在關原之戰時雖然先屬於西軍,後又倒戈至東軍,領地不變。明治維新後,位列子爵。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/73371920/1
相良賴房 Sagara Yorifusa(1574年-1636年) 相良義陽的次子、母為豐永長英之女.了信尼、正室為秋月種實之女;幼名長壽丸,通稱四郎次郎,晚年改名為長每。 天正九年(1581年)、父親義陽在響野原之戰戰死,長兄.相良忠房繼任家督,賴房也做為島津氏人質被送往薩摩國。但是忠房突然病逝,天正十三年(1585年)、由弟弟藤千代(相良長誠)代替為人質,年僅12歲便繼承家督之位。此後仍從屬於島津氏,配合對大友氏的作戰。 天正十四年(1586年)、豐臣秀吉開始征討九州,經家臣深水長智與秀吉的交涉而保全了領地。但是翌年,因為佐佐成政的失政,肥後國發生國人一揆,秀吉命令島津義弘、伊集院忠棟出兵協助成政平定一揆,但成政卻誤解他們是要來攻打自己,而請求賴房阻止義弘等人進入,此舉也觸怒秀吉。經由深水長智赴大阪向秀吉謝罪並和島津氏和解後,相良氏免除被沒收封地的下場,繼續得以小大名身分存續下去。 參與征討朝鮮的文祿之役、慶長之役,以加藤清正旗下一隊立下不少戰功,獲得秀吉的感謝狀。 慶長五年(1600年)關原之戰,起初加入西軍、曾參與伏見城之戰。但在9月15日西軍瓦解之後,接受家臣犬童賴兄的進言成為東軍的內應,殺害大垣城中的垣見家純等人後投降。因此戰後得以保全領地,並成為人吉藩2萬石的初代藩主。 此後盡心整備藩法、藩政,犬童賴兄因獻策有功而委以藩政實權,但也常因家臣團之間的對立而苦惱。 寬永十三年(1636年)6月13日逝世,年63歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E8%B3%B4%E6%88%BF

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