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三百位人物:三好清海、三好伊三、肝付良兼、由利鎌之助、肝付兼亮、肝付兼護、穴山小助、島津豊久、伊集院忠倉、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎、山浦国清、高梨政頼、屋代政国、屋代勝永、須田満親、須田長義、蘆田信蕃、小笠原長時、小笠原秀政、犬甘政徳、犬甘久知、二木重吉、溝口貞泰、木曾義利、諏訪頼忠、保科正俊、三木顕綱、三木国綱、長尾晴景、上杉景信、色部勝長、色部顕長、色部長実、河田長親、北条景広、本庄慶秀、安田能元、甘粕景継、鬼小島弥太郎、水原親憲
飯尾定宗、土岐頼芸、内ヶ島雅氏、明叔慶浚、浅井亮親、多賀貞能、足利義晴、朽木晴綱、三淵晴員、細川藤賢、武田元光、武田信豊、粟屋光若、赤井時家、酒井豊数、下間頼慶、本泉寺蓮悟、富樫晴貞、十市遠忠、越智家増、柳生家厳、筒井順興、筒井順政、湯川直光、畠山稙長、畠山政国、衣笠範景
宇喜多直家 Ukita Naoie(1529年-1582年) 宇喜多興家的長子、母為阿部善定之女、正室為中山信正之女、繼室為圓融院;幼名八郎、別名三郎右衛門尉、通稱和泉守、渾名謀聖。 直家幼年過著顛沛流離的生活,六歲時,砥石城被高取城主島村豐後守攻擊,不久被攻陷,祖父宇喜多能家自殺,直家與父母逃到備後。得到當地富商阿部善定的幫助庇護,並娶其女為側室。天文五年(1536年),父親興家病死,直家與生母離開阿部家投靠伯母。由於不斷的被左鄰右捨嘲笑欺凌,直家常立志重振宇喜多家,為祖父、父親報仇。 天文十二年(1543),十四歲的直家出仕天神山城主浦上宗景,同年首次出陣對戰播磨的赤松政祐,立下戰功,之後屢立戰功,於天文十三年(1544年)元服,並受賞乙子村300貫俸,正式改名為宇喜多三郎左衛門直家。 元服後的直家,立刻立下重大功勳,把經常出沒掠奪民家的海賊打敗,宗景大喜,加封直家3000石俸給。直家頓時名重一時,能家、興家時代的舊臣不斷來投,而領內的士兵也因而增加,但也因此做成糧食不足的問題。為此,直家帶領戶川秀安、岡利勝等家臣下田耕作,並且節衣縮食,生活比較困苦,但直家的親善、勤奮,使家臣無不佩服忠貞,十分團結,乙子城的情況也慢慢好轉。 天文十四年(1545年),直家奉命攻打曾在砥石城之戰作為島村內應的同族浮田大和,封為砥石城主。直家接命出戰勇猛,但一直未能攻破,直到宗景的援軍助陣下,終攻下砥石城,棄城的浮田被直家追至備中討死,其首級被掛於乙子城上。再下戰功的直家受封奈良部山城,天文二十年(1551年),直家在宗景的撮合下迎娶沼城城主中山備中守信正之女。但由於中山備中是島村之甥,直家想藉聯姻誅滅中山,他利用親密的關係得知中山與浦上政宗謀反的消息,直家立刻鼓動宗景討伐,永祿二年(1559年),直家奉命出戰沼城,並迅速的奇襲中山,再誘殺島村豐後守,直家之妻得知父親被殺後出家,但不久「病死」。 島村及中山的討死,標誌著直家報祖父之仇的成功,後獲宗景封得兩人的大半領地—由砥石城到奈良部山城再得大半的邑久、上道二郡,先後只用了11年時間,加上直家再次利用假婚陰謀,奪取浦上家臣後藤美作的領地。直家的勢力與主家浦上已是均等,不久直家漸脫離主家自立。 自立後的直家,立刻開始下一步行動以光大宇喜多家,永祿三年(1560年)直家計劃佔領邑久、上道二郡的全部領地,先攻打松田氏,並開始了龍之口城攻略,直家鑑於多次進攻都未能成功,就利用假放下臣岡清三郎到龍之口城主最所元常身邊,待得其寵信後,於次年(1561)斬殺元常,龍之口城也隨即陷落,直家終得上道郡西部的控制權。 直家遂再指向松田家,趁松田出兵協助尼子時大肆掠奪了松田家領地,終迫使松田與浦上家聯姻講和。之後,直家出戰三村氏,永祿八年(1565年),三村家親攻打浦上家,直家得知後派宇喜多職家出援打敗三村;翌年三村再次侵入美作,直家派後藤又次郎及喜三郎兄弟用鐵炮暗殺家親,三村旋即敗潰。雖三村於往後不斷進攻,但直家於最關鍵的一戰、永祿十年(1567年)的明禪寺城合戰中,以五千人打敗三村元親率領的兩萬大軍,直家因此戰名震備前,也確立了宇喜多在備前的地位,三村氏自此戰後敗落。 直家開始揮軍備中,先後攻下佐井田、金川城,於永祿十一年(1568年)平定大半備中、美作西。但此時,直家要面對正崛起的毛利元就,永祿十二年(1569年),毛利聯合三村進攻備中,直家雖屢屢受挫,但最後因其他備中大名支持而打敗毛利三村聯軍。同年夏天,直家聯同尼子勝久反攻毛利高田城,派內應火燒高田城,旋即陷落。此後數年,宇喜多與毛利多次交攻,關係緊張,直到元龜三年(1572年),將軍足利義昭及織田信長出面調解而稍為緩和。 不久,隨著織田包圍網的形成,義昭與信長的關係惡化,毛利也與信長交惡,大多數三備、美作的大名都倒向信長,但直家卻倒向毛利,從天正二年(1574年)起,毛利、宇喜多聯合攻打三村及三浦氏,擴大其在美作的勢力。天正四年(1576年),直家進攻主家浦上,翌年攻陷天神山城及富田松山城,趕走宗景,宇喜多家到了最盛期。 但直家於同年遇上了織田家的中國方面軍主大將秀吉,直家多次為秀吉所敗,上月城多次被攻陷又再得。天正六年(1578年),直家向毛利請到援軍50000人,加上本軍15000人,與率領40000萬人的秀吉於高倉山佈陣,但因播磨三木城主別所長治謀反而令秀吉不得不撤離平亂,上月城再入直家之手,遂連陷周匝城、飯岡鷲山城等。 但直家深深的明白織田的力量,遂藉與秀吉交友進而與信長聯絡,但卻因此觸怒毛利氏,受到猛烈攻打,雖時有勝利但對情況無大幫助,後得織田勢的協助而稍為穩定。 天正九年(1581年)二月十四日,當一直抱病的直家把長子八郎(宇喜多秀家)托付予秀吉後,在岡山城病逝,結束了其陰謀狡猾的一生,年五十三歲。 出處 http://www.se-n-go-ku.org/category/%E5%A5%BD%E6%96%87%E5%88%86%E4%BA%AB/%E4%B8%AD%E5%9C%8B%E5%9C%B0%E5%8D%80/
尼子晴久 Amago Haruhisa(1514年-1561年) 尼子政久的次子、母為山名幸松之女、正室為尼子國久之女、繼室不明;幼名三郎四郎,初名詮久,受將軍足利義晴偏諱「晴」字,改名晴久。 父親政久為尼子經久長子,於磨石城攻城中意外死於亂箭之下。因此,祖父經久便屬意三子興久繼承尼子家。結果,為人貪婪的興久得罪尼子家重臣龜井秀綱,在秀綱的進讒之下,經久與興久父子反目。享祿五年(1532年),興久起兵企圖消滅其父,自立為大名,最終兵敗身死。 在此內亂之後,尼子氏勢力大減。備後、安藝、石見等臣服領地先後掀起叛亂。在平叛過程中,晴久勇略無雙,於是年近八旬的祖父經久於天文六年(1537年)將家督之位傳給時年23歲的晴久,自己則退隱幕後。但尼子家災難的種子就此埋下。 初即位,晴久便四面征伐,先從大內義隆手中奪回石見的銀礦,又侵入屬於大內氏的播磨國,放逐播磨守護赤松政村。沉浸在勝利中的晴久志得意滿,於天文八年(1539年)又準備討伐重新倒向周防大內氏的安藝國毛利元就。晴久的叔祖尼子久幸感到不妥,便告知當時已重病纏身的經久。面對祖父的責問,晴久只回一句:「臆病野洲(野洲乃尼子久幸法號)!」就讓祖父啞口無言。 天文九年(1540年),以尼子氏旁支新宮黨尼子國久父子統帥的3000鐵騎為前鋒,晴久出兵肉戶氏的吉田城,不料初戰不利。一向只勇於前進而恥於後退的晴久大怒,在斥責其叔父尼子國久後,於天文十年(1541年),親統久幸、國久等尼子氏親族,徵發出雲、石見、伯耆、因幡、美作、備中六國三萬精銳,全力進攻作為肉戶氏後盾的毛利元就。初始戰況順利,一路兵抵毛利氏的主城郡山城下。但風雲突變,在大內義隆所派的由陶晴賢率領的1萬援軍的幫助下,毛利元就大破尼子軍,陶晴賢甚至突入晴久本陣。晴久落荒而逃,斷後的尼子久幸戰死。遭此慘敗,尼子氏一蹶不振,而重病中的經久聞聽此事後,於11月30日病逝。 翌年,大內義隆在陶晴賢的鼓動下親征出雲。由於尼子氏成功地分化尾隨大內氏的其他地方豪強,如三澤為清、吉川興經、三刀屋久扶、本城常光,尼子氏最終大破大內軍,成功轉危為安,暫時得以喘息。晴久往後四出征伐,勸降本來獨立性極高的出雲大社宮司千家氏、北島氏把杵築門前町納入支配,並打得因幡山名家從屬,在爭取備後國人眾時打退毛利軍的兒玉就忠跟福原貞俊,然後又勸降美作的三浦氏將勢力延伸到美作,又把勢力伸進備前獲得松田氏跟浦上政宗的臣屬,又勸降備後北部的江田氏,倒也頗有昔日的威勢。 天文二十年(1551年)周防大內氏內訌,陶晴賢謀反,大內義隆自殺後,天文二十一年(1552年),足利幕府封晴久為山陰山陽兩道八國守護。尼子家彷彿又擁有當年經久時代的地位。 所謂新宮黨,是指由叔父尼子國久與其子尼子誠久、尼子豐久、尼子敬久等統帥的尼子氏精銳部隊。由於國久的居城在尼子氏本城月山富田城北之新宮谷,故稱為新宮黨。這支戰力強悍的軍隊,是尼子氏攻城掠地的最大依仗。但隨著功勛日增,國久與其子誠久日漸驕橫,逐漸對晴久無臣下之禮。晴久本就對其頗為忌憚。加上毛利元就趁機用間,散佈謠言,聲稱國久父子外結吉川氏,企圖謀反。於是晴久準備痛下殺手(此事並無證據)。 天文二十三年(1554年)11月1日,晴久召國久與誠久前來月山富田城覲見。然後,在前往覲見途中佈置伏兵,以謀反之名將兩人殺害。接著又將新宮黨內國久的殘餘勢力翦除一空,改由自己的親子氏久統領新宮黨。這一事件後,尼子氏內再無異己,將獨立極高的出雲正式納入直轄。值得一提的是,多年後在山中幸盛幫助下成功復興尼子家的尼子勝久,正是尼子國久之孫,在當年的新宮黨事件中逃脫並且進入京都,這也不得不說是一種諷刺吧。 在內政方面,晴久以西出雲的港口為中心建立跟朝鮮、中國的對外貿易並與若狹商人合作,讓尼子家的軍事行動有充分的資金為後盾。 嚴島合戰後,晴久與毛利元就爭奪石見銀山,在忍原、降露阪兩戰中擊退毛利軍,確保銀山支配權。 永祿四年(1561年)病逝於月山富田城,年四十七歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/89366.htm
明石景親 Akashi Kagechika(生年不詳-没年不詳) 備前国で浦上氏の家臣として浦上則宗の代から仕える備前明石氏の出身。父の名は源三郎景憲であるとも言われるが確証は得られておらず今のところは不明である。 天文年間末からの浦上政宗と浦上宗景兄弟の分裂において『備前軍記』では終始宗景に味方した股肱の臣として挙げられており、以後宗景に重臣として仕える。永禄10年(1567年)の明善寺合戦では浦上方として宇喜多直家の援軍として駆けつけ勝利に貢献したという。 永禄11年(1568年)6月1日には備前の片上と浦伊部(いずれも現在の岡山県備前市内)の間で起こった境界争いの仲介を大田原長時・服部久家・日笠頼房・岡本氏秀・延原景能と行雄の6人が行っている。永禄12年(1569年)には10月には美作国で毛利氏に奪われた高田城の奪還を狙う三浦貞広を岡本・長船・岡らと共に支援して高田城代香川広景を攻撃した。 天正2年(1574年)から浦上宗景と宇喜多直家の対立が激化し、天神山城の戦いが開戦した際には宗景を支持し、情勢不利となっても宗景とともに天神山城に籠り交戦していたが、やがて抗い切れないと悟ると宗景を見限り天神山城に火を放った上で城内の一角を占拠し天神山城陥落のきっかけを作った。この時、行雄の裏切りが天神山陥落に絡んだことは毛利氏の記録でも確認できる。 浦上氏滅亡後は浦上時代の所領をそのまま認められたが、宇喜多氏の老臣の列には加えられず「客分」として行雄は迎え入れられた。天正6年(1578年)の第二次上月城の戦いでは攻城側の後巻として八幡城に布陣していたが、この時上月城の救援に来ていた羽柴秀吉の家臣の竹中重治に密かに通じるなど不穏な行動を取っていたものの、攻城側優位のこの戦いにおいて実際に行動は起こしていない。 天正7年(1579年)に直家が毛利氏を裏切って織田信長に通じた際には毛利との戦争に備えて備前と美作の国境付近の白石城の改修に当たった。天正8年(1580年)3月には宇喜多から毛利へと寝返った竹内為能の籠る高城攻囲に参加。この攻城戦の際、蕨尾山に陣取った行雄の軍勢が籠城兵の夜討ちによる反撃を受け平尾弾正忠が討ち取られるなどの被害を出したが宇喜多軍は高城の攻略に成功し為能を追放した。高城陥落後の同年9月には篠向城に移って城の改修をした。 天正10年(1582年)には備中高松城の戦いに直家の嫡子八郎(後の宇喜多秀家)を奉じて羽柴秀吉の元に参陣し賞賛された。 天正11年(1583年)、羽柴秀吉と毛利氏との話し合いで決められた宇喜多・毛利両氏の領地の境界で宇喜多方に組み込まれた事に不満を示し、交戦の構えを見せた娘婿である虎倉城主伊賀家久に対して城を開城し毛利領へと退去するよう説得し、家久を虎倉より退去させる事に一役買った。天正14年(1586年)に従五位下伊予守叙任、以後の書状での名乗りは明石伊予守行雄となる。 天正16年(1586年)9月8日には上洛した毛利輝元の屋敷に宇喜多秀家の使者として参上し宇喜多屋敷へと輝元を招待したいという旨を伝えた。文禄3年(1594年)に行雄は娘婿伊賀家久の遺児である才法師丸の行く末を心配して、当時の家久の主君であった小早川秀秋の家老である山口宗永に書状を送って「似合いの御用」を仰せつけて欲しいと頼んだ。また、この書状では「老足の儀」により参上は出来ないので御用は掃部助(全登)に仰せつけて欲しいとも頼んでいるので、この時既に老衰が始まっており明石氏の当主も掃部助に移譲されていたものと見られる。 文禄3年(1594年)付けの書状が行雄の遺した最後の書状であるが、没年については不明である。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E8%A1%8C%E9%9B%84
浦上宗景 Uragami Munekage(生年不明-卒年不明) 享祿四年(1531年)、父親村宗在攝津國與細川晴元聯合軍的天王寺一戰中戰死後,兄長政宗以年幼之身繼承了家督之位。但在天文二十年(1551年)、尼子晴久入侵備前國之時,宗景與政宗在對策上有了意見的分歧。此後,兩兄弟各擁山頭,形成兩大權力集團;宗景團結了國中同樣暴露在尼子氏威脅下的國人眾勢力,與傾向尼子氏的哥哥完全對立而分裂了浦上氏。 天文二十三年(1554年)、宗景在天神山城揚旗,並與毛利元就同盟,以對抗和尼子氏站在同一陣線的政宗。宗景在毛利本隊及從屬於毛利氏的備中國大名三村家親親率的「備中眾」等援軍的幫助下,紛紛在各地擊破政宗、尼子聯合軍隊。永祿三年(1560年)左右、將兄長浦上政宗的勢力從備前國東部驅逐出去,完全掌握了備前國的支配權。 但是,和備中國的三村氏相同,在這個時期充其量只是處在毛利氏庇護下的弱小大名,而且內政上也受到毛利氏的介入,很難說是完全掌握權力的戰國大名。此外,三村氏也開始將勢力伸進美作國,兩家因而產生嫌隙。而政宗的勢力雖然已經大幅削弱,但仍存在於備前國,因此宗景的敵人還是很多。 與毛利氏斷交 永祿六年(1563年)5月左右、和政宗和談、斷絕後顧之憂的宗景,和三村家親發生戰爭。同年12月前宣布和毛利氏斷交,開始步上戰國大名之路。 翌年,永祿七年(1564年)、發生政宗和其嫡男清宗為赤松政秀殺害的事件,繼承家業的政宗次子浦上誠宗對此事並未採取任何動作,宗景得以專心和三村氏作戰。經過明善寺之戰等勝利,終於在永祿十年(1567年)時,成功將三村、毛利氏的勢力驅逐出備前國;同年,浦上領家的當主.誠宗也遭其暗殺。翌年,永祿十一年(1568年)、剿滅備前國中為數不多的國人眾松田氏,並將版圖擴展到除瀨戶內海的兒島外,領有備前國全域及美作國東南部,確定了浦上氏在戰國時代的地位。 可是,在此之前的戰爭中立下顯赫戰功的宇喜多直家及其家臣岡氏、長船氏等人,已經成為有獨立傾向的強大勢力。對宗景本身可以說是「在軍事上有著從屬關係的盟友」的勢力,很難說是像大名和家臣那樣的主從關係。因此,宗景在直家領內如水運等重要據點設下很多直轄地、並派官員管理,來限制直家的統治權。此外,浦上氏雖然將勢力擴展到美作國,但直家的封地卻始終限制在西備前國外圍的程度,而美作國仍然交與沼本氏和菅納氏等在地的國人眾治理。在現今、傳聞直家當時已凌駕於主家的論點是有誤的,就算以陪臣(家臣的家臣)水準的俸祿來比較,直家也並未逾矩。然而,直家獲得松田氏舊領的一部分,並在拉攏家臣團上有所建樹,對備前國的影響力也日益增加,這些都成為日後不利於宗景施政的要素。 直家、最初的謀反 永祿十二年(1569年)、赤松義祐和赤松政秀失和。宗景和舊播磨國守護家的赤松義祐、赤松則房及播磨國有力領主小寺政職等人結盟;以出兵援助為名義,吸收了兄長政宗在播磨國的遺領;並為了討伐赤松政秀,率領「備作眾」攻進西播磨。此外,積極支援亟欲復興尼子氏的尼子勝久等反毛利勢力,並和九州的大友宗麟同盟,顯露和毛利氏對抗的態勢。 但是,抵擋不住宗景猛攻的政秀,向同年中順利上洛的將軍足利義昭和織田信長請求援軍。8月到9月、宗景受到信長派遣的池田勝正、別所安治的攻擊;同時,私通信長的宇喜多直家也對宗景掀起反旗,令宗景陷入危境。不過,義昭、織田軍在攻下播磨國數城後很快就撤退了;反而是政秀被浦上軍打到節節敗退,困守在龍野城中。11月、政秀投降,宗景將其領地都收歸在手。而直家眼見形勢不對,也在同年向宗景請罪,重新回歸家中。 解除織田信長威脅的宗景,在翌年的元龜元年(1570年)、入侵備中國南部。此外,派遣援軍前往出雲國幫助尼子勝久;另一方面,還派出分隊向東支援赤松則房,攻擊別所長治的三木城(別所安治於此年過世),在軍事行動上非常活躍。元龜二年(1571年)、經由締結同盟的三好氏篠原長房的協助下,在備前國兒島戰勝毛利軍。同年秋天以後,又在備中國的佐井田城、松島城等地擊退毛利、三村軍隊。但在元龜三年(1572年)、毛利氏和大友宗麟在北九州的競爭暫時告一段落,毛利軍集結東進而來;宗景向足利義昭、織田信長請求調停,謀求和毛利氏的和睦。最初、毛利輝元不肯答應和議;但在10月、毛利氏和浦上氏終於締結和約,雙方歸還城池。 直家、再度的謀反 天正元年(1573年)12月、在信長的斡旋下,與別所長治達成和解;宗景也從信長手中取得備前、播磨、美作三國的朱印狀而被認可擁有上述三國的支配權。於是,宗景得到相當於以前守護的地位,浦上氏的勢力也凌駕於舊主赤松氏之上;浦上氏在宗景一代,其強盛達到了頂點。然而,根據此朱印狀,原先不屬於浦上氏的東播磨領主小寺、別所等人、也形同浦上氏的家臣,這個情形也招來了反感。注意到這點的宇喜多直家,暗中向小寺政職探詢,意圖將浦上政宗之孫久松丸帶往備前。在得到政職的承諾後,久松丸被秘密送進了岡山城。 翌年,天正二年(1574年)3月、擁立久松丸的宇喜多直家再度反叛,宗景的直屬部隊「天神山眾」在備前、美作國各地和宇喜多軍戰鬥。之後宗景也即刻展開外交戰,和備中的三村元親、美作的三浦貞廣等人結盟。此外,也向大友宗麟、三好長治請求援軍,但兩家有各自的敵人要應付而無暇相助。和前次的謀反不同,因為有久松丸的存在、直家在事前施展謀略將沼田氏、菅納氏等美作國人眾及宗景麾下諸將相繼策反,使得宗景陷入苦戰。而且,旁觀的毛利輝元無視於織田信長讓兩家和解的要求,更因為三村氏的反叛,決定支持宇喜多氏打倒浦上氏。天正三年(1575年)6月、毛利軍攻下備中松山城後,三村元親切腹自殺。在經過名為「備中兵亂」的一連串戰事後終於平定三村氏,毛利氏也全力支持直家而將宗景打到走投無路。 接著家中重臣明石景親等人也遭到策反。同年9月、從天神山城宇喜多軍的重重包圍中成功逃離。之後,宗景得到信長派遣的荒木村重支援,奪回了宇喜多端城(所在地不明),之後就以此為居城。 流放後 遭驅逐出天神山城的宗景,家臣並未全部投向直家。宗景以播磨為據點,和坪井氏、馬場氏等舊浦上家臣暗中取得聯繫。他們與一族的浦上秀宗蟄伏在備前國內,等待再起的機會。為了實現復興的夢想,宗景到天正五年(1577年)前曾多次上京拜見信長,但卻得不到積極的支援。結果,得不到信長幫助的宗景只得獨力成事。天正六年(1578年)12月左右、潛伏在備前的秀宗、坪井、馬場等反宇喜多勢力、以幸島(現岡山市水門町附近)為據點紛紛起兵,宗景也率兵前來會合,浦上軍成功收復天神山城。可是在翌年的天正七年(1579年)4月、文獻中記載秀宗和坪井等人退往播磨,可以想見這期間的叛亂已經得到了鎮壓。因此,殘存在備前的浦上派勢力也遭一掃而空,重掌備前國的夢想終究無法達成。失去宇喜多端城的時間則不詳。 關於宗景的晚年並未留下確實的史料,死亡的年代並不明確。《天神山記》中相傳曾應黑田長政邀請前往築前國,於此地出家並在七十~八十多歲時病逝。而宗景的麼子成宗、為元、浦上家臣高取備中守養育成人。備中守在關原之戰戰死後,據說成宗逃往九州,之後再偷偷返回備前定居,延續血脈。《備前浦上氏研究》的作者浦上元,就自稱是成宗的子孫。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%AE%97%E6%99%AF
浦上政宗 Uragami Masamune(1520年?-1564年) 享禄4年(1531年)、父・村宗が摂津天王寺で戦死して、以降家督を相続。この頃まだ幼少の身であった虎満丸は一族の浦上国秀の後見を天文7年(1538年)ごろまで受ける。 当初は父の仇ともいえる赤松政祐とは激しく対立し、西播磨の国衆と結束して抗争を続ける。 しかし天文6年(1537年)に尼子詮久(後の尼子晴久)の山陽道侵攻が始まると政祐と和睦。晴政と共にこれに対するも国衆の離反にあって敗北し、備前国から播磨国への撤退を余儀なくされ、天文8年(1539年)末にはさらに東進してきた尼子勢に播磨からも追われ、政祐を奉じて淡路を経由して和泉国の堺へと脱出する。 その後、天文9年(1540年)初頭ごろになって政祐が将軍足利義晴から偏諱を賜って赤松晴政に改名。同時に虎満丸も元服、晴政から偏諱を賜り「与四郎政宗」を名乗った。 しばらく雌伏の時が続くが詮久が吉田郡山城の戦いの頃に播磨の駐留軍を退くと天文11年(1542年)に幕府の助力を得て晴政と共に播磨に復帰。天文13年(1544年)ころまでに播磨•備前の両国を回復する事に成功した。ここに至るまでの過程で政宗は赤松家臣団を総括的に指揮する立場を占め、これ以降政宗は晴政の筆頭宿老の座に就き、晴政の奉行人と連署で赤松氏の命令を伝える奉書を発給するなどした。また、さらに独自に備前西部の松田氏、税所氏らと縁組し室津の室山城を拠点として備前•播磨での勢力をさらに強め赤松の家臣の枠から抜けていく。 しかし天文20年(1551年)、再び備前へ侵攻してきた尼子晴久との関係をめぐり弟の宗景と意見が分かれる。そこで政宗は尼子晴久、松田元輝と同盟を結び、宗景は毛利元就の援助を得て対立。備前の国衆も政宗に味方する者(浮田国定など)、宗景に味方する者(中山信正など)が現れ備前の覇権を賭けて争う事になる。しかし天神山城や新庄山城などで相次いで敗北。さらに旧主晴政も三石城まで出兵してくるなどし敵に囲まれた政宗は味方の国衆の動きを操ることもままならないまま弘治年間(1555年 - 1557年)の内に備前での勢力を大きく後退させてしまう。 この間にも尼子晴久に度々支援を要請しており、これに際して晴久は自ら約30000余りの軍勢を持って美作国に侵攻した宗景を撃破するも、晴久・政宗にとっても決定打とはならなかった。更には晴久の急死により尼子氏の勢力が後退すると、これらの支援も期待出来ない状況へと追い込まれた。 勢力の弱まった政宗は永禄元年(1558年)になると足利義輝の仲裁で毛利との和睦の道を探る。また、同年中に自身の復権を目指して赤松晴政を廃して子の赤松義祐へと強制的に家督を継がせる事に成功している。しかしながら一方で追放された晴政も娘婿である龍野城主の赤松政秀を頼った事により龍野赤松氏が独立勢力化し新たな火種を産むことにも繋がった。 また永禄6年(1563年)には10年以上に渡り対立していた宗景とも和睦が成立。播磨の黒田職隆と縁組して再起を図る。しかし永禄7年(1564年)1月、室山城にて職隆の娘と息子浦上清宗(小次郎、又は与四郎とも)の婚礼が行われている最中、あるいは婚礼当日の夜に赤松政秀の奇襲を受けて親子ともに戦死した。法名は実巌祐真禅定門。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E6%94%BF%E5%AE%97
赤松政秀 Akamatsu Masahide(生年不詳-1570年) 赤松村秀的長子、母不明、妻為赤松晴政之女;幼名彌三郎、別名宇野下野守、宇野政秀,受赤松晴政偏偉「政」字,名為政秀。 政秀在領內國人眾謀求獨立時,卻一力維護赤松家在播磨的統治。政秀娶晴政之女為妻,並拜領晴政名字中的「政」字。晴政被兒子義佑放逐後,政秀迎入晴政對抗義佑。先前,勢力膨脹的浦上氏也發生危機,浦上村宗的兩個兒子政宗、宗景也各霸一方。 永祿六年(1563年),浦上政宗與宗景和解,政秀於次年正月,率部突襲室津城,討殺政宗父子。 永祿八年(1565年)春,晴政病故,政秀失去和主家義佑對抗的名目,在別所氏的調解下雙方和解。與東面的義佑和解後,政秀出兵攻略西北面的佐用郡,和浦上宗景對峙。 永祿九年(1566年)八月,政秀與流亡中足利義昭的使者會面,並且同意為推戴義昭效力。兩年後,義昭在織田信長的上洛軍扶持下就任征夷大將軍,此時浦上宗景在完成備前領內平定戰後開始入侵西播磨,赤松義祐則借口援助也意圖派兵進入政秀的領地。推測義佑的心理,很可能是擔心政秀取代主家播磨守護的地位而有此行動。政秀無奈之下向足利義昭、織田信長求援。 永祿十二年(1569年)八月,攝津池田勝正與東播磨的別所安治等織田方的勢力出兵援助政秀,政秀率領三千人由龍野城出動,但在姬路被小寺家的黑田孝高奇襲,大敗而歸。 政秀無奈中只有在龍野等待時局變化,同時還要防備浦上宗景的侵略。十一月,以和田惟政、池田勝正、伊丹忠親等攝津勢再度進入播磨,但最終無法救援政秀而被迫撤退。孤立的政秀被迫向浦上宗景乞和, 翌年,正在灰心失意中的政秀被人毒殺,但受何人指使卻是個迷。 出處 http://baike.baidu.com/view/2792973.htm
赤松晴政 Akamatsu Harumasa(1513年?-1565年) 守護代の浦上氏との対立に敗れ、強勢隠居へ追いやられた父の義村から、才松丸(晴政の幼名)は1520年に政敵の浦上氏の拘束下で、わずか8歳という幼少で家督を譲られる。その備前守護代・浦上村宗への再反攻に失敗した父・義村を、翌1521年9月に殺されている。山名氏の侵攻に対抗するため一時的に村宗と手を結んだこともあるが、山名氏の脅威が去ると再び争い、一時は居城の置塩城を追われ美作の新庄山城へ避難を余儀なくされたこともある。 1531年、細川晴元と対立する管領細川高国を擁した村宗が摂津国へ侵攻すると、村宗たちの後詰めとして参戦した政祐(当時の諱)だったが、実は堺公方の足利義維へ密かに質子を送って裏切りを確約していた。同年6月4日、神呪寺に布陣していた政祐が晴元方に内応して高国・村宗軍を背後から攻撃。晴元方からも挟撃された高国・村宗軍を壊滅させ、村宗は戦死。高国も自害へと追い込んだ(大物崩れ)。 これにより、ある程度は実権を回復したものの、村宗の子である浦上政宗や浦上宗景との対立はその後も続いた。さらに1538年から始まった、出雲国から尼子詮久(後の尼子晴久)による侵攻では西播磨の龍野城まで奪われると、晴政の領国は混乱し、一時別所氏を頼って三木城に逃れた。やがて別所氏も尼子氏と通じたため、堺へ逃亡することになる。 1540年から翌年にかけての尼子氏の安芸国遠征失敗(吉田郡山城の戦いで、毛利元就支援の大内義隆方の陶隆房(後の陶晴賢)の軍と会戦した尼子氏が大敗。尼子久幸(経久の弟)が戦死)によって、播磨から尼子氏が撤退。領国の危機は去ったとはいえ、赤松氏の権威失墜までは止まらなかった。なお、将軍足利義晴より「晴」の字を賜り晴政(はるまさ)と改名したのもこの時期である。 1552年には尼子晴久が備前・美作守護職に任ぜられた事で、晴政は守護としての2国の権限を喪失する。残る播磨での主権も政宗に奪われ続けており、1558年には政宗に擁立される嫡子赤松義祐とやむなく対抗する為、娘婿の赤松政秀の居城龍野城に逃れた。政秀の庇護下で義祐・政宗と争った晴政だったが、1565年1月16日に死去した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%99%B4%E6%94%BF
赤松義祐 Akamatsu Yoshisuke(1537年-1576年) 赤松晴政的長子、正室為細川晴元之女?;幼名道祖松丸、通稱次郎、受將軍足利義輝偏諱「義」字,名為義祐。 天文二十三年(1554年),密通三好長慶,和安宅冬康一起攻擊正在播磨國明石城的細川晴元。成年後和父親晴政以連署體制共同執行政務。 永祿元年(1558年)8月,在握有家中實權的浦上政宗擁立下,義祐將父親流放,繼承家督之位而成為赤松氏的當主。遭到流放的晴政前往投靠女婿赤松政秀,以龍野城為根據地和義祐對抗。此外,也一度和兒子則房失和,關係緊張到義祐不得不暫住到別所安治的三木城,不過沒多久兩人就和解,義祐也回到置鹽城。 永祿七年(1564年),發生赤松政秀突襲浦上政宗長男.清宗和黑田職隆女兒的結婚典禮,殺死政宗和清宗父子的事件,家中的動亂仍然持續著。 永祿八年(1565年),因為晴政的病故,使得政秀失去和本家繼續對立的理由而與義祐達成和解。之後,政秀為擴展勢力,獨斷發起軍事行動攻下利神城;還在永祿十年(1567年),和當時正在流浪的足利義昭私下接觸。另一方面,東播磨的有力領主別所安治也開始不受控制。在義祐統治下的赤松氏,已經逐漸失去駕馭周遭領主的力量。 永祿十一年(1568年)9月,在織田信長的協助下,足利義昭就任征夷大將軍,成為室町幕府第15代將軍,赤松政秀也將自己的女兒送到將軍家當侍女服侍義昭。政秀這種無視於本家,擅自和將軍家加深交情的行為觸怒義祐,於是命令御著城主小寺政職前往京都綁架政秀的女兒,並以「無道之仁」的理由彈劾政秀;且催促備前國的浦上宗景發兵,欲聯手將政秀徹底打垮。收到請求的宗景,認為這是一個擴展勢力的好機會,率領備前、美作的國人眾進攻播磨國,威脅政秀的領地。翌年永祿十二年(1569年)2月,政秀女兒得到釋放到達京都,但宗景仍然持續猛攻政秀,難以抵擋的政秀只好向足利義昭請求援軍。 得到救援請求的義昭,命令信長援助政秀。同年8月,以池田勝正為大將的攝津眾、加上別所安治的軍隊,攻進義祐的領地。同一時間,浦上軍因為宇喜多直家的謀反,不得不返回備前國;義祐和小寺聯軍不敵池田、別所聯軍,庄山、高砂城等相繼陷落。形勢一轉,義祐從攻擊方陷入窘境,困守在置鹽城中,忍受著池田、別所聯軍的攻擊。 但是幸運的是,在當時三好氏等勢力仍然安在,織田氏還不能說是已經在畿內站穩腳步的階段;9月,信長將攝津眾召回畿內,別所安治也隨後退兵。之後,義祐立即和織田氏接觸,進行關係的修復;並命則房出兵,和攻擊龍野城的浦上軍相互對峙,以做為向織田氏臣屬的證明。 另一方面,赤松政秀發兵攻打黑田職隆、黑田孝高父子的姬路城,但卻在青山、土器山之戰(永祿十二年(1569年)5月至6月)慘敗。之後在浦上宗景的攻擊下,居城龍野城為浦上軍攻佔,政秀被囚禁並在翌年遭到暗殺。而在掀起反旗的宇喜多直家重新歸順浦上氏後,這一連串的動亂終於平息,義祐也脫離困境。 宗景以救援義祐為名義,出兵攻打龍野城,而與之對峙的則房卻無戰意。11月,池田勝正、和田惟政、伊丹忠親等人急援政秀,但在同月中政秀投降浦上氏,援軍幾乎未曾交戰就又返回畿內;而則房也在浦上軍離開播磨國後,回到置鹽城。 翌年元龜元年(1570年),義祐將家督之位讓與兒子赤松則房。在隱居6年後,天正四年(1576年)過世,年40歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E7%BE%A9%E7%A5%90
黒田職隆 Kuroda Mototaka(1524年-1585年) 大永4年(1524年)、黒田重隆の子として備前の福岡(現在の岡山県瀬戸内市)にて生まれたと伝わる。初名は満隆(みつたか)。妻は小寺氏の養女で明石正風の娘・いわ、後妻または側室として母里氏、神吉氏がいた。 播磨国御着城主の小寺政職に仕え、天文12年(1543年)には政職の敵であった香山重道を討ち取った。それらの功績から天文14年(1545年)、政職の養女を娶って家老に列せられると共に、小寺の姓氏と偏諱(「職」の1字)を与えられて小寺職隆と名乗り(異説あり)、播磨姫路城の城代になった。職隆は百間長屋を建てて貧しい者や下級武士、職人、行商人などを住まわせるなどして、配下に組み入れたり情報収集の場所としていた。 永禄7年(1564年)には、浦上政宗の子・浦上清宗と自分の娘の婚姻を実現させたが、その宴席中に父・重隆のかつての主である赤松政秀の奇襲で浦上親子が殺害され、職隆は政秀と対立したといわれている。永禄10年(1567年)頃、子の孝高(官兵衛・如水)に家督を譲り、姫路城の南東に位置する国府山城(こうやまじょう)に隠居した。 永禄12年(1569年)、かねてより対立していた赤松政秀が、足利義昭を抱える織田信長に属した池田勝正と別所安治の支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んで来た際、迎撃に出るも実弟の井手友氏などを失い危機に陥っていた子・孝高救援のために自身も出馬して勝利に貢献した(青山・土器山の戦い)。 その後、主君の小寺政職は織田氏に与するが、天正6年(1578年)に摂津有岡城主・荒木村重の織田氏に対する謀反に政職も呼応する向きを見せた。孝高は村重を説得するために有岡城に乗り込んだが失敗し、捕縛され牢に入れられた。孝高が幽閉され音信不通になってしまった事で黒田氏は当主不在となったが、この時、孝高の重臣7名が連署で主が不在の間は職隆の命に従う事を誓った書状を職隆に宛てて送っている。こうした要請に応じて職隆は孝高が救出されるまでの間、黒田家当主の座に復帰し、織田氏から離反した小寺氏には与さず織田氏に変わらず味方する姿勢を示した。天正8年(1580年)、荒木村重の謀反鎮圧に伴い小寺政職が逃亡すると、その子・氏職を密かに引き取って養育していたという。その清廉で忠義一徹なところを羽柴秀吉にも賞賛され、後に姫路城の留守居を任された。 天正13年(1585年)8月22日、62歳で死去した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E8%81%B7%E9%9A%86

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