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津軽信建 Tsugaru Nobutake(1574年-1607年) 津軽為信の長男。別名を平太郎、宮内。正室に秋田実季の娘。継室に松前慶広の娘。子に熊千代、弁千代、三男。宮内少輔、宮内大輔、左馬頭。 天正2年(1574年)、陸奥国津軽地方の戦国大名・津軽為信の長男として誕生。烏帽子親は石田三成。 父の命により豊臣秀頼に小姓として仕え、大坂城に勤めるが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにて西軍(石田三成)についた。一方で、父・為信は東軍として関ヶ原方面での本戦(大垣城包囲)に参戦しており、この行動は真田氏や九鬼氏などと同様の「家中二分による生き残り策」とも考えることができる。 関ヶ原の戦い後に蟄居しそのまま病死した、とされることが多いが、戦後も徳川家康と面会したり、御所に参内して官位を授けられたり、国入りして藩政を父に代わって直裁するなど、内外ともに認める為信の正式な後継者としての行動が確認できる。西軍の敗北後、三成の次男・石田重成らを若狭からの蝦夷貿易ルートで津軽へ逃し、信建本人は京・大坂に留まり、津軽家の外交要員として活動していたらしく、朝廷貴族らとの盛んな交流が貴族側の日記に残る(西洞院時慶『時慶卿記』)。父とは別に直臣団を持ち、津軽建広・津軽建友ら側近を軸に藩政に外交に精力的に活動していた。また弟・信枚(為信三男)と同じく、父の命によりキリシタンとなっている。 慶長7年(1602年)、父・為信が誤って、手元に預かっていた孫の熊千代の顔に怪我をさせてしまい、このことで信建は子供を返せと父と対立した。その際、使者に立った家臣・天童某の不手際を責め、一族を処刑した。これに怒った天童一族が信建に反抗して城内で乱闘、信建は命からがら逃げる一幕もあったが、最終的に天童一族は討伐された(天童事件)。なお、この事件により天童方が津軽氏の居城・堀越城の本丸まで易々と突入に成功した事実により、沼田祐光の意見を採用した新城・高岡城(弘前城)への本拠地移転が早まったといわれている。 慶長12年(1607年)、京にて病を発症した。同じ頃津軽にて、同じく病を患った為信が、信枚を伴い京まで見舞いに駆けつける。同年10月13日(2月とも)死去。享年34とされる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E4%BF%A1%E5%BB%BA
津軽信枚 Tsugaru Nobuhira(1586年-1631年) 慶長元年(1596年)、父の命により兄の津軽信建・信堅とともにキリスト教徒となった。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、津軽氏は父・為信が徳川家康方に、兄・信建が石田三成方についたともいわれている(これは親子兄弟が分かれて東西陣営両天秤にかけたともいわれている)。信枚の動向については、ある関ヶ原合戦図の東軍家康本陣には「卍」の旗が描かれており、これが信枚が家康本陣に詰めていたとする一史料とされている。また、戦後数々の親石田・西軍方的な動きなどが不問となり、父や兄を差し置いて、ひとり信枚だけが論功叙任されていること、わずかながらも上野国大館に加増2,000石を受けており、前述の説が真実味を増す。 慶長12年(1607年)、兄や父の相次ぐ死により家督を継承した。家督相続のお礼言上に江戸へ伺候した際、天海に弟子入りする。天台宗に帰依改宗して教義を学び、藩内に天台宗寺院を建立して天海の高弟を迎え布教に尽力した。津軽藩の江戸藩邸は、天海のいる上野寛永寺そばに設けられ、後に津軽家の菩提寺津梁院となる。 ところが慶長13年(1608年)、兄・信建の遺児・熊千代(大熊)を擁する家中一派との、家督を巡る争いが起こる。一時、津軽氏は取り潰しの危機にさらされたが、信枚は江戸幕府に対して親睦策を取り、幕府人脈および幕閣の対立を背景にしてこの争いに勝利し、改易の危機を免れたという。その後、津軽建広ら熊千代派閥の粛清を行った(津軽騒動)。 慶長14年(1609年)には先代より整備が始まっていた高岡城(のち弘前城と城名が変わる)築城の正式許可が下りる。これを受け、5万石に満たない大名としては破格の五層の大天守をも持つ城郭を、着工から1年2ヶ月という早さで慶長16年(1611年)構築し、城下に現在の弘前市に繋がる城下町を整備した。これは、幕府は北辺警備の都合も考慮して大城郭築城を許可したともいわれている。 また天海の推挽により、慶長18年(1613年)に徳川家康の養女・満天姫(再嫁。前夫は福島正之)を妻に迎えたことも、江戸幕府体制下での津軽氏の地位を固めた。信枚には辰姫を正室としていたが、満天姫を迎えるにあたり正室から側室に降格させている。この辰姫は豊臣秀吉正室の高台院の養女という身分であったが、実父は石田三成であり、幕府を憚った措置であるとも、幕府側から津軽家の態度を試す措置であったとも受け取れる。その後、上野国の飛び領地に住んだ辰姫は大舘御前と称され、信枚は参勤交代の度に訪ね、2人の仲は変わらず睦まじかったと伝わっている。元和5年(1619年)に辰姫は信枚の長男信義を生み、元和6年(1620年)には満天姫も男児(信英)を生んだといわれている。 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に徳川方として兵を率いて参陣したが、家康は信枚に江戸勤番を命じた。後に弘前藩が編纂した『津軽一統志』では「津軽は北狄の圧(おさえ)(略)要服の地たるにより(略)在国を憑(たの)むところなり、早速帰国に及ぶべし」と帰国を命じられたことにされている。 元和2年(1616年)、家康が死去し、家康を祀る日光東照宮が翌年建立されると、津軽家からも東照宮勧請願いが出され、これが徳川御三家や親藩を差し置いて許可される。これには幕府に影響力のあった天海の強い意向があったと伝わる。 ところが、元和5年(1619年)6月、幕府は安芸広島藩主である福島正則に津軽10万石への転封と蟄居を、津軽家には信濃川中島藩10万石への転封を命じる内示を出した。津軽よりも中央(江戸)に近い土地への転封、石高も増えているため一見栄転に見えるが、見かけの石高ではない実収入、移転にかかる諸費用、父祖の地を離れることなどを考えると、決して割のいい話ではなかった。これに対し、信枚は移転費用捻出のため佐竹義宣より借財し、家中の準備をさせる旨を家臣に通達している。また領内から転封の際は同行したい旨の嘆願が届いているなど、かなり現実的に実現手前まで進行していたことが窺える。しかし、内示から1ヶ月も経たない内に津軽家の移封は取り消しされた。これは一般には、信牧や家臣団、満天姫らの運動により中止となったとされているが、天海からも中止へのかなりの働きかけがあったと推測される。この移転話が持ち上がった背景は諸説あるが、関ヶ原の戦いでの家中二分策に対する咎とも、いまだ豊臣家に温情的な津軽家中に対する咎とも、幕閣の派閥争いの飛び火ともされている。最終的に福島正則が直接、信濃川中島藩4.5万石に減封移封された。 寛永4年(1627年)9月、高岡城の天主が落雷で炎上し、内部の火薬に引火して大爆発を起こして焼失した。この事件は、信枚の伯母(為信の正室・阿保良の姉)が為信のために失意の内に病死した祟りと当時信じられた。そのため、これまで「高岡」と呼ばれていた藩都を翌寛永5年(1628年)8月、天海が天台密教での破邪の法から名付けた「弘前」と改めた。これ以降、藩名も弘前藩と呼ばれるようになった。弘前の街造りだけではなく、領内の開発を行い、寛永元年(1624年)には陸奥湾の奥に青森港の港湾施設および街を構築し、蝦夷から上方、江戸との交易ルートを整備した(この青森港が現在の青森県庁所在地である青森市となった)。その他領内の新田開発、農地整備、新規人材登用も積極的に行い、弘前藩の基礎を整えた。 寛永8年(1631年)1月14日、江戸藩邸にて死去した。享年48。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E4%BF%A1%E6%9E%9A
津軽建広 Tsugaru Takehiro(生年不詳-1640年) 三河国の外科医、大河内江三の二男として生まれる。江春と名乗り、相模国の戦国大名北条氏政の下で外科医を務めた。 天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると浪人となる。後に津軽為信に仕え、慶長4年(1599年)には為信の長女富子を娶り、津軽家の婿養子となる。慶長6年(1601年)、大光寺城(1万石)の城代となる。 慶長12年(1607年)、津軽為信の長男津軽信建が死去すると、その弟信枚が家督を継いだ。建広は信建の嫡男熊千代が家督を継ぐことを主張し、江戸へ上るとかねてより親交のあった本多正信を通じて幕府へ直訴した。訴状は正信に受け入れられ、熊千代の相続が決定するかと思われたが、安藤直次がこれに反対した。 幕閣の裁定としては安藤直次の主張が容れられ、慶長14年(1609年)に信枚の藩主相続が正式に幕府から認められた。それを受け、信枚は藩内の熊千代派の粛清を行った。信建の腹心であった金信則は領地召し上げの上切腹、建広は追放処分となったが、建広の居城引渡しを巡って家臣が大光寺城に籠城する。信枚家臣の高坂蔵人の活躍などにより、村市館の一戸兵庫之助らとともに騒動は鎮圧された。これを津軽騒動と言う。 建広は後に上京して、江戸幕府の医官(御典医)となった。 以上の経歴がありながら、大河内姓には復さずに以降も津軽氏を名乗り、長男の建次は徳川秀忠(当時は大御所)に拝謁。次男建義も将軍徳川家光に拝謁するなど、津軽氏一門の一家としての名跡を認められており、『寛政重修諸家譜』にも津軽藩本家、黒石支藩とは別に、津軽氏として記載がある。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E5%BB%BA%E5%BA%83
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