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村上景親 Murakami Kagechika(1558年-1610年) 村上武吉的次子,母為村上通康之女,正室為平岡房實之女,側室為文祿慶長之役時捕獲的朝鮮貴族之女。兄為村上元吉,兒子有早逝的八助與村上元信,女為村上元武、宍戶景好的妻子;通稱三郎兵衛尉、源八郎,受小早川隆景偏諱「景」字,名為景親。 天正六年(1578年)參與上月城之戰。之後和哥哥元吉一起行動。文祿元年(1592年)開始的文祿慶長之役中,和哥哥一同跟著吉川慶家渡海到朝鮮。小早川隆景隱居之後,父親和哥哥一同回到毛利家,但年紀尚小的景親則留在小早川家,仕奉隆景的養嗣子小早川秀秋。慶長二年(1597年)小早川隆景去世後回到毛利家,並獲得安藝國竹原的領地。 慶長五年(1600年)和哥哥元吉一同率領水軍攻下蜂須賀氏的阿波國豬山城。之後做為毛利軍的一員參與關原之戰。 戰後毛利家被移封到防長,細川忠興和池田輝政因喜愛景親的武勇都曾招攬景親當家臣,當景親拒絕並和父親一同移住到屋代島,擔任毛利家御船手組的組頭。 慶長十五年(1610年)去世,墓所在山口縣大島郡周防大島町。 村上武吉在景親的初陣時給他一把笛子,這把笛子現在仍做為能島村上氏的家寶在後代中繼承著。 作者 秋霜烈日 譯文出處 https://sepkalily41.blogspot.com/2018/08/blog-post_54.html 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%99%AF%E8%A6%AA
板部岡江雪齋 Itabeoka Kousetsusai(1537年-1609年) 田中泰行之子,姪女為德川家康側室・養珠院;別名田中融成・岡野融成・岡野嗣成。江雪齋為真言宗門弟子,而後作為右筆被召出仕北條氏,因能力出眾,成為評定眾。 田中氏據『寬政重修譜』中所載其家系為桓武平氏北條氏流,相傳其初代是導致鐮倉幕府滅亡的末代執權北條高時的次子北條時行,到父親田中泰行這一代時,出仕於北條氏康頗有戰功。 伊豆國奈古屋的板部岡康雄(石卷家貞之子)在小田原北條氏麾下的領有西郡延澤、東郡用田是小田原眾的其中一人,領地共計二百二十貫有余,後自稱為能登守。 板部岡康雄無嗣,遺領由田中融成(板部岡江雪齋)所繼承,江雪齋在繼承之時受北條氏政的命令改姓為板部岡。然而,也有板部岡康雄的遺領被父親田中泰行所繼承的一種說法。『寬政重修譜』中記載,江雪齋是受氏政之命,先成為給予板部岡某的與力後繼承家業。 江雪齋在弘治年間獲得小田原城奉行眾的職務,後又成為奉行眾的筆頭。江雪齋在武藏國岩槻城主北條源五郎某死後,成為同城的守將,北條氏政、北條氏直出陣之際,獲得信任的江雪齋時常出任小田原城的守備一職。 父親泰行於天正六年(1578年)去世。江雪齋繼承家業,此時方有入道江雪齋之名,在文書上常只署名江雪二字。 天正十年(1582年),武田氏滅亡之後,調解因甲斐領地大打出手的德川家康、北條氏政之間的矛盾,並成功迎取德川家康之女.督姬(池田輝政繼室)做為北條氏直的正室。 天正十七年(1589年),受命上洛謁見豐臣秀吉、並為氏政的上洛爭取到有利的條件。北條氏滅亡後,以御伽眾出仕秀吉,受名將板部岡姓改為岡野。 文祿之役時,在名護屋侍奉豐臣秀吉,秀吉死後的慶長五年(1600年),德川家康發兵征討上杉景勝時,江雪齋隨德川軍出征。在小山之陣,得知石田三成舉兵的消息後,家康召集諸將進行軍議。這時的江雪齋和井伊直政、本多忠勝、山岡道阿彌一起,受命成為先陣的往京都方向出發。此後,和三成方的小早川秀秋暗中聯絡,在關原之戰時勸誘小早川秀秋反叛三成。 戰後,因功獲賜築前信國的鐮十文字之槍,以後和山岡道阿彌一起成為家康的近侍、也獲賜領地。 慶長十四年(1609年)六月,於伏見城去世,年七十三歲。 出處 http://tc.wangchao.net.cn/baike/detail_583178.html
永井直勝 Nagai Naokatsu(1563年-1625年) 永禄6年(1563年)、長田重元の次男として三河国碧海郡大浜郷(現在の碧南市音羽町)に生まれる。はじめ徳川家康の嫡男・信康に仕えたが、天正7年(1579年)に信康が自刃すると、徳川氏を去って隠棲した。天正8年(1580年)、家康に召し出されて再び家臣となる。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは池田恒興を討ち取る大功を挙げたため、家康や織田信雄らから賞賛された。 文禄3年(1594年)、池田恒興の次男池田輝政が家康の次女の督姫を娶った際、輝政の求めに応じて、長久手の戦いで恒興を討ち取った際の事を語った。このとき、輝政が直勝の知行を聞くと5,000石であった。輝政は父を討ち取った功績の価値が5,000石しかないのかと嘆息したという。 文禄5年(1596年)2月7日、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜されている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に近江国に2,000石を加増され、7,000石を領する。 大坂の陣にも参戦して戦功を上げ、元和2年に(1616年)上野小幡藩1万7,000石に加増。翌元和3年(1617年)には常陸笠間藩3万2,000石を与えられ、後に2万石を加増される。元和8年(1622年)、笠間を浅野長重に譲って、代わりに下総古河において7万2,000石を与えられた。 寛永2年(1625年)、63歳で死去した。跡を長男の尚政が継いだ。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E7%9B%B4%E5%8B%9D
池田光政 Ikeda Mitsumasa(1609年-1682年) 姫路藩の第2代藩主・池田利隆の長男。母は江戸幕府2代将軍・秀忠の養女で榊原康政の娘・鶴姫。当時の岡山藩主・池田忠継(光政の叔父)が幼少のため、利隆は岡山城代も兼ねており、光政はそこで生まれた。慶長16年(1611年)に江戸に赴いて秀忠に謁見し、国俊の脇差を与えられる。慶長18年(1613年)に祖父の池田輝政が死去したため、父と共に岡山から姫路に移った。同じ年に父と共に徳川家康に謁見する。このとき家康は5歳の光政を膝下近くにまで召して髪をかきなでながら「三左衛門の孫よ。早く立派に成長されよ」と言葉をかけた。そして脇差を与えたが、光政は家康の前で脇差をするりと抜き、じっと見つめながら「これは本物じゃ」と語った。家康は光政の態度に笑いながら「危ない、危ない」と言って自ら鞘に収めた。そして光政が退出した後、「眼光の凄まじさ、唯人ならず」と感嘆したという。 元和2年(1616年)6月13日に父・利隆が死去した。このため6月14日に幕府より家督相続を許され、跡を継いで42万石の姫路藩主となる。しかし元和3年(1617年)3月6日、幼少を理由に因幡鳥取32万5,000石に減転封となった。 鳥取藩主となった光政の内情は苦しかったという。因幡は戦国時代は毛利氏の影響力などが強かったとはいえ、小領主が割拠して係争していた地域だったところから藩主の思うように任せることができず、生産力も年貢収納量もかなり低かった。しかも10万石を減封されたのに姫路時代の42万石の家臣を抱えていたため、財政難や領地の分配にも苦慮した。このため、家臣の俸禄は姫路時代の6割に減らされ、下級武士は城下に住む場所が無いので土着して半農半士として生活するようになった。光政は鳥取城の増築、城下町の拡張に努めた。 元和6年(1620年)、幕府より大坂城城壁の修築を命じられた。元和9年(1623年)7月、15歳で元服し、このとき当時名乗っていた幸隆(よしたか)を、第3代将軍・徳川家光の偏諱を拝受し光政と名乗った。このとき、家光の上洛に従い、従四位下・侍従に叙任した。寛永3年(1626年)8月の家光上洛にも従い、左近衛少将に叙任された。寛永5年(1628年)1月26日に本多忠刻の娘・勝子(円盛院)を大御所の秀忠の養女として正室に迎えた。 寛永9年(1632年)4月3日に叔父の岡山藩主・池田忠雄が死去し、従弟で忠雄の嫡男・光仲が3歳の幼少のため山陽道の要所である岡山を治め難いとし、5月に光政は江戸に召しだされて、6月に岡山31万5,000石へ移封となり、光仲が鳥取32万5,000石に国替えとなった。以後「西国将軍」と呼ばれた池田輝政の嫡孫である光政の家系が明治まで岡山藩を治めることとなった。 儒教を信奉し陽明学者・熊沢蕃山を招聘した。寛永18年(1641年)、全国初の藩校・花畠教場を開校した。寛文10年(1670年)には日本最古の庶民の学校として閑谷学校(備前市、講堂は現在・国宝)も開いた。教育の充実と質素倹約を旨とし「備前風」といわれる政治姿勢を確立した。岡山郡代官・津田永忠を登用し、干拓などの新田開発、百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水を行った。また、産業の振興も奨励した。このため光政は水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び、江戸時代初期の三名君として称されている。三名君と称された人物は個性的な人間が多い。光政は幕府が推奨し国学としていた朱子学を嫌い、陽明学・心学を藩学とし、実践したところに彼の価値がある。この陽明学は自分の行動が大切であるとの教えで、これを基本に全国に先駆けて藩校を建設、藩内に庶民のための手習所を数百箇所作った。後に財政上の理由で嫡男の綱政と手習所存続をめぐって対立した。のちに手習所を統一して和気郡に閑谷学校を造った。 光政の手腕は宗教面でも発揮され、神儒一致思想から神道を中心とする政策を取り、神仏分離を行なった。また寺請制度を廃止し神道請制度を導入した。儒学的合理主義により、淫祠・邪教を嫌って神社合祀・寺院整理を行い、当時金川郡において隆盛を極め、国家を認めない日蓮宗不受不施派も弾圧した。このため備前法華宗は壊滅している。こうした彼の施政は幕府に睨まれる結果となり、一時は「光政謀反」の噂が江戸に広まった。しかし、こういった風説があったにもかかわらず、死ぬまで岡山32万石が安泰であったのは、嫡男の綱政が親幕的なスタンスをとったこともあるが、光政の政治力が幕府からも大きな評価を得たためではないかと考えられる。光政は地元で代々続く旧家の過去帳の抹消も行った。また、庶民の奢侈を禁止した。特に神輿・だんじり等を用いた派手な祭礼を禁じ、元日・祭礼・祝宴以外での飲酒を禁じた。このため、備前は米どころであるにもかかわらず、銘酒が育たなかった。現在岡山名物の料理となっているちらし寿司の一種・ばら寿司の誕生にも光政の倹約令が絡んでいるといわれる。倹約令の一つに食事は一汁一菜というのがあり、対抗策として魚や野菜を御飯に混ぜ込んで、これで一菜と称したという。 なお正室の勝子とは最初の頃はあまり良好な夫婦関係とはいえないとみられていたが、その後は傍目も羨む仲の良い夫婦になったという。 寛文12年(1672年)6月11日、藩主の座を長男の綱政に譲り隠居した。このとき次男の政言に備中の新田1万5,000石、三男の輝録に同じく1万5,000石を分与した。 隠居から4ヵ月半後、母の福正院が死去し、6年後には正室の勝子も死去するという不幸にあったが、光政は隠居ながらも実権は握り続けた。 天和元年(1681年)10月に岡山に帰国した頃から体調を崩しだした。光政は岡山城西の丸で養生したが、年齢が70を超えていることもあって良くはならなかった。天和2年(1682年)4月、京都から岡玄昌という名医を招聘するも良くはならず、死期を悟った光政は5月1日に寝室に家老ら重臣を呼び出して遺言を伝えた。5月22日に岡山城西の丸で死去。享年74。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%85%89%E6%94%BF
池田利隆 Ikeda Toshitaka(1584年-1616年) 池田輝政的長子、母為中川清秀之女.糸姬、正室為德川秀忠養女.鶴姬(榊原康政之女);幼名新藏,別名輝直、宣隆、玄隆,戒名興國院殿俊岳宗傑大居士。 利隆生於美濃國岐阜城,被賜予羽柴氏。慶長五年(1600年)與父親輝政共同在關原合戰中作為東軍方參戰。 慶長八年(1603年)年僅5歲的異母弟.池田忠繼被任命為備前國岡山藩藩主,利隆代表年幼的忠繼於3月進入岡山城。利隆作為岡山的實質性的領主負責藩政。 慶長九年(1604年),在境內實施稱為「慶長檢地」的檢地。另外指導兵農分離,廢止前岡山領主宇喜多秀家和小早川秀秋等人實行的夫役,確立江戶期近代體制。 慶長十年(1605年)敘任從四位下侍從並兼任右衛門督(此時使用豐臣姓)。同年,迎娶德川秀忠養女.鶴姬(榊原康政之女)為正室,從而加深與德川幕府間的關系。慶長十二年(1607年)任武藏守,並被賜予松平姓,被稱為松平武藏守利隆。 慶長十八年(1613年)父親輝政去世,利隆繼承家督之位,西播磨三郡(宍粟郡、佐用郡、赤穗郡)10萬石領地被分給弟弟池田忠繼,而利隆則領受姬路藩42萬石領地。這被認為是德川幕府為削弱池田氏勢力而加以分化。 慶長十九年(1614年),作為德川方的先鋒參加大阪冬之陣初戰尼崎合戰。 元和二年(1616年)於義弟京極高廣的京都四條宅邸病死,年三十三歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/3050337.htm
池田忠雄 Ikeda Tadakatsu(1602年-1632年) 池田輝政的三子(注一),母為德川家康之女・督姬,正室為蜂須賀至鎮之女・三保姬。異母兄有池田利隆等,同母兄池田忠繼,同母弟池田輝澄、池田政剛、池田輝興。池田光仲之父。備前岡山藩主。鳥取池田家之祖。 慶長七年(1602年)10月28日生於姬路城。慶長十三年(1608年),7歲時元服。因為是德川家康的外孫,慶長十五年(1610年),年僅9歲即獲得淡路洲本領地6萬石,忠雄本人留在其父領地姬路城,由池田氏重臣負責政務。元和元年(1615年),岡山藩主同母兄池田忠繼年僅17歲即撒手人寰,忠雄繼承其位。當時繼承來的其兄遺領38萬石中有忠雄之母良正院的化粧料10萬石,這些土地被封給同母弟輝澄(山崎藩3萬8,000石)、政綱(赤穗藩3萬5,000石)和輝興(平福藩2萬5,000石),這樣忠雄的領地計31萬5200石。 忠雄入封後擴建了岡山城並進行城下町建設,致力於新田開發和水利工程,寬永七年(1630年)7月11日,忠雄寵愛的小姓渡邊源太夫被藩士河合又五郎殺害,後來發展成藏匿脫藩後的又五郎的旗本與外樣大名的糾紛(鍵屋之辻決鬥,注二)。寬永九年(1632年)死去,年三十一歲,其臨死的遺願是誅殺又五郎。死因一般說是天花,也有說法是毒殺。死後,家督由長子光仲繼承,因為年紀太小被轉封鳥取,岡山由原鳥取藩主,光仲從兄池田光政接管。 注一:按照出生順序的話實際上是第六子,然而因為三名異母兄是庶出,所以名義上把他排在第三。 注二:鍵屋之辻決鬥:日本三大復仇事件之一。小姓渡邊源太夫拒絕了藩士河合又五郎的求愛,又五郎一氣之下將其斬殺後逃往江戶並尋求旗本安藤正珍庇護。忠雄提出引渡又五郎,然而安藤糾合旗本拒絕其要求,事情發展為了旗本與外樣大名的對抗。後來又五郎一行從奈良前往江戶途中,在鍵屋之辻(現三重縣伊賀市小田町)被前來報仇的源太夫之兄渡邊數馬一行截獲,雙方開始廝殺。渡邊數馬與河合又五郎纏鬥五個多小時後終於將其殺死。 作者 江蛤蟆 出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=10#postid-256
池田恆興 Ikeda Tsuneoki(1536年-1584年) 池田恆利之子、母為養德院、妻荒尾善次之女.善應院;別名勝三郎、紀伊守、號勝入。 其母為織田信長之乳母,據說信長之父織田信秀,起初為信長找了許多乳母,都因當時名為「吉法師」的信長吸奶方式強烈而造成乳頭破裂,不斷地更換乳母,直至養德院當乳母後才獲得改善。信長與生母關係不睦,卻與養德院互動良好,並尊稱其為「大御乳」。亦有學者指出後來養德院原配丈夫去世後,由信秀納為側室。 基於母親與信長深厚的緣分,恆興從十歲起就擔任信長的「馬迴眾」(親衛部隊),逐步累積戰功。於元龜元年(1570年),受封為尾張犬山城主,但其後隸屬於信長嫡子織田信忠麾下,沒有獲得進一步的發展。直至信長召回恆興,擔任進攻叛變的荒木村重之任務,於掃蕩完荒木殘黨據守的攝津花隈城後,受封攝津一國。 天正十年(1582年),信長於「本能寺之變」遭明智光秀攻擊而死,嫡子信忠亦戰死,織田家眾將群龍無首,羽柴秀吉(豐臣秀吉)從姬路城率軍兼程趕回近畿地區,恆興之領地攝津,位處西國通往近畿之要道,恆興當下選擇加入秀吉的軍團,共同討伐光秀,於「山崎會戰」中,擔任右翼指揮,於兩軍激戰時,率軍突破明智軍左翼部隊,迫近光秀本陣左側,成為決定該戰勝敗的最後關鍵。 光秀敗亡後,恆興與秀吉、丹羽長秀及柴田勝家等四人,以織田家宿老地位參與「清州會議」。會議前,秀吉早與恆興、長秀兩人事先聯絡好,力拱信長嫡孫三法師(織田秀信)擔任織田家名義上的繼承人,三票對一票,讓欲推舉信長三子織田信孝的勝家難以抗衡,會議結束後,恆興除原有的攝津之外,另取得近畿部分領地。天正十一年(1583年),在秀吉擊敗勝家的「賤岳會戰」後,恆興又取得美濃大垣城。恆興判斷秀吉已經是信長事業的實質繼承者,急速從織田家宿老身份,轉而成為秀吉的屬將。 天正十二年(1584年),信長次子織田信雄受到秀吉威逼,向德川家康求救,家康率軍前往尾張、美濃一帶與秀吉對抗,恆興與女婿森長可都加入秀吉陣營,恆興發動攻勢先奪下犬山城,但森長可在「羽黑之戰」時敗給德川軍的酒井忠次等人,使得秀吉勢力無法繼續南進。家康鑑於恆興的犬山城攻略成功,乃決定將本陣設在小牧山一帶,並興建防禦工事,準備作長期對抗。為替女婿森長可討回面子,恆興向秀吉獻策:趁家康出兵濃尾之際,以偏軍進攻三河本土。 秀吉乃以外甥羽柴秀次擔任名義上的總大將,堀秀政擔任輔佐,由恆興與森長可擔任先鋒,合計二萬兵力從尾張進逼三河,但該軍事行動已被家康察知,家康秘密率軍從小牧山本陣出發,從後方追擊,並派榊原康政擔任先鋒先行出發圍堵入侵軍,完全沒有料到有伏軍存在,後方的秀次軍隊遭到攻擊,軍勢大亂,秀次潰走,崛秀政退兵,恆興與長子池田元助、女婿森長可在前方擔心秀次安危,急忙從前方退軍救援,結果大軍困在長久手附近的森林區域,遭到家康及康政的軍隊前後夾擊而殲滅,恆興、元助、森長可均當場戰死,年49歲。 恆興次子池田輝政後來繼續在豐臣、德川政權下效力,最後成為播磨的姬路城主。 作者 Thbobo 出處 http://thbobo.pixnet.net/blog/post/31401585
池田政綱 Ikeda Masatsuna(1605年-1631年) 池田輝政的五子(注一),母為德川家康之女.督姬。異母兄有池田利隆等,同母兄池田忠繼、池田忠雄、池田輝澄,同母弟池田輝興。播磨赤穗藩主。 慶長十年(1605年),出生於姬路城。因為他是德川家康的外孫,慶長十六年(1611年)自家康處獲賜松平姓。元和元年(1615年),其兄備前岡山藩主池田忠繼死去,自其兄遺領中分得赤穗郡3萬5,000石,成立赤穗藩並出任藩主。 元和九年(1623年)7月19日出任從五位下右京大夫。寬永三年(1626年)升任從四位下。雖然年紀尚淺,然而頗有政治手腕,鞏固了藩政的基礎。元和四年(1618年)稻垣平馬事件(注二)發生,時局動蕩不安。 寬永八年(1631年)7月29日死去。年二十七歲。 政綱沒有後嗣,赤穗藩一時由於無嗣遭到改易,後其弟池田輝興被允許繼承家督。然而數年後池田輝興發狂砍死自己妻子,被改易。由淺野家入封赤穗,在元祿年間淺野長矩一代發生了有名的赤穗事件。 注一:按照出生順序的話實際上是第八子,然而因為三名異母兄是庶出,所以名義上把他排在第五。 注二:稻垣平馬是姬路藩本多忠政家臣,由於不明原因脫藩,途中在赤穗與赤穗藩士進行一騎討被殺。 作者 江蛤蟆 出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=10#postid-256
池田輝政 Ikeda Terumasa(1565年-1613年) 池田恆興的次子,母親為荒尾善次之女-善應院,幼名古新,初名照政。 池田家是源賴光的五代孫泰政的後裔,此外也有楠木正行後裔的說法,出身地有美濃池田郡的池田莊、尾張春日部郡池田鄉、攝津池田莊等,在輝政祖父恆利的時候正式投向尾張織田家,而池田輝政的父親池田恆興因為母親是織田信長的乳母,是信長的乳兄弟,因而與信長關係親密,長久以來都是擔任他的直屬將領,直到在平定荒木村重叛亂時立下大功,才受封村重的舊領攝津伊丹、尼崎。同時年僅十六歲的輝政也在攻打花隈城以弱冠之年立下戰功,得到信長賜下的感狀。 天正十年(1582年),織田軍大舉攻打武田家,池田輝政被配入信長長子織田信忠麾下自伊那口攻進信濃,本能寺之變後在決定織田家繼承人的清州會議中,因為與秀吉的交情聲援協助支持信長嫡孫三法師接任家主,會後以織田家宿老的身份領美濃大垣城十三萬石,輝政也被任命為池尻城主。天正十二年(1584年),不滿秀吉地位竟在自己之上的織田信雄聯合德川家康與秀吉對抗,兩軍在小牧對峙。之後父親池田恆興在攻擊家康的居城三河岡崎時被德川家康從背後襲擊與姐夫森武藏守、長兄之助一同在長久手討死,輝政僅以身免。 父兄皆亡後,輝政接任家督之職於天正十三年(1585年)繼承父親遺領擔任美濃大垣城主領十三萬石封地,同時參與對佐佐成政之戰,翌年轉封為歧阜城主,天正十五年(1587年)秀吉征伐九州後,賜輝政「羽柴」姓,翌十六年後陽成天皇行幸聚樂第,輝政在秀吉的奏請下拜從四位下侍從,並被賜姓豐臣。之後輝政隨秀吉出戰小田原征伐之戰,轉戰於關東平原,直達東北會津一帶戰功彪炳。戰後全國宣告統一,殺父仇人德川家康也由此時轉封至關東八州,輝政則是得到他的舊領三河寶飯、設樂、八名、渥美四郡共十五萬二千石的封地,任吉田城主,因此他也被時人冠上「吉田侍從」的稱號。後於文祿年間豐臣秀吉侵略朝鮮時,池田輝政未渡海參戰,而是留守吉田城負責東國警衛的職務,也在這段期間擔綱山城伏見城、大和多內城的構築普請事務。 輝政先娶織田信長部將中川清秀的女兒糸子為妻,但是後來離異。文祿三年(1594年),秀吉為了協調輝政與德川家康的關係,主動作媒讓他迎娶家康的親生女兒督姬為繼室,督姬原本是北條氏直的妻子,由於北條家在小田原之戰後滅亡,氏直也在戰後一年便過世,遂再嫁給輝政。成婚後輝政到家康的府第拜見岳父時,提出與斬下父親首級的永井傳八郎見面的要求,本來家康不願答應,但在輝政的百般請求下,家康讓輝政承諾不會殺永井的條件後,才命人把永井傳八郎找來,永井一到輝政便問他一句:「你殺了我父得到多少賞賜?」永井照實說加了五千石,輝政悲泣道:「難道我父的首級只值這些?」聽到女婿這麼說,德川家康連忙承諾日後會在給永井加封,後來果真讓永井成為下總古河城主領七萬兩千石。 慶長三年(1598年),秀吉死後不久,豐臣家分裂成文治武功兩派,池田輝政由於長年與福島正則、加藤清正並肩作戰而相善,然而意圖奪取天下的家康有意無意地無視豐臣秀吉「諸大名不能私婚」的遺命,讓衝突不斷加劇,同時也以武功派支持者的身份暗中主持大局。慶長四年(1599年),前田利家辭世,池田輝政和福島正則、加藤清正、黑田長政、細川忠興、加藤嘉明、池田輝政及淺野幸長等七人於當晚襲擊石田三成的屋邸,石田三成被迫向德川家康尋求保護,也因此被逼隱居佐和山城。 隨後家康對了壓制上杉景勝展開會津征伐,石田三成也趁機發動關原之戰的前奏曲圍攻伏見城,小山軍議上池田輝政和黑田長政、淺野幸長、細川忠興等人附合福島正則之意加入東軍。為了保障東軍將領的城池,池田輝政與福島正則聯手擔任東軍的先鋒東上會師於清州城,池田輝政協同淺野幸長、山內一豐、堀尾忠氏、一柳直盛等率兵 一萬八千經木曾川上游攻打岐阜城。而福島正則與細川忠興、黑田長政則經木曾川下游攻打竹鼻城,隨後兩軍會合一同以優勢軍力攻下西軍方織田秀信的岐阜城,戰後因功獲得播磨五十二萬石領地。 關原之役後,池田輝政遷居至姬路城並於慶長六年(1601年)正式將姬路城擴建成五層六階、地下一階的天守閣襯上修飾的白色漆底,使整座姬路城更加優雅美觀,好似展翼白鷺,從此之後姬路城就得到白鷺城的美名,而且他治國嚴謹,法規明確,再加上是征夷大將軍德川家康的女婿,份屬親族。而且在事實上再輝政之弟池田長吉領有因幡國六萬石,次子忠繼也領有備前岡山二十八萬石、三男忠雄領有淡路洲本六萬三千石,統整算來池田家總共擁有近百萬石的大領地,因此池田輝政也為世人稱道為西國將軍或姬路宰相。 慶長十七年(1612年),池田輝政的幕府賜姓松平,並且得到正四位上參議的官位,但旋即於隔年中風病歿,享年四十八歲,法名國清院泰叟玄高大居士。 歷史上給池田輝政的評語是「少時倜儻,及長雄偉,為人剛直,臨下以寬。」輝政歿後,播磨遺領由長男利隆繼承,後其子光政因繼位時年僅七歲,被轉封至分家池田長吉一脈所領有的因幡國,領三十二萬石,為後來的鳥取藩。輝政次子忠繼後又加增了十萬石,領地多至三十八萬石,但池田忠繼於十七歲時便英年早逝,由三弟忠雄繼承,領三十一萬五千石,即為岡山藩。而長吉之子池田長幸改封至備中松山六萬石,至其子長常時無嗣而絕。明治維新後,鳥取、岡山藩池田家皆被列為侯爵。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/73090002/1
池田輝澄 Ikeda Teruzumi(1604年-1662年) 池田輝政的四子(注一),母為德川家康之女・督姬,正室為生駒正俊之女・天正院。異母兄有池田利隆等,同母兄池田忠繼、池田忠雄,同母弟池田政剛、池田輝興。池田政直、池田政武、池田政濟之父。播磨山崎藩主、因幡鹿野藩主。 慶長九年(1604年)4月29日,生於姬路城。因為是德川家康的外孫,慶長十四年(1609年)4月,獲賜松平姓,稱松平左近。 慶長二十年(1615年)5月28日,其兄岡山藩主池田忠繼早逝,從其兄領地中分得播磨宍粟郡3萬8000石成為山崎藩主,出任從五位下官職。元和三年(1617年)升任從四位下,寬永三年(1626年)8月19日出任侍從。寬永八年(1631年),其弟池田政綱死去後,又加封播磨佐用郡3萬石,領地共計6萬8000石。實行了諸如開發城下町和修整交通路等各類藩政工作。寬永十年(1633年)以後一直住在江戶。 然而,由於領地迅速擴大而新錄用的家臣與在此之前一直仕官的老家臣之間起了衝突,寬永十五年(1638年)小頭與足輕在金錢上的對立終於將新任家老小河四郎右衛門與譜代家老伊木伊織間的對立引向表面化,寬永十七年(1640年)發展成了御家騷動(池田騷動)。輝澄的姻親林田藩主建部政長(其母為池田輝政養女)試圖從中調停然而未有奏效,伊木派藩士大多數脫藩。幕府裁定後判處伊木伊織以下20名切腹,輝澄在同年7月26日因為家中管理不善被改易,由侄子鳥取藩主池田光仲(池田忠雄之子)看管。輝澄是德川家康的外孫,因而獲得了鳥取藩內鹿野1萬石的領地作為堪忍料。 之後剃髮出家,號石入。寬文2年(1662年)4月18日死去,年五十九歲。家督由其子政直繼承。四年後政直無嗣而終,領地由兩個弟弟政武和政濟分割繼承。 注一:按照出生順序的話實際上是第七子,然而因為三名異母兄是庶出,所以名義上把他排在第四。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=10#postid-256 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%BC%9D%E6%BE%84
池田重利 Ikeda Shigetoshi(1586年—1631年) 本願寺の坊官・下間頼龍の長男。はじめ、父と共に東本願寺の教如に仕えたが、教如とは相性が悪く父が死んだ慶長14年(1609年)に叔父(母の異父弟)の池田輝政の元へ出奔した。頼広は学識や武芸に通じていた事から、輝政から仕官を勧められて3,000石をもって輝政の嫡子利隆の補佐を命じられた。 慶長18年(1613年)、利隆が家督を継ぐと池田姓を与えられて池田重利と改名し、翌慶長19年(1614年)には池田氏重臣として徳川家康に拝謁している。 大坂の陣では、池田利隆・忠継兄弟の幕下で尼崎城を守って戦功があり、戦後に甥の建部政長とともに川辺郡・西成郡尼崎で1万石を与えられて大名となった。元和3年(1617年)、宗主である姫路藩主池田氏の転封により播磨揖東郡鵤荘に転封。 寛永3年(1626年)には播磨揖東郡新宮に陣屋を設置し、新宮藩を創設した。 寛永8年(1631年)に46歳で死去し、家督は長男の重政が継いだ。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E9%87%8D%E5%88%A9
池田長吉 Ikeda Nagayoshi①(1570年-1614年) 池田恆興的三子。池田輝政之弟,池田長幸之父。曾當過豐臣秀吉的養子。長吉是池田家(松山池田家、井原池田家、建部池田家)之祖。 生於犬山城。後與兄池田輝政一同仕於豐臣秀吉,獲賜近江國佐倉3萬石領地。天正十三年(1585年),出任從五位備中守。 慶長五年(1600年)關原之戰中,與兄池田輝政同屬東軍參加美濃岐阜攻城戰。近江水口岡山城攻城戰中,長吉用計將長束正家、長束直吉兄弟騙出城,兩人最終切腹,因此功績戰後獲德川家康賞賜,加贈轉封因幡鳥取藩6萬石。另外,正家的家產也全被長吉奪走。 慶長十九年(1614年)9月14日死去,年四十五歲。 作者 江蛤蟆 出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=10#postid-253

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