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池田輝政

一柳直盛 Hitotsuyanagi Naomori(1564年-1636年) 河野氏一族一柳直高次子,生於美濃國厚見郡。追隨其兄征戰,直末,天正十年(1582年)備中宿毛塚城攻城戰中立有武名。 天正十八年(1590年),小田原征伐中直末戰死之故,繼承其位仕於豐臣秀吉。由秀吉處獲得尾張國黑田城3萬石知行。天正十九年(1591年),任從五位下監物。現留有其隸屬豐臣秀次作為奉行參與各地的兼地工作的記錄。文祿元年(1592年),加贈5000石。 慶長五年(1600年)關原之戰隸屬東軍。同池田輝政、淺野幸長參加河田木曾川渡河之戰與岐阜城攻城戰立有功勞,負責守備大垣與佐和山中間位置的長松城。因此功勞,戰後加贈1萬5000石,受領伊勢神戶5萬石領地。 慶長十九年(1614年)大阪之陣參陣立功。以後,受命與德川秀忠、德川家光之上洛及日光社參供奉工作。寬永十年(1633年)於九鬼久隆轉封後受命負責鳥羽城守衛。 寬永十三年(1636年)6月1日,加贈1萬8000餘石,轉封伊予國西條。自此,成為領有伊予國新居郡、宇摩郡、周敷郡以及播磨國加東郡6萬8000餘石領地之領主。然而同時受德川家光之命將加增土地加東郡中5000石分予次男直家,因而直盛所領合計6萬3000餘石。新封之伊予為父祖河野氏之舊領,然而直盛在赴領地上任途中於同年8月19日,因病死於大阪,年七十三歲。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=4#postid-153 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9F%B3%E7%9B%B4%E7%9B%9B
下間頼竜 Shimotsuma Rairyu(1552年-1609年) 本願寺の僧侶。父は下間真頼、妻は池田恒興の養女で織田信時の娘。子に頼広(後の播磨播磨新宮藩主・池田重利)、宮城政次、池田輝政養女(建部光重室)、徳永昌重室、大久保長安室。幼名は松菊、通称は按察使。法名は了明。 本願寺の僧侶の中では、軍事よりも政治や文化方面に通じており、堺の商人達とも茶会などから交流があったといわれている。石山合戦においては元亀3年(1572年)に同族の下間頼資・頼純父子と共に織田信長側の細川昭元を攻めて戦功をあげている。 天正8年(1580年)に本願寺法主・顕如が信長に降伏した時、同族の下間頼廉・下間仲孝と共に和睦条約に連署した。だが、翌年に顕如の長男・教如が石山本願寺への再籠城の企てをした時、教如の側近だった頼龍は教如に従ったため顕如から叱責を受けている。文禄元年(1592年)に顕如が没し、法主となった教如に赦免され、慶長7年(1602年)の本願寺の東西分裂にも教如に従い、東本願寺の坊官となった。慶長14年(1609年)、58歳で死去。 子の頼広も教如に従ったが、やがて出奔して池田輝政に仕え、池田重利と改名して大名となった。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%93%E9%A0%BC%E9%BE%8D
中川清秀 Nakagawa Kiyohide(1542年-1583年) 父は高山重清(中川重清、中川佐渡守重清)で、母は中川清村の娘。 父である中川重清は、桓武平氏良文流の後裔である常陸の高山重利の次男とされるが疑問点もある。 高山右近の父・高山友照は、中川清秀の父・高山重清と兄弟であるとされているが、高山友照は摂津出身とされているので、常陸から来たのか、元々摂津出身なのか、それともどちらかが明らかな養子なのか?余計に出自に疑問が残り、良くわからない。 ともあれ、中川清秀の父・高山重清は1535年頃?に常陸から京の都に上って、その後、摂津国に移ると中川清村に仕えたとされる。 その後、主である中川清村の嫡男・中川清照が戦死し、跡取りがなくなった中村清村は、娘と高山重清を結婚させて養子に迎え、このとき、高山重清は平氏から源氏に改め、中川重清と改名した。恐らく、父・高山重清は有能な武将だったのだろう。推測するに、1541年前後と考えられる。 そして、子になる中川清秀が1542年に誕生したのだ。幼名は虎之助。通称は中川瀬兵衛。 中川重清は稲田城主として摂津の小大名となったが、周辺には巨大勢力があり、領土経営は大変難しい状態であった為、池田城主・池田勝正に最初従属。 しかし、1564年、山崎恒政(山崎右馬允)に攻められて敗走。のち稲田城を再興するが、1570年には摂津国平定をめざす荒木村重に攻められて降伏。以後、池田氏家臣である荒木村重の重臣として仕えた。 父・中川重清の没年や家督が譲られた時期は不明なので、この頃、既に中川家は中川清秀が率いていたと考えられる。 中川清秀の正室は稍姫(熊田宗白の娘、やや)で、1568年には中川清秀の嫡男・中川秀政、1570年には次男・中川秀成が誕生している。 池田家の一家臣であった荒木村重は、池田城から池田勝正を追いだして池田家を掌握すると、1571年には白井河原の戦いで荒木村重と中川清秀が、茨木城主・茨木重朝と高槻城主・和田惟政を討ち取ると中川清秀が荒木村次を補佐し実質的な茨木城主となった。そして、中川清秀は1577年に正式に60000石の茨木城主となっている。 この荒木村重の活躍に目をつけたのは1568年に上洛を果たした織田信長で、荒木村重は織田信長から厚い信頼を得て摂津一国を任された。 1573年、中川清秀は、柴田勝家が指揮する河内の高屋口の合戦に参加し、宣教師や相手方の首を切り、功をたてた。 1574年11月5日に、荒木村重・中川清秀らは伊丹城を落とし、荒木村重は伊丹城主となり、摂津国を支配。高槻城主となっていた高山右近も、荒木村重の与力として加わったが、荒木村重の活躍もこう言った有能な武将が支えていたことが分かる。 しかし、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)や黒田官兵衛・竹中半兵衛・蜂須賀小六らと三木城攻めをしていた1578年7月、荒木村重が戦線を離脱して有岡城(伊丹城)に戻り織田信長に謀反を起こす。 この荒木村重謀反の原因となった石山本願寺への兵糧の横流しをしたのは、中川清秀の家臣とする説がある。 荒木村重は、織田信長の使者である明智光秀、松井友閑、万見重元に説得や、高槻城の高山右近の説得も受けて、釈明のため安土城に旅だったが、途中で寄った茨木城で中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け、伊丹城に戻った。 この事により、織田勢は有岡城を包囲し、有岡城の戦いとなる。 中川清秀や高山右近らも縁故であるということもあって荒木村重に味方し各持ち城にて籠城し、荒木村重は有岡城に篭城。 黒田官兵衛も荒木村重説得の為単身で赴くが、牢に捕えられてしまった。 荒木村重は織田勢に対して徹底抗戦をしたが、中川清秀は10月28日に織田勢と戦わずに降伏し、高山右近も11月に降伏。 荒木村重は圧倒的に不利となったが、1年籠城し翌年1579年9月2日に有岡城は落城した。 領土安堵された中川清秀は、その後、織田信長の家臣となり、丹羽長秀や池田恒興の旗下として転戦。 娘である糸姫は、池田恒興の子・池田輝政に嫁いでいる。 1582年、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死すると、高山右近と共に行動し羽柴秀吉勢に合流して、山崎の戦いで主戦力として活躍。 1583年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでも先鋒二番手として参戦。 しかし、大岩山砦を高山右近・三好秀次らと守備していた際に、柴田勝家勢の勇将・佐久間盛政の猛攻を受けた。 中川清秀の家臣、熊瀬莇助、松田孫三郎、田代太左衛門、奥彦太夫、同彦作、入江土佐、寺井弥次右衛門、高山総吉らも防戦に奮闘したが、中川清秀の弟・中川淵之助も討死し、中川清秀も自害。享年42。 墓所は大阪府茨木市の梅林寺、滋賀県長浜市大岩山砦跡。 この時、命を落とした中川家臣は、中川清秀以外に、中川淵之助熊田孫七資一熊田兵部次矩熊田三太夫資之森本道徳山岸監物重本杉村久助正英森権之助鳥養四郎太夫大田平八菅杢伝兵衛重武野尻出助重英藤井半右衛門田代太左衛門奥彦太夫光英奥彦作奥孫兵衛田能村杢左衛門入江土佐赤井弥次右衛門元定高山総吉桜井河内正利野口新助田島伝次右衛門玄正亡知半。 他には台所人11人仲間御小人20人余雑兵300人となっている。 当時の梅林寺住職・是頓和尚は、中川清秀戦死の報を受けると、すぐさま賤ヶ岳に向かい、遺髪を貰い受けて持ち帰り菩提を弔ったと言う。 中川家の家督は長男・中川秀政が相続して茨木城50000石を継ぎ、その後見人には古田重然がついた。 この古田重然は千利休の死後は天下一の茶人となった人物で「利休七哲」の一人とされ「織部流」開祖で、古田織部と呼ばれた方が有名か?古田重定(茶人である)の子で、妻は中川清秀の妹・せんである。(1569年に結婚) その後、中川秀政は古田重然と共に、小牧長久手の戦いや、四国攻めに参戦し手柄を立て、三木城主13万石となり、1590年の小田原攻めにも2000を率いて出陣している。 しかし、1592年の文禄の役で、朝鮮で鷹狩りの最中に敵兵に包囲されて亡くなった。享年25。 出處 http://senjp.com/nakagawa
伊達忠宗 Date Tadamune(1600年-1658年) 伊達政宗的次子、母為田村清顯之女.愛姬、正室為池田輝政之女.振姬、側室為櫛笥隆致之女.貝姬;幼名虎菊丸、別名總次郎,受德川秀忠偏諱「忠」字,名為忠宗。 慶長十二年(1607年),與此年出生的德川家康的五女.市姬成立婚約,但是市姬在3年後死去,於是以池田輝政之女.振姬(德川家康外孫女)成為德川秀忠的養女並嫁給忠宗。 慶長十九年(1614年)身為庶長子的兄長.伊達秀宗在大阪冬之陣與父親政宗一同參戰,戰後被大御所德川家康賜予伊予宇和島10萬石而成為別家,於是忠宗被定為伊達宗家的後繼者。 寬永十三年(1636年)5月,父親政宗死去,忠宗繼任家督,同年8月成為藩主,雖然是初次接觸藩政,但是馬上就決定藩政的執行體制。首先令其他藩的家老.奉行6人中的石母田宗賴、中島意成、茂庭良綱、奧山常良4人留任,為替代津田景康、遠藤玄信而新加入津田賴康(景康的兒子)、古內重廣。更把一直以來都是單任制.負責指導和監督奉行的評定役改為多人制,於是把役職的內容變成奉行的補助機關,並任命津田景康、遠藤玄信、片倉重綱、古內義重、鴇田周如5人(「評定役」在後來成為進行裁判的評定所負責人的役職名)。此外還任命7名負責監察的「目付役」,在翌年制定包括於家中禁止私自處罰等條項的法度,強化藩內的統制。 在財政方面,於寬永十七年(1640年)至寬永二十年(1643年)實施「寬永總檢地」。此時把仙台藩的計算方法(1反=360步)改為全國標準(1反=300步)(二割出目),把貫高制的換算基準固定(1貫=10石)來與石高制對等,更以檢地的結果來重新分配家臣團的知行地。還把領內余剩的米由藩買進並運到江戶售賣(被稱為買米制)。在忠宗一代因為買米制是非強制性,所以對農民來說是非常有益,買米代金被稱為「御惠金」,此舉還成為促進開發新田的原動力。 寬永十六年(1639年)為使用政龐而在仙台城建造二之丸,亦對寺社進行大幅度擴建。寬永十四年(1637年)為祭祀父親政宗而建立瑞鳳殿和瑞鳳寺,寬永十七年(1640年)建築白山神社的社殿。寬永二十年(1643年)創建滿福寺, 慶安二年(1649年)再建因為火災而燒燬的孝勝寺;翌年,建立愛宕神社。承應三年(1654年)以6年時間在東照宮勸請和遷宮(仙台東照宮)。承應四年(1655年)於仙台東照宮進行祭禮,在仙台進行祭禮成為現在的仙台青葉祭的起源。 萬治元年(1658年)死去,年六十歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%BF%A0%E5%AE%97
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、木下秀吉、斎藤道三、松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田晴信、飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、長尾景虎、長尾顕景、樋口兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、毛利元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友義鎮、龍造寺胤信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義秋、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、戸次鑑連、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、久慈為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、後藤基次、山中幸盛、陶隆房、吉弘統虎、吉弘鎮種、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、石川信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、木下秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、武田盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、三木自綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、細野光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新斎、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠隣、城井正房、大熊朝秀、氏家行広、池田知正、土井利勝、徳山則秀、平田範重、穴山信君、一条兼定、堀秀政、百々安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、佐竹義広、三善一守、板部岡江雪斎、岡本顕逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、浅野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重経、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、三木嗣頼、和田惟政、新発田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大内定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長増、安東実季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間頼照、酒井家次、宇都宮朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪頼忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色満信、真壁氏幹、本庄実乃、大田原晴清、中村春続、朝比奈信置、安藤守就、山名豊国、鵜殿長持
加藤嘉明 Kato Yoshiaki(1563年-1631年) 加藤教明的長子,母親為堀部氏,正室為堀部市右衛門之女,通稱孫六,初名茂勝。 父親教明原仕於德川家,由於教明信奉一向宗因此當三河發生一向一揆的叛亂時,教明離開了德川家加入一向一揆的活動,所以在三河一向一揆平定後教明成為浪人。 後來教明臣服於近江長濱城主羽柴秀吉,十三歲的加藤嘉明就被當作人質出仕秀吉擔當侍童,後來又被編為秀吉養子羽柴秀勝的近侍。 天正四年(1576年),秀吉後信長之命攻略播磨,年輕力盛的嘉明於初陣中因勇猛善戰立下功勞,獲得三百石俸祿,同年又在另一場戰役中立功再增加兩百石。天正十一年(1583年),為了爭奪信長死後的天下霸權主導,羽柴秀吉和柴田勝家掀起一決勝負的賤岳之戰,在這場戰役中嘉明與同為勤務兵的加藤清正、福島正則、脅阪安治等小兄弟並肩奮勇作戰,加藤嘉明亦討取了柴田家將領淺井則政的首級,戰後加藤嘉明名列「賤岳七本槍」之一,武名傳遍天下,受封播磨、近江、河內共三千石的領地。 之後加藤嘉明在豐臣家中專門負責指揮水軍,參加了豐臣家平定天下的各場戰役如小牧長久手之戰、九州島島討伐戰中立下功勞,天正十三年(1585年)秀吉替嘉明奏請為從五位下左馬助的官位,翌年加封為淡路志智城城主,領一萬五千石領地,後來又在小田原包圍戰中率領水軍立下戰功,移封伊予松前城領六萬二千石。 文祿元年(1592年)秀吉出兵朝鮮,加藤嘉明被任命為舟奉行率水軍出陣,被李舜臣的龜甲船隊在熊川海戰中,幸得脅阪安治相救,才保住性命。因為在戰場上受到了嚴重的打擊,加藤嘉明被招回國參加興建伏見城的任務。於慶長三年(1598年)再封賞嘉明伊予三萬七千石的領地,總共合計是十萬石。 秀吉過世後,接下執政之責的前田利家與德川家康一致決定將駐紮在朝鮮的日軍全數撤離,再次立下功勞,順利將日軍全數帶回本國。 慶長四年(1599年),就像當年信長死後一樣,缺乏有力領導人的豐臣家發生變動,在孚望甚厚的前田利家的死訊一傳出後,素來與五奉行之首石田三成不睦的武斷派眾臣於前田利家辭世當晚襲擊石田三成在大阪的屋邸,加藤嘉明與加藤清正、福島正則、黑田長政、細川忠興、池田輝政及淺野幸長七人,在得知石田三成剛好至前田利家的屋邸吊問後,仍不死心,漏夜追殺過去,但是此一舉動已讓平日和三成交好的常陸大名佐竹義宣探知,親身率兵保護石田三成離開大阪投奔伏見。石田三成心知德川家康不會殺他,故特意投奔伏見尋求庇護,德川家康也如他所願拒絕了加藤清正他們七人交出石田三成的要求,讓三成辭去五奉行之職,回到近江佐和山城隱居。 為了決定天下誰屬,德川家康使出計謀讓石田三成在伏見城正式引爆關原之戰,素來與加藤清正、福島正則等一同並列武鬥派的加藤嘉明和他們一起與文治派的石田三成相抗,而且在其後對敗軍的追擊戰中,保持軍伍陣形不亂參見家康,被家康稱譽為「不論何事都能保持穩重的男人」。 在關原展開激戰的同時,西軍名義上領袖毛利輝元亦派遣家臣村上元吉、穴戶元真及曾根景房等,聯合河野氏的舊臣興兵渡海攻向嘉明的領地伊予松前城,卻被嘉明的部將佃十成夜襲擊敗,村上元吉戰死於此役。不久,西軍於關原戰敗的消息傳開後,穴戶元真和曾根景房立即便率兵撤退,離開伊予。 戰後加藤嘉明的領地加封至二十萬石仍為伊予松前城城主,後於慶長八年(1603年)將居城遷往擁有港口的松山城,藉海運之便整頓領內商業。在明白天下大勢已屬於德川的加藤嘉明不改立場在大阪之戰中參加德川家陣營,但是因為豐臣方刻意所放出的流言,被認為有和大阪城內通的嫌疑,與福島正則、黑田長政等同樣受過秀吉恩顧的大名以「留守居役」的名義被留在江戶城,由長子明成代理率軍參戰,在夏之陣中活躍於天王寺、岡山之戰。 後在元和五年(1619年),福島正則被貶離備後前往信濃川中島時為防範他舉兵謀反,由當時已得到幕府信任的加藤嘉明帶兵隨行監督。 寬永四年(1627年),會津城主蒲生忠鄉過世,在藤堂高虎的推薦下,加藤嘉明臨到老時再度被加封,轉封至奧州領有陸奧會津四十萬石領地,定居城於若松城。 寬永八年(1631年),加藤嘉明過世於江戶的屋敷中,享年六十九歲,法名為三明院道宣興。 出處 http://baike.baidu.com/view/89326.htm
大久保長安 Okubo Nagayasu(1545年-1613年) 大藏信安的次男,正室為下間賴龍之女,繼室為大久保忠為之女,通稱十兵衛。 祖父是大和國春日神社的金春流猿樂師,在播磨國大藏開創了大藏流,大藏長安亦在此時出生。其父大藏信安做為猿樂師曾經流落至甲斐國,並成為當時武田信玄首席的猿樂師。但信玄在見到大藏長安卻將他從猿樂師拔擢為武士,並做為土屋昌次的與力(寄騎),姓氏亦從大藏改為土屋。但信玄並不將長安培養成戰士,而是看上了他的經營才幹,打算將武田領地中的黑川金山等礦山開發的稅務及庶務行政官一職交給他。 信玄死後,長安成為武田勝賴的家臣。在天正三年(1575年)的長篠之戰中,土屋昌次及長安兄新之丞皆戰死,但長安並未參與此戰。 天正十年(1582年),織田、德川聯軍入侵甲斐,武田家滅亡,土屋長安轉而出仕德川家。並負責建造德川家康在甲斐的臨時住所,家康在此時發現了大久保長安的才能並加以錄用。另一說是透過家康的近臣、也就是舊武田家臣成瀨正一的引薦,將善於管理金山的長安介紹到了家康的麾下。 就這樣,長安成為大久保忠鄰的與力,也在此將姓改成大久保。天正十年(1582年)6月信長死後,甲斐國成了家康的領土,但此地自武田滅亡後一直混亂不堪,家康命令本多正信與伊奈忠次負責重建甲斐的內政,而實際上是由大久保長安一手完成。大久保長安修復了釜無川及笛吹川的堤防、開發新田,以及開採甲斐金山,使甲斐的政治在數年內重新回到軌道。 天正十八年(1590年)的小田原之戰後,德川家康奉命移往關東。大久保長安與伊奈忠次、青山忠成、彥阪元正等人一同被任命製作土地的登記冊簿,以供家康參考如何分封家臣。關東250萬石中,100萬石為家康直接管轄,長安與元正、忠次做為關東代官之首負責管理家康領中的一切事務。 天正十九年(1591年)得到家康賞賜的武藏八王子(後來的橫山)8000石土地,但若按曾支配過本地的北條氏照的舊領來算的話,實際得到的土地共有9萬石。大久保長安在八王子宿(現今東京都八王子市)建造陣屋,展開了八王子宿的建設,及淺川的氾濫工程,此地後來被稱為石見土手(土手即堤防)。 此外,長安對於家康來說,也是維持武藏治安以及國境警備十分重要的角色,因此許可其在八王子設立了「五百人同心」(維持甲斐-武藏國境警備及治安的集團),藉此形成了以舊武田家臣團為中心的八王子五百人同心。慶長四年(1599年)家康答應增加一倍人數,成為「八王子千人同心」。 慶長五年(1600年),關原之戰爆發,大久保長安與伊奈忠次負責德川秀忠隊的後勤補給。戰後,德川得到了豐臣氏的佐渡金山及生野銀山,大久保長安亦在同年9月成為大和代官,10月成為石見銀山檢分役、11月成為佐渡金山接收役。慶長六年(1601年)春被任命為甲斐奉行、8月成為石見奉行、9月成為美濃代官。一人身兼這所有的職位,無疑是家康對長安經營能力的高度評價所致。 慶長八年(1603年)2月12日,德川家康被任命為征夷大將軍,大久保長安也被提拔至從五位下石見守,並成為家康六男、松平忠輝的家老。7月被任命為佐渡奉行,12月成為所務奉行(後來的勘定奉行),同時名列年寄(後來的老中)。慶長十一年(1606年)2月被任命為伊豆奉行……也就是說德川家康讓大久保長安管理了全國的金銀山、關東的交通網、一里塚(道路里程碑)的建設等等。日本現今所知的里程碑,即一里=三十六町、六十間=一町、六尺=一間等……這些規格皆由大久保長安所統一,為了以後幕府統一日本所預行的措施。 總攬一切奉行職務的大久保長安權力也逐漸擴大。其七個兒子分別與石川康長及池田輝政之女結婚,並促成松平忠輝與伊達政宗長女五郎八姬的婚姻,藉以建立與政宗的親密關係。由於其龐大的權勢及人脈使得大久保長安得到了「天下的總代官」此一稱呼,並與大久保忠鄰形成了幕府中的大久保派,與受家康寵愛的本多正信組成的本多派開始了權力鬥爭。在岡本大八事件中的勝利使大久保派盛極一時。此時期加上大久保長安所領的八王子8000石(實際為9萬石)、可以說家康直轄的150萬石實質上是由其一人支配。 到了晚年,由於全國礦山產量低下,使其在家康底下逐漸失寵,先被罷免美濃代官一職,接著又陸續遭到解職,加上妻子過世等諸多打擊,大久保長安於慶長十八年(1613年)4月25日死去。享年69。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E9%95%B7%E5%AE%89
山内一豊 Yamauchi Kazutoyo(1545年-1605年) 岩倉織田氏の重臣・山内盛豊の三男として尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田)の黒田城、もしくは岩倉(現在の愛知県岩倉市)に生まれる。当時山内家は岩倉織田氏(当主は織田信安、後に信賢)の配下で、父の盛豊は家老として仕えていた。やがて岩倉織田氏は同族の織田信長と対立する。弘治3年(1557年)に兄十郎が盗賊(織田信長の手勢であるといわれる)に黒田城を襲撃された際に討死、さらに永禄2年(1559年)に岩倉城が落城した際、父の盛豊は討死もしくは自刃する。こうして主家と当主を失った山内一族は離散し、諸国を流浪する。 一豊は苅安賀城(一宮市)主・浅井新八郎(政貞)をはじめ、松倉城(岐阜県各務原市)主・前野長康、美濃国牧村城(岐阜県安八郡安八町)主・牧村政倫や近江国勢多城(滋賀県大津市)主・山岡景隆に仕える。景隆が織田信長に逆らって出奔したことから、永禄11年(1568年)頃から信長の配下に入り、木下秀吉(後の豊臣秀吉)の下で家人となったと考えられるが、秀吉への仕官を天正2年頃とする説もある。 元亀元年(1570年)9月の姉川の戦いで初陣し、天正元年(1573年)8月の朝倉氏との刀禰坂の戦いでは顔に重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門を討ち取った。この戦闘の際、一豊の頬に刺さったとされる矢は、矢を抜いた郎党の五藤為浄の子孫が家宝とし、現在、高知県安芸市の歴史民俗資料館に所蔵されている。これらの功績により、近江国浅井郡唐国(現在の長浜市唐国町)で400石を与えられた。 なお、「山内一豊の妻」こと見性院との結婚は、元亀年間から天正元年(1573年)の間であったと見られる。 天正4年(1576年)の竹生島奉加帳に「山内伊右衛門」と署名しており、この頃までには秀吉の直臣となっていたことが確認されている。 天正5年(1577年)には、播磨国有年(兵庫県赤穂市内)を中心に2,000石を領した。その後も秀吉の中国地方経略に加わり、播磨の三木城を巡る戦い(三木合戦)や因幡の鳥取城包囲・高松城水攻め(備中高松城の戦い)などに参加している。 天正9年(1581年)の馬揃えの際には、妻が蓄えておいた黄金で良馬を買って夫に武士の面目を施させたという美談がある。 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、その前哨である伊勢亀山城(三重県亀山市)攻めで一番乗りの手柄をあげている。また、翌12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、秀吉の命で、家康を包囲するための付城構築の作業に当たっている。 四国平定後、羽柴秀次(豊臣秀次)が大幅に加増されると、田中吉政・堀尾吉晴・中村一氏・一柳直末と共にその宿老の1人として付けられて、天正13年(1585年)には若狭国高浜城主、まもなく秀次が近江八幡に転封すると、一豊も近江へ移り、長浜城主として2万石を領した。天正18年(1590年)の小田原征伐にも参戦し、秀次に従い山中城攻めにも参加した。織田信雄の改易に伴って再び秀次が尾張・伊勢で加増されると、一豊ら宿老衆も転封して、遠江国掛川に5万1,000石の所領を与えられた。この頃から大名としての行動が見られ、掛川では城の修築と城下町づくりを行い、更に洪水の多かった大井川の堤防の建設や流路の変更を川向いを領する駿府城主中村一氏とともに行っている。朝鮮の役では、他の秀次配下の諸大名と同じく出兵を免れたが、軍船の建造や伏見城の普請などを担当して人夫を供出した。 文禄4年(1595年)に秀次が謀反の疑いで処刑され、この頃に秀次の宿老であった前野長康と渡瀬繁詮はこの事件の責任を負わされて、秀次を弁護した繁詮は切腹を命じられ、長康は中村一氏に預かりとされて蟄居後、賜死とされた。しかし一豊や田中・中村・堀尾ら配下の大名衆は、秀吉の命令を遂行して秀次らを取り調べる立場となり、秀次の処断の後で逆に遺領から8,000石を加増されている。 秀吉の死後の慶長5年(1600年)には五大老の徳川家康に従って会津の上杉景勝の討伐に参加した。家康の留守中に五奉行の石田三成らが挙兵すると、一豊は下野国小山における軍議(小山評定)で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言し、その歓心を買って東軍に組した。この居城を提供する案は堀尾忠氏と事前に協議した際に堀尾が発案したが、油断してうっかり洩らしたものを聞き、自分の案として家康に申し出、感謝を受けたと言われる。また大坂の妻からの密書で石田三成の挙兵の知らせを受けたという話も有名である。これらは話の信憑性には疑問があるものの、東海道筋の他の大名である中村一氏が死の床にあり、同じく忠氏の父である堀尾吉晴も刺客に襲われて重傷を負うなど老練な世代が行動力を失っている中で、周辺の勢力が東軍に就くよう一豊が積極的にとりまとめていた。三河国吉田城主の池田輝政など、この時期に一豊とたびたび接触しており、豊臣恩顧の家臣衆の取り纏め役を果たしていたとは考えられる。 関ヶ原の戦いの前哨戦である河田島村と米野村での戦いで、西軍に味方した岐阜城主の織田秀信の軍勢を、池田輝政や浅野幸長らと共に破った。本戦でこれらの武将は南宮山に陣取った毛利・長宗我部軍などの押さえを担当したが、東軍に内応していた毛利軍先鋒の吉川広家隊が南宮山に蓋をしていたためにさしたる戦闘もなく、輝政を残して主戦場へ移動した。戦後は小山会議での右顧左眄(うこさべん)していた諸侯を一挙に徳川加担に向かわせた発言が功績として高く評価され、土佐国一国・9万8,000石を与えられた。後に、高直しにより20万2,600石を幕府から認められている。 慶長6年(1601年)、掛川から土佐に移封となり、浦戸城に入城する。大幅な加増があり、余所から入部してきた大名は、ただでさえ人手も足りなくなるので地元の元家臣を大量に雇用するのが常であったが、一領具足を中心とした旧長宗我部氏の家臣団は新領主に反発し、土佐国内で多くの紛争(旧主長宗我部盛親の復帰を求めるなど)を起こした。これに対して一豊は、新規召し抱えの家臣は上方で募るなど、重要な役職を主に外来の家臣で固めたが、有益な長宗我部旧臣は懐柔して登用した。当時はまだ土佐領内に不満分子が完全に排除されていなかった為、高知城の築城の際などには一豊と同装束六人衆を影武者として共に現地を視察したと言う。 高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し、城下町の整備を行った。領民に対して食中毒を気遣い、鰹を刺身で食べることを禁じたという話が伝わる。それに対し、領民が鰹の表面のみをあぶり、刺身ではないと言い繕って食すようになった。これが鰹のタタキの起源だとされている。 慶長8年(1603年)、豊臣姓を下賜されて、従四位下土佐守に叙任された。 慶長10年(1605年)、高知城にて病死した。享年60。法名は大通院殿心峯宗伝大居士。墓所は高知県高知市天神町の日輪山真如寺の山内家墓所。京都市右京区花園妙心寺町の正法山妙心寺大通院。 現在、高知城には(右上の写真にある)一豊が騎馬姿で槍を持った姿の銅像が建てられている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%B8%80%E8%B1%8A
後藤基次 Goto Mototsugu(1560年-1615年) 黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は又兵衞で、後藤 又兵衛(ごとう またべえ)として広く知られる。黒田如水、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」の一人に数えられた。 諸説あるが、『大日本史』などによると、永禄3年(1560年)に播磨国姫路近郊の神東郡山田村に生まれる。父は別所氏家臣で、後に小寺政職の下にいた後藤新左衛門(基国?・後藤氏当主・伯父説あり)の次男として生まれた。 天正6年(1578年)、黒田孝高が荒木村重によって有岡城に幽閉された際、黒田家家臣一同の誓紙への署名を又兵衛の伯父・藤岡九兵衛が拒否したため一族追放となり、仙石秀久に仕えることとなる。 当時の記録に基次の具体的な足跡が現れるようになるのは、天正14年(1586年)、九州征伐の宇留津城攻めの頃からである。戸次川の戦いにおいて仙石秀久が島津家久に大敗し、領国の讃岐国に逃げ帰った後には、黒田孝高の重臣である栗山利安の与力となり、黒田家に100石で仕えている。領地替えを巡って徹底抗戦を行った城井氏との戦いでは、吉田長利と共に途中で黒田長政に退却を勧めるが聞き入れられずに敗北を喫し、天正15年(1587年)12月の長岩城攻めの際には瀕死の重傷を負った。文禄元年(1592年)から始まる朝鮮出兵にも従軍し、第二次晋州城攻防戦では亀甲車なる装甲車を作って城壁を突き崩し、加藤清正配下の森本一久らと一番乗りを競った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成家臣の剛槍使い、大橋掃部を一騎討ちで破るなどの武功を挙げ、戦後大隈城(益富城)16,000石の所領を与えられた。 如水(孝高の法号)の死から2年後の慶長11年(1606年)、基次は一族揃って黒田長政が後を継いだ黒田家を出奔する。当初は豊前国の細川忠興を頼ったが、元から関係がこじれていた両家(黒田家・細川家)が一触即発の状況となり、徳川家康などの仲裁により細川家を退去する。基次の智勇を惜しんで福島正則・前田利長・結城秀康などから召し出しがかかるが、長政により「奉公構」という措置がなされていたため実現しなかった。一旦故郷である播磨国に戻り、領主となっていた池田輝政を介して岡山の池田忠継に仕えた。しかし、「奉公構」の影響で慶長16年(1611年)より京都で浪人生活を送ることになる(浪人した時期は慶長18年(1613年)6月、池田輝政の死後とも)。 慶長19年(1614年)、大坂の役が勃発すると、大野治長の誘いを受け、先駆けて大坂城に入城する。旗頭として天満の浦での閲兵式の指揮を任された際、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称される。徳川家康からは、基次と御宿政友のみが警戒される名望家であった。歴戦の将として大坂城五人衆の一人に数えられ、山川賢信、北川宣勝以下を与力として、大野治長・治房らを補佐した。冬の陣では6000人の遊軍を任され、鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。 翌年5月、大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて、大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて、6日の未明、平野郷から出陣した。しかし、徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が、既に国分村まで進出していた。次善の策として、中間にあった小松山に布陣し、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次(奥田忠高の子)を討ち取るなど、孤軍で奮戦し賞賛された。しかし、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁らの軍が霧の発生により到着が遅れ、逆に伊達政宗の家臣片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対し、基次は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死した。享年56。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%AC%A1
村上景親 Murakami Kagechika(1558年-1610年) 父は村上武吉、母は村上通康の娘。兄に村上元吉。正室は平岡房実の娘。側室は文禄・慶長の役で捕虜にした朝鮮貴族の娘。息子は早世した八助と村上元信。娘は村上元武や宍戸景好の妻となった。通称は三郎兵衛尉、源八郎。初めの主君・小早川隆景より偏諱を賜い景親と名乗る。 1578年(天正6年)の上月城の戦いに出陣した。その後は、兄と行動をともにした。1592年(文禄元年)から始まる文禄・慶長の役では吉川広家に従って、兄ともども朝鮮に渡海している。小早川隆景が隠居すると、父と兄は毛利氏に帰参したが、景親はそのまま小早川家中に残り、養嗣子の小早川秀秋の家臣として仕えた。しかし1597年(慶長2年)に小早川隆景が死去すると毛利氏に帰参して安芸国竹原に所領を得た。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、兄の元吉とともに水軍を率いて、蜂須賀氏の所領であった阿波国の猪山城を攻撃し、落城させた。その後は毛利軍の一員として、関ヶ原の戦いに参加した。 防長移封後、細川忠興や池田輝政も景親の武勇を見初め、家臣として誘ったが、景親はこれを辞退して父とともに屋代島に移住、毛利家御船手組の組頭となった。 1610年(慶長15年)に死去、墓所は山口県大島郡周防大島町にある。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%99%AF%E8%A6%AA
板部岡江雪齋 Itabeoka Kousetsusai(1537年-1609年) 田中泰行之子,姪女為德川家康側室・養珠院;別名田中融成・岡野融成・岡野嗣成。江雪齋為真言宗門弟子,而後作為右筆被召出仕北條氏,因能力出眾,成為評定眾。 田中氏據『寬政重修譜』中所載其家系為桓武平氏北條氏流,相傳其初代是導致鐮倉幕府滅亡的末代執權北條高時的次子北條時行,到父親田中泰行這一代時,出仕於北條氏康頗有戰功。 伊豆國奈古屋的板部岡康雄(石卷家貞之子)在小田原北條氏麾下的領有西郡延澤、東郡用田是小田原眾的其中一人,領地共計二百二十貫有余,後自稱為能登守。 板部岡康雄無嗣,遺領由田中融成(板部岡江雪齋)所繼承,江雪齋在繼承之時受北條氏政的命令改姓為板部岡。然而,也有板部岡康雄的遺領被父親田中泰行所繼承的一種說法。『寬政重修譜』中記載,江雪齋是受氏政之命,先成為給予板部岡某的與力後繼承家業。 江雪齋在弘治年間獲得小田原城奉行眾的職務,後又成為奉行眾的筆頭。江雪齋在武藏國岩槻城主北條源五郎某死後,成為同城的守將,北條氏政、北條氏直出陣之際,獲得信任的江雪齋時常出任小田原城的守備一職。 父親泰行於天正六年(1578年)去世。江雪齋繼承家業,此時方有入道江雪齋之名,在文書上常只署名江雪二字。 天正十年(1582年),武田氏滅亡之後,調解因甲斐領地大打出手的德川家康、北條氏政之間的矛盾,並成功迎取德川家康之女.督姬(池田輝政繼室)做為北條氏直的正室。 天正十七年(1589年),受命上洛謁見豐臣秀吉、並為氏政的上洛爭取到有利的條件。北條氏滅亡後,以御伽眾出仕秀吉,受名將板部岡姓改為岡野。 文祿之役時,在名護屋侍奉豐臣秀吉,秀吉死後的慶長五年(1600年),德川家康發兵征討上杉景勝時,江雪齋隨德川軍出征。在小山之陣,得知石田三成舉兵的消息後,家康召集諸將進行軍議。這時的江雪齋和井伊直政、本多忠勝、山岡道阿彌一起,受命成為先陣的往京都方向出發。此後,和三成方的小早川秀秋暗中聯絡,在關原之戰時勸誘小早川秀秋反叛三成。 戰後,因功獲賜築前信國的鐮十文字之槍,以後和山岡道阿彌一起成為家康的近侍、也獲賜領地。 慶長十四年(1609年)六月,於伏見城去世,年七十三歲。 出處 http://tc.wangchao.net.cn/baike/detail_583178.html
永井直勝 Nagai Naokatsu(1563年-1625年) 永禄6年(1563年)、長田重元の次男として三河国碧海郡大浜郷(現在の碧南市音羽町)に生まれる。はじめ徳川家康の嫡男・信康に仕えたが、天正7年(1579年)に信康が自刃すると、徳川氏を去って隠棲した。天正8年(1580年)、家康に召し出されて再び家臣となる。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは池田恒興を討ち取る大功を挙げたため、家康や織田信雄らから賞賛された。 文禄3年(1594年)、池田恒興の次男池田輝政が家康の次女の督姫を娶った際、輝政の求めに応じて、長久手の戦いで恒興を討ち取った際の事を語った。このとき、輝政が直勝の知行を聞くと5,000石であった。輝政は父を討ち取った功績の価値が5,000石しかないのかと嘆息したという。 文禄5年(1596年)2月7日、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜されている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に近江国に2,000石を加増され、7,000石を領する。 大坂の陣にも参戦して戦功を上げ、元和2年に(1616年)上野小幡藩1万7,000石に加増。翌元和3年(1617年)には常陸笠間藩3万2,000石を与えられ、後に2万石を加増される。元和8年(1622年)、笠間を浅野長重に譲って、代わりに下総古河において7万2,000石を与えられた。 寛永2年(1625年)、63歳で死去した。跡を長男の尚政が継いだ。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E7%9B%B4%E5%8B%9D