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三村家親 Mimura Iechika(1517年-1566年) 三村宗親之子,三村盛親(三村時親)之孫。三村親成之兄(一說叔父)。子三村元祐(庄元祐)、三村元親、三村元範、上田實親。有女四人,分別嫁予上野隆德、水野勝成、石川久式、楢崎元兼。正室出自同樣自稱小笠原氏支流的阿波三好氏(注一),一般認為此女為三村元親與上田實親之母。 因備中守護細川氏的威光早已十分衰微,家親藉此機會先是與庄氏聯合,後來由於其爭鬥,藉此謀求擴張勢力。因為與庄氏的爭鬥陷入膠著,恐怕是向尼子氏一邊倒的備中國人中第一個投靠毛利氏的。毛利元就對家親評價頗高,並對三村氏使者發表了大意為「備中一國自此與毛利家囊中之物別無二致」的言論,頗為欣喜。 家親與毛利氏聯合之後,逐漸驅逐了備中尼子氏一方的勢力,實現了備中的統一。據點也從備中成羽的鶴首城(今岡山縣高梁市成羽町)移到備中松山城(今岡山縣高梁市內山下),鶴首城被委任給重臣三村親成。再次在期間積極與備中守護代家庄氏、石川氏、上野氏構築姻親關係,只有庄氏一族沒有被完全掌握,因而成了一件恨事。 永祿七年(1564年),家親派遣石川久智發兵救援備前三村一方的龍口城(今岡山縣岡山市)穝所氏時庄高資、庄勝資起兵造反(注二)。 後來為了擴大勢力而出兵備前國和美作國,家親勇猛過人,數次擊敗宇喜多直家。然而永祿九年(1566年)2月5日家親於美作國興善寺與重臣進行評議時,遭受直家之命的遠藤秀清、遠藤俊通兄弟使用短管火繩槍槍擊身亡。年五十歲。死於火器暗殺在這一年代確屬一件罕事。 注一:三好家出自阿波小笠原氏,其家祖為小笠原長經之子長房。三村氏自稱家祖為小笠原長經之子長時。 注二:出自『黃薇古簡集』,此書還記載庄氏父子佔據備中松山城後遭奪回一事。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=9#postid-241 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%91%E5%AE%B6%E8%A6%AA
三村親成 Mimura Chikashige(生年不詳-1609年) 備中国の戦国大名・三村宗親の三男として誕生。兄の三村家親の甥ともいわれる。 備中三村氏が従属していた毛利氏からの信任が厚く、毛利元就が三村氏宛の文書を当主・家親のみならず親成にも見せるように使者に言い含めていたほどである。永禄9年(1566年)に、美作国・備前国へ出陣中の兄・家親が宇喜多直家からの刺客(遠藤秀清、俊通の遠藤兄弟)に暗殺されると、機転をきかせて陣中の動揺を押さえ、兄が率いていた軍勢を代行指揮する。家親横死を秘しての余りに鮮やかな引き際であったため、直家は暗殺成功の報告を容易に信じなかったという。以後は備中兵乱に至るまで、成羽から本家である備中松山の元親をよく補佐し、三村家の屋台骨と評された。 ところが、毛利氏が三村氏にとって不倶戴天の宇喜多氏と結び、それを好機と見て取った織田信長が毛利氏からの離反を誘うが、親成は三村氏旧臣・竹井氏などとともに「織田はとても信用できかねる相手であり、毛利と手を切って織田と手を結ぶのは時期尚早である」旨の主張した。しかし、前当主・三村家親を慕う一族の大勢は織田方につくことで一致し、当主・三村元親は毛利氏離反を決定した。そのため、身の危険を感じた親成は毛利氏に通じ三村氏討伐に協力した。備中兵乱後、一定の功績が毛利氏より認められて備中成羽(鶴首)城主の地位は安堵されたが、備中松山・三村本家の叛乱を諫止できなかった咎を問われ、所領は原封の半分以下といわれる約8,000石にまで減封された。 関ヶ原の戦いまで成羽(鶴首)城主の地位にあったが、戦後に備中成羽からの離封を余儀なくされ没落。その後、備前児島三宅氏のもとへ身を寄せていたが、江戸幕府開府後、備後国に封ぜられた水野勝成に家老として召抱えられたといわれる。ただし、勝成の備後入封は親成死去から10年後の元和5年(1619年)であり矛盾している。なお、記録によると、息子の親良は慶長19年(1614年)に、親宣は元和5年(1619年)にそれぞれ勝成に召出されている。 慶長14年(1609年)10月1日に死去。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%91%E8%A6%AA%E6%88%90
伊達政宗 Date Masamune(1567年-1636年) 伊達輝宗的長子、母為最上義守之女.義姬、正室為田村清顯之女.愛姬、側室為飯坂宗康之女.飯坂之局;幼名梵天丸、通稱藤次郎、渾名獨眼龍。 右眼失明 政宗在年幼的時候由於罹患皰瘡(天花)失去右眼的視力,也因此後世皆稱之為獨眼龍。不過關於政宗右眼失明的原因,之後多採用「從樹上摔下來時眼球被樹枝刺下來,於是便把眼球吞進肚子」的說法。 母親義姬在政宗右眼失明後,便覺得政宗的容貌十分的醜惡。因此義姬嫌棄政宗,轉而喜愛次子小次郎。之後義姬更有毒殺政宗的行動(該次暗殺行動後小次郎被政宗殺害),不過政宗卻說:「這件事與母親無關」。 元龜三年(1572年),父親輝宗聘請臨濟宗的虎哉宗乙禪師為五歲的政宗的老師,天正三年(1575年),輝宗讓神職之子片倉小十郎(片倉景綱)擔任政宗的侍童。片倉景綱可以說是政宗最親近的人,側近中的側近,日後是政宗的得力軍師。天正五年(1577年)元服,取名與伊達家第九代當主,有中興之祖之稱的伊達政宗同名,足以見得輝宗期望政宗能振興伊達家。另外,原本政宗的名字預定是取第十五代將軍足利義昭的昭字,定名為昭宗。 天正七年(1579年),在父親輝宗的安排下,政宗與同屬陸奧國大名,三春城城主田村清顯的獨生女,愛姬成婚(陸奧田村氏傳說乃古代遠征奧羽的坂上田村麻呂後代)。〔這樁聯姻在於相馬氏屢屢來犯時,相馬顯胤總是與嫡子盛胤從犯伊達家領地的東南邊領,同時又聯同其他大名侵略田村氏,故換句話說是兩家結盟對抗相馬等氏的政略婚姻。相馬顯胤是輝宗的祖父伊達稙宗的女婿,算是輝宗的姑丈。兩家自從天文之亂後一直交惡。(顯胤經常說:「我是伊達家的女婿,盛胤是稙宗大人生前鍾愛的孫子,憑什麼不讓我們成為伊達家臣?」) 版圖擴充 天正九年(1581年),15歲的政宗由片倉景綱與伊達成實陪同初次領軍作戰(另有一說為天正十年,但大多作九年),政宗先下大森城,再破金津城,沒幾天後伊達軍又攻破丸森城與金山城。但兩家並未分出勝負。(伊達氏自此之後,東面戰線的主要交戰對手都是相馬氏,直至天正十八年(1590年),政宗與相馬氏一直處於交戰對立狀態。) 天正十二年(1584年)父親輝宗有鑒於家內為未來繼承人的問題而分為兩派(政宗與小次郎,其中小次郎派為義姬幕後主腦),為停止家中分裂,輝宗決定讓政宗繼任家督的同時宣布退位。雖然政宗多次諫止,但在群臣的勸說後,18歲的政宗正式繼任為伊達家17代家督(「貞山公治家記錄」卷一)。政宗繼位後,決意向周邊的敵對大名交戰。第一步是迫立場反覆不定的大內氏投降,其當主大內定綱在蘆名的支持下拒絕政宗的威脅,於是政宗便大舉進攻大內定綱,並發生小手森城屠城的事件。深感危機的二本松義繼為求自保,終在天正十三年(1585年)前往拜見輝宗,但義繼突然發難脅持輝宗威迫伊達家讓步,政宗下令向義繼部隊射擊,結果是義繼和輝宗二人在鐵砲射擊下死亡,是為粟之巢之變。 其後,政宗開始鎮壓叛變的大內定綱。同時在蘆名義廣、常陸的佐竹義重為首的奧羽南部大名,如岩城常隆、石川昭光,白川義親、相馬盛胤、二階堂盛義等反伊達的軍隊也開始向伊達家進攻,戰場從觀音堂轉戰到人取橋,慘烈的程度連指揮的政宗都投入一般的白刃戰鬥。儘管戰鬥經常呈現膠著,但是政宗聯絡北條氏派軍攻擊佐竹領,同時義重本營又收到反佐竹的江戶重通趁機入侵,故反伊達陣線因此一夜撤軍。政宗辛辛苦苦終於贏取是役的勝利。可是政宗也損失七十三歲的老部將鬼庭良直,他為保護伊達軍免於崩潰,於是殿後作戰,於人取橋附近奮戰而死。 之後政宗又於天正十七年(1589年)在摺上原對抗(摺上原之戰),並先後將蘆名氏和二階堂氏消滅。經過摺上原等對周邊大名的戰爭後,伊達的勢力已經滲入整個會津及奧州,而政宗開創比父祖更大的伊達家版圖,當時領地的石高推定為120萬石左右。 豐臣政權家臣時期 天正十八年(1590年),豐臣秀吉出兵後北條氏小田原城,並下令伊達家派兵協助,但是因為在出兵前中欺騙秀吉,政宗遲遲還沒作出決定,幸而有片倉景綱的提醒下,部隊遲出發,秀吉曾打算將政宗處死,於是政宗將自己和其部隊全身白色裝束上陣,並且甘願受罰,以表示忠誠和謝罪,所以秀吉以杖代刀的方式來處罰政宗,並且寬恕政宗罪過;戰後由於出兵有功,所以伊達家能保持原有的領地,而失去會津一帶的領地。戰前,母親義姬因支持政宗之弟伊達小次郎政道而欲毒殺政宗,讓政道取而代之;之後小次郎被處死,義姬則在事件發生數年後離開伊達家,回到兄長山形國大名最上義光的山形城(原因不明)。 天正十九年(1591年),協助蒲生氏鄉平定葛西大崎一揆,但是氏鄉則指政宗與一揆軍內通,於是政宗為此事再次上京解釋,證明該書物是偽造後,而秀吉則決定改封政宗至岩出山城58萬石(但米澤等地則被沒收,故是減遷)。 天正二十年(1592年),受豐臣秀吉之命令派三千兵出征朝鮮,3月抵達征明(中國當時為明朝)之地名護屋,文祿四年(1595年)獲批准回日本。政宗沒有參與慶長之役。慶長四年(1599年)將嫡女五郎八姬與松平忠輝婚姻。自此就與德川家康有親近的關係。在關原之戰時支持東軍,雖然無法直接參與在關原的本戰,但是政宗在長谷堂城之戰接受最上義光的求援,派遣留守政景支援長谷堂城的戰況,使直江兼續無法攻下長谷堂城。 仙台藩主 由於關原之戰所屬的德川軍取得勝利,因此政宗的領地得以保留。德川家康原定安排政宗成為100萬石大名,但是因為被揭發煽動和賀忠親引發岩崎一揆,只能由原來石高57萬增封為62萬的大名,成為仙台藩藩祖,隨後立即築起仙台城及城下町,當時仙台城仍為山城,在山下設下城下町,仍有統一天下之心(政宗死後被改建為平山城)。 參與由德川對豐臣的大坂冬之陣及大坂夏之陣等著名戰鬥,在夏之陣的道明寺之戰於譽田與真田信繁部隊激戰,在天王寺·岡山之戰,曾經向我方神保相茂部隊自相殘殺以鐵炮部隊使之全滅,之後神保遺臣透過水野勝成喊冤,要求德川家要政宗需對事件作出解釋。但是最終幕府沒有對政宗的行軍作出任何懲罰。 此外政治方面,更於慶長十八年(1613年)派遣家臣支倉常長到羅馬與教廷使節會面長達七年,成功在外國進行貿易。亦成功將仙台一帶成為經濟的重心。 德川幕府成立後,曾多次任將軍的上京供奉。曾說「願早生二十年,成就如信長公霸業」,政宗雖有想要一統天下的志向,卻難逃生不逢時的厄運。 寬永十三年(1636年),已隱居的政宗於江戶因食道癌病逝,年七十歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97
三百六十位人物:松倉重信、松平信康、松平忠輝、松平忠吉、松野重元、沼田顕泰、沼田祐光、上村頼興、上田憲定、城井長房、城井鎮房、城親基、城親冬、植田光次、織田信光、織田信澄、織田信包、色部顕長、色部長実、新井田隆景、新関久正、新発田綱貞、新発田重家、森岡信元、森下通与、森好之、森長可、森田浄雲、真柄直隆、神戸具盛、神保長城、神保長職、仁保隆慰、壬生義雄、壬生綱房、壬生綱雄、須田長義、須田満親、水越勝重、水谷胤重、水谷正村、杉原盛重、菅沼定盈、菅谷政貞、成松信勝、成沢光氏、正木憲時、生駒親正、西園寺公広、青景隆著、石巻康敬、石川家成、石川利直、赤穴盛清、赤松政秀、赤尾清綱、跡部勝資、千葉重胤、千葉邦胤、川上久朗、川上忠克、川村重吉、浅野長政、浅野長晟、浅利則祐、浅利頼平、前波吉継、相良晴広、増田長盛、足利義氏、太田康資、太田氏資、太田重正、大浦為則、大館義実、大久保忠佐、大久保忠世、大久保長安、大崎義隆、大西頼晴、大西頼武、大道寺政繁、大友義統、大友親家、大内義長、大掾貞国、木造雄利、谷忠澄、丹羽長重、淡河定範、池田恒興、池田勝正、池田長正、竹内久盛、筑紫惟門、中川清秀、中村一氏、中野宗時、猪去詮義、猪苗代盛胤、朝倉景鏡、長宗我部盛親、長船綱直、長船貞親、長倉祐政、長続連、長尾景信、長尾当長、長野藤定、長野稙藤、長連龍、鳥居元忠、津田重久、天野景貫、田結庄是義、田中吉政、土屋昌恒、土居清宗、土橋守重、島村盛実、島津義虎、島津歳久、島津忠直、藤田信吉、藤方朝成、徳田重清、那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部政直、南方就正、二階堂盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之、板倉勝重、飯尾連竜、富田景政、富田重政、武田義信、武鑓重信、服部友貞、福原貞俊、福留儀重、平岡直房、平岡頼勝、平賀元相、平田光宗、片倉重長、保科正俊、母里友信、芳賀高継、芳賀高定、蜂屋頼隆、蜂須賀家政、豊島重村、北楯利長、北条高広、北条氏勝、北条氏照、北条氏房、北信愛、牧野康成、堀秀治、本山茂宗、本多重次、本多忠政、本多忠朝、本堂忠親、明石全登、明智秀満、毛屋武久、毛利秀元、吉川元長、吉川広家、毛利勝永、木下秀秋、木曾義康、木村重成、木脇祐守、問註所統景、問田隆盛、矢作重常、矢沢頼綱、薬丸兼将、柳生宗矩、有馬晴信、遊佐信教、遊佐盛光、遊佐続光、里見義頼、里見忠義、立原久綱、立石正賀、留守顕宗、伊達政景、龍造寺家就、龍造寺信周、龍造寺政家、龍造寺長信、鈴木重兼、鈴木重則、鈴木重朝、浪岡顕村、六角義治、垪和康忠、簗田晴助、簗田詮泰、蘆田信蕃、蠣崎慶広、蠣崎守広、蠣崎盛広、龍造寺家晴、富田氏実、佐藤好信、三好長治、小幡信貞、大田原綱清、仙石秀久、稲富祐秀、支倉常長、秋山信友、原虎胤、織田信秀、船尾昭直、渋江政光、酒井政辰、安藤良整、長尾種常、志駄義秀、平林正恒、神保氏張、滝野吉政、蜷川親長、井戸良弘、箸尾高春、宇喜多詮家、中島元行、豊永勝元、長寿院盛淳、横山喜内、向井正綱、北条早雲、太田道灌、尼子経久、今川氏親、長尾為景、浅井亮政、大友義鑑、龍造寺家兼、本願寺蓮如、宮本武蔵、佐々木小次郎、二階堂盛義、梶原景宗、福留親政、小牧源太、南光坊天海、森蘭丸、簗田政綱、毛利新助、最上義忠、森忠政、木村定光、以心崇伝、林羅山、秋月元種、井田親之、服部康成、浪岡慶好、遠藤盛胤、川島宗泰、保土原行藤、小田辺勝成、黒沢道家、梅津憲忠、岡本宣綱、須田盛久、長尾景広、大道寺直次、中山照守、塙安友、前田利政、生駒一正、上田重安、桑山重晴、関盛吉、田丸直昌、小笠原秀政、木曾義利、千村良重、宮部長房、新庄直頼、新庄直忠、小川祐忠、京極高知、松井康之、筒井定慶、松倉重政、南条元忠、南条元清、石野氏満、有馬則頼、有馬豊氏、赤松則英、赤松広秀、福原長堯、長船定行、毛利元康、毛利秀包、宍戸元続、福原広俊、仁木義治、吉田政重、佐竹親直、秋月種長、種子島久時、赤座吉家、足立重信、石田重家、太田一吉、大谷義治、大野治房、大野治胤、奥村長福、金森可重、上泉泰綱、郡宗保、小西行景、吉弘統増、松平家光、速水守久、福島高晴、前田利常、水野勝成、脇坂安元、村井長頼、由布惟信、小野鎮幸、飯田直景、柳生宗章
五十二位人物:長船定行、末次元康、小早川秀包、宍戶元続、福原広俊、仁木義治、吉田政重、佐竹親直、秋月種長、種子島久時、赤座吉家、足立重信、石田重家、太田一吉、大穀義治、大野治房、大野治胤、奧村長福、金森可重、上泉泰綱、郡宗保、小西行景、立花直次、德川家光、速水守久、福島高晴、前田利常、水野勝成、脇阪安元、村井長賴、由布惟信、小野鎮幸、飯田直景、柳生宗章、柳生三厳、赤池長任、和久宗是、東鄉重位、安井成安、山田長政、天草時貞、伊東祐益、三浦按針、猿飛佐助、霧隱才蔵、穴山小助、海野六郎、望月六郎、筧十蔵、根津甚八、由利鐮之助、三好清海、三好伊三、加藤段蔵、東北國人眾、安東水軍眾、中尊寺住職、專稱寺住職、羽黑忍者眾、秋田商人眾、関東國人眾、相模水軍眾、房總水軍眾、法華經寺住職、風魔忍者眾、品川商人眾、北陸國人眾、東海國人眾、鳥羽水軍眾、善光寺住職、本證寺住職、松岡寺住職、戶隱忍者眾、江尻商人眾、小濱商人眾、畿內國人眾、木津水軍眾、丹後水軍眾、延暦寺住職、根來寺住職、伊賀忍者眾、甲賀忍者眾、堺商人眾、中國國人眾、四國國人眾、能島水軍眾、鹽飽水軍眾、土佐水軍眾、善通寺住職、光照寺住職、世鬼忍者眾、米子商人眾、九州國人眾、豊後水軍眾、五島水軍眾、長善寺住職、彌勒寺住職、薩摩忍者眾、博多商人眾、南蠻商人、南蠻商人、南蠻商人、南蠻商人、商人
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望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
堀直寄 Hori Naoyori(1577年-1639年) 天正18年(1590年)、従叔父に当たる堀秀政が没し、又従弟で秀政の嫡男・秀治が幼かったため、家督相続が遅々として進まなかった。家老の直政は直寄を使者として豊臣秀吉に直訴した。「先臣秀政、軍に死し候えば、その子秀治、幼年なりと申せ、よろしく嗣と為し給ふべし、若し立つことを得ざらんには、これ使臣の罪なり、」と口上したが、直寄はこの時13歳であった。秀吉は秀治の相続を認め、直寄を自らの小姓にし、従五位下丹後守に叙任された。 慶長3年(1598年)、堀家が越前北ノ庄城から越後春日山城へ転封となる。直寄は秀吉に直訴し、「父監物(直政)事、老齢にして此の度、北国へ罷越し、自然彼の国にて一揆など起らば、落着くことも成り難く、是れのみ心元なく、何卒三年の御暇を賜りたし、」と申し、秀吉も感心し、「丹後(直寄)の申し様奇特なり、早々に久太郎(秀治)のあとより下るべし、」といい、増田長盛を召し、「丹後守は器量あるものなり、父兄と共に国政を聞くべし」といって越後魚沼郡坂戸城に2万石を与えた(坂戸藩)。 会津では上杉景勝が不穏な動きをしており、直政は徳川家康に情勢を報告した。家康が上杉討伐を決めると、堀家にも「津川口より会津へ攻め入るべし」との指示が来る。一族の合議の際、直寄は太閤殿下への御恩に報いるべきと上杉、石田三成と組むことを主張したが、堀氏は東軍方に就いた。 慶長5年(1600年)8月1日、越後国内で上杉遺民一揆が勃発する。一揆勢により下倉城が陥落し城主の小倉政熙が討ち死にした。直寄は下倉城に攻撃を加えて翌日に奪還し、戦後に家康、秀忠父子から感状を授与されている。9月1日、家康より書状が来る。石田三成らが美濃の大垣に集結しているので、自分はそちらへ出馬する。会津の上杉景勝が坂戸方面へ侵攻するようなら、真田信幸、本多康重、平岩親吉、牧野康成に援兵を出すよう命じてあるから、これら諸将と協力して城を堅守するように、というものであった。 9月8日、直寄は父直政、兄直清と共に三条城から津川に向けて兵を出した。津川に向かう途中、会津の兵3000余人とともに一揆の兵が高所に登り、三段に構え、深田を前にして備えていた。これを見て直寄は家臣に「敵が深田を前にして、高きところに備えたれば、我れよりかかって勝負をいたせば敗北は必定なり、密かに脇道より敵の横合いに出でて仕掛けて切り崩さば、勝利は我にあらん」として、身近な兵10人ほどで崖陰に廻り敵の右の傍より迫り、鉄砲を撃ちかけ敵を切り崩し、これを平定した。 慶長7年(1602年)、堀秀治の弟で越後蔵王堂城主の堀親良は家老の直政と不和になり、国政を顧みない兄秀治にも不満があり出奔した。親良は甥で秀治の次男・鶴千代を自分の養子として蔵王堂城主にした。直寄は鶴千代を補佐し、鶴千代が早世して蔵王堂藩が廃藩になると坂戸と蔵王堂を兼務し5万石を領有した。蔵王堂城は長尾為景の弟・為重が築城した城だったが、信濃川の側で年々浸食が進んでいたので、上流の大島庄平潟原に築城の計画を立てる。この地が長岡と呼ばれるようになる。 語源には、神田表町千手の地が遠くから見ると長い丘のように見えるから(『長岡市史』)、長岡京に似ているから(『越後往古城主付』)、そしてこの地を御館の乱の時に本荘清七郎の家臣・神保隠岐守と長岡縫殿助(ぬいのすけ)が領していて、戦に敗れ神保は会津へ逃亡、長岡は討死したという記述が『越後治乱記』にあり、この長岡縫殿助の名から付いたという説がある。長岡が文書に出てくるのは慶長10年(1605年)に蔵王堂渡し守与助に、長岡渡しに場所を変更する、今まで通りの給米で雇う旨の文書が、鶴千代の老臣堀甲斐守から出された時である。これ以後、長岡の名が文書に多く出てくる。 慶長13年(1608年)、父が死去した後、兄が家督を継いだのを不満に思い対立する。そして慶長15年(1610年)、直清が僧侶を殺害した事件を徳川家康に訴えた為、直清と越後高田藩主で秀治の嫡男・堀忠俊は改易され、自身も1万石減封された(越後福嶋騒動)。秀治と親良、直清と直寄の兄弟相克が引き金になり、家康に堀家除封の口実を与えてしまったのである。直寄は信濃飯山藩4万石に転封され、長岡築城は中断。新たに高田藩主となった松平忠輝の家臣・山田勝重が蔵王堂城主になるが、高田城築城の為、任地を顧みる暇はなかったようである。 飯山藩4万石を領してからは、駿府にいて家康に仕えた。慶長16年(1611年)、駿府城火災のさい、いち早く駆けつけ、宝物金銀を運び出し、消火にあたり、消火の器物に自分の名前を書いておき、後からきた人々はみな直寄の名の入った器を使ったので、この時の手柄は直寄のものとなり、美濃多芸郡に1万石加増された。 大坂夏の陣に弟の直之と共に参陣。大和口の軍将水野勝成の手に属し、1番に直寄、2番に松倉重政とした。5月5日、水野、松倉らが田尻越えを経て河内へ入ったという知らせを聞き、里人に近道を尋ねた。古老がいうには「亀瀬より入らば道は近し、されどその昔、守屋大臣、此の道を通り河内へ往きて、戦ひに敗れし故、聖徳太子の御世より、赴軍の者、この道を戒められて、石に亀を刻み、その印とせられたが、刻みし亀は、その後首を隠せりにより、首なき亀を見て、戦に利なきと戒めて、この道を通らずと云う、」直寄、之を聞いて、「我いま、人に先立ってこの道を進み、敵に勝つときは千年の禁忌を破りて、愚者の迷を解かん、守屋大臣は戦いに敗れ死す、我は勝ちて生きん、若し戦に利なくして、死なば、末世の勇者の戒めとすべし、」と亀瀬を越え、河内の国府へ駆けつけ、しばらくすると、水野、松倉らも到着した。 夜も更けて、水野勝成より、「敵寄せ来たると見えて、松明多く見ゆ、あなどるべからず、」と諸将に伝言があった。直寄之を聞きて、「勝成は物に馴れたると聞きしに、巧者とも思はれず、寄せ来たる敵、何んぞ松明を多く燈さんや、敵にはあらず」というところに、再び伝令がきて、「松明皆消えたり、敵にはあらず」告げると、直寄は「これぞまさしく敵なり、なに心なく松明をとぼしたるが、巧者あって消させたり」といった。これが敵将後藤基次の部隊であった。6日未明、片山・道明寺の戦いで松倉重政の崩れるのを助け、横から討って出て、基次の兵が崩れた所を一気に押し切った。この激戦で後藤基次、薄田兼相らの名将は戦死した。7日の天王寺の戦いを経て、8日に大坂城は陥落、大坂夏の陣は終結した。 元和2年(1616年)4月1日、家康は病重く、寝殿に直寄を召して、大坂の軍功、平時の武備を称美し、「我れ、死せる後に、若し国家擾乱せば、藤堂高虎を将軍の一陣とし、井伊直孝を二陣とし、汝は両陣の間にたむろし、其の横を打ってこれを破るべし、必ず忠義に懈るべからず」と遺言した。 元和2年7月、松平忠輝が改易となり、10月に直寄は3万石加増で再び長岡の領主となり、越後長岡藩が立藩された。築城と共に城下町の整備も行い、外港の新潟町(新潟港、現在の新潟市古町付近)は交易や人口増加の事を考えて諸税を免除し、以後の発展の礎を築いた。 元和4年(1618年)、2万石の加増を受け、越後村上藩10万石に転封。長岡城は完工目前で牧野忠成に引き継がれた。牧野氏は幕府の要職にあり、寛永7年(1630年)まで長岡に入国できなかった事もあり、明暦3年(1657年)の改正まで「しきたり」と称し「堀丹後守御証文通り」として、直寄の制度をそのまま踏襲し、いささかの不便もきたさなかったという。 直寄が村上に入部のさい、家康より百万石の禄を与えるという御墨付きを所有していた。これを示して老中に百万石の請求をした所、老中は困り果てたが、百万石の「石」の字に虫食いがあるのを見つけ、「之は百万石に非ずして百万両なり、依って佐渡金山を向う三ヶ年取らすべし」と下命して早々に立ち去った。怒った直寄はこの金で村上城を増改築し、士分の増員を行い、江戸の上屋敷に凌雲院を建て、不忍池を作った。後に居城の改築と士分の増員について幕府の詰問を受けた。また、村上藩主として村上城下町の整備に携わり、現在の市街地の基礎を築いた。 直寄の屋敷には徳川秀忠、家光父子が訪ねて来ている。「寛永六年十二月二十六日台徳院殿(秀忠)直寄が邸に御渡りありて、助国の御刀貞宗の御脇差をよび黄金三百両を賜ふ、七年二月十三日大猷院殿(家光)直寄が宅に渡らせたまふのときも、助光の御腰物黄金二百両を恩賜せらる、」(『寛政重修諸家譜』) 元和年代、上野には直寄の屋敷のほかに藤堂高虎、津軽信枚の屋敷があった。津軽家の『常福寺御由緒略記』によると、「上野は御家(津軽家)、並びに藤堂家、堀家の屋敷と申し候ところ、徳川家にて、御廟地と成され候節、替地を以って、御取上げと相成候ところ、御家の寺院、津梁院、藤堂家の寒松院、堀家の凌雲院は格別に対遇なさるる趣、」とある。寛永2年(1625年)に天海の発意で寛永寺が草創され、凌雲院は上野最大の塔頭であった。直寄は他にも祇園堂、大仏殿なども寄進した。 寛永4年(1627年)、沢庵宗膨が罪に問われた際、天海僧正、柳生宗矩と共に赦免に奔走した。沢庵和尚は直寄の駒込の別邸に2年間世話になった。寛永8年(1631年)、戦死者慰霊の為上野寛永寺に上野大仏(釈迦如来坐像)を建立。 寛永13年(1636年)、60歳の還暦で隠居し、嫡男の直次に家督を譲り、自らは「鉄団」と号した。この人生の節目に肖像画制作を希望、或いは沢庵らから勧められ、狩野探幽の筆になる寿像が残っている。しかし、寛永15年(1638年)に直次が先立って死去、孫の直定が家督を継いだ。 寛永16年(1639年)6月29日、病の為、駒込の別邸で亡くなる。享年63。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%9B%B4%E5%AF%84
宮本武藏 Miyamoto Musashi(1584年?-1645年) 新免無二之子、養子為三木之助、伊織;幼名弁助、弁之助,別名藤原玄信、新免武藏守、新免玄信、新免武藏、宮本二天,戒名二天道樂居士。 在『五輪書』中,武藏自述在13歲初次決鬥戰勝「新當流」的有馬喜兵衛,16歲擊敗但馬國剛強的兵法家秋山,21歲赴京都,與來自各國的兵法家交手,從13歲到29歲,決鬥60餘次,沒有一次失手。 慶長五年(1600年),武藏自稱隸屬於宇喜多秀家的新免氏武士,以西軍身分參加關原之戰;然而從黑田家之文書(『慶長七年・同9年黑田藩分限帖』)記載著武藏父親新免無二在關原之戰以前是在東軍的黑田家仕官,因此在關原之戰中武藏也很有可能同父親一起侍奉當時豐臣家的黑田孝高,在九州作戰。 『五輪書』中記載「21歲赴京都,與來自各國的兵法家交手,沒有一次不成功的」。從天正十二年(1584年),武藏出生推算的話,赴京應是慶長九年(1604年)。在『新免武藏玄信二天居士碑』(小倉碑文)記載「扶桑第一之兵術吉岡」,應是指吉岡流一門。而武藏與吉岡兄弟決鬥的故事,則在各文藝作品間廣傳至今。 武藏的決鬥事蹟中,最廣為人知的莫過於「岩流島決鬥」,也就是在慶長年間在長門國(今本州山口縣下關市)的舟島(浮在關門海峽上的岩流島),與岩流的兵法家佐佐木小次郎對決的故事。大部份人認為武藏在這次決鬥中戰勝佐佐木小次郎,但實際上決鬥的經過、勝敗、甚至武藏的對手到底叫什麼名字,不同資料的記載亦有不同,仍然有待查證。 大阪之役(大阪冬之陣與大阪夏之陣)之中,武藏以豐臣軍名份參戰的故事,實為稗官野史詄聞毫無根據之誤傳。實際上武藏是以水野勝成的客將以德川軍名義參陣之。與水野勝成的嫡長子水野勝重(水野勝俊)活躍的戰蹟,亦在數個歷史文獻中記載。 之後武藏在姬路城主本多忠刻的交涉下,參予明石的町割(都市計劃),以及姬路、明石等城寨、寺院的修築建設。根據『海上物語』,武藏也在這個時期和夢想權之助(神道夢想流祖師)在明石進行決鬥比試。 元和初年(1615年),武藏收水野家臣中川志摩助的三男,中川三木之助為養子,並推薦三木之助出仕姬路城主本多忠刻。然而三木之助卻在寬永三年(1626年),為本多忠刻亡故而殉死。於是武藏只好在三木之助死後,收播磨武士侍田原久光的次男伊織成為養子。宮本伊織後來出仕明石城城主小笠原忠真,在寬永八年(1631年),年僅20歲時便成為小笠原家的家老。 寬永十五年(1638年),島原之亂爆發,小倉城主小笠原忠真與恃從伊織出陣鎮壓之,武藏與忠真外甥中津城城主小笠原長次也參陣其中。從島原之亂後從武藏寄給延岡城主有馬直純的書信中,寫著「我不會再被石頭打到」的紀錄看來,武藏有被當時島原一揆軍投石擊中而負傷。另外,在小倉寄宿之中,武藏依忠真之命與寶藏院流槍術的高田又兵衛(高田吉次)比武。 寬永十七年(1640年),武藏受熊本城城主細川忠利邀請移駐熊本城。門人7人每人分給18石共300石之俸祿,並在熊本城東部的千葉城武家一處房捨供居住之,武藏更破格可參予以往只有家老身分方可參予的獵鷹活動。細川忠利也邀請武藏和同樣客人身分的足利道鑑(尾池義辰?,足利義輝遺孤),3人依同前往山鹿溫泉。但隔年細川忠利猝死,其第二代藩主細川光尚同樣給予300石的待遇對待之。『武公傳』的武藏弟子士水(山本源五左衛門)記載:『士水傳紀錄:武公肥後的門弟、為首有太守長岡式部寄之、澤村宇右衛門,其他如御家中、御側、外樣、與陪臣、輕士共千餘人』入門武藏門下。在教授劍術兵法之餘,則以繪畫與製作工藝作品流傳至今。 寬永二十年(1643年),武藏登上九州肥後岩戶山(今熊本市附近),並閉居山下的靈岩洞,開始執筆撰寫『五輪書』。另外,在武藏死亡之前數日,武藏則把二書『獨行道』與『五輪書』合稱為「自誓書」並授與弟子寺尾孫之允。 正保二年(1645年)武藏於千葉城的武士居所死亡。 出處 https://zh.wikipedia.org/zh-hk/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E8%97%8F
後藤基次 Goto Mototsugu(1560年-1615年) 黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は又兵衞で、後藤 又兵衛(ごとう またべえ)として広く知られる。黒田如水、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」の一人に数えられた。 諸説あるが、『大日本史』などによると、永禄3年(1560年)に播磨国姫路近郊の神東郡山田村に生まれる。父は別所氏家臣で、後に小寺政職の下にいた後藤新左衛門(基国?・後藤氏当主・伯父説あり)の次男として生まれた。 天正6年(1578年)、黒田孝高が荒木村重によって有岡城に幽閉された際、黒田家家臣一同の誓紙への署名を又兵衛の伯父・藤岡九兵衛が拒否したため一族追放となり、仙石秀久に仕えることとなる。 当時の記録に基次の具体的な足跡が現れるようになるのは、天正14年(1586年)、九州征伐の宇留津城攻めの頃からである。戸次川の戦いにおいて仙石秀久が島津家久に大敗し、領国の讃岐国に逃げ帰った後には、黒田孝高の重臣である栗山利安の与力となり、黒田家に100石で仕えている。領地替えを巡って徹底抗戦を行った城井氏との戦いでは、吉田長利と共に途中で黒田長政に退却を勧めるが聞き入れられずに敗北を喫し、天正15年(1587年)12月の長岩城攻めの際には瀕死の重傷を負った。文禄元年(1592年)から始まる朝鮮出兵にも従軍し、第二次晋州城攻防戦では亀甲車なる装甲車を作って城壁を突き崩し、加藤清正配下の森本一久らと一番乗りを競った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成家臣の剛槍使い、大橋掃部を一騎討ちで破るなどの武功を挙げ、戦後大隈城(益富城)16,000石の所領を与えられた。 如水(孝高の法号)の死から2年後の慶長11年(1606年)、基次は一族揃って黒田長政が後を継いだ黒田家を出奔する。当初は豊前国の細川忠興を頼ったが、元から関係がこじれていた両家(黒田家・細川家)が一触即発の状況となり、徳川家康などの仲裁により細川家を退去する。基次の智勇を惜しんで福島正則・前田利長・結城秀康などから召し出しがかかるが、長政により「奉公構」という措置がなされていたため実現しなかった。一旦故郷である播磨国に戻り、領主となっていた池田輝政を介して岡山の池田忠継に仕えた。しかし、「奉公構」の影響で慶長16年(1611年)より京都で浪人生活を送ることになる(浪人した時期は慶長18年(1613年)6月、池田輝政の死後とも)。 慶長19年(1614年)、大坂の役が勃発すると、大野治長の誘いを受け、先駆けて大坂城に入城する。旗頭として天満の浦での閲兵式の指揮を任された際、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称される。徳川家康からは、基次と御宿政友のみが警戒される名望家であった。歴戦の将として大坂城五人衆の一人に数えられ、山川賢信、北川宣勝以下を与力として、大野治長・治房らを補佐した。冬の陣では6000人の遊軍を任され、鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。 翌年5月、大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて、大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて、6日の未明、平野郷から出陣した。しかし、徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が、既に国分村まで進出していた。次善の策として、中間にあった小松山に布陣し、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次(奥田忠高の子)を討ち取るなど、孤軍で奮戦し賞賛された。しかし、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁らの軍が霧の発生により到着が遅れ、逆に伊達政宗の家臣片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対し、基次は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死した。享年56。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%AC%A1
明石全登 Akashi Takenori(生年不詳-没年不詳) 備前保木城主の明石行雄(明石景親)の子として生まれた。備前明石氏(美作明石氏)は赤松氏の末裔(守護大名赤松円心の次男・赤松貞範の子孫)である。 行雄は、天神山城主の浦上宗景の家臣であったが、浦上氏滅亡の際には宇喜多直家に呼応して寝返り、以後、宇喜多家の客将となった。景親は弟の景季と共に、直家とその子の秀家に仕えて、4万石の知行までになった。景親の嫡子全登もその跡を継いで、和気郡大俣城(大股城)の城主となり、家老格であった。 慶長4年(1599年)、お家騒動(宇喜多騒動)が起こって、家宰(執政)の長船綱直が私的に殺害されると、関与した4人の重臣(戸川達安・宇喜多詮家(坂崎直盛)・岡貞綱・花房正成)が出奔したため、全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切った。主に軍事面を支えたことから、宇喜多秀家の軍師的存在だったと言う。当初、4万石の知行だったが、秀家の岳父である太閤・豊臣秀吉の直臣としても知行を貰い、併せて10万石取りとなった。 慶長5年(1600年)、東西の戦が始まると、全登は宇喜多秀家に従って出陣し、西軍に与すると7月から8月にかけて伏見城を攻略。(伏見城の戦い) 9月14日の杭瀬川の戦いでは、中村一栄をまず撃ち破って前哨戦を勝利し、9月15日の関ヶ原の戦い本戦では、宇喜多勢8,000名を率いて先鋒を努めた。宇喜多勢は福島正則を相手に善戦したが、小早川秀秋の裏切りをきっかけとして敗戦。全登は、斬り死にしようとした主君秀家を諫めて大坂へ退くように進言し、殿軍を務めた。 西軍敗走の際に田中吉政の家来・上坂万兵衛と接触したという記述がある。なお9月18日付けで、田中吉政は東近江の村々に石田三成、宇喜多秀家、島津惟新を捕らえるよう書状を配っている。 戦後、岡山城に退くが、城はすでに荒らされていて、秀家とも連絡が取れずにそのまま出奔。 宇喜多氏が没落し浪人となると、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田如水の下で庇護されたといわれている。如水の死後、息子の黒田長政がキリスト教を禁止したため、柳川藩の田中忠政を頼ったとされている。ただしこの時期の消息については諸説ある。 慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると豊臣方として参陣した。翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、まず道明寺の戦いに参加。後藤基次が突出して戦死し敗れたが、全登隊は水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と交戦して混乱に陥れ、政宗と相茂の同士討ちを起している。この戦いで全登は負傷した。天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷家臣の小倉行春と共に全登は300余名の決死隊を率いて、家康本陣への突入を狙っていたが、天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、水野勝成、松平忠直、本多忠政、藤堂高虎の軍勢からなる包囲網の一角を突破して戦場を離脱した。 その後の消息は不明である。徳川方の複数の家伝がそれぞれに全登をこの戦いで討ち取ったと伝え、戦死したとも言うが、それ以上に落ち延びたとする伝承も多く、いくつかは嫡子内記と共に九州に、またある物には南蛮に逃亡したのであろうと取沙汰したと書かれたものもあるほどで、諸説あり、判然としない。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%A8%E7%99%BB

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