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児玉就忠 Kodama Naritada(1506年-1562年) 安芸国児玉氏の一族。児玉元実の次男。兄に児玉就兼、弟に児玉就方。子に児玉元良、児玉春種、児玉元輔。 毛利元就譜代の家臣で、行政手腕に長けていたことから元就に厚く信任を受けた。元就には「家中での人あたりもよく行政手腕に優れている」と評されて、桂元忠とともに奉行となり、元就の政務の中心として働いた。 毛利隆元の時代になり、毛利家中の五奉行制が確立された際には、五奉行の一人となった。五奉行としての役目は元就と隆元の連絡調整役であり、また、元就との被官関係はそのままであった。そのため、隆元の家臣であった赤川元保や国司元相とは不仲であったとされる。 行政にはその手腕を発揮した就忠であったが、合戦は不得手であり、尼子氏との戦いで戦功を挙げているも、他の家臣にその働きは劣ったと言われている。 永禄5年(1562年)に死去。家督は息子の児玉元良が継いだ。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E5%B0%B1%E5%BF%A0
児玉就方 Kodama Narikata(1513年-1586年) 毛利氏の家臣。官途は内蔵丞、周防守。安芸国草津城主。児玉元実の三男で、児玉就忠の弟。子は児玉就英、児玉景栄。 兄・就忠の推挙を受けて、毛利元就の家臣となる。就忠は行政手腕に長けたが、就方は武勇に優れた武将であり、1536年の安芸国における戦いで、元就から感状を得るなど活躍している。1540年に尼子詮久(後の尼子晴久)が来襲した吉田郡山城の戦いでも活躍したが、血気にはやるあまり、抜け駆けをしてしまい、元就から逆に戒められたと言われている。 1551年から草津城主となり、毛利氏配下の川内水軍衆の統率を任され、1555年の厳島の戦いでは川内水軍衆を率いて、勝利に一役買った。そして1561年には大友氏との豊前国における海戦、1568年には土佐一条氏攻め、1570年の尼子氏討伐では日本海に出撃するなど、毛利氏の主要な合戦の大半に参加して大いに武功を上げた。 毛利氏が羽柴秀吉に臣従した後も毛利水軍を統率する武将として、1585年に秀吉の紀伊国雑賀攻めに参加した。就方の子・児玉就英も毛利水軍の武将として活躍している。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E5%B0%B1%E6%96%B9
內藤興盛 Naito Okimori(1495年-1554年) 內藤弘春的長子、正室為內藤弘矩之女、其女-尾崎局為毛利隆元正室、其孫女-大方為陶晴賢正室。 伯父內藤弘矩雖身為大內氏重臣而權傾一時,但卻由於讒言而蒙上謀反之嫌,與其子弘和一同遭大內義興誅殺。之後沉冤昭雪,依照義興的想法而由弘矩之弟也就是興盛之父弘春繼承家業,而之後興盛也在迎娶弘矩之女後成為內藤氏的家督。 興盛作為宿老侍奉義興並擔任長門守護代,在義興上洛時也隨軍,當大永八年(1528年)義興病逝後則侍奉其子大內義隆。在義隆一代成為家中首屈一指的重臣,擔任評定眾,在天文九年(1540年)的吉田郡山城之戰中則與陶隆房(陶晴賢)一同被派為援軍,此外在天文十一年(1542年)的月山富田城之戰中也隨同出兵,和負責菅谷口攻擊的毛利元就等一起發動攻勢但卻未能攻陷城池。 在月山富田城之戰的大敗之後,與對軍事、政治失去關心的義隆關係逐漸疏遠。而在家中文治派與武功派對立日益加深的情勢下,為求解決問題,雖曾建議義隆讓位予其嫡子大內義尊而隱居,但卻遭到拒絕。 天文二十年(1551年)當陶晴賢謀反時,興盛消極地支持晴賢,雖拒絕了來自義隆請其斡旋和平的要求,但也在事件後隱居,據說其隱居的內情是因為和陶晴賢出現意見不合。由於嫡子隆時此時業已身故,家督之位由其嫡孫內藤隆世繼承,興盛於天文二十三年(1554年)去世,享年60歲,法名為西方寺法譽知覺。 由於興盛是在女婿的毛利氏及孫女婿的陶氏剛開始出現對立之時病逝,內藤氏一族隨即分為支持陶晴賢的嫡孫-內藤隆世派與支持毛利隆元及其父元就的五男-內藤隆春派而對立,之後在天文二十四年(1555年)發生的嚴島合戰為契機而進一步陷入分裂。之後由於隆世隨大內義長自盡,家督由內藤隆春繼承,內藤氏自此就成為毛利氏的家臣。 據說興盛在大內家中除了以武將、重臣之姿活躍外,身為文化人、教養人也極受信賴,還曾請求近衛尚通幫忙進行源氏物語的封面題字(外題)。擔當將大內氏家臣的意見傳達給家督的職務,由於其溫和敦厚的人品而有極高的人望。但其人卻在陶晴賢謀反時拒絕了大內義隆為求保命的斡旋和平請求,由此後人也可從中窺見戰國時代的嚴厲主從關係。 此外,興盛雖據說為虔誠的佛教徒,但是在天文十九年(1550年)和天文二十年(1551年)Francisco Javier(方濟 沙勿略)為了傳教而到訪山口時,興盛將其一行招待至自家中,還出力促成了方濟 沙勿略和義隆兩度的會面,更在陶晴賢之亂時將其一行保護於自己家中,作為方濟 沙勿略的保護者也廣為人知。 出處 http://wiki.eyny.com/wiki/%E5%85%A7%E8%97%A4%E8%88%88%E7%9B%9B
內藤隆春 Naito Takaharu(1528年-1600年) 內藤興盛的三子、妻為吉見隆賴之女、姐為毛利隆元正室.尾崎局;別名隆通、亦二郎、周竹。 隆春出身於代代擔任大內氏重臣的周防長門有力國人內藤氏,由於其姐尾崎局為毛利元就嫡子.毛利隆元的正室,因此與毛利氏的關係密切。 天文二十年(1551年)當陶晴賢對大內義隆發起叛亂之時(大寧寺之變),雖與其父一同採取靜觀的態度,但卻因對其姪內藤隆世所採的積極姿態不滿而導致家中產生紛爭。 天文二十三年(1554年)其父去世,翌年的嚴島之戰後便暗中與毛利氏勾結,弘治三年(1557年)元就進行防長經略時,則和已經繼任家督的隆世決裂而降於毛利氏,並跟從元就四處作戰。其後由於大內義長自殺而大內氏滅亡,隆春便接替隨義長一同自盡的隆世繼任家督,受元就承認其新任內藤氏之長的地位並就任長門守護代。 同年當大內義隆的遺子也是隆春外甥的龜鶴丸受大內氏殘黨擁立而起事後,隆春立即便前往鎮壓,並在妙見崎之戰中討伐草場越中守等且將龜鶴丸處刑,立下平亂的功績。 在毛利家中,也由於身為家督毛利輝元的舅舅,被委任長門的政務,修築荒瀧山城、櫛崎城等規模大的山城,據說相當受重用。永祿元年(1558年)更是自元就、隆元父子處受賜誓書,可說受到厚遇。 但是姊夫隆元於永祿六年(1563年)去世,其後更在元就死後的元龜三年(1572年)遭到讒言中傷,為解開輝元的誤會而向毛利氏交出宣示忠誠的誓書。可從中看出其背後有著內藤氏影響力下降及毛利氏對旁系家臣的嚴密管控的因素。另外也由於隆春之子全都早逝而沒有後繼者,因此便由毛利氏一門眾肉戶氏處迎來肉戶元秀的次男元盛入贅作為養子。 在天正十九年(1591年)的檢地時,隆春的領地有2600石。同年將家督之位讓與元盛。晚年則依輝元的指示而前赴京都,以周竹為號並活用自侍奉大內氏時代以來與公家建立的聯繫,負責收集豐臣秀吉死後變化劇烈的中央之情報。其報告作為毛利氏的文書而流傳下來。 慶長五年(1600年)去世,年73歳,法名為澄月院照山淨光。 出處 http://wiki.eyny.com/wiki/%E5%85%A7%E8%97%A4%E9%9A%86%E6%98%A5
八柏道為 Yagashiwa Michitame(生年不詳-1595年) 八柏道為,八柏館主,稱大和守。八柏氏乃是落合十郎的後裔,自寬正元年(1460)八柏大和守道友入八柏館始稱八柏氏後,世居八柏館擔任小野寺家重臣,多次參與小野寺家平定周邊國人眾的戰事,武勳素著。 在八柏道為繼任八柏館主後,在天文二十一年(1552年)橫手城主橫手光盛糾合金澤八幡宮宗徒謀叛,當主植道出兵討伐時八柏道為亦列陣中,不料征戰中途小野寺家臣增田大學及淺舞內藏助竟然雙雙倒戈和橫手光盛裡應外合,植道無奈敗走轉進湯澤城,在回到湯澤城的路上植道軍被橫手光盛發動的追擊戰打得狼狽不堪,植道身邊的譜代重臣連連折損,在此危難之時八柏道為自願殿後組成三十餘騎的敢死隊衝入進藤原擋住敵軍的追殺。 一時間,八柏軍的勇悍使植道得到喘息的空隙快馬加鞭逃回湯澤城,戰鬥中連八柏道為的從弟,年僅十七歲的孫七也為了護主壯烈犧牲,最後僅道為一人回到湯澤城。 此次大敗後,湯澤城遭到緊追而來的橫手光盛圍城攻打,混戰中植道被一箭射中眉心,絕命當場,藤盛監物抱住植道的遺體逃進湯澤城。驟失當主,使小野寺軍完全混亂,湯澤城也隨之陷落,兵兇戰危之際植道遺兒四郎丸在八柏道為等重臣的保護下投往莊內大寶寺家,三年後借大寶寺家的五千援軍出兵報仇,得到領內被橫手光盛荼毒的百姓支持,攻破橫手光盛軍並將他擊殺,入主橫手城,恢復了往日小野寺家的舊領,四郎丸改名輝道。 在輝道的時代,輝道建立了小野寺氏全盛光輝,作為其麾下軍師的八柏道為也以出色的智謀輔弼輝道構築了小野寺家最大的勢力圈。在天正十四年(1586年)時當主之位已改為輝道之子義道,其時最上義光在暗殺了小野寺盟軍大寶寺家當主義氏侵吞莊內後,趁小野寺家方跟仙北戶澤家火拼一場後將軍勢轉入小野寺領地,數座城池接連陷落,所幸上杉家武將本莊繁長為了援助親子,過繼給大寶寺家的大寶寺義勝而出兵莊內,義光放棄跟小野寺家的戰事,親自出陣莊內。 小野寺義道見機不可失火速出兵五千追擊,以山田清道、八口內定冬、御返事貞光為先鋒直驅最上領邊境的八口內,與最上義光和楯岡滿茂合流後的一萬最上軍於有屋卡對峙。當時最上軍勢為小野寺軍的兩倍,但最上軍背後另有在莊內的戰場,所以兩軍一直都只是以洋槍來往射擊,互相警戒。當時隨軍出陣的八柏道為登上附近的丘陵觀察局勢後地勢後,排下一計命令三十名特別精準的鐵砲射手針對最上軍的先鋒將領射擊,這番挑撥行徑使義光一怒出擊,被八柏道為的假撤退引入一處巖場,倚地利之便布下弓矢、落石夾攻,最上軍慌忙敗退,戰後最上軍死者多達數千之眾,小野寺軍僅僅陣亡三十八人。 翌日,莊內大敗落入上杉家掌中的消息傳來,最上義光重整軍勢在休戰數日後,由嫡子義康率八百騎對小野寺軍急襲,倉皇間生變讓義道無力應付,八柏道為見無力回天於是親身擔下殿軍的職務,拼殺挺住最上軍的攻勢,讓義道從容回到橫手城。 此戰之後,八柏道為深知無法跟上杉軍一爭莊內領地的最上義光必定會將擴張的目標放在小野寺家上,於是以昔日盟友的名義和大寶寺家的新當主義勝再次締盟,並透過他與其父本莊繁長結交,促成和上杉家的交誼,反過來從分別從南北兩方對最上義光進行壓迫。同時為了強化本家的戰力,八柏道為也開始辛勤練兵,並且留下了指導家中眾將的「八柏大和守掟條」三十一條,依照「奧羽永慶軍記」所載的殘篇,其中大致是包含不可斬殺來使、交戰時亦不可割取敵方平民稻米、奪取他人討取之首級死罪等指導性教條。 天正十八年(1590年),豐臣秀吉出兵小田原,小野寺義道雖然前往參陣,但是因為麾下本堂忠親、六鄉政乘搶先一步宣告獨立,且不若最上、大浦、南部是秀吉積極想招徠的對象,所以只得到五萬石的安堵,增田、湯澤檢地代官任命權更被交給最上義光。其後在文祿元年(1592年)秀吉發起朝鮮侵略時,小野寺義道和最上義光、秋田實季前往參陣,然而最上義光卻心懷不軌趁機命楯岡豐前守及鮭延典膳以擁有增田、湯澤檢地代官任命權之名義侵入小野寺家領有的上浦郡,八口內的領主八口內定冬向相交多年且被譽為名軍師的八柏道為求援,但是正逢道為重病無法出兵,但為了援救定冬八柏道為仍迅速調兵遣將從本國派出援軍,但是八口內定冬的情況卻已到最危急的關頭,最後定冬捨命突擊人數是自方十倍之多的最上軍,在一陣奇襲後定冬自知無勝算便自害了。其後最上軍也因為小野寺援軍雲集而退卻。 對小野寺的侵略再次因為八柏道為而受阻,這支撐著小野寺家的老將讓最上義光傷透腦筋,八柏道為是非除不可的。於是最上義光在文祿三年(1594年)模仿昔年毛利元就除去尼子家新宮黨的計謀,讓楯岡豐前守偽造一封八柏道為和最上內通的書信被小野寺義道的妻弟吉田孫市得到,在吉田孫市向義道告發後,義道大怒竟不分黑白,趁八柏道為前來橫手城經過中之橋時派遣刺客將道為暗殺,親手除去了家中最大的柱石,小野寺家也在八柏道為死去後一路急遽衰退。 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=03183&sn=365
織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豊臣秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春
里見伏、犬塚信乃、犬川荘助、犬山道節、犬飼現八、犬田小文吾、犬江親兵衛、犬坂毛野、犬村大角、卜部季武、碓井貞光、坂田金時、渡辺綱、源頼光、源義経、織田信長、織田信長、豐臣秀吉、德川家康、德川家康、伊達政宗、武田信玄、真田信繁、上杉謙信、毛利元就、黑田孝高、石田三成、後藤基次、長宗我部盛親、明石全登、真田信幸、德川家康、藤堂高虎、立花宗茂、大谷吉繼、黑田孝高
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
南条宗勝 Nanjo Munekatsu(1497年?-1575年) 7代当主・宗皓の子として生まれる。生年に関する確実な史料は存在しないが、『羽衣石南条記』によれば永正11年(1514年)、父・宗皓の死去に伴い18歳で家督を継いだといい、逆算して明応6年(1497年)頃の出生かと思われる。ただ、宗勝以前の南条氏に関しては関係資料が乏しいため、不明な点が多く、一部の系図では宗勝の父を紀伊守某と記しているものも存在する。 天文年間、尼子氏の伯耆侵攻により尼子氏の傘下に入り、天文9年(1540年)9月には尼子氏の郡山城攻撃に参加した。しかし、3年後の天文12年(1543年)には大内義隆の月山富田城攻めに「尼子公叛将」として大内軍に参加、大内氏を経てそれ以後は毛利氏の下へ属した。天文15年(1546年)には但馬山名氏の支援で橋津川の戦いを起こすなど各地の反尼子勢力と手を結び、反尼子の一翼を担う働きを為した。 また、天文16年(1547年)~17年(1548年)にかけて因幡国に滞在していたことが分かっている(『真継文書』所収「年不詳4月8日付南条国清書状」など)。その後、事情は不明であるが、武田国信の勧めで美作国大原の地へと移り、さらに播磨国にまで移ることを示唆している。これ以降の足取りは不明であるが、伯耆を離れた後は各地の武将に援助されながら、周辺諸国を転々としていたと見られ、以後約20年間近く帰国は叶わなかったと思われる。その後、毛利氏の支援を受けた宗勝は永禄5年(1562年)の夏、羽衣石城を奪回、約20年ぶりに所領を回復することに成功した。 帰国後は毛利元就らの容認の下、東伯耆の国人衆を家臣団に組み込み、南条氏を山陰地方東部で最大の国人勢力に発展させた。永禄6年(1563年)には久米郡の光孝寺において大規模な父の法要を営み、各地の寺社の所領を安堵するなど民心の安定に務めた。永禄12年(1569年)には毛利氏の九州遠征に加わり、筑前国などへ出陣した。同年秋には伯耆に急遽帰国し、各地へ侵攻した尼子勝久らの軍勢と戦った。元亀元年(1570年)、剃髪して宗勝と号し、嫡子・又四郎元続に家督を相続させたと伝えられているが、実際には永禄7年(1564年)8月以前には剃髪し、宗勝と名乗り始めたようである。その後も終始毛利氏の境目地域における要の役割を担い、毛利氏の協力者として活躍した宗勝だが、天正3年(1575年)10月14日前に急逝した。 なお、死因に関して尾高城主・杉原盛重に毒殺されたとの説が存在するが、これは江戸時代に書かれた『伯耆民諺記』などに見えるものであり、史料的裏付けはなく、現在では否定されている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%9D%A1%E5%AE%97%E5%8B%9D
原田隆種 Harada Takatane(生年不詳-没年不詳) 原田興種の子、正室は大内義隆の娘であり,子に種門、種吉、繁種、親種などがいる。;主君義隆から「隆」の1字を賜って隆種と名乗った。剃髪して了栄を号したので、原田了栄の名でも知られる。通称は弾正。 享禄4年(1531年)に高祖表で隆種の家臣烏田通勝、王丸進らが、被官水崎盛政と交戦した記録があり、享禄年間に父の興種から家督を譲られたと推測される。 北九州における大内氏方の代表的な国人領主の一人でしばしば大友氏方の国衆と争った。大寧寺の変で大内義隆の自刃後も、主君の恩顧に筋を通して逆臣陶隆房には従わなかったところ、筒城主で家老西重国が不満を持って肥前国の龍造寺隆信と内通したのでこれを討った。しかし天文21年(1552年)に大友氏が陶氏と連合して侵攻すると、配下の王丸隆(兵庫允)、西重通等々がこぞって寝返って陶氏に呼応したため、高祖山城は落城した。 隆種は降伏して蟄居を強いられ、陶氏から弘中隆兼が代官として姪浜城に入り、大友氏からは臼杵鑑続が派遣されて柑子岳城に入って筑前国の政所を設置したが、弘治元年(1555年)に厳島の戦いで隆房が自害すると、その混乱に乗じて高祖山城を奪還した。 弘治3年(1558年)3月、大内義長が毛利元就に攻められて翌月自害すると、筑前の大内領は大友氏に組み入れられたので、隆種も一時大友氏に属した。同年、家臣本木道哲が嫡男種門と三男繁種を讒言したので、8月7日、二人を謀反の疑いによって岐志で謀殺した。後にこれは誤情報であったと判明するが、隆種はもともと四男親種を寵愛しており、これを嫡子とした。 永禄9年(1566年)、岩屋城主高橋鑑種が毛利氏に内通し、大友義鎮に反旗を翻して宝満山城(宝満城)に籠もると、義鎮は四将を派してこれを鎮圧させようとした。隆種入道了栄は鑑種より援兵を要請され、病を理由に断ったものの、他方で了栄も密かに毛利氏に内通して大友氏に敵対した。嫡子親種を避難と人質を兼ねて安芸国の吉田城に送った。 永禄10年(1567年)9月11日、了栄は大友方の西鎮兼の居城宝珠岳城と支城を落とし、西氏を滅ぼした。さらに柑子岳城に攻めよせたが、龍造寺氏が侵攻したために攻撃を中止した。 永禄11年(1568年)4月、鑑種に同調して立花鑑載が大友氏に反乱を起こすと、毛利氏は援軍を送ったが、これに親種が加わっていた。大友勢が立花城を攻囲中、柑子岳城は城代臼杵鎮広が残っていたが、了栄は虚を突いて、7月19日、第1次池田河原の戦いで鎮広を撃破し、城を奪い取った。本来の城主臼杵鎮続は慌てて帰還し、これを回復した。鑑種は親種と清水左近将監と共に陥落した立花城を奪還しようとしたが撃退され、清水は長門に帰還、親種は高祖山城に敗走する。了栄は原田親秀を救援に派遣して、8月2日、第1次生松原合戦で追っ手を撃退したが、嫡孫秀種など家臣の多くを失った。 一連の戦いは毛利方の敗戦に終わって毛利勢は撤退したが、これを見て今度は龍造寺隆信が筑前に侵攻。了栄(および草野氏)は龍造寺氏に服して、孫(次男の種吉の子、後の原田信種)を龍造寺氏に人質に出すことになった。 永禄12年(1569年)、大友氏と龍造寺氏が和睦したため、了栄は大友氏に復した。同年、毛利氏が再び筑前に侵攻したが、このためにこれには呼応しなかった。 元亀2年(1571年)、(了栄の次男)草野鎮永入道宗陽と吉井隆光の領地争いで吉井浜合戦(吉井合戦)があった。両氏は共に了栄の配下で調停を試みたが失敗し、合戦の後、宗麟の下知で両氏は和睦した。 元亀3年(1572年)正月、鎮広の後を継いだ柑子岳城主臼杵鎮氏は、今津毘沙門(登志神社)に参詣する了栄を暗殺しようとするが、失敗。原田勢に逆襲され、これが1月28日の第2次池田河原の戦いとなって、敗れた臼杵鎮氏は泊城逃れようとしてたどり着けず、平等寺 (筑紫野市)で郎党と共に自害して果てた。 筑前臼杵一党が滅ぼされたと聞いた宗麟は激怒し、天正2年(1574年)4月1日、鎮広を再び筑前に派遣して了栄の首を要求させた。原田氏の親族で会議をしているところに親種が鷹狩りより帰り、これを聞いて憤激して自らの腹を十字に切り裂いた上で首を落として本木大原に投じさせた。これには十人余の士が追腹をして殉じた。臼杵側に検死を要求し、親種の遺体に間違いなければ帰還するように求めたところ、臼杵の執筆坂本伊織という者が、親種の首を持ち帰ると言ったために、了栄は激高して、柑子岳城を攻めて必ず宗麟に復讐すると誓ったが、この頃、大友氏の勢いは強くすぐに行動に移すことはできなかった。 嫡子を失った了栄は先祖が開基した天台宗極楽寺を再興し、曹洞宗に改めて萬歳山龍国寺として親種の菩提を祀った。また草野鎮永の次男は人質として送っていたが、龍造寺氏に請うて元服させ、了栄の養嗣子信種とした。 天正6年(1578年)に大友氏が耳川の戦いで大敗すると、筑前の情勢も再び不穏となり、筑紫広門、秋月種実、宗像氏貞が相次いで龍造寺氏に組して大友に反旗を翻し、了栄もこれに同調して蜂起した。宗麟は立花道雪、高橋紹運、志賀道輝の三将を筑前に派遣して鎮定させようとした。天正7年(1579年)、立花勢は安楽平城に集結して出撃し、7月12日、海と陸から押し寄せるが、了栄が陣頭指揮をして撃退。立花勢は生松原に退却したので、これを追撃して第2次生松原合戦となった。了栄は、大友方武将木付鑑実の立て篭もる柑子岳城を包囲した。同城は兵糧が尽きかけていたが、道雪は高祖山城を攻撃すれば了栄は囲みを解いて帰ると考えて救援を送らず、生松原に陣を敷いた。了栄は包囲を継続したまま、8月13日、これを迎撃して第3次生松原合戦となったが、これは両軍痛み分けに終わり、双方が手を引いた。しかし糧米の尽きた柑子岳城は開城投降して退いたので、志摩郡全体が原田氏の領有となった。同月19日、草野鎮永の領地に波多親が侵攻したので、了栄は援軍を送り、浜崎でこれを破った。 天正9年(1581年)、隆信と共に安楽平城を攻略。この頃、了栄は老衰でなくなったようであるが、没年不詳。一説では天正15年(1587年)6月22日卒。法名は諡武徳院殿大倫了栄大禅定門。 原田氏の実権は草野鎮永が握り、息子信種を当主としてもり立てたが、これを快く思わない者が家臣におり、これに波多親が介入して天正12年の鹿家合戦となる。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E9%9A%86%E7%A8%AE
吉岡長増 Yoshioka Nagamasu(生年不詳-1573年?) 大友親秀の子・頼宗が野津氏を称し、その子・親次が吉岡氏を称したとされる。親次の弟・親重は佐土原氏を称し、長増と同時期の頃には佐土原鑑親の名も見られる。 とされているが、この系図は後世の吉岡氏が作り直したもので、当時の本物の系図は焼失したらしく、吉岡鑑興のところを見ると、『永禄3年に亡くなった』(実際は天正6年に亡くなる)、『後は吉岡鑑盈が継いだ』(存在が確認できない)、吉岡長増が『鑑忠』と名乗っていた(天文16年にも長増と名乗っているのが確認される)など誤りが多く、吉岡長増の父親は吉岡重孝になっているが本当かわからず、長増以前の人物に関してははっきりしない点が多い。信憑性の高い史料と見られている「大友家婚姻録」には、長増の子に林式部(吉岡鑑興の弟)という人がいるのが書かれている。 長増に関しても初期の活動については不明で、生没年に関しても確たる証拠がないが、大友義長(義鑑の父、1478-1518)から偏諱(「長」の字)を与えられていることを考えれば、少なくとも義長存命中には誕生し、元服を済ませているものと推定される。活動が見られるようになるのは、義長の子・義鑑の代からであり、以下で後述する。 加判衆に就任し、少弐氏の援護のため大内氏と戦った記録がある。 天文元年(1532年)に陶興房が少弐氏を滅ぼさんとして肥前に侵攻。あらかじめ筑後の領主や肥後の菊池義武、相良氏、筑前の秋月氏、肥前の有馬氏を味方につけての出陣であった。これに対し大友は大内氏の勢力拡大を防ぐため少弐氏援護に動いて援軍を送った。長増は後陣の大将として4千騎を率いて出陣。豊前、次に筑後そして筑前を転戦した。筑後では鏡城を落として陶軍の輸送路を遮断した。 翌天文2年(1533年)、大内義隆の命令を受けた豊前の佐田朝景を筆頭とする宇佐郡衆らが豊後に侵攻。長増が大将となってこれを撃退した。 義鑑には冷遇されていたのか、天文3年(1534年)に解任されて以降、目立った活動はない。また、義鑑から偏諱を賜って鑑忠(あきただ)に改名したとされるが、引き続き、長増で統一する。 長増が宿老として復帰を果たすのは、二階崩れの変が勃発し義鎮が家督を継承した天文19年(1550年)のことである。以後は大友三老の一人として臼杵鑑速や吉弘鑑理と共に重用された。 長増は豊前、筑前、肥前方分として三ヶ国の政務を担当し、また日向の土持氏も管轄した。菊池義武の反乱には佐伯惟教らの苦戦のため、志賀親守と共に出陣。小原鑑元の謀反鎮定や秋月文種討伐、門司合戦に参加。龍造寺隆信の討伐には先だって戸次鑑連と出陣。高橋鑑種の討伐には斉藤鎮実と共に城を包囲するなど主たる戦には大半参加した。この高橋攻めの際、一緒にいた立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理は秋月種実の討伐に向かうが緒戦に勝利するも夜襲を受け敗北、筑後に逃れた。事実上の総大将である宗歓は高橋攻めに残っていたが、新たに出陣を命じた田原親宏に宗麟は「吉岡宗歓に油断なく(がんばるよう)伝えろ」と命令している。(永禄10年10月晦日大友宗麟書状より)急遽宗歓を頼りにする宗麟の様子が見られる。 弘治3年(1557年)より、滅亡した大内氏に代わって北九州に進出するようになった毛利氏との戦いの責任者となり、数々の功績を挙げた。中でも長増が本領を発揮したのは、永禄12年(1569年)に毛利軍が大友領に侵攻して来たときであった。その頃、大友軍は毛利軍の猛攻に押され、筑前の大半を奪われて滅亡の危機に立たされていた。これに対し長増は、毛利の主力軍が筑前に集結しているのを見て尼子の遺臣山中幸盛に弾薬、鉄砲資金を援助して尼子の侵攻を手助けし、毛利に下っていた尼子旧臣の米原綱寛に山中幸盛に合力するよう促し成功。長増は大内輝弘を送るにあたり、周辺海域を支配している村上水軍の村上武吉を筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、この寝返りを毛利元就の策略と疑い、8月9日に大友水軍の若林鎮興に筑前の毛利軍に送る食料補給基地(周防にある)を襲わせて村上の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをして、鎮興の攻撃は成功した。大内旧臣たちに大内輝弘に協力するよう調略を開始し、さらに豊前小倉城を攻めると流言を流してわざと毛利氏につかませ、10月9日に田原親宏に小倉城を攻撃させて吉川元春、小早川隆景の注意を釘付けにし、同日、輝弘に兵を与えて筑前に出兵中の隙を突いて毛利領の周防に侵攻させた。10月10日、大内輝弘、周防の秋穂浦に上陸。毛利氏の強みは村上水軍に守られ、大友が周防、長門を攻撃できないことであった。これを突破したことは長門に本陣を構える元就を驚愕させる。この策は見事に当たり、兵がいない周防は輝弘によって次々と侵食されてゆき、驚いた元就は主力軍を全て筑前から撤退させた。こうして、大友氏は滅亡の危機を免れたのである(大内輝弘の乱)。宗歓は一度、引退を口にしており、親しい関係である筑後の田尻親種に対し「私は極めて年を取っており、(後は戸次鑑連たちに任せて)安心して隠居する決意をしていたのだが、今鑑連、鑑速、鑑理の三人が出陣中なので、筑後の領主たち、鑑連たちの日夜の苦労、迷惑を察しなければなりません」(永禄11年から12年ごろの)9月6日付け吉岡宗歓書状より) しかし宗歓は元亀3年の11月まで家老職に居り、どうも引き止められたらしい。 大友の政治をよく担当した吉岡長増、臼杵鑑速を豊州二老という。なお豊州三老は政務と軍事の二つに分かれていて、小早川隆景等のいう豊州三老(または豊後三老)は軍事面の立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理を指している。 天文19年の後半、菊池義武の討伐が済むと大友は肥後に検使をおくり長増は他の家老と共に肥後経営を行う。 永禄2年(1559年)の9月、今度は豊前、筑前に検使を派遣していた。長増は豊前方分としては宇佐八幡を管轄していたが今度も領主たちから訴訟があるとみて宇佐八幡宮の政務を代役として吉弘鑑理を派遣していた。このころ多忙であったようでその時の長増の書状に鑑理へ「鑑理に頼んで悪いと思うが私の疲労を察してほしい」と記している。また「宇佐宮側に異存のない様によく相談する事が大事であり、社役以下少しも怠たらないよう仕事をさせなさい。鑑理は機会を見て彼らに助言することが第一です。」と念を押して助言している。同年8月、長増は田北鑑生、吉弘鑑理と共に横岳資誠と小田鎮光(小田政光の嫡男)との領地境界線を裁決し仲直りさせ、9月には戦いを続ける龍造寺隆信と神代勝利を和睦させた。 永禄4年(1561年)、奈多鑑基は娘が大友義鎮の正妻になったことで寺社奉行に取り立てられたため、長増は宇佐八幡の政務から身を引いた。しかし、宇佐八幡の分社、八幡奈多宮の神官であった鑑基は義鎮を後ろ盾にして、本社宇佐八幡の領地を横領、権威の一部を剥奪、さらに前大宮司の家を兵を送って破壊するなど横暴を極める。たまらず宇佐宮の宮司たちは同年9月に長増、臼杵鑑速の二老に訴えでた。驚いた長増は謝罪し、前大宮司のもとに警備兵を送りさらに修繕などを約束した。鑑基には鑑速らと共にこれまでの行為を叱責し、横領などを白紙にする意見をし、実行した。この同年8月頃、島津家老の伊集院忠倉の申し出を受け、豊州二老は日向の伊東義祐と日向の島津家(豊州島津)に和睦命令をだし成立させる。島津と大友の仲介となった肥後の阿蘇惟将の家臣、隈庄親昌は書状で「肥後方分の志賀親守はいうに及ばず、吉岡長増、臼杵鑑速にまで私が仲良くさせてもらっているので、(二人を通じて)義鎮公のお耳に入り、大友が動いてくれたのであろうか」と記し、この頃政治において二人の存在感が際立っているのがわかる。 永禄5年(1562年)の5月、大友義鎮(宗麟)と共に出家、吉岡宗歓と号し、筆頭家老に就任、ならびに対毛利戦総責任者となる。 永禄7年(1564年)7月、幕府の仲介をもって毛利と大友は正式に和睦。だが毛利元就は無視して豊前、筑前の領主らに調略を続けたため宗歓と鑑速は幕府に訴え出た。このころから元就に正攻法は通じないと知った宗歓は策略を巡らす。二度目の龍造寺隆信の討伐では宗麟は痺れを切らし、大友親貞を派兵させたが今山の戦いで大敗(この時、肥後の城、隈部・筑後の五条の将らが捕まった)。主力はいまだ健在であったが、大友氏側から和睦を提案。宗歓は戸次鑑連、臼杵鑑速をつれて佐賀城に入り、龍造寺隆信側と対面し和睦を成立させ、人質の解放と龍造寺が肥前の領主たちから奪った領地の返還等について話合われた。また島津義久が相良義陽の天草を攻めるという噂が立ち、義陽は大友に相談。宗歓、鑑速が対応している。かって豊州二老は他の家老と島津貴久に友好の使者を送っており、永禄5年以降には宗歓、鑑速は薩摩に入り、島津貴久と謁見し伊東義祐の対応をめぐって協議した経験を持っており、島津側にも名前が知られている。またこの2人が島津氏との交渉、対応の担当官でもある。特に宗歓は宗麟時代に和睦交渉をことごとく担当していることが当時の書状で分かっている。さらに領内安定のため、永禄8年に田原親宏の長女を秋月種実に、元亀元年に臼杵鑑速の娘を宗像氏貞に、永禄10年から元亀2年に斎藤鎮実の娘を筑紫広門にそれぞれ嫁がせ懐柔策をとった。 天正元年(1573年)ごろに没したと推測されている。長増はただ一人、宗麟の祖父大友義長の時に元服した人物であり、吉岡家で初めて加判衆になったといわれ、大友義鑑は遺言状で吉岡長増を重職に就けるよう指名し、新当主義鎮は重職の最高職、加判衆に就任させた。一度辞めたものが復帰することも実に異例であった。永禄年間には筆頭家老になり、臼杵鑑速とともに政治の中心人物として宗麟時代の最長老であった。立花道雪は耳川の合戦の大敗後、宗麟、家臣団に手紙を送り「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と書き送っている。享年は70代半ばから80ほどと思われる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B2%A1%E9%95%B7%E5%A2%97
吉川元春 Kikkawa Motoharu(1530年-1586年) 毛利元就的次子、母為吉川國經之女.妙玖、養父吉川興經、正室為熊谷信直之女.新庄局;幼名少輔次郎,受兄毛利隆元偏諱「元」字,名為元春,繼承吉川氏,名為吉川元春,法名浪院海翁正。 年幼時期 天文九年(1540年),在出雲國的尼子晴久侵攻之際,無視父親元就反對(理由是未元服)而出陣,此戰成為初陣(吉田郡山城之戰)。 天文十二年(1543年)8月,接受哥哥毛利隆元的偏諱(「元」字)而改名為元春(因為「元」字是毛利氏的通字,所以不是隆元所賜的可能性相當高)。天文十六年(1547年),以自己的意願而與熊谷信直的女兒新庄局結婚。 繼承吉川家 在天文十六年(1547年)7月成為母方的從兄吉川興經的養子,這是與興經不和的叔父吉川經世為首的吉川家臣團勸告,於是興經逼不得已才答應。條件是對興經的生命作出保証,於是興經的兒子千法師成為元春的養子,約定在成長後令千法師繼承家督。天文十九年(1550年),元就強制令興經隱居,於是元春繼任家督並成為吉川氏的當主。而後熊谷信直等人受命殺害興經和兒子千法師,於是毛利家成功奪取名門吉川家。 此後元春進入安藝大朝的小倉山城,在要地築起日野山城並把據點移動到該城。與弟弟小早川隆景一同被稱為「毛利的兩川」(毛利の兩川),負責山陰地方的政治和軍事。 與大內、尼子爭戰 在弘治元年(1555年)的嚴島之戰中率領吉川軍幫助小早川軍,擊滅義兄弟陶晴賢率領的大內軍。在弘治二年(1556年)開始遠征石見國,數度擊退尼子晴久(忍原崩、降露阪之戰)。弘治三年(1557年),在父親元就隱居後,與小早川隆景一同支持毛利家並成為家中核心人物。 在永祿八年(1565年)的第二次月山富田城之戰中以主力身份參戰並立下極大武功,於永祿九年(1566年)降伏尼子義久。 從永祿十二年(1569年)開始與希望再興尼子氏的尼子家舊臣山中幸盛等人率領的尼子軍戰鬥。在布部山之戰中擊破尼子軍,同年,與毛利家敵對的大友宗麟之下寄身的大內氏一族大內輝弘侵攻周防國。對此,被授與軍權的元春在大友家的援軍還未完全集結時,一口氣進攻輝弘並令其自殺(大內輝弘之亂)。在元龜二年(1571年)使用謀略攻擊尼子勝久堅守的末石城並捕獲山中幸盛,令勝久敗走(此後,幸盛用計成功逃走)。 與織田信長爭戰 元龜二年(1571年),父親元就死去後,與弟弟小早川隆景一同負責輔佐姪兒毛利輝元(毛利隆元的嫡男)。 被元春擊敗的尼子勝久等人投靠在中央擴大勢力的織田信長,於是勝久等人在得到信長援助之下持續抵抗。還有在天正四年(1576年),於最後的室町幕府將軍足利義昭投靠毛利氏而下向至安藝國鞆後,毛利家決定與織田氏對立。天正五年(1577年),受織田信長之命的織田氏重臣羽柴秀吉率領中國遠征軍侵攻播磨國。元春對此迎擊,於天正六年(1578年)攻擊尼子勝久和山中幸盛死守的上月城,勝久等人在降伏後自殺。而山中幸盛亦遭到處刑,於是令尼子再興軍被消滅(上月城之戰)。 此後元春在各地持續與織田軍戰鬥,天正八年(1580年),三木城被攻陷,城主別所長治自殺。於是備前國的宇喜多直家和伯耆國的南條元續投向織田家,豐後國的大友宗麟亦與信長呼應而侵攻毛利的領地。天正九年(1581年),因幡國鳥取城的吉川一族吉川經家自殺等,毛利家漸漸處於劣勢。 天正十年(1582年),清水宗治等人守備的高松城被羽柴秀吉攻擊,元春與毛利輝元、小早川隆景等人一同前往救援(備中高松城之戰)。不過因為秀吉的水攻而沒能作出積極的行動,而秀吉亦因為害怕與元春等人的戰鬥會令損失擴大而沒有迎擊,於是戰線陷入膠著狀態。 就在這樣的情況下,織田信長在同年6月2日因為明智光秀謀反而橫死(本能寺之變)。羽柴秀吉把本能寺之變的消息向毛利方隱密,更向毛利氏的外交僧安國寺惠瓊送出「毛利家的武將中已經有很多人會投向我們」的消息,因此毛利方陷入疑惑當中,於是雙方達成和睦。結果備中高松城開城,城主清水宗治等人切腹。織田軍從備中國撤退。 根據『川角太閤記』中記載,元春主張在此時追擊,不過被小早川隆景制止。另一方面,在『吉川家文書』中,元春和隆景都認為追擊是無謀之舉,如果失敗的話會令毛利滅亡,於是放過為了討伐明智光秀而撤走的羽柴秀吉。 最後 在天正十年(1582年)末期把家督讓予嫡男元長並隱居。一說這是因為不想仕於秀吉。此後在吉川氏一族的石經有讓出的地方建設隱居館。此館後來被稱為「吉川元春館」,不過其實在元春生前還未完成。 後來毛利氏幫助秀吉奪取天下,天正十三年(1585年),小早川隆景積極地參加秀吉的四國征伐,而吉川軍則以元長為總大將出陣,元春本人沒有出陣。 天正十四年(1586年),受到已經成為天下人的豐臣秀吉強烈邀請,加上因為弟弟小早川隆景和姪兒毛利輝元等人遊說,於是以隱居的身份參加九州征伐。不過此時元春因為化膿性炎症(一說為癌)而令身體狀況轉差,因此在出征前就在豐前小倉城二之丸中死去,年五十七歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%85%83%E6%98%A5

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