首頁 Tags 毛利元就

Tag: 毛利元就

若林鎮興 Wakabayashi Seigeoki(1547年-1593年) 若林越後守(實名不詳)之子;幼名鹽菊丸,受大友義鎮偏諱「鎮」字,名為鎮興,法名道圓,戒名寂照院前越州太守秋月道圓上座。 自古以來位在九州北端的佐賀關半島一直都是海上的交通要衝,搭通瀨戶內海的豐後水道從室町時代起就是明國船隻的出入必經之地,尤其到了宗麟的時代以轉變成戰國大名的大友家,為力求家中的富強,大量推動海外貿易,使得佐賀關半島的管制與掌握便顯的格外重要。 若林家本為橘氏後裔,在戰國時代以大友家的水軍將領身份馳名遠近,以佐賀一尺屋浦為根據地活躍於豐後水道,主要的工作就是負責豐後水道的警固,及驅逐來犯的海賊,做為豐後水軍核心份子的鎮興,更因其功績曾被宗麟授與「豐後船監」的稱號。 永祿十一年(1568年),對大友統治築前極度不滿的國人眾立花鑑載與毛利家內通反叛宗麟,元就派其子吉川元春和小早川隆景率軍渡海來救,但卻晚了一步,立花城已被大友軍攻下,立花鑑載自刃。演變成大友軍與毛利軍兩強對峙的情形,當時正逢尼子遺孤於山陰起兵,宗麟想到可以讓毛利後方大亂的計策,活用寄身在大友家的大內家遺孤大內輝弘,任命鎮興為輝弘的警固船大將率領水軍支援輝弘,聯合其舊臣再興大內家。 在宗麟的命令下,鎮興率領同族的水軍將領若林彈正忠、若林九郎、若林藤兵衛尉、若林大炊助協助大內輝弘展開大內舊領奪回戰,於永祿十二年(1569年)八月九日,在周防合尾浦一戰中大勝,成功突破屋代島水軍的封鎖,將輝弘送上周防國陸上,並且糾集其就屬後出兵幫助他奪回高嶺城,輝弘為鎮興的活躍大喜,在重新掌握周防的領地後便出書狀授與他百石的知行。 但是大內家的再興並不長久,在毛利元就放棄九州戰場後,重新轉進中國方面後很快便重奪周防,大內輝弘兵敗而切腹自殺,而鎮興也趁此時帶領麾下水軍再次回到一尺屋浦替大友家效力,雖然未能成功輔弼大內家再興,但宗麟本來也就志不在此,拖住毛利軍的目標已達成就是成功,鎮興還能保持主力不損更是令他欣喜,因此還頒發了感狀授與鎮興。 元龜三年(1572年),鎮興被派往四國救援與大友家有姻親關係的土佐一條氏,統率麾下水軍救出被長宗我部擊敗的一條兼定,同時還趁機侵入伊予攻下西園寺的部分領地。之後在天正六年(1578年)參加日向侵略打敗土持親成,以及在天正七年(1579年)時與島津水軍的日振島沖合戰中皆立下重要的戰功。 但是自從天正六年(1578年)的耳川之戰大友軍大敗後,曾經雄霸北九州的大友宗麟亦難逃衰微的命運,在主家如此危困之際時,鎮興仍感念往日恩德,持續盡忠主家,這在海賊之中是非常少見的。天正八年(1580年),浦部城主田原親貫謀反,鎮興臨危授命出兵打敗了田原親貫以所倚仗之後盾毛利家來援的海賊部隊,從安岐城沿海一直追擊到周防室積締造顯功,大友宗麟完全免除了鎮興以後的課役,並獎勵他致力於軍船建設。 天正十四年(1586年),秀吉應宗麟之請率大軍平定九州,擊退島津還大友舊領,期間雙方在水上的交鋒戰中,鎮興亦有出戰,戰後在宗麟將歸道山之際,將高田莊內、野津院內等合計八十七貫的領地加增給鎮興,同時也把佐賀多聞院、築前野間口、博多內寶光寺的領地託付給鎮興。 文祿元年(1592年),秀吉發起朝鮮侵略,鎮興亦統率水軍出兵參與。 翌年八月,於伊予二間津病故辭世,年四十七歲。 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=03183&sn=233
蒲池鑑盛 Kamachi Akimori(1520年-1578年) 筑後国南部に1万2千町(約12万石)を領した大身(『大友幕下筑後領主附』)。筑後十五城筆頭大名として筑後を統轄。それまでの蒲池城に代えて、柳川城を本格的に造作し、現在の柳川の観光名所でもある水郷の掘割を縦横に張り巡らせ、柳川城を「柳川三年肥後三月肥前筑前朝飯前」と戯れ歌にも歌われるほどの九州屈指の難攻不落の堅城にし、蒲池氏の本城とする。また風浪宮の本殿の造営その他も行なっており、現在の柳川市のルーツとなる城下町としても形成されつつあった。 筑後守護大友氏の幕下にあった城持ち大名分の在地領主で、兵法に長けた武将として、筑前国、肥前国など各地に転戦する。 『西国盛衰記』によれば、父の鑑久は将軍の供をするという役目を怠って討伐されたとされ、鑑久の死(天文12年(1543年))に伴って下蒲池蒲池氏の家督を継いだものと思われる。父を大友氏によって喪った鑑盛だが、主君を恨むことなく引き続き大友義鑑・義鎮(宗麟)の二代に亘って臣従した。 また、戦の場以外では、大友氏の敵方であるはずの龍造寺家兼やその曾孫である龍造寺隆信が家臣団の反乱に遭って追われたときは、これを匿って手厚く保護し、その復帰にも協力した。『肥陽軍記』には「ここに筑後国蒲池鑑盛と云う人は下筑後にて威をふるい武勇のほまれ有り和歌管弦にも長じた情ふかい人なり」と記されているが、鑑盛は「義心は鉄のごとし」と言われるほど義に厚い人柄であったとされている。龍造寺家兼を保護したのち、隆信が肥前を追われた際には隆信をかつて家兼も住んだ蒲池領内の三潴郡一木村(大川市)に住まわせ、三百石を扶持し、家臣の原野恵俊に面倒を見させた。また隆信が佐賀へ戻る時は、蒲池氏の精兵三百で隆信を護衛させ、結果、隆信は本拠地佐賀城の奪還に成功することになる。この鑑盛による二代に渡る保護がなければ、龍造寺氏は滅びていた可能性があり、その後の龍造寺隆信の興隆もあり得なかったことになる。 鑑盛は、大内氏に代って中国地方を制圧し、九州への侵攻を開始した毛利元就と大友宗麟との間の門司城をめぐる戦い(門司城の戦い)や、また元就に加担して大友氏に反旗を翻した高橋鑑種の討伐戦などに出陣している。かつて保護した龍造寺隆信の興隆の発端となった今山の戦いに於いても蒲池鑑盛は田尻親種と共に、宗麟からの命を受けて数十隻の兵船で筑後川を渡り、龍造寺氏の村中城を包囲し攻略戦を行った。これらの合戦への参加により、宗麟からの感状を幾度も受けている。 1578年、北上する島津氏と大友氏との間の日向国の耳川の戦いには、大友軍の一翼として参加した。初老の身で病身だったが、嫡子の蒲池鎮漣や三男の蒲池統安と共に3千の兵を従えて出陣(『北肥戦史』)した。しかし、既に家督を継いでいた鎮漣は大友氏から離心しており、病気を口実に2千の兵と共に柳川へ帰城してしまう。鑑盛は大友氏の軍に留まり、開戦後は大友軍総崩れの状況下、直属の兵約1千を率いて島津氏の本営への突入を試みるなど奮戦したが大勢は揺るがず、統安と共に戦死した(『大友記』)。その最期について『筑後国史』は「湊川の戦いにおける楠木正成の壮烈な最期にも比せられる」と記している。 菩提寺の崇久寺の霊碑には、「松梅院殿長國覚久居士神儀」と記されている。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E6%B1%A0%E9%91%91%E7%9B%9B
赤松晴政 Akamatsu Harumasa(1513年?-1565年) 守護代の浦上氏との対立に敗れ、強勢隠居へ追いやられた父の義村から、才松丸(晴政の幼名)は1520年に政敵の浦上氏の拘束下で、わずか8歳という幼少で家督を譲られる。その備前守護代・浦上村宗への再反攻に失敗した父・義村を、翌1521年9月に殺されている。山名氏の侵攻に対抗するため一時的に村宗と手を結んだこともあるが、山名氏の脅威が去ると再び争い、一時は居城の置塩城を追われ美作の新庄山城へ避難を余儀なくされたこともある。 1531年、細川晴元と対立する管領細川高国を擁した村宗が摂津国へ侵攻すると、村宗たちの後詰めとして参戦した政祐(当時の諱)だったが、実は堺公方の足利義維へ密かに質子を送って裏切りを確約していた。同年6月4日、神呪寺に布陣していた政祐が晴元方に内応して高国・村宗軍を背後から攻撃。晴元方からも挟撃された高国・村宗軍を壊滅させ、村宗は戦死。高国も自害へと追い込んだ(大物崩れ)。 これにより、ある程度は実権を回復したものの、村宗の子である浦上政宗や浦上宗景との対立はその後も続いた。さらに1538年から始まった、出雲国から尼子詮久(後の尼子晴久)による侵攻では西播磨の龍野城まで奪われると、晴政の領国は混乱し、一時別所氏を頼って三木城に逃れた。やがて別所氏も尼子氏と通じたため、堺へ逃亡することになる。 1540年から翌年にかけての尼子氏の安芸国遠征失敗(吉田郡山城の戦いで、毛利元就支援の大内義隆方の陶隆房(後の陶晴賢)の軍と会戦した尼子氏が大敗。尼子久幸(経久の弟)が戦死)によって、播磨から尼子氏が撤退。領国の危機は去ったとはいえ、赤松氏の権威失墜までは止まらなかった。なお、将軍足利義晴より「晴」の字を賜り晴政(はるまさ)と改名したのもこの時期である。 1552年には尼子晴久が備前・美作守護職に任ぜられた事で、晴政は守護としての2国の権限を喪失する。残る播磨での主権も政宗に奪われ続けており、1558年には政宗に擁立される嫡子赤松義祐とやむなく対抗する為、娘婿の赤松政秀の居城龍野城に逃れた。政秀の庇護下で義祐・政宗と争った晴政だったが、1565年1月16日に死去した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%99%B4%E6%94%BF
赤穴盛清 Akana Morikiyo(1529年-1595年) 赤穴光清的三子;幼名滿五郎、別名久清,官職右京亮、美作守。 赤穴氏為漢族系三善朝臣支流.佐波氏一族,鎌倉時代位於出雲、石見、備後三國國境交界處的赤穴庄本為紀氏所領,後來身為石見國人領主佐波氏介入紀氏後繼人的爭權奪位,並且乘機進入赤穴庄,佐波實連次男.佐波常連擔任出雲赤穴庄的地頭,此後曆代擔任地頭,成為當地有力國人領主。後佐波弘行時以地為姓,改姓赤穴。 祖父久清時出仕於尼子氏,隨同尼子經久在出雲制壓過程中十分活躍,獲得赤穴庄的所領安堵。赤穴氏居城瀨戶山城以特殊軍事據點的地位位居尼子十旗之一,相對尼子經久、尼子晴久對赤穴氏一族的重用,赤穴氏以優秀的表現作為回報。 尼子晴久在吉田郡山大敗後,天文十一年(1542年)大內、毛利聯軍乘勢反擊,首先圍攻赤名瀨戶山城(赤穴城))。父親光清、祖父久清聯合月山富田城田中三郎左衛門的一千騎援軍,共同抵禦大內軍猛攻。光清數次打開城門出去決戰,討取毛利武將熊谷直續,使大內軍一時退卻。不料,父親光清於戰鬥指揮中被大內方陶隆房家臣射中咽喉陣亡。 父親光清死後,祖父久清雖然在無奈之下向大內氏開城投降,但因赤穴氏奮勇激戰大大減緩大內氏的進軍速度,從而喪失對月山富田城包圍的大好時機。在大內軍敗退後,盛清成功奪回瀨戶山城,但是在大內方作人質的兩位兄長:長兄詮清出陣九州築前戰死、次兄定清自殺。在這樣的悲痛命運下,盛清繼承赤穴氏家督,率領赤穴家在尼子、毛利合戰中,作為尼子氏一方奮勇作戰,獲得赤穴庄舊領的安堵,還得到數次恩賞,活躍於尼子晴久、尼子義久的麾下。 永祿五年(1562年),大內氏滅亡後,中國地方的大勢力毛利氏大舉入侵出雲赤穴坡,眼見主家尼子氏日漸西斜,盛清也有投降毛利氏帳下的打算。 據說當時在瀨戶山城內,為赤穴家的仕途前景,還是保持對尼子家忠誠的問題,引發激烈的爭辯。最後,一力主張對尼子家忠義的老臣森田左衛門和鳥田權兵衛在瀨戶山發起暴動,給毛利軍無端添加不少煩惱。盛清斥責叛亂的舊臣:「我投靠毛利氏是為赤穴家著想,決非為一己之利,你們現在這樣背叛赤穴家倒成為真正的忠臣。」毛利元就得知後也說,「盛清乃是義者,而森田、鳥田這兩個人看來可以和伯夷、叔齊相媲美。」有此可見變更主家是戰國時代國人常遇的事情。 尼子氏滅亡後盛清出仕毛利氏,盛清因無子嗣隱居,收弟弟幸清為養子繼任家督,之後又由幸清之子.赤穴元奇繼承赤穴氏。 天正十八年(1590年)元奇由毛利輝元處獲得父親幸清的遺領安堵;翌年,毛利氏另授予元奇一千六百六十八石領地。 文祿四年(1595年)盛清死去,年67歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/1918047.htm
足利義輝 Ashikaga Yoshiteru(1536年-1565年) 足利義晴的長子、母為近衛尚通之女.慶壽院、猶父近衛尚通、正室為近衛前久之姐、側室為小侍從;幼名菊童丸,初名義藤,後改名為義輝,渾名劍豪將軍。 出生後送給外祖父近衛尚通當猶子。在義輝幼年期間,父親義晴與掌握實權的幕府管領細川晴元長期失和,多次發生軍事衝突。 天文十年(1541年)父親義晴戰敗,逃往近江國阪本,義輝也隨同逃亡。天文十一年(1542年)與父親一起返回京都,但翌年再次與父親逃往近江阪本、朽木谷。 天文十五年(1546年)12月,父親義晴將將軍職位讓給11歲的義輝。由於處在逃亡之中,將軍的就職儀式在近江阪本的日吉神社祠官樹下進行,同時進行他的元服禮,以六角定賴為烏帽子親,取名義藤;義晴則以大御所的身份管理政務。天文十七年(1548年),義晴同細川晴元和解,回到京都。晴元也隨即承認義輝的將軍身份。 然而細川晴元的家臣三好長慶叛變晴元,歸附細川氏綱,崛起成為畿內的一大勢力。父親義晴、義輝以及細川晴元一起逃離京都,再次來到近江國的阪本,居住於常在寺。天文十九年(1550年)5月,義晴在常在寺死去。此後遷往堅田,翌年移駕朽木。 天文二十一年(1552年)正月,義輝以任命細川氏綱為管領為條件,同三好長慶達成和解,回到京都。但義輝這個幕府將軍有名無實,是三好長慶和其家臣松永久秀的傀儡。翌年(1553年),在細川晴元的支持下同長慶作戰,失敗逃往近江國朽木村;此後5年的時間裡都在那裡度過。天文二十三年(1554年)2月12日,逃亡中的將自己的名字義藤改為義輝。 永祿元年(1558年)5月,在六角義賢(六角定賴之子)的支援下,同細川晴元一起遷往阪本,在這裡可以窺見京都。翌月在如意岳佈陣同三好長逸等作戰。由於受到六角義賢的支援,足利軍最早處於優勢;但後來三好長慶派弟弟三好義賢反攻,戰局逆轉。11月,在六角義賢的中介下,義輝與三好長慶達成和解,永祿五年(1562年)回到京都,再開幕政。同年12月28日,迎娶伯父近衛稙家的女兒為正室。三好長慶在幕府中權傾一時,擔任御相伴眾一職並被推薦為修理大夫,同時將三好氏的家臣安插擔任幕府的各個要職。義輝試圖奪回將軍的權力,多次暗殺三好長慶但皆失敗。 為恢復將軍的權威,義輝盡力同各地的戰國大名搞好關係,曾多次調停大名之間的衝突,例如伊達晴宗與伊達稙宗(1548年)、武田信玄與上杉謙信(1558年)、島津貴久與大友宗麟(1560年)、毛利元就與尼子晴久(1560年)、毛利元就與大友宗麟(1563年)、上杉謙信與北條氏政以及武田信玄(1564年)等等,使將軍威信有所提高。同時出於懷柔政策,任命大友宗麟為築前、豐前守護,任命毛利隆元為安藝守護,批准三好長慶、三好義興父子使用桐紋作為家紋。 此外將自己的偏諱「輝」字授予戰國大名毛利輝元、伊達輝宗、上杉輝虎(上杉謙信),以及足利氏一門的足利輝氏等人(此前名叫「義藤」的時候曾將「藤」字授予細川藤孝、足利藤氏和筒井藤勝),將足利將軍家的通字「義」字授予島津義久、武田義信等人。 《穴太記》對義輝的政治手腕給予很高的評價,許多大名先後承認將軍的權威,織田信長、上杉謙信等人先後上洛拜見將軍,大友宗麟也向將軍獻上鐵炮。 永祿年間,甲斐國的武田信玄勢力進入信濃國北部,同越後的上杉謙信發生衝突,引起川中島之戰。義輝為兩者居中調停,武田信玄以得到信濃守護一職為撤軍的條件。義輝同意他的條件,授予信玄信濃守護之職。但武田信玄得寸進尺,希望上杉謙信的勢力完全退出信濃,因此後來在永祿四年(1561年)義輝命令逃亡在外的前信濃守護小笠原長時歸國。 永祿元年(1558年)義輝回到京都以後,三好長慶的權力依然很大,畠山高政和六角義賢對此非常不滿,在畿內舉兵反對三好氏。在久米田之戰中,三好氏一族的三好義賢戰死,三好氏出現衰退的跡象。永祿五年(1562年),原本與三好長慶同盟壟斷幕政的政所執事伊勢貞孝突然與長慶反目,但義輝轉而支持長慶,改任攝津晴門為新的政所執事。這激怒貞孝,舉兵叛亂,但於9月被長慶擊斃。這使將軍的勢力重新抬頭,逐漸開始掌握幕政。 永祿七年(1564年)三好長慶病死,失去政敵的義輝趁機開始恢復幕府將軍的權力。 但三好長慶死後,三好氏的權力悉歸松永久秀管理,松永久秀和三好三人眾見義輝開始恢復權力,視之為眼中釘;計劃廢黜義輝,立足利義維的嫡子足利義榮為新將軍。而在永祿六年(1563年)觀音寺騷動以後,義輝所依賴的近江六角氏迅速衰退,使義輝失去外援。 永祿八年(1565年)5月19日,松永久秀和三好三人眾以及主君三好義繼,奉足利義榮為主叛亂,襲擊義輝所居住的二條御所。義輝奮勇抵抗,終寡不敵眾,最後叛軍將城內的紙門與紙窗等拆下來作盾牌,將義輝壓倒並殺死,年三十歲,戒名光源院融山道圓。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%BC%9D
陶晴賢 Sue Harukata(1521年-1555年) 陶興房的次子,母為右田弘詮之女,正室為內藤隆時(內藤興盛長子)之女,受大內義隆偏諱「隆」字,名為隆房,後改受大友晴英偏諱「晴」字,名為晴賢。 陶氏出自多多良系的大內支裔,大內盛房之弟盛長出居周防國佐波郡右田村始稱右田氏,而後右田弘俊之子弘賢出居吉敷郡陶村,稱陶六郎弘賢,此為周防陶氏之始。陶弘賢之子弘政從陶村遷移到都濃郡富田,築若山城作為居城。從南北朝時代以來,陶氏一直是大內家的重要家臣,弘政之子弘長出任長門守護代,弘長之孫盛政出任周防守護代,從那時起,周防守護代一職與大內家重臣筆頭的位置就為陶氏所世襲。 晴賢年少時為大內義隆所重用,天文八年(1539年)父親興房病逝後繼承家督(亦有生前讓位的說法)。 天文十年(1541年),協助毛利元就擊退進攻吉田郡山城的尼子軍(吉田郡山城之戰),當時義隆授權為晴賢為大內軍的總大將。天文十一年(1542年),晴賢率領大軍反攻尼子氏的根據地月山富田城,最終慘敗而回,大內氏失去多名大將。 晴賢與文治派相良武任對立,而義隆重用相良武任,導致晴賢勢力漸失。天文十四年(1545年),相良武任出家,晴賢重新得勢,天文十七年(1548年)就任官位從五位上。天文十九年(1550年),晴賢與內藤興盛試圖暗殺相良武任,卻被義隆發現,晴賢在大內家的實力大為削弱。 大內義隆原本一直苦於無子,於是過繼其姐與一條房家之子為嗣,是為大內晴持。可惜,天文十一年(1542年)在征討出雲的尼子經久時,大內晴持戰死。因此,到天文十三年(1544年),義隆不得不從大友家過繼另一姐與豐後國大名大友義鑑次子大友晴英為嗣,是為大內義長。然而世事難料,次年,義隆的嫡子義尊出生,義隆隨即便與晴英解除過繼關係。此後,受到兵敗的沉重打擊大內義隆失去對擴張領地的野心,沉迷於特有的大內文化(包括天主教和眾道),重用文治派的相良武任;文治派與武斷派的晴賢、內藤興盛長期對立。 晴賢作為臣子對主公義隆的態度也是很微妙的,作為義隆的侍童與之一起長大,晴賢從小就對義隆有著深厚的君臣感情,對於義隆,一直也表現出足夠的忠心,最明顯的表現就是在出雲撤退時晴賢挺身冒死殿後。然而,義隆長達八年的玩物喪志,足以令任何人對義隆和大內的前途灰心,在紛亂的戰國時代,這樣的過失是致命的。作為大內的庶家,陶氏與大內一直以來是一損俱損一榮俱榮的關係。主家的沒落乃是庶家衰敗的兆頭,加上在與相良的爭鬥中處於不利地位,使陶氏已處於漸將衰亡的危急時刻。經過八年的壓抑之後,向來行事激進的晴賢不顧一切的奮力一搏也就不難理解。 天文二十年(1551年),相良武任向大內義隆匯報晴賢和內藤興盛企圖謀反,對立的責任者是杉重矩。8月,晴賢聯合同樣對於大內義隆寵幸相良武任不滿的長門守護代內藤興盛與豐前守護代杉重矩,發動叛亂。晴賢親率3000軍隊從陶氏主城、周防的富田若山城出陣,大內義隆親自率領10000餘人應戰。結果陣前2000人被晴賢策反,最終義隆一敗塗地。義隆逃至長門的天寧寺,在走投​​無路中自盡,義隆長男義尊被殺。晴賢重新迎回大友晴英繼承大內氏族,更名大內義長,自己也將名字陶隆房改為晴賢。 晴賢掌握大內家實權,仍與毛利元就表示友好,不過毛利元就卻採取消極的態度,以為大內義隆報仇為名,拒絕晴賢的支配,終於使兩者的同盟關係瓦解。 天文二十四年(1555年),毛利元就派兵在嚴島西北部的有之浦築宮尾城。晴賢則親率大軍兩萬五千出擊,在折敷畑合戰小勝毛利軍以後,直撲嚴島,踏入毛利元就設下的陷阱。 當時,毛利元就的兵力只有4000。但是,依靠兒玉就方率領的其直屬水軍、乃美宗勝率領的過繼給小早川氏的三子小早川隆景的沼田水軍,以及臨時前來助陣的因島的村上水軍,毛利元就的水軍並不處於下風。9月30日夜晚,風雨大作,毛利元就率領2000士兵潛渡大海,來到晴賢的前軍本陣所駐紮的塔之岡之後,次日清晨六時,毛利元就下令突擊。2000士兵直衝晴賢本陣,巧妙混過敵軍防線登陸的小早川隆景軍從正面向塔之岡發起衝鋒,宮尾城守軍也殺出城中,晴賢的2萬餘大軍全線崩潰。 晴賢與大將三浦房清逃至大元浦。只見波濤洶湧,全無舟船,走投無路中自殺,年34歲,法名卓鍼軒呂翁全羨。 出處#1http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%99%B4%E8%B3%A2 出處#2 http://baike.baidu.com/view/707627.htm?fromtitle=%E9%99%B6%E9%9A%86%E6%88%BF&fromid=128312&type=syn
陶興房 Sue Okifusa(1475年-1539年) 文明14年(1482年)、父が暗殺される(大内山口事件)。長兄陶武護が家督を継ぐも、次兄陶興明と対立して出奔してしまう。武護は後に帰参して興明を殺害するも、内藤弘矩を讒言したため大内義興の手で誅殺され、残った興房が家督を継いだ。叔父の右田弘詮が後見した。 家督継承後、義興に従って各地を転戦する。畿内で行われた船岡山の戦いに従軍し、また出雲の尼子経久との戦いで軍功を重ねた。 大永4年(1524年)、大内義興・義隆父子に従って安芸に出陣し、義隆の別働隊に従って安芸武田氏の佐東銀山城を攻めた。しかしこの時は武田氏の救援に来た毛利元就の攻撃を受けて敗北している。 享禄元年(1528年)12月の義興の死後は、その嫡子・大内義隆に仕えた。大内家では当主の交代の際に常に一族や家臣団による権力闘争が発生していたが、義隆の時には興房の補佐並びに徳望により、この手の争いが起こらず平和裏に当主交代が行なわれている。 義隆時代の初期は北九州方面への勢力拡大が行なわれ、北九州を任されていた杉興運が享禄3年(1530年)8月の田手畷の戦いで少弐氏に大敗したため、天文元年(1532年)11月に大軍を率いて長門から九州に渡海し、大友義鑑・少弐資元らと対峙した。この興房率いる大内軍には杉興運や仁保隆重、秋月氏、菊池氏、九州千葉氏、原田氏など北九州の主だった将が従った。しかし少弐資元の家臣・筑紫惟門が勝尾城で強く抵抗し、大友義鑑が筑前に侵攻して星野親忠を降伏させるなど苦戦が続いた。このため天文2年(1533年)2月には義隆より興房の従兄弟である陶隆康が援軍として派遣され、援軍を得た興房は大攻勢に転じて肥前三根郡千栗村で少弐資元を破り追撃し、さらに大友方の筑前柑子岳城(現在の福岡市西区)を落とし、大友方の本拠である豊後に侵攻した。この興房の大攻勢の結果、大内軍の優勢が確立し、天文2年(1533年)12月には筑紫惟門が降伏した。また天文3年(1534年)4月6日、豊後勢場ヶ原の戦いで大友方の吉弘氏直、寒田親将らを討って大勝し、大友家の豊後に圧力を加えた。しかし勝利に乗じて7月に肥前三津山(現在の佐賀県神埼郡)に在陣して龍造寺家兼の佐賀城を攻めようとしたが、龍造寺軍の逆襲にあって敗北している。とはいえ興房の優位は揺るがず、10月には少弐資元を追い詰めた上で懐柔を図った。興房は龍造寺家兼に使者を送って資元の隠居と少弐冬尚への東肥前半国安堵を条件とした仲介を依頼する。大友義鑑とも和睦を図り、天文4年(1535年)に大内家優位のまま和睦が成立し、興房は山口に帰還した。 天文5年(1536年)には義隆の命令で再度肥前に侵攻して多久城を包囲し、9月に少弐資元を自刃させ、少弐氏を一時滅亡へ追いやった。 天文8年(1539年)4月18日に死去。享年65。次男の陶隆房(陶晴賢)が家督を継いだ。生前に譲っていたとする説もある。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E8%88%88%E6%88%BF
香川光景 Kagawa Mitsukage(生年不詳-1605年) 香川元景の嫡男として生まれる。当時の主家・安芸武田氏は、当主の夭折や討死などにより、勢力が衰え、存亡の危機を迎えていた。その中で同じ安芸武田家臣であった熊谷信直が離反し、毛利側に転じた。1531年(享禄4年)、安芸武田氏当主・武田光和は香川光景や己斐氏等に命じて、熊谷信直を討つべく三入高松城攻略に向かった。しかし、熊谷信直・熊谷直続兄弟は寡兵ながらも安芸武田方を打ち破った(横川表の戦い)。 武田光和が病死すると、安芸武田家中では、その後継を巡っての争いが起きた。香川光景は若狭武田氏から養子を迎えて、大内氏・毛利と和平して、戦力を立て直すべきだと主張した。しかし品川左京亮らは、主戦論を主張して、家中には大きな亀裂が起きた。結局、新たな安芸武田氏当主には、若狭武田氏より武田信実が迎えられたが、重臣間の軋轢は一層強まり、不穏な空気が流れ始めた。 その最中、ついに品川左京亮らは決起し、香川光景の居城・八木城を攻撃した。光景は熊谷氏らの支援を得て、品川勢を撃退したが、安芸武田氏の崩壊は明らかで、当主の武田信実も佐東銀山城から逃亡し、家臣らも相次いで逃亡した。品川一族はこの際に逃亡し、一部は石見国の益田氏に仕えて、子孫に山中幸盛との一騎打ちで有名な品川将員を出した。 1540年(天文9年)に、出雲国の戦国大名・尼子詮久(後の尼子晴久)が毛利元就の居城・吉田郡山城へ侵攻すると、信実は尼子氏の支援を得て、牛尾幸清らとともに佐東銀山城に復帰した。しかし、吉田郡山城の戦いで尼子氏が撤退を余儀なくされると、信実と牛尾幸清は出雲国へ逃亡した。佐東銀山城にはまだ安芸武田氏の兵士が籠っていたが、毛利元就が佐東川対岸より火の点いた草鞋を流して陽動作戦を行い、後方より奇襲して攻略した。また残存の諸勢力は光景が投降を呼びかけ、抵抗する者は皆無となり、安芸武田氏は滅んだ。 香川光景は熊谷氏らとともに毛利氏に従っていたが、1551年(天文20年)の大寧寺の変により、大内義隆が殺害されると安芸国内も不穏な状況となった。1555年(弘治元年)に毛利元就は大内義長傀儡政権を牛耳る陶晴賢との決別を宣言し、厳島の戦いの前哨戦が始まる。まず、大内方の佐東銀山城を攻略し、光景は広島湾に浮かぶ仁保島(現在の黄金山)にある仁保島城に入り、守将となった。陶方は三浦房清を大将として仁保島城の攻略を図ったが、光景は陶勢を撃退した(仁保島合戦)。厳島の戦い本戦では、水軍を率いて参戦し、陶勢壊滅の一翼を担った。 毛利氏は大内領の周防国・長門国を併呑し、その後に北の尼子氏との対決が始まると、1564年(永禄7年)には三村家親とともに伯耆国の不動ガ嶽城を攻撃して、救援の尼子軍を撃退した後に攻略した。翌年には八橋城攻略戦にも参加して、同城を攻略した。また同年には尼子氏が降伏し、光景の山陰での活動は終わった。 1569年(永禄12年)、尼子勝久・山中幸盛率いる尼子再興軍は、出雲国・伯耆国の旧尼子勢力を結集して、出雲国へ侵入し、月山富田城を包囲した。それに注目した美作三浦氏の残党は尼子再興軍と、備前国の戦国大名・宇喜多直家と手を結び、連合軍を成して美作国に侵入した。毛利氏は援軍として香川光景を派遣。光景は子の香川広景、香川春継、一族の香川勝雄らを従えて城将・安達信泰の守る高田城に入城、連合軍は光景らの守る高田城への攻撃を開始した。 高田城内には尼子の降将が多数おり、内応者が続出して光景らは苦境に立たされた。香川勝雄はその混乱に乗じて攻撃を加えてきた尼子・三浦連合軍と、その支援に来た宇喜多春家率いる宇喜多勢と戦って討死した。香川光景や香川勝雄らの奮戦によって、高田城は落城を免れた。その後、光景は高田城を放棄して退却し、三浦貞広が高田城に入った。 その後、光景は家督を嫡男の広景に譲って隠居した。1605年(慶長10年)没。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%B7%9D%E5%85%89%E6%99%AF
高橋紹運 Takahashi Joun(1548年-1586年) 吉弘鑑理的次子、母為大友義鑑之女、正室為齋藤鎮實之妹・宋雲院;幼名千壽丸,受大友義鎮偏諱「鎮」字,初名鎮理;繼承高橋氏,受高橋鑑種偏諱「種」字,名為高橋鎮種,入道法號「紹運」,以「高橋紹運」之名為人所知。 永祿四年(1561年),紹運十三歲迎來了初陣,作為吉弘隊的一員隨大友軍與毛利軍展開豐前門司城的爭奪戰。由於毛利水軍於此戰先奪得了制海權,大友軍遭到挫敗,為抵擋毛利軍的追擊,紹運遂負責吉弘隊的殿後工作,並且目睹了前輩戶次鑑連(立花道雪)的奮戰,於這場撤退戰之中得到了寶貴的作戰經驗。 自從毛利家介入北九州的爭奪戰後,勢力不穩的築前國人如秋月種實、原田親種、以及不滿大友宗麟的高橋鑑種、立花鑑載 相繼接受毛利家的寢返而叛亂。 紹運在參與永祿八年(1565年)的立花鑑載討伐後,永祿九年(1566年)巖屋、寶滿二城主的高橋鑑種因早先不滿宗麟色淫兄嫂也一併反亂,宗麟對此派出立花道雪和吉弘鑑理、臼杵鑑速三將前往鎮壓,紹運也隨軍參加。 永祿十年(1567年),紹運隨父鑑理及立花道雪、臼杵鑑速的進攻下,大友軍勢於7月7日先後在短兵相接,矢雨如注的激戰下攻陷高橋鑑種的巖屋城和寶滿城,降服了高橋鑑種,11日大友軍齋藤鎮實也於苦戰後於27日接受了筑紫廣門的降服,8月14日大友二萬軍勢於秋月城下的甘木、長谷山一帶和秋月種實對戰,鎮理此時於秋月城旁的小石原川的奮戰也不遜於道雪。 15日,種實見邑城休山茄子城遭到攻陷退守至古處山城,大友軍則駐軍於休松一地休息,9月3日,秋月種實夜襲紹運和父親吉弘鑑理的陣營,大友軍一時混亂形成同士討的慘況,立花道雪此時率自軍為殿後援助吉弘、臼杵等軍撤退,紹運也奮力抵擋追兵,終使秋月軍轉為撤退。 永祿十一年(1568年)2月,立花山城主立花鑑載受到毛利元就策反再次反叛大友家,其家臣薦野宗鎮(薦野三河守,薦野增時之父。)、米多比直知(米多比大學,米多比鎮久之父。)此時為了貫徹對大友家的忠義不支持鑑載的行動,遭其殺害,鑑載則於4月6日迎來毛利家的清水宗知(左近將監,清水宗治之兄)8千餘人和軍船百餘艘,更聯合原田隆種(原田了榮)、原田親種父子與高橋鑑種家臣衛藤尾張守約1萬人於立花山城,4月24日大友軍以立花道雪、吉弘鑑理、臼杵鑑速、志賀親守3萬餘人包圍了立花山城及其白岳、松尾等7處城、砦,三個月後於7月4日大友軍強攻立花山城,其中紹運一隊在追擊立花軍後人數所剩不多並且多數已經餓壞,紹運此時分發飯團並激勵了士氣。 7月23日,立花勢因為道雪的調略而令立花家臣野田右衛門大夫背叛為內應,立花鑑載因而兵敗離城脫逃後自殺,而原田親種,衛藤尾張守以及清水宗知則往中國毛利家方面退卻,立花山城則交由臼杵鎮氏(臼杵進士兵衛)、田北民部丞、津留原掃部助暫時代守。7月29日,紹運隨父鑑理等大友軍將致力於築前反大友勢力的掃討,不料原田親種,衛藤尾張守以及清水宗知於8月2日突然又奪下了立花山城,此時紹運和兄長吉弘鎮信代父指揮吉弘軍,和臼杵鎮氏合作率軍分斷了衛藤的軍勢,將戰線從立花山城往南移動向香椎、名島,越過多多良濱並從莒崎往博多追擊;最後大友軍以立花道雪為主力於14日奪回了立花山城並給於敵軍莫大反擊。19日,秋月種實終於因為失去了毛利家的援助而降服大友軍。 永祿十二年(1569年)1月,大友宗麟親率大軍征討「肥前之熊」龍造寺隆信,隆信拒絕了立花道雪和吉弘鑑理的和平交涉,大友軍於3月開始攻擊,大友諸將領三萬進攻江上武種的勢福寺城並使其降服,後紹運和兄長鎮信隨父吉弘鑑理於多伏口一地擊敗龍造寺軍主力,欲進擊之時鑑理卻突然發病而錯失良機。一方,在龍造寺隆信的聯絡下毛利元就見隙率吉川元春、小早川隆景、乃美宗勝4萬餘人由吉田郡山城出發經由海路於4月15日,包圍立花山城並斷絕水脈,17日,在道雪建議下派出城親冬提出與龍造寺的議和。5月3日,立花山城被奪,宗麟聞訊急報大友軍各將回軍包圍立花山城,大友軍3萬於5月5日,集結於博多,5月13日,毛利軍度過多多良濱川於松原附近放火與大友軍交戰四回,5月18日,元春和隆景率毛利軍4萬餘多多良濱,大友軍以道雪、鑑理、鑑速率兵1萬5千分三隊為先陣,之後配置了約2萬的大友軍力與之對峙,這時紹運和兄長鎮信一同作為吉弘隊先鋒與毛利軍激戰,之後兩軍陷入膠著狀態。十月,毛利元就得到山口高嶺城和月山富田城分別被大內輝弘和山中鹿之介攻擊的消息,立即下令吉川元春和小早川隆景撤退。紹運與兄長鎮信此時又一同領軍進行追擊,擊敗了毛利軍。 10月13日,大友三老(道雪、鑑理、鑑速)於「蘆屋會談」中決定攻擊築前混亂的元凶高橋鑑種,攻落其居城寶滿城後令其切腹自盡,但是在宗麟心軟之下只將其流放至小倉城,自此高橋本家斷絕。 大友家在討平了立花鑑載和高橋鑑種後,因為其居城立花山城和巖屋、寶滿城皆為築前軍事要地,要是不快點派有能之人鎮守將會重現如多多良濱之戰一樣的窘境戰事,大友宗麟於是考慮由自己信賴的家臣擔任城督之職。由於前巖屋城主高橋鑑種的本家一萬田家(高橋鑑種乃大友家臣一萬田親泰之子,天文十五年(1546年)入繼高橋家)與吉弘家有著姻緣關係,宗麟因此考慮到令紹運之父吉弘鑑理繼承,但是當時鑑理病重不能理事,長子鎮信已經繼承了吉弘家業管理筧城,因此當時在家中人望甚高的紹運就變成了不二人選,於永祿十二年(1569年)繼承了高橋氏,領巖屋、寶滿二城,並將名字繼承高橋家通字「種」改名為高橋鎮種。而立花氏則由大友家第一名將立花道雪於元龜二年(1571年)坐鎮於立花山城而繼承,便是世人所熟知的「立花道雪」。 天正六年(1578年),大友家於耳川大敗於島津家,紹運之兄吉弘鎮信以及紹運之妻宋雲院的兄長齋藤鎮實皆壯烈戰死於此役,紹運因此剃髮入道號紹運(紹雲)。 耳川之敗使的大友家逐漸式微,不僅使的肥前龍造寺隆信大舉入侵築前築後,築前國人如秋月、原田、宗像、草野等也再次大規模反叛,12月,以秋月種實為首的築前國人率先攻擊巖屋、寶滿城,但是因為紹運的奮力防戰而沒被攻下,但呼應種實的築後國人眾問註所鑑景約4~5千人卻攻下了柴田城,因此紹運聯絡立花道雪一同抵抗於柴田川佈陣的秋月聯軍,從矢戰到鐵砲戰並於川中作戰,不久因為立花高橋軍的兵力過少便打算撤退至山野之中設伏引誘秋月軍追擊,此時種實不疑有他追擊至夜晚,在紹運的引誘下配合立花家的由布惟信、小野鎮幸等將繞過山陰從秋月軍背後奇襲,種實因而大敗,狼狽的退往柴田城,一方面紹運在秋月撤退的路上事先擺好了數十面軍旗和馬印假為豐後大友援軍到來,秋月種實中計而繞路逃回領地,又繼續遭到紹運和道雪的追擊,高橋軍此時討取了3百人,秋月家此戰損失許多家臣。 天正七年(1579年)正月,筑紫廣門聯合秋月種實進攻巖屋城,被紹運的重臣屋山種速擊敗,3月豐前蓑島城主杉重良反叛大友家,紹運攻落其居城將其討伐,4月初秋月種實聯合筑紫廣門和豐前國人城井、長野、千手、齋藤、上原及築前國人宗像、麻生、原田、杉等氏反叛攻向巖屋城,在築前石栗領一地被高橋紹運擊破,同時大友宗麟為此派出豐後的家老志賀親守(志賀道輝、道魁)率築前國人小田部鎮元(小田部鎮通、紹叱)、大鶴宗雲(大津留式部、鎮正,實為鎮元之父)二千餘攻進秋月家石阪一地,卻遭到宗像氏貞、麻生元重、杉連並、許斐氏備、原田鑑尚呼應秋月軍的的埋伏包圍,紹運因此和道雪出戰夾擊敵軍救援了志賀等將,後讓志賀親守暫時駐軍於巖屋城,18日,原田隆種(了榮)、筑紫廣門進攻小田部的安樂平城之時,紹運又出兵相救,然而秋月種實又趁機出兵巖屋城聯合宗像、杉兩軍包圍志賀親守並於針磨山佈陣,紹運也出兵往二日市與之對陣,並散播大友方於筑紫方面的援軍朝夜須郡前來的虛報,秋月種實中計因而退回居城。 7月27日,紹運與道雪又和秋月種實、筑紫廣門戰於大宰府,9月18日,道雪聯合紹運攻入宗像家領地的鞍手郡,宗像氏貞敗走,原田鑑尚投降被志賀親守誅殺。同月秋月種實又進攻寶滿城,紹運和道雪於吉水一地將其擊退,10月24日,龍造寺隆信趁著先於9月11日,攻落大友方小田部鎮元的安樂平城之氣勢再度出陣築前,派出家臣大田兵衛三千餘人聯合筑紫廣門攻擊大友方大鶴宗雲的鷺岳城,紹運為此出兵於山田山和隆信對陣為大鶴宗雲的後援,遂使大田、筑紫兩將撤退,但11月15日,筑紫廣門又派兵游擊偵查,紹運因此鎮守於巖戶一帶監視,同時秋月種實又偷襲巖屋城,紹運因此回軍巖屋並於半路打擊筑紫勢的追擊,重整巖屋城的兵力後於高尾山對戰四千秋月軍,秋月軍因紹運的火攻而有部分撤退,同時道雪出陣牽制筑紫軍並和紹運夾擊令其敗退,終令大鶴宗雲脫險。 天正八年(1580年),紹運持續對戰秋月家於豬膝合戰,始終沒讓秋月、宗像等敵對勢力佔到便宜,維持了大友家的領地。同年8月下旬秋月種實內通了紹運的筆頭重臣北原鎮久。由於鎮久早因為大友家逐漸勢微,覺得高橋家於築前被敵對勢力圍繞難以生存,而想投靠秋月家,並向紹運如此建議,但紹運仍然不為所動,於是鎮久計畫追放紹運,聯合秋月家另尋高橋家當主,然而知曉這項計畫的高橋家臣伊藤一蓑不顧洩漏密謀將被誅殺的危機,毅然通知了紹運,於是紹運在鎮久登城之時,安排萩尾治種(萩尾大學)、內田下野埋伏殺了鎮久,而鎮久之子北原種興(北原進士兵衛、攝津守)原本打算聯合一族為父報仇,但紹運以書信告知種興:「你的父親內通秋月家將給高橋家帶來禍害,於是不由得將他殺害,但是你的忠誠心我非常清楚,由於你和這件事毫無關係沒有參予謀反,因此勿對我起疑心,殺你父親實在是百般無奈,然而對此反叛之人不誅不行,現在令你為北原家當主,希望能洗刷你父的污名盡忠。」並將鎮久的領地全交由種興繼承,而種興了解了事情之原委是秋月種實作祟之故,並發誓對高橋家盡忠而將喪父之恨轉向秋月。 同時紹運利用此事逆向操作,以種興寫書信通知秋月家臣內田彥五郎:「我父親與秋月的密約因為被發現而被誅殺,因此我極度怨恨紹運,已有與其一戰致死的覺悟,痛失父親的我即使是當主,也恨不得將其殺之復仇,請在近日派兵至巖屋,開戰之時我將率兵於巖屋放火,待討取紹運後將歸參秋月家。」反過來騙取秋月家進攻,秋月種實不疑有他,派內田彥五郎率5百餘兵前往巖屋城,種興遂在居城‧龍城的蘆木山以酒餚招待秋月軍,至夜晚趁秋月軍兵酒醉睡眠之時,紹運從巖屋城率6百兵與種興進行包圍夜襲秋月軍,自內田彥五郎戰死以下損失3百餘人,其悽慘的戰況被稱為「蘆木的慘劇」。 同年9月,秋月種實為了報內田彥五郎被殺之仇,以問註所鑑景(秋月治部少輔)、上野四郎兵衛、惠利暢堯、綾部駿河守率1萬2千軍勢殺向巖屋城,並於奈須美一帶的森林佈陣。紹運便聯合立花道雪軍勢,以小野鎮幸、由布惟信為先鋒,遂在奈須美展開激戰,兩軍互以鐵砲、弓矢、槍隊攻擊難分勝負,這時立花高橋軍以綿貫吉兼(四月一日佐三兵衛)、竹迫連種(竹迫進士兵衛)為遊軍側面突擊秋月終使秋月軍開始崩壞後退,紹運、道雪見狀追擊更令秋月軍更加崩潰,秋月種實見自軍後退而不斷喊叫自軍回陣,然而種實又看見戰場另一側出現大友軍的旗幟,反而意識到再不撤退將被斷了後路,於是敲鐘收兵退回古處山城。而戰場另一側的大友軍旗實為紹運早先安排好的噓旗計策,成功令秋月種實的復仇之戰徒勞無功,而此戰被稱為「血風奈須美之陣」。 天正九年(1581年),龍造寺隆信聯合筑紫廣門、原田隆種終於攻下大鶴宗雲的鷺岳城而於7月27日,進軍至大宰府並以筑紫廣門聯合秋月種實侵略築前巖屋城,紹運與之對峙,並聯合立花家援軍竹迫統種、薦野增時於觀世音寺之戰將其擊退,統種等立花家臣戰死甚多。此戰後於同日紹運和道雪侵攻秋月氏的嘉麻、穗波一帶,此戰秋月方的井田親之率5千餘人出擊,以其子井田親氏為先鋒軍迎戰,兩軍於穗波郡八木山的石阪一帶展開戰鬥,此時紹運以弓、鐵砲、長槍隊分三段佈置於阪上,正面迎擊秋月軍,秋月先陣7百人崩壞後紹運以3百人突擊,手持大長刀左突右迴於千人的敵陣當中,此時原先隱兵於松林之中的道雪突然殺出夾擊秋月軍,當中立花家臣十時連貞更單挑討取了井田親氏,而此石阪之戰也是立花宗茂普遍被認為的初陣,率1百50人配合紹運和道雪的攻勢奇襲秋月軍後陣討取了敵將堀江備前,其優異的表現令立花道雪正式興起迎宗茂為婿養子的念頭。8月18日,令高橋統虎(立花宗茂)和道雪生女立花誾千代結婚,宗茂因而繼承立花氏,高橋氏則由紹運次子高橋統增為繼承人。 同年11月,大友宗麟接獲一直忠於大友家的問註所統景的急報,要求出兵討伐早先反叛至秋月家的一族問註所鑑景,11月4日,宗麟派出朽網鑑康(朽網宗曆、宗歷)3千人包圍了築後鑑景的井上城,秋月種實為此率6千人夾擊宗曆,這時立花道雪和高橋紹運以及長子宗茂受到大友宗麟的指示率5千前往救援,然而宗曆卻在豐後大友軍的援助下與秋月軍於8日的原鶴合戰後安全退卻,期間於6日,立花高橋軍通過秋月領地撤退,在穗波、嘉麻一帶割取糧草並放火延緩秋月軍追擊,後佈陣於八木山潤野原一帶迎擊秋月軍,最終秋月軍敗戰損失7百60人,立花高橋軍損失3百餘人,當地因此被稱為千人塚,是為潤野原之戰。(許多史料因同戰地而常與石阪之戰混淆,秋月方史料則記為八木山合戰) 天正十一年(1583年)9月底,肥前國人筑紫廣門入侵紹運轄內的三笠郡,紹運與筑紫勢拉據了五、六日後,逼退了筑紫勢。10月2日,秋月種實又趁隙攻下紹運領地的米山,紹運迅速出兵於當日隨即對戰秋月軍奪回了米山,並追擊討取2百餘人。 天正十二年(1584年)3月,龍造寺隆信於沖田啜之戰對上島津軍戰敗身死,大友家為此趁機出兵想奪回築後,以宗麟次子大友親家、三子大友親盛率豐後大友軍7千人進攻築後貓尾城的黑木實久(黑木家永),實久則聯合龍造寺軍共2千餘人在貓尾城與高牟禮城籠城抗戰,經過了一個月大友軍仍然無法攻落,大友家第二十二代當主大友義統為此要求道雪與高橋紹運出兵,兩軍於8月18日,以紹運2千人為先陣、道雪3千人為後陣出發,紹運在渡過築後川擊滅秋月家武將芥田兵庫50餘人後與道雪越過鷹取山,並以由布惟信為殿軍,在狹窄的山道途中又遭到伏兵以鐵砲狙擊,道雪也以弓、鐵砲反擊,此時紹運以擅長鐵砲狙擊的家臣市川平兵衛反狙擊令道雪脫離險境。 19日,兩軍到達高牟禮城,隨即寢返黑木家老樁原氏部,氏部並於24日開城,龍造寺援軍的土肥出雲因此離城逃去。此時貓尾城已被孤立,道雪和紹運開始對黑木家同族的川崎重高防守的犬尾城攻略,並在城島城巡邏,不久開始進攻貓尾城,在樁原氏部的帶領下9月1日,攻下了貓尾城,黑木實久則自殺身亡。此後又接連攻下蒲池鎮運的山下城以及築後各處的小城如谷川城、邊春城、兼松城、山崎城還有田尻鑑種的鷹尾城,大友軍終於展開對九州築後有名的堅城「柳川城」的攻略,大友軍在連翻攻擊下未能攻下此城,道雪遂於10月3日,移陣至高良山,4日改攻籠城於發心岳城的草野鎮永和問註所鑑景並燒毀竹井城,這段期間因為道雪和紹運兩軍時常一同出擊立功,使得當時有人這麼說著:『有紹運的地方一定會有道雪』因而被讚稱為「大友雙璧」 之後於年底兩軍又回陣高良山時,大友親家和親盛卻因嫉妒紹運和道雪的戰功以及長期戰陣在外以疲倦為由退回豐後,僅留下立花高橋軍於築後。 天正十三年(1585年)2月上旬,龍造寺家晴、鍋島直茂於柳川城率軍5千出戰佈陣於高良山南方的西牟田,北方則有秋月種實、長野鎮展、草野鎮永、城井鎮房、千手氏、星野氏、問註所氏等國人施加壓力,2月中旬龍造寺政家共集結3萬餘大軍近逼高良山。龍造寺軍於4月18日,以後藤家信(龍造寺隆信三子)率筑紫廣門、波多親、高木左馬助8千人於築後川壓迫。 此時豐後大友軍朽網鑑康率野上清四郎來援與道雪、紹運三大將共9千8百餘兵力分為兩軍對抗,以朽網鑑康一隊往西牟田壓制北方國人眾,道雪和紹運則於高良山西北方的築後川和寶滿川交接處的小森野一地佈陣,紹運以家臣伊藤總右衛門、福田民部少輔5百兵為先鋒但不敵筑紫廣門、後藤家信等龍造寺軍的優勢兵力,紹運因此後退引誘,激戰之時紹運以其剛勇的家臣萩尾治種(萩尾大學)、成富左衛門一千五百騎從龍造寺軍側面筆直突入造成其勢虛弱,後藤、筑紫無法阻止軍勢崩壞兵卒竄逃,道雪3千兵則迂迴至北野村從側面攻擊,追擊渡過築後川至肥前鳥棲、十三部野一地,討取1百87餘名戴甲武士。此戰為小森野之戰。 後大友軍以紹運率豐後日田、玖珠、國東、南部各郡2千兵以野上清四郎為先陣,在築後川上游之一的筒川,沿川邊擺「長蛇之陣」後陣擺「雁行之陣」,又以朽網鑑康佈陣於高良山腹以「鳥雲之陣」(形容如鳥群集散於雲層之間,為臨機應變的陣型)潛伏,而道雪率第二陣以小野鎮幸、由布惟信為首率京都鎮安、萩尾治種2千兵為「浮武者」(游擊兵,潛伏並見機突擊之奇兵)潛伏於野中村為後陣,且高良山座主丹波良寬也率法師武者大祝保真、宗崎孝直、稻員安守等7~8百兵力參陣於後備。 兩軍以足輕隊開戰,後紹運以200挺鐵砲橫一列猛烈射擊,龍造寺軍也從高良山左側出擊,於十三部野一地野上清四郎捨身碎骨奮勇突進立下一番槍,激戰之時紹運退後,挑釁引誘龍造寺軍追擊並三度反擊討取多人,同時第二陣小野鎮幸、由布惟信與後陣京都鎮安、萩尾治種又從側面突擊斷絕敵軍後路,紹運又將右翼的先陣兵力以長槍加入攻勢,此時先陣後陣的騎兵整齊一列軍勢並進突擊,道雪更突馳追擊至敵本陣前的祇園原,龍造寺的騎馬武者多數陷於田地遂敗,損失2百83名戴甲武士。此戰為十三部野之戰。 4月23日,龍造寺家晴、筑紫廣門又率1萬6千餘後備兵力進攻高良山,於高良川沿堤防分五段軍勢。道雪、紹運、察知龍造寺軍的行動,與良寬、蒲池氏合併8千兵力佈陣於祇園原,並將兵力二分,於各處配置伏兵。 道雪此次親自為先陣大將,並配置由布惟信、十時惟由、十時連貞為先鋒,安東連忠、內田鎮家、竹迫連種、綿貫吉兼為後陣,高良山法師武者良寬等則隔軍配置做為後備。 道雪擺出約120~200挺鐵砲,只要敵軍一接近就只發射20~30發威嚇,而龍造寺軍約7~800挺鐵砲卻因此連發,由於龍造寺軍於山間擊出多發鐵砲造成煙霧瀰漫視界不良並且受迴音干擾,道雪的鐵砲隊則因為控制得當沒有受到硝煙影響,而龍造寺軍卻在這不利的狀況憑其大軍猛烈突擊,先鋒的惟信、惟由、連貞遂趁此狀況進行突擊並偽退誘敵,一度將其先鋒擊退後,龍造寺軍交替後陣不知是計猛烈追擊、道雪也加入後陣安東連忠等兵力,兩軍進入激戰被形容有如萬雷震盪,此時道雪立起馬印吹起法螺貝大為鼓舞軍勢,下令分二隊以由布惟信、十時惟由、十時連貞、內田鎮家、竹迫連種從側面突擊,此時十時連秀、綿貫吉兼、後藤種任、野上清四郎等揮槍討取龍造寺方不少有功的武士,同時以「鳥雲之陣」潛伏已久的朽網鑑康也突然襲擊,龍造寺軍潰散直至中軍,龍造寺家晴、筑紫廣門無法控制敗勢,道雪追擊約2町距離後引退,而龍造寺軍又重整軍勢反擊之時,紹運和良寬之伏軍又從森林兩旁出現以弓、鐵砲猛烈攻擊,打擊了龍造寺軍反擊之軍心,使其受三方圍攻大敗。此為祇園原之戰。 以上小森野、十三部野、祇園原三戰統稱築後久留米合戰(又稱為筒川合戰)是為道雪、紹運引用《孫子兵法》的「奇正戰術」最為代表性的一次戰役,其戰績被評價可媲美孫子、吳子。(此戰記載於《大友興廢記》、《九州諸將軍記》、《築後國史》、《高良山物語》等九州方面史料。) 兩軍在數戰中維持著膠著狀態,而九州南部的島津家卻在這時快速崛起,侵攻大友及龍造寺的領地,龍造寺不敵降服了島津家,築前國人如秋月、原田等見狀也陸續歸屬島津家。 於6月頃立花道雪突然於陣中發病,紹運對這位如同父親一般的前輩除了迅速請來醫師看診外,每天日夜不離的照顧,並將軍隊從高良山下移至北野村。9月11日,道雪再對家臣說完壯烈的遺言後逝去,頓失支柱的大友軍只能撤退,這時紹運說了: 『如同喪失柺杖的老人和於無燈的闇夜中行走一樣,我等復興大業已不可成,心頭就像行屍走肉一般空虛...』 之後紹運擔任殿軍運送道雪遺體,敵對的士兵見狀並沒有攻擊,而是深深的對道雪這位徹頭徹尾忠心於大友家並且一生37場大合戰皆無敗的名將致敬。 同年9月13日,筑紫廣門趁著道雪新死之際出兵奪下了紹運的寶滿城,他於入夜後先以千手喜雲率3百人以和尚之姿入侵寶滿山,並於城中放火,然後再派家臣島田武藏於和久堂城、村山近江守於柴田城出陣,擊破了防守的高橋老臣伊藤源右衛門和花田加右衛門,最後高橋軍在家老屋山中務的奮戰下護送了城中的紹運之妻宋雲院和次男統增至巖屋城,而寶滿城則被廣門攻下。 此時豐臣秀吉在本能寺事變後迅速提高地位成為關白,大友宗麟見自家衰落而向秀吉臣服並希望能援救被島津家攻擊的自家。筑紫廣門此時風聞秀吉的九州征伐計畫,遂決定離反島津家而想以紹運之子統增娶廣門之女的方式和紹運談和,因為紹運之妻和廣門之妻是姊妹,兩家皆由衷希望同盟,紹運便以歸還寶滿城以及交換雙方家老、中老之子為人質答應這項和議,而紹運會答應的原因,無非不是因為多了一道防衛島津家的戰線。天正十四年(1586年)2月,紹運次子高橋統增和廣門之女加禰姬結婚,至此,築前呈現立花、高橋和筑紫的「三國小同盟」。 秋月種實見筑紫和高橋家的同盟後要求龍造寺及島津出兵攻擊,島津義久為此慎重考慮過後於6月令一族的島津忠長為總大將聯合肥築兩州國人約5萬人進攻築前,7月6日,筑紫廣門遭受島津家接連攻陷居城更痛失愛子筑紫晴門後不敵投降,之後紹運將主力兵集結於巖屋城,寶滿城則留下統增夫婦和筑紫家臣約6百餘人,不久紹運聽聞筑紫家臣因為廣門被島津家俘虜而呈現不穩的情勢,反覆在兩城之間調動兵力警戒守備,果然筑紫家臣挾持了統增夫婦,最後在高橋家臣伊藤源右衛門果斷的圍攻下平息了這場小亂事。 7月14日,島津軍五萬對巖屋城發動了攻勢,紹運以763人相差了約50倍的兵力抵擋,每日不間斷的持續攻防... 《築前續風土記》中記載: 「終日終夜,槍聲都未有停息之時,士卒們在城中廝殺的呼喊生於大地之間回盪。城中隨處都可能是決定生死的場所,一次次的進攻被擊退,生命在戰鬥中消失。」 島津軍進攻了10日,不僅沒攻下敵砦還丟失了部分自軍兵砦,損失了許多兵士,島津忠長為此斷糧阻水,但是巖屋城的士兵仍然士氣高漲,並且負傷的高橋士兵其面對敵人的程度勝過了當時的島津士兵。之後島津軍替換生力軍攻擊,高橋將士才略顯疲態,終於在26日,島津軍攻破了巖屋城外圍進至二之丸和三之丸,此時高橋軍以大石大木和弓矢鐵砲攻擊島津軍,一時之間又遭受更大的損害。 忠長為此派出新納忠元為使者向紹運勸降,卻被紹運以忠言駁斥,其言語也受到島津士兵的喝采,忠元找不到話回覆,島津忠長遂決定於27日展開總攻擊。 27日,早朝約4~6時島津軍發動最後攻勢,紹運等高橋家臣雖然拚命的防戰,但是在踩踏著己方屍體蜂泳而至的島津軍面前,敗亡只是時間的問題了,殘存的士兵們在和紹運做了訣別後以遍體鱗傷之軀向敵軍發動了杜絕的逆襲,在本丸指揮的紹運,親自給負傷著敷藥以示鼓勵,並背誦佛經為亡者弔喪。這時候島津軍終於攻入了本丸,紹運手持大長刀帶領著旗本衝入敵軍陣中,斬殺了十七人。紹運此時的奮戰之姿被記載在《西藩野史》中: 「紹運雄略絕倫,領兵上陣,數次擊破薩軍攻勢、殺傷甚多。」 面對紹運等人瘋狂的奮戰,畏怯的敵軍敗逃出了本丸,不過紹運身上也已經傷痕累累了,兵士們也只剩下最後的五十餘人,多數也是有重傷在身。知道自己到了最後的時刻的紹運登上了本丸的最高處,在門檻上刻下辭世句後就切腹自殺了,享年39歲,時間是在下午五點左右。因紹運作為榜樣,殘存的武士們全體切腹殉死了,為紹運介錯的吉野左京亮也用同一把刀自盡。當為了奪取紹運頭顱而衝進本丸的島津將兵們,看到眼前這種壯烈場面都驚訝的的停止了腳步。 島津軍總大將島津忠長雖然與紹運敵對,但仍給他極高的稱讚,並用最高的軍禮執行首實檢。而且忠長還嘆息道: 『哎!這麼英勇的武將卻死在我的手裡,如果能和他成為朋友該是件多麼令人愉快的事情啊。弓矢可以取得人命,但我現在卻痛恨它們起來。』並在往後於紹運的墓上刻下讚詩: 一將功成冠九州 戰場血入染河流 殺人刀是活人劍 月白風高巖屋秋 島津軍在此戰因為紹運的死命防戰下,戰死的大將有二十七騎,死者則高達三千人之多,負傷者也有一千五百人。高橋軍還給予島津日向方面的援軍上井覺兼壞滅的打擊,並且曾在耳川之戰守住高城的勇將山田有信也被打的重傷昏迷,島津嫡系子弟也死傷慘重。 次年,用大軍降伏島津家的秀吉,在經過大宰府時讚嘆紹運主從的忠義,稱讚其為「亂世之華」並對他的陣亡感到十分可惜。 後來紹運之子立花宗茂在封地柳河建了天叟寺,統增在封地三池修建紹運寺,紹運的家臣藤內重勝在太宰府修建了西正寺,用來祭祀紹運和在巖屋城陣亡的將兵們,巖屋城周邊也有紹運的墓所和將士的首塚,並有一塊石碑刻著「嗚呼壯烈巖屋城」。紹運法名「天叟寺殿性海紹運大居士」 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%B4%B9%E9%81%8B
高橋鑑種 Takahashi Akitane(1529年-1579年) 一萬田親泰的次子,養父為高橋長種,初名為一萬田親宗,繼承高橋氏且受大友義鑑偏諱「鑑」字,名為高橋鑑種。 一萬田氏一族為大友氏的庶流,當大友宗麟之弟-大友晴英(大內義長)繼承了周防大內氏的家督之時,鑑種跟隨義長前往而成為其家臣。但大內義長卻於弘治三年(1557年)受毛利元就攻擊而被迫自盡,當時鑑種似乎是擔任義長的使者被派往豐後因而得以保住性命,之後回到大友氏。 鑑種為武勇相當優秀之人,弘治二年(1556年)由於大友重臣小原鑑元反叛,引起了連宗麟都必須避難的大亂,戰局激烈,鑑種在鑑元所據守的城池縱火成功,製造勝利的基礎而立下大功。 永祿三年(1560年),在攻打伊予西園寺氏之時,擊殺了西園寺家重臣土居清宗者據說也是鑑種。其後並立下了討伐秋月文種的大功,並因為這些功績而被任命為築前國守護代。 然而在永祿十年(1567年),鑑種受毛利元就的謀略所誘,呼應秋月種實侵入築前之舉而與立花山城主立花鑑載及築前國原田隆種、宗像氏貞等人一同舉兵反叛大友氏。反叛原因據說宗麟對鑑種長兄一萬田親實之妻抱有非分之想並將親實逼死,激怒鑑種所致,或宗麟原先為攻打毛利氏命鑑種進行對各豪族的謀略行動,之後卻無視於鑑種的辛勤奔走而突然與毛利氏談和,鑑種辛苦全歸於徒勞,顏面受損憤而起事。 為應對毛利氏主導的入侵,宗麟以戶次鑑連(立花道雪)等人為指揮官,並派出了以豐後國的朽網氏、吉岡氏、豐後齊藤氏、一萬田氏、築後國的蒲池氏、田尻氏、溝口氏、三池氏、問註所氏等為主要兵力的討伐軍。後立花山城受大友軍圍攻而城陷,立花鑑載自盡,秋月及宗像等降伏。 永祿十二年(1569年),大內氏一族的殘餘勢力-大內輝弘借大友宗麟援助,舉兵攻入周防。同時尼子氏遺臣山中幸盛擁立尼子勝久而侵入出雲,毛利元就被迫與大友氏談和撤退。失去後盾的鑑種陷入進退維谷的處境,降於大友宗麟,高橋氏家督之位遭剝奪。 後鑑種被毛利元就收留成為小倉城主,大友高橋氏失去家督面臨斷絕,後由吉弘鎮種(高橋紹運)繼承高橋氏。 天正六年(1578年),島津氏於耳川之戰大敗大友氏,鑑種趁大友氏的衰退收秋月種實之子元種為養子,試圖借秋月氏的援助恢復舊業,卻病死於小倉城,享年51歲,法名宗仙。 其子高橋長宗後來侍奉毛利氏,高橋元光則先侍奉毛利氏而後一族侍奉小倉藩主小笠原氏,其女力姬則成為毛利氏家臣兒玉氏之妻。 出處 http://wiki.eyny.com/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E9%91%91%E7%A8%AE
龜井茲矩 Kamei Korenori(1557年-1612年) 湯永綱的長子、母為多胡辰敬之女、養父龜井秀綱、正室為山中幸盛養女.時子、繼室為多胡重盛之女;初名湯國綱,繼承龜井氏,改姓龜井,由真矩改名為茲矩,別名新十郎,渾名槍の新十郎。 茲矩出生於出雲八束郡湯之莊,湯氏和尼子家一樣是近江佐佐木氏的一族,隱岐出雲兩國守護京極持久的後代。為出雲有力國人眾的湯氏,在尼子經久奪回月山富田城後不久湯氏便歸附於他的旗下。 永祿六年(1563年),毛利元就親率大軍攻入出雲,尼子家居城月山富田城被圍得水洩不通,再加上鎮守石見銀山的重臣本城常光逆刃投向毛利家,使尼子家更蒙上一片愁雲。四年之後月山富田城終究彈盡糧絕,尼子義久開城投降,最後落髮出家,在伴青燈香火了度餘生。 在月山富田城攻防戰最激烈時,尼子家的重臣龜井秀綱父子先後討死,當時秀綱的親女千明嫁給了山中幸盛,幸盛收妻妹為養女,然後將她嫁給茲矩,改姓承繼龜井氏。 尼子家滅亡後,茲矩成為浪人,但在流浪之時也讓茲矩增廣了見聞並培養兵法和內政方面的能力,一度潛伏於京都。之後在襟兄山中幸盛與其叔父立原久綱擁立尼子家遺孤勝久揚起復興尼子家的大旗時前往加入,輔佐尼子勝久與毛利家對抗,轉戰但馬、因幡諸國,一度在天正二年(1574年)時擔任因幡八頭郡私都城的守將,協助山中幸盛力抗吉川元春,但是戰敗。 當時正逢織田信長發動中國討伐,以羽柴秀吉為主將,以播磨小寺家家老黑田孝高為嚮導出征播磨,尼子遺臣趕往投靠並駐守於播磨上月城。天正六年(1578年),毛利軍和宇喜多軍三萬聯合部隊出陣攻擊上月城,同時又有三木城別所長治叛變,使織田信長最中決定捨棄上月城,羽柴秀吉受命全力平亂進攻三木城別所家。上月城失陷後,勝久切腹,山中幸盛被殺,尼子家正式劃上了句號。在攻城戰中大難不死的茲矩幾經輾轉投入秀吉營中,此後成為羽柴家部將在戰場上活躍。 天正八年(1580年),羽柴秀吉出兵因幡,為了取得先機秀吉搶先一步攻下山名家人質所在的因幡鹿野城,引起山名家當主豐國的恐慌而出走,改由毛利家部將吉川經家率兵駐守。年僅二十四歲的茲矩被秀吉起用為鹿野城守將進行前線防備跟監視山名家人質的重要工作,這除了表露出秀吉對茲矩的重用之意,利用對毛利家懷有仇怨的尼子遺臣執行這項任務是絕對不會有背叛危機的,尤其龜井手下無兵無將,不似播磨但馬的國人眾各擁兵力且與毛利家多有相當的關係,可以充分利用。然後秀吉便領兵將因幡主城鳥取城包圍進行斷糧戰,秀吉建築長達十二公裡的防禦工事,將吉川元春帶來的毛利家援軍隔絕在伯耆八橋,由茲矩鎮守的鹿野城擔任第一條防線,負責強化守備。 鳥取城失陷後,茲矩因戰功被秀吉正式任命為因幡氣多郡鹿野城主,拜一萬三千五百石,終於擁有屬於自己的領地的茲矩為此十分興奮,更是異常努力地建設經營鹿野城,圍湖造田、修築河堤使領內的石高增加了三成,贏得當地領民的同聲稱,同時也因為茲矩進行與南蠻商人間的交易,獲利豐厚。 天正十年(1582年),本能寺之變爆發,茲矩作為秀吉的留守役,滯於鹿野城,發揮監視、牽制毛利家的重要任務。山崎會戰後,茲矩在姬路城的宴會上向秀吉請求待平定全國後自願跨海征服琉球,秀吉感動之餘賞賜茲矩一把團扇,正面還寫有「龜井琉球守殿」的字樣,並且在不久後替茲矩向朝廷奏請了正六位下琉球守的官位,令素來熱中進行海外貿易的茲矩十分欣喜。 在攻下關東北條氏且奧羽大名皆來降後,秀吉完全統一天下。文祿元年(1592年),秀吉發起侵略朝鮮的戰爭。戰前,自詡已為秀吉策封為正六位下琉球守的茲矩向秀吉奏請出兵,並且整備兵馬打算進攻琉球國,但是最後卻被時常自稱「琉球國為我家附庸」的島津家所阻,島津義久以琉球為本家藩屬為由秀吉控訴,儘管這只是一句空話,但秀吉仍鑑於島津家與琉球間的地緣關係,中止了茲矩的出兵計劃。 因此茲矩投入侵朝戰爭,被任命為九鬼嘉隆水軍的將領,當時九鬼嘉隆建造了巨船「日本丸」,加上其日本第一水軍的威名而被任命為日本水軍的先鋒部隊,但是素來縱橫海上的「海盜大名」九鬼嘉隆卻於五月七日在玉埔海面被朝鮮水軍名將李舜臣奇襲,五十艘船被擊沉二十六艘,折損了過半船隻。隨後在二十九日李舜臣的艦隊在泅川附近遇到茲矩的十二艘船艦,因為懼於李舜臣的威名,茲矩決定棄船上岸,倚山展開半月長蛇陣應戰,由於正是退潮的時刻對李舜臣所率的水軍不利,於是李舜臣率領艦隊假裝撤退,茲矩見時機可趁揮軍追擊,李舜臣立即下令全軍反轉以龜甲船的優勢圍勦龜井艦隊,將茲矩殺得大敗而逃。 六月二日時,為戰敗而氣憤不已的茲矩行船至唐浦港大肆略劫發洩,但也因此擔擱而被李舜臣追上,兩翼包抄,龜井船隊的指揮艦被擊沉,其所率的二十一艘樓船全遭勦滅,在明史中的記載茲矩於該役中戰死,但實際上死的是茲矩部下,茲矩本人在部將掩護下身負重傷落荒逃回日本。文祿四年(1595年),茲矩奉秀吉之命經營伯耆日野山的銀礦,獲得佳績。 慶長五年(1600年),豐臣秀吉死後兩年,爆發關原之戰,以石田三成為首的西軍和德川家康帶領的東軍於關原發生激戰,茲矩選擇加入了東軍,當時原屬於東軍的鳥取城主宮部長熙在率兵進至濱松時,突然轉易旗幟叛變至西軍,並參與攻佔大津城,在德川家康的命令下茲矩由鹿野城出陣與齋村政廣一同進攻鳥取城,在三成於關原大敗後鳥取城守將在茲矩的勸說下開城投降。 戰後茲矩因功加封了因幡高草郡,得到共計三萬八千石的安堵令。之後茲矩在長崎建造西洋帆船於慶長十二年(1607年)、十四年、十五年三度持幕府朱印狀派遣通商船隻與暹羅往來交易。此外茲矩還大幅改建鹿野城,採用通過貿易得來的明櫓、朝鮮櫓興建城館,還在城下設建供奉山中幸盛的幸盛寺已示不忘舊恩義。同時,在海外貿易之外,茲矩對農政方面也有亮眼的政績,接連開拓了氣多郡的日光池和高草郡的湖山池,並在千代川左岸設置兩處大井,不但可以供給民生用水,對治水工程也多有建樹,在當地留下為後世所稱道的龜井堤、龜井笠、龜井踴等治績,也對推廣特產品盡力,育成桑樹林,鼓勵領民生產生絲。 慶長十七年(1612年)病逝,年五十六歲,法名中山道月大居士。 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=00064&parent=239&sn=1278&lorder=2&ptitle=%E5%87%BA%E9%9B%B2%E2%80%A7%E5%B0%BC%E5%AD%90%E5%AE%B6

Send this to a friend