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武田信豊

三百八十五位人物:高島正重、佐伯惟教、山上照久、穗井田元清、阿蘇惟光、織田秀信、正木為春、大關高增、鵜殿長照、那須資胤、織田信孝、西園寺實充、長野具藤、奧平貞能、尼子勝久、上杉景虎、天野隆重、北畠晴具、朝比奈泰能、京極高吉、德川秀忠、上條政繁、山村良候、林秀貞、高森惟直、畠山義隆、北畠具房、田尻鑑種、一色義幸、土居清良、平岡房實、小梁川宗秀、岩成友通、武田信豐、德永壽昌、本願寺教如、高梨政賴、片桐且元、朝倉景紀、赤松則房、小島職鎮、橫瀨成繁、浦上宗景、佐世元嘉、木造具政、成田長泰、益田藤兼、福原資保、宮部繼潤、三雲成持、小野崎從通、大田原資清、志道廣良、真田幸昌、豐臣秀賴、伊達實元、內ヶ島氏理、淺利勝賴、安東茂季、寒川元鄰、杉重良、桑名吉成、斯波義銀、織田信勝、泉田胤清、百地三太夫、畠山義慶、有馬義貞、豬俁邦憲、加藤嘉明、稻富祐直、平野長泰、波多野宗高、淺井久政、國分盛顯、兒玉就忠、山口重政、石川康長、那須資景、赤星統家、赤松晴政、京極高次、斯波詮直、山崎片家、最上義時、相良賴房、松本氏輔、柴田勝豐、戶澤政盛、藤方安正、脇坂安治、原田信種、小寺政職、豬苗代盛國、岡家利、蒲生秀行、鳥屋尾滿榮、吉弘鎮信、村井貞勝、一迫隆真、蘆名盛興、小野寺輝道、神代勝利、篠原長房、島津豐久、矢澤賴康、村上通康、阿蘇惟種、阿蘇惟將、阿蘇惟豐、阿閉貞征、安芸國虎、安見直政、安宅冬康、安田顯元、安田能元、朝倉景隆、安富純治、安富純泰、伊集院忠倉、伊集院忠棟、伊集院忠朗、伊達盛重、伊東義益、伊東祐慶、伊東祐兵、伊奈忠次、井伊直孝、磯野員昌、一栗放牛、一色義清、一色義道、一色藤長、稻葉貞通、宇喜多忠家、宇山久兼、芳賀高武、羽床資載、臼杵鑑續、延原景能、延澤滿延、遠山景任、鹽屋秋貞、奧平信昌、岡部長盛、岡本賴氏、屋代景賴、屋代勝永、屋代政國、溫井景隆、溫井總貞、下間仲孝、下間賴龍、糟屋武則、河尻秀長、河尻秀隆、河田長親、河東田清重、河野通宣、河野通直、河野通直、花房職秀、花房正幸、花房正成、皆川廣照、垣屋光成、垣屋續成、角隈石宗、葛山氏元、葛西俊信、葛西親信、葛西晴胤、樺山久高、蒲生賢秀、蒲池鑑盛、肝付兼護、肝付良兼、關一政、關盛信、岩上朝堅、岩清水義教、岩清水義長、願証寺証惠、吉見廣賴、吉見正賴、吉川經安、吉川經家、吉田孝賴、吉田康俊、吉田重俊、吉田重政、吉良親實、津輕信枚、久能宗能、久武親信、久武親直、宮城政業、朽木元綱、魚住景固、近藤義武、金子元宅、金上盛備、九戶康真、九戶實親、九戶信仲、九戶政實、窪川俊光、窪田經忠、熊谷元直、熊谷信直、隈部親永、結城政勝、兼平綱則、犬甘久知、犬童賴兄、原胤榮、原胤貞、原長賴、原田宗時、古田重然、戶川秀安、戶川達安、戶澤政重、戶澤盛重、戶澤道盛、戶田勝成、後藤高治、後藤勝元、後藤信康、御子神吉明、御宿政友、公文重忠、弘中隆兼、江井胤治、江上武種、江村親家、江馬輝盛、江馬時盛、江里口信常、溝尾茂朝、甲斐親英、荒木氏綱、香川之景、高橋鑑種、高原次利、高山友照、高城胤則、高城胤辰、高梨秀政、高梨賴親、國司元相、國分盛氏、黑岩種直、黑川晴氏、佐久間安政、佐久間勝政、佐久間盛政、佐竹義久、佐竹義憲、佐竹義斯、佐竹貞隆、佐田鎮綱、佐田隆居、佐波隆秀、佐野宗綱、佐野房綱、最上家親、最上義守、妻木廣忠、齋藤龍興、細野藤敦、鮭延秀綱、三好義興、豐臣秀次、三好政康、三好政勝、十河存保、三好長逸、三村家親、三村元親、三村親成、三澤為清、三木國綱、山崎家盛、山崎長德、山田宗昌、山田有榮、山田有信、山內一豐、山名豐定、山名祐豐、四釜隆秀、市川經好、志賀親次、志賀親守、志賀親度、志村光安、斯波義冬、斯波經詮、斯波長秀、氏家吉繼、氏家守棟、寺崎盛永、寺澤廣高、寺島職定、筒井順國、筒井定次、七里賴周、執行種兼、車斯忠、種子島惠時、種子島時堯、酒井忠勝、酒井敏房、秋月種實、秋月文種、三好義繼、楯岡滿茂、小笠原信淨、小笠原成助、小笠原長雄、小笠原貞慶、小貫賴久、小山高朝、小山秀綱、小田氏治、小田守治、小田政光、小田友治、小幡憲重、小峰義親、小野木重次、松浦鎮信、松永久通、內藤忠俊、松倉重信、松平信康、松平忠輝、松平忠吉、松野重元、沼田顯泰、沼田祐光、上村賴興、上田憲定、城井長房、城井鎮房、城親基、城親冬、植田光次、織田信光、織田信澄、織田信包、色部顯長、色部長實、新井田隆景、新關久正、新發田綱貞、新發田重家、森岡信元、森下通與、森好之、森長可、森田淨雲、真柄直隆、神戶具盛、神保長城、神保長職、仁保隆慰、壬生義雄、壬生綱房、壬生綱雄、須田長義、須田滿親、水越勝重、水谷胤重、水谷正村、杉原盛重、菅沼定盈、菅谷政貞、成松信勝、成澤光氏、正木憲時、生駒親正、西園寺公廣、青景隆著
五百位人物:有馬直純、明智秀満、鵜殿長照、赤尾清綱、増田長盛、鵜殿氏長、脇坂安治、長束正家、岡部正綱、岡部長盛、奥平貞能、葛山氏元、蒲生賢秀、蒲生秀行、京極高吉、松平広忠、籾井教業、三好義興、青山忠成、石川家成、石川康長、畠山昭高、薄田兼相、大野治長、板倉勝重、筒井定次、伊奈忠次、鈴木重朝、榊原康勝、酒井忠勝、内藤清成、牧野康成、山口重政、尼子誠久、斯波義銀、毛利長秀、津川義冬、立原久綱、織田広信、織田信秀、織田信澄、織田信包、河尻秀隆、河尻秀長、柴田勝豊、丹羽長重、宇喜多詮家、平岡頼勝、松野重元、原田直政、三村元親、前田利長、前田利政、蜂屋頼隆、古田重然、小早川秀包、森忠政、生駒親正、柴田勝政、佐久間安政、前野長康、小野木重次、桑山重晴、仙石秀久、三好長治、徳永寿昌、戸田勝成、百々安信、中村一氏、原長頼、平塚為広、堀尾吉晴、溝口秀勝、徳山則秀、毛受勝照、土岐頼次、氏家行広、日根野弘就
三百六十位人物:北条氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北条景広、富田隆実、木下昌直、岡部元信、円城寺信胤、遠藤直経、岡本禅哲、安倍元真、大宝寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫広門、春日元忠、戸蒔義広、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣、高島正重、佐伯惟教、山上照久、穂井田元清、阿蘇惟光、織田秀信、正木為春、大関高増、鵜殿長照、那須資胤、織田信孝、西園寺実充、長野具藤、奥平貞能、尼子勝久、上杉景虎、天野隆重、北畠晴具、朝比奈泰能、京極高吉、徳川秀忠、上条政繁、山村良候、林秀貞、高森惟直、畠山義隆、北畠具房、田尻鑑種、一色義幸、土居清良、平岡房実、小梁川宗秀、岩成友通、武田信豊、徳永寿昌、本願寺教如、高梨政頼、片桐且元、朝倉景紀、赤松則房、小島職鎮、横瀬成繁、浦上宗景
飯尾定宗、土岐頼芸、内ヶ島雅氏、明叔慶浚、浅井亮親、多賀貞能、足利義晴、朽木晴綱、三淵晴員、細川藤賢、武田元光、武田信豊、粟屋光若、赤井時家、酒井豊数、下間頼慶、本泉寺蓮悟、富樫晴貞、十市遠忠、越智家増、柳生家厳、筒井順興、筒井順政、湯川直光、畠山稙長、畠山政国、衣笠範景
奥平貞能 Okudaira Sadayoshi(1537年-1599年)奥平定勝(貞勝、道文入道)の嫡男。母は水野忠政の妹。子に奥平信昌・仙千代・奥平昌勝。娘に本多重純(本多広孝の次男)室がいる。幼名は仙千代。監物丞、通称は美作守。諱は近世の家譜・編纂物では「貞能」とするが、文書上からは「定能」であることが確認される。奥平氏は奥三河の作手亀山城を本拠とする国衆。戦国期の永正年間には定能の祖父にあたる貞昌の頃から史料に見られ、定能の父定勝の頃には駿河今川氏が三河経略を行い、今川氏との関係を強めている。定能の史料上の初見は天文16年(1547年)8月25日付今川義元判物写で、幼名仙千代と称していた定能は叔父藤河久兵衛尉とともに医王山砦を攻略した恩賞として、山中に知行を与えられている。叔父の藤河久兵衛尉は直後に今川氏に対して謀反を企て、翌天文17年正月26日付今川義元判物写に拠れば、定能は父定勝により今川氏への忠節の証として吉田へ人質として提出されたという。弘治2年(1556年)10月頃までには元服し、通称九八郎を名乗る。この頃、菅沼氏など三河国衆の間では親今川派と反今川派の間で内部紛争が起こっており、東三そう劇と呼ばれている。奥平氏でも父定勝が今川氏に臣従しているのに対し、同年春頃に定能は奥平久兵衛尉・彦九郎・与十郎らと今川氏に対して逆心を企て、定勝派の親類衆により高野山へ追われ、その後赦免されたという。永禄3年(1560年)5月 、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に敗死した後、今川氏と松平氏(徳川家康)との間で抗争が激化するが、定能は父定勝とともに今川派として行動している。なお、この頃父の定勝は隠居し、定能への代替わりが行われたと考えられている。永禄7年(1564年)2月、奥平氏は今川氏から離反し、徳川家康に属した 。定能は家康から、家康に敵対する牧野氏・大給松平氏の所領である牛久保領・大沼領・大給領など3500貫文と遠江三分の一の知行を宛行われ、受領名美作守を拝領している。以後、家康の遠江侵攻に従う他、元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いにも参戦する。永禄11年(1568年)12月、甲斐の武田信玄が駿河今川領国への侵攻を開始する(駿河侵攻)。同年11月19日付武田信玄書状写に拠れば、この頃定能と武田氏は接触を行っている。元亀2年(1571年)3月頃には奥平氏は武田氏に従属しており、同年4月に行われた武田氏の三河侵攻では田嶺・長篠菅沼氏(山家三方衆)とともに案内役を務めている。武田氏は織田氏とは友好的関係を築いていたが徳川氏とは遠江領有を巡り緊張関係にあり、元亀4年(1573年)正月に武田氏による徳川領国への侵攻が開始されると、山家三方衆は武田家臣山県昌景に従い従軍している。なお、同年4月には信玄が死去し、武田氏の徳川領国の侵攻は中止されている。元亀4年(1573年)春、野田城を降しながら撤退する武田軍を不審に思っていたが、やがて、秘匿されていた信玄の死を確信する。同年7月から包囲されていた三河設楽郡長篠城の救援に向かう武田軍の中に定能も居たが、この来援を待てなかった長篠城主菅沼正貞は翌月には降伏し、城を明け渡した。無事だった正貞は、徳川と通じているとの疑念をもたれ、救援の武田軍に身柄を拘束された。ところが、内通疑惑は定能へも波及。定能への疑惑は真実で、家康とは密かに連絡をとりあっていたそうだが、この時点では武田信豊たち援軍諸将には露見せずに済んだ。しかし、初期の3人以外に更なる人質の供出を強いられるなど次第に立場を悪くした。一方、その頃家康は奥三河における武田の勢力を牽制するため有力な武士団・奥平を味方に引き入れることを考え、奥平に使者を送った。定能の答は「御厚意に感謝します」という程度のものだった。そこで家康は信長に相談した。信長は「家康の長女・亀姫を定能の長男・貞昌に与えるべし」との意見を伝えてきた。家康は信長の意見を入れ、定能に一.亀姫と貞昌の婚約 二.領地加増 三.定能の娘を本多重純(本多広孝の次男)に入嫁させることを提示した。元亀4年6月22日、定能は家康に一.信玄の死は確実なこと 二.定能親子は徳川帰参の意向であることを伝え、しばらくして再び徳川の家臣となった。8月21日、一族郎党の大半を率いて亀山城を退去し、徳川方に走った。それに伴い、離反から5日後の8月26日には、次男・仙千代をはじめとした人質3人が処刑された(一説には串刺し刑であったともいわれるが、定かではない)。天正元年(1573年)に長男・貞昌(のちの信昌)に家督を譲って隠居し、自身は家康の許にあって、奥三河の地勢や人物関係を教える助言役に徹していたと言われている。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで、酒井忠次に属して鳶ヶ巣山奇襲隊として参戦し、窮地に陥っていた長篠城救援に貢献した。戦後は、信長と家康の両将から見込まれた信昌を引き立たせるべく、表舞台から完全に退いている。天正18年(1590年)3月、小田原遠征の途中で三河額田郡長沢に逗留した豊臣秀吉から招かれ、長篠の戦話などを所望された。その褒美として呉服を拝領し、都住まいを奨められている。上洛後は美作守に叙任され、秀吉の相伴衆として二千石を与えられた。秀吉薨去の際には、形見分けとして茶器や黄金を拝領した。慶長3年(1598年)12月11日、伏見において病没。62歳。戒名は寿昌院殿牧庵道渓大居士。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E8%83%BD
小幡憲重 Obata Norishige(1517年?-没年不詳)小幡顕高の子。小幡信貞(信実)の父。別名重貞、重定ともされる。信竜斎全賢。妻は長野業正の娘(妹とも)。子に信真・信重がいる。娘は甲斐武田氏の親族衆・武田信豊の妻。憲重の孫である信氏の室を武田信豊娘とする系図もある。尾張守。国峯城城主。小幡氏は上野国衆で関東管領の山内上杉家に仕えていたが、山内上杉家が相模国の後北条氏との抗争で衰退すると長野氏との関係が悪化し、さらに一族の内紛が勃発する。憲重は天文17年(1548年)10月に山内上杉氏から離反し、後北条氏に通じる。山内上杉氏は天文21年3月に後北条氏の侵攻により本拠平井城・上野から没落し越後長尾氏を頼る。憲重はこうした状況のなかで後北条氏に従属していたが、天文18年(1549年)頃には甲斐国の武田氏に帰属先を変えたとされ、『高白斎記』に拠れば天文22年(1552年)には嫡子信実を伴い信濃塩田城に在陣する武田晴信(信玄)と対面している。憲重は後北条氏・武田氏に両属する立場であったと考えられている。天文23年(1554年)からは憲重の発給文書が見られる。その後、武田氏は後北条氏は同盟してそれぞれ北信と北関東において上杉氏と対決するようになり、こうした中で永禄3年(1560年)8月末には上杉憲政を擁した長尾景虎(上杉謙信)が本格的な関東侵攻を行い、憲重は本拠国峰城を攻略される。翌永禄4年以降に武田氏は西上野侵攻を行い、憲重も反乱した一族を追放し国峰城を奪還し、旧領復帰に成功した。武田家中における西上野先方衆の一人として武田氏に仕え、川中島の戦いにも参戦した。最後は1575年、長篠の戦いに参加し戦死したとされることが多いが、はっきりとしたことは分かっていない。ただし、以上の事績は子の信貞のもので憲重自身はそれ以前に没していたとも、憲重と重貞とは別人であり、憲重と信貞は祖父と孫の関係とも言われる。その一方で、憲定は山内上杉家に仕えていた当時の名(“憲”は上杉憲政の一字)で、同家を離反後に決別を示すために重定に改名したとも考えられる。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B9%A1%E6%86%B2%E9%87%8D
武田信廉 Takeda Nobukado(1532年-1582年)武田信虎の子。母は大井の方で、信玄や信繁の同母弟。後に出家して逍遙軒信綱と号す。武田二十四将の一人。一般に逍遙軒(しょうようけん)として知られる。天文10年(1541年)6月、兄・晴信(信玄)は父・信虎を駿河国の今川義元の元へ追放して家督を相続し当主となる。晴信は信濃侵攻を本格化させ、翌天文11年7月には諏訪氏を攻めこれを滅ぼす。信廉の初見史料は晴信が諏訪統治を確立しつつあった天文17年(1548年)11月である。『高白斎記』に拠れば、信廉は諏訪衆千野氏に対し、武田方に謀反を起こした諏訪西川衆の追放と所領没収を伝えて知行増加を約束しており、諏訪衆に対する取次役であったと考えられる。また、同じく『高白斎記』に拠れば、天文20年(1551年)7月には晴信の命により、駿河・今川義元の娘を義信の正室に迎える旨を伝えている。『甲陽軍鑑』によれば信廉は80騎を指揮したという。武田家臣団編成を記した『軍鑑』の「惣人数」によれば信廉は「武田」姓を免許された武田一族を記載した御一門衆のうち武田信豊(武田信繁の次男)の次に記載され、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いにおいて兄の信繁が戦死したため、親族衆筆頭となったという。戦時には、後方守備や本陣守護などを務めている。元亀元年(1570年)には信濃・高遠城主に任じられた。元亀4年(1573年)4月に信玄が死去した後は、一族の重鎮として飯田城代や大島城代などの要職を任された。父の信虎が信玄の死後に帰国を望んだため、信廉が信虎の身柄を引き取り、居城である高遠城に住まわせた。このときに「信虎像」を作成した。天正3年(1575年)、長篠の戦いに参戦したが、5月21日の設楽原合戦のときには、穴山信君らと共にいち早く戦線を離脱している。天正10年(1582年)の織田・徳川勢による甲州征伐では、織田信忠を先鋒とする織田勢が南信濃から侵攻したが、信廉は大した抵抗もすることなく、大島城を放棄して甲斐へ退却する。戦後、織田軍による執拗な残党狩りによって捕らえられ、勝頼自刃から13日を経た3月24日、甲斐府中の立石相川左岸にて森長可配下の各務元正、豊前采女によって殺害された。享年51。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BB%89
武田信豊(甲斐武田氏) Takeda Nobutoyo(1549年-1582年)天文18年(1549年)、武田氏の当主・武田信玄の実弟である信繁の次男として生まれる。母は不詳であるが法名が「養周院日藤尼」で、天正10年(1582年)3月16日に信豊とともに信濃小諸城で自害している。信豊の生年は『当代記』に記される「享年34」より逆算。系図類に拠れば信繁には3人の男子があるが、長兄の信頼は『高野山引導院過去帳』に拠れば天文16年(1547年)出生で、信濃国佐久郡の国衆・望月氏を継承し「望月三郎」を称した。このため、信豊は早くから信繁の嫡男として扱われており、生母が信繁の正室であったとも考えられている。信頼は早世したため望月氏は弟の義勝が継承し、義勝は天正3年(1575年)の長篠の戦いで戦死している。義勝の戦死後は信豊の娘婿が望月氏を継承する。永禄元年(1558年)には信豊にあたる「長老」に対して「武田信繁家訓」を授けている。これは九十九か条の家訓で、『群書類従』巻403に収録されている。『群書類従』では「信玄家法下」と呼称されているが、これは甲府の長禅寺二世・龍山子(春国光新)による序文の位置の誤りから生じた呼称とされ、現在では古写本の堀田本に基づき「武田信繁家訓」と称されている。永禄4年(1561年)9月、第4次川中島の戦いにおいて父の信繁が戦死し、信豊は後を継いで親族衆に列する。なお、望月氏は、信頼(武田義勝)も第4次川中島の戦いの直後に死去しており(病死とも戦傷死ともいわれる)、信繁の三男で信頼と信豊の弟・信永が継承している。『甲陽軍鑑』に拠れば信豊は200騎を指揮したという。『甲陽軍鑑』によれば信豊は武田家臣団において親族衆の穴山信君とともに勝頼を補佐する立場にあったという。永禄10年(1567年)8月、武田家では信玄の嫡男である義信が廃嫡される義信事件が起こる。これに際して家臣団の動揺を統制するため行われた生島足島神社への起請文があり(下之郷起請文)、「六郎次郎」の仮名が見られ、これが信豊の初見文書となっている。この時点で信豊は信濃諏訪衆を同心としている。なお、親族衆では信豊と叔父にあたる信廉のみが起請文を提出している。永禄12年(1569年)12月10日付徳秀斎宛武田信玄書状(『恵林寺文書』)に拠れば、同年の武田氏の駿河侵攻に際して、武田家の世子となった諏訪勝頼(武田勝頼)とともに相模国の後北条氏の蒲原城を攻略しており、この時は「左馬助」を称している。『新居家所蔵文書』に拠れば、元亀3年(1572年)の西上作戦では信濃高遠城在番を務めている。一説に、麾下の軍装は黒揃えであったと伝わる。天正元年(1573年)の三河国長篠・作手侵攻にも参加している。同年4月12日には信玄が死去。なお、武田家における信豊の立場の基盤として信豊が東信濃支配の拠点となっていた東信濃の小諸城(長野県小諸市)主であるとする説が支配的であったが、1987年には黒田基樹により信豊の小諸領支配を示す文書は見られないことが指摘されている。また、『信長公記』『甲乱記』『軍鑑』ではいずれも小諸城主は下曽根氏としており、武田氏滅亡に際して信豊が小諸城に逃れたことを記している。甲越同盟により上杉領であった東上野が武田方に割譲されると、信豊は上野国衆の服属に携わっている。信豊は上野小幡氏の娘を室に迎えているが、『甲乱記』『武田源氏一統系図』では信豊室を小幡信真(上総介)の娘としている。しかし信真は信豊との年齢差が近く、『小幡次郎系図帳』に拠れば信豊室を信真の妹としていると記されることから、信真の父である憲重(尾張守)の娘が信豊室であると考えられている。勝頼期には、天正3年(1575年)、三河黒瀬(現在の愛知県新城市作手黒瀬)にて、作手の国人である奥平定能・貞昌父子の動向を監視したり、長篠の戦いでは左翼4番手として出陣したものの、武田方の劣勢を察して早々に退却をしている。このことは、勝頼以上に譜代家老の春日虎綱(高坂昌信)の怒りを買い、6月半ばに昌信が勝頼に提出した意見書5箇条の内の1つに、「典厩(武田信豊)に穴山(信豊と同様に戦線離脱した穴山信君)の腹を切らせるよう仰せられ、某に典厩に切腹を申し付けるよう仰せ下さい」と意見した程であったという。天正4年(1576年)には安芸国の毛利輝元のもとへ庇護されていた将軍・足利義昭が信長妥当のため武田・北条・上杉三者の和睦を周旋すると、信豊は武田側の取次を務めている。天正6年、越後で上杉謙信の死後に上杉景虎・上杉景勝の間で家督を巡る御館の乱が起こると、勝頼は甲相同盟に基づき景虎支援を目的に出兵する。勝頼は景勝側から和睦を提示されるとこれに応じ、景虎・景勝間の和睦を調停した。信豊は先発隊として信越国境の海津城(長野県長野市松城町)、春日虎綱とともに景勝との和睦交渉に携わる。のちに景虎・景勝間では乱が再発し、甲相同盟は破綻する。景勝が乱を制したため勝頼は景勝との同盟を強化し甲越同盟に至り、信豊は取次役を務めている。また、勝頼は対北条氏のため常陸国の佐竹氏とも同盟を結び(甲佐同盟)、信豊は佐竹氏との同盟にも携わっている。天正8年(1580年)3月11日付印月斎宛書状(『蓮華定院文書』)に拠れば、同年には「相模守」を称している。『軍鑑』によれば、天正9年(1581年)に勝頼は穴山信君と約束していた信君の嫡男勝千代と次女の婚約を破棄し、信豊の子と婚約させたという。天正10年(1582年)1月28日、信濃木曽郡の国衆・木曾義昌が織田信長へ内通して武田氏に反旗を翻したため、武田勝頼は信豊を将とする討伐軍を木曾谷へ派遣する。信豊は織田信忠の援軍を得た木曾勢によって鳥居峠にて敗北し、諏訪上原で勝頼勢と合流し、新府城(山梨県韮崎市)へ帰還する。『信長公記』『甲乱記』に拠れば、この敗北を契機とした甲州征伐において、3月2日に信豊は家臣20騎程と共に郡内領へ逃れる勝頼と別れ、信濃小諸城へ逃れて再起を図った。『当代記』に拠れば信豊は関東へ逃れる意図もあったという。しかし城代の下曾根浄喜に叛かれ、二の丸に火を掛けられ嫡男の次郎や生母・養周院、家臣とともに自害した。享年34。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%B1%8A_%28%E7%94%B2%E6%96%90%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%B0%8F%29
粟屋勝久 Awaya Katsuhisa(生年不詳-没年不詳)粟屋氏は清和源氏安田氏の末裔で、若狭国守護の若狭武田氏の被官。勝久の前後の系図は不明で、粟屋元隆や粟屋光若との関係も明らかではないが同族と考えられる。当時、若狭武田氏は、旧守護の武田信豊と、子で現守護の武田義統が対立するなど内乱状態にあった。義統が内乱に勝利した後もなお、若狭西部の有力家臣逸見氏が謀反を起こして独立するなど、領国の統治に窮した義統は、婚姻関係のある越前国守護朝倉氏に援軍を要請する。朝倉氏の軍勢を若狭国に入れることに反対する勝久は、義統の子武田元明を擁立して抵抗し、朝倉氏が若狭国へ侵攻するとこれを撃退した。しかし永禄11年(1568年)、朝倉氏によって元明は囚われて越前国に連行され、一乗谷の朝倉館に軟禁されることとなった。朝倉氏による若狭国支配が始まったが、勝久はその後も武田氏家臣として、単独で国吉城に籠し朝倉氏に抗する。織田氏の勢力が拡大すると、元亀元年(1570年)、他の若狭国人衆と共に織田信長に協力。織田氏による越前国へ出兵した際には、国吉城は信長の宿所となった。越前攻めでは一乗谷一番乗りの武勲を挙げ、幽閉されていた旧主の武田元明を救出した。天正3(1575年)年7月、上洛して元明助命の嘆願を果たしたものの、武田氏による若狭国領有は許されず、若狭国は織田氏の重臣・丹羽長秀に任されることとなった。天正9(1581年)年の天覧馬揃えに見られるように、粟屋勝久ら若狭武田氏旧臣は丹羽長秀の与力として存続している。本能寺の変後は羽柴秀吉に仕えて馬廻役を務めた。のちに国替えとなり、国吉城には木村常陸介(木村重茲)が入部している。時期は明確ではないが、本能寺の変後、まもなく没したらしい。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E5%B1%8B%E5%8B%9D%E4%B9%85
跡部勝資 Atobe Katsusuke(生年不詳-1582年)跡部氏は信濃国守護小笠原氏庶流で信濃国跡部郷に発し、室町時代には跡部景家のころ甲斐国守護代として権勢を持つ。景家は武田氏の討伐を受けて没落し、武田晴信(信玄)・勝頼期には武田家臣団のなかに一族の跡部勝忠・跡部昌忠などの名が見られ、譜代家老などをつとめるが、『跡部氏系譜』では信秋・勝資父子の出自が守護代跡部氏に遡ることは記されているものの、その正確な系譜は不明。信玄・勝頼期に甲斐武田氏は大名領国を拡大した結果、当主周辺には常駐家臣が少なくなり譜代家老の子弟が側近として当主に近侍しており、勝資は山県昌景・土屋昌続・原昌胤らとともに信玄側近として数多くの朱印状奉者として見られる。また、『甲陽軍鑑』によれば勝資は300騎持の侍大将といわれ、武田家中では山県昌景・春日虎綱(高坂昌信)と並び最大級の動員力である。天文18年(1549年)には武田氏の信濃国侵攻において望月氏、大井氏、伴野氏ら佐久郡の国衆を服属させているが、同年5月には大井信常を大井氏の名代に命じる使者として駒井高白斎とともに「跡又」が派遣されており、以来永禄9年(1566年)まで仮名「又八郎」で奉者として名が見られ、これが勝資に比定されると考えられている。同年閏8月からは「大炊助」の官途名に変わり領国各地の国衆との取次を務めているほか、永禄10年(1567年)の武田家中における義信事件に際した下之郷起請文においても奉行を務めている。勝頼期には対外交渉において越後国上杉氏との甲越同盟や常陸国佐竹氏との甲佐同盟などにおいて取次を務めており、勝資は一門の武田信豊との組み合わせで取次を務めている事例が多い。『信長公記』に拠れば、天正10年(1582年)3月11日には織田・徳川連合軍による甲斐侵攻において勝頼とともに死去。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B7%A1%E9%83%A8%E5%8B%9D%E8%B3%87
逸見昌経 Hemi Masatsune(1522年-1581年)逸見氏は甲斐源氏の庶流で、代々甲斐源氏嫡流である武田氏の家臣であり、昌経も初めは若狭守護の武田信豊に仕えていた。主である信豊は、室町幕府の管領で丹波守護でもあった細川晴元の要請により、丹波国で松永長頼と戦うこととなったので昌経も武田軍の一翼を担い武田信豊に従って丹波各地で戦った。しかし、丹波守護代の内藤氏を継承した松永長頼の調略により武田家中の戦意は低下し、武田氏に離反する者も出始めたため信豊は丹波から若狭に帰国し隠居する。弘治2年(1556年)、隠居した武田信豊が現若狭守護である子の武田義統と対立し始めると、昌経は隠居した信豊に味方し現守護に敵対する。信豊方が義統に大敗戦し近江国に下った後も昌経は、隣国丹波の松永長頼の援軍を得て、武田義統に反抗を続ける。昌経は三好長慶政権勢力下の武将となり、朝倉・武田連合軍と争いを続けた。しかし、永禄4年(1561年)6月19日に越前国の朝倉義景の援軍を得た武田義統の軍勢と、松永逸見軍は戦ったが敗れ、居城である砕導山(さいちやま)城を去る。同年、武田信豊・義統親子は和睦する。永禄8年(1565年)、丹波守護代内藤氏(松永長頼)の大規模な援軍により再び高浜に入り武田方となっていた城を攻略、さらに別に高浜城を築き本城とする。翌永禄9年(1566年)6月、再び水軍を編成して小浜の武田義統を攻めたが敗北する。反対に高浜城は武田氏のものとなり義統が一時入城した。永禄10年(1567年)に武田義統が死去し、その子・元明が朝倉氏により一乗谷へと移送・軟禁されると、高浜に再び攻め込み大飯郡西部の平定に成功する。松永長頼(三好方)に代わって今度は織田信長の勢力が高浜に及ぶと、その家臣となり朝倉・武田軍との戦いに越前へ従軍。その後も織田氏の家臣団の一つである若狭衆の筆頭として織田氏に仕えた。武田元明が若狭に帰国した後も信長から高浜城5,000石の城主として認められ、のちに武田方の武将武藤友益が改易されると領していた石山3,000石を加増された。天正9年(1581年)2月28日の馬揃えに参加するが、およそ1月後の3月26日に死去した。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B8%E8%A6%8B%E6%98%8C%E7%B5%8C
長坂光堅 Nagasaka Mitsukata(1513年-1582年)甲斐国武田氏の家臣で譜代家老衆。小笠原氏の庶流にあたる。出家名は長閑斎(釣閑斎、ちょうかんさい)。別名に虎房(とらふさ)、頼広(頼弘)(よりひろ)があるとされるが、いずれも主君武田氏当主からの偏諱が用いられた名前であると思われる。嫡男に奥近習六人衆に数えられる昌国(源五郎)、次男に今福昌常(今福浄閑斎養子)がある。武田晴信の乳兄弟ともいわれる。永正10年(1513年)に生誕したとされる。6年前(永正4年(1507年))に主家・武田家では武田信直(のち信虎)が新たな当主となり、武田一族の内紛や今川氏や大井氏など近隣の勢力との和睦といったように、甲斐統一を着々と進めていた。そんな虎房(のち光堅)が史料に登場するのは、当主が信虎から子の晴信(後の信玄)に変わった後、天文年間の信濃侵攻の頃からである。この頃から本格的な活動が見られ、はじめは足軽大将として天文12年(1543年)5月諏訪郡代となった板垣信方を補佐する上原在城衆となり、同郡上原城(長野県茅野市)に入城する。天文17年(1548年)の上田原の戦いにおいて信方が戦死すると後任の諏訪郡司(郡代)となり上原城に派遣され、翌天文18年には諏訪郡支配の新拠点となる高島城(長野県諏訪市)へ入城する。(以上は「高白斎記」に拠る)。越後上杉氏との北信地域を巡る抗争が顕著になると、天文22年(1553年)には跡部信秋らと牧之島の国衆香坂氏のもとへ派遣されている。また、同年10月5日には光堅の子昌国(源五郎)と武田家臣真田幸綱(幸隆)息女との縁組が行われている(「高白斎記」)。翌天文23年9月6日には遠江国の国衆天野景泰への使者を務めている。弘治3年(1557年)の第三次川中島の戦いにおいては、日向虎頭(大和守)とともに越後国の上杉謙信の侵攻に備えた北信地域の探索を命じられているほか、同年11月6日には三枝虎吉・室住虎光らと奉行人としての活動も見られる(『戦国遺文武田氏編』 - 578号)。永禄2年(1559年)2月に主君・武田晴信が出家すると、これに倣って光堅も出家、「釣閑斎(長閑斎)」と称する。永禄5年(1562年)に信玄の4男勝頼が高遠城主となると(「甲陽軍鑑」)、長閑斎(光堅)はこれを武田家嫡男武田義信へ伝える使者を務めている。元亀元年には春日虎綱(高坂昌信)とともに栗田鶴寿への使者を務めている。早くから勝頼との関係は深かったようであり、元亀4年(1573年)の信玄没後は、武田信豊、跡部勝資(信秋の子)らとともに後を継いだ勝頼に引き続いて重用されたという。『甲陽軍鑑』では天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて、信玄以来の家臣である山県昌景、内藤昌豊、馬場信春ら宿老たちが敵の陣城・予想外の大兵力を理由に撤退を進言したものを、長閑斎(頼広)は攻撃するように進言して武田軍惨敗の原因を作ったという記述がある。この記述に関して、長篠合戦前日の日付を持つ「長閑斎」宛の勝頼書状が存在し、「長閑斎」は武田領国のいずれかの城を守備していたという。この書状から長坂は長篠には参陣していないことが指摘され1960年には高柳光寿が『長篠之戦』において『甲陽軍鑑』の誤りを示す実例として指摘された。この問題に関して、2009年には平山優が勝頼書状の宛名「長閑斎」が長坂釣閑斎光堅(頼広)ではなく今福長閑斎友清に比定される可能性が提唱されている。因みに長坂光堅は文書上では「釣閑斎」と表記されている。この戦いでは三男の英信が参戦して戦死している。『軍鑑』では天正6年(1578年)に越後国の上杉謙信死後、勝頼が御館の乱において上杉景勝と甲越同盟を結んで資金援助を受けたが、長閑斎はその金を一部横領していたという記述がある。高坂昌信は勝頼に長閑斎を追放するように提言したが、光堅の甘言にまどわされていた勝頼は受け入れなかったという話だが、文書上からは上杉氏との取次は北信・東信の責任者であった小諸城将・武田信豊が務めており、『軍鑑』の記述には確実性が無いことが指摘されている。『軍鑑』では天正10年(1582年)に甲州征伐が始まると、長閑斎は勝頼の軍から密かに離れて甲斐国に逃亡したが、織田軍の厳しい追討を受けて捕らえられ首を切られて殺されたとしているが、文書上からの検討においては勝頼に従い殉死したものであると考えられている。享年70。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%9D%82%E5%85%89%E5%A0%85