首頁 Tags 武田信実

Tag: 武田信実

三百一十二位人物:小出吉政、山口宗永、石川貞清、毛利高政、長崎元家、藤堂高刑、青木一矩、早川長政、土岐政賴、土岐賴次、土岐賴元、齋藤利茂、齋藤利良、不破光治、明智光繼、明智光安、稻葉典通、稻葉重通、稻葉道通、稻葉正成、佐藤堅忠、橫山長隆、橫山長知、野野村幸成、一柳直盛、伊藤盛正、堀田正吉、遠山景前、遠山友勝、遠山友政、加藤光泰、關盛雄、鹿伏兔定秀、國府盛種、細野藤光、分部光高、木造具康、田原重綱、森本具俊、九鬼守隆、堀內氏善、一條信龍、三枝昌貞、小幡昌盛、駒井政武、長坂光堅、禰津元直、海野棟綱、海野幸義、真田昌輝、真田信尹、常田隆永、鎌原幸定、鈴木忠重、蘆田信守、大井貞隆、大井貞清、笠原清繁、小笠原信定、溝口長友、溝口長勝、溝口貞泰、諏訪賴滿、諏訪賴重、諏訪滿鄰、知久賴元、藤澤賴親、保科正直、保科正光、江馬信盛、麻生野慶盛、長尾房景、上條定憲、齋藤定信、本庄房長、竹俁慶綱、吉江宗信、桃井義孝、山本寺定長、山吉政久、山吉豐守、山吉景長、大石綱元、狩野秀治、神保長住、長澤光國、長尾景直、土肥政繁、飯川光誠、遊佐秀賴、三宅總廣、富田長繁、溝江長逸、逸見昌經、武藤友益、野村直隆、石田正繼、石田正澄、小堀政一、垣見一直、蒲生茂綱、蒲生元珍、進藤賢盛、駒井重勝、高田吉次、一色在通、京極高廣、細川忠利、細川興秋、細川興元、三淵光行、蘆田國住、足立基助、願証寺証意、下間真賴、杉浦玄任、細川昭元、荒木村次、荒木元清、木下重堅、池田信正、茨木長隆、木澤長政、香西元定、香西佳清、中川秀成、岡國高、結城忠正、菅達長、安見信國、安見勝之、平盛長、遊佐長教、筒井順弘、中坊秀祐、岸田忠氏、寶藏院胤榮、津田算長、鈴木重次、太田宗正、野長瀨盛秀、小山隆重、湯川直春、山名豐賴、山名誠通、垣屋恒總、太田垣宗壽、太田垣朝延、太田垣輝延、八木豐信、山田重直、行松正盛、尼子清久、尼子久幸、赤穴久清、赤穴光清、牛尾幸清、龜井秀綱、別所重棟、別所吉治、宇野政賴、赤松村秀、井上之房、栗山利安、黑田一成、後藤勝國、後藤元政、原田忠長、原田貞佐、三浦貞久、三浦貞盛、金田弘久、中村則治、牧良長、宇喜多興家、伊賀久隆、遠藤俊通、庄高資、三村元祐、植木秀長、植木秀資、石川久智、石川久式、中島輝行、三村元範、上野隆德、楢崎元兼、新見國經、新見貞經、小早川正平、小早川興景、杉原理興、田坂義詮、乃美景興、椋梨盛平、三吉隆亮、三吉廣高、多賀山通續、山內直通、山內隆通、和智誠春、毛利元氏、粟屋元親、天野興定、井上元兼、赤川元保、三浦元忠、武田光和、武田信實、武田信重、阿曾沼廣秀、天野隆綱、香川光景、己斐直之、渡邊通、森脇祐有、手島興信、二宮經方、平賀隆宗、平賀廣相、陶興房、吉見廣長、益田尹兼、大西賴包、大西覺養、新開實綱、高原次勝、安富盛方、伊澤綱俊、石川通清、大野直之、戒能通森、村上元吉、村上景親、來島通總、宇都宮清綱、井上重房、祖母井之照、西園寺宣久、渡邊教忠、長宗我部親和、長宗我部親忠、長宗我部親吉、江村親俊、香宗我部親秀、香宗我部秀通、細川定輔、橫山友隆、吉松光久、安芸元泰、敷地藤安、野仲鎮兼、本庄右述、加來統直、田原親盛、佐伯惟定、入田親誠、秋月種信、麻生隆守、麻生鎮里、麻生元重、井田親氏、惠利暢堯、蒲池鑑久、大木俊光、西牟田鎮豐、原野惠俊、江上家種、神代長良、高木鑑房、馬場賴周、龍造寺家純、龍造寺周家、鍋島清久、松浦興信、籠手田安經、佐川信利、日高喜、有馬直純、平井經治、大村純伊、朝長前安、鹿子木親員、北里政義、伊東義賢、伊東祐安、稻津重政、三田井親武、長倉祐有、北原兼孝、安樂兼寬、肝付兼演、肝付兼盛、肝付兼篤、祁答院良重、島津勝久、入來院重朝、入來院重時、樺山善久、樺山忠助、島津忠將、島津以久、島津尚久、島津忠長、鎌田政年、園田實明、佐多忠增、島津忠廣、北鄉忠相、島津忠親、島津忠辰、平田宗茂、茶茶、定惠院、菊姬、義姬、仙桃院、淺井初、三條の方、黃梅院、藏春院、禰禰、瀨名姬、嶺松院、松平千、淺井江、妙玖、お船、武田松、德姬、督姬、お市、歸蝶、ガラシャ、妻木熙子、諏訪姬、まつ、壽桂尼、津田宗及、千宗易、快川紹喜、澤彥宗恩、俊崇坊、二本松義繼、土田御前、ねね、千坂景親、名古屋山三郎、多目元忠、柳生利嚴、井伊直虎、愛洲久忠、伊東景久、杉谷善住坊、大久保忠教、太田牛一、齋藤福、赤井輝子、大村由己、平原綾香、世良田元信、大祝鶴、望月千代女、櫛橋光、孔雀、塚原卜伝、卡天士郎、石川五右衛門、彌助、里見伏、犬塚信乃、犬川庄助、犬山道節、犬飼現八、犬田小文吾、犬江親兵衛、犬坂毛野、犬村大角、卜部季武、碓井貞光、坂田金時、渡邊綱、源賴光、源義經
五百位人物:河東田清重、一栗放牛、一迫隆真、稗貫晴家、氏家吉継、四釜隆秀、新井田隆景、宮崎隆親、鱒沢広勝、水谷胤重、大塚政成、郡司敏良、大塚隆成、国分盛氏、駒木根利政、白河晴綱、白河義顕、針生盛信、松本氏輔、佐瀬種常、留守景宗、遠藤盛胤、西野道俊、二本松家泰、二本松義綱、片平親綱、高玉常頼、戸蒔義広、本堂茂親、南部政直、豊島重村、浅利頼平、戸沢盛重、戸沢政重、鮭延貞綱、大和田光盛、本堂忠親、大宝寺晴時、来次時秀、東禅寺義長、東禅寺勝正、織田信安、来次氏秀、仁賀保挙誠、北楯利長、懸田俊宗、小梁川宗朝、小梁川宗秀、船尾昭直、桑折貞長、大道寺盛昌、牧野久仲、佐竹義廉、佐竹義斯、江戸通泰、江戸通政、本多利久、神生通朝、本多利朝、兼松正吉
武田信実 Takeda Nobuzane(1524年-1555年) 天文9年(1540年)6月に安芸武田氏当主武田光和が急死すると、安芸分郡守護である若狭武田氏から迎えられ、その養子として安芸武田氏の当主となる。羽賀寺(福井県小浜市)に残る『羽賀寺年中行事』によると、光和の死後に出雲の使者が若狭に来て信実の安芸武田氏の継承を要請した旨が記されており、安芸武田氏には少なからず尼子氏の影響があったと考えられている。 光和の跡を継いで第9代安芸武田氏当主となったものの、重臣間では周防の大名大内氏との講和についての意見対立が起きており、ついには品川一党が香川氏の居城八木城を攻撃する内紛が生じた。しかし、安芸平賀氏・熊谷氏らが香川氏に援軍を出すとの報に接した品川一党は退却。大混乱をきたした武田氏家臣は佐東銀山城を捨てて逃亡。事態の急変に対して何の手を打つことができなかった信実も、佐東銀山城を捨て、出雲に逃亡した。 同年9月、尼子詮久が毛利元就討伐のため安芸に出陣。晴久に安芸武田氏復興の援助を求めた信実は、兵2,000を率いる牛尾幸清と共に、佐東銀山城に帰城する。しかし、尼子詮久の郡山城攻略は遅々として進まず、11月には、信実も毛利軍の国司元相勢と戦うが敗北している。翌年(1541年)、陶隆房率いる大内氏の援軍と毛利方の反撃により、詮久は無残な退却を強いられることとなる(吉田郡山城の戦い)。 尼子氏の敗北により、再び佐東銀山城が孤立すると、信実はまたもや城を捨てて牛尾幸清と共に出雲へ逃亡し、安芸国に戻ることはなく、城兵の多くも逃亡した。信実は弘治元年10月6日(1555年10月21日)に出雲で逝去した。 その一方、佐東銀山城には安芸武田氏の一族の武田信重が300余の兵と共に籠城していたが、元就の攻撃によりついに落城(佐東銀山城の戦い)。これにより、安芸武田氏は終焉を迎えることとなる。 なお、光和の庶子であったために生き残った武田小三郎(後の武田宗慶)は毛利氏に従っている。佐東銀山城に戻ることはなかったが、毛利氏の周防移封に伴って、周防武田氏と名乗るようになった。また、後代には、安芸武田氏の血を受け継ぐ(武田信重の子、もしくは武田元繁の女婿伴繁清の息子とも)安国寺恵瓊が毛利氏の外交僧として活躍している。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%AE%9F
武田光和 Takeda Mitsukazu(1503年?-1540年) 武田元繁の嫡男。正室は熊谷元直の娘。官位は刑部少輔、安芸守。子に武田小太郎、武田小次郎、武田小三郎(宗慶)がいる。仮名は太郎。別名は光貞(みつさだ)。 安芸国の武将・武田元繁の嫡男として誕生。なお、若狭武田氏から武田信実を次の当主に迎えていることから、「光」の字は信実の実父・武田元光から偏諱を受けたものと推測される。 永正14年10月28日(1517年11月11日)の有田中井手の戦いで父が戦死したため、跡を継ぎ安芸武田氏当主となった。武勇に優れた人物であり、父同様に親尼子の立場を貫き、大内氏や毛利氏と争った。 大永4年(1524年)、大内義興・義隆父子は3万余の大軍を率いて、光和の居城佐東銀山城に押し寄せて包囲した。この事を知った尼子経久は銀山城を救援するため、ただちに安芸に急行。安芸の尼子配下の国人衆にも出動を命令した。尼子軍の救援により銀山城は落ちず、大内軍は退却した(佐東銀山城の戦い)。なお、『陰徳太平記』では、光和は大変な怪力の持ち主であるとされ、この戦いでも光和自身が兵士たちと共に最前線で戦ったとの伝説が書き残されている。 光和は厳島神主家の後継者争いにも介入し、大内氏と対立した友田上野介方を支援するなど積極的に行動したが、安芸武田氏の衰退を食い止めることはできなかった。また、所領などを巡り、家臣であった熊谷信直の離反を促したことは、致命的ともいえる痛手であった。これは、正室である信直の妹と折り合いが悪く、この正室と離婚したことも離反の原因とされている。天文2年(1533年)8月、光和は熊谷信直の居城・三入高松城を攻めたが、守りは堅く撤退した。 再度、信直の討伐を進めていた天文9年6月9日(1540年7月12日)に、37歳で嫡子を残すことなく急死。実子はいたが、いずれも妾腹で、また小三郎を除き夭折していた。そこで同族の若狭武田氏から武田信実が迎えられたが、安芸武田氏の衰運は決定的となった。 安芸武田氏の菩提寺は不動院(安芸安国寺)であり、同寺には武田刑部少輔の墓がある。また、庶子の武田小三郎は、毛利氏に仕えて周防武田氏を名乗ったが、周防源氏武田家屋敷跡(現在の山口県岩国市玖珂)には光和の墓も建てられている。これは、佐東銀山城付近にあった墓と遺骨を遷したものと伝えられる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E5%85%89%E5%92%8C
熊谷信直 Kumagai Nobunao(1507年-1593年) 平安時代末期に平氏との戦いで活躍した熊谷直実の直系の子孫である。安芸国の国人領主であり、安芸の守護を務めていた安芸武田氏家臣となっていた。 父の元直は武田元繁に従い、永正14年(1517年)に毛利元就率いる吉川・毛利連合軍と戦い、有田中井手の戦いで討死している。この一件もあり、この頃は毛利氏と敵対関係であった。大永4年(1524年)に周防・長門の大名・大内義興が安芸に侵攻し、安芸武田氏の居城・佐東銀山城を包囲した。大内軍の一部が三入庄まで進出したため、八木城主香川吉景らの支援を得て、大内軍を打ち破った。同年7月には、父の仇であった毛利元就の指揮下に入り、香川光景・三須房清らと大内包囲軍に奇襲をかけ、散々に打ち破った。仇であった元就の戦いぶりを間近に見た信直は、元就に対する認識を変え、毛利氏との和解へと繋がった。 大永7年(1527年)に同じ安芸武田家臣の船山城主・山中成祐が信直を暗殺しようとして失敗。3年後にこの仇を討ち、弟の直続、家臣の岸添直清、末田直道らと謀って山中成祐兄弟を討ち取った。 天文2年(1533年)に所領の問題と武田光和夫人であった妹への待遇への不満、大内氏・毛利氏・熊谷氏の密約が漏れたこと、信直が武田氏の所領を横領したことなどで武田氏と対立。ついには自身の居城である三入高松城が攻撃を受けた。兵力は1000余で、それを二手に分け、三入高松城を攻撃するのは総大将武田光和以下、品川信定他200、もう一軍の総大将は武田一門の伴繁清、それに従うのは香川光景、己斐直之、熊谷一族の山田重任、温科家行、飯田義武、板垣繁任などのそうそうたる顔ぶれであった。それに対して熊谷勢は信直を総大将とし、弟の直続、末田直忠・直久兄弟、岸添清直、水落直政らがこれに従った。 三入庄に侵攻した伴繁清率いる武田軍は三入横川表に進出し、防備を固めていた熊谷信直配下300と激突した。この横川表の戦いにおいて少数の熊谷勢は奮戦して、総大将の伴繁清を負傷させた。また三入高松城へ侵攻した本隊も多くの死傷者を出し、撤退を余儀なくされた。これを横川表の戦いと言う。 この合戦を期に毛利氏との連携を強め、その指示へ従うようになった。 天文9年(1540年)、出雲の戦国大名・尼子詮久(後の尼子晴久)が安芸に侵攻。毛利元就の居城・吉田郡山城へと攻め寄せた。また牛尾幸清が兵2000を率いて佐東銀山城に入り、周辺をうかがった。籠城しながらも、毛利元就は神出鬼没の戦いぶりで尼子軍を翻弄し、大内氏の援軍として陶隆房が兵10000を率いて来ると、翌10年(1541年)に尼子詮久は撤退した。信直は三入高松城を守っていたが、佐東銀山城内の牛尾幸清が撤退するに及び、八木城主香川光景と追撃をかけるが、間に合わなかった(吉田郡山城の戦い)。 同年5月には元就の命に従い、宍戸隆家、香川光景らと旧主・安芸武田氏を攻撃。佐東銀山城を包囲してついに落城させ、安芸武田氏当主・武田信実は出雲に逃亡した。これにより、鎌倉時代より続いた安芸武田氏は終焉を迎えた。 天文11年(1542年)、大内義隆は勢力の衰えた尼子氏を討つべく山口を出陣。途中、三入庄の観音寺に宿泊して、出雲へ侵攻した。赤穴城の戦いで熊谷勢は苦境に立たされ、信直の弟直続が討死した。その後、月山富田城を包囲攻撃するも、吉川興経らの寝返りもあり、結局月山富田城攻略に失敗。熊谷勢も無残な退却戦となり、香川光景らと共に退却していたが、出雲鳶ノ巣川で一揆衆の襲撃を受け、乱戦の後に死地を脱した(月山富田城の戦い)。 天文16年(1547年)には娘の芳桂(新庄局)を毛利元就の次男・吉川元春に嫁がせ、毛利氏との関係を強化し、一門衆として扱われるようになった。 天文17年(1548年)8月、信直は元就と共に山口の大内義隆を訪問。翌年の3月まで山口に滞在した。そして天文19年(1550年)9月、元就の命を受け、月山富田城の戦いで煮え湯を飲まされた幽閉中の吉川興経を天野隆重と急襲して殺害した。興経の首は信直家臣の末田直共が取った。 天文20年(1551年)、大寧寺の変で大内義隆が家臣であった陶隆房の謀反により横死した。毛利氏は徐々に独立を志向し、陶氏率いる大内氏に従属を続けながらも、安芸国内の統一を目指した。翌21年(1552年)は5月に備後で尼子氏と対陣。7月には祝貞近を攻撃。9月には義隆の残党が立て籠もる安芸槌山城を攻略、平賀隆保らを討ち取った。また翌22年(1553年)には、鶴首城主・三村家親を支援した吉川元春に従い、備中猿掛城主・庄為資を攻撃して降伏させた。 天文23年(1554年)、折敷畑の戦いでも吉川軍主力として奮戦。陶軍を掃討し、宮川房長を自刃に追い込んだ。同年6月、陶軍の残党を打ち破り、廿日市周辺を征圧した。同年9月に、毛利軍は信直の婿であった野間隆実が籠もる矢野城を攻撃した。野間隆実の妻は信直の長女であったため、隆実は信直を通じて降伏したが、三入庄に移送されて暗殺された。基本的に降伏した者を赦す元就であったが、陶氏との決戦を目の前にしてやむを得ず緊急措置に至った。 天文24年(弘治元年、1555年)、陶晴賢(隆房より改名)率いる大内軍20000が厳島に上陸。毛利軍の拠点で、己斐直之が籠もる島内の宮尾城を包囲攻撃した。信直は4人の息子高直、直清、広真、三須隆経らと兵を率いて、落城寸前となった宮尾城への援軍として入城した。旧暦10月1日に毛利元就率いる本隊が奇襲をかけた際に、城から撃って出て陶軍を撃破、晴賢を討ち取った(厳島の戦い)。 同年の防長経略にも参戦、岩国へ進出して杉隆泰の鞍掛山城を攻略した。翌弘治2年(1556年)から3年(1557年)にかけて山口を制圧。逃亡した大内義長を追って長門勝山城を包囲し、内藤隆世は自刃。降伏した義長も最終的には自刃して果てた。 永禄元年(1558年)には石見出羽に進出して小笠原長雄を破り、福屋隆兼も打ち破った。12月には中村康之と石見最大の国人であった益田藤兼を降伏させた。これらの功もあり、13代将軍足利義輝は永禄3年(1560年)、信直を伊豆守に叙任した。翌年には毛利氏に降伏していた本城常光を暗殺。この時、信直も軽症を負った。 永禄5年(1562年)10月、元就率いる出雲遠征軍の一員として、出雲白鹿城を攻撃。城主・松田誠保は必死の防戦に努めたが、白鹿城は落城し、毛利軍は攻略に成功した。同年冬には出雲洗骸に陣を築いて月山富田城攻略の拠点とし、熊谷父子もそこに滞在して次の戦いに備えた。何度かの攻城戦の結果、元就は攻城の無理を悟り、長期攻囲作戦に切り替えた。そのため月山富田城内の兵糧は底をつき、徐々に逃亡兵が出るようになった。 永禄9年(1566年)11月、尼子義久・倫久・秀久兄弟は降伏し、大名としての尼子氏は滅亡した。 永禄11年(1568年)、吉川元春に従い熊谷親子は北九州に進出。博多を望む要衝・筑前立花山城を包囲攻撃し、援軍に現れた大友軍と激突した。立花山城は落城し、毛利氏の手中に収まったが、大内輝弘らが周防に乱入したため、立花山城を放棄して輝弘を討った(大内輝弘の乱)。 信直は元春と共に、中国地方各地を常に吉川軍の主力として転戦。最終的には国衆最高の16000石を得た。しかし天正7年(1579年)に嫡男の高直が病死、嫡孫の元直を補佐し、文禄2年(1593年)に病死した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E4%BF%A1%E7%9B%B4
香川光景 Kagawa Mitsukage(生年不詳-1605年) 香川元景の嫡男として生まれる。当時の主家・安芸武田氏は、当主の夭折や討死などにより、勢力が衰え、存亡の危機を迎えていた。その中で同じ安芸武田家臣であった熊谷信直が離反し、毛利側に転じた。1531年(享禄4年)、安芸武田氏当主・武田光和は香川光景や己斐氏等に命じて、熊谷信直を討つべく三入高松城攻略に向かった。しかし、熊谷信直・熊谷直続兄弟は寡兵ながらも安芸武田方を打ち破った(横川表の戦い)。 武田光和が病死すると、安芸武田家中では、その後継を巡っての争いが起きた。香川光景は若狭武田氏から養子を迎えて、大内氏・毛利と和平して、戦力を立て直すべきだと主張した。しかし品川左京亮らは、主戦論を主張して、家中には大きな亀裂が起きた。結局、新たな安芸武田氏当主には、若狭武田氏より武田信実が迎えられたが、重臣間の軋轢は一層強まり、不穏な空気が流れ始めた。 その最中、ついに品川左京亮らは決起し、香川光景の居城・八木城を攻撃した。光景は熊谷氏らの支援を得て、品川勢を撃退したが、安芸武田氏の崩壊は明らかで、当主の武田信実も佐東銀山城から逃亡し、家臣らも相次いで逃亡した。品川一族はこの際に逃亡し、一部は石見国の益田氏に仕えて、子孫に山中幸盛との一騎打ちで有名な品川将員を出した。 1540年(天文9年)に、出雲国の戦国大名・尼子詮久(後の尼子晴久)が毛利元就の居城・吉田郡山城へ侵攻すると、信実は尼子氏の支援を得て、牛尾幸清らとともに佐東銀山城に復帰した。しかし、吉田郡山城の戦いで尼子氏が撤退を余儀なくされると、信実と牛尾幸清は出雲国へ逃亡した。佐東銀山城にはまだ安芸武田氏の兵士が籠っていたが、毛利元就が佐東川対岸より火の点いた草鞋を流して陽動作戦を行い、後方より奇襲して攻略した。また残存の諸勢力は光景が投降を呼びかけ、抵抗する者は皆無となり、安芸武田氏は滅んだ。 香川光景は熊谷氏らとともに毛利氏に従っていたが、1551年(天文20年)の大寧寺の変により、大内義隆が殺害されると安芸国内も不穏な状況となった。1555年(弘治元年)に毛利元就は大内義長傀儡政権を牛耳る陶晴賢との決別を宣言し、厳島の戦いの前哨戦が始まる。まず、大内方の佐東銀山城を攻略し、光景は広島湾に浮かぶ仁保島(現在の黄金山)にある仁保島城に入り、守将となった。陶方は三浦房清を大将として仁保島城の攻略を図ったが、光景は陶勢を撃退した(仁保島合戦)。厳島の戦い本戦では、水軍を率いて参戦し、陶勢壊滅の一翼を担った。 毛利氏は大内領の周防国・長門国を併呑し、その後に北の尼子氏との対決が始まると、1564年(永禄7年)には三村家親とともに伯耆国の不動ガ嶽城を攻撃して、救援の尼子軍を撃退した後に攻略した。翌年には八橋城攻略戦にも参加して、同城を攻略した。また同年には尼子氏が降伏し、光景の山陰での活動は終わった。 1569年(永禄12年)、尼子勝久・山中幸盛率いる尼子再興軍は、出雲国・伯耆国の旧尼子勢力を結集して、出雲国へ侵入し、月山富田城を包囲した。それに注目した美作三浦氏の残党は尼子再興軍と、備前国の戦国大名・宇喜多直家と手を結び、連合軍を成して美作国に侵入した。毛利氏は援軍として香川光景を派遣。光景は子の香川広景、香川春継、一族の香川勝雄らを従えて城将・安達信泰の守る高田城に入城、連合軍は光景らの守る高田城への攻撃を開始した。 高田城内には尼子の降将が多数おり、内応者が続出して光景らは苦境に立たされた。香川勝雄はその混乱に乗じて攻撃を加えてきた尼子・三浦連合軍と、その支援に来た宇喜多春家率いる宇喜多勢と戦って討死した。香川光景や香川勝雄らの奮戦によって、高田城は落城を免れた。その後、光景は高田城を放棄して退却し、三浦貞広が高田城に入った。 その後、光景は家督を嫡男の広景に譲って隠居した。1605年(慶長10年)没。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%B7%9D%E5%85%89%E6%99%AF

Send this to a friend