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真里谷信隆 Mariyatsu Nobutaka(生年不詳-1551年/1552年) 真里谷恕鑑(信清)の子(庶長子)として誕生し、安房里見氏の内紛(稲村の変)が起きると、父の恕鑑は里見義豊を支持したが、真里谷家の一族の一部は対立者の里見義堯を支持したという。一説には信隆が義堯を自身の居城である峰上城(または造海城)に匿ったとされる。里見氏の内紛は義堯の勝利に終わり、父の恕鑑も1534年に死去し、嫡子であったとみられる大夫(全鑑)も同時期に死去した。恕鑑の死後、真里谷武田家は相模国の北条氏綱への従属姿勢を強めていくことになるが、この時期の当主は信隆であったと伝わっており、現在も通説となっている。 まもなく後継者の座を弟の信応と争うようになり、1537年頃から抗争を繰り広げるようになった(上総錯乱)。信隆は居城である峰上城を中心に造海城、天神台城などを版図におき、小弓公方足利義明に支持された信応に対抗するため、里見氏や後北条氏に援軍を求めるなど頑強に抵抗したが、結局は敗れ、峰上城を明け渡し足利義明に降伏した。このとき、峰上城を開城した後、造海城(百首城)に籠城したが、義明方に寝返った里見義堯に攻められ、和歌を百首詠むことを条件に開城をしたという逸話があるが、上総錯乱において実際には百首城に里見氏の援軍が詰めている。信隆は後北条氏を頼って武蔵国金沢(現在の神奈川県横浜市金沢区)に逃れ隠居した。 真里谷武田家では信応が当主となり、佐貫城の真里谷全方(信秋)・真里谷義信父子が実権を握ったが、1538年、第一次国府台合戦で義明が戦死し、小弓公方を頼っていた信応の勢力が弱まると、氏綱方に加わっていた信隆はその支援を背景にして上総に戻り、椎津城を本拠とし復権を果たした。しかし、里見氏と結んだ信応の勢力も衰えることはなく、1541年ごろから、再び真里谷一族での内紛が再発した(笹子城、中尾城の内紛)。『笹子落草子』『中尾落草子』という軍記物によれば、信隆は家臣の後藤氏や鶴見氏の讒言を受けて対立する笹子城の武田信茂を殺害したが、まもなくその祟りのために病没した、ということになっている。 この内紛を見て後北条氏、里見氏それぞれが軍を送り真里谷武田家の勢力圏への介入を強めた。特に里見氏の家臣である正木時茂の進出は目覚しく、1544年には信隆派の重鎮であった小田喜城城主の真里谷朝信が時茂のために討たれている。内紛の末に勢力を弱めた真里谷家は、1551年から1552年頃には信隆、信応が相次いで没したのを境に、歴史の表舞台から姿を消すことになった。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E9%87%8C%E8%B0%B7%E4%BF%A1%E9%9A%86
里見義堯 Satomi Yoshitaka(1507年-1574年) 里見實堯的長子、母為佐久間盛氏之女、正室為長野業正之妹;幼名權七郎,「堯」字是來自於古中國三皇五帝的堯,法號東陽院殿岱叟正五居士。 天文二年(1533年)7月27日、里見氏家中發生了內亂(天文之內訌/稻村之變)。因父親實堯遲遲不將家中實權歸還堂兄義豐,而且謠傳實堯私通後北條氏;義豐為了奪回繼承權,在稻村城殺害了實堯。義堯在北條氏綱的支援下,和重臣正木時茂在上總國金谷城舉兵,並在犬掛之戰殺死義豐,奪取家督之位。長久以來,昏庸的主君義豐殺害無辜的實堯,為了復仇的義堯起兵討伐義豐,口耳相傳下一直被堅信不移。近年,也有看法認為實堯、義堯父子勾結仇敵北條氏綱,有政變的意圖;義豐為了穩固統治權,才先下手為強。有關這時期的記錄,有人認為下克上的義堯一繼承家督就立刻背叛後北條氏,並為了掩蓋事實,捏造自己上位的正當性,而竄改歷史。 向北條氏綱借兵成功政變的義堯,這時,真里谷信清過世,真里谷氏家中為了爭奪家督之位而引發內亂。因義堯支持真里谷信應、氏綱支持真里谷信隆,兩家立場不同而成為敵對關係。但是,義堯考慮到要獨力對付在關東勢如破竹的北條氏有所困難,於是和小弓公方足利義明結盟。天文六年(1537年),真里谷信隆不敵義堯,兵敗投降。天文七年(1538年)、發生第一次國府台之戰。此戰義堯並未積極參與,在得知義明戰死後,就脫離戰場回到了安房。此役因為足利義明的戰死,小弓公方實質上已形同滅亡。 義明死後,義堯積極向下總、上總國發展,並以上總國的久留里城為根據地,構築了里見氏最強盛的時期。對此,在天文二十一年(1552年)、北條氏康策動里見氏旗下的領主、發生大規模的反叛。天文二十四年(1554年),北條氏康和今川義元、武田信玄組成甲相駿三國同盟。到了弘治元年(1555年),整個上總國西部幾乎為後北條氏所佔領。為了改變這個局勢,義堯開始鎮壓傾向北條方的國人眾勢力,奪回失去的領土;並和越後國的上杉謙信聯手,與太田氏、佐竹氏、宇都宮氏等大名站在同一陣線,徹底展現和氏康對抗的態勢。 弘治二年(1556年),率領里見水軍和北條水軍戰鬥,大勝而回(三浦三崎之戰)。只是,據說北條水軍因為暴風雨的緣故而造成重大損失,這才是勝利的主因,因此不能算是完全的勝利。 永祿三年(1560年),北條氏康入侵里見氏領地,義堯閉守久留里城。在得到上杉氏的援軍後,里見軍開始反攻,幾乎取回了整個上總國西部。永祿五年(1562年)、剃髮出家,將家督之位讓與兒子里見義弘後隱居,但仍然繼續握有家中實權。 永祿七年(1564年),呼應北條方太田康資的倒戈,義堯和義弘一同攻進敵對大名千葉氏的重臣高城胤吉勢力範圍、下總國的國府台城,並在此迎擊北條軍,掀起了第二次國府台之戰。起初,斬殺了北條軍將領遠山綱景、富永直勝,里見軍沉醉在一時的勝利而開始疏忽大意。拂曉,北條氏康發動奇襲,和北條綱成聯手夾擊下,里見軍遭受大敗,家中重臣正木信茂也在此役戰死。戰後,義堯、義弘父子失去了上總國大半而退回安房國,里見氏的勢力也一時衰退。不過,之後以義弘為中心,里見氏在安房國休養生息,慢慢奪回上總南部的領土。永祿九年(1566年)年前,收復久留里城、佐貫城等失地。對此,佔有上總國北部的後北條氏,在佐貫城北方的三船山(現三舟山)上的三船台修築城砦來對抗。 永祿十年(1567年)8月,里見義弘率兵駐紮在三船台附近,準備包圍北條軍。得知消息的北條氏康,派遣嫡子北條氏政和太田氏資等人前往援助;並派出三男北條氏照和原胤貞率領分隊攻擊義堯居城久留里城。對此,義堯堅固防守城池;而義弘和正木憲時從佐貫城出兵,在三船台大破氏政主力,太田氏資擔任北條殿軍的任務不幸戰死(三船山之戰)。此外,指揮北條水軍確保浦賀水道的北條綱成,嘗試從三浦口入侵安房國,但和里見水軍在菊名浦海戰後造成損傷。於是察覺有被從水陸夾擊危險的北條軍,全軍撤離上總國。 因為三船山的勝利,里見氏在上總國的支配上佔有優勢,並開始向下總國發展,之後也貫徹和後北條氏對立的決心。義堯在天正二年(1574年),病逝於久留里城,年六十八歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%BE%A9%E5%A0%AF
里見義賴 Satomi Yoshiyori(1543年-1587年?) 里見義弘的庶長子或弟弟、母不詳、正室為北條氏政之女.鶴姬(龍壽院)、繼室為北條氏康之女.菊姬、側室為正木時茂之女.龍雲院;初名義繼、別名太郎。 義弘生前約定自己死後給予義賴安房國,給予嫡子梅王丸(里見義重)上總國;據說義賴對這個分割繼承感到不滿,義弘和義賴的關係逐漸變得險惡。 天正五年(1577年),義弘與北條氏和睦,義賴以正室迎娶北條氏政的女兒.鶴姬。可是,因為鶴姬2年後早逝,遂續娶氏政的妹妹菊姬為妻。 天正六年(1578年),義弘死後,與里見義重圍繞家督和領土對立。得到北條氏政的支援,作為妹婿的義賴在天正八年(1580年)之前壓制上總,並讓里見義重出家,成功繼承里見氏全部的領地。 翌年,殺害反抗的家臣正木憲時,強化自己的體制。 此後義賴夫人的死使跟北條氏政的相爭復燃,義賴一方面擊退氏政,接著與豐臣秀吉取得聯合,展現卓越的外交手腕。多虧義賴的舉措,小田原懲罰中遲到的里見氏才能繼續存在。 天正十五年(1587年),義賴在安房岡本城病死。 出處 http://www.labtud.com/article-105994-1.html
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