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五百位人物:河東田清重、一栗放牛、一迫隆真、稗貫晴家、氏家吉継、四釜隆秀、新井田隆景、宮崎隆親、鱒沢広勝、水谷胤重、大塚政成、郡司敏良、大塚隆成、国分盛氏、駒木根利政、白河晴綱、白河義顕、針生盛信、松本氏輔、佐瀬種常、留守景宗、遠藤盛胤、西野道俊、二本松家泰、二本松義綱、片平親綱、高玉常頼、戸蒔義広、本堂茂親、南部政直、豊島重村、浅利頼平、戸沢盛重、戸沢政重、鮭延貞綱、大和田光盛、本堂忠親、大宝寺晴時、来次時秀、東禅寺義長、東禅寺勝正、織田信安、来次氏秀、仁賀保挙誠、北楯利長、懸田俊宗、小梁川宗朝、小梁川宗秀、船尾昭直、桑折貞長、大道寺盛昌、牧野久仲、佐竹義廉、佐竹義斯、江戸通泰、江戸通政、本多利久、神生通朝、本多利朝、兼松正吉
植木秀長 Ueki Hidenaga(1494年?-卒年不詳) 備中植木氏は武蔵七党児玉党から派生して室町時代には備中守護代なども務めた庄氏の支族である。従来、植木秀長は庄氏関連系図では庄為資の弟で植木一族の祖である植木藤資の息子とされていたが、為資の実働期間よりも秀長の活動期間のほうが早い点などから為資の甥と位置づける系図との矛盾が指摘され始め、 近年の研究では庄氏北家の庄資信(庄藤右衛門尉)が呰部庄植木を領して「植木殿」と呼ばれ、その子・秀長の代から植木姓を称したという説が有力視されている。 細川京兆家に仕え、備中守護代も務めた庄資信の息子として生まれる。長じて前述のように秀長の代より領した地名からとって「植木」の姓を名乗るようになった。 永正8年(1511年)8月、淀堤の戦いに父の代官として出陣し三好之長に味方して大内義興の軍勢と争い一番槍の功を挙げたのが初陣であり、この時18歳であったという。資信は在京賄領として和泉国にも拠点を持っており、ここを拠点にしてこの淀堤の戦いに参じたものと見られる。 天文2年(1533年)に尼子晴久が備中に侵攻してきた時は尼子に対抗し、庄為資と共に尼子に付いた上野頼氏の拠る備中松山城を攻め立て頼氏を討ち、秀長の弟・若林資行は大松山を攻略し上野右衛門を討った。これ以後、備中松山城は為資が、猿掛城は穂井田実近が領する事となった。 その後の為資は備中で尼子と戦っており、一時松山城を追われ備後国まで退避した後に奪い返したりと目まぐるしい攻防があったが、この間の秀長の動向は不明である。その後、抵抗しきれずに尼子へと味方したようで、天文16年(1547年)に尼子軍と三浦貞久が戦った際、備中呰部の植木氏の所領が戦場になっており、この時三浦軍は敗退したが、秀長はこの後も失領していないため既に尼子に臣従していた可能性が高い。 毛利元就の支援を受けて備中で日の出の勢いの三村家親と尼子方の為資との対立が表面化すると、天文21年(1552年)に矢掛合戦が勃発し、三村・毛利連合軍とこれに対抗する為資ら反毛利勢力が衝突し、緒戦は為資が勝ったがやがて追い詰められ和睦。和睦の条件として猿掛城の穂井田実近の養子に荘元祐(三村家親長男)が入って猿掛城主となり、松山城は名目上は庄為資の持城であったが三村家親が入城して、今後の尼子の戦いを見越して庄一族の動きを監視しながら滞在する事になった。これにより、草壁庄やその周辺の庄一族は三村一族である元祐の指揮下に入れられ、庄一族の勢力は大幅に衰退した。 ただ、秀長は臣従していなかったようで、天文21年(1551年)10月5日に室町幕府13代将軍足利義輝の側近・細川藤孝より天文20年(1550年)に戦によって得た700貫文の所領の安堵を受けており、この頃には備中を含めた8ヶ国守護となった尼子晴久の家臣であると中央にも認識されていたようである。天文23年(1554年)8月の時点でも植木氏と縁の深い大森神社が尼子誠久の寄進を受けている。たが、尼子の衰退が著しくなると植木氏も三村の傘下に入ることになった。 この後、秀長は新たに佐井田城を築いて以後の植木一族の本拠としたようだが時期は不明である。永禄10年(1567年)の明善寺合戦では三村元親が備前国の宇喜多直家と戦ったが秀長も『備前軍記』には三村方に交名が有り、これに敗れた後に佐井田城に籠城したものの宇喜多忠家率いる9,000の兵に囲まれた為、降伏して宇喜多氏へと鞍替えしたという。 永禄12年(1569年)11月、三村元親は毛利へと援軍を要請し毛利元清・熊谷信直らを加えた軍団で佐井田城攻略を狙った。三村・毛利軍の包囲を受けた佐井田城では徐々に兵糧が欠乏し、窮地に立たされた秀長は夜陰に紛れて脱出させた嶺本与一兵衛を使者として宇喜多直家に援軍を要請した。これを受けて直家は戸川秀安を派遣し、12月に城を囲む三村・毛利軍と交戦し、穂井田実近を討ち取り三村元親を負傷撤退させるなど快勝し、首級を多数挙げた。 しかしながら、この後より各書物で秀長の名は出なくなり、嫡子・秀資が佐井田城主に切り替わっており、秀長は佐井田城の戦いの後ほどなくして死去したと推測される。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9C%A8%E7%A7%80%E9%95%B7
穗井田元清 Hoida Motokiyo(1551年-1597年) 元就の正室の子である毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人の兄たちが元就から重視し大切にされたのに対して、元清をはじめとする側室の子達は、父から「虫けらなるような子どもたち」と表現されている。しかし粗略に扱われたわけではなく、「もしこのなかでかしこく成人するものがあったならば、隆元・元春・隆景は哀れんで、いずれの遠境などにでもおいてほしい」とも依頼している。一方で「たいては、まぬけで無力なものだろうから、その時はどのようにされてもかまわない」とも述べており、そこには正室の子と側室の子を明確に分ける元就の配慮が読み取れる(『三子教訓状』)。 永禄9年(1566年)、甥に当たる本家当主・毛利輝元の加冠を受けて元服する。永禄11年(1568年)、村上水軍との関係を強化する必要もあり、来島の村上通康の娘を妻として迎えた。 同年、毛利氏が北九州に侵攻した際に備中国が手薄になると、これに乗じて宇喜多直家が毛利氏に背き、備中松山城(岡山県高梁市)、同猿掛城(岡山県倉敷市・矢掛町)を攻め落とした。元清は父に命じられて三村元親と共に猿掛城を奪還し、松山城からは庄高資を追い出した。翌永禄12年(1569年)、毛利氏が北九州の覇権を巡って大友氏と対立したため、立花山城の戦い、門司城の戦い、多々良浜の戦いに出陣。同年12月には備中国に兵を移し、熊谷信直・三村元親と共に宇喜多氏に臣従した植木秀長の佐井田城攻略を目指して兵を進め、後月・小田・浅口を順調に平定して佐井田城に向かったが、援軍に駆けつけた直家配下の戸川秀安に敗れ撤退した。 元亀2年(1571年)2月には再び庄高資に奪われた松山城奪還のために三村元親と共同で攻め込み、庄高資を討ち取って松山城を奪い返した。元亀3年(1572年)、安芸桜尾城(広島県廿日市市)を与えられて終生の居城とした。天正2年(1574年)から兄の元春と隆景に従って三村元親討伐のため出陣した(備中兵乱)。天正4年(1576年)、麦飯山の戦いにおいて宇喜多基家の軍勢と戦う。 天正3年(1575年)に毛利氏に従った備中猿掛城主で三村氏の一族である穂井田元祐(庄元祐)の養子となり、以後穂井田姓を名乗り、毛利氏の東部方面への侵攻を抑える重鎮となった。 天正5年(1577年)、織田信長による中国攻めが始まると、児島の戦いにおいて信長に通じた宇喜多直家の軍勢と戦ってこれを撃退。また、羽柴秀吉の軍勢に取り囲まれた桂広繁の軍勢を元清自らが3,000の兵を率いて救出した。天正6年(1578年)の上月城の戦いでは、七弟の天野元政と共に自ら軍の先頭に立ち、上月城を落城させるという大功を立てた。 天正10年(1582年)、備中鴨城において、羽柴秀吉の軍勢と戦った。また同年、備中高松城の戦いの際に毛利氏は秀吉と講和を結ぶ。以後は秀吉に臣従した毛利氏の下で従軍、天正13年(1585年)の四国攻めに出陣。また同年、長男の毛利秀元が毛利輝元の養子となったため、元清も毛利姓に復した。天正15年(1587年)、九州征伐に出陣する。 天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。 天正17年(1589年)、二宮就辰と共に安芸広島城の築城、およびその城下町の建設の普請奉行を勤めて指揮している。天正19年(1591年)、輝元から12,000石の知行地を与えられている。また、この頃に実施された検地の結果、有力家臣や寺社に対して発給された打渡状に署判を記した8人の重臣のうち元清は唯一の一門出身者であるとともに、彼か恵瓊のどちらかが必ず筆頭の署判を行っており、小早川氏・吉川氏が独自の地位を築いていく中で、元清が恵瓊とともに毛利氏の年寄筆頭として当主である毛利輝元を補佐していたと考えられている。 文禄元年(1592年)、文禄の役では、病床にあった輝元に代わって自ら毛利軍の総大将となった。この時、秀吉は元清に土産として虎を所望しており、元清は虎を2頭生け捕りにして秀吉の下へ送っている。その虎は京の市中において評判となり、後陽成天皇も物見に訪れたという。 慶長2年(1597年)、桜尾城において47歳で死去する。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%82%E4%BA%95%E7%94%B0%E5%85%83%E6%B8%85

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