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太田氏資 Ota Ujisuke(1542年-1567年) 太田資正的長子、母為難波田憲重之女、妻為北條氏康之女.長林院;幼名源五郎、初名資房,受北條氏康偏諱「氏」字,名為氏資。 氏資和父親資正原先是扇谷上杉家的家臣,後來扇谷上杉家在河越夜戰被北條軍大敗,父親資正向北條氏康投降,而太田資房也迎娶北條氏康之女作為正室。 由於父親資正早與氏資之母離異,另娶大石氏的女兒生下次子政景,加上氏資生有口吃,又娶了北條家的女兒和北條氏康頗為親近,所以被蓄意對抗北條家的父親資正認為不適任繼為家督,因而決定繼承人為次子太田政景(梶原政景),氏資只好選擇出家避難,法名道也。 永祿七年(1564年),父親資正和安房大名里見義弘的聯軍在下總與北條軍爆發第二次國府台之戰中吃了敗仗,氏資秘密還俗,趁機聯合家中親北條的家臣造反,奪下太田家的居城岩付城投降北條氏,並將父親跟弟弟流放,自命為家督。此後,北條氏康也把自己名字中的「氏」字贈與,名字由資房改成氏資。 永祿十年(1567年),北條家再度和里見家爆發三舟山之戰,北條家於是役中慘虧,氏資自告奮勇擔任殿軍而戰死,年二十六歲。 氏資死後由於無子,便由北條氏政讓三男國增丸(太田源五郎)迎娶氏資之女,做為婿養子入繼。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E6%B0%8F%E8%B3%87
太田資正 Ota Sukemasa(1522年-1591年) 太田道灌的曾孫、太田資賴的次子、母為太田下野守之女、正室為難波田憲重之女;通称源五郎、法名三樂齋道譽。 太田氏出自清和源氏,其祖為源賴光的玄孫源賴政末子源廣綱,廣綱的子孫源資國住丹波國桑田郡太田鄉,以太田為苗字,稱為太田氏。室町幕府時期太田氏仕於上杉氏,後上杉氏被幕府任命為關東管領而跟隨移居關東。 最初,父親與兄長・資顯同於扇谷上杉氏仕官。天文五年(1536年)父親死後、由兄長繼承家督、由於資正和資顯相處不睦、就離開岩付城前往舅舅難波田憲重的松山城居住。之後、兄長投靠相模國的北條氏、資正則與憲重仍然仕於扇谷上杉氏。天文六年(1537年)、憲重與北條氏戰爭,失去了3個兒子及外甥隼人正、資正就成為憲重婿養子,並取得松山城的繼承權。 天文十五年(1546年)、主君上杉朝定在與北條氏康的河越夜戰中被討死、扇谷上杉氏滅亡。資正退出松山城、暫時在橫瀨氏支配下的上野新田安頓。天文十六年(1547年)9月、趁北條氏不備急襲松山城並將之奪回。同年10月兄長死去,12月趁當主不在時進攻岩付城、以軍事實力繼承家督。致使親北條派的一部家臣逃離投靠北條氏。但隨即遭到北條方反擊,同時松山城守備上田朝直也遭到北條氏寢返、並且圍攻岩付城、天文十七年(1548年)1月向北條氏降伏。之後、天文二十三年(1554年)4月拜領父親的美濃守名位。 相模北條氏與甲斐武田氏、駿河今川氏三國同盟後,關東後北條氏與越後上杉氏之間的抗爭隨之展開、資正當時為北條家臣、北條氏康考量資正乃名門太田家的末裔、名目上也是古河公方・足利義氏的家臣、於是將女兒嫁給資正的嫡男太田氏資。但是永祿三年(1560年),越後國上杉謙信率領關東大軍包圍小田原城(小田原城之戰),資正叛變成為上杉軍一方,從北條氏離反。氏康為了報復資正,幾度派兵攻擊武藏岩付城、松山城。 永祿六年(1563年)7月2日受朝廷任命為民部大輔。一說為北條氏對於資正採行的懷柔政策。但資正不為所動。 永祿七年(1564年),安房的里見義堯應上杉謙信之邀揮軍下總,打算從背後騷擾北條氏。太田資正亦率軍支持里見軍,雙方在市川北方的國府台決戰(第二次國府台之戰),但里見太田聯軍大敗。所幸5月經由上總酒井胤治(自北條方叛變)的支援下,仍保住了岩付城。7月資正前往密會了里見氏,但親北條派的長子太田氏資卻趁機聯合北條氏,將其弟弟梶原政景幽禁,順勢佔領了岩付城,將資正追放。資正前往投靠女婿成田氏長,永祿八年(1565年)5月試圖將岩付城奪還,可惜失敗。這期間出家,法號「三樂齋道譽」。後來資正先前往投靠下野宇都宮氏,繼而投靠常陸國的佐竹義重,成為佐竹配下。佐竹義重在攻取北條氏小田天庵的片野城後,將資正任命為城主。資正的次子政景則與大石氏合流,並協助佐竹家臣真壁久幹擴展佐竹勢力。柿岡城原本為真壁氏居城,梶原政景成為真壁久幹的女婿後,真壁久幹將居城柿岡城讓給梶原政景。 永祿十二年(1569年)甲相駿三國同盟崩壞,北條氏轉與甲斐武田氏為敵,並與越後上杉氏締結同盟(越相同盟)。北條與上杉的同盟使得關東國眾人心動搖,資正對於上杉謙信同盟締結的舉動持反對意見。同盟協議中涉及資正的待遇問題,北條要求上杉方應歸還原先佔領的片野城及柿岡城。資正無視上杉的要求,雙方因而產生裂痕。所幸在山吉豐守及河田長親調解下,於元龜三年(1572年)8月再度交涉,才讓關係緩和,進而天正三年(1575年)8月在資正奔走下,北條、佐竹與里見締結同盟。資正也在這時候與織田信長取得連絡。 天正六年(1578年)上杉景勝傳來上杉謙信的死報,即是由資正告知織田信長。本能寺之變後,北條氏與佐竹氏的鬥爭白熱化、天正十二年(1584年)5月發生沼尻合戰,6月時,資正的次男梶原政景突然與北條氏內通,自佐竹氏方叛離。7月北條與佐竹達成和議,佐竹義重出兵討伐梶原政景,於10月降伏政景,但政景之前的功績一概不承認。此後,資正的三男資武成為太田家唯一後繼者,並於天正十六年(1588年)繼任太田氏家督。 天正十八年(1590年)參加小田原征伐,曾針對小田原攻伐向豐臣秀吉獻策,並要秀吉不要自恃兵多將廣而輕視北條,引來秀吉不悅。雖然一心想要回歸故土,但仍然於天正十九年(1591年)9月病逝,年七十歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E8%B3%87%E6%AD%A3
梶原政景 Kajiwara Masakage(1548年-1615年/1623年?) 太田資正的次子、母為大石定久之女、妻為真壁久幹之女;初名太田政景,繼承梶原氏,名為梶原政景,別名梶原源太。 父親資正原為扇谷上杉家家臣,後扇谷上杉家被北條氏所滅,之後資正持續連合周邊勢力對抗北條氏,政景與父親資正同為反北條氏人物。 永祿七年(1564年)娶北條氏康之女、親北條氏的異母兄太田氏資,將政景與父親資正一同流放;政景與父親投奔常陸國佐竹氏的當主.佐竹義重,並成為其家臣。 在佐竹義重討伐小田氏治時大破小田軍,而被封為小田城主,兄長氏資死後一度被北條氏寢返,但因父親資正的勸說而回到佐竹家。 天正五年(1577年),應戰初陣的北條氏直,展開對北條氏的戰鬥。聯合安房國的里見義賴和三河、遠江、駿河三國的德川家康以企圖對北條氏進行夾擊,繼續著反北條氏的活動。 天正十八年(1590年),小田原征討之後,被佐竹氏命令將居城移至植田城。翌年,父親資正去世。後出陣於文祿之役,渡海到朝鮮半島。 慶長五年(1600年)關原合戰之後,隨佐竹家移封至秋田,後離開佐竹家以2000石的俸祿仕官於北之庄藩的結城秀康。 慶長十九年(1614年),作為松平忠直(結城秀康之子)的家臣而參加大坂之陣。 出處 http://baike.baidu.com/view/6918234.htm
渋江政光 Shibue Masamitsu(1574年-1614年) 小山氏、のち佐竹氏家臣。出羽久保田藩(秋田藩)の家老を務めて藩政改革を行った。通称は内膳。子に光久(庶長子、初め荒川光康といい、のちに宣光の後を継ぐ)、宣光、佐竹義章室。 政光は元々下野国の小山秀綱家臣・荒川秀景(あらかわ ひでかげ)の子である。天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐の際に抵抗した小山氏は改易されて、政光も浪人となった。しかし、政光の才能を見込んだ佐竹氏家臣・人見藤道の推挙で佐竹義宣に仕え、20歳の時に佐竹家の重臣であった渋江氏を相続することになり、荒川弥五郎から渋江内膳政光に改名(「政」の字はこれ以前に小山秀綱の子・政種から1字を受けた可能性もある)。 関ヶ原の戦い後、秋田に減転封された佐竹家では義宣が家中の改革を断行し、慶長8年(1603年)に政光は家老に抜擢された。だが、他家の旧臣である政光らの抜擢に譜代の家臣からの不満が高まり、遂には義宣と政光の暗殺を企てた家老川井忠遠らが逆に粛清されるという事件(川井事件)まで起こっている。この影響で政光の家老昇格は一旦見送られ、正式に家老に任じられたのは慶長12年(1607年)だった。 政光は久保田城築城に際して梶原政景と共に縄張に従事。また検地制度の改革などを実施して、農業生産と藩財政の安定に尽力した。これを渋江田法(しぶえでんほう)と呼んで、他藩や江戸幕府も農業政策の参考にしたといわれている。 慶長19年(1614年)、主君・義宣とともに大坂冬の陣に出陣し、今福において後藤基次・木村重成と激突した(今福の戦い)。この際、主君を守って奮戦した政光であったが、最後は流れ弾を受けて41歳の若さで戦死した。 政光の死後は、義宣より1字を受けた嫡男の宣光(のぶみつ)が跡を継いだ。しかし宣光は嗣子なくして死去し、庶子のため跡目から外されていた長男(宣光の兄)の光久(みつひさ)がその跡を継いでいる。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B1%9F%E6%94%BF%E5%85%89
由良国繁 Yura Kunishige(1550年-1611年) 由良成繁と赤井重秀の娘妙印尼の嫡男。弟に渡瀬繁詮と長尾顕長。正妻は結城晴朝の娘。子に貞繁、忠繁、女子(長尾宣景室)。別名横瀬国繁,幼名は国寿丸。通称は六郎、新六郎、官位は式部大輔、信濃守。 天正6年(1578年)成繁が死去する前後に家督を継ぎ、由良氏の第9代当主となった。同年越後で御館の乱が起こり、天正7年(1580年)に北条氏政と武田勝頼の同盟が崩壊すると、武田氏は佐竹氏、里見氏と同盟を結び、上州はその主戦場となった。 由良氏は父・成繁の代に上杉氏から後北条氏に転じており、国繁と弟・長尾顕長は北条氏と誼を通じていたが、佐竹氏とも連絡をとっており(里見義頼及び太田康資宛て梶原政景書状)、北条氏政が北条氏邦宛て書状において、「由良氏と長尾氏が佐竹方として出兵した。このままでは上州は勝頼のものとなり、当方終には滅亡となる。」と嘆いている。 しかし天正8年(1580年)に国繁らは北条方に戻っており、同年9月に佐竹義重が長尾顕長の館林城を攻撃しており、同月20日には佐竹義重と合流した武田勝頼が小泉(富岡秀高)、館林(長尾顕長)、新田(由良国繁)領に火を放ち、膳城を落としている。 天正10年(1582年)、甲斐武田氏が織田氏に滅ぼされると国繁兄弟は、他の上野国衆と同様に織田信長の重臣・滝川一益に仕えたが、同年本能寺の変で信長が横死すると、6月20日の神流川の戦いでは滝川方として戦ったが、これに滝川一益が敗北すると、北条方へ転じた。 天正11年(1583年)9月、北条氏が離反した北条高広が篭る厩橋城を攻め落とすと、国繁兄弟は祝辞のために厩橋城の北条氏直に出仕した。その際に氏直は佐竹氏を攻めるため、金山城と館林城の借用を申し出、兄弟はこれを承知したが、これに反発した家臣は国繁らの母・妙印尼を擁立して籠城したため、兄弟は小田原城に幽閉されてしまう。篭城勢は佐竹義重、佐野宗綱と結び、北条方であった小泉城の富岡秀長を攻め立てるが、同年冬の北条方の攻勢により落城した。 天正13年(1585年)正月、金山城、館林城は当初の予定通り北条氏照に明け渡され、兄弟の知行は安堵され、国繁は柄杓山城(桐生城)、顕長は足利城に本拠を移した。ただし北条方についた黒熊中城の阿久沢氏などには独立されてしまい、実質の領土は減少した。 天正14年(1586年)正月、長尾顕長は佐野宗綱を討ち佐野領の拝領を北条氏に求めたが、佐野領には北条氏忠が婿養子として入った。 天正15年(1587年)、国繁兄弟はついに佐竹義重に通じ北条氏直に叛旗を翻したが、天正16年(1588年)には降伏、桐生城と足利城は破却され、兄弟は小田原に移された。 天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐でも、兄弟は小田原城に籠もることを余儀なくされていたが、嫡男の貞繁と母・妙印尼が秀吉に与して功を挙げたことにより、後北条氏滅亡後は罪を問われず、秀吉に仕えた。戦後、妙印尼は秀吉から常陸牛久において5400石余の所領(堪忍分)を安堵され、国繁が跡を継いだ。秀吉の死後は徳川家康に仕えた。関ヶ原の戦いに際しては江戸城の守備を命じられた。戦後、下総相馬郡内1600石余を加えられて、合計7000石余を知行した。 慶長16年(1611年)、61歳で死去。貞繁がその跡を継いだ。なお、貞繁と次男忠繁の他に3女があり、うち1人は養女である。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E8%89%AF%E5%9B%BD%E7%B9%81

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