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以心崇傳 Ishin Suden(1569年-1633年) 一色秀勝的次子,別名金地院崇傳;人稱「大欲山氣根院僣上寺惡國師」、異名「黑衣宰相」。 父親秀勝為將軍足利義昭的家臣,天正元年(1573年),發起信長包圍網的將軍足利義昭反被織田信長擊敗而遭到放逐的命運,在足利幕府隨著歷史的洪流被淹沒後,做為足利氏家臣的一色秀勝由於並無過人之才而未被重視能力更勝門閥的信長起用,下野的一色秀勝無力撫養太多孩子,於是就讓近畿附近臨濟宗的南禪寺將年幼的次子領去,拜在名僧玄圃靈三的門下,法名「以心崇傳」。 文祿三年(1594年),修行多年的崇傳因智慧圓通、辯才無礙受到肯定被授予住持的資格,之後數年間先後擔任臨濟宗分寺福嚴寺、禪興寺的住持。慶長十年(1605年)三月,崇傳在得到臨濟宗各分寺的同意後繼任為臨濟宗大覺派的總寺院南禪寺的住持,成為臨濟宗的最高位宗主。 慶長十三年(1608年),崇傳在大御所德川家康的邀請命令下往赴他隱居的駿府城,來講古代高僧故事。因為崇傳精通中文,從此也負責幫助家康處理外交事務,像慶長十四年(1609年)中日在慶長之役後再次通商,中國商人陳振宇、陳德將大批貨物運抵日本時,在薩摩島津家貨物清單送至駿府讓家康過目時,家康因不理解中文便責由崇傳先加註日本假名。 四年後,慶長十七年(1612年),崇傳奉家康之命協助京都所司代板倉勝重一同擔當宗教行政的事務。翌慶長十八年(1613年),崇傳替幕府撰寫了伴天連追放令(傳教士放逐令)並起草幕府對於天皇的本分、五攝家及三公的席次之任命和罷免,以及改元、刑罰、寺院僧侶的職位升調等對朝廷和朝臣直接限制共十七條的禁中並公家諸法度和專門管理寺院的寺院法度、為了統轄眾諸侯而公布對築城、婚姻、參勤交代、造船、關所等詳加規定的武家諸法度,崇傳制定的這些法令為後來江戶幕府能有效管理全日本做出莫大的貢獻,天台宗大僧正南光坊天海並列,同被世人稱做「黑衣宰相」。 當時對已被天皇策封為征夷大將軍並開創江戶幕府的德川家康而言,盤踞大阪城中的豐臣家始終是一根扎在心頭上的肉中刺,雖然家康已把將軍之位讓給三子秀忠確立的幕府的傳承,雖然豐臣家僅存攝津、河內、和泉三國六十五萬多石的領地,但是對福島正則、加藤清正、淺野幸長等與豐臣家親厚的大名來說,豐臣家才是真正的主家,德川家只是上司而已。有感自己年事已高、時日無多的德川家康為了能安心將家業傳續給子孫,決定在自己的有生之年就將這心腹大患斬草除根。 家康以重建豐臣秀吉在天正十六年(1588年)時因大地震而毀壞的方廣寺大佛殿為名義,讓豐臣家出資重建方廣寺,並請僧人清韓撰寫梵鍾銘文。為了找到與大阪方開戰的藉口,家康和崇傳密談商榷,最後崇傳建議用梵鍾銘文上「國家安康,君臣豐樂」的字句發揮,指稱是要詛咒腰斬家康、並祈求豐臣家繁榮,同時崇傳還聯合五山的許多名僧及藤原惺窩的門人朱子學家林羅山一同對豐臣家指控。終於以豐臣家激怒家康為名開戰,導致最後豐臣家的滅亡。 在將豐臣家剪除之後,心中的大石落地家康再無牽掛,不久後於元和二年(1616年)四月十七日德川家康以七十五歲的高齡病逝,家康死後,幕府擬將他神化祭祀,為了決定家康的神號,代表臨濟宗的崇傳與天台宗的南光坊天海進行激烈的辯論,天海希望把家康稱作「權現」,崇傳則認為「明神」這個稱號較佳,崇傳的主張得到了幕府權臣本多正純等人的贊同,不過後來因為天海提出家康若被稱為明神將與豐臣秀吉的神號豐國大明神相同必不吉利的說詞,這使將軍秀忠終於下定決心將父親家康的神號定為「東照大權現」。 元和五年(1619年),崇傳受將軍秀忠任命成為僧錄司負責協助幕府掌握五山十剎以下的各寺院,使本獨立於政制之外的寺院也必須由幕府進行發落,確立幕府最大權威。之後德川秀忠也在增上寺旁修建金地院作為崇傳的居所,崇傳也因居所而為後人稱為金地院崇傳。寬永三年(1626年),迎娶了將軍秀忠之女和子的後水尾天皇授予崇傳「圓照本光國師」的尊號,是為天皇在佛教上的師範。 寬永六年(1629年),當朝廷一如往常要頒發紫衣敕許給寺院僧侶時,崇傳在幕府授意下以該名僧侶出身不名為由,未得到朝廷同意便將那名僧侶流放,為此大德寺的住持澤庵宗彭十分不滿,而與崇傳抗辯,崇傳一怒之下反以手中的權力將澤庵宗彭流放到出羽上山,之後崇傳在寬永十年(1633年)過世,年六十四歲。 由於崇傳以出家之身涉入政治過深,雖然展現了其精明強幹的一面,但因手段之狠辣、用心之險刻,使他在歷史上的風評極為不佳,庶民稱呼他是「大欲山氣根院僣上寺惡國師」,而被他流放到出羽上山的澤庵宗彭最也因為天海及柳生宗矩講情,回到江戶並得到三代將軍家光的信賴,終其一生都指責崇傳是「天魔外道」。 出處 http://www.twwiki.com/wiki/%E9%87%91%E5%9C%B0%E9%99%A2%E5%B4%87%E5%82%B3
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那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
堀直寄 Hori Naoyori(1577年-1639年) 天正18年(1590年)、従叔父に当たる堀秀政が没し、又従弟で秀政の嫡男・秀治が幼かったため、家督相続が遅々として進まなかった。家老の直政は直寄を使者として豊臣秀吉に直訴した。「先臣秀政、軍に死し候えば、その子秀治、幼年なりと申せ、よろしく嗣と為し給ふべし、若し立つことを得ざらんには、これ使臣の罪なり、」と口上したが、直寄はこの時13歳であった。秀吉は秀治の相続を認め、直寄を自らの小姓にし、従五位下丹後守に叙任された。 慶長3年(1598年)、堀家が越前北ノ庄城から越後春日山城へ転封となる。直寄は秀吉に直訴し、「父監物(直政)事、老齢にして此の度、北国へ罷越し、自然彼の国にて一揆など起らば、落着くことも成り難く、是れのみ心元なく、何卒三年の御暇を賜りたし、」と申し、秀吉も感心し、「丹後(直寄)の申し様奇特なり、早々に久太郎(秀治)のあとより下るべし、」といい、増田長盛を召し、「丹後守は器量あるものなり、父兄と共に国政を聞くべし」といって越後魚沼郡坂戸城に2万石を与えた(坂戸藩)。 会津では上杉景勝が不穏な動きをしており、直政は徳川家康に情勢を報告した。家康が上杉討伐を決めると、堀家にも「津川口より会津へ攻め入るべし」との指示が来る。一族の合議の際、直寄は太閤殿下への御恩に報いるべきと上杉、石田三成と組むことを主張したが、堀氏は東軍方に就いた。 慶長5年(1600年)8月1日、越後国内で上杉遺民一揆が勃発する。一揆勢により下倉城が陥落し城主の小倉政熙が討ち死にした。直寄は下倉城に攻撃を加えて翌日に奪還し、戦後に家康、秀忠父子から感状を授与されている。9月1日、家康より書状が来る。石田三成らが美濃の大垣に集結しているので、自分はそちらへ出馬する。会津の上杉景勝が坂戸方面へ侵攻するようなら、真田信幸、本多康重、平岩親吉、牧野康成に援兵を出すよう命じてあるから、これら諸将と協力して城を堅守するように、というものであった。 9月8日、直寄は父直政、兄直清と共に三条城から津川に向けて兵を出した。津川に向かう途中、会津の兵3000余人とともに一揆の兵が高所に登り、三段に構え、深田を前にして備えていた。これを見て直寄は家臣に「敵が深田を前にして、高きところに備えたれば、我れよりかかって勝負をいたせば敗北は必定なり、密かに脇道より敵の横合いに出でて仕掛けて切り崩さば、勝利は我にあらん」として、身近な兵10人ほどで崖陰に廻り敵の右の傍より迫り、鉄砲を撃ちかけ敵を切り崩し、これを平定した。 慶長7年(1602年)、堀秀治の弟で越後蔵王堂城主の堀親良は家老の直政と不和になり、国政を顧みない兄秀治にも不満があり出奔した。親良は甥で秀治の次男・鶴千代を自分の養子として蔵王堂城主にした。直寄は鶴千代を補佐し、鶴千代が早世して蔵王堂藩が廃藩になると坂戸と蔵王堂を兼務し5万石を領有した。蔵王堂城は長尾為景の弟・為重が築城した城だったが、信濃川の側で年々浸食が進んでいたので、上流の大島庄平潟原に築城の計画を立てる。この地が長岡と呼ばれるようになる。 語源には、神田表町千手の地が遠くから見ると長い丘のように見えるから(『長岡市史』)、長岡京に似ているから(『越後往古城主付』)、そしてこの地を御館の乱の時に本荘清七郎の家臣・神保隠岐守と長岡縫殿助(ぬいのすけ)が領していて、戦に敗れ神保は会津へ逃亡、長岡は討死したという記述が『越後治乱記』にあり、この長岡縫殿助の名から付いたという説がある。長岡が文書に出てくるのは慶長10年(1605年)に蔵王堂渡し守与助に、長岡渡しに場所を変更する、今まで通りの給米で雇う旨の文書が、鶴千代の老臣堀甲斐守から出された時である。これ以後、長岡の名が文書に多く出てくる。 慶長13年(1608年)、父が死去した後、兄が家督を継いだのを不満に思い対立する。そして慶長15年(1610年)、直清が僧侶を殺害した事件を徳川家康に訴えた為、直清と越後高田藩主で秀治の嫡男・堀忠俊は改易され、自身も1万石減封された(越後福嶋騒動)。秀治と親良、直清と直寄の兄弟相克が引き金になり、家康に堀家除封の口実を与えてしまったのである。直寄は信濃飯山藩4万石に転封され、長岡築城は中断。新たに高田藩主となった松平忠輝の家臣・山田勝重が蔵王堂城主になるが、高田城築城の為、任地を顧みる暇はなかったようである。 飯山藩4万石を領してからは、駿府にいて家康に仕えた。慶長16年(1611年)、駿府城火災のさい、いち早く駆けつけ、宝物金銀を運び出し、消火にあたり、消火の器物に自分の名前を書いておき、後からきた人々はみな直寄の名の入った器を使ったので、この時の手柄は直寄のものとなり、美濃多芸郡に1万石加増された。 大坂夏の陣に弟の直之と共に参陣。大和口の軍将水野勝成の手に属し、1番に直寄、2番に松倉重政とした。5月5日、水野、松倉らが田尻越えを経て河内へ入ったという知らせを聞き、里人に近道を尋ねた。古老がいうには「亀瀬より入らば道は近し、されどその昔、守屋大臣、此の道を通り河内へ往きて、戦ひに敗れし故、聖徳太子の御世より、赴軍の者、この道を戒められて、石に亀を刻み、その印とせられたが、刻みし亀は、その後首を隠せりにより、首なき亀を見て、戦に利なきと戒めて、この道を通らずと云う、」直寄、之を聞いて、「我いま、人に先立ってこの道を進み、敵に勝つときは千年の禁忌を破りて、愚者の迷を解かん、守屋大臣は戦いに敗れ死す、我は勝ちて生きん、若し戦に利なくして、死なば、末世の勇者の戒めとすべし、」と亀瀬を越え、河内の国府へ駆けつけ、しばらくすると、水野、松倉らも到着した。 夜も更けて、水野勝成より、「敵寄せ来たると見えて、松明多く見ゆ、あなどるべからず、」と諸将に伝言があった。直寄之を聞きて、「勝成は物に馴れたると聞きしに、巧者とも思はれず、寄せ来たる敵、何んぞ松明を多く燈さんや、敵にはあらず」というところに、再び伝令がきて、「松明皆消えたり、敵にはあらず」告げると、直寄は「これぞまさしく敵なり、なに心なく松明をとぼしたるが、巧者あって消させたり」といった。これが敵将後藤基次の部隊であった。6日未明、片山・道明寺の戦いで松倉重政の崩れるのを助け、横から討って出て、基次の兵が崩れた所を一気に押し切った。この激戦で後藤基次、薄田兼相らの名将は戦死した。7日の天王寺の戦いを経て、8日に大坂城は陥落、大坂夏の陣は終結した。 元和2年(1616年)4月1日、家康は病重く、寝殿に直寄を召して、大坂の軍功、平時の武備を称美し、「我れ、死せる後に、若し国家擾乱せば、藤堂高虎を将軍の一陣とし、井伊直孝を二陣とし、汝は両陣の間にたむろし、其の横を打ってこれを破るべし、必ず忠義に懈るべからず」と遺言した。 元和2年7月、松平忠輝が改易となり、10月に直寄は3万石加増で再び長岡の領主となり、越後長岡藩が立藩された。築城と共に城下町の整備も行い、外港の新潟町(新潟港、現在の新潟市古町付近)は交易や人口増加の事を考えて諸税を免除し、以後の発展の礎を築いた。 元和4年(1618年)、2万石の加増を受け、越後村上藩10万石に転封。長岡城は完工目前で牧野忠成に引き継がれた。牧野氏は幕府の要職にあり、寛永7年(1630年)まで長岡に入国できなかった事もあり、明暦3年(1657年)の改正まで「しきたり」と称し「堀丹後守御証文通り」として、直寄の制度をそのまま踏襲し、いささかの不便もきたさなかったという。 直寄が村上に入部のさい、家康より百万石の禄を与えるという御墨付きを所有していた。これを示して老中に百万石の請求をした所、老中は困り果てたが、百万石の「石」の字に虫食いがあるのを見つけ、「之は百万石に非ずして百万両なり、依って佐渡金山を向う三ヶ年取らすべし」と下命して早々に立ち去った。怒った直寄はこの金で村上城を増改築し、士分の増員を行い、江戸の上屋敷に凌雲院を建て、不忍池を作った。後に居城の改築と士分の増員について幕府の詰問を受けた。また、村上藩主として村上城下町の整備に携わり、現在の市街地の基礎を築いた。 直寄の屋敷には徳川秀忠、家光父子が訪ねて来ている。「寛永六年十二月二十六日台徳院殿(秀忠)直寄が邸に御渡りありて、助国の御刀貞宗の御脇差をよび黄金三百両を賜ふ、七年二月十三日大猷院殿(家光)直寄が宅に渡らせたまふのときも、助光の御腰物黄金二百両を恩賜せらる、」(『寛政重修諸家譜』) 元和年代、上野には直寄の屋敷のほかに藤堂高虎、津軽信枚の屋敷があった。津軽家の『常福寺御由緒略記』によると、「上野は御家(津軽家)、並びに藤堂家、堀家の屋敷と申し候ところ、徳川家にて、御廟地と成され候節、替地を以って、御取上げと相成候ところ、御家の寺院、津梁院、藤堂家の寒松院、堀家の凌雲院は格別に対遇なさるる趣、」とある。寛永2年(1625年)に天海の発意で寛永寺が草創され、凌雲院は上野最大の塔頭であった。直寄は他にも祇園堂、大仏殿なども寄進した。 寛永4年(1627年)、沢庵宗膨が罪に問われた際、天海僧正、柳生宗矩と共に赦免に奔走した。沢庵和尚は直寄の駒込の別邸に2年間世話になった。寛永8年(1631年)、戦死者慰霊の為上野寛永寺に上野大仏(釈迦如来坐像)を建立。 寛永13年(1636年)、60歳の還暦で隠居し、嫡男の直次に家督を譲り、自らは「鉄団」と号した。この人生の節目に肖像画制作を希望、或いは沢庵らから勧められ、狩野探幽の筆になる寿像が残っている。しかし、寛永15年(1638年)に直次が先立って死去、孫の直定が家督を継いだ。 寛永16年(1639年)6月29日、病の為、駒込の別邸で亡くなる。享年63。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%9B%B4%E5%AF%84
柳生三嚴 Yagyu Mitsuyoshi(1607年-1650年) 柳生宗矩的長子、母為松下之綱之女.おりん、正室為秋篠和泉守之女;初名七郎、通稱十兵衛、戒名長岩院殿金甫宗剛大居士。 祖父宗嚴、父親宗矩皆仕奉於德川家康。之後父親宗矩為德川秀忠(家康之子)的劍術指導,元和二年(1616年),三嚴十歲謁見德川秀忠。 元和五年(1619年),十三歲成為德川家光(秀忠之子)小姓,元和七年(1621年)就任家光的劍術指導,從而在某些時候可以頂替父親宗矩作劍術指導。 寬永三年(1626年),二十歲時被家光勒令蟄居,三嚴回到故鄉奈良柳生庄。在接下來十二年間三嚴的下落不為人知,即使是柳生家族豐富而詳細的秘密紀錄,也沒有什麼關於這十二年間的記載。 寬永十四年(1637年)回到江戶柳生藩邸,翌年,在幕府的面前表演劍術。在這之後三嚴重新上任,擔任很短時間的御所印判,並管有父親宗矩的領地,直到正保二年(1646年),宗矩逝世。 另有一說是三嚴二十歲時,將軍家光一心以為自己已盡得柳生宗矩真傳,竟穿夜行衣溜出禁宮,想與路上武士比試,結果巧遇正在夜巡的三嚴,三嚴見此人鬼祟便上前盤問,動手時只一招就將家光擊翻在地,還將他踹到河溝裡,待解開蒙面的頭巾才知道竟是將軍家光,家光顏面大失,卻也不好給三嚴定罪,所以只以有失警覺為名罰三嚴回奈良柳生庄蟄居,直到三嚴三十二歲時才原諒三嚴,重新召回身邊任職。 三嚴著有『月見の諸』,記載三嚴學劍的學校以及受到父親宗矩的朋友澤庵宗彭在學習上的指導。在這本書中,三嚴簡要提供關於從江戶城消失這十二年間下落的線索——巡遊全國(武者修行)以精進劍術。由於三嚴的失蹤以及沒有關於他下落的文獻記載,他的經歷引起人們的好奇和推測,然後在很多流行小說中被浪漫化。 在父親宗矩死後,三嚴繼承遺領八千三百石、三弟宗冬四千石,之後三嚴辭退幕府工作回到故鄉柳生庄。 慶安三年(1650年),逝世,年四十四歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E4%B8%89%E5%9A%B4
柳生宗嚴 Yagyu Muneyoshi(1527年-1606年) 柳生家嚴之子,別名石舟齋(新介、新次郎、新左衛門、右衛門),戒名芳德院殿故但州刺史庄雲宗嚴居士。 菅原道真的後裔菅原永家到小柳生庄擔任地頭。到菅原永珍時,醍醐天皇的建武中興,因立功受賜小柳生庄,並以地為姓,改姓柳生。 宗嚴一開始跟隨富田流的戶田一刀齋,其後跟隨神取新十郎學習劍術。永祿六年(1563年),與新陰流的上泉信綱會面,先敗於其弟子疋田豐五郎,但之後要求與信綱再戰,再敗於信綱。因此宗嚴成為信綱的弟子。 永祿八年(1565年),被上泉信綱授予新陰流的印可狀並繼承新陰流。新陰流之嫡流是以宗嚴的『柳生新陰流』繼承,而疋田豐五郎所創的為傍流『疋田陰流』。 宗嚴曾為筒井順慶及後來三好長慶的家臣,其後成為織田信長進入大和國的嚮導。但於永祿九年(1566年)被松永久秀屬下的多武峰眾徒作戰時手遭射傷,並在永祿十一年(1568年)於柳生谷歸途路上墜馬生命垂危。 元龜二年(1571年)長子柳生嚴勝於辰市合戰中被鐵砲重創後無法揮劍。其後宗嚴退隱,但有傳宗嚴在太閤檢地中有隱田被揭發,並被沒收領地。 文祿三年(1594年),遇上德川家康,家康向宗嚴請求成為其劍術指南役,但宗嚴以年事已高為由婉拒,並推舉五男柳生宗矩代為出仕。最後柳生接受500石的領地。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E5%AE%97%E5%9A%B4
柳生宗矩 Yagyu Munenori(1571年-1646年) 父:柳生宗厳(石舟斎)、母:奥原助豊の娘・奥原鍋(春桃御前)、正室:松下之綱の娘・おりん、側室:おふじ、おゆり;通称又右衛門,別名新左衛門,戒名西江院殿前但州太守大通宗活大居士。 元亀2年(1571年)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)に生まれる。父は柳生庄の領主で上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家でもある柳生宗厳(石舟斎)。母は奥原助豊の娘(於鍋、または春桃御前とも)。兄に厳勝、宗章等がおり、宗矩は兄達と共に父の下で兵法を学んだとされる。 若年時の行動は記録にないが、父の代に先祖代々の所領が没収されたために浪人となり、仕官の口を求めて 豊臣秀吉の小田原征伐で陣借りをしていたとする話が伝わっている。文禄3年(1594年)5月、京都郊外の紫竹村において、父宗厳が黒田長政の仲介により徳川家康に招かれて無刀取りを披露した際に、父と共に家康に謁見し、父の推挙を受けて200石で家康に仕えることとなる。 豊臣秀吉の死後家康と石田三成達の対立が深まる中、慶長5年(1600年)に家康が上杉景勝討伐のために会津に向けて出陣すると、宗矩もこれに従軍する(会津征伐)。その道中、下野国小山に至って三成達西軍が挙兵した知らせを受けると、家康の命により柳生庄に戻り、筒井氏や大和の豪族と協力して西軍の後方牽制を行う。同年9月13日、無事工作を終えて家康の元に戻り、続く関ヶ原の本戦では本陣で参加した。戦後これらの功績によって、父の代で失領した大和柳生庄2000石を取り戻すことに成功する。翌慶長6年(1601年)には後の2代将軍徳川秀忠の兵法(剣術)指南役となり、同年9月11日に1000石加増、合わせて3000石の大身旗本となった。 慶長20年(1615年)の大坂の役では将軍・秀忠のもとで従軍して徳川軍の案内役を務め、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を愛刀(大天狗正家)で瞬く間に倒したという。なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時だけである。 大坂の役の翌年、元和2年(1616年)には友人でもあった坂崎直盛の反乱未遂事件(坂崎事件)の交渉と処理に活躍し、坂崎家の武器一式と伏見の屋敷を与えられた。なお直盛の自害のみで事を治めると約束した幕府は、その後、坂崎家を取り潰している。その約束で直盛の説得を行った宗矩は結果的に直盛を陥れたことになるが、宗矩はそれを終生忘れぬためなのか、元々の柳生家の家紋「地楡に雀」(われもこうにすずめ)に加え、副紋として坂崎家の二蓋笠(にがいがさ)を加えて使い続けている。これが後に「柳生二蓋笠」と呼ばれる紋となった。またこの際、坂崎の嫡子平四郎を引き取って200石を与えて大和に住ませ、2人の家臣を引き取り、その内1人には200石を与えている。 元和7年(1621年)3月21日、後の3代将軍となる徳川家光の兵法指南役となり、剣術(新陰流)を伝授する。その後、将軍に就任した家光からの信任を深めて加増を受け、寛永6年(1629年)3月に従五位下に叙位、但馬守に任官する。さらに寛永9年(1632年)10月3日には、3000石を加増された後、同年12月27日、初代の幕府惣目付(大目付)となり、老中・諸大名の監察を任とした。その後も功績をあげ、寛永13年(1636年)8月14日の4000石加増で計1万石を受けて遂に大名に列し、大和国柳生藩を立藩。さらに晩年に至って寛永17年(1640年)9月13日、500石の加増。続いて前年に亡くなった次男・友矩の遺領分2000石の加増もあり、所領は1万2500石に達した。一介の剣士の身から大名にまで立身したのは、剣豪に分類される人物の中では、日本の歴史上、彼ただ一人である。また、友人の沢庵宗彭を家光に推挙したのもこの頃(寛永期前半)のことである。 晩年は故郷である柳生庄に戻ることもあり、その際、陣屋に家臣や近隣の住人らを招き、申楽・闘鶏に興じるなどしていたという。正保3年(1646年)江戸麻布日が窪にある自邸で病む。同年3月20日、病が重い事を聞いた家光が見舞いに訪れ、病床の宗矩に新陰の奥義を尋ね、望みがあれば申し出るよう命じた。3月26日、死没。享年76。 遺言によって武州端芝で火葬の上、練馬区桜台の圓満山廣徳寺に葬られた。その他、友人の沢庵宗彭を招いて開いた奈良市柳生下町の神護山芳徳禅寺にも墓所があり、京都府南山城村田山の華将寺跡に墓碑がある。また、鍋島元茂・鍋島直能により、現在の佐賀県小城市にある岡山神社内の玉成社に祀られてもいる。同年4月、その死を惜しんだ家光の推挙により従四位下を贈位された。1万石の身で従四位下の贈位は異例であり、それだけ家光からの信頼が厚かったことを示すものと言える。 子には隻眼の剣士として知られる長男の三厳(十兵衛)、家光の寵愛を受けたが父に先立って早世した友矩、父の死後まもなく没した三厳に代わって将軍家師範役を継いだ宗冬、菩提寺芳徳寺の第一世住持となった列堂義仙の4男と他2女がいる。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E5%AE%97%E7%9F%A9
柳生宗章 Yagyu Muneaki(1566年-1603年) 柳生宗嚴的四子,柳生嚴勝之弟,柳生宗矩之兄。通稱五郎右衛門。 文祿三年(1594年)宗章與弟弟宗矩一起受德川家康邀請出仕,然而宗章並未去德川家做官,在進行武者修行之後被小早川秀秋起用。在關原之戰中擔任秀秋的近侍負責警護。後來小早川家遭到改易,宗章又收到中村一忠的執政家老橫田村詮(注一)的乞求,於是作為伯耆米子藩的客將出仕。 然而,中村一忠的側近安井清一郎、天野宗杷等人嫉妒村詮的才能而盤算著自己發跡而暗地策劃陰謀(注二)。慶長八年(1603年)11月14日,城內舉行慶典,中村一忠在安井等人的唆使下謀殺了村詮。作為應對,支持橫田一族的家臣在義憤之下死守飯山(注三)與中村家對抗,宗章也出於義憤和對橫田的恩義而加入其中。中村一忠在鄰國松江藩的堀尾吉晴的幫助下將其鎮壓,當時宗章在飛雪當中揮使數把長刀斬殺敵兵十八人,奮勇作戰,最終佩刀折斷壯烈戰死。 注一:橫田村詮:中村氏家老,關原之戰中勸說主君中村一氏加入東軍。中村一氏死後被德川家康任命為中村一忠的後見人。在米子城下進行建設、治水等,奠定了米子市的基礎。 注二:史稱橫田騷動、米子城騷動。其原因未有定論。除正文的說法外,還有資料指出中村一忠行為不修邊幅,將屢次勸諫自己的橫田視為眼中釘故將其殺害,還有傾向於中村一方的史料記載橫田仰仗自己的地位飛揚跋扈大行苛政,中村一忠不得不將其斬殺。 注三:伯耆飯山城:位於今鳥取縣米子市久米町,由山名氏修築。中村氏入封後成為米子城的出丸采女丸。也有說法橫田一族據守的是內膳丸。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=11#postid-275 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E5%AE%97%E7%AB%A0
高橋統增 Takahashi Munemasu(1572年-1617年) 高橋紹運的次子、母為齋藤鎮實之妹・宋雲院、妻為筑紫廣門之女.加禰姬;幼名千若丸,通稱彌七郎、少輔太郎,受大友義統偏諱「統」字,初名高橋統增,號道伯,後改姓立花,名為立花直次。 統增於成長過程同父兄一般,繼承其寡默的個性,並逐漸成為兄長信賴的親族。其兄高橋統虎(立花宗茂)自從天正九年(1581年)成為立花道雪的養子後,統增成為高橋氏的繼承人,但此後卻迎來巔簸的前半生。 天正十三年(1585年)9月13日,筑紫廣門趁著立花道雪於筑後遠征新死之際出兵奪下高橋紹運留以統增鎮守的寶滿城,他於入夜後先以千手喜雲率3百人以和尚之姿入侵寶滿山,俘虜當地僧人問路後並於城中放火,然後再派家臣島田武藏於和久堂城、村山近江守於柴田城出陣,14歲的統增此時和母親宋雲院躲入城邊的神樂堂中,高橋家臣伊藤源右衛門和花田加右衛門此時出擊抵抗,遭到猛烈的攻擊而退卻。最後高橋軍在家老屋山種速從岩屋城來的援軍奮戰下護送宋雲院和統增至岩屋城,而寶滿城則被廣門攻下。 此時豐臣秀吉在本能寺事變後迅速提高地位成為關白,大友宗麟見自家衰落而向秀吉臣服並希望能援救被島津家攻擊的自家。筑紫廣門此時風聞秀吉的九州征伐計畫,遂決定脫離長年盟友秋月家而早一步離反島津家,並想以紹運之子統增娶廣門之女的方式和紹運談和,因為紹運之妻和廣門之妻是姊妹,兩家皆由衷希望同盟,紹運便以歸還寶滿城以及交換雙方家老、中老之子為人質答應這項和議,而紹運會答應的原因,無非不是因為多了一道防衛島津家的戰線。天正十四年(1586年)2月,統增和廣門之女.加禰姬(龍子)終於因此結婚。(但有一說在九州征伐後,因筑紫與高橋兩家已無利害關係而離婚) 同年7月,在長年與高橋家敵對的秋月種實數度請求下,島津家無視豐臣秀吉的停戰命令繼續逐漸侵攻北九州,6日,筑紫廣門在幾度抗戰下不敵降服而被島津家幽禁,此時面對著島津5萬兵力的高橋家不免發生騷動。 此時紹運為對抗島津軍而將主力聚集於岩屋城,寶滿城則留下統增夫婦和早先留至此城的筑紫家臣約6百人,筑紫家臣聽聞家主廣門成為俘虜,計畫著想獻出寶滿城來交換廣門安全的行動,紹運的與力吉野源內查知後快馬回報紹運,紹運對此以家臣北原種興(進士兵衛)和陣野九郎兵衛、中島采女等24人和3百兵力前往監視寶滿城,才令不穩的情勢控制下來。 然而島津軍逼近之時又令筑紫家臣緊張起來,紹運因此更加擔憂生亂,派遣伊藤源右衛門、伊藤外記、三原右馬助、杉山山城、今村五郎兵衛、有馬伊賀數十名武士和警護兵2百人打算迎統增暫時進岩屋城,此時筑紫家臣深怕失去保存家運條件的統增夫妻,因而將統增夫妻監禁,此時伊藤源右衛門也為了這延續高橋家重要的繼承人而率兵突入城中,壓制筑紫四郎右衛門、筑紫良甫、帆足善右衛門等筑紫家臣,將統增夫妻無事救出帶回岩屋城。 之後紹運又令統增和家臣60餘人以及2千士兵留守寶滿城,與763名烈士抵抗島津五萬大軍半個月並給予極大損害後壯烈玉碎全員身亡。 7月28日,島津軍逼近寶滿城,首先都是開始勸告降服,高橋家臣和筑紫家臣對此議論,此時北原種興開口說:「紹運公以下,在岩屋城的夥伴們都為義戰死,如今我們怎能苟活,應當死戰才是我等願望!」 但是伊藤源右衛門又說:「往昔,源賴朝公由蛭島急速竄起滅了平家。此度也將不是統增公的末路,定會有天運再來之時,我等殘存之人應當陪同統增公支持到那時候!」 之後源右衛門對著島津家的使者說:「如能答應讓統增公夫婦以及紹運公夫人安全抵達立花山城的和議的話,我方才將開城,如果不答應,我等將與之死戰!」 島津軍雖然答應,卻在8月6日包圍前往立花山城的統增一行人,將其送到天拜山武藏村的帆足彈正屋敷中軟禁,源右衛門對此憤慨的說:「在弓矢面前給予空噓的承諾,這就是島津家的習慣嗎!?」不禁留下悔恨的眼淚。 高橋家臣對此屈辱之事憤懣不滿,就在一行人被押送到武藏村之時,有一隻雉雞飛起橫越過路,今村五郎兵衛見狀瞬間拔起四尺六寸的大刀將其一刀兩斷,島津將士見此神速的刀法無不啞然,今村完全表達不滿的氣概。 8月11日,統增等人又被轉送至肥後吉松町遭受嚴謹的監視,之後跟隨撤退的島津軍被送到薩摩幽禁。 天正十五年(1587年),統增之兄立花宗茂因為去年擊退島津軍守住立花山城並攻下高鳥居城且奪回岩屋寶滿二城而受到豐臣秀吉讚賞。於4月,宗茂派家臣薦野增時和十時連貞深入島津家領地的薩摩祁答院救出統增夫妻。 終於,島津家因為豐臣秀吉的九州征伐而降服,秀吉對這期間奮戰有功的立花宗茂給予筑後柳川13萬2千石的俸祿,並且感念紹運之死也給統增1萬8千石於筑後三池的領地同樣獨立為大名。此時秀吉對統增說道:「經歷很多辛苦危難對吧?因你父紹運所立下的忠功實在令人讚嘆,此度給予你三池的領地,希望今後能和你兄宗茂一同效忠立功。」 果然不久之後,九州肥後因為新領主佐佐成政的失政而爆發肥後一揆動亂,此時統增隨宗茂一同出戰鎮壓,脫去前年的屈辱一轉而為一名出色的勇將,一起創下一日連戰13場並攻破七個敵寨的戰績,這時的宗茂和統增,就有如當年立花道雪和高橋紹運以「奇正戰法」聯合於戰陣中,繼承其遺風,並且統增將兄長宗茂視為老師一般的存在,對其極為尊敬。 文祿元年(1592年)統增和宗茂被列為征朝鮮部隊第六軍配屬於小早川隆景的軍陣中,轉戰於朝鮮全羅道。約這時統增隨兄長一同改名而改稱宗一,幾年後又改名重種。不久明朝軍隊來援朝鮮,於平壤擊敗小西行長,當時的統增位於朝鮮京城,聽聞位於平壤南方鎮守牛峰前線的宗茂等日軍將領被敵軍俘虜,果敢的率軍前往救援,宗茂對統增此舉大為欣喜,兩軍合兵三千與退卻的小西行長聯絡,得知明軍追擊在後,宗茂原想快速撤退京城,此時統增卻說:「兄上,就這麼退卻好嗎?難道不和敵人交手一戰嗎?」宗茂聽後評估情勢認為可行,便和統增將軍隊分為五隊潛伏,奇襲明軍7~8千的追兵使之暫時停止追擊,是為龍泉之戰。 之後統增作為京城巡邏隊又遭遇明軍奮戰有功,更於碧蹄館之戰和宗茂作為先鋒衝殺於明軍陣中,又轉戰於晉州城驅散明軍於星州的援軍,慶長三年(1598年)也於露梁津海戰隨同宗茂等日軍奮戰,綜觀以上的戰歷,統增時常如影隨形的在宗茂身旁奮戰,如同影子一般的存在。 朝鮮戰役結束後,因為和宗茂一同於關原時期加入西軍而遭受改易,一時暫住肥後加藤清正的領地八代一處,並入道取名道白;不久移住京都北山,接著因為宗茂受到德川秀忠的賞識而被封於陸奧棚倉之後,統增也被給予常陸國筑波郡柿岡5千石而成為德川家旗本武士。 這段期間也入門擔任將軍家劍術指南役的柳生宗矩門下學習新陰流劍術,開創「新陰治源流」。 慶長十七年(1612年)7月7日,統增的四男忠茂出生,過繼給沒有子嗣的兄長宗茂,往後成為柳川立花藩第二代當主。 慶長十八年(1613年)1月29日,因為本多正信的一席話:「貴公是有名的立花宗茂殿下之弟,考不考慮將姓氏改為立花呢?」此後統增改稱為「立花直次」。 慶長十九年(1614年)直次參與大阪冬以及翌年的大阪夏之戰,作為旗本武士和宗茂一同防護德川秀忠。 元和三年(1617年)7月19日,於江戶下谷屋敷因病逝去,年46歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%B5%B1%E5%A2%9E
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