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松浦隆信 Matsuura Takanobu(1529年-1599年) 松浦氏の分家の1つである平戸松浦氏の生まれで、松浦党には総領はおらず、上松浦党の波多氏と下松浦党の松浦氏(平戸松浦氏および佐世保の相神浦松浦氏)が争ってきた。父の興信の代に、大内氏との強い結びつきにより平戸松浦氏の優位が固まりつつあったが、天文10年(1541年)8月13日に興信は突然病で死去した。この時、源三郎はまだ13歳の元服前で実務に当たることができなかった。しばらくは家中の混乱もあったが、籠手田安昌や波多盛、波多武などに支えられ、1543年になってようやく家督を継いだ。大内義隆から偏諱を賜り、隆信と名乗り、肥前守に任じられた。 隆信は、普門寺の前住老甫禅師に師事し、新当流の志多信定や藤原宗卜に兵法を、伊勢貞順に礼法を学んだ。横笛の名手で、鷹狩を好んだ。 平戸城下には明の商人や(中国商人を庇護する)中国人の海賊(後期倭寇)が多く住んでいたが、勝尾山に邸宅を構えた海賊王に「五峯」を称した王直がおり、伝承ではこの人物がポルトガル船を水先案内して初めて平戸に来航させたと言われる。隆信はこれを主君筋にあたる大友義鎮に報告して互市の許可を得て、ポルトガル貿易(南蛮貿易)が開始された。 さらに天文19年(1550年)、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが布教を断られた鹿児島から平戸にやってきた。隆信は宣教師の同地での布教活動を許したので、1553~1561年までの間、ポルトガル船は毎年来航するようになり、平戸は中心交易地として栄えた。隆信は鉄砲や大砲などの武器を率先して購入した。しかし宣教師を厚遇したが、隆信(=熱心な曹洞宗宗徒)自身はキリスト教には馴染まず、信者の拡大は地域に軋轢を生んだ。永禄元年(1558年)、隆信は宣教師ガスパル・ヴィレラに平戸からの退去を命じ、これに乗じた仏教徒が教会を焼討する事件が起こった。さらに永禄4年には商取引の揉め事でポルトガル人が殺傷される事件(宮ノ前事件)もあり、ポルトガル船は大村純忠の支配する横瀬浦に移ってしまった。しかし横瀬浦でも焼討があったため、永禄7年(1564年)に隆信が請うてポルトガル船の再入港を促し、教会も再建されたが、翌年にはルイス・フロイスらの周旋で自らキリシタン大名となった大村純忠の領土の福田浦にポルトガル船は去ってしまい、長崎港が本格開港されるに及んで平戸のポルトガル貿易は終焉した。 一方で、貿易による巨万の富を築き上げた隆信は、領内でも鉄砲の製造を命じ、火薬の備蓄や、鉄砲足軽の訓練に勤しんで、軍備を拡大した。その力を背景にして(衰退傾向にあった)倭寇の拠点3ヵ所の制圧し、北松浦半島を制圧した。 隆信は、有馬氏や龍造寺氏などの近隣の大名と事を構え、度々いくさをしながら、志佐氏や波多氏の一部を攻撃し、婚姻や血族を養子として入れることでを松浦党の一族をまとめようとしていた。 永禄6年(1563年)、後藤貴明は龍造寺隆信の威に屈したため、武雄後藤氏の養子に送った次男後藤惟明は、龍造寺隆信の子の後藤家信により後藤家を追われたが、松浦隆信は飯盛城を攻めて、長年対立してきた相神浦松浦家の松浦親(宗金)をついに屈服させた。和議の結果、相神浦松浦家にすでに養子として入っていた有馬晴純の子の松浦盛が他家(有田氏)に追いやり、新たに平戸松浦家より隆信の子の九郎を養子として親(養父と同名、松浦丹後守九郎親)とし、宗金を隠居させたことにより、相神浦松浦家の平戸松浦家への従属を確かなものとした。 永禄11年(1568年)、嫡男の鎮信に家督を譲って隠居したが、実権はなおも握り続けたと言われる。元亀2年(1571年)、壱岐を支配下に置いた。 天正9年(1581)直谷城城主の志佐純正の弟志佐純元(純意)に娘を嫁がせ、純正の子純量を攻め滅ぼして、志佐氏を傘下に収めた。 大友家の退潮により、龍造寺隆信の勢いは肥前のみならず北九州を席捲するほどであったが、1584年に隆信が薩摩島津氏の支援を受けた有馬氏に敗れ戦死したため(沖田畷の戦い)、松浦家も独立を保つことができた。 天正15年(1587年)には豊臣秀吉の九州平定に参陣して所領安堵を許された。隆信は中国の文物、名器を所有していたので、翌年、初めて京に上った際には秀吉に茶讌を所望されて、千利休と3人で、それぞれの茶器を披露した。 文禄・慶長の役には当主たる息子が出征して隆信は出陣しなかったが、文禄2年(1594年)、壱岐や五島列島と朝鮮間の兵糧米の輸送の監督を秀吉に依頼され、これを果たしたので賞された。 慶長元年(1597年)、長門国大寧寺に僧安叟珠養に道号を付けてもらい、「印山」と号す。慶長4年、平戸勝尾山の自邸で没した。享年72。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E9%9A%86%E4%BF%A1_(%E9%81%93%E5%8F%AF)
西郷純堯 Saigo Sumitaka(生年不詳-没年不詳) 西郷氏は菊池氏の一族とされ、戦国時代の頃には、有馬氏配下として肥前の伊佐早荘(現在の諫早市及び北高来郡)に勢力を持ち、有馬氏の東肥前に対する前線を守っていた。有馬氏が衰退し龍造寺氏の勢力が増すと有馬氏から離反し、龍造寺氏へ従うようになる。 永禄5年(1562年)、純堯は有馬義貞に従い、龍造寺隆信を討つため肥前佐嘉城攻略を目指す大友宗麟方として行動する。義貞は軍を二手に分け、一方を大村純忠に率いらせ須古へ、もう一方を純堯に指揮させ多久から小城に進出させた。小城を突こうと丹坂口に向かった純堯は千葉胤連勢と交戦したが、隆信からの援軍もあり激戦となった。有馬勢は数の上では優勢であったが次第に押され始め、ついには潰走し大敗を喫した。純堯は戦線を離脱し、多久を経て藤津へ逃れようとしたが、武雄の後藤貴明が龍造寺方に転じたため、有田へ出て平戸の松浦隆信の支援によって居城へ帰還することができた。 翌6年(1563年)、純堯は有馬氏から離反し後藤貴明、松浦隆信と盟約を結び、大村純忠を攻めようとした。これに対して有馬義貞は純堯を討つため、埋津まで攻め込んだ。純堯は多くの犠牲を払いながら有馬勢を撃退した。以後、純堯は有馬氏との抗争を繰り返すこととなる。元亀3年(1572年)7月、大村純忠の三城城を攻める後藤貴明の要請に応じて出兵する(三城七騎籠)。天正2年(1574年)には、大村領の萱瀬へ攻め込み、天正8年(1580年)には弟である深堀純賢と共に鶴城を攻めるが、大村勢の反撃を受け撤退する。 なお、『歴代鎮西要略』によると、天正5年(1577年)、6月下旬、龍造寺隆信が伊佐早侵攻のため出陣してくることを知った純堯は、有馬氏に救援を求めたが、神代氏や島原氏、安富氏が龍造寺方に付いたため、有馬氏は純堯に援軍を出すことを断念した。純堯は自軍のみで龍造寺勢を迎撃することとなったが、龍造寺勢に宇木城を初め多くの支城を攻略される中、兄より先に龍造寺氏に従属していた深堀純賢が調停に入り純堯の降伏が許された。降伏によって、純堯の嫡男・純尚は隆信から偏諱を受け信尚と改めた。純堯は隠居し、ほどなく死去したとされる。これ以後、西郷氏は有馬氏から完全に離反した。 純堯は、有馬義貞や同盟関係にあった大村純忠がキリシタン大名となると離反し、後藤貴明や松浦氏と同盟を結び大村・長崎へ侵攻した。元亀3年(1572年)、深堀純賢と図り、純堯は大村純忠を、純賢は長崎氏を攻撃した。純賢勢は長崎氏領の館や教会を焼きはらったが、武士や百姓の激しい抵抗を受け撤兵した。一方、純堯勢も大村純忠が戦死したとの噂が立つほどに攻め立てるも、純忠の反撃を受け撤退している。 ルイス・フロイスの『日本史』によると、フロイスに「伊佐早殿」と称される純堯は「有馬義貞を家来同然に扱い」、キリスト教へ入信しようとした義貞は純堯を憚り入信を逡巡するほどであった。そのためフロイスは、純堯について「詭計、策略、欺瞞の点では、下の殿たちの第一人者であった」と、厳しい評価を下している。 熱心な仏教徒である純堯は、キリシタンとなった大村純忠を予てから苦々しく思っていた。大村攻めが思うようにいかないことに苛立った純堯は、計略を用いて純忠を殺害し、大村領を併呑しようとした。 天正元年(1573年)、純堯は純忠の実兄である有馬義貞に、純忠を誘殺するため、小浜へ呼び帰途に諌早城に立ち寄らせるよう要請した。謀を知った義貞は純堯の謀略を純忠へ知らせた。義貞は、純堯の純忠に対する憎悪の主な原因はキリスト教へ入信したことであり、棄教すれば純堯との敵対関係も解消されると忠告した。これに対して純忠は、領国や家臣及び、生命を失っても棄教はしないと返答した。純堯は、義貞を訪ねる純忠が城下を通る際、自分へ訪問を行うものと確信して純忠が来るのを待っていたが、純堯の謀略を聞いていた純忠は、急な病のため此度は訪問できないと伝え、城下を馬で疾駆し、純堯の謀略から逃れた。純堯はその後も、純賢と共に幾度も大村・長崎氏へ攻撃を加えたが、その都度、純忠や長崎純景によって退けられた。 天正8年(1580年)も、大村・長崎勢に西郷勢は敗れた。この際、深堀純賢勢400は森崎に砦を構え迎撃したが、純景が自ら300の兵を指揮し桜馬場城から森崎に向かい、純忠の援軍も加わったため純賢の兵は破られた。以後、森崎の小山は勝山と呼ばれるようになり、これが、今日の長崎市勝山町の起源となっている。   出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E7%B4%94%E5%A0%AF
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