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以下數據為「信長の野望.創造 戦国立志伝」遊戲版本Ver. 1.0.2.0的「大坂の陣」劇本 戰國立志傳較之前新增人物230名,位置在平田宗茂之後,寿桂尼之前: 南部重直、伊達忠宗、蒲生忠郷、岩城吉隆、上杉定勝、徳川頼房、徳川光圀、秋田俊季、浅野長重、新庄直定、松平康長、小笠原信之、小笠原政信、土方雄重、松平忠良、本多政朝、内藤政長、松平忠昌、奥平家昌、奥平忠昌、成田氏宗、日根野吉明、本多忠純、稲垣重綱、水野忠清、榊原忠次、秋元長朝、牧野忠成、酒井忠利、高力忠房、伊奈忠政、西尾忠永、鳥居成次、真田信吉、真田信政
井伊直孝 Ii Naotaka(1590年-1659年) 井伊直政之子、母為印具氏之女、正室為蜂須賀家政之女.阿喜姬、側室為春光院、遠藤氏娘、石井氏娘;幼名弁之介、通稱掃部頭、戒名昌院殿豪德天英大居士。 與異母兄井伊直勝在同一年於駿河中里(靜岡縣燒津)出生。因為目光銳利,還有與父親相似的剛直魯莽、沉默寡言的性格而被人畏懼,人稱「夜叉掃部」。生母伊具氏(正確應為印具氏)有一說為井伊直政正室唐梅院(德川家康養女)的侍女,一直回避正室的直政直到慶長八年(1601年)才見到直孝。幼年被寄養在井伊家的領地上野安中的北野寺。 父親直政死後家督由兄長井伊直勝繼承,這時直孝也移住至近江佐和山城。但是直勝年紀太小(也有一說為體弱多病)無法統率家臣,這個憂慮經由德川家康的裁定後,自井伊谷以來的舊家臣為直勝統領,並繼承上野安中的領地;而武田氏的遺臣等由直孝統領,繼承井伊家的領地彥根。 (*註:德川家康裁定這段是在1614年大坂冬之陣之後的事,會被誤會發生時間在下段文章之前。) 直政死後直孝開始在江戶做為近習侍奉德川秀忠,在秀忠就任第二代征夷大將軍後慶長十年(1605年)4月26日任從五位下掃部助。慶長十三年(1608年)任書院番頭,被授與上野刈宿5千石領地,接著在慶長十五年(1610年)受封上野白井藩1萬石,同時就任大番頭。慶長十八年(1613年)任伏見城番役。 *註:依白井藩的資料,直孝任藩主時期為1602-1616年,和1610年有出入。 慶長十九年(1614年)大坂冬之陣被德川家康指名為井伊家的大將。和松平忠直擔任進攻大坂城八丁目口的任務,受到同樣擁有赤備的真田信繁(真田幸村)的挑釁而展開突擊,卻中了敵人的計策遭到信繁及木村重成軍隊的射擊,造成500人的重大死亡(真田丸之戰)。雖然在突擊後違反軍令撤退,但家康以「直勝激勵了友軍」為由包庇,躲過了處罰。 慶長二十年(1615年)正式繼任井伊家家督,受領18萬石中的彥根藩15萬石(井伊直勝則分到安中藩3萬石)。在大坂夏之陣中和藤堂高虎共同擔任先鋒,擊破木村重成及長宗我部盛親(八尾.若江之戰),一雪冬之陣的恥辱。後接受德川秀忠的命令,包圍在大坂城山里郭拒守不出的淀殿和豐臣秀賴母子,朝其發砲脅迫自殺,因勇猛的表現被稱為「井伊的赤牛」。戰後,井伊家加封5萬石,直孝亦昇官至從四位下侍從。 直孝在大坂之陣勇猛的表現也被畫在大坂冬之陣屏風、大坂夏之陣屏風、大坂夏之陣圖(若江合戰圖)等。 寬永九年(1632年)德川秀忠在臨終之際將直孝及松平忠明叫到枕邊,任命2人為3代將軍德川家光之後見役(大政參與),這也是大老這個職位首次出現。之後,在家光極大的信賴下獲得譜代大名中最高的30萬石領地(最終為35萬石)。也擔任德川家綱元服禮戴冠,以及參拜神明後迎接家綱回井伊家邸的任務。而祭祀德川家康的法會的任務由井伊直勝代替將軍擔任之後,一直由井伊家所負責。在70歲去世前也擔任朝鮮通信使的接待及幕閣筆頭等職務,領導著幕府政治。 當時,被清朝滅亡的南明的鄭芝龍向幕府請求出兵,德川家光和德川賴宣等主張將大量的浪人武士送往戰場,但直孝以豐臣秀吉出兵朝鮮為例堅決反對下而否決。之後,鄭芝龍子.鄭成功雖然也向幕府請求出兵,同樣被擱置不理。 長男直滋自小在江戶受到德川秀忠及德川家光的寵愛,因此養成傲慢的性格,經常與直孝對立,爭吵也非常多。在直孝死前一年的萬治元年(1658年)直滋被廢嫡後在百濟寺出家,後任世子的弟弟直繩,卻突然死去,家中產生一片混亂。萬治二年(1659年)直孝去世,由小兒子直澄繼承家督。在直孝的指定下,直澄的下一任要由直繩的嫡男直興繼承。另外,在死前禁止家臣殉死,沒後六年,幕府也下令禁止殉死。 作者 秋霜烈日 譯文出處 https://sepkalily41.blogspot.com/2018/07/blog-post.html 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E5%AD%9D
八木豊信、山田重直、行松正盛、尼子清久、尼子久幸、赤穴久清、赤穴光清、牛尾幸清、亀井秀綱、別所重棟、別所吉治、宇野政頼、赤松村秀、井上之房、栗山利安、黒田一成、後藤勝国、後藤元政、原田忠長、原田貞佐、三浦貞久、三浦貞盛、金田弘久、中村則治、牧良長、宇喜多興家、伊賀久隆、遠藤俊通
堀利重 Hori Toshishige(1581年-1638年) 慶長4年(1599年)に甥秀治から徳川氏への人質として江戸に赴き、徳川秀忠に仕えた。関ヶ原の戦いでは秀忠軍に従軍して真田昌幸の守る信濃上田城を攻めた。その後、8000石を与えられたが、慶長19年(1614年)に大久保忠隣の改易に連座して改易され、奥平家昌預かりの身となった。 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では家昌の弟・松平忠明の軍に加わり戦功を挙げた。元和8年(1622年)に罪を正式に許され、常陸新治郡内に1万石を与えられて玉取に陣屋を構え、大名に列した。そして幼少の下野宇都宮藩主・奥平忠昌の補佐を命じられる。 寛永5年(1628年)には大番頭となった。その後も書院番頭、寺社奉行などを歴任したため、寛永10年(1633年)に近江・安房・上総で4000石を加増された。 寛永15年(1638年)に出雲松江藩京極氏の改易により松江城の受け取りに向かい、その帰路の4月24日、大坂で死去した。享年58。跡を長男の利長が継いだ。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%88%A9%E9%87%8D
本多忠政 Honda Tadamasa(1575年-1631年) 本多忠勝的長子、母為阿知和右衛門之女、正室為松平信康次女・熊姬(妙高院);通稱平八郎、別名家忠。 初陣為天正十八年(1590年)的小田原征伐,攻擊武藏岩槻城而立下戰功。在慶長三年(1598年)3月敘任從五位下並稱美濃守。 慶長五年(1600年)的關原之戰中屬於德川秀忠軍進入中山道,在第2次上田合戰中亦有從軍。在慶長十四年(1609年)6月,因為父親忠勝隱居而繼任家督並成為桑名藩第2代藩主。 後來參加大阪之陣,在慶長十九年(1614年)10月11日的冬之陣中被任命為德川軍的先鋒。忠政於德川軍包圍大阪城時在北方的天神橋佈陣。冬之陣完結後,家康歸國時曾在桑名逗留。冬之陣的休戰和議締結後,在德川家填平大阪城的濠溝時,與松平忠明等人擔當填平濠溝的奉行。 慶長二十年(1615年)的夏之陣中負責京都御所的警備,之後與家康的軍勢一同南下,於5月7日與豐臣方的薄田兼相和毛利勝永等人戰鬥。與薄田軍的合戰獲得勝利,但是在與毛利軍戰鬥時敗北。在這場合戰中取得292個敵人的首級。 戰後,因為這些功績而被賞賜西國的領地,在元和三年(1617年)7月14日成為姬路城城主並獲得15萬石。在寬永三年(1626年)8月,被任命為從四位下侍從。 寬永十六年(1631年)於姬路死去,年57歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%BF%A0%E6%94%BF
松平忠明 Matsudaira Tadaaki(1583年-1644年) 奧平信昌的四子、母為德川家康長女・龜姬、養父德川家康、正室為織田信包之女、繼室為小出吉政之女、側室為三好氏;幼名鶴松丸,初名清匡,受德川秀忠偏諱「忠」字,名為忠明,別名奧平忠明,法號玄鐵,戒名天祥院心岩玄鐵大居士。 天正十六年(1588年)作為德川家康的養子,賜予家康的「松平」姓氏。 文祿元年(1592年)元服,同年其兄松平家治去世,又其繼承上野長根7000石。慶長四年(1599年)3月11日、德川秀忠賜予其名字中的「忠」字,遂改名為忠明。慶長五年(1600年)他與父親一起作為德川軍參加關原之戰。 慶長七年(1602年)9月、加封三河作手10000石,慶長十五年(1610年)7月27日移封伊勢龜山藩5萬石。 慶長十九年(1614年)大阪冬之陣,由於松平攝津守忠政病逝,其父信昌讓忠明帶著沒有作戰經驗的士兵上陣。忠明有效的鼓舞的士氣,並取得相當好的戰果,慶長二十年(1615年)忠明經歷大阪夏之陣,道明寺之戰,譽田之戰。由於在大阪夏之陣的戰功,家康給予移封攝津大阪藩(10萬石)的獎賞。 戰後重建時,因之前戰爭導致的運河堵塞,忠明對其問題對幕府進行遊說,得到幕府的稱讚,並於元和五年(1619年)移封大和郡山藩12萬石,寬永三年(1626年)7月,與第3代將軍.德川家光上洛、8月19日得到從四位下.侍從的官職。 寬永十六年(1639年)3月3日、加封播磨姬路藩18萬石,晚年與井伊直孝同為幕府重臣,對幕府起重要作用。 寬永二十一年(1644年)3月25日,於江戶藩邸內去世,年六十二歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E6%98%8E
遠山友政 Tooyama Tomomasa(1556年-1620年) 遠山友忠の三男(嫡男)。母は織田信長の姪で、通称は初めは三郎兵衛と言ったが、後に父と同じ久兵衛に改めた。 弘治2年(1556年)、飯羽間城で生まれる。元亀3年(1573年)、父に従って明照城に移り、祖父友勝の死で、同じく苗木城に移った。 天正2年(1574年)、武田勝頼が東美濃に侵攻した際に、長兄友信は武田方に内応し、次兄友重は明照城の落城で討ち死にした。このため友政が家督を継ぐことになった。 天正11年(1583年)、東美濃の覇権を巡って森長可と争い、その降誘を蹴って戦って敗れた。友政は父や家臣をつれて、浜松の徳川家康を頼って落ち延び、菅沼定利に属した。 天正18年(1590年)の小田原征伐後、徳川氏が関東転封となると、榊原康政(あるいは井伊直政)に属して、その領地である上野国館林に移住した。 慶長5年(1600年)、上杉景勝が命令に従わないとして家康が会津征伐を始めると、石田三成が決起して関ヶ原の役が始まった。この時、東美濃では岩村城主の田丸直昌、苗木城主の河尻秀長、犬地城主の遠藤胤直、また犬山城主で木曽代官であった石川貞清など尽く西軍に属した。徳川秀忠を大将とする東軍が中山道に進んで来ると知ると、彼らはこれを封鎖しようとしたので、家康は木曾義利の家臣山村良勝・千村良重を木曽へ、友政を苗木へ、(明知遠山氏の)利景を明知へ、小里光親を小里へ派遣するなどして、故郷に戻って兵を集めて城を攻略するように命じた。河尻秀長は伏見城の戦い等に参加して苗木城には不在で、友政は勝手知ったる旧領に戻ると中津川・駒場に放火。領民を諭して味方につけて城に攻めかけて、混乱のうちに城を奪還して入城した。各々も各城を落として田丸勢を岩村城に包囲したところで、関ヶ原は勝敗が決し、田丸勢も投降した。 結局は秀忠軍は遅参となったが、東美濃衆のこれらの働きは家康からも賞賛され、友政は河尻が厳封された1万石をそのまま与えられて、苗木城と恵那郡・加茂郡、1万500石の知行を回復した。 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では伊勢国桑名城を守備し、翌年の大坂夏の陣では松平忠明の隊に属して、首級2つの武功を挙げた。 元和5年(1620年)、苗木城で死去した。享年65。法名は雲林寺殿心月宗伝居士。家督は嫡男の秀友が継いだ。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E5%B1%B1%E5%8F%8B%E6%94%BF
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