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十時連貞 Totoki Tsuresada(1556年-1644年) 十時惟次的次子、妻為城戶知正之女;受戶次鑑連(立花道雪)偏諱「連」字,名為連貞,別名孫右衛門、法號雪齋。 十時氏為九州豐後國之中的國人眾,仕於其中勢力較大的戶次氏,並且依附統領豐後的大友家。 父親惟次所屬的十時氏跟隨戶次鑑連(立花道雪)為大友家南征北討,惟次更平定築前鷹取城主毛利鎮信的叛亂而獲封鷹取城,然而在永祿十二年(1569年)年父親惟次、長兄惟則在跟隨大友軍道雪麾下於多多良濱之地和毛利軍對戰之時戰死。 喪失父兄,連貞繼承攝津守之名,漸漸展露頭角,立花道雪奉命轉封築前立花山城後,連貞作為十時氏的一員也跟隨前往。 天正六年(1578年)大友家和島津家之間爆發耳川合戰,大友家大敗後實力和威信漸失,原本臣服於大友家的築前國人眾如秋月氏、宗像氏、原田氏、草野氏等等陸續揭起叛旗,立花道雪和高橋紹運因身處為築前重臣而擔起平定的責任,而身為立花家臣的連貞和由布惟信、安東家忠、高野大膳則在這期間的平定作戰中因功勳卓著和武勇過人而被合稱「立花四天王」比起其他三位,當時的連貞年僅23歲便得此殊榮。 而傳說連貞之所以會成為四天王,是在一場對抗秋月家的合戰中,施展以長槍串刺敵人,之後再往後盪至前方甩出的槍術,並且手持一把長三-四尺,重又寬的大長刀還能奮迅殺敵;以此般武勇而被合稱為四天王後,連貞也逐漸成為家中重臣。 晚年的立花道雪因無子嗣,因此迎來大友家重臣高橋紹運之子.千熊丸(立花宗茂)為養子並娶親生女立花誾千代為妻以繼承立花家。 連貞此時成為立花宗茂的相伴眾,宗茂有事也都找連貞商量。並且連貞也擔當和其他大友家重臣的聯絡工作,如島津家進攻宗茂之父高橋紹運的岩屋城之時,便是由連貞傳達宗茂的訊息。因此時的能力在日後宗茂也很信賴連貞的處事,直到宗茂晚年逝去前夕也是連貞從旁陪伴。 連貞是被立花道雪評為『沉勇之餘具備剛直氣概』的武將,在道雪築後遠征期間陪伴少主立花宗茂守在立花山城,期間秋月種實率8千大軍來攻,宗茂命令重臣如連貞、薦野增時、米多比鎮久等實行夜襲,連貞自率一隊作為伏兵潛藏在秋月軍陣的側翼旁的草叢內,待先行誘敵的鎮久繞回來後一同實行夾擊攻勢,配合主軍宗茂的火計成功的擊退秋月軍。 之後在九州征伐時期,連貞也作為大將隨立花宗茂轉戰高鳥居城、岩屋城、寶滿城,並且在之後機敏的救回被島津軍捕獲並幽閉於薩摩的宗茂之弟高橋統增及其妻加禰姬。 立花家則因功獲封築後柳川13萬2千石成為大名,連貞也因功獲領山門郡一部領地,擔任檢使役維護治安。 隨後歷經鎮壓肥後一揆、成為柳川城黑門之戰的討手一名以及兩次朝鮮戰役,連貞因功加增至1千5百石俸祿,不久關原之戰爆發,連貞作為立花軍的大將參戰,並在大津城攻略戰中,對付先前已被立花宗茂預知的城方夜襲軍勢,拿著三尺重又寬的愛刀單挑敵將並捕獲丸毛萬五郎,更擊倒箕浦備後等敵將,和宗茂無損一兵一卒打退夜襲的敵軍。 立花家因為西軍主力戰敗無力回天而遭到改易處置,面對成為浪人的立花宗茂,連貞和家中重臣如由布惟信等一同陪伴宗茂流浪。 大多數陪伴立花宗茂流浪的家臣為生計,多半扮成虛無僧討乞,連貞也不例外,然而連貞因為尺八吹的旋律甚好,受到許多人的喜愛因此收入也最多。 某日連貞於江戶討乞之時,卻被三名野武士纏上且起衝突,一名野武士先拿刀向連貞劈砍,連貞則瞬間利用尺八抵擋刀劍將刀給搶過來,又轉身一刀斬殺對方三人,就在看熱鬧的村人拍手叫好之時,町奉行的武士卻把連貞當成無賴漢給抓去審問,然而町奉行的井伊直孝得知連貞為立花家臣後,連忙告知將軍德川秀忠並贈送鎧甲刀劍和金錢五十兩給予連貞,也因為此事,平時早已對立花宗茂佩服不已的德川秀忠召喚宗茂上洛,得到賞識之後受領奧州棚倉一萬石回復大名身分,連貞則和由布惟信擔任赤館城代,替宗茂處理領地各項政務。 大阪戰役前夕,豐臣秀賴開始招募各地浪人進城以抵抗德川家,這期間連貞雖然身為立花家臣卻也受到豐臣家的勸誘,即使豐臣家如何提出優渥的俸祿,連貞只以『忠臣不仕二主』為由拒絕。 隨後連貞也擔任德川秀忠的旗本武將和立花宗茂參加大阪冬、夏戰役,戰後立花家則因功終於元和六年(1620年)得以回歸柳川一地,了了立花家上下的心願。 連貞的十時一族於回歸柳川後受領1千石並成為立花家最受重用的一派家臣,連貞和其子十時惟昌(十時三彌)在這段期間皆擔當許多重要的國政工作,不久連貞年老隱居,入道號雪齋。 寬永十四年(1637年),爆發島原之亂,立花家因為九州大名也隨之參加鎮壓,當時因為立花宗茂待在江戶且為隱居之身而由立花家二代立花忠茂率軍出征,然而敵方鎮守原城並作出頑強抵抗,立花軍以及九州其他大名的幕府軍皆久攻不下並且損失慘重,宗茂在連貞的書信中才得知81歲高齡的連貞因為擔心忠茂的初陣也有伴隨參戰,並馬上回信以率直的話語感謝連貞的作為。 不久,立花宗茂受命輔佐幕府軍總大將松平信綱,宗茂到達後給予信綱戰略規劃,並教導忠茂戰陣配置,終於令戰事好轉,於2月27日開始幕府軍猛攻,2月28日早朝連貞伴隨著立花宗茂,兩位老將士身先卒,絲毫不減當年之勇,奮勇殺進城中直入本丸,成功的平定亂事,當時參陣的大名以及武士一方面稱讚著立花宗茂有如武神再臨,一方面也驚嘆那十時連貞高齡但勇,名聲響遍全國! 寬永十九年(1643年)在江戶陪立花宗茂走完最後一程;寬永二十一年(1644年)9月14日,在柳川安享天年,年八十八歲,葬於柳川西方寺。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%99%82%E9%80%A3%E8%B2%9E
山崎家治 Yamazaki Ieharu(1594年-1648年) 山崎家盛的長子,正室為池田長政之女(池田長吉養女),繼室為木下勝俊之女.智光院。山崎俊家之父。歷任因幡若櫻藩藩主、備中成羽藩主、肥後富岡藩主、讚岐丸龜藩主(注一)。 生於文祿三年(1594年),加治並非家盛正室天球院(池田恆興之女)所生,而是側室之子。 慶長十九年(1614年)10月,其父死後繼承其位。同年末大阪冬之陣於中之島(注二)佈陣,其時家治之弟久家戰死。慶長二十年(1615年)大阪夏之陣屬池田利隆隊參加作戰,斬獲首級六個,立有功勞。 元和三年(1617年),憑藉大阪之陣的戰功由因幡若櫻3萬石加增轉封備中成羽3萬5,000石。成羽時代致力於連島的新田開發事業。另外在元和五年(1619年)福島正則改易時駐守備後國三原城。家治是築城名手,在元和六年(1620年)參與大阪城築城工事,參與了天守、本丸、二之丸的石垣修建工作,大展拳腳。築城工事中產生的廢石被用於填築中之島的基礎。因而山崎家的大阪屋敷設在中之島上。 家治頗受松平信綱等幕閣的信任,島原之亂後的寬永十六年(1639年),加贈轉封肥後天草(富岡)4萬石。戰亂後的天草領內因戰亂而荒廢的土地佔到了二三成,家治重建了富岡城,召回流落各地的領民,開始著手新田開發等復興事業。 因此功績於寬永十八年(1641年)9月,大幅加增轉封至讚岐丸龜5萬3,000石(丸龜藩),治理讚岐西半部分。剛進入領國時住在寺院裡,寬永二十年(1642年)將已經被廢城的丸龜城進行重建的計劃得到許可,自幕府處獲賜白銀300貫,參勤交代也被免除。家治利用自己的築城經驗開始丸龜城的修築的同時,還進行了城下町的經營和建設,構築了今日丸龜的基礎。然而家治對丸龜城精雕細琢,在慶安元年(1648年)3月17日沒有見到城池完工就死去了,年五十五歲。丸龜城的築城工作在山崎家離開丸龜後由京極高和繼續,在萬治3年(1660年)終於完工。 注一:若櫻藩:現鳥取縣八頭郡若櫻町。成羽藩:現岡山現高梁市成羽町。富岡藩:現熊本縣苓北町富岡。丸龜藩:現香川縣丸龜市。 注二:中之島:大阪市內被堂島川與土佐堀川所狹的細長島嶼,江戶時期被用於諸藩的倉庫,現在是大阪市的中心地段,島上有大阪市政府以及大量公司總部。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=10#postid-258 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E5%AE%B6%E6%B2%BB
德川家光 Tokugawa Iemitsu(1604年-1651年) 德川秀忠的嫡長子、母為淺井長政之女.阿江(崇源院)、正室為鷹司孝子、側室為自証院、寶樹院、順性院等;幼名竹千代、初名家忠,後改為家光、諡號大猷院。 家光出生於江戶城,出生之前的慶長六年(1601年),父親秀忠和女房生下長兄長松丸(又名長丸),長松在出生九個月後夭折。所以家光出生後,既然是兒子且又為正室的阿江所生,於是享有世子的待遇,也受世子的教育。家光由於是二代將軍秀忠的嫡長子,因此祖父德川家康賜與他「竹千代」這個乳名,意思即有這個剛出生的孩子將會成為第三代將軍(家康乳名為竹千代)。 在阿江懷孕的時候,家康便命令京都所司代板倉勝重在京都公開招募奶媽。後來經由公卿三條西實條的推薦,實條的遠房親戚,明智光秀的家臣齋藤利三的女兒齋藤福(春日局)成為了家光的乳母。而九歲的松平長四郎(松平信綱)、九歲的岡部七之助(岡部永綱)、八歲的稻葉千熊丸(稻葉正勝)、六歲的水野清吉郎(水野光綱)和五歲的永井熊之助(永井直貞)也成為家光的侍童。慶長十年(1605年),家康把將軍之位交給家光的父親秀忠,自稱大御所,而家康的退位也確認幕府的世襲體制。 家光在出生後,立刻被帶離父母身旁而交由乳母撫養,所以秀忠和阿江夫婦對於兒子家光十分疏遠,再加上家光體質虛弱、說話有些結巴且外貌平庸,兩人更加不喜歡家光。慶長十一年(1606年),阿江又生下一子,此子乳名為國千代(國松丸),即是日後的駿河大納言德川忠長。阿江有鑒於兒子家光交由乳母阿福撫養而疏遠,因此在忠長出生後,阿江經過秀忠的同意,親自撫養忠長,夫婦倆也特別寵愛忠長。就因為這樣,江戶城內部分為長子家光派和次子忠長派。 很多大名也因為忠長或許會成為三代將軍,而不斷的討好秀忠夫婦以及忠長。之後,長久以來一直感覺到家光會被廢除繼承權的阿福,特別跑到駿府城向家康訴說江戶城內部的實情,和秀忠夫婦的不公平等。之後,家康出面對秀忠夫婦說了要分長幼,家光才能確保三代將軍的繼承權。一般認為,家光確認為將軍繼承人是在元和年間。 元和二年(1616年),家康決定日後輔佐家光的家臣為年寄眾酒井忠利、內藤清次和青山忠俊,並任命六十多名侍童。同年,家康去世,年七十五歲。由於家康去世,家光的元服儀式也延後了四年。元和三年(1617年),家光的住所移至西之丸。元和四年(1618年),迎接朝廷的敕使。元和六年(1620年),元服,正式改名為家光,任從二位大納言。而家光這個名字是金地院崇傳(以心崇傳)所選定的,本來家光應該取祖父家康的「家」和父親秀忠的「忠」,改名為家忠,卻因為家忠這個名字和花山院家家祖名字一樣,而選家光這個名字。 元和九年(1623年),年寄眾之中的內藤清次去世,青山忠俊因為直諫家光而遭免職,因此兩個空缺就由酒井忠世和酒井忠勝替補。同年六月,家光與父親秀忠一起上洛,在伏見城接受將軍宣下,任從二位內大臣,並且與在元和六年(1620年)入內的後水尾天皇女御,妹妹和子(東福門院)見面。 父子兩人回到江戶城後,家光正式成為三代將軍,秀忠隱居於西之丸,家光則將住所遷到本丸。秀忠也和家康一樣,被稱為大御所。將軍和大御所一起治世,稱作二元政治。九月,家光的婚約者,關白鷹司信房的女兒鷹司孝子進入江戶城,十二月時,兩人正式成婚。當時家光十九歲,孝子二十一歲。 寬永三年(1626年),秀忠和家光領伊達政宗等多位大名上洛,在二條城拜見後水尾天皇和中宮和子,並升為左大臣。 家光和同父同母的長弟忠長並不親,也不信任他,反而比較信任異母弟正之,母親崇源院去世後,忠長出現亂性,父親秀忠曾請求他饒過忠長,但他並沒有採納,在秀忠死後隔年,忠長切腹自殺。 寬永八年(1632年)時秀忠去世,解除了二元政治,開始由將軍親自執政的政治。確立了老中、若年寄、奉行、大目付的制度,並將幕府的現職將軍定為最高權力者。 寬永十二年(1635年),修訂武士諸法度,對諸侯施加參覲交代為義務的規定。壟斷長崎貿易的利益,強化天主教壓制,寬永十四年(1637年)的島原之亂,四年後完成了鎖國政策。因為這些事情,德川幕府的一連串的強權政策被認為是「武斷政治」。 在慶安年間,家光頒布了「慶安御觸書」。「慶安御觸書」的內容是對農民的規定。例如不准抽煙,喝茶、衣服要用木棉製作、生活儉樸、要交規定的年貢等等的規定,確保了江戶幕府的財政收入來源和對農民的控制。 慶安四年(1651年),逝世於江戶,年四十八歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B7%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%85%89
松平信綱 Matsudaira Nobutsuna(1596年-1662年) 慶長元年(1596年)、徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として武蔵国で生まれる。父の久綱は伊奈忠次配下の代官として小室陣屋付近(埼玉県北足立郡伊奈町小室)に居住していたので、当地で生まれたとする説が有力である。生母・深井氏は白井長尾氏の末裔であり、母方の祖父・深井好秀は長尾景春の玄孫である。 慶長6年(1601年)に叔父・松平右衛門大夫正綱の養子となる。あるとき正綱が一人でいると、当時は三十郎と名乗っていた信綱がやって来て、「私は代官の子で口惜しい。恐れながら名字が欲しいので養子にしてほしいです」と嘆願した。正綱は笑いながら「そなたはまだ幼少の身分で本名を捨て我が名字を望むのはなぜか?」と訊ねた。「私の本名では御上の近習を勤めることは叶い難い。何卒養子にもなれば御座近く御奉公できるかもしれない」と答えた。正綱は不憫に思い、「なるほど、望みのように養子にしよう。けれども一通り父母に申してから字(あざな)を遣わそう」と挨拶した。両親にもこの旨を話して事が済むと、信綱は大いに喜んで「今日よりは松平三十郎なり」と述べたという。 慶長8年(1603年)9月3日、将軍世子の徳川秀忠に、11月には正綱に従って伏見城に赴き、11月15日に徳川家康と初めて拝謁した。慶長9年(1604年)7月17日に秀忠の嫡男・徳川家光が誕生すると、7月25日に家光付の小姓に任じられて合力米3人扶持になった。慶長10年(1605年)12月3日に5人扶持となる。 慶長16年(1611年)11月15日に前髪を落として元服し、正永と名乗る。慶長18年(1613年)1月28日に井上正就の娘と結婚した。ただし慶長15年(1610年)から慶長16年(1611年)にかけて胃病を患い在郷で養生していたという。 元和6年(1620年)1月20日に500石を与えられた。このとき家紋も三本扇とした。この年の12月下旬に養父の正綱に実子の松平利綱(正次・左門)が生まれると、信綱は「正」の通字を継ぐのは実子であるとして自らは名を正永から信綱と改め、元和9年(1623年)6月15日に御小姓組番頭に任命され、新たに300石の加増を受けた。7月には家光の将軍宣下の上洛に従い、従五位下伊豆守に叙位・任官された。 寛永元年(1624年)5月16日には1,200石を加増された。寛永3年(1626年)7月には家光の上洛に再度従った。寛永5年(1628年)1月5日には相模国高座郡・愛甲郡で8,000石の所領を与えられて、合計1万石の大名となった。このときに一橋門内において屋敷を与えられた。寛永7年(1630年)5月17日には上野国白井郡・阿保郡などで5,000石を加増される。 寛永9年(1632年)1月に大御所だった秀忠が死去すると、信綱は養父と共に遺銀400枚を賜った。 4月13日に家光の日光山参詣に従う。11月18日には老中と小姓組番頭を兼務した。 寛永10年(1633年)3月23日、阿部忠秋や堀田正盛、三浦正次、太田資宗、阿部重次らと共に六人衆に任命された。5月5日、阿部忠秋や堀田正盛らと共に家光より老中に任じられ、同時に1万5,000石を加増されて3万石で武蔵忍に移封され、忍城付の与力20騎・同心50人を預けられた。この年の5月から井上正重らと近江国や大坂・奈良などを巡検した。11月には徳川忠長配流の地を予定してか上総国佐貫を巡検している。 寛永11年(1634年)3月3日に「老中職務定則」と「若年寄職務定則」を制定。6月には家光の上洛に嫡男・輝綱と共に従い、6月27日に家光より駿府城で刀と盃を賜った。閏7月29日に従四位下に昇叙される。 寛永12年(1635年10月29日、それまで兼務していた小姓組番頭を罷免された。 11月には寺社奉行や勘定頭、留守居などの職制を制定。11月15日には月番制も定め、将軍直轄の体制を固めて職務を円滑に進めることができるように改革を進めた。 寛永13年(1636年)4月に家光が日光参詣に赴いた際、信綱は江戸に留まって江戸城普請監督を務め、12月の朝鮮通信使の日光参詣では惣奉行として随行した。 寛永14年(1637年)10月16日には家光を自邸に迎えて盛大に饗応した。 寛永14年(1637年)10月末に肥前国島原や肥後国天草郡などでキリシタン一揆が発生した(島原の乱)。信綱ら首脳陣は当初、板倉重昌と石谷貞清を派遣し、さらに日根野吉明や鍋島勝茂、寺沢堅高、松倉勝家ら九州の諸大名に鎮圧と加勢を命じた。しかし一揆勢は原城に立て籠もって抗戦し、戦闘は長期化した。 当初、幕府軍の総大将は板倉重昌であり、信綱は戸田氏鉄と共に一揆鎮圧後の仕置・戦後処理のために派遣されていた。だが寛永15年(1638年)1月1日に重昌が戦死。石谷貞清も重傷を負ったため、代わって信綱が幕府軍の総大将に就任することになった。 1月11日には篭城する一揆軍に対してオランダ船のデ・ライブ号に要請して援護射撃をさせた。1月28日に副将格の戸田氏鉄が負傷するなど一揆の抵抗も激しく、信綱は兵糧攻めに持ち込んだ。この結果、2月下旬には一揆の兵糧はほぼ尽きてしまい、2月28日までに原城を陥落させた。信綱は一揆の総大将である天草四郎の首実検を行い、さらし首とした。このとき信綱の家臣6名も戦死し、手負い103名であった。3月1日には原城を破却して捕らえた者は斬首してさらした。また松倉勝家・寺沢堅高両名も一揆を招いた責任ありとして処罰を言い渡した。 戦後、一揆鎮圧の勲功を賞され、寛永16年(1639年)1月5日には3万石加増の6万石で川越藩に移封された。信綱は城下町川越の整備、江戸とを結ぶ新河岸川や川越街道の改修整備、玉川上水や野火止用水の開削、農政の振興などにより藩政の基礎を固めた。 島原の乱後、信綱はキリシタン取締りの強化や武家諸法度の改正、ポルトガル人の追放を行なった。またオランダ人を長崎の出島に隔離して鎖国制を完成させた。 寛永15年(1638年)11月に土井利勝らが大老になると、信綱は老中首座になって幕政を統括した。寛永16年(1639年)8月に江戸城本丸が焼失すると、その再建の惣奉行を務めた。慶安元年(1648年)4月に養父の正綱が死去した際には銀100枚を賜ったが、その遺領は実子の松平正信や松平正朝に継がせて自らは拒絶した。この頃は家光実父の台徳院(秀忠)、生母の崇源院の法事奉行を務めている。 慶安4年(1651年)4月の家光没後はその息子で第4代将軍となった徳川家綱の補佐に当たり、家光没後の直後に起こった慶安の変を7月に鎮圧した。承応元年(1652年)9月に老中暗殺を目的とした承応の変も鎮圧した。明暦3年(1657年)1月の明暦の大火などの対応に務めた。 寛文2年(1662年)1月18日に病気に倒れて出仕できなくなり、嫡男の輝綱が代理として出仕した。1月19日に小用がつかえたが服薬して回復した。1月21日には将軍の上使として大久保忠朝が派遣された。1月26日には病が再発し、死を悟った信綱は他の老中へ暇乞いして遺言まであった。1月27日には久世広之、1月29日に本多忠隆らが派遣されて茶・菓子・薬を賜った。このため見舞いの使者がおびただしく訪れた。3月になると危篤状態となり、3月15日に老中の阿部忠秋に嫡子・輝綱のことを頼んだという。 3月16日の夕刻に老中在職のまま死去した。享年67(満65歳没)。跡を長男の輝綱が継いだ。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E7%B6%B1
稲次重知 Inatsugi Shigetomo(1559年-1638年) 久留米藩家老,稲次壱岐・稲次右近の名で知られる。 永禄2年(1559年)、丹波稲次城主の荻野左近の三男として生まれる。天正6年(1578年)、三木合戦において別所長治の配下として籠城する。その2年後の天正8年(1580年)、長治の切腹後豊臣秀吉に許され秀吉の命により渡瀬繁詮の家臣となる。小牧・長久手の戦い、四国征伐等で軍功を挙げる。繁詮が遠江横須賀城主となると1500石を与えられ家老に任ぜられる。 文禄4年(1595年)、繁詮が秀次事件に連座し改易されるとその義弟に当たる有馬豊氏の家臣となる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて石田三成の家臣横山監物を討ち取り徳川家康に賞賛される。同年12月、豊氏が丹波国福知山8万石に加増・転封されると知行3000石に加増され福知山城代・三田城代に任ぜられる。慶長19年(1614年)、大坂の陣に出陣する。 元和6年(1620年)12月8日、豊氏が筑後国久留米21万石に加増・転封されると知行5000石に加増されその治政を補佐する。寛永14年(1637年))、島原の乱においても高齢ながら出陣し幕府軍首脳陣の松平信綱等に戦法を進言する。寛永15年(1638年)、乱の最中に戦死する。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E6%AC%A1%E9%87%8D%E7%9F%A5
立花宗茂 Tachibana Muneshige(1567年-1643年) 高橋紹運的長子、母為齋藤鎮實之妹.宋雲院、養父為立花道雪、正室為立花道雪之女.立花誾千代(良清院);幼名千熊丸、初名高橋統虎,繼承立花氏,改名為立花宗茂。 永祿十二年(1569年),因其父紹運繼承高橋家,年約3歲的宗茂也因此移住築前寶滿城,往後在山間接受紹運不時的體力鍛煉以及合戰模擬。不過因為紹運長於軍事行動無暇照顧宗茂,便托其兄吉弘鎮信以及家中武譽極高的老將足利彌平次為其教育。當宗茂6歲時,要求必須打敗比自己大四歲的人,打敗後,再打大六歲的,又打敗後,再找大八歲的,直到打敗大15歲的才告一段落,並且能輕易使弓射落10米遠的小鳥;文學方面,要求每看一本書便要去跟明白這本書的人反覆簡述其大綱,之後又進行背誦,直到能用書中的例子說服別人為止,另外讓宗茂接觸外來事物如鐵炮和孫子兵法,也讓宗茂學習自己有興趣的書道,更長於山野中熟習花草名稱用途,在他們的教育下,宗茂八歲便能拉開築前一地所有的弓,辯論和見識也遠超過同齡人。並且由於生長之地近於築前國際良港博多津,在常於商業交易的伯父吉弘鎮信的關系下也認識如島井宗室、神屋宗湛等商道茶人,由此學習茶道以及從中探知日本各大名的情勢。 天正六年(1578年)12月,龍造寺隆信侵入築前進攻寶滿、立花城,於《寬永諸家系圖傳》、《立花事實記》記述此戰宗茂以12歲之齡初陣。 天正八年(1580年)2月2日,道雪率十時連貞於早良郡討伐支持龍造寺家的鄉士。 天正九年(1581年)龍造寺隆信聯合筑紫廣門、原田隆種終於攻下位於立花山城西南邊,大友家築前五城之一大鶴宗雲的鷺岳城,而於7月27日進軍至大宰府並以筑紫廣門聯合秋月種實侵略築前巖屋城,宗茂之父高橋紹運與之對峙,並聯合立花家援軍竹迫統種、薦野增時於觀世音寺之戰將其擊退,但統種等立花家臣戰死甚多。此戰後於同日紹運和立花道雪侵攻秋月氏的嘉麻、穗波一帶,此戰秋月方的井田親之率5千餘人出擊,以其子井田親氏為先鋒軍迎戰,兩軍於穗波郡八木山的石阪一帶展開戰斗,此時紹運以弓、鐵炮、長槍隊分三段布置於阪上,正面迎擊秋月軍,秋月先陣7百人崩壞後紹運以3百人突擊,手持大長刀左突右回於千人的敵陣當中,此時原先隱兵於松林之中的道雪突然殺出夾擊秋月軍,當中立花家臣十時連貞更單挑討取了井田親氏,而此石阪之戰也是宗茂普遍被認為的初陣,於當時穿著萌黃色的唐綾縅鎧甲、頭戴銀色鍬形前立兜、腰配黃金鹿皮太刀、身背裝滿箭矢的弓筒並手握塗籠之弓、腳跨栗毛馬。此戰宗茂率領3百人埋伏後帶領150騎出戰,偷襲箭射敵大將堀江備前更單挑壓制對方,並讓功給家臣荻尾大學而討取了堀江首級,初陣便獲得了家臣的信任,並且令道雪正式興起迎宗茂為婿養子的念頭。 同年8月,膝下無子的大友家重臣立花道雪,希望高橋紹運的長子宗茂能繼承立花家,起初紹運因為宗茂優秀的資質和器量,以及身為高橋家重要的繼承人而拒絕,但是在道雪數度的懇求之後,宗茂終於成為了道雪的養子。這個時候,宗茂和道雪的女兒立花誾千代結婚成為了婿養子而繼承立花家。但是夫妻倆處的並不好,在道雪死後也沒能留下子嗣,並且還分居了。 同年宗茂以立花繼承人的身分於11月6日,大友宗麟為了援助被秋月種實、問注所鑒景夾擊的家臣朽網鑒康,而受命隨道雪、紹運出陣,兩軍共率5千兵力再次對秋月氏的嘉麻、穗波一帶攻略,當立花高橋軍收到豐後的大友軍將於原鶴一帶迎擊秋月軍後,於回軍途中遭到秋月氏的追擊,立花高橋軍利用地形於八木山附近的石阪埋伏,兩軍的激戰使立花高橋軍損失3百餘人,秋月軍死傷7百60人,當地因而被稱作千人塚,此戰是為潤野原合戰。 同年11月12日,立花山城東北方的國人眾宗像氏貞,其部分家臣不滿早先將部分領地作為色姬的嫁妝給了立花,趁立花軍一面出戰秋月軍,一面以由布惟信、薦野增時、小野鎮幸、立花鎮實、足立式部等立花家臣前往運輸兵糧不足的築前東南邊境的鷹取城時,聯合秋月軍於13日半路偷襲,此戰在由布等人的奮戰慘勝,而宗像家的背叛觸怒了道雪。 天正十年(1582年)2月,因原田信種聯合秋月種實、宗像氏貞、筑紫廣門於築前西南邊境的那珂郡巖戶鄉攻落大友方的山田民部丞鎮守的砦,並且引起早良郡山門村的鄉士反叛暴動,在立花道雪平息暴動於歸路中與原田軍在生松原遭遇引發鐵炮戰,由於勢力眾多一時無法排除,立花軍在道雪於小金原一事無法息怒之下於3月16日派由布、小野先攻擊宗像氏,4月16日才前往那珂郡巖戶鄉驅逐秋月、原田、宗像的約2千聯軍,此戰立花軍僅一千5百軍力分道雪、由布、小野三隊為本隊進攻,宗茂自身和薦野增時率五百兵為伏兵,途中見機分兵三百以鐵炮攻勢奇襲溷亂敵方,預留的薦野二百兵則突然立出軍旗假為援軍威嚇敵方,解除了敵軍對養父道雪的包圍並且擊破,隨後宗茂又率薦野增時、立花成家、小野鎮幸、由布惟信共1千騎驅逐正再巖戶一帶的巖門莊久邊野築砦的原田勢武將笠興長3百兵,討取了1百50人並追擊至早良郡。 同年12月28日隨養父道雪攻入宗像領地,率軍侵攻宗像家至天正十一年(1583年)3月17日的吉原口防戰討取了吉原貞安後又攻落宗像家居城許斐山城,驅逐了宗像勢力。期間宗茂對於生家宗像家逢遭變故的色姬待遇有加,然而色姬最後還是選擇自殺。 天正十三年(1585年)3月,在養父道雪、實父紹運出兵築後之時,宗茂以19歲之齡僅以千餘兵力守城。秋月種實見立花山城兵少便率八千大軍來攻,宗茂面對秋月八千大軍,決定率5百兵力分三隊夜襲秋月軍,原先家臣們皆反對以小軍勢出戰,應當以立花山城之堅固抵擋,但宗茂回答:「如果你們不想去的話也沒有關系,由我自己去擊退敵軍便是。作戰並非是由數量決定勝敗,而是要用出其不意的行動、奇策,如此一來將不會有不勝之事。」於是先以家老米多比鎮久率百餘名兵力繞到秋月軍後方,佯攻秋月家居城古處山城,引誘了秋月軍部分兵力追擊,這時宗茂和家老薦野增時率一百五十兵力以火計夜襲秋月本陣,造成秋月軍前後溷亂,甚至自相殘殺。一方,家老十時連貞也隱兵於森林中率兵從側面突入,鎮久也繞回來夾擊,秋月方大敗損失三百餘人,後種實內通立花家臣櫻井兄弟暗中謀反,然而卻被宗茂識破,平定了謀反的兩人,種實見內應失敗而改以小軍勢妨害耕作破壞農田等,但都被宗茂逐次擊退,秋月軍歲放棄攻城狼狽退回領地。而此戰後也令原先有丟失城池覺悟的道雪和紹運松了一口氣,宗茂也受到道雪的稱贊,不過卻受到紹運的斥責。 而據《北肥戰志》宗茂更接著出兵築前西邊,襲擊早良郡一帶之曲淵房助和副島放牛鎮守的飯盛城等龍造寺方的城砦,令周遭敵對勢力感到立花山城雖然道雪不在以及兵少,但仍有足夠實力應付敵勢的錯覺。 天正十四年(1586年),宗茂的君主大友宗麟前往大阪晉見豐臣秀吉,希望豐臣家幫助大友家抵抗島津的攻勢,同時推薦宗茂和生父紹運為豐臣家臣,大友築前的領地因此於此時轉變為豐臣家。 一方,島津軍為了統一九州而侵略肥前、築前地區,於7月10日以島津忠長、伊集院忠棟等2萬兵力攻下筑紫廣門的勝尾城後,逐漸集結北九州各地國人眾、國人的兵力至約五萬,宗茂實父紹運於12日在巖屋城以約八百人抵擋了島津聯軍約五萬兵力的攻勢,使其損傷了四千五百多人以及許多大將,拖延了近兩星期後,於27日終於全軍壯烈犧牲,28日宗茂之弟統增鎮守的寶滿城也被迫開城,島津軍在處理筑紫、高橋兩家的人質後於8月1日准備圍攻立花山城,宗茂則徹底抗戰,積極的出城使出遊擊戰術,於8月1日出其不意攻下了島津軍先前降服的筑紫廣門的勝尾城,吸引島津軍來攻後又於4日放棄勝尾城佯攻高鳥居城,島津軍再追擊時又抄小路繞至島津軍後方奇襲其後方城池,使其拖延至14日才完成對立花山城的包圍,15日抵擋了島津軍第一波的攻勢後,又趁機偷襲島津軍本陣討取百餘人的首級,更令家老內田鎮家使出詐降之計拖延時間,並且據《豐前覺書》載於8月18日擊退正在巖戶一帶准備軍糧的原田種實二千餘兵討取七百人,20日更奇襲島津軍的援軍秋月種長二千兵使其傷亡四百餘人。終於,大友家等到了豐臣秀吉從毛利家派來的援軍,使的島津軍被迫於24日從立花山城撤退,而宗茂並沒有等待援軍,隨即率一千五百名兵力追擊島津軍至築後川討取了百餘首級,又以火攻奪下了星野吉實、星野吉兼的高鳥居城,並從秋月方取回了父親的居城巖屋城和寶滿城。10月3日,宗茂被秀吉給予「九州之一物」的感狀並被評價為「剛勇鎮西第一忠義鎮西第一」(その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一)這時宗茂年僅19歲。 天正十五年(1587年),在豐臣秀吉的九州征伐中擔任「築前軍事總指揮」掛名統率如毛利輝元、小早川隆景的數萬大軍仍表現活躍,於4月初以先鋒軍先於秀吉本隊南下接連攻落肥後南關、山鹿、小代、隈本、相良、阿蘇、合志竹迫城、赤星菊池郡、有動宇土城、和仁玉名郡等地,當中和仁親實委托宗茂提出降伏,宗茂於是上呈秀吉,但當時的秀吉因為接連攻陷城池之勢不打算理會和仁親實的降服,宗茂以:「既然自身答應了對方的請求,若無法達成將有損武士信義之面目,不如將自身殺了。」迫使秀吉答應此事。 後再度為先鋒進軍薩摩攻落島津忠辰的出水城,又南下至川內擊退島津忠長,並救出被捕為人質的弟弟高橋統增夫婦,此時島津義久因日向根白阪之戰戰敗而前往川內泰平寺降伏,宗茂代秀吉前往伊集院、祁答院、入來院接收人質,後又率先進軍大口城包圍仍不降的島津重臣新納忠元,迫使其投降,九州終於平定。戰後秀吉因功給予築後柳川藩13萬2000石的領地,從大友氏獨立出來成為直屬大名。 同年8月7日,在宗茂的通知下秀吉知曉了佐佐成政移封後的肥後發生大規模的國人一揆動亂,9月5日,因其勢力猖狂決定動用九州各大名的兵力鎮壓,以築前久留米小早川秀包(毛利秀包)為總大將,肥前鍋島直茂、龍造寺政家、築後宗茂、高橋統增、筑紫廣門,甚至毛利家的安國寺惠瓊也加入討伐。 9月下旬,宗茂起初率1千2百兵力南下救援兵糧不足,被一揆方的敵將有動兼元包圍在平山城的佐佐成政軍,由於先前鍋島、安國寺惠瓊軍皆救援失敗,宗茂收集情報檢討了鍋島、安國寺兩軍皆是軍隊在前輜重在後,遭到埋伏於竹林中的敵將大津山出羽守襲擊後方以致失敗之故,令軍兵間穿插輜重隊,將兵、軍馬也配備救援物資以及兵糧彈藥,組成了互相支援、確保輜重的軍勢,並以小野鎮幸率一隊於夜中早一步潛入竹林反埋伏,另外以輜重隊引誘出大津山的軍勢時以弓、鐵炮進行背後奇襲,後分三隊反轉回攻其城砦南關城討取了大津山出羽守,一方面則趁隙以第二隊輸送兵糧,前往大手原口一帶的平山城,此時平山城遭到隈部親永的大將有動兼元的包圍,宗茂率第一隊3百人以鐵炮作先制攻擊支開隈部軍後,第二隊便趁隙運送兵糧,運完後加入戰斗從側面攻擊持續攻向隈部軍的山鹿城,城外的隈部分隊來援後第一、二隊又退後引誘,此時第三隊又進行兵糧運輸,完成了救援佐佐成政的任務,立花軍因此退往背後的山間,又引誘出山鹿城的有動志摩、有動左京等率軍追擊越過大手原口至永野原,有動兼元雖看出是陷阱要求先鋒的有動志摩回軍卻為時已晚,此時立花軍又一舉反轉進攻討取有動志摩,隈部軍遂崩壞退散。 之後又和九州各大名包圍和仁三兄弟的田中城,城中除了和仁親實、親範、親宗外還有其妹婿邊春親行共9百餘人,在毛利秀包為總大將的情況下,秀包以二重之柵將城池包圍,約二個月後邊春親行因為安國寺惠瓊的謀略而謀反,12月5日遂攻下田中城,並且在此戰中,宗茂和毛利秀包合力殺退號稱人鬼的猛將和仁親宗。然而由於先前在九州征伐時期,和仁氏曾委托立花家降伏於豐臣,有過信賴關系,宗茂在此戰後保護了和仁兄弟中的四男和仁統實,並令他成為家臣小野鎮幸的義弟,保住了和仁氏的血脈。 隨後宗茂和佐佐成政於12月26日攻下了隈部親永的城村城,而隈部親永一族12人於翌年被秀吉下令處死,宗茂為了隈部一族的武士名譽,於5月27日在柳川城的「黑門」挑選手下12人與隈部一族12人單挑,被稱為「黑門放討」結果隈部12人光榮戰死,擔任監察役的淺野長政目睹過程後在震驚之餘當場佩服其氣概,而秀吉聽聞宗茂的做法,便說:「真不愧是立花」(さすがは立花である)。 並且在這時期因為和毛利秀包時常擔任先鋒的緣故,宗茂認小早川隆景為義父,和毛利秀包結為義兄弟,並和秀包一同受領羽柴姓、從四位下侍從的官位,人稱「羽柴柳河侍從」並賜姓豐臣,成為第一批秀吉的譜代眾。天正十八年(1590年)參加由秀吉響應的小田原征伐,在巖櫬,江戶地區參陣,戰後秀吉在一次大會中於諸大名的面前稱贊「東有本多忠勝為天下無雙的大將,西有宗茂為天下無雙的大將,為東西一雙的名將」(東に本多忠勝という天下無雙の大將がいるように、西には立花統虎という天下無雙の大將がいる)。 文祿元年(1592年)參加文祿之役。和小早川隆景、毛利秀包、筑紫廣門、實弟高橋統增等一起組成第六大隊,負責攻略朝鮮西南方的全羅道,宗茂於出戰前制作約200個金箔押桃型兜給兵將佩帶,此種兜可說是立花家的一項招牌。 文祿二年(1593年)小西行長於平壤遭到明軍的猛烈攻勢而慘遭大敗,日軍各部匆忙援救小西軍並由北部南撤至京城,宗茂原本駐軍於平壤南方的牛峰,於1月10日北上救援小西軍的行動中和其弟統增共三千兵一起在龍泉山城外配合城將黑田二十四騎之一的小河信章的鐵炮攻勢,宗茂和統增分兵五隊潛伏,約七~八千敵軍因而溷亂撤退,此戰立花、黑田家稱為龍泉之戰。 同年1月25日於碧蹄館大戰前夕,明、朝聯軍偵查隊查大受、高彥伯與日軍偵查隊加藤光泰、前野長康所部遭遇,日方損失六十餘人撤退回報明軍進逼的消息,日軍陷入籠城或出戰的議論中,這時小早川隆景贊美「立花家的三千士兵足以抵擋他家敵軍一萬」(立花家の3千は他家の1萬に匹敵する。太合殿下もそうされるだろう)激勵各軍出戰.二十七日醜時許,由立花家兩位家老——十時但馬守和森下備中守釣雲,以及「騎士銃卒各數十」組成的物見隊,在王京以北約12公裏的礪石峴附近發現明軍大隊的蹤跡,火急回報本隊。於是,枕戈待旦的日軍迅速行動起來,宗茂軍先行,各部跟隨其後,相繼向礪石峴進發。當先趕到的宗茂迅速占領礪石峴,由於當時大霧彌漫影響了視野,宗茂並未急於進攻,而是一面下令士卒吃早飯,一面開始排兵布陣:先陣小野和泉守鎮幸、米多比丹波守鎮久七百人,中陣十時連久、內田統續五百人,後陣宗茂與其弟高橋統增二千人。此時十時連久提出,小野鎮幸和米多比鎮久皆為家中重臣,未防有失不可為先鋒,並慨然自任,得宗茂許可爭得先鋒之位,於早六時開始超越先陣進軍。 七時,十時隊與明軍騎兵先頭部隊發生接觸。但關於此部明軍的具體人數,日本的各種記載卻說法不一,《日本戰史朝鮮役》記作二千馬軍,曾根俊虎《日本外戰史》、奧田鯨洋《日韓古跡》則均說僅有數百。 當追擊到距離望客峴數町距離的時候,忽然遭遇六七千明軍增援部隊的反擊,十時連久以下百餘人戰死,宗茂軍陷入苦戰。而據桐野作人《碧蹄館之戰》所說,立花軍當時其實是使用了一種「示弱」戰術,即以十時連久的五百兵力正面楔入敵陣然後撤退,引誘敵軍追擊,宗茂則率本隊主力二千人繞到明軍右翼,尋機攻打敵人移動中暴露出的薄弱部位。不料明軍的火炮太過猛烈,當十時連久成功完成誘敵任務准備撤出時,負責接應他的小野鎮幸卻被明軍風暴似的大炮轟擊所阻,待小野隊終於冒著炮火突入與之會合之時,十時連久已死於明將李如梅箭下,與他同時戰死的還有其部下百餘人。同年三月二十三日,石田等三奉行在王京檢點士兵人數,統計宗茂、高橋統增所部僅餘一千一百三十二人,比之碧蹄館戰前之時減員一千八百多人,而此戰之後立花軍並未再參加任何有記載的作戰,那麼,除去一部分因病疫亡故和朝鮮義兵襲擊造成的傷亡,碧蹄館之戰無疑便應當是其最主要的損失原因。 文祿三年至四年(1594年-1595年)由於明、日處於議和階段,宗茂和小早川隆景等第六大隊於朝鮮釜山南部建築城池,是為龜浦倭城。宗茂因為小早川隆景途中回國養病,因此負責了後半的建築工事,並且接應軍糧的輸送。文祿四年(1595年)回日本,於「太閣檢地」中測得柳川藩實為22萬石,且因朝鮮戰功加增4萬石為26萬石,但是不久後因為石田三成等人從中作梗,被消去10萬石而成16萬石。 慶長元年(1596年)受領秀吉賞賜的京都聚樂第中一棟豪華的住所,與妻誾千代共同前往居住,但不久後在秀吉擔心宗茂無繼承人的情況下以細川忠興引薦了矢島秀行之女八千子為側室,更提拔八千子之弟矢島重成為立花家老,誾千代為此憤慨因而和宗茂分居,移往柳川城南方邊境的宮永居館。 慶長二年(1597年)的慶長之役,宗茂因領地加增之故軍役增至五千人,先後駐守安骨浦城、固城,並和毛利秀包出入釜山擔任小早川秀秋於朝鮮前期的輔佐役。同年12月底日軍加藤清正被明軍包圍在蔚山的危機中,明將高策趁日軍大部離開釜山本陣援救蔚山之際率明軍一萬二千、朝鮮軍三萬兵力,打算偷襲釜山的日軍本陣做為對日軍救援蔚山行動的牽制而進軍至般丹一地。高策因日軍主力已抵達蔚山,遂率聯軍回軍蔚山,日軍舒緩了本陣的壓力,是為般丹之戰... 慶長三年(1598年)明朝廷叫回攻略蔚山城失敗的楊鎬,新增兵力給於劉鋌、刑玠並調派水陸約8萬軍力進朝鮮,明將鄧子龍、張榜、藍芳威、陳璘等於此時參陣,9月以麻貴為東路攻蔚山、劉鋌為西路攻順天、董一元為中路攻泗川、陳璘為水路四軍各號稱五萬的軍勢南下進攻,日軍面對龐大軍勢僅能防守,這時因為五奉行等重要軍監回日本處裏政務,剩餘的日軍集結在釜山的會議中無法決定如何抗敵,並且互相忌妒戰功,在如此情況下,宗茂說了:「一日拖過一日城池被攻陷將是早晚之事,若是將日軍最右翼的蔚山城保住,那麼泗川之敵兵也會因此有壓力而無法專注攻城,將這二處控制住的話,那麼順天之敵自然也將退兵。我立花軍願當此趨敵之軍。」此時身為日軍總大將的小早川秀秋聽後說了:「蔚山的援軍由立花擔任是良策阿,即使失敗損失僅三千的立花軍,對我軍來說也是無關痛癢。」宗茂也清楚秀秋說話不懂事故因此並無怒言,而是准備出兵。 最後於日軍撤退時,在宗茂的號招下,一方面於固城集結弟弟高橋統增、毛利秀包、寺澤廣高、共七千兵力,一方面連絡島津義弘、宗義智的一萬一千日軍分乘軍船五百艘隨立花軍援救被海陸圍困在順天城的小西行長,途中於露梁海戰和明、朝鮮水軍的李舜臣、陳璘等激戰,被大敗之。據《谷田六郎兵衛覺書》載,立花家臣池邊貞政立下一番乘踏入陳璘的戰船,但卻反遭串刺戰死。 日軍此戰勉強令小西行長脫圍,此時立花軍擔任日軍殿後,使主力軍艦退回釜山,並且援護其他日軍先回國。 最後宗茂於年底11月26日才和毛利秀包共同突破明、朝鮮軍的海上封鎖為最後狼狽逃回日本。 慶長五年(1600年)關原之戰時,宗茂拒絕了德川家康的勸誘只為了報秀吉的恩情而率四千兵力加入西軍。關原開戰前夕,近江大津城主京極高次突然叛變,主將石田三成命令毛利元康(末次元康)、毛利秀包、宗義智、筑紫廣門和宗茂一同前往攻擊,此戰宗茂無損一兵一卒擊退了夜襲的敵軍,更發揮了養父道雪的發明「早入」,將火藥和彈混合塞入竹筒並連結鐵炮掛於足輕肩上、使的立花軍的鐵炮能比他家的鐵炮隊使出3倍速以上的銃擊,並且家臣立花成家立下了一番乘。可是在攻下了城池的同時,西軍卻也在關原戰敗,遂放棄了大津城。撤退期間遇到西軍殘兵正打算燒毀通往京都和美濃交通要道的瀨田唐橋,企圖延緩東軍的進軍速度,然而宗茂卻止住了這樣的做法,說了:「這座橋是為交通要道,不僅是軍隊連對人民而言也是重要的道路,燒毀了豈不連人民也受苦!?我軍即使不燒毀這座橋仍有伏見城的守備能拖緩敵軍!」事後德川家康聽聞宗茂如此做法便稱贊說:「宗茂真是具備剛仁的第一勇者」(立花は剛なるど仁あり まことに第一の勇者である) 撤退到大阪城後,宗茂對毛利輝元提出在大阪籠城對抗東軍的計劃,可是輝元卻已答應家康的勸降而拒絕,宗茂憤而領軍回柳川。途中遇到有如殺父仇人的島津軍只餘約八十人一同等待乘船,立花家臣有人提議不如趁機報殺父之仇,然而宗茂卻斥責說,並對島津義弘聲明義弘則向宗茂提出一同前往薩摩抵抗東軍的提議,但是宗茂卻回答:「放棄自身城池,前往他人的領地作戰在立花家訓是不允許的。」義弘因此由衷佩服宗茂,並且回領地後派出重臣新納忠元率一萬兵力往柳川為援軍。 11月,宗茂回歸柳川後隨即遭到途中叛變到東軍的鍋島直茂的侵攻,而黑田如水(黑田孝高)也在一旁打算坐收漁翁之利。領地遭到侵入而不還擊是武士的恥辱,但是天下大勢已趨向家康,親自出陣對抗的行為等於不服家康,實為不智之舉,因此宗茂為了武家的意地以及對家康表示臣服,自己只坐鎮在城中運籌帷幄,指揮一萬三千的兵力,在柳川領地周邊的城砦和河口配置了堅固的防衛線,並派家臣團出戰。 宗茂命家老小野鎮幸為總大將,率一千三百餘人於江上八院一帶封住鍋島三萬二千的大軍,然而激昂的立花軍先鋒壞了軍令擅自開戰,雖然立花軍沖破鍋島12段軍陣當中的9段,然而以立花統次為始,為了救援以必死之勢突擊的先鋒安東久照、石松政之而率第2陣斷後的立花鎮實和其次男立花親雄、新田鎮實、第3陣的年輕武者十時惟久皆陸續戰死,鍋島軍則發生先鋒鍋島茂忠命危,返回本陣五反田才得以收拾軍勢的情況,可說是軍勢大亂憑人數優勢作戰,雖然鍋島軍包圍小野鎮幸的本陣,但在其拼死奮戰下沒能殲滅,最後本在戰場西方監視黑田軍動向的立花成家率三百兵力側面奇襲溷亂了鍋島軍使鍋島軍逐漸撤退,一方面掩護小野鎮幸撤退結束了此戰,結果立花方損失三百餘人,鍋島也付出二百餘人的犧牲者。之後因為黑田孝高、加藤清正率軍加入柳川城的包圍而轉為籠城,同時宗茂受到好友加藤清正的說降,在與重臣連番考慮下,宗茂因為顧慮到柳川領民的安全,終於開城交出城池。 關原之戰後宗茂被改易成了浪人。面對欣賞宗茂器量的加藤清正和前田利長的仕官勸誘,都被宗茂拒絕了。宗茂受加藤清正的好意於肥後玉名郡高瀨的清源寺當了一陣子的食客後於慶長六年(1601年)7月入秋後帶著家臣共約二十人前往京都,於翌年3月到達妙心寺依附立花道雪義子戶次茂庵所認識的吳服商富士谷紹務並暫住於大德寺大慈院,慶長八年(1603年)秋離開京都於12月到達江戶,本多忠勝因當年共受豐臣秀吉贊賞之故,安排其暫居高田寶祥寺。 終於對其才能感到可惜的德川家康於慶長九年(1604年)2月透過本多忠勝招喚宗茂,於7月25日揭見家康受任將軍幕府的御書院大番頭領5千石,慶長十一年(1606年)1月3日家康打算給宗茂陸奧棚倉的領地,但因將軍之位已讓於德川秀忠,因此於9月上旬宗茂會見秀忠後,於11月11日正式給予陸奧棚倉一萬石複歸大名身分,更於慶長十五年(1610年)7月25日加增至三萬石。 大阪之役的時候家康因擔憂宗茂的武勇智謀和統率能力會為豐臣家效力而盡力的勸說宗茂,宗茂並在大阪冬之陣於大阪城西北的天滿川濱筋口參陣,大阪夏之陣更成為德川秀忠的軍事顧問和旗本大將,預言應驗了秀忠不聽建議,率軍獨斷的突出將會遭到豐臣方大野治房突襲的戰況;後隨本多正純等人參與天王寺口抵擋突破德川軍數陣的毛利勝永的攻擊。 因這些功勞於元和六年(1620年)11月27日奇跡似地得以回歸舊領築後柳川藩,獲得十一萬九千六百石,完成了複歸柳川大名的心願,不同於丹羽長重等僅是回複大名的身分,是日本史上唯一領地改易後還能回複舊領地的人。晚年也擔任第三代將軍德川家光的相伴眾,為其說明戰國的物語故事,而德川家光也贊美宗茂為「真正的武人」。 ​寬永十四年(1637年)爆發島原之亂,宗茂在戰事後期被任命前往輔佐總大將松平信綱,負責戰略面的指揮,預言了敵兵偷襲奪糧的行動並做出預備措施,並且於有馬城攻城時展現了昔日的勇姿,參陣的諸大名以武神再臨贊歎當時的宗茂。 寬永十九年(1642年)於江戶下屋敷因胃病死去,年七十六歲,法名大圓院殿松陰宗茂大居士。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E5%AE%97%E8%8C%82
黑田一成 Kuroda Kazushige(1571年-1656年) 加藤重德的次子、母為伊丹親保之女、養父黑田孝高、正室為栗山利安之女;幼名玉松丸、通稱三左衛門、入繼黑田家,名為黑田一成,號睡鷗。 父親重德為荒木村重的家臣,石山合戰時,黑田孝高為說服反抗織田信長的村重而前往村重的居城有岡城,但是反而被捕並困進牢獄。此時重德對孝高照顧有加,孝高為報答這個恩情,在有岡城之戰後村重戰敗並沒落後把一成收為自己的養子。於是一成就像孝高的兒子黑田長政的弟弟一樣被養大。 初陣是天正十二年(1584年)在和泉與根來眾、雜賀眾的一揆戰鬥的岸和田之戰。此後在四國征伐和九州征伐中亦有出陣,於耳川的戰鬥中討取兩個首級而獲得知名度。在進入豐前時僅得80石,但是之後被加增至5千石。在進攻城井氏而敗走之際,自願擔任黑田長政的影武者。 豐臣秀吉向朝鮮出兵(文祿慶長之役)時,成為黑田長政的先鋒隊,於金海城取得一番乘(率先攻入敵陣),在晉州城之戰、白川、西生浦的籠城、稷山之戰等戰鬥中相當活躍。在關原之戰中亦立下武功,於前哨戰木曾川合渡川之戰中取得敵人的首級,在關原本戰中取得石田三成的重臣蒲生將監的首級。因為黑田隊獲得這些戰功,長政被德川家康表揚為第一功勞者並賜予築前(福岡藩)52萬3千石。 在進入築前後,於三奈木(現今福岡縣朝倉市)建立居館並領有1萬6千2百石。因為居於三奈木而被稱為三奈木黑田家。馬印是白色的御幣。 寬永十四年(1637年)的島原之亂中參加江戶幕府軍總大將松平信綱的軍議。藩士們都不是聽從黑田忠之的指揮,而是聽從一成。 明曆二年(1656年)11月13日死去,年86歲,法名睡鷗齋休江宗印居士。 出處http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%91%E7%94%B0%E4%B8%80%E6%88%90
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