首頁 Tags 松倉重政

Tag: 松倉重政

三百六十位人物:松倉重信、松平信康、松平忠輝、松平忠吉、松野重元、沼田顕泰、沼田祐光、上村頼興、上田憲定、城井長房、城井鎮房、城親基、城親冬、植田光次、織田信光、織田信澄、織田信包、色部顕長、色部長実、新井田隆景、新関久正、新発田綱貞、新発田重家、森岡信元、森下通与、森好之、森長可、森田浄雲、真柄直隆、神戸具盛、神保長城、神保長職、仁保隆慰、壬生義雄、壬生綱房、壬生綱雄、須田長義、須田満親、水越勝重、水谷胤重、水谷正村、杉原盛重、菅沼定盈、菅谷政貞、成松信勝、成沢光氏、正木憲時、生駒親正、西園寺公広、青景隆著、石巻康敬、石川家成、石川利直、赤穴盛清、赤松政秀、赤尾清綱、跡部勝資、千葉重胤、千葉邦胤、川上久朗、川上忠克、川村重吉、浅野長政、浅野長晟、浅利則祐、浅利頼平、前波吉継、相良晴広、増田長盛、足利義氏、太田康資、太田氏資、太田重正、大浦為則、大館義実、大久保忠佐、大久保忠世、大久保長安、大崎義隆、大西頼晴、大西頼武、大道寺政繁、大友義統、大友親家、大内義長、大掾貞国、木造雄利、谷忠澄、丹羽長重、淡河定範、池田恒興、池田勝正、池田長正、竹内久盛、筑紫惟門、中川清秀、中村一氏、中野宗時、猪去詮義、猪苗代盛胤、朝倉景鏡、長宗我部盛親、長船綱直、長船貞親、長倉祐政、長続連、長尾景信、長尾当長、長野藤定、長野稙藤、長連龍、鳥居元忠、津田重久、天野景貫、田結庄是義、田中吉政、土屋昌恒、土居清宗、土橋守重、島村盛実、島津義虎、島津歳久、島津忠直、藤田信吉、藤方朝成、徳田重清、那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部政直、南方就正、二階堂盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之、板倉勝重、飯尾連竜、富田景政、富田重政、武田義信、武鑓重信、服部友貞、福原貞俊、福留儀重、平岡直房、平岡頼勝、平賀元相、平田光宗、片倉重長、保科正俊、母里友信、芳賀高継、芳賀高定、蜂屋頼隆、蜂須賀家政、豊島重村、北楯利長、北条高広、北条氏勝、北条氏照、北条氏房、北信愛、牧野康成、堀秀治、本山茂宗、本多重次、本多忠政、本多忠朝、本堂忠親、明石全登、明智秀満、毛屋武久、毛利秀元、吉川元長、吉川広家、毛利勝永、木下秀秋、木曾義康、木村重成、木脇祐守、問註所統景、問田隆盛、矢作重常、矢沢頼綱、薬丸兼将、柳生宗矩、有馬晴信、遊佐信教、遊佐盛光、遊佐続光、里見義頼、里見忠義、立原久綱、立石正賀、留守顕宗、伊達政景、龍造寺家就、龍造寺信周、龍造寺政家、龍造寺長信、鈴木重兼、鈴木重則、鈴木重朝、浪岡顕村、六角義治、垪和康忠、簗田晴助、簗田詮泰、蘆田信蕃、蠣崎慶広、蠣崎守広、蠣崎盛広、龍造寺家晴、富田氏実、佐藤好信、三好長治、小幡信貞、大田原綱清、仙石秀久、稲富祐秀、支倉常長、秋山信友、原虎胤、織田信秀、船尾昭直、渋江政光、酒井政辰、安藤良整、長尾種常、志駄義秀、平林正恒、神保氏張、滝野吉政、蜷川親長、井戸良弘、箸尾高春、宇喜多詮家、中島元行、豊永勝元、長寿院盛淳、横山喜内、向井正綱、北条早雲、太田道灌、尼子経久、今川氏親、長尾為景、浅井亮政、大友義鑑、龍造寺家兼、本願寺蓮如、宮本武蔵、佐々木小次郎、二階堂盛義、梶原景宗、福留親政、小牧源太、南光坊天海、森蘭丸、簗田政綱、毛利新助、最上義忠、森忠政、木村定光、以心崇伝、林羅山、秋月元種、井田親之、服部康成、浪岡慶好、遠藤盛胤、川島宗泰、保土原行藤、小田辺勝成、黒沢道家、梅津憲忠、岡本宣綱、須田盛久、長尾景広、大道寺直次、中山照守、塙安友、前田利政、生駒一正、上田重安、桑山重晴、関盛吉、田丸直昌、小笠原秀政、木曾義利、千村良重、宮部長房、新庄直頼、新庄直忠、小川祐忠、京極高知、松井康之、筒井定慶、松倉重政、南条元忠、南条元清、石野氏満、有馬則頼、有馬豊氏、赤松則英、赤松広秀、福原長堯、長船定行、毛利元康、毛利秀包、宍戸元続、福原広俊、仁木義治、吉田政重、佐竹親直、秋月種長、種子島久時、赤座吉家、足立重信、石田重家、太田一吉、大谷義治、大野治房、大野治胤、奥村長福、金森可重、上泉泰綱、郡宗保、小西行景、吉弘統増、松平家光、速水守久、福島高晴、前田利常、水野勝成、脇坂安元、村井長頼、由布惟信、小野鎮幸、飯田直景、柳生宗章
三百位人物:三好清海、三好伊三、肝付良兼、由利鎌之助、肝付兼亮、肝付兼護、穴山小助、島津豊久、伊集院忠倉、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎、山浦国清、高梨政頼、屋代政国、屋代勝永、須田満親、須田長義、蘆田信蕃、小笠原長時、小笠原秀政、犬甘政徳、犬甘久知、二木重吉、溝口貞泰、木曾義利、諏訪頼忠、保科正俊、三木顕綱、三木国綱、長尾晴景、上杉景信、色部勝長、色部顕長、色部長実、河田長親、北条景広、本庄慶秀、安田能元、甘粕景継、鬼小島弥太郎、水原親憲
五百位人物:有馬直純、明智秀満、鵜殿長照、赤尾清綱、増田長盛、鵜殿氏長、脇坂安治、長束正家、岡部正綱、岡部長盛、奥平貞能、葛山氏元、蒲生賢秀、蒲生秀行、京極高吉、松平広忠、籾井教業、三好義興、青山忠成、石川家成、石川康長、畠山昭高、薄田兼相、大野治長、板倉勝重、筒井定次、伊奈忠次、鈴木重朝、榊原康勝、酒井忠勝、内藤清成、牧野康成、山口重政、尼子誠久、斯波義銀、毛利長秀、津川義冬、立原久綱、織田広信、織田信秀、織田信澄、織田信包、河尻秀隆、河尻秀長、柴田勝豊、丹羽長重、宇喜多詮家、平岡頼勝、松野重元、原田直政、三村元親、前田利長、前田利政、蜂屋頼隆、古田重然、小早川秀包、森忠政、生駒親正、柴田勝政、佐久間安政、前野長康、小野木重次、桑山重晴、仙石秀久、三好長治、徳永寿昌、戸田勝成、百々安信、中村一氏、原長頼、平塚為広、堀尾吉晴、溝口秀勝、徳山則秀、毛受勝照、土岐頼次、氏家行広、日根野弘就
那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之
堀直寄 Hori Naoyori(1577年-1639年) 天正18年(1590年)、従叔父に当たる堀秀政が没し、又従弟で秀政の嫡男・秀治が幼かったため、家督相続が遅々として進まなかった。家老の直政は直寄を使者として豊臣秀吉に直訴した。「先臣秀政、軍に死し候えば、その子秀治、幼年なりと申せ、よろしく嗣と為し給ふべし、若し立つことを得ざらんには、これ使臣の罪なり、」と口上したが、直寄はこの時13歳であった。秀吉は秀治の相続を認め、直寄を自らの小姓にし、従五位下丹後守に叙任された。 慶長3年(1598年)、堀家が越前北ノ庄城から越後春日山城へ転封となる。直寄は秀吉に直訴し、「父監物(直政)事、老齢にして此の度、北国へ罷越し、自然彼の国にて一揆など起らば、落着くことも成り難く、是れのみ心元なく、何卒三年の御暇を賜りたし、」と申し、秀吉も感心し、「丹後(直寄)の申し様奇特なり、早々に久太郎(秀治)のあとより下るべし、」といい、増田長盛を召し、「丹後守は器量あるものなり、父兄と共に国政を聞くべし」といって越後魚沼郡坂戸城に2万石を与えた(坂戸藩)。 会津では上杉景勝が不穏な動きをしており、直政は徳川家康に情勢を報告した。家康が上杉討伐を決めると、堀家にも「津川口より会津へ攻め入るべし」との指示が来る。一族の合議の際、直寄は太閤殿下への御恩に報いるべきと上杉、石田三成と組むことを主張したが、堀氏は東軍方に就いた。 慶長5年(1600年)8月1日、越後国内で上杉遺民一揆が勃発する。一揆勢により下倉城が陥落し城主の小倉政熙が討ち死にした。直寄は下倉城に攻撃を加えて翌日に奪還し、戦後に家康、秀忠父子から感状を授与されている。9月1日、家康より書状が来る。石田三成らが美濃の大垣に集結しているので、自分はそちらへ出馬する。会津の上杉景勝が坂戸方面へ侵攻するようなら、真田信幸、本多康重、平岩親吉、牧野康成に援兵を出すよう命じてあるから、これら諸将と協力して城を堅守するように、というものであった。 9月8日、直寄は父直政、兄直清と共に三条城から津川に向けて兵を出した。津川に向かう途中、会津の兵3000余人とともに一揆の兵が高所に登り、三段に構え、深田を前にして備えていた。これを見て直寄は家臣に「敵が深田を前にして、高きところに備えたれば、我れよりかかって勝負をいたせば敗北は必定なり、密かに脇道より敵の横合いに出でて仕掛けて切り崩さば、勝利は我にあらん」として、身近な兵10人ほどで崖陰に廻り敵の右の傍より迫り、鉄砲を撃ちかけ敵を切り崩し、これを平定した。 慶長7年(1602年)、堀秀治の弟で越後蔵王堂城主の堀親良は家老の直政と不和になり、国政を顧みない兄秀治にも不満があり出奔した。親良は甥で秀治の次男・鶴千代を自分の養子として蔵王堂城主にした。直寄は鶴千代を補佐し、鶴千代が早世して蔵王堂藩が廃藩になると坂戸と蔵王堂を兼務し5万石を領有した。蔵王堂城は長尾為景の弟・為重が築城した城だったが、信濃川の側で年々浸食が進んでいたので、上流の大島庄平潟原に築城の計画を立てる。この地が長岡と呼ばれるようになる。 語源には、神田表町千手の地が遠くから見ると長い丘のように見えるから(『長岡市史』)、長岡京に似ているから(『越後往古城主付』)、そしてこの地を御館の乱の時に本荘清七郎の家臣・神保隠岐守と長岡縫殿助(ぬいのすけ)が領していて、戦に敗れ神保は会津へ逃亡、長岡は討死したという記述が『越後治乱記』にあり、この長岡縫殿助の名から付いたという説がある。長岡が文書に出てくるのは慶長10年(1605年)に蔵王堂渡し守与助に、長岡渡しに場所を変更する、今まで通りの給米で雇う旨の文書が、鶴千代の老臣堀甲斐守から出された時である。これ以後、長岡の名が文書に多く出てくる。 慶長13年(1608年)、父が死去した後、兄が家督を継いだのを不満に思い対立する。そして慶長15年(1610年)、直清が僧侶を殺害した事件を徳川家康に訴えた為、直清と越後高田藩主で秀治の嫡男・堀忠俊は改易され、自身も1万石減封された(越後福嶋騒動)。秀治と親良、直清と直寄の兄弟相克が引き金になり、家康に堀家除封の口実を与えてしまったのである。直寄は信濃飯山藩4万石に転封され、長岡築城は中断。新たに高田藩主となった松平忠輝の家臣・山田勝重が蔵王堂城主になるが、高田城築城の為、任地を顧みる暇はなかったようである。 飯山藩4万石を領してからは、駿府にいて家康に仕えた。慶長16年(1611年)、駿府城火災のさい、いち早く駆けつけ、宝物金銀を運び出し、消火にあたり、消火の器物に自分の名前を書いておき、後からきた人々はみな直寄の名の入った器を使ったので、この時の手柄は直寄のものとなり、美濃多芸郡に1万石加増された。 大坂夏の陣に弟の直之と共に参陣。大和口の軍将水野勝成の手に属し、1番に直寄、2番に松倉重政とした。5月5日、水野、松倉らが田尻越えを経て河内へ入ったという知らせを聞き、里人に近道を尋ねた。古老がいうには「亀瀬より入らば道は近し、されどその昔、守屋大臣、此の道を通り河内へ往きて、戦ひに敗れし故、聖徳太子の御世より、赴軍の者、この道を戒められて、石に亀を刻み、その印とせられたが、刻みし亀は、その後首を隠せりにより、首なき亀を見て、戦に利なきと戒めて、この道を通らずと云う、」直寄、之を聞いて、「我いま、人に先立ってこの道を進み、敵に勝つときは千年の禁忌を破りて、愚者の迷を解かん、守屋大臣は戦いに敗れ死す、我は勝ちて生きん、若し戦に利なくして、死なば、末世の勇者の戒めとすべし、」と亀瀬を越え、河内の国府へ駆けつけ、しばらくすると、水野、松倉らも到着した。 夜も更けて、水野勝成より、「敵寄せ来たると見えて、松明多く見ゆ、あなどるべからず、」と諸将に伝言があった。直寄之を聞きて、「勝成は物に馴れたると聞きしに、巧者とも思はれず、寄せ来たる敵、何んぞ松明を多く燈さんや、敵にはあらず」というところに、再び伝令がきて、「松明皆消えたり、敵にはあらず」告げると、直寄は「これぞまさしく敵なり、なに心なく松明をとぼしたるが、巧者あって消させたり」といった。これが敵将後藤基次の部隊であった。6日未明、片山・道明寺の戦いで松倉重政の崩れるのを助け、横から討って出て、基次の兵が崩れた所を一気に押し切った。この激戦で後藤基次、薄田兼相らの名将は戦死した。7日の天王寺の戦いを経て、8日に大坂城は陥落、大坂夏の陣は終結した。 元和2年(1616年)4月1日、家康は病重く、寝殿に直寄を召して、大坂の軍功、平時の武備を称美し、「我れ、死せる後に、若し国家擾乱せば、藤堂高虎を将軍の一陣とし、井伊直孝を二陣とし、汝は両陣の間にたむろし、其の横を打ってこれを破るべし、必ず忠義に懈るべからず」と遺言した。 元和2年7月、松平忠輝が改易となり、10月に直寄は3万石加増で再び長岡の領主となり、越後長岡藩が立藩された。築城と共に城下町の整備も行い、外港の新潟町(新潟港、現在の新潟市古町付近)は交易や人口増加の事を考えて諸税を免除し、以後の発展の礎を築いた。 元和4年(1618年)、2万石の加増を受け、越後村上藩10万石に転封。長岡城は完工目前で牧野忠成に引き継がれた。牧野氏は幕府の要職にあり、寛永7年(1630年)まで長岡に入国できなかった事もあり、明暦3年(1657年)の改正まで「しきたり」と称し「堀丹後守御証文通り」として、直寄の制度をそのまま踏襲し、いささかの不便もきたさなかったという。 直寄が村上に入部のさい、家康より百万石の禄を与えるという御墨付きを所有していた。これを示して老中に百万石の請求をした所、老中は困り果てたが、百万石の「石」の字に虫食いがあるのを見つけ、「之は百万石に非ずして百万両なり、依って佐渡金山を向う三ヶ年取らすべし」と下命して早々に立ち去った。怒った直寄はこの金で村上城を増改築し、士分の増員を行い、江戸の上屋敷に凌雲院を建て、不忍池を作った。後に居城の改築と士分の増員について幕府の詰問を受けた。また、村上藩主として村上城下町の整備に携わり、現在の市街地の基礎を築いた。 直寄の屋敷には徳川秀忠、家光父子が訪ねて来ている。「寛永六年十二月二十六日台徳院殿(秀忠)直寄が邸に御渡りありて、助国の御刀貞宗の御脇差をよび黄金三百両を賜ふ、七年二月十三日大猷院殿(家光)直寄が宅に渡らせたまふのときも、助光の御腰物黄金二百両を恩賜せらる、」(『寛政重修諸家譜』) 元和年代、上野には直寄の屋敷のほかに藤堂高虎、津軽信枚の屋敷があった。津軽家の『常福寺御由緒略記』によると、「上野は御家(津軽家)、並びに藤堂家、堀家の屋敷と申し候ところ、徳川家にて、御廟地と成され候節、替地を以って、御取上げと相成候ところ、御家の寺院、津梁院、藤堂家の寒松院、堀家の凌雲院は格別に対遇なさるる趣、」とある。寛永2年(1625年)に天海の発意で寛永寺が草創され、凌雲院は上野最大の塔頭であった。直寄は他にも祇園堂、大仏殿なども寄進した。 寛永4年(1627年)、沢庵宗膨が罪に問われた際、天海僧正、柳生宗矩と共に赦免に奔走した。沢庵和尚は直寄の駒込の別邸に2年間世話になった。寛永8年(1631年)、戦死者慰霊の為上野寛永寺に上野大仏(釈迦如来坐像)を建立。 寛永13年(1636年)、60歳の還暦で隠居し、嫡男の直次に家督を譲り、自らは「鉄団」と号した。この人生の節目に肖像画制作を希望、或いは沢庵らから勧められ、狩野探幽の筆になる寿像が残っている。しかし、寛永15年(1638年)に直次が先立って死去、孫の直定が家督を継いだ。 寛永16年(1639年)6月29日、病の為、駒込の別邸で亡くなる。享年63。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%9B%B4%E5%AF%84
市橋長勝 Ichihashi Nagakatsu(1557年-1620年) 弘治3年(1557年)、美濃国の豪族・市橋長利の長男として誕生。 はじめ織田信長に仕え、信長死後は豊臣秀吉に仕えた。九州征伐や小田原征伐に参戦し、文禄・慶長の役では肥前名護屋城に駐屯した。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して、西軍に属した丸毛兼利の福束城を落とす武功を挙げた。その戦功により、戦後今尾城で1万石を加増されている。慶長14年(1609年)、中村一忠が嗣子なくして死去したために中村氏が改易されると、慶長15年(1610年)に伯耆矢橋へ移封され、2万3000石を領した。 慶長19年(1614年)からの大坂の陣でも功を挙げ、元和2年(1616年)に越後三条5万石へ加増移封された。同年の徳川家康が死去する直前には堀直寄や松倉重政らと共に枕元に呼ばれ、後事を託されている。 元和6年(1620年)に江戸で病死した。享年64。嗣子がなく改易の対象になりかけたが、家康からの信任が厚く、長勝が晩年に老中に何度も嘆願書を差し出していたことなどが功を奏して、甥で養子の長政が近江仁正寺に移されることで跡を継いだ。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E6%A9%8B%E9%95%B7%E5%8B%9D
松倉重政 Matsukura Shigemasa(1574年?-1630年) はじめは筒井順慶に仕えていたが、順慶の没後、養子の定次が伊賀に転封されると、重政は大和に残って豊臣家の直臣となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは単身参陣して徳川家康に認められ、大和の五条二見城主となった。五条では諸役を免除して商業の振興を図るなど城下町の整備を行った。 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に際しては、大和郡山城の救援や、道明寺方面での後藤基次勢との戦いの功によって、翌元和2年(1616年)に有馬晴信の旧領であった肥前日野江4万3千石を与えられて移封した。 元和4年(1618年)、一国一城の制にしたがって従来あった原城と日野江城を廃して島原城の築城を開始する。廃城となった原城、日野江城などから領民達に石材を運搬させ、数多くの人夫を動員して島原城を完成させた。禄高4万3千石でありながら10万石の大名の城に匹敵する分不相応な規模の城を築いたため、領民から過酷な搾取を行うこととなった。この際、検地を行い、領内の石高を実勢の倍近くに見積もり、領民の限界を超える税を取り立てた。 この島原城の普請の際に功のあった千々石村の和田四郎左衛門義長の訴えにより、海風による塩害を防ぐために千々石海岸に堤防を築き松を植えさせた。この松は今も防風林として千々石町に残っている。 さらに幕府への忠誠を示すため、禄高に見合わない規模の江戸城改築の公儀普請役を請け負い、それらの費用を捻出するために過酷な搾取を重ねた。 南蛮貿易の利を得ていた重政は入部当初キリシタンを黙認していたが、江戸幕府のキリシタン弾圧政策に従って元和7年(1621年)になるとキリシタンの弾圧を開始。最初はゆるやかなものだったが、寛永2年(1625年)に将軍徳川家光にキリシタン対策の甘さを指摘されると発奮し、徹底的な弾圧を開始した。顔に「吉利支丹」という文字の焼き鏝を押す、指を切り落とすなど種々の拷問を行い、寛永4年(1627年)には雲仙地獄で熱湯を使ったキリシタンの拷問・処刑を行うなど、キリシタンや年貢を納められない農民に対し残忍な拷問・処刑を行ったことがオランダ商館長やポルトガル船長の記録に残っている。寛永6年(1629年)には長崎奉行・竹中重義に勧めて長崎中のキリシタンを雲仙に連行している。 さらに、キリシタン弾圧への取り組みを幕府に対しアピールするため、キリシタンの根拠地であるルソンの攻略を幕府に申し出る。家光はじめ幕閣の一部も乗り気になったため、先遣隊を派遣するなどして遠征準備に取りかかり、そのためのさらなる戦費を領民に課した。 出兵実施の矢先の寛永7年(1630年)に小浜温泉で急死した。享年57。あまりの悪政を見かねた幕府による毒殺ともいわれ、宣教師たちは罪のないキリシタンたちを責め殺したために狂死したのだと噂した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%80%89%E9%87%8D%E6%94%BF
竹中重義 Takenaka Shigeyoshi(生年不詳-1634年) 元和元年(1615年)に父重利の跡を継いで藩主となり、配流された松平忠直を府内に迎えている。寛永6年(1629年)7月27日、水野守信に代わって長崎奉行に着任する。重義を長崎奉行に推したのは土井利勝で、それまでの長崎奉行は幕府の3000石級の旗本から選ばれるのが慣例であり、大名クラスが抜擢されたのは異例であったとされる(幕末まで長崎奉行に任ぜられた万石クラスの人物は重義を入れて2名のみ)。重義の時代に壮絶なキリシタンの弾圧が行われ、穴吊りなど多くのキリシタンを殉教や棄教に追い込んだ拷問が考案された。さらに肥前島原藩主松倉重政の勧めで雲仙地獄におけるキリシタンの拷問を開始、多くのキリシタンが殉教した。寛永8年(1631年)には有名な絵踏み(踏絵)が初めて雲仙で行われたという記録が残っている。 寛永9年(1632年)に大御所秀忠が卒し、家光が完全に権力を握ると、最初の鎖国令を発した。これと連動するかのように、重義は密貿易など職務上の不正を訴えられた。すでに寛永6年(1629年)10月に書かれた平戸のオランダ商館長の手紙には、「彼が幕府にしか発行できない朱印を勝手に発行して東南アジアとの密貿易に手を貸している」とある。調査の結果、寛永10年(1633年)2月に奉行職を罷免され、切腹を命じられた。寛永11年(1634年)2月22日、嫡子源三郎と共に浅草の海禅寺で切腹、一族は隠岐に流罪となった(検死役は前任の長崎奉行で、当時大目付であった水野守信であった)。これにより府内藩竹中氏は改易・廃絶となった。 『通航一覧』によると、堺の商人・平野屋三郎右衛門が、己の妾を重義に奪われ挙句に追放になったとして江戸の町奉行に訴え、その際に重義の不正の数々を告げた。取り調べたところ、それに間違いなしとして、重義は処罰されたとある。また、『バタヴィヤ城日誌』によると、告発者は長崎代官末次平蔵とその他数名の長崎町民で、竹中采女正が唐人の貨物を着服したり、自ら国禁の海外貿易に手を染めているという訴えであったとしている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B8%AD%E9%87%8D%E7%BE%A9
筒井定次 Tsutsui Sadatsugu(1562年-1615年) 父:筒井順国(慈明寺順国)、母:筒井順昭の娘、養父:筒井順慶、正室:秀子(織田信長の娘)、側室:市場姫(松平広忠の娘)?;幼名藤松、通称藤四郎、別名四郎。 一族で本家筋の筒井順慶(従兄、母方の叔父でもある)に子が無かったため、順慶の養嗣子となった。最初順慶の養子候補としては番条五郎が検討されており、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の承諾も得ていたが、五郎が謝絶したため定次が養子となった。 織田信長の死後は豊臣秀吉の家臣となり、大坂城へ人質として赴いた。天正12年(1584年)、順慶の死により家督を相続した。同年、小牧・長久手の戦いに参戦、この戦いで定次の家臣松倉重信が奮戦し、戦功を称えられ右近大夫に叙任された。天正13年(1585年)の紀州征伐では堀秀政などと共に千石堀城を攻めた。『絵本太閤記』には、この城攻めで二尺七寸の太刀を振りかざし奮戦する定次の姿が描かれている。筒井軍は奮戦したが、その分兵の消耗も大きかったと『多聞院日記』は言及している。 同年の四国攻めにおいては、中村一氏や蜂須賀正勝と共に先鋒に任じられ、東条関之兵衛が籠城する木津城を攻撃する。同年8月、秀吉と佐々成政との合戦(富山の役)が起こるが、定次は四国に在陣中であったため参戦せず、宇陀衆を代理に派遣した。閏8月、大和から伊賀上野へ移封(後述)。 天正14年(1586年)の九州征伐では、伊賀の留守を十市新二郎に任せ、1,500の手勢を率いて出陣、豊臣秀長の部隊に所属し、日向高城攻めなどで活躍する。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。天正18年(1590年)の小田原征伐では韮山城攻めに参加した。天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも手勢3,000を率いて出陣し、肥前名護屋に詰めたが、朝鮮に渡航した形跡は残っていない。朝鮮の役の最中、顕著な武功を立てた加藤清正に称賛の使者を送った事や、名護屋で酒色に溺れ、中坊秀祐を憂慮させたことなどが『和州諸将軍伝』に記述されている。同書の記述によると、定次は病を得、秀吉の承諾を得て途中伊賀へ帰国したという。 天正13年(1585年)、秀吉は小牧・長久手の戦い・紀州征伐・四国攻め・富山の役など外接大名をめぐる情勢が落ち着いた閏8月に領国内の大規模な国替えを行い、畿内については一門・近臣で固める政策を実施した。この国替えで大和には秀吉の弟・羽柴秀長が入国し、代わって定次は領国を大和から伊賀上野に移封された。 この移封について、大坂や都に近い大和から定次を追い出した実質上の左遷ではないかとする説がある。この説に拠れば、石高も『当代記』などでは5万石と記されるなど、大和時代に較べて大幅な減封であり、筒井氏は伊賀で苦難の時代を送ったとされる。またこの移封の背景には、大和に根を張る寺社勢力との確執があったとされる。順慶の存命中、寺社は筒井氏に対して従順であったが、順慶が死去すると筒井家の力が弱まったと判断し、反抗的な姿勢を顕在化させたことにより、筒井氏移封および秀長の統治によりこれら勢力に対する政策を打ち出した、とされる。 これとは別に、移封時よりは後世となるが慶長期のデータでは大和は約44万石、伊賀は約10万石とされているが、(大和の全てが筒井領ではないが)明確な理由もなく約30万石もの減封は考え難い、とする説がある。江戸時代の編纂物『増補筒井家下記』には定次は伊賀12万石・伊勢の内で5万石・山城の内に3万石の計20万石を与えられており、一方、移封前の大和45万石の内で与力を除いた筒井氏の純所領は18万石であり、伊賀への移封は減封ではなくむしろ、プラス2万石の加増であったとしている。また伊賀は関東に対しての備えとしての役割を持つ街道の要衝であり、そのような重要な土地に定次を配置したことは、秀吉が定次を評価し、一定以上の信頼を寄せていたことの証左と考えることができる、とする。 ともあれ、伊賀移封に伴い、定次は伊賀上野城を築城した。また、秀吉から羽柴姓を名乗る事を許され、従五位下伊賀守に任命された。 天正14年(1586年)には、灌漑用水を巡って中坊秀祐と島左近の間で争いが起こり、定次が秀祐に有利な裁定を下した事で、憤慨した左近が筒井家を去るという事件が起こる。筒井家を去った左近は石田三成に仕えた。松倉重政、森好高、布施慶春といった有力家臣達も前後して筒井家を去っている。その背景には、秀祐らの台頭と専断があった。定次は、彼らを完全に抑制するだけの力量はなかったとも推測される。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後、徳川家康から所領を安堵された(上野城を陥落させた西軍の摂津高槻城主・新庄直頼、直定父子は改易された)。しかし慶長13年(1608年)、幕命により突如として改易され、ここに大名としての筒井氏は滅亡した。 改易の理由については、度々大坂城に赴き、豊臣秀頼や大野治房らと誼を通じていたこと、領国における悪政、酒色に耽溺したから、キリシタンによる訴訟など、数々の理由が挙げられているが、最近では筒井氏も豊臣恩顧の大名であり、さらに伊賀という大坂近郊の要地を支配していたことを危険視した幕府によるでっちあげの改易ではないかとされている(事実、定次改易後の伊賀には外様ながら譜代並の藤堂高虎が入った)。どちらにせよ、定次は改易された後、その身柄は鳥居忠政のもとに預けられることとなった(『続武家補佐』)。『武徳編年集成』『東武談叢』『増補筒井家記』などは高虎の下に預けられたと記述しており、また江戸に預けられたと主張する文献でも、『大和郡山市史』は江戸の鳥居家屋敷を預け場所としている。現在では、『続武家補佐の記述』が定説として採用されている。 そして慶長20年(1615年)3月5日、大坂冬の陣にて豊臣氏に内通したという理由により、嫡男・順定と共に自害を命じられた。享年54。切腹を賜った経緯について、『伊陽安民記』『翁物語』は、大坂冬の陣の際、城中から放たれた矢の一つに筒井家で使われていたものがあり、その矢が内応の示唆を疑わせ、自害を命じられたと記している。しかしこの矢は筒井家が改易された際に四散したものが大坂城に紛れ込んだものと考えられており、幕府がこれを内応と解釈したのは定次を葬る為のでっち上げであった。 『奈良坊目拙解』は、自害した定次父子の遺骸を伝香寺の住職が大安寺に葬り、伝香寺に石塔を建立したと伝える。 筒井氏は家康の尽力で定次の従弟に当たる筒井定慶が継いだが、大坂夏の陣で豊臣方に大和郡山城を攻め落とされ、逃亡した後に自害した。これにより筒井氏その物が消滅したように書いてある書籍が多いが、定次流以外の他の筒井氏一族は東大寺住職や奉行や旗本などとして存続し、現在まで家名を保っている(筒井政憲、下曽根信敦父子など)。 定次には娘が3人がいたが、それぞれ鞆田九左衛門、新庄直氏、多田正吉に嫁いで天寿を全うした。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E5%AE%9A%E6%AC%A1

Send this to a friend