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以下數據為「信長の野望.創造 戦国立志伝」遊戲版本Ver. 1.0.2.0的「大坂の陣」劇本 戰國立志傳較之前新增人物230名,位置在平田宗茂之後,寿桂尼之前: 南部重直、伊達忠宗、蒲生忠郷、岩城吉隆、上杉定勝、徳川頼房、徳川光圀、秋田俊季、浅野長重、新庄直定、松平康長、小笠原信之、小笠原政信、土方雄重、松平忠良、本多政朝、内藤政長、松平忠昌、奥平家昌、奥平忠昌、成田氏宗、日根野吉明、本多忠純、稲垣重綱、水野忠清、榊原忠次、秋元長朝、牧野忠成、酒井忠利、高力忠房、伊奈忠政、西尾忠永、鳥居成次、真田信吉、真田信政
八木豊信、山田重直、行松正盛、尼子清久、尼子久幸、赤穴久清、赤穴光清、牛尾幸清、亀井秀綱、別所重棟、別所吉治、宇野政頼、赤松村秀、井上之房、栗山利安、黒田一成、後藤勝国、後藤元政、原田忠長、原田貞佐、三浦貞久、三浦貞盛、金田弘久、中村則治、牧良長、宇喜多興家、伊賀久隆、遠藤俊通
松井興長 Matsui Okinaga(1582年—1661年) 熊本藩松井氏としての八代城 (松江城)初代城主。松井康之の二男。正室は細川忠興の娘・古保(こほ)。式部少輔・佐渡守。 天正10年(1582年)、細川氏の家臣・松井康之の二男として丹後国久美浜にて誕生。兄・興之が文禄・慶長の役において戦死したため松井氏の世子となった。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、細川氏は関ヶ原・丹後田辺城・豊後杵築城と3方面でそれぞれ戦闘したが、興長は主君・忠興に従って会津征伐から関ヶ原の戦いへ赴いた。しかし、岐阜城攻めで負傷したため関ヶ原での本戦には参戦しなかった。戦後、細川忠興は豊前・豊後国(現在の福岡県と大分県の一部)39万石余りの大名となると、父・康之は豊後国木付(杵築)城を任せられて2万5千石という大名格の領地が与えられた。 慶長16年(1611年)に父・康之の隠居に伴い家督を相続。寛永9年(1632年)、細川氏が肥後熊本藩に国替になると、興長には玉名・合志郡の内に3万石が与えられた。 寛永14年(1637年)から起きた島原の乱では、藩主・細川忠利の命により派兵の手配や江戸幕府・他藩との交渉に奔走。一方で原城の戦いでは自ら3,700余りの兵を率いて出陣した。 正保2年(1645年)、熊本八代城にて隠居していた細川忠興(三斎)が死去すると、正保3年(1646年)から興長が八代城を預かることになった。以後、八代城は一国一城令の例外とされて存続し、代々松井家が八代城主を務めた。また、忠興の六男(松井寄之)を養嗣子に迎え、細川別姓である長岡姓を賜り、長岡佐渡守と称した。 興長は、細川忠興・忠利・光尚・綱利の4代の主君に仕え、特に晩年には、浪費癖のあった若年藩主・綱利を諫める書状を、松井家存続をかけて提出している。 寛文元年(1661年)、死去。 以後、松井家は細川血族として代々筆頭家老を勤め、明治維新まで続いた。熊本県八代市の八代市立博物館や松井文庫、松井家御茶屋だった松濱軒には、第二次世界大戦の空襲を免れた多くの松井家歴代の史料や美術品が残されている。 忠興の子で細川家の世子であった細川忠隆から、松井興長(旧名は新太郎)あての自筆書状5通が松井文庫に現存している。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E8%88%88%E9%95%B7
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