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松井康之

一色満信 Isshikii Mitsunobu(生年不詳-1582年?)父は一色義道、妻は細川藤孝(幽斎)の娘・伊也(『一色軍記』では”菊の方”);別名は義定、義俊、義有。通称を五郎。剛勇に優れ、父・義道と共に織田信長配下の長岡藤孝(細川藤孝)の奥丹後侵攻を退けたという。天正7年(1579年)に義道が自害すると一色家の家督を継承し、弓木城で残党を率いて織田方に抗戦した。信長の意向もあり抗戦に手こずった藤孝は、明智光秀の助言により政略結婚によって和議を結び、以後、丹後国を長岡氏(細川氏)と分割統治した。中郡・竹野郡・熊野郡のいわゆる奥丹後を領した義定(長岡氏は加佐郡・与謝郡を領有した)は織田政権の丹後守護として天正9年(1581年)の京都御馬揃えにも参加し、織田氏による甲州征伐にも口丹後の長岡氏(細川氏)と共に参戦している。隣国である但馬国の山名堯熙(氏政)とも親しく旧守護家同士ということで親交を深めていた。姻戚関係にあったともいう。また国許においては弓木城を居城にして城下町を形成し丹後北半国を統治した。天正10年(1582年)の山崎の戦いでは直接の上司である明智光秀に味方する(長岡氏は上司である明智光秀に背く)。戦後、天下を掌握しつつあった羽柴秀吉からの義定による謀反企図の報に接し、南丹後の長岡氏によって長岡氏の居城である宮津城内で謀殺された。その際、城内の家臣や城下の雑兵100人も松井康之、米田求政率いる軍勢に討ち取られ、弓木城も降伏した。なお、妻・伊也は降伏した際に長岡氏に戻っている。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E5%AE%9A
吉川經家 Kikkawa Tsuneie(1547年-1581年)吉川經安的長子、母為吉川經典之女、妻為境經輝之女;幼名千熊丸,通稱小太郎。弘治二年(1556年)吉川本家家督・吉川元春進攻石見,父親經安被配置在福光城。永祿四年(1561年),那賀郡音明城城主福屋隆兼因領土問題反叛毛利家。年僅14歲的經家隨父討伐福屋隆兼。天正二年(1574年),父親經安隱居,27歲的經家繼承石見吉川家。身為吉川一族(安芸吉川分支石見吉川),經家追隨「鬼吉川」吉川元春轉戰各地。隨著中國毛利與近畿織田兩個強大勢力的接鄰,兩家的戰爭亦無可避免地隨之而展開。天正五年(1577年)10月,羽柴秀吉受織田信長的之命,作為織田家中國征伐軍的總大將,負責織田家中國地區的軍務。中國地區的城池一個接一個的落入秀吉之手。天正八年(1580年)5月,秀吉完成但馬攻略,留弟弟羽柴秀長支配但馬,開始將目光投至因幡的鳥取城。天正八年(1580年)9月21日,風聞秀吉攻來的鳥取城城主山名豐國力排眾議,向家臣表達向秀吉投降的決定。家臣森下道譽、中村春統等屢勸不果,遂將山名豐國放逐,向毛利家負責山陰地區軍務的吉川元春請求派遣將領入衛鳥取城。鳥取城是依著險峻的久松山而建成的山城,西北接連丸山、雁金山,鄰近千代川、袋川。利用天然地形使鳥取城成為一座易守難攻的要害,更成為因幡國的重要據點。宗家的毛利輝元和吉川元春、小早川隆景都知道鳥取城是中國地方毛利陣營的最前線,甚為重要,關系到織田勢能否進出中國地方。吉川經家被派遣擔任鳥取城城代,入城防衛。天正九年(1581年)2月26日,經家離開福光城,從溫泉津乘船出發,由隱岐水軍將領奈佐日本助、鹽冶周防守、佐佐木三郎左衛門等護送,向鳥取城進發。3月18日,經家帶同400人的援軍進入鳥取城。面對將要來臨的秀吉大軍,經家已有被打敗的心理准備,檯棺進城,表明已有決死的覺悟。然而,當經家調查固守城池所需物資時,他大感愕然。原因是防守鳥取城的山名家部隊約1000人,毛利吉川軍約800人,鄉民約2000人,鳥取城約有全體4000人。他發現固守城池所需糧食不夠整整四千人吃。經家馬上派人從近鄰的農民籌措米糧,不過太遲。秀吉已經透過細川藤孝、宮津屋甚兵衛,宮津屋喜右衛門等人,指示附近的商人以高價買下因幡全部的米糧。經家唯有向毛利家請求糧食救援。經家的想法是,當秀吉攻來,說的是從夏末天到晚秋的籠城攻擊。因此如果有足夠糧食給城中軍民挨過秋天,秀吉大軍將要在山陰度過嚴寒的冬天,到時秀吉就不得不退。可是,鳥取城的貯糧又未知否足夠。此外,經家在雁金山築寨,配置500多人,由鹽冶周防守高清駐守,以及在丸山築寨,由奈佐日本助駐守。經家務求將連成鳥取城(久松山)一雁金山一丸山防線,以發揮鳥取城的長期作戰能力,令秀吉知難而退。經家更對鳥取城對出的加露浦做特別安排,以維持海路的聯絡。當時補給路的大動脈是由千代川進入袋川,再經由丸山城、雁金山至鳥取城。秀吉大軍的行動很快。天正九年(1581年)6月25日,秀吉率領二萬多人的大軍從姬路城出發,與但馬竹田城的秀長五千兵會合,由但馬口攻入因幡,越過戶倉峠,穿過若櫻、私都谷、三代寺、宮之下、岩倉、瀧山、小西谷,四日後突然出現於帝釋山。秀吉在鳥取城的東面本陣山著陣,俯視整個鳥取城。秀吉迅速將鳥取城徹底包圍。秀吉在鳥取城外構築柵欄、矢倉、堀溝等圍城工事。堀溝闊十間.深五間,堀底有逆木及樁子。每十町設置一座三層櫓,夜間火燃起火把,把黑夜照得像白天一樣,並下令馬迴眾巡回警固,不許城中一個人溜出城外。秀吉采用軍師黑田官兵衛的斷水斷糧的圍城戰略。鳥取城攻略成了一場兵糧戰爭。此外,秀吉派遣部將宮部繼潤占領鳥取城與雁金山之間的道祖神谷,並進攻經家設置的雁金山寨,以斷絕經家與城外的聯絡。雁金山寨的鹽冶周防守高清與宮部繼潤死戰,不過在猛攻之下,鹽冶周防守高清不敵棄寨,並跑到丸山寨,與奈佐日本助一起死守。經家失去雁金山寨的屏障,鳥取城更形孤立。天正九年(1581年)8月13日,信長更命令丹波的明智光秀、丹後的細川藤孝、攝津的池田恆興、高山右近、中川清秀准備出陣,務求拔下鳥取城。毛利家以水陸兩路向鳥取城提供補給。可是秀吉大軍之迅速著陣及嚴格的包圍網令由陸路運來的救援物資進入不了鳥取城。水路方面,毛利方以25艘大船編成水軍,押運米糧至鳥取城。天正九年(1581年)9月16日,自丹後,但馬運送軍糧至秀吉陣營的細川藤孝,松井康之為數1500人、60餘艘警備船的水軍與和毛利水軍發生沖突。結果秀吉方水軍擊敗毛利方水軍。及後松井康之在伯耆泊城再擊敗毛利水軍眾鹿足元忠,奪取船5艘船,擊破65艘。從海路運來物資不能進入鳥取城。鳥取城處於孤立無援的狀態。秀吉的「兵糧攻」令鳥取城的所有糧食在僅僅半個月便被吃光。在嚴重缺糧、軍民挨餓的情況下,鳥取城內的軍民吃樹芽,吃草;樹芽、草被吃盡後,他們殺死牛馬來吃;牛馬被殺清吃盡後,終於痛苦的開始人吃人、父母吃孩子的慘況。缺糧中的鳥取城成了一個地獄。天正九年(1581年)10月20日,秀吉以堀尾吉晴和一柳直末為使者,向經家表達投降勸告,表明只是城代的經家毋須受罪,只須讓放逐山名豐國的山名家臣森下道譽、中村春統,毛利方海賊奈佐日本助、鹽冶周防守高清、佐佐木三郎左衛門切腹自殺即可,並願意將跟隨經家入城的毛利方部隊安全遣返安芸。但經家表示即使只是城代,亦須為失去地池承擔起全部責任,表明以自己加上山名重臣森下,中村等人的切腹作為條件來換取鳥取城內所有人的性命。當初,織田信長對經家的切腹自殺雖然表現難色,但結果也接受經家的請求。天正九年(1581年)10月24日,秀吉向經家送贈酒三樽及鯛魚五尾。經家在城中設宴,與城中諸人交杯。同年10月24日未明,經家在城中山麓的真教寺切腹自殺,由靜間源兵衛介錯,年35歲。出處 http://baike.baidu.com/view/899963.htm
吉弘統幸 Yoshihiro Muneyuki(1564年-1600年)吉弘鎮信的長子,妻為志賀親守之女,堂弟為立花宗茂。天正六年(1578年)父親鎮信於耳川之戰敗死後繼承家督,之後為挽回勢力衰退的大友家而盡忠。翌年,統幸初陣,擔任大友義統、大友親家的後見役討伐因領地問題而不滿於宗麟的田原親貫的反叛。天正十四年(1586年)於戶次川之戰後護送義統逃往豐前龍王城。文祿元年(1592年)於文祿之役參陣,文祿二年(1593年)平壤之戰時大友軍接獲明軍來襲之際,反對主君大友義統撤退而進言應該幫助小西行長但不被採納,於是翌年大友家遭受改易,而黑田孝高素知統幸為武勇忠義之武將,因此統幸一時之間接受黑田家的仕官,而統幸早先與黑田二十四將兼黑田八虎、黑田三老之一的井上之房因為在朝鮮作戰時同為第三號大隊附屬將領之故一同奮戰而成為好友。因曾於文祿之役當中奪取明將李如松的軍旗立下殊功,受到豐臣秀吉褒讚為「無雙的使槍者」並拜領雙朱槍。文祿五年(1596年)前往築後柳川藩改仕堂弟立花宗茂,受領二千石俸祿,並出陣慶長之役與立花家臣矢島重成同為立花大將,參與固城守備以及諸多立花家於朝鮮的戰事。慶長五年(1600年),關原之戰戰前,統幸接到大友義統之子大友義乘仕於德川秀忠的消息,因此想前往江戶繼續為大友家盡忠,同時,毛利輝元勸誘居住在大阪的大友義統,承諾將替大友家回復舊領並提供軍事物資,因而使義統加入西軍,事後義統寫書信至柳川希望統幸能來大阪見他(但未提及加入西軍一事只是單純的要求會見)。宗茂接到信後便對統幸說:「幼君義乘仕於江戶的秀忠,要是戰起來可以說是血親相殘,可以的話希望盡量避免,但是堂兄原本便是仕於大友家,我也沒有立場和理由留你。」因此統幸離開柳川打算於大阪會見義統後至江戶跟隨義乘,但當統幸到大阪才從義統口中知道將加入西軍,統幸強烈進言不可加入有惡評的石田三成之西軍而要前往江戶跟隨義乘,但義統卻回說已經接受毛利家的軍資不可回絕,更向統幸低頭請求幫助,無奈的統幸因此為報大友家之舊恩,放棄至江戶跟隨幼君義乘而幫助主君義統再興大友家,從兵庫乘船回到豐後。一方,黑田孝高為其野心招集浪人為兵力,也勸誘大友義統加入東軍,但是義統執意於接受了毛利家的幫助而不做回應。而九州改仕他家的大友舊臣如田原紹忍(田原親賢)、宗像鎮續聽聞舊主即將要回復舊領也招集九百兵力,會合義統、統幸。9月9日,黑田軍將招集的三千兵力分七陣從中津城的東方之犬丸原開始南下,10日勸降豐後高田城代竹中重義,隨後包圍垣見一直的富來城並牽制熊谷直盛的安歧城。大友軍此時為奪回舊領豐後將陸續招集的二千兵力佈陣於立石村,面向石垣原背後則有深谷,在如此背水之陣下以統幸為右翼,紹忍、鎮續為左翼成鶴翼之陣,10日以鎮續率四百人為先鋒夜襲細川忠興家臣松井康之、有吉立行鎮守的木付城(杵築城),康之為防本為大友領地的領民反叛而早先將之捕為人質置於城中,而大友軍陸續攻入三之丸、二之丸救出人質,即將攻破本丸之際卻遭到強烈反擊,且傳聞黑田孝高的先鋒井上之房率軍來援,原本守於立石本陣的統幸為防被包夾因而接應鎮續隊撤退,11日黑田軍解除對富來城及安歧城的包圍,三千騎到達石垣原佈陣於實相寺山西二町的角殿山,13日松井康之、有吉立行二百騎及宇佐一帶的援軍時枝鎮繼二百騎於鐵輪一帶集結後也佈陣於實相寺山,一方,新降於黑田軍的豐後高田之竹中伊豆(應是竹中重義以其父重利名代的名義出陣)、不破彥左衛門率二百騎也加入黑田軍,兩軍之間相隔五町距離。12日晚間,統幸觀察敵陣勢後,抱著戰死的覺悟向義統說:「臣累代受大友家之恩惠,只能以死來報答,縱使此戰我軍能有利,也難有勝利之運氣,臣今度戰於敵陣可能無法歸來,然今能拜見尊嚴並留下名聲已無遺憾。」並和宗像鎮續進言:「希望明日之戰,主君能親上前線振奮士氣。」後拭淚帶著三十餘名部下回自身陣營,與長年家臣之竹田津統直、清田民部丞、大神監物等飲下訣別之酒,並在月色詠照之下吟辭世句:明日は誰が草むす屍や照らすらん石垣原の今日の月影(明日不知又是誰,草蓆裹屍石垣原,沐浴著同今日一樣的月光)13日,被稱為「九州的關原之戰」之石垣原之戰終於正式開打,時枝軍下山攻擊大友軍,統幸率鐵砲隊回擊時枝軍,同時松井、有吉兩隊也下山突擊大友軍,統幸則早已安排三段伏兵,偽退引誘黑田軍母里友信(母里太兵衛)七百騎和時枝軍追擊,再以鐵砲隊回擊並令埋伏左方之宗像鎮續、右方之都甲兵部包圍,沒有給對方反擊之餘裕,以此釣野伏戰術令母里、時枝軍大敗撤退,統幸手執朱槍驍勇無比,於此戰討取母里勢二十數個首級,而統幸見到後援而來的敵軍也迅速撤退整隊。此日兩軍交戰七次持續六小時,極為熾烈,二陣、三陣接連出擊的黑田軍將宗像鎮續隊殲滅,午後六時,大友方鎮續勇戰而亡,黑田方久野次左衛門與久野家臣之卑田九藏、山本勝藏、下田作右衛門、久保庄助、麻田甚內等也都先後戰亡。此時統幸遇到舊友井上之房率三百騎來包圍,統幸則於馬上揮舞著大長刀殺入敵陣,並持槍單挑討取黑田方之小田九郎左衛門,但相對於大友義統一直於本陣不動,黑田孝高則是率軍提高士氣令本佔上風的大友軍戰況轉為劣勢,統幸孤軍奮戰,即使身受多處刀傷槍傷仍討殺三、四十人,後退於石垣原高台並站在一處大石上。此時之房說道:「吉弘加兵衛殿,還記得我井上九郎右衛門這位朋友嗎?雖然過去一起經歷許多苦難,但我們是武士,忘記所有的恩情,來場決鬥吧!」對此統幸早已有討死之覺悟,回應說:「我還記得,那麼就如你所願,他人可不要插手!」統幸手持從秀吉處拜領的雙朱槍上前,兩人遂單挑,激鬥當中統幸原有一槍能貫穿之房胸膛,但統幸卻放水,之房順勢反轉一槍刺中統幸腹部,此時統幸站於高處上大喊「吉弘統幸在此,想奪取我首級的便來吧!」隨後拔起腰間脅差以十字式切腹自盡....對此之房感嘆的說:「加兵衛殿!你!竟然放水讓我立功啊...」取下統幸首級並兩手合十唸起佛經....而統幸的部下見其戰死全員殺入敵陣中,最後,將士八十三名,足輕一百九十三名血染石垣原,而統幸戰死的地方被稱為「七石激戰地」。大友軍從統幸戰死後統率開始大亂,竹田津統直、都甲兵部等大將相繼戰死,黑田方則有九野治右衛門、曾我又右衛門以下三百七十餘人犧牲,大友氏至此終於無力回天,在田原紹忍陪同下,以及母里友信斡旋下,大友義統接受黑田家的降服。統幸的首級則由黑田的武將小栗治左衛門送往孝高面前進行實首檢,並說:「這的確是吉弘加兵衛沒錯,是有大友家血緣之忠節無雙的武將呀!得找個好的場所鎮重的埋葬。」為此,孝高找來石垣村的臨濟宗寶泉寺之東嶽和尚將其葬在石垣村與鶴見村邊境的檻木旁供養,並贈諡號為「捐館統雲院殿傑勝運英大居士」。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%BC%98%E7%B5%B1%E5%B9%B8
松井康之 Matsui Yasuyuki(1550年-1612年)天文19年(1550年)、室町幕府幕臣・松井正之の次男として京都郊外の松井城に生まれた。はじめ、第13代将軍・足利義輝に仕えたが、永禄の変において主君・義輝と兄・勝之が松永久秀らによって暗殺されると、幕臣の細川藤孝(後の幽斎)と行動を共にし、後に織田信長の家臣となった。特に天正9年(1581年)に織田氏の家臣・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が鳥取城攻めを行なった時には水軍衆を率いて参戦。秀吉方の付城に兵糧を入れる一方、鳥取城に兵糧を運ぼうとしていた毛利水軍を撃退し、毛利氏家臣・鹿足元忠を討ち、その勢いで伯耆・泊城を攻めるなど活躍。この功績を信長から賞賛されたという(『細川家記』『松井家譜』)。その後、藤孝は丹後国の領主となり、康之は丹後松倉城(久美浜城)を任せられた。また。この頃に康之は細川氏の家臣になったといわれているが、はじめから藤孝の家臣であったともいわれている。天正10年(1582年)の本能寺の変後、藤孝が出家すると子の忠興に仕えた。主君・忠興が秀吉に従うと、豊臣氏による富山の役・小田原征伐・文禄・慶長の役に参戦している。特に富山の役では水軍衆を率いて活躍したという。これらの働きぶりをみた秀吉は、康之を石見半国18万石の大名にとりたてると申し出たが、康之はこれを辞退したといわれている(『寛政重修諸家譜』)。また、主君・忠興が秀吉から関白・豊臣秀次の謀反連座の疑いを受けると、康之は秀次からの借銀の返済や秀次縁者に嫁していた忠興の娘・御長(おちょう)差出要求に対して奔走し、事なきを得た。これに感謝して忠興は、娘・こほ(11歳)を康之の次男・新太郎(後の興長)の妻とした。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは忠興と共に徳川方に与した。康之は忠興の飛び領であった豊後杵築城に城代・有吉立行と共におり、丹後へ戻るよう忠興より命を受けるも既に戻れる状況下になかったため、杵築に留まった。そして攻めてきた大友吉統の攻撃を防ぎきり、救援に来た黒田如水と合流、石垣原の戦いで勝利した。この功績により戦後、忠興より2万6000石の知行と、速見郡の御領所1万7000石を預けられた。慶長17年(1612年)に死去。享年63。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E5%BA%B7%E4%B9%8B
松井興長 Matsui Okinaga(1582年—1661年)熊本藩松井氏としての八代城 (松江城)初代城主。松井康之の二男。正室は細川忠興の娘・古保(こほ)。式部少輔・佐渡守。天正10年(1582年)、細川氏の家臣・松井康之の二男として丹後国久美浜にて誕生。兄・興之が文禄・慶長の役において戦死したため松井氏の世子となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、細川氏は関ヶ原・丹後田辺城・豊後杵築城と3方面でそれぞれ戦闘したが、興長は主君・忠興に従って会津征伐から関ヶ原の戦いへ赴いた。しかし、岐阜城攻めで負傷したため関ヶ原での本戦には参戦しなかった。戦後、細川忠興は豊前・豊後国(現在の福岡県と大分県の一部)39万石余りの大名となると、父・康之は豊後国木付(杵築)城を任せられて2万5千石という大名格の領地が与えられた。慶長16年(1611年)に父・康之の隠居に伴い家督を相続。寛永9年(1632年)、細川氏が肥後熊本藩に国替になると、興長には玉名・合志郡の内に3万石が与えられた。寛永14年(1637年)から起きた島原の乱では、藩主・細川忠利の命により派兵の手配や江戸幕府・他藩との交渉に奔走。一方で原城の戦いでは自ら3,700余りの兵を率いて出陣した。正保2年(1645年)、熊本八代城にて隠居していた細川忠興(三斎)が死去すると、正保3年(1646年)から興長が八代城を預かることになった。以後、八代城は一国一城令の例外とされて存続し、代々松井家が八代城主を務めた。また、忠興の六男(松井寄之)を養嗣子に迎え、細川別姓である長岡姓を賜り、長岡佐渡守と称した。興長は、細川忠興・忠利・光尚・綱利の4代の主君に仕え、特に晩年には、浪費癖のあった若年藩主・綱利を諫める書状を、松井家存続をかけて提出している。寛文元年(1661年)、死去。以後、松井家は細川血族として代々筆頭家老を勤め、明治維新まで続いた。熊本県八代市の八代市立博物館や松井文庫、松井家御茶屋だった松濱軒には、第二次世界大戦の空襲を免れた多くの松井家歴代の史料や美術品が残されている。 忠興の子で細川家の世子であった細川忠隆から、松井興長(旧名は新太郎)あての自筆書状5通が松井文庫に現存している。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E8%88%88%E9%95%B7
細川忠興 Hosokawa Tadaoki(1563年-1646年)細川藤孝的長子、母為沼田光兼之女.沼田麝香、養父為細川輝經、正室為明智光秀三女.明智玉子、側室為郡宗保之女、明智光忠之女等等;幼名熊千代、別名與一郎、受織田信忠偏諱「忠」字,初名長岡忠興,大坂之陣後復姓細川,號三齋宗立。於京都出生,兒時當父親藤孝為足利義輝的家臣,隨室町幕府勢力削弱,父親投靠織田信長。天正五年(1577年)協助討伐叛將松永久秀,攻佔森岡城,得到信長的感謝狀,後來受到信長的任命成為建部山城城主,並成功消滅一色氏並與父親藤孝成為丹後國的守護。天正七年(1579年)與明智光秀三女玉子結進行婚姻。本能寺之變,織田信長遭到明智光秀大軍包圍而死亡,雖然岳父是明智光秀,可是忠興沒有跟隨,甚至拒絕明智光秀的邀請並攻打明智軍的據點,同時間他將正室玉子幽禁,當玉子信基督教後,又下令領內禁教。在明智光秀死後,父親藤孝退位,將宮津城交由他管理之後,自此他成為羽柴秀吉(豐臣秀吉)的家臣,隨秀吉參與小牧.長久手之戰,忠興在協助主力部隊撤退時擊退織田信雄的軍勢。天正十三年(1585年)就任從四位下,待從。之後聽命參與九州征伐,也參與討伐北條氏的小田原征伐,並攻陷韭山城。文祿.慶長之役也有參與。在豐臣秀次事件中差點遭到連坐,在家臣松井康之的奔走下得以擺脫嫌疑。在豐臣秀吉病死後,忠興開始與德川家康接近,並將三男忠利送往江戶城成為人質,因此除丹後12萬石的領地外,又被德川家康加封於豐後國杵築城6萬石。曾與豐臣家的武斷派諸侯(加藤清正、福島正則、加藤嘉明、淺野幸長、池田輝政、黑田長政等人)一同參與襲擊石田三成的計畫。關原之戰前夕,在石田三成收集大名家人人質的行動下,正室玉子因為不想成為人質而由家臣協助殺害自己。忠興在合戰中抵擋石田三成部屬島左近的軍勢,戰後被家康分封於豐前國的小倉合共三十九萬六千石。慶長十九年(1614年)參加大阪之戰,在平野與豐臣軍交戰。元和五年(1619年)決定剃髮為僧,號三齋。翌年,將家督的位置交給三男忠利。寬永九年(1632年)當忠利被移封到熊本54萬石的時候,在八代城隱居。正保二年(1646年)於八代城病死,年八十三歲,戒名松向寺殿前參議三齋宗立大居士。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88
細川興元 Hosokawa Okimoto(1566年-1619年)はじめ父や兄と共に織田信長に仕え、1577年の大和片岡城攻めでは兄・忠興とともに一番槍の武功を挙げた。その後父兄とともに丹波・丹後地方の平定に赴き、天正9年、父・藤孝が丹後へ入国した時に名を玄蕃頭興元と改め、松井康之と共に家老職に任じられる。天正10年(1582年)、当時の丹後守護職一色氏を滅亡させると、丹波郡、竹野郡網野庄、和田野など1万5千石を与えられ、10月に吉原山城に入城する。城の本丸に御陣屋を建て、二ノ丸・三ノ丸を築き、市街地を開いて城下町を嶺山(現在の京丹後市、旧峰山町に位置する)と名付けた。信長没後は羽柴秀吉に仕え、天正13年の越中富山攻め、18年の小田原征伐、文禄の役では晋州攻めなどに参戦した。興元にはなかなか子ができなかったため、文禄3(1594)年に忠興の次男である細川興秋を養子に迎えている。その翌年には興秋の母細川ガラシャの薫陶を受け、また家臣加賀山隼人(洗礼名ディオゴ)や高山右近の勧めもあり、これを受諾して洗礼を受けてキリシタンになっている。。同時に、忠興の家臣5人も洗礼を受けた。秀吉没後は徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦、関ヶ原の合戦の前哨戦である岐阜城攻め、その後の福知山城攻めにおいても細川隊の先鋒として奮戦した。関ヶ原合戦後、忠興が豊前へ国替になるとそれに従い小倉城代を勤める。しかし兄・忠興と不仲になり慶長6(1601年)12月、隣国の黒田長政に助力を得て出奔する。その後は自安(持安)と名乗り、堺の妙国寺で数年過ごしたのち父・幽斎を頼って京都の小川屋敷で隠棲した。慶長10年頃の京都には幽斎のもとに、忠興の子である忠隆(のちの長岡休無・慶長9年に廃嫡))・興秋兄弟もともに暮らしている。幽斎死後の慶長15年(1610年)、徳川秀忠から関ヶ原での勇猛果敢さを認められ下野国芳賀郡茂木に1万石を与えられて大名に列した。真実は定かでないが、秀忠は興元に10万石を与えようとしたところ、不仲の兄・忠興の反対で1万石になったといわれている。慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも参戦し、酒井忠世に属した。翌年夏の陣においては5月7日阿倍野へ進軍する際、忠世の嫡男である忠行の軍を指揮し自らも敵を討ち首十四級を得ている。大坂の陣での戦功により元和2年(1616年)には常陸国筑波・河内両郡に6,200石を加増され、拠点を茂木から谷田部へと移し谷田部藩を立藩する。また翌年元和3年(1617年)には将軍・徳川秀忠の御伽衆に任命される。元和5年(1619年)3月18日、江戸で53歳(57歳という説もあり)で死去。跡を沼田氏の娘が慶長9年(1604年)に産んだ興昌が継ぎ、谷田部藩は廃藩置県まで存続する。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E8%88%88%E5%85%83