首頁 Tags 村上武吉

村上武吉

乃美宗勝 Nomi Munekatsu(1527年-1592年) 乃美賢勝之子、正室為末長景盛之女、後室為仁保隆慰之女;通稱兵部丞,別名萬菊丸、新四郎、助四郎、浦宗勝,戒名宗勝寺殿天與勝運大居士。 因父親賢勝曾經作為浦家之養子,故又稱為浦宗勝,為沼田小早川氏之庶流出身。天文十三年(1544年),毛利元就之三男小早川隆景繼承小早川家之後,宗勝向隆景宣示效忠,其才幹獲得隆景之讚賞,擔任小早川水軍的主力武將,加入毛利家旗下,活躍於瀨戶內海及西國、九州各戰場。 天文二十年(1551年),西國第一大名大內義隆遭到家臣陶隆房(陶晴賢)叛變,於「大寧寺之變」遇害,毛利元就按部就班準備妥當後,決心舉兵與陶晴賢作戰。元就鑑於海上武力優劣為勝敗之關鍵,命宗勝利用其與能島村上水軍頭領村上武吉之血緣關係,出面說服武吉協助,宗勝以「只要借用一天的軍船而已」作為台詞,說服村上水軍的加盟,讓毛利軍得以在「嚴島會戰」時掌握制海權,圍困陶晴賢,迫使陶晴賢自殺,取得勝利。 宗勝率領水軍隨同毛利元就、小早川隆景攻佔大內家領土周防、長門,在隆景麾下,與九州霸主大友宗麟之勢力對決。永祿四年(1561年),於「門司城攻防戰」當中,在大友軍的陣前強行登陸,在兩軍將士面前,與大友軍的武將伊美彈正進行「一對一單挑」,宗勝雖然負傷,但將敵將擊斃,使得毛利軍士氣大振,大友軍因無法取勝而退兵。 永祿十二年(1569年)宗勝嗣後又參加「立花城攻防戰」,表現傑出,毛利元就特命宗勝擔任立花城的城主,負責鎮守立花城,擔當毛利軍在北九州的最前線重任。但宗麟利用大內輝弘在背後起事,毛利家腹背受敵,元就命吉川元春及小早川隆景率領的毛利大軍返回平亂,宗勝的留守兵力不過數百人,遭到大友家名將戶次鑑連(立花道雪)的包圍,宗勝與道雪談判,最後同意開城投降,宗勝雖然無法守住立花城,卻也以堂堂正正的姿態撤退回到安藝,道雪亦信守諾言並未追擊,傳為佳話。 宗勝繼續追隨小早川隆景轉戰山陽地區,於天正三年(1575年)備中常山城戰役中,敵軍的城主上野隆德之妻鶴姬(三村元親之妹)率領侍女三十多人,全副武裝殺出,在戰場上蔚為奇觀,使得毛利軍陣式大亂,宗勝趨前對應,鶴姬指明要求與宗勝單挑,宗勝雖欽佩鶴姬之武勇,但以無法與女流之輩交戰為由拒絕,但其誠懇態度,亦讓鶴姬折服,乃將「國平太刀」之傳家寶刀贈予給宗勝後,返回城內自殺,讓宗勝感慨不已。 嗣後,因毛利輝元與石山本願寺顯如合作對抗織田信長,毛利家與織田家對立,天正四年(1576年)宗勝率領毛利水軍於「第一次木津川之戰」痛擊九鬼嘉隆的織田水軍,但嘉隆受信長之命,打造鐵甲船,天正六年(1578年)於「第二次木津川之戰」擊破毛利水軍,宗勝在水戰上首次落敗,但實在是因為裝備不及所致。宗勝亦曾於羽柴秀吉(豐臣秀吉)進攻別所長治的三木城之戰中,擔任援軍完成輸送糧草任務。 秀吉統一天下後,文祿元年(1592年)宗勝曾以水軍將領身份參與攻打朝鮮的「文祿之役」,但因水土不服而病倒,不久就去世,年66歲。若論宗勝之功,其率領的水軍勢力,可以說是毛利家稱霸西國及瀨戶內海的最重要憑藉。 作者 Thbobo 出處 http://thbobo.pixnet.net/blog/post/31401613
來島通總 Kurushima Michifusa(1561年-1597年) 村上通康的四男、母為河野通直之女、正室平賀廣相之女;幼名牛松丸、通稱助兵衛、別名通昌;初名村上通總,後以居地「來島」為姓,名為來島通總。 出身於瀨戶內海上的來島村上水軍。村上水軍的歷史相當悠久,其淵源目前以屬於河野氏分支的說法最為有力,後來村上水軍分別以所盤據的島嶼為名分成能島、因島、來島三家,既各自發展又互相支援。在來島村上氏二代目吉元時,被伊予守護河野氏收編,承認為其家臣,來島村上水軍作為河野水軍負責起瀨戶內海一帶治安,在岩城島的關立和大崎下島的御手洗設置海關,進行警戒和收取帆別錢為主。所謂的帆別錢,就是關稅,約為船上貨物價格的十分之一。 在父親通康的時代,由於河野通直無子,有意收女婿村上通康為養子繼承,但是卻受到河野一族重臣的強力反對,因為河野家臣團多是傾向由予州分家當主河野通存之子通政為繼,雙方為此幾近兵戎相向,史稱「來島騷亂」,最後是豐後大名大友義鑑出面調解,通直退讓隱居,由河野通政繼位當主,但是通政不久即病故,遂以其弟通宣繼承,後來通宣娶了伊予高仙城主河野通吉的遺孀,遂以其子牛福丸為繼承人,由於通吉生前為了河野氏宗家和予州分家的和諧多次奔走,同時擅長內政在領民中威信很高,所以河野家的主權至此終於確認。此外根據近年部分日本學者的研究,多年來被認為是河野通存之子通政,很可能是河野通直之子,而來島騷亂其實是掌握兵權的女婿與擁有正統血脈的嫡子間的爭端。不論如何此一爭端的結果,對村上通康並無益處,家中主權從主家傳到分家,再從分家傳到分家的分家,就是身為河野通直直系血親的自己完全沒份,儘管在通康一代,這股怨氣並未發作,但卻傳承到了其子通總身上,雙方君臣關係自此惡化。 永祿十年(1567年),村上通康辭世,通康遺下的三子中,長子通年改繼承得居氏、次子吉清庶出、三男又右衛門早故,因此由年僅七歲的四子通總承繼家督之位,以長子得居通年及一族中的重臣村上吉繼輔佐。永祿十二年(1569年),毛利家和大友家在築前展開攻防戰,基於河野家和毛利家的同盟以及自父親通康以來和毛利家的良好關係,通總率領來島村上水軍加參毛利方,然而同時領軍出戰的能島水軍之主村上武吉卻接受了大友宗麟的寢返,無視毛利方的命令,自行將船開往周防上關,導致來島村上水軍陷入獨戰大友水軍的苦戰困境,造成來島方極大的損失,此後來島村上家與能島村上家徹底反目。 元龜二年(1571年),在毛利家的授意下由元就三子小早川隆景率小早川水軍聯合了來島通總和因島村上、乃美、兒玉、白井等各路水軍,圍勦村上武吉的本城能島城,最後村上武吉接受了小早川隆景的說服回歸毛利家,從此忠心不貳。當時制霸畿內的織田信長正領軍籠城圍攻一向宗本山石山本願寺,為了救援盟友本願寺,於天正四年(1576年)時毛利家組成下令水軍眾對石山本願寺進行物資輸送的工作。由於來島村上多是信奉曹洞宗,通總對救援一向宗並不積極,僅由重臣村上吉繼出戰,毛利家也讓村上武吉任主將,率領三島村上水軍組成的八百艘船隊出發,並在木津川口大敗織田水軍。 織田信長為了壓制毛利方在水上的優勢,信長採用剛柔並濟的手段,一方面讓九鬼嘉隆與瀧川一益著手開發新武器鐵甲船。一方面,其麾下進攻西國的主將羽柴秀吉(豐臣秀吉)也對長年有著心結的來島、能島兩家村上水軍施行分化策略,遊說勸誘通總。天正六年(1578年),三島村上水軍在木津川口為織田水軍的鐵甲船大敗,使毛利方痛失以往在水上的戰鬥優勢。同時,河野家也意圖削減通總徵收帆別錢的利益,要求上繳一部份給主家河野氏。至此,通總自父輩以來對河野氏長年來的不滿終於爆發。就心理學角度來分析,通總對河野氏當主之位有著潛在的渴望,人對本有機會卻又不再可能入手的利益有著最大的不甘與野心,對父親本來有機會可繼為河野當主卻不成,有著相當的怨氣,尤其當時通總年紀仍小,所以更容易因為對事情的看法不成熟而有著自我判斷黑白的刻板印象留存,而在心中潛藏了對河野氏的不忿,甚至有意願替父親奪來這家督之位,這樣的心理狀態其實就跟東晉時桓溫逼位不成,後來其幼子桓玄繼而行之的行為相若。 天正七年(1579年),通總聯合風早郡鹿島城城主二神豐前守和來島村上氏一族的葛籠屑城主村上吉高向河野氏樹起反旗,透過秀吉的使者接觸織田方,並且攻滅靈仙山城的中川氏和幸門城正岡氏,後二神豐前守意圖襲殺野間郡高仙山城主池原通成,但是以失敗告終,於是二神豐前守隨即進攻高仙山城,但是再度兵敗,投入來島城依附通總。當時通總起兵,未得到重臣村上吉繼的認同,於是以吉繼為首,仍有一部份家臣依然留在河野家。翌年,葛籠屑城主村上吉高被河野氏攻破,同年九月通總進攻風早郡柳原時也為橫山城主南通師所阻。 天正十年(1582年)三月,通總正式投向織田家,毛利家為防因島、能島兩家村上水軍有相同行為,於是要求兩家再度重申盟約,後聯合出兵聲討來島村上家,同時以能島村上氏為主攻入越智郡大島、風早郡忽那島和來島村上氏交戰,儘管通總和二神重成一度擊退來犯的毛利軍,但是在因島村上氏、河野氏也加入戰局後,在兵力懸殊下通總先於惠良山城戰敗,後於當年六月,龍門城、靈仙山城相繼陷落,連居城來島城亦不保,最後通總為逃生與兄長得居通年持舟越海至備中上岸,投向羽柴秀吉陣營。後在京都時,羽柴秀吉以「來島」代稱時任秀吉側近的通總,於是通總遂於此改以居地為姓,將姓氏由「村上」易為「來島」改名來島通總。 自織田信長於本能寺之變中橫死後,毛利家與羽柴秀吉再不敵對,而秀吉也在山崎會戰討伐明智光秀、賤岳之戰打敗柴田勝家後成功取代信長的地位,天正十二年(1584年)時在秀吉的命令下來島通總自村上武吉處取回了失去兩年多的來島城。後於天正十三年(1585年)秀吉發起四國討伐時,來島通總隨毛利軍進行伊予侵攻,擔任小早川軍的先鋒活躍。戰後來島通總因功領伊予野間郡一萬四千石,其兄得居通年領風早郡三千石,成為秀吉麾下大名之一。後在天正十六年(1588年),羽柴秀吉頒布海賊停止令,村上武吉因強烈反對這項律法被秀吉下令流放至長門,而來島通總則作為秀吉家臣,在參加天正十五年(1587年)的九州征伐參加毛利軍攻下豐前宇留津城、十八年的小田原征伐時與九鬼嘉隆、加藤嘉明組成水軍自海上對小田原城進攻,建立戰功。 文祿元年(1592年),秀吉起兵侵略朝鮮,來島通總攜兄長得居通年和長子康親率七百水軍與同為四國大名的福島正則、蜂須賀家政、生駒親正組成兩萬四千的第五隊大軍越過對馬海峽,主要負責人馬和兵糧的輸送。同年五月七日,李氏朝鮮的全羅左道水軍節度使李舜臣在玉浦沖擊破藤堂高虎的船隊,自此開始日本水軍完全為其所制,補給線被斷,種下了日後陸軍失敗的要因。 文祿四年(1595年),來島通總在秀吉的奏請下敘任從四位出雲守。慶長二年(1597年),日朝之間的和談破裂,來島通總於八月下旬率六百人和藤堂高虎、中川秀成、菅達長組成水軍再度侵朝攻打南原城,後呼應陸軍沿全羅道的南海岸行進,於九月六日在蘭浦一帶與李舜臣率領的朝鮮水軍遭遇,朝鮮軍伺機退向鳴梁渡,十四日移進右水營沖,藤堂高虎遂於九月十六日發動全軍衝擊朝鮮水軍,但是卻被熟悉當地海域的李舜臣利用逆流時遊走砲擊,擊沉日軍三十艘戰船,日軍大敗,史稱「鳴梁海戰」,是役之中來島通總與兄長得居通年身中流矢陣亡,享年三十七歲,也成為整個文祿、慶長之役中唯一戰死的大名。 通總戰死後,領地由長子康親繼承,後於關原之戰中因為和毛利家的關係加入西軍,戰後被除封,最後透過妻子的伯父福島正則請德川家康側近本多正信斡旋加上片桐且元的緩頰方於慶長六年(1601年)在豐後得到玖珠、日田、速見三郡一萬四千石的領地,是為森藩,並於二代通春時將苗字由「來島」改為「久留島」,在明治維新後被列為子爵,昭和時期的名童話作家久留島武彥就是其後裔。 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=00064&parent=65&sn=1277&lorder=15
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、木下秀吉、斎藤道三、松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田晴信、飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、長尾景虎、長尾顕景、樋口兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、毛利元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友義鎮、龍造寺胤信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義秋、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、戸次鑑連、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、久慈為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、後藤基次、山中幸盛、陶隆房、吉弘統虎、吉弘鎮種、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、石川信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、木下秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、武田盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、三木自綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、細野光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新斎、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠隣、城井正房、大熊朝秀、氏家行広、池田知正、土井利勝、徳山則秀、平田範重、穴山信君、一条兼定、堀秀政、百々安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、佐竹義広、三善一守、板部岡江雪斎、岡本顕逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、浅野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重経、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、三木嗣頼、和田惟政、新発田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大内定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長増、安東実季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間頼照、酒井家次、宇都宮朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪頼忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色満信、真壁氏幹、本庄実乃、大田原晴清、中村春続、朝比奈信置、安藤守就、山名豊国、鵜殿長持
蠣崎光広、南部政康、大浦光信、大浦盛信、浪岡顕具、斯波詮高、稗貫稙重、葛西政信、葛西晴重、大崎義兼、大崎高兼、留守郡宗、亘理宗元、相馬盛胤、泉田胤直、岩城常隆、岩城由隆、田村義顕、白河政朝、白河顕頼、蘆名盛高、富田盛実、二階堂行詮、二階堂晴行、安東忠季、安東尋季、戸沢秀盛、小野寺晴道、大宝寺政氏、大宝寺澄氏、最上義淳、最上義定、伊達尚宗、佐竹義舜、佐竹義信、佐竹政義、江戸通雅、小田成治、足利成氏、足利政氏、足利高基、千葉勝胤、真里谷信勝、里見義通、里見実堯、正木通綱、宇都宮成綱、宇都宮忠綱、那須資親、那須資房、大関宗増、佐野秀綱、佐野泰綱、上杉顕定、上杉憲房、長尾景長、横瀬成繁、横瀬景繁、岩松尚純、岩松昌純、長尾景春、沼田泰輝、上杉朝良、曾我祐重、太田資家、太田資頼、成田親泰
吉岡長増 Yoshioka Nagamasu(生年不詳-1573年?) 大友親秀の子・頼宗が野津氏を称し、その子・親次が吉岡氏を称したとされる。親次の弟・親重は佐土原氏を称し、長増と同時期の頃には佐土原鑑親の名も見られる。 とされているが、この系図は後世の吉岡氏が作り直したもので、当時の本物の系図は焼失したらしく、吉岡鑑興のところを見ると、『永禄3年に亡くなった』(実際は天正6年に亡くなる)、『後は吉岡鑑盈が継いだ』(存在が確認できない)、吉岡長増が『鑑忠』と名乗っていた(天文16年にも長増と名乗っているのが確認される)など誤りが多く、吉岡長増の父親は吉岡重孝になっているが本当かわからず、長増以前の人物に関してははっきりしない点が多い。信憑性の高い史料と見られている「大友家婚姻録」には、長増の子に林式部(吉岡鑑興の弟)という人がいるのが書かれている。 長増に関しても初期の活動については不明で、生没年に関しても確たる証拠がないが、大友義長(義鑑の父、1478-1518)から偏諱(「長」の字)を与えられていることを考えれば、少なくとも義長存命中には誕生し、元服を済ませているものと推定される。活動が見られるようになるのは、義長の子・義鑑の代からであり、以下で後述する。 加判衆に就任し、少弐氏の援護のため大内氏と戦った記録がある。 天文元年(1532年)に陶興房が少弐氏を滅ぼさんとして肥前に侵攻。あらかじめ筑後の領主や肥後の菊池義武、相良氏、筑前の秋月氏、肥前の有馬氏を味方につけての出陣であった。これに対し大友は大内氏の勢力拡大を防ぐため少弐氏援護に動いて援軍を送った。長増は後陣の大将として4千騎を率いて出陣。豊前、次に筑後そして筑前を転戦した。筑後では鏡城を落として陶軍の輸送路を遮断した。 翌天文2年(1533年)、大内義隆の命令を受けた豊前の佐田朝景を筆頭とする宇佐郡衆らが豊後に侵攻。長増が大将となってこれを撃退した。 義鑑には冷遇されていたのか、天文3年(1534年)に解任されて以降、目立った活動はない。また、義鑑から偏諱を賜って鑑忠(あきただ)に改名したとされるが、引き続き、長増で統一する。 長増が宿老として復帰を果たすのは、二階崩れの変が勃発し義鎮が家督を継承した天文19年(1550年)のことである。以後は大友三老の一人として臼杵鑑速や吉弘鑑理と共に重用された。 長増は豊前、筑前、肥前方分として三ヶ国の政務を担当し、また日向の土持氏も管轄した。菊池義武の反乱には佐伯惟教らの苦戦のため、志賀親守と共に出陣。小原鑑元の謀反鎮定や秋月文種討伐、門司合戦に参加。龍造寺隆信の討伐には先だって戸次鑑連と出陣。高橋鑑種の討伐には斉藤鎮実と共に城を包囲するなど主たる戦には大半参加した。この高橋攻めの際、一緒にいた立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理は秋月種実の討伐に向かうが緒戦に勝利するも夜襲を受け敗北、筑後に逃れた。事実上の総大将である宗歓は高橋攻めに残っていたが、新たに出陣を命じた田原親宏に宗麟は「吉岡宗歓に油断なく(がんばるよう)伝えろ」と命令している。(永禄10年10月晦日大友宗麟書状より)急遽宗歓を頼りにする宗麟の様子が見られる。 弘治3年(1557年)より、滅亡した大内氏に代わって北九州に進出するようになった毛利氏との戦いの責任者となり、数々の功績を挙げた。中でも長増が本領を発揮したのは、永禄12年(1569年)に毛利軍が大友領に侵攻して来たときであった。その頃、大友軍は毛利軍の猛攻に押され、筑前の大半を奪われて滅亡の危機に立たされていた。これに対し長増は、毛利の主力軍が筑前に集結しているのを見て尼子の遺臣山中幸盛に弾薬、鉄砲資金を援助して尼子の侵攻を手助けし、毛利に下っていた尼子旧臣の米原綱寛に山中幸盛に合力するよう促し成功。長増は大内輝弘を送るにあたり、周辺海域を支配している村上水軍の村上武吉を筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、この寝返りを毛利元就の策略と疑い、8月9日に大友水軍の若林鎮興に筑前の毛利軍に送る食料補給基地(周防にある)を襲わせて村上の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをして、鎮興の攻撃は成功した。大内旧臣たちに大内輝弘に協力するよう調略を開始し、さらに豊前小倉城を攻めると流言を流してわざと毛利氏につかませ、10月9日に田原親宏に小倉城を攻撃させて吉川元春、小早川隆景の注意を釘付けにし、同日、輝弘に兵を与えて筑前に出兵中の隙を突いて毛利領の周防に侵攻させた。10月10日、大内輝弘、周防の秋穂浦に上陸。毛利氏の強みは村上水軍に守られ、大友が周防、長門を攻撃できないことであった。これを突破したことは長門に本陣を構える元就を驚愕させる。この策は見事に当たり、兵がいない周防は輝弘によって次々と侵食されてゆき、驚いた元就は主力軍を全て筑前から撤退させた。こうして、大友氏は滅亡の危機を免れたのである(大内輝弘の乱)。宗歓は一度、引退を口にしており、親しい関係である筑後の田尻親種に対し「私は極めて年を取っており、(後は戸次鑑連たちに任せて)安心して隠居する決意をしていたのだが、今鑑連、鑑速、鑑理の三人が出陣中なので、筑後の領主たち、鑑連たちの日夜の苦労、迷惑を察しなければなりません」(永禄11年から12年ごろの)9月6日付け吉岡宗歓書状より) しかし宗歓は元亀3年の11月まで家老職に居り、どうも引き止められたらしい。 大友の政治をよく担当した吉岡長増、臼杵鑑速を豊州二老という。なお豊州三老は政務と軍事の二つに分かれていて、小早川隆景等のいう豊州三老(または豊後三老)は軍事面の立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理を指している。 天文19年の後半、菊池義武の討伐が済むと大友は肥後に検使をおくり長増は他の家老と共に肥後経営を行う。 永禄2年(1559年)の9月、今度は豊前、筑前に検使を派遣していた。長増は豊前方分としては宇佐八幡を管轄していたが今度も領主たちから訴訟があるとみて宇佐八幡宮の政務を代役として吉弘鑑理を派遣していた。このころ多忙であったようでその時の長増の書状に鑑理へ「鑑理に頼んで悪いと思うが私の疲労を察してほしい」と記している。また「宇佐宮側に異存のない様によく相談する事が大事であり、社役以下少しも怠たらないよう仕事をさせなさい。鑑理は機会を見て彼らに助言することが第一です。」と念を押して助言している。同年8月、長増は田北鑑生、吉弘鑑理と共に横岳資誠と小田鎮光(小田政光の嫡男)との領地境界線を裁決し仲直りさせ、9月には戦いを続ける龍造寺隆信と神代勝利を和睦させた。 永禄4年(1561年)、奈多鑑基は娘が大友義鎮の正妻になったことで寺社奉行に取り立てられたため、長増は宇佐八幡の政務から身を引いた。しかし、宇佐八幡の分社、八幡奈多宮の神官であった鑑基は義鎮を後ろ盾にして、本社宇佐八幡の領地を横領、権威の一部を剥奪、さらに前大宮司の家を兵を送って破壊するなど横暴を極める。たまらず宇佐宮の宮司たちは同年9月に長増、臼杵鑑速の二老に訴えでた。驚いた長増は謝罪し、前大宮司のもとに警備兵を送りさらに修繕などを約束した。鑑基には鑑速らと共にこれまでの行為を叱責し、横領などを白紙にする意見をし、実行した。この同年8月頃、島津家老の伊集院忠倉の申し出を受け、豊州二老は日向の伊東義祐と日向の島津家(豊州島津)に和睦命令をだし成立させる。島津と大友の仲介となった肥後の阿蘇惟将の家臣、隈庄親昌は書状で「肥後方分の志賀親守はいうに及ばず、吉岡長増、臼杵鑑速にまで私が仲良くさせてもらっているので、(二人を通じて)義鎮公のお耳に入り、大友が動いてくれたのであろうか」と記し、この頃政治において二人の存在感が際立っているのがわかる。 永禄5年(1562年)の5月、大友義鎮(宗麟)と共に出家、吉岡宗歓と号し、筆頭家老に就任、ならびに対毛利戦総責任者となる。 永禄7年(1564年)7月、幕府の仲介をもって毛利と大友は正式に和睦。だが毛利元就は無視して豊前、筑前の領主らに調略を続けたため宗歓と鑑速は幕府に訴え出た。このころから元就に正攻法は通じないと知った宗歓は策略を巡らす。二度目の龍造寺隆信の討伐では宗麟は痺れを切らし、大友親貞を派兵させたが今山の戦いで大敗(この時、肥後の城、隈部・筑後の五条の将らが捕まった)。主力はいまだ健在であったが、大友氏側から和睦を提案。宗歓は戸次鑑連、臼杵鑑速をつれて佐賀城に入り、龍造寺隆信側と対面し和睦を成立させ、人質の解放と龍造寺が肥前の領主たちから奪った領地の返還等について話合われた。また島津義久が相良義陽の天草を攻めるという噂が立ち、義陽は大友に相談。宗歓、鑑速が対応している。かって豊州二老は他の家老と島津貴久に友好の使者を送っており、永禄5年以降には宗歓、鑑速は薩摩に入り、島津貴久と謁見し伊東義祐の対応をめぐって協議した経験を持っており、島津側にも名前が知られている。またこの2人が島津氏との交渉、対応の担当官でもある。特に宗歓は宗麟時代に和睦交渉をことごとく担当していることが当時の書状で分かっている。さらに領内安定のため、永禄8年に田原親宏の長女を秋月種実に、元亀元年に臼杵鑑速の娘を宗像氏貞に、永禄10年から元亀2年に斎藤鎮実の娘を筑紫広門にそれぞれ嫁がせ懐柔策をとった。 天正元年(1573年)ごろに没したと推測されている。長増はただ一人、宗麟の祖父大友義長の時に元服した人物であり、吉岡家で初めて加判衆になったといわれ、大友義鑑は遺言状で吉岡長増を重職に就けるよう指名し、新当主義鎮は重職の最高職、加判衆に就任させた。一度辞めたものが復帰することも実に異例であった。永禄年間には筆頭家老になり、臼杵鑑速とともに政治の中心人物として宗麟時代の最長老であった。立花道雪は耳川の合戦の大敗後、宗麟、家臣団に手紙を送り「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と書き送っている。享年は70代半ばから80ほどと思われる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B2%A1%E9%95%B7%E5%A2%97
小西行長 Konishi Yukinaga(1557年-1600年) 小西隆佐的義子?、母為ワクサ、正室為菊姬、側室為立野殿;別名彌九郎、如信,洗禮名奧古斯都。 隨父親隆佐在界市經營藥草生意,但後被委派至岡山魚服屋處與備前大名宇喜多直家進行貿易,有一次正逢直家外出時,遇到三浦家遺臣的襲擊,當時直家身邊並沒有帶護衛,只有幾名小廝,此時行長挺身而出擊退刺客,令直家安全脫困,此事之後行長受到直家賞識,將他由商人破格拔擢為武士。 歸入宇喜多家的行長向家中武將遠藤又次郎學習火槍及水軍戰法。在橫行瀨戶內海的海賊村上武吉宣告依附嚴島海戰後勢力大增的安藝毛利家後,為應付毛利家逐漸逼近的威脅,直家起用遠藤又次郎和行長組織宇喜多家的水軍以鞏固岡山城的安全。 在小寺家家老黑田官兵衛的引導下,織田家以羽柴秀吉(豐臣秀吉)為總大將出兵山陽道,夾在織田與毛利兩大強豪之間,據有備前、美作兩國的宇喜多直家雖在第二次上月城之戰時,借毛利家的兵力奪回被秀吉兩大軍師黑田官兵衛和竹中半兵衛所攻下的上月城。但是第一次上月城之戰時,不論是行長與遠藤又次郎,又或者是一代奸雄宇喜多直家,都被織田家強大的武威所懾,所以在第二次上月城之戰時直家故意稱病不出,並且在戰後派能言善道的行長為使與秀吉進行交涉,令人意想不到的是這項任務竟是行長一生的轉折點。 歸入豐臣 為完成這項任務,行長徹底發揮商人這個角色的外交天賦。他讓義父隆佐借出大筆金錢予豐臣秀吉資助軍費,並換得日後播磨和但馬的優先經商權,使隆佐大大獲利,然後以「藥商小西隆佐義子」的名份晉見秀吉,轉達宇喜多直家的心意,順利和織田方達到一定的協議同時也避免毛利家查覺直家的二心。行長圓融的手法令直家十分滿意,慢慢地將行長提升到與三家老相當的地位。 當織田家掃蕩三木城別所家軍團長荒木村重的反叛後,宇喜多直家正式投入織田家陣營,在豐臣秀吉的努力下宇喜多家保住全領部領土。天正九年(1581年)直家重病去世,他逝世前,秀吉帶成為人質的宇喜多秀家到岡山城在直家面前替他元服,並讓行長擔任他的太傅。隨著秀家質於姬路城,行長也與秀吉接近頻繁,從另一角度來看,行長已等若秀吉的家臣,更在天正九年(1581年)時於秀吉攻打播磨寶津時被任命為水上兵站奉行,即水軍後方補給司令官,負責維持和增進水軍參戰部隊的戰鬥力和支援作戰的工作。 受封肥後 天正十年(1582年)織田信長死後,豐臣秀吉擊敗柴田勝家登上天下人的寶座,行長在他麾下擔任水軍將領,水攻太田城時,使用安宅船與大砲動員攻擊。他亦負責管理小豆島及瀨戶內海一帶水上輸送的職務,之後官拜從五位下攝津守,得到兩萬石的領地,被賜豐臣姓。同時在高山重友的勸說下改信天主教。行長於天正十五年(1587年)跟隨秀吉進行九州征伐,翌年由於肥後國主佐佐成政治理不力,領內引發一揆動亂,秀吉派出行長與加藤清正共同前往鎮壓,因功得到肥後南半國宇土郡、益城郡、八代郡二十四萬石領地,隨後又與加藤清正合力平定肥後的天草之亂。平定後行長於天正十六年(1588年)在中世宇土古城之東築起宇土城作為據點,行長由一介商人之子躍為官拜從五位下二十四萬石的大名。由於在信奉基督教的大名行長影響下,傳教活動旺盛,他的領地一帶估計有十萬基督徒,更指揮著由一萬五千天主教徒組成的軍隊。由於天主教的迅速擴張,引起傳統的佛教和神道教的反對。 文祿之役 統一日本後的豐臣秀吉對中國產生野心,遣使命令朝鮮借道讓他進軍中國,但卻被朝鮮王李昖嚴正拒絕,秀吉大怒發兵攻打朝鮮。在文祿之戰中,秀吉將先鋒分為三隊,而第一隊行長擔任水軍兼先鋒部隊,領一萬八千人。由於行長和女婿宗義智都常年與朝鮮貿易對朝鮮的地理、人文有相當認識,更通曉中朝語言,所以能得到先鋒第一隊的總大將一職。 五月二十四日清晨五點,行長率軍在釜山登陸,翌日二番隊的加藤清正也中午緊接與行長會師,然後加藤清正向蔚山一進發,行長則沿南江川直上,率領一萬八千人,商人出身且長期擔任後備兵站奉行的行長深知補給線的重要,在完成兵站的調度後,一路延忠清道逐步北上尚州、忠州,勢如破竹地穿過250公里的路程與加藤清正於六月十二日會師中州進據漢城,本來加藤清正一向就瞧不起商家出身的行長,所以兩人素來不睦,更在漢城為戰利品和戰功發生爭吵,加藤清正還一刀劈碎小西視若神明的天主聖像,兩人大起爭端。 隨後行長與三番隊的黑田長政由黃海道北上攻下平安道上的平壤,得到豐臣秀吉的讚賞。此時人在義州的朝鮮王李昖急速向明廷告急,明東征總督李如松部隊抵達鴨綠江,與行長部於平壤交戰,史稱平壤會戰。李如松誘降行長未遂,中朝聯軍發動總攻,佯攻東南將日軍兵力調走,然後猛攻平壤城西,並以埋伏的虎蹲炮、射程較遠的大將軍炮及佛朗機炮轟日軍,日軍火力不如聯軍傷亡慘重,加上彈藥庫為明軍炮火催毀,七星門被炸開,於是行長撤出平壤,是役殲滅日軍一萬二千餘人,隨後並恢復朝鮮北部四道,行長鋪陳的兵站線全被毀壞。 慶長之役 眼見戰事逐漸不利,豐臣秀吉興起和談之意,命行長負責再次與明使沈惟敬進行講和及斡旋的事務,提出日明貿易再開、跟割讓朝鮮四道等條件,但隨著明神宗一紙"冊封豐臣秀吉為日本王"的聖旨,談判宣告破裂。秀吉再遣十二萬兵馬進攻朝鮮,行長率二番隊一萬四千人出陣,連奪梁山、三浪、慶州,和宇喜多秀家、加藤清正、島津義弘等日軍參與攻略南原城,後駐軍朝鮮西南部的順天倭城。但期後遭受明軍劉綎的包圍苦守城池,行長的左路軍只好也隨同撤退,於是兩軍在東南部沿海布陣固守。 豐臣秀吉病歿後,接掌政權的德川家康和前田利家等五大老下命征朝軍回國,在順天的行長連忙領兵脫出明、朝聯軍的劉綎、陳璘及李舜臣的圍攻。在撤退至蔚山時受阻求援於島津義弘,為此島津義弘連同立花宗茂和高橋統增、小早川秀包、宗義智、寺澤廣高等由海路前往救援,行長則趁陳璘、李舜臣前往截擊日軍援軍於露梁海戰時成功脫出順天城,於十一月由露梁海峽大敗後撤退。由於島津義弘的力戰,行長才順利歸國。 關原之戰 豐臣秀吉死後,行長與摯友石田三成結為同盟,與德川家康及武鬥派家臣對抗。為拉攏搖擺的小早川秀秋,行長與大谷吉繼、石田三成、長束正家、安國寺惠瓊五人連署誓書,安撫小早川秀秋,並許諾在豐臣秀賴十五歲成年之前,關白一職由小早川秀秋擔當,同時以播磨一國相贈以為條件。戰前西軍於大垣城召開作戰會議,島津義弘及宇喜多秀家認為德川家康軍隊經過長途的行軍後,會感覺疲倦,應趁機夜襲,但石田三成及行長卻認為這方法太冒險,而決定堅守大垣城。 關原位於美濃西面,為北面伊吹山脈,東南面南宮山,西南面松尾山,西面山中村及南天滿山,西北面的北天滿山及笀尾山包圍住,乃是一個馬蹄形的盆地。行長軍分成兩段布陣於笀尾山南面的北天滿山,而笀尾山與北天滿山之間的街道則是由島津義弘及島津豐久兩叔侄防守,與小西軍相對的南天滿山則是宇喜多秀家的陣地。 在井伊直政突襲宇喜多秀家部隊引發戰火後,形成全面混戰,行長同時與織田有樂、古田重勝、寺澤廣高及金森長近的部隊交鋒,之後寺澤廣高部隊亦轉來支援金森長近等人,雖是以寡敵眾行長在與織田有樂等的激戰中保持不分高下的局面。開戰後四小時,日正中天,已是晌午時分,扎於松尾山的小早川秀秋部隊和赤座直保等人發動叛變,對大谷吉繼發動攻擊。到下午一時,大谷吉繼部隊被消滅,行長部隊引起嚴重混亂,任憑行長又鼓勵又厲叱,仍無法消除手下兵士不安的心理,最後在東軍部隊圍剿下,行長兵敗逃往伊吹山。 兵敗身死 戰敗後,逃往伊吹山東面的糟賀村的行長與當地農民林藏主會面,他深知自己絕無成功逃走的希望,林藏主便勸行長切腹以彰武士精神,但是行長以基督教教義不許自裁為由而拒絕,反勸林藏主縛捕他以獲獎賞。九月十九日林藏主將行長交至其領主竹中重門手中,竹中重門立即將行長送交至德川家康在草津的陣地,林藏主則獲賞賜黃金十枚。最後與石田三成和安國寺惠瓊一起在大阪街上遊街,十月初一於六條河原斬首,在三條河原梟首示眾,年四十三歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7
山中幸盛 Yamanaka Yukimori(1545年-1578年) 山中滿幸的次子、母為立原綱重之女.なみ、養父龜井秀綱、正室為龜井秀綱之女;實名幸盛,幼名甚次郎,通稱鹿介,別名鹿之介、鹿之助、鹿助,渾名山陰の麒麟兒。尼子十勇士之一,以山中鹿之介之名廣為人知。 幸盛の前半生は、確実な史料が殘っておらず不明な點が多い。通説によれば、天文14年8月15日(1545年9月20日)に出雲國富田莊(現在の島根県安來市広瀬町)に生まれたとされる(詳しくは#出自の謎を參照。)。 山中氏の家系も不明な點が多い。山中家の系図はいくつか存在するが、有力な説としては宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門衆である。尼子清定の弟である山中幸久を祖とし、幸盛はこの幸久の4代(又は6代)後裔である。 山中家は尼子氏の家老であったが、父・満幸が早世していたため生活は貧しく、幸盛は母1人の手によって育てられた。幼少の頃より尼子氏に仕え、8歳のとき敵を討ち、10歳の頃から弓馬や軍法に執心し、13歳のとき敵の首を捕って手把を立てた。 16歳のとき、主君・尼子義久の伯耆尾高城攻めに隨行し、因伯(因幡國と伯耆國。現在の鳥取県)に鳴り響く豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取った。 幸盛は次男であったため、尼子氏の重臣である亀井氏の養子となるが、後に山中家に戻り當主である兄の幸高(甚太郎)に替わって家督を継いだ。 尼子氏の滅亡 永祿5年7月3日(1562年8月2日)、毛利氏は尼子氏を滅ぼすため出雲國へ進軍する。毛利氏は去る天文4年10月1日(1555年10月16日)に陶晴賢を厳島の戦いで破ると、弘治3年(1557年)には大內氏を滅ぼし、防長(周防國と長門國)を新たに支配していた。また、永祿5年6月には石見國を勢力下に治め、中國地方の一大勢力となっていた。一方の尼子氏は、當主であった尼子晴久が永祿3年12月24日(1561年1月9日)に急死したため、晴久の嫡男・義久が跡を継いでいたが、外交政策の失敗等もあり勢力が衰えつつあった。 毛利元就に率いられた毛利軍は出雲へ入國すると、尼子方の有力國人らを次々と服従させつつ陣を進めていく。そして、永祿5年12月(1563年1月)には荒隈(洗合)へ本陣を構え、尼子氏の居城・月山富田城攻めを本格化させる。 永祿6年8月13日(1563年8月31日)、毛利軍は、尼子十旗の第1とされる白鹿城へ攻撃を開始する。この白鹿城は、宍道湖の北岸に位置し、日本海に面した島根半島と月山富田城を結ぶ要衝であり、補給路を確保する上でも重要な拠點であった。 9月21日(10月8日)、尼子氏は白鹿城を救援するため、尼子倫久を大將とした軍を派遣し、幸盛もこれに従軍する。戦いの結果、毛利軍が勝利し尼子軍は月山富田城へ撤退した(白鹿城の戦い)。退卻の際、軍の後陣に控えていた幸盛は、約200の兵を率いて殿を擔當し、追撃する吉川元春・小早川隆景の両軍を7度にわたって撃退し、敵の首を7つ討ち取った。なお、白鹿城は10月中旬頃に落城している 。 永祿7年(1564年)、尼子軍は杉原盛重率いる毛利軍と美保関で戦い、幸盛もこれに參戦する。このとき、日本海側からの補給拠點である白鹿城を攻略された尼子氏は、中海方面からの補給路を確保するため伯耆國の拠點確保と勢力の挽回に努めていた。尼子軍はこの戦いには勝利するも、続く伯耆國の重要拠點の1つである尾高城の戦いで毛利軍に敗れた。 以後、伯耆國は毛利軍によって制圧されていくこととなる。こうして尼子軍は各地で敗れつつ補給の道を絶たれ、尼子氏の居城・月山富田城は完全に孤立化していくのである。 永祿8年4月(1565年5月)、毛利軍は、月山富田城の北西3kmにある星上山(現在の島根県松江市八雲町) に本陣を構えると、城下の麥を刈り取って月山富田城へ攻撃を開始する。 4月17日(5月16日)、毛利軍は月山富田城へ総攻撃を行う(第二次月山富田城の戦い)。幸盛は塩谷口(しおたにぐち)で吉川元春らの軍と戦い、これを撃退した。 また、この戦いで幸盛は、高野監物を一騎討ちで討ち取った。 4月28日(5月27日)、毛利軍は城を落とすことができず敗れ、月山富田城から約25km離れた荒隈城まで撤退した。 9月、毛利軍は再び月山富田城を攻めた。この戦いで幸盛は品川將員を一騎討ちで討ち取った(山中幸盛・品川將員の一騎討ち)。また同月、幸盛は、白潟(現在の島根県松江市)に滯在していた小河內幸綱ら率いる毛利軍を夜討ちし、多數の兵を討ち取った。 永祿9年5月24日(1566年6月11日)、毛利軍は三たび月山富田城へ総攻撃を行う。しかし、城を落とすことが出來なかった。 11月21日(1567年1月1日)、城內の兵糧が欠乏し將兵の逃亡者も相次いだため、これ以上戦うことが出來ないと判斷した尼子義久は、毛利軍に降伏を申し出る。そして11月28日(1月8日)、義久は城を明け渡し、ここに戦國大名尼子氏は一時的に滅びることとなる。義久ら尼子3兄弟は、一部の従者と共に円明寺へ連行され幽閉されることとなった。幸盛は隨従を願い出たが許されず、出雲大社で主君と別れた。その後、幸盛は尼子家を再興するため盡力することとなる。 第一次尼子再興運動 尼子氏滅亡後、幸盛は牢人となる。その後、永祿9年 - 同11年の間(1566年 - 1568年)の幸盛の足取りは定かでない。諸説によれば、有馬溫泉で傷を癒した後に順禮の姿をして東國へ赴き、武田氏(武田信玄)・長尾氏(上杉謙信)・北條氏(北條氏康)などの軍法をうかがい、越前國の朝倉氏の家風を尋ね入り、その後、京に上ったとされる。 永祿11年(1568年)、幸盛は立原久綱ら尼子諸牢人とともに、京都の東福寺で僧をしていた尼子誠久の遺児・勝久を還俗させると、各地の尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機會をうかがった。 永祿12年4月(1569年5月)、毛利元就が大友氏を攻撃するため北九州へ軍を派遣すると、挙兵の機會をうかがっていた幸盛は、出雲國へ侵攻を開始する。 このとき、幸盛ら尼子再興軍を支援していたのは山名祐豊であった。山名氏の総帥として、長年にわたって尼子氏と敵対してきた祐豊であったが、領國であった備後・伯耆・因幡を毛利氏によって制圧されてきており、勢力回覆を図るにあたって手を結んだと考えられる。もっとも、その後に毛利氏から要請を受けた織田信長の軍によって領內を攻められ、支援はままならなかったようである。 6月23日(8月6日)、幸盛らは丹後國もしくは但馬國から數百艘の船に乗って海を渡り島根半島に上陸すると、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する。幸盛らがここで再興の檄を飛ばすと、國內に潛伏していた舊臣らが続々と集結し、5日の內に3,000餘りの軍勢になったという。そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は、多賀元龍が籠もる新山城(真山城)を攻略すると、山陰地方の各地で合戦を繰り広げつつ勢力を拡大していった(尼子再興軍の雲州侵攻)。 7月中旬、幸盛は、かつての尼子氏の居城・月山富田城の攻略に取りかかる(尼子再興軍による月山富田城の戦い)。この戦いは、力攻めによる攻略とはならなかったものの、城に籠もる毛利軍の兵糧は欠乏しつつあり、また、城內より投降者がでるなど尼子方が優勢であった。 しかし、石見國で活動していた尼子再興軍が、毛利軍に攻められ危険な狀態となると、幸盛は、城攻めを一旦中止して救援に向う。 石見に駆けつけた幸盛は、毛利軍を原手郡( 現在の島根県出雲市斐川地域の平野部あたり )で撃破すると(原手合戦)、その後、出雲國內において16の城を攻略し、その勢力を6,000餘りにまで拡大させた。 また、元就が尼子再興軍を討伐するため、九州より帰陣させた米原綱寛、三刀屋久扶などの出雲國の有力國人を相次いで味方につけると、出雲國の一円を支配するまでになった。 さらに、伯耆國においても尾高城を始め、中央の八橋城、因幡國との境にある岩倉城など、多くの主要な城を攻略。謀略を用いて末吉城の神西元通を寢返らせたのをはじめ、日野郡一帯を支配する日野衆を味方につけるなど、伯耆國全土にも勢力を拡大していった。その他、因幡・備後・備中・美作においても勢力を拡張し、戦いを繰り広げていたことが分かっている。 加えて10月11日(11月19日)、大內輝弘が大內家再興を目指して周防國山口へ攻め込み、築山館跡を占領する事態が発生する。10月15日(11月23日)、相次ぐ領內の反亂により支配體制の危機を感じた元就は、反亂軍の鎮圧を優先させるため、九州から軍を撤収させることを決定する。10月18日(11月26日)、吉川元春・小早川隆景ら毛利軍は、九州から陣を撤収して長府に帰著すると、10月25日頃に大內家再興軍の反亂を鎮圧する。輝弘は富海で自刃し、大內家再興の戦いは僅か半月足らずで終結した(大內輝弘の亂)。反亂を鎮圧した毛利軍は、12月23日に長府にあった陣を引き払い、居城である吉田郡山城へ帰還している。 永祿13年1月6日(1570年2月10日)、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より大軍を率い出陣する。毛利軍は北上して出雲國へ入國すると、尼子方の諸城を次々と攻略しながら月山富田城へ陣を進めていった。 一方の尼子再興軍は、先の原手郡の戦いや隠岐為清の反亂(美保関の合戦)などによって時間をとられ、出雲國の拠點である月山富田城を攻略することができないでいた。そのため尼子再興軍は、毛利軍の進軍を防ぐため布部山(現在の島根県安來市広瀬町布部)に陣を張り決戦に備える。 2月14日(3月20日)、尼子再興軍は、布部山で毛利軍と戦い敗北する(布部山の戦い)。幸盛は、味方が敗走するなかで最後まで殿として殘り、軍の崩壊を防いだ後に居城の新山城へ帰還している。戦いに勝利した毛利軍は、翌2月15日に月山富田城に入城し、尼子再興軍の包囲から城を解放する。一方の尼子再興軍は、この戦いに敗れたことにより、以後衰亡していくこととなる。 6月、布部山の敗戦により出雲における尼子再興軍の勢力は、新山城と高瀬城の2城となるまで追いつめられていた。7月 - 8月には、両城下で毛利軍による麥薙ぎが行われるなど危険な狀態となるが、9月5日(10月4日)、安芸國で元就が重病に陥り、吉川元春を殘して毛利輝元・小早川隆景らの軍が國許へ帰還すると狀況が一変する。山陰地方の毛利軍が手薄になったことにより、幸盛ら尼子再興軍は再びその勢力を盛り返した。 幸盛ら尼子再興軍は、中海における海運の重要拠點である十神山城や末吉城など、出雲・伯耆の國境にある城を次々と奪還するとともに、一時、清水山要害を攻略して再び月山富田城へ迫った。また、高瀬城に籠もる米原綱寛との連攜を図るため、宍道湖北岸に満願寺城を建設。 吉川元春を追い詰め、その居城である手崎城(平田城)へ攻め込むなど、その攻勢を強めている。さらに、隠岐國の國人・隠岐弾正左衛門尉を味方につけることに成功しており、日本海側の制海権も取得しつつあった尼子再興軍は、再びその勢力を島根半島全域にまで拡大する。 元亀元年10月6日(1570年11月3日)、出雲國における毛利軍劣勢の知らせを受けた元就は、毛利軍を援護するとともに、日本海側の制海権を奪還するため、直屬の水軍部隊・児玉就英を派遣する。この援軍によって、その後の戦いは次第に毛利軍が優勢となり、10月下旬頃には十神山城が、12月には満願寺城が落城するなど、尼子再興軍の勢力は次第に縮小していくこととなる。 そして、元亀2年8月20日(1571年9月8日)頃には、最後の拠點であった新山城が落城。籠城していた尼子勝久は、落城前に脫出して隠岐へ逃れている。 同じ頃、末吉城に籠もり戦っていた幸盛も敗れ、吉川元春に捕らえられる。幸盛は尾高城へ幽閉されることとなるが、その後に隙をついて脫出している。 こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、1回目の再興運動は失敗に終わった。 第二次尼子再興運動 尾高城から脫出した幸盛は、海を渡って隠岐國へ逃れると、元亀3年3月 - 4月(1572年2月 - 3月)頃には再び海を渡って本土へ戻り、但馬國に潛伏する。 そして、瀬戸內海の海賊・村上武吉や美作三浦氏の重臣・牧尚春らと連絡を取りつつ、再び尼子家再興の機會をうかがっていた。なお、このとき幸盛は亀井姓を名乗っていたようである。 元亀4年(1573年)初頭、幸盛は但馬國から因幡國へ攻め込み、桐山城を攻略して拠點とすると、様々な軍事活動を開始する。幸盛は、因幡國を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を計畫していたと思われる。 このとき、因幡國の実質的な領主は、毛利方の國人・武田高信であった。高信は、去る永祿6年(1563年)に當時の因幡國主・山名豊數と爭って勝利を収めると、毛利氏と連攜をとりつつ因幡の地で勢力拡大をしてきた人物である。 幸盛ら尼子再興軍は、豊數の弟で山名氏再起を目指す山名豊國を味方につけると、因幡國の各地で転戦し勝利を収め、勢力を拡大する。そして、天正元年8月1日(1573年8月28日)、甑山城(こしきやまじょう)の戦いで武田軍に決定的な勝利を得ると(鳥取のたのも崩れ)、高信の居城・鳥取城攻めを本格化させる。 尼子再興軍は、約1,000の兵で武田軍5,000が籠もる鳥取城へ攻め寄ると、その後も攻勢を続け、同年9月下旬に鳥取城を攻略した(尼子再興軍による鳥取城の戦い)。 城に籠もっていた武田家臣らは、尼子再興軍に人質を差し出し降伏した。 鳥取城には山名豊國が入り、尼子再興軍は、私部城に本拠を構え居城とした。 幸盛はその後、10日の間に15城を攻略するなどして勢力を3,000餘りに拡大し、東因幡一円の支配に成功した。 ところが11月上旬、山名豊國が、田公高次などの懐柔により毛利方に寢返る。尼子再興軍は、わずか1ヶ月餘りで毛利氏に鳥取城を奪い返されてしまった。鳥取城を奪われ勢力が不安定となった幸盛は、その後、因幡各地でさまざまな軍事活動・調略を行い、因幡平定に向けて盡力することとなる。 因幡國內で毛利軍と交戦する一方、美作美浦氏や備前國の浦上氏、豊前國の大友氏などの反毛利勢力と連攜を図るとともに、密かに織田信長配下の柴田勝家と連絡を取って體制の立て直しを図っていった。 これら戦いの中で幸盛は、天正2年11月(1574年12月)、美作三浦氏の居城・高田城で宇喜多直家軍を撃退し功績を挙げたとして、大友宗麟から火薬の原料となる塩硝1壷をもらい受けるなどしている。 天正3年5月(1575年7月)、但馬國の山名祐豊が毛利氏と「芸但和睦」と呼ばれる和平交渉を成立させる。 かつて毛利氏と敵対し、尼子再興軍を支援していた祐豊であったが、この頃は信長に但馬の支配権や生野銀山に対する権益を脅かされつつあり、毛利氏と手を組むことは重要であった。 但馬山名氏の支援を受けられなくなった幸盛は、天正3年6月14 - 15日(7月21 - 22日)に因幡國の若桜鬼ヶ城を攻略し、拠點をここに移す。元の居城・私部城には亀井茲矩が入ったとされる。 この若桜鬼ヶ城は、因幡國から但馬・播磨へ向かう山間交通路の結節點に位置しており、敵対する山名氏の本拠である但馬を避けつつ、播磨から京都へ向かうルートを確保するという目的があったと思われる。 6月、吉川元春と小早川隆景は、約47,000の兵を率いて因幡國へ軍を進め、尼子再興軍への総攻撃を開始する。 元春ら毛利軍は、尼子再興軍の諸城を次々と攻略するとともに、8月29日(10月2日)には幸盛が籠もる若桜鬼ヶ城へ攻撃を開始する。尼子再興軍は、毛利軍の攻撃を防ぎ撃退することに成功するも、10月上旬頃には私部城が落城し、因幡における尼子再興軍の拠點はこの若桜鬼ヶ城の1城を殘すのみとなるのである。しかしながら、その後の尼子再興軍の奮戦や、山陽方面で織田氏と毛利氏との間の緊張が高まったことなどにより、10月21日(11月23日)、毛利軍は若桜鬼ヶ城の周辺に多數の付城を築いて因幡から撤退する。 ところが、反毛利勢力の三村氏の滅亡、浦上氏の衰退、また支援を受けていた美作三浦氏が毛利氏に降伏したことなどもあり、尼子再興軍は因幡國において完全に孤立化する。 さらに、元春ら毛利軍主力の撤退後も因幡の毛利勢から圧力を受け続けたこともあって、天正4年(1576年)5月頃、尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し因幡國から撤退する。こうして、2回目の尼子再興運動も失敗に終わった。 第三次尼子再興運動 - 幸盛の死 因幡國より撤退した幸盛は、織田信長を頼り京へ上る。 京で信長に面會した幸盛は、信長より「良き男」と稱され、「四十里鹿毛」という駿馬を賜わったという。その後、幸盛は織田軍の下で尼子家再興を目指すことになる。 天正4年(1576年)、幸盛ら尼子再興軍は明智光秀の軍に加わり、但馬八木城攻めや丹波籾井城攻めに參加する。11月、明智軍が籾井城を攻めて敗れると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍の殿となり、追撃する波多野・赤井軍を迎え撃って切り崩し、軍の崩壊を防いだことで光秀より褒美を賜っている。その他、丹波攻めの際には2度の比類ない働きをした。 天正5年(1577年)、幸盛は、信長の嫡子・織田信忠に従い、片岡城攻めや松永久秀が篭城する信貴山城攻めに參加する(信貴山城の戦い)。幸盛はこのとき、片岡城攻めでは1番乗り、信貴山城攻めでは2番乗りの功績を上げた。また、この戦いで幸盛は、久秀配下の將・河合將監を一騎討ちで討ち取っている。 10月、信長の命令を受けた羽柴秀吉が播磨へ進軍を開始すると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍を離れ、秀吉軍の下で戦うこととなる。 12月(1578年1月)、秀吉が、播磨西部の毛利方の拠點である上月城を攻略すると、幸盛は、主君・尼子勝久と共にその城に入る。尼子再興軍は、この城を拠點として最後の尼子家再興を図って行く。 上月城は小城であったが、備前・美作・播磨の國境に位置し、この地域を治める上で重要な拠點であった。城番となった幸盛は、この區域の守備を行うと共に、織田氏と美作江見氏との仲介を行うなど、美作國人の懐柔・調略を行っていく。 天正6年2月1日(1578年3月9日)、宇喜多軍の將・真壁次郎四郎が約3,000の兵で上月城を攻める。この戦いは、幸盛が約800の兵を率いて宇喜多軍を夜討ちし、次郎四郎を討ち取って尼子再興軍が勝利している。 2月中旬(3月下旬)、三木城の別所長治が信長に叛旗を翻し、毛利氏に味方する。 織田氏と交戦狀態にあった毛利氏は、これを好機と捉え、4月、吉川元春・小早川隆景ら率いる3萬以上の兵をもって播磨に進軍する。そして4月18日(5月24日)、尼子再興軍が籠もる上月城を包囲する。 5月4日(6月9日)、毛利軍による上月城包囲の知らせを受けた秀吉は、荒木村重らと共に1萬の軍を率いて上月城の救援に向かい、高倉山に布陣する。しかし、秀吉軍は、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられたことや、6月21日(7月25日 )の高倉山合戦で毛利軍に敗れたこともあって、6月26日(7月30日)に陣を引き払い書寫山まで撤退する。その結果、上月城は孤立無縁となり、兵糧が底を突き、また城を離れる者も後を絶たなくなったため、7月5日(8月8日 )、尼子再興軍は毛利軍に降伏する(上月城の戦い)。 降伏の條件として、尼子勝久及び弟の助四郎は切腹、幸盛と立原久綱は生け捕られ人質となる。その他、毛利氏に敵対した多く者は処刑され、それ以外の者は許され解放された。 人質となった幸盛は、備中松山城に在陣する毛利輝元の下へと連行されることとなる。しかし、途上の備中國合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏家臣の福間元明により謀殺された。享年34または39。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%B9%B8%E7%9B%9B
村上元吉 Murakami Motoyoshi(1553年-1600年) 父は村上武吉、母は村上通康の娘。弟に村上景親。妻は小早川隆景の養女。子に村上元武。官途は掃部頭。仮名は少輔太郎。毛利元就から一字を拝領した。 1576年(天正4年)の第一次木津川口の戦いでは村上水軍を率いて織田水軍を壊滅に導いた。第二次木津川口の戦いには参戦しなかったと推定される。1582年3月に来島村上氏の来島通総・得居通幸兄弟が羽柴秀吉(豊臣秀吉)に籠絡され、織田側に寝返った際には、その追討に加わっている。 1582年(天正10年)頃、家督を相続する。織田信長が1582年(天正10年)に本能寺で横死した後(本能寺の変)、その天下統一事業を継承した羽柴秀吉が台頭した。1586年(天正14年)の四国征伐において村上元吉も父や弟ともに、豊臣秀吉に協力しなかったため、追討されかける。同年には、宣教師ガスパール・コエリョに要請されて、元吉は瀬戸内海を安全に通行できるよう、村上水軍の旗を与え、コエリョの安全を保障した。 天下統一を進める秀吉は1588年(天正16年)に海賊停止令を出し、瀬戸内海の海賊行為も禁止された。後に海賊停止令に違反したとして、村上元吉も父とともに筑前国加布里(現在の福岡県前原市)へと追いやられた。1592年(文禄元年)から始まる文禄・慶長の役では、朝鮮に出兵する将兵の輸送に活躍した。 1598年(慶長3年)豊臣秀吉が没すると、毛利輝元は村上元吉を父とともに安芸国竹原に移して、4700石を与えた。1599年(慶長4年)10月6日付けで、毛利家臣・堅田元慶に宛て、毛利秀就の元服を祝う書状が残されており、毛利氏との関係がうかがえる史料となっている。 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの前哨戦では、阿波国の蜂須賀氏の所領を攻撃。阿波国猪山城を落城せしめた。9月になると興居島に上陸後、加藤嘉明の居城・伊予国松前城を攻撃するため、17日四国伊予国三津浜(現在の松山市古三津)に上陸し宿陣した。しかし、同年9月17日夜から翌18日朝にかけての佃十成の夜襲であえなく討死した(三津刈屋口の戦い)。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E5%85%83%E5%90%89
村上景親 Murakami Kagechika(1558年-1610年) 父は村上武吉、母は村上通康の娘。兄に村上元吉。正室は平岡房実の娘。側室は文禄・慶長の役で捕虜にした朝鮮貴族の娘。息子は早世した八助と村上元信。娘は村上元武や宍戸景好の妻となった。通称は三郎兵衛尉、源八郎。初めの主君・小早川隆景より偏諱を賜い景親と名乗る。 1578年(天正6年)の上月城の戦いに出陣した。その後は、兄と行動をともにした。1592年(文禄元年)から始まる文禄・慶長の役では吉川広家に従って、兄ともども朝鮮に渡海している。小早川隆景が隠居すると、父と兄は毛利氏に帰参したが、景親はそのまま小早川家中に残り、養嗣子の小早川秀秋の家臣として仕えた。しかし1597年(慶長2年)に小早川隆景が死去すると毛利氏に帰参して安芸国竹原に所領を得た。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、兄の元吉とともに水軍を率いて、蜂須賀氏の所領であった阿波国の猪山城を攻撃し、落城させた。その後は毛利軍の一員として、関ヶ原の戦いに参加した。 防長移封後、細川忠興や池田輝政も景親の武勇を見初め、家臣として誘ったが、景親はこれを辞退して父とともに屋代島に移住、毛利家御船手組の組頭となった。 1610年(慶長15年)に死去、墓所は山口県大島郡周防大島町にある。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%99%AF%E8%A6%AA
村上武吉 Murakami Takeyoshi(1533年-1604年) 村上義忠之子,妻為村上通康之女,別名能島武慶,受菊池武俊偏諱「武」,取名為武吉。 村上氏源於清和源氏賴信一族。賴信之子源賴義就任四國伊予守護後,命侄子仲宗負責寺社建設,仲宗在今治郡的對岸,大島(能島)上修寺築城後定居。但是後來因為兒子顯清的部將發生私鬥,一族皆被問罪流放到信濃國更級郡村上鄉,並從此改姓村上氏。顯清後來生有兩子。長子為國定居村上鄉,後來發展延續成信濃村上氏(村上義清源自該族)。 次子定國在保元之亂後加入信濃地區的亂波組織。平治之亂後,已成為首領的定國回到祖父的舊領大島,村上水軍從此開始出現,定國也成為瀨戶內海村上氏的始祖。從定國到第七代義弘後來被稱為前期村上氏,因為義弘無後,所以應永三年(1374)義弘死後,信濃村上一族的村上師清來到伊予繼承了家業。 師清後來的三個兒子分居三島,他們是:居於能島的義現、居於來島的顯忠和居於因島的顯長。這就是後來有名的能島、來島、因島村上三家。 由於瀨戶內海上的島嶼多半面積狹且土壤貧瘠,無法完全供給島上居民充分的糧食,所以島上居民便利用自己對水路的了解成為雄據當地海域的一霸,設立私家海關對來往的船隻收取帆別錢,也就是船上貨物價格的十分之一,輔以走私、劫掠等海盜行為作為營生。後來村上三家,既各自發展又互相奧援。 村上武吉年幼時祖父隆勝被暗殺,而父親村上義忠早逝,所以還是幼童的武吉早早便已捲入與異母兄弟義益爭奪家督寶座的風波之中,借助尼子家勢力支持的村上義益打敗了倚重大內家的武吉與叔父隆重,因此武吉被迫流亡至九州,逃入肥前菊池家菊池武俊的領地內以避開義益的追捕。 後來武吉的叔父隆重反攻成功,又將義益打敗,武吉才得以再次回到能島並繼任成為新家主,而失敗的義益則流竄至來島村上家的領地裡,並在當地病故。當時武吉為了斬草除根追殺義益,與來島村上家發生了一些不愉快,義益死後,有鑑村上三家同心同盟的傳統,武吉為修補和來島村上家的關係而決定以雙方聯姻來鞏固兩家盟約,於是便娶了來島村上家當主村上通康之女為妻。 繼任為能島村上家的家督後,武吉除了繼續經營水軍的老本行外,也將目標放遠,積極推動海外貿易,與當時中國東南沿海地區也有來往。 天文二十年(1551年),長久以來一直充做能島村上家後盾的大內家當主大內義隆受到家中武功派重臣陶晴賢謀反殺害,翌年陶晴賢迎大內義隆的姪子、大友宗麟之弟晴英繼承大內家,是為大內義長。天文二十三年(1554年),大內義長向室町幕府進貢米2000石,由陶晴賢麾下的屋代島白井水軍經海路上洛,途中通過能島村上家的勢力範圍時,屋代島水軍不但無視武吉設立的關卡拒繳帆別錢,更欲強行以武力突破。收到訊息的武吉大怒,火速點兵出戰,在其必經之路蒲刈伏擊,激戰之中屋代島水軍慘敗,船上欲進獻幕府的2000石大米悉數被武吉沒收,雙方關係從此惡化。 弘治元年(1555年),安藝的毛利元就與陶晴賢全面對決,在嚴島築宮之城引誘陶晴賢率大軍來攻,水軍實力遠不如控有屋代島水軍的陶晴賢的毛利元就便急速向三島村上水軍求援,當時因島村上家的村上吉充很早便已答應協助毛利元就,派遣了家臣末長景通參戰助陣,並遣使家臣,武吉姻親乃美宗勝替毛利家遊說村上武吉,武吉性格一向沉著冷靜,聽完了乃美宗勝來意,也不表示可否,只說要看來島村上氏的意向再做決定。 那時毛利和陶雙方都來向來島村上家當主通康請援,兩者相比雖然陶晴賢的實力比較雄厚,但是因為通康的主家河野氏與大內家乃是宿敵,所以表示要支持毛利家,因而通康也同意支持毛利,既然三島村上家已有兩家投向毛利家,武吉便也同意出兵了。同年十月一日,毛利軍與陶晴賢軍在嚴島爆發大戰,也就是歷史上著名的「嚴島合戰」。僅有三千五百人的毛利軍在雨夜中對總兵力兩萬餘人的陶晴賢軍進行奇襲,其中武吉率領的三百船隊特別驍勇將陶軍的屋代島水軍擊退立功。 嚴島合戰後,毛利元就和伊予河野氏正式結盟,將原來屋代島水軍白井氏的領地屋代島給了來島村上通康,而最早加盟毛利家的因島村上吉充也得到了備後向島,而戰後同樣幫助毛利家佔領周防長門並封鎖海路以擒抓大內義長的武吉只得到幾個小島,這使武吉對毛利家十分不滿。 永祿十年(1567年),村上通康過世,由四子通總繼為第五代當主。永祿十二年(1569年),就在毛利家與九州強豪大友宗麟在九州築前一來一回地膠著戰時,本來從屬毛利家的武吉受大友宗麟以博多南蠻貿易的巨利引誘倒戈與毛利軍為敵,將船隊開往周防港口,使同來的來島村上通總成為海上孤軍陷入苦戰,由此之後來島村上家與能島村上家徹底反目。 元龜二年(1571年),在毛利元就的遺命策劃下由三子小早川隆景率因島村上、來島村上、小早川、兒玉、投降的屋代島白井等諸路水軍圍勦武吉的本城能島城,本來要覆滅已入愁城的村上武吉對小早川隆景來說是易如反掌,但小早川隆景因惜村上武吉的武勇捨棄了正面進攻,反而冒險單身上島入城勸降,村上武吉畢竟是個鐵錚錚的海上男兒,眼見小早川隆景仁勇的氣慨,武吉大為感動於是接受了小早川隆景的說服回歸毛利家,從此忠心不二。 這時,稱霸畿內的織田信長已率軍將攝津一向宗的本寺石山本願寺包圍數年,已將近彈盡糧絕的本願寺方向盟友毛利家求取大批軍物資,於是毛利輝元便下令村上武吉由海路運送入本願寺,能島村上家本來就是熱誠的一向宗徒,武吉不敢懈怠很快便組織八百艘船隊出發,運送途中村上水軍與織田家的九鬼水軍、安宅水軍於木津川口遭遇,村上水軍倚仗本身精熟的操舵技術和炮烙火矢使用一沾即走的燒夷戰術將織田水軍打得七零八落,從此村上武吉就成了信長進攻本願寺的頭痛人物。 為了有效反制村上水軍,織田信長採用雙管齊下的方法,一方面離間已有心結的來島村上家與能島村上家,另一方面集中近江國友村的鐵匠跟伊勢熊野的船匠,由九鬼嘉隆與瀧川一益領導開發新武器鐵甲船。天正六年(1578年),村上武吉一如往日統領水軍部隊運送軍物資進本願寺,但就在木津川口武吉的水軍遇上了織田家的六艘鐵甲船,披上鐵甲的戰船使以往百戰百勝的燒夷戰術失去效用,同時船上負載的大砲與長洋槍也發揮威力痛擊村上水軍,武吉大敗。 天正十年(1582年)三月,在織田家部將羽柴秀吉的勸誘下來島村上家當主村上通總反出毛利改投織田家,此事使毛利家陷入驚慌,毛利家在與因島、能島兩村上家再度重申盟約後聯合出兵聲討來島村上家,於當年六月對來島城發動總攻擊,在武吉的善戰下,來島城失陷,村上通總匆忙逃往京都投向秀吉,之後秀吉讓他改以居地為姓,易名來島通總,落入毛利家掌握的來島城則被賜為武吉的領地以為獎賞。 本能寺之變,信長橫死後,羽柴秀吉接收了他遺留的霸業,奪取天下。當時秀吉與毛利家已不再敵對,在秀吉命令下武吉只好將方佔領兩年多的來島還給來島通總。 天正十六年(1588年),羽柴秀吉頒布海賊禁止令,其中不准再收帆別錢的條文,嚴重打擊了村上水軍的經濟利益,村上武吉因強烈反對這項律法而被秀吉下令自盡,最後是倚靠老上司小早川隆景在秀吉面前說情方免去一死,改為流放,從此之後武吉便隱居於長門大津,也就在這段時間裡村上武吉撰寫了「村上舟戰要法」一書留傳後世。 統一日本的秀吉的野心急速膨脹,以「假道入明」為由出兵朝鮮,往日的三島村上水軍皆被動員參戰,村上武吉也帶同兒子元吉一起隨小早川隆景軍出陣,但面臨李舜臣的龜甲船,一切皆徒然,水軍戰線完全大敗。 慶長三年(1598年),關原之戰時村上水軍與毛利水軍皆從屬於西軍,並由武吉的嫡男元吉擔任大將進攻四國伊予,揮軍直撲加藤嘉明的居城,道上投降的當地領民紛紛大罵加藤嘉明的苛政,使元吉認為自己順民心出戰必然定勝,而小看了名列賤岳七支槍的加藤嘉明,戰敗被殺。 老來喪子使村上武吉悲痛不已,而主公輝元也因與德川家康敵對被減封至只剩周防長門兩國,年事已高的武吉還是跟隨輝元去周防,居住於大島和田,三年後過世,享年七十二歲,法名大仙寺殿覺甫元正居士,家督由村上元吉長子元武接任。 出處 http://ravenskyecity.zone.gamebase.com.tw/zone/ravenskyecity/forum/3867/archive/topic/316550
村上義清 Murakami Yoshikiyo(1501年-1573年) 村上顯國之子、母為斯波義寬之女、正室為小笠原長棟之女、側室為高梨澄賴之女.於フ子;幼名武王丸,戒名日瀧寺殿紅雲正清公大禪門。 村上氏源於清和源氏賴信一族。賴信之子源賴義就任四國伊予守護後,命侄子仲宗負責寺社建設,仲宗在今治郡的對岸,大島(能島)上修寺築城後定居。但是後來因為兒子顯清的部將發生私鬥,一族皆被問罪流放到信濃國更級郡村上鄉,並從此改姓村上氏(村上武吉亦源於該族)。顯清後來生有兩子。長子為國定居村上鄉,後來發展延續成信濃村上氏。 永正十二年(1515年),義清元服,由於父親顯國的事蹟並不明確,所以繼承家督前後的義清動向亦不明。 永正十三年(1516年)3月,敘位從五位下並成為佐渡守。永正十四年(1517年),父親顯國讓出葛尾城。永正十七年(1520年),父親病死,義清繼任家督。大永元年(1521年)10月,昇敘從四位下並轉任左衛門佐。大永七年(1527年)1月,轉任左近衛少將。 天文元年(1532年)三月,平定叛亂的海野幸善。天文五年(1536年),擊退包圍海尻城的甲斐武田信虎,昇敘正四位上。 天文七年(1538年)六月、越後長尾為景來襲,義清親率國人眾抵抗,獲得大勝。天文九年(1540年)正月,又再次擊敗武田家的襲擊。天文十年(1541年),聯合佐久地方的諏訪氏與武田信虎,夾擊小縣郡的海野棟綱及其外孫真田幸隆,將他們放逐到上野。義清穩固在北信濃的領導地位和威信。不單是北信地區,就連南信濃的小笠原等國人眾和臨近大名也一致認為義清才是信濃國人眾之首。 天文十年(1541年),和義清結盟的武田信虎於被長子武田晴信(武田信玄)驅逐到駿河。加上真田幸隆投靠信玄,與武田盟約便隨之解除。以後成為村上死敵的武田信玄成為甲斐武田氏的家督。 天文十三年(1544年),武田攻滅村上的盟友諏訪氏,義清聯合小笠原和境內國人眾,對抗武田信玄。 天文十六年(1547年),征服伊那郡北部的武田氏,正式開始攻打村上的領地,打下佐久治的志賀城。 天文十七年(1548年)二月上田原之戰中,武田信玄率板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌、小山田信有、內藤昌豐、馬場信房、諸角虎定、粟原左衛門左、原昌俊、真田幸隆、淺利信音等大將傾巢而出,越過大門嶺,至依田窪,由砂原嶺進至鹽田,在倉升山築陣。義清親率兵至佐久郡上田原與武田對陣,武田方被以逸待勞的村上軍分割痛擊,大敗而回。武田的宿老板垣信方、甘利虎泰被討取,連信玄本人也在和義清一騎時被砍傷。村上軍則計有信濃牧島城主基永、小島重成、雨宮正利、屋代政國的長男基綱、若槻清尚戰死。 這次的戰鬥的勝利,大大加強村上軍的士氣,不少先前歸順武田的武將、國人眾也回到義清這邊。小笠原長時更率領仁科、藤澤等國人眾越過鹽尻嶺侵入諏訪,令武田經營諏訪的成果有瓦解之勢。但武田信玄十分沉著,率軍七千,迅速擊敗小笠原。小笠原長時只得來投義清。 天文十九年(1550年),在與高梨氏戰鬥而留守在本領時,武田信玄乘隙侵攻小縣的要衝砥石城(戶石城)。義清在與高梨氏達成和睦後立即反擊,信玄得知義清來援後判斷出戰況不利而開始退卻,但是義清開始追擊武田勢並獲得大勝(砥石崩)。此戰中武田方失去橫田高松、渡邊雲州並有1千2百名死傷者。村上方的死者只有193人。 武田信玄在此戰後命令家臣真田幸隆加強離間村上勢,分化義清和國人眾關係。天文二十年(1551年)因為幸隆的謀略,砥石城被奪去,砥石城的足輕大將矢澤賴綱(真田幸隆之弟)與幸隆內通。因此義清的影響力急劇下降,在天文二十一年(1552年)的常田之戰中獲得勝利亦難以抑制家臣團的動搖。 天文二十二年(1553年),與武田氏串通的大須賀久兵衛謀反,而因為室賀氏、屋代氏、石川氏等村上方諸將向武田氏降伏,義清在4月9日一時間逃離葛尾城並重整形勢,在4月22日成功奪還。武田信玄向深志城後退,在5月11日返回甲府。但是信玄在7月25日率領大軍在甲府出發,在8月把義清迫到末路,葛尾城被攻破。義清只得率舊部聚集在善光寺會合,一面遣人計畫投靠越後的長尾景虎(上杉謙信)。北信濃的獨立勢力村上氏沒落,武田家的勢力延伸至與越後長尾氏有深厚關係的善光寺,成為之後川中島之戰的導火線。 三個月後,在春日山被上杉謙信收留的義清一心要光復領地,向謙信屢次提議出兵信濃。上杉謙信答應義清的要求,於九月命柿崎景家為先鋒,義清等信濃國人眾為策應進攻信濃,收復高梨城,在千曲川和犀川交會處開始第一次川中島之戰,戰後武田退兵。義清等國人眾獲得信濃的一部分舊領地。 天文二十四年(1555年)早春的第2次川中島之戰,以致全部5次川中島戰役裡,一直擔任上杉家的先鋒。永祿四年(1561年)的第4次川中島之戰中,義清與武田信玄再度相遇,信玄弟弟武田信繁被討取,義清次子義利陣亡。年老的義清放下恢復故國的執念正式加入到上杉家臣的行列之中,領有越後根知城五萬石的俸祿。 元龜四年(1573年),義清在越後病故,年73歲。 其子國清成為謙信的養子,繼承上杉氏的分支山浦氏,改稱山浦國清,被賦予上杉家第2位的地位。於天正十年(1582年)武田家滅亡後奪回祖居的葛尾城,國清被任命為海津城城代,村上氏復歸舊領。 出處#1 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E6%B8%85 出處#2 http://baike.baidu.com/view/89391.htm 出處#3 http://baike.baidu.com/view/1339390.htm