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杉原盛重

亀井秀綱 Kamei Hidetsuna(生年不詳-沒年不詳)祖父亀井永綱の代に尼子氏に出仕。祖父と父亀井安綱は、月山富田城奪取戦に参加し、その功により、家老に任ぜられる。安綱の子秀綱は、尼子経久・尼子晴久二代に仕え、永正5年(1508年)に経久が大内義興の上洛に従った際にはこれに随行し、永正8年(1511年)の船岡山合戦に参加するなど、家老の一人として活動した。尼子家では亀井安綱の頃より、筆頭家老格であったとされる。亀井家の家督相続後、安芸国の毛利氏が幼少の当主・毛利幸松丸の死後、大内氏寄りである毛利元就が当主となり、尼子氏からの離反の動きを見せると、大永4年(1524年)、元就の弟である相合元綱らを教唆しクーデターによる元就打倒を画策したが、智略に優れる元就が先手を打ち、この策略は失敗に終わっている。これにより元就が寝返ったとされる。また所領問題で不満を持つ経久の子の塩冶興久の説得に失敗し、謀反の原因を作ったともされる。なお、弟の亀井利綱は興久に味方して享禄5年/天文元年(1532年)に討死している。晩年は晴久の子尼子義久の代まで仕えて第二次月山富田城の戦いに参加し、そこで杉原盛重に親子共に討たれ死亡(鳥取県境港市に墓所)したとも、毛利氏に投降したともいうが詳細は不明である。最新の研究では、秀綱は寺社を統率する立場にあり、主君の代理として、出雲国内の宗教勢力(杵築大社・鰐淵寺)と密に書状をやり取りし、多くの寺院の創建や修繕に関わっている。そのため多くの書状が現存している。その現存する書状や棟札などを見ると、秀綱の活動が最後に確認できるのは享禄3年(1530年)の塩冶興久の乱に関連するものであり、それ以降の資料では亀井安綱の名前が出ており、この前後に家督が安綱に継承されたことが確認できる。一次資料によって確認できる秀綱の実質的な活動範囲はここまでであり、従来通説とされてきた永禄年間頃の活動は、その後継者によって行われたと推測されている。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E4%BA%95%E7%A7%80%E7%B6%B1
南条宗勝 Nanjo Munekatsu(1497年?-1575年)7代当主・宗皓の子として生まれる。生年に関する確実な史料は存在しないが、『羽衣石南条記』によれば永正11年(1514年)、父・宗皓の死去に伴い18歳で家督を継いだといい、逆算して明応6年(1497年)頃の出生かと思われる。ただ、宗勝以前の南条氏に関しては関係資料が乏しいため、不明な点が多く、一部の系図では宗勝の父を紀伊守某と記しているものも存在する。天文年間、尼子氏の伯耆侵攻により尼子氏の傘下に入り、天文9年(1540年)9月には尼子氏の郡山城攻撃に参加した。しかし、3年後の天文12年(1543年)には大内義隆の月山富田城攻めに「尼子公叛将」として大内軍に参加、大内氏を経てそれ以後は毛利氏の下へ属した。天文15年(1546年)には但馬山名氏の支援で橋津川の戦いを起こすなど各地の反尼子勢力と手を結び、反尼子の一翼を担う働きを為した。また、天文16年(1547年)~17年(1548年)にかけて因幡国に滞在していたことが分かっている(『真継文書』所収「年不詳4月8日付南条国清書状」など)。その後、事情は不明であるが、武田国信の勧めで美作国大原の地へと移り、さらに播磨国にまで移ることを示唆している。これ以降の足取りは不明であるが、伯耆を離れた後は各地の武将に援助されながら、周辺諸国を転々としていたと見られ、以後約20年間近く帰国は叶わなかったと思われる。その後、毛利氏の支援を受けた宗勝は永禄5年(1562年)の夏、羽衣石城を奪回、約20年ぶりに所領を回復することに成功した。帰国後は毛利元就らの容認の下、東伯耆の国人衆を家臣団に組み込み、南条氏を山陰地方東部で最大の国人勢力に発展させた。永禄6年(1563年)には久米郡の光孝寺において大規模な父の法要を営み、各地の寺社の所領を安堵するなど民心の安定に務めた。永禄12年(1569年)には毛利氏の九州遠征に加わり、筑前国などへ出陣した。同年秋には伯耆に急遽帰国し、各地へ侵攻した尼子勝久らの軍勢と戦った。元亀元年(1570年)、剃髪して宗勝と号し、嫡子・又四郎元続に家督を相続させたと伝えられているが、実際には永禄7年(1564年)8月以前には剃髪し、宗勝と名乗り始めたようである。その後も終始毛利氏の境目地域における要の役割を担い、毛利氏の協力者として活躍した宗勝だが、天正3年(1575年)10月14日前に急逝した。なお、死因に関して尾高城主・杉原盛重に毒殺されたとの説が存在するが、これは江戸時代に書かれた『伯耆民諺記』などに見えるものであり、史料的裏付けはなく、現在では否定されている。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%9D%A1%E5%AE%97%E5%8B%9D
山中幸盛 Yamanaka Yukimori(1545年-1578年)山中滿幸的次子、母為立原綱重之女.なみ、養父龜井秀綱、正室為龜井秀綱之女;實名幸盛,幼名甚次郎,通稱鹿介,別名鹿之介、鹿之助、鹿助,渾名山陰の麒麟兒。尼子十勇士之一,以山中鹿之介之名廣為人知。幸盛の前半生は、確実な史料が殘っておらず不明な點が多い。通説によれば、天文14年8月15日(1545年9月20日)に出雲國富田莊(現在の島根県安來市広瀬町)に生まれたとされる(詳しくは#出自の謎を參照。)。山中氏の家系も不明な點が多い。山中家の系図はいくつか存在するが、有力な説としては宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門衆である。尼子清定の弟である山中幸久を祖とし、幸盛はこの幸久の4代(又は6代)後裔である。山中家は尼子氏の家老であったが、父・満幸が早世していたため生活は貧しく、幸盛は母1人の手によって育てられた。幼少の頃より尼子氏に仕え、8歳のとき敵を討ち、10歳の頃から弓馬や軍法に執心し、13歳のとき敵の首を捕って手把を立てた。16歳のとき、主君・尼子義久の伯耆尾高城攻めに隨行し、因伯(因幡國と伯耆國。現在の鳥取県)に鳴り響く豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取った。幸盛は次男であったため、尼子氏の重臣である亀井氏の養子となるが、後に山中家に戻り當主である兄の幸高(甚太郎)に替わって家督を継いだ。尼子氏の滅亡永祿5年7月3日(1562年8月2日)、毛利氏は尼子氏を滅ぼすため出雲國へ進軍する。毛利氏は去る天文4年10月1日(1555年10月16日)に陶晴賢を厳島の戦いで破ると、弘治3年(1557年)には大內氏を滅ぼし、防長(周防國と長門國)を新たに支配していた。また、永祿5年6月には石見國を勢力下に治め、中國地方の一大勢力となっていた。一方の尼子氏は、當主であった尼子晴久が永祿3年12月24日(1561年1月9日)に急死したため、晴久の嫡男・義久が跡を継いでいたが、外交政策の失敗等もあり勢力が衰えつつあった。毛利元就に率いられた毛利軍は出雲へ入國すると、尼子方の有力國人らを次々と服従させつつ陣を進めていく。そして、永祿5年12月(1563年1月)には荒隈(洗合)へ本陣を構え、尼子氏の居城・月山富田城攻めを本格化させる。永祿6年8月13日(1563年8月31日)、毛利軍は、尼子十旗の第1とされる白鹿城へ攻撃を開始する。この白鹿城は、宍道湖の北岸に位置し、日本海に面した島根半島と月山富田城を結ぶ要衝であり、補給路を確保する上でも重要な拠點であった。9月21日(10月8日)、尼子氏は白鹿城を救援するため、尼子倫久を大將とした軍を派遣し、幸盛もこれに従軍する。戦いの結果、毛利軍が勝利し尼子軍は月山富田城へ撤退した(白鹿城の戦い)。退卻の際、軍の後陣に控えていた幸盛は、約200の兵を率いて殿を擔當し、追撃する吉川元春・小早川隆景の両軍を7度にわたって撃退し、敵の首を7つ討ち取った。なお、白鹿城は10月中旬頃に落城している 。永祿7年(1564年)、尼子軍は杉原盛重率いる毛利軍と美保関で戦い、幸盛もこれに參戦する。このとき、日本海側からの補給拠點である白鹿城を攻略された尼子氏は、中海方面からの補給路を確保するため伯耆國の拠點確保と勢力の挽回に努めていた。尼子軍はこの戦いには勝利するも、続く伯耆國の重要拠點の1つである尾高城の戦いで毛利軍に敗れた。 以後、伯耆國は毛利軍によって制圧されていくこととなる。こうして尼子軍は各地で敗れつつ補給の道を絶たれ、尼子氏の居城・月山富田城は完全に孤立化していくのである。永祿8年4月(1565年5月)、毛利軍は、月山富田城の北西3kmにある星上山(現在の島根県松江市八雲町) に本陣を構えると、城下の麥を刈り取って月山富田城へ攻撃を開始する。4月17日(5月16日)、毛利軍は月山富田城へ総攻撃を行う(第二次月山富田城の戦い)。幸盛は塩谷口(しおたにぐち)で吉川元春らの軍と戦い、これを撃退した。 また、この戦いで幸盛は、高野監物を一騎討ちで討ち取った。4月28日(5月27日)、毛利軍は城を落とすことができず敗れ、月山富田城から約25km離れた荒隈城まで撤退した。9月、毛利軍は再び月山富田城を攻めた。この戦いで幸盛は品川將員を一騎討ちで討ち取った(山中幸盛・品川將員の一騎討ち)。また同月、幸盛は、白潟(現在の島根県松江市)に滯在していた小河內幸綱ら率いる毛利軍を夜討ちし、多數の兵を討ち取った。永祿9年5月24日(1566年6月11日)、毛利軍は三たび月山富田城へ総攻撃を行う。しかし、城を落とすことが出來なかった。11月21日(1567年1月1日)、城內の兵糧が欠乏し將兵の逃亡者も相次いだため、これ以上戦うことが出來ないと判斷した尼子義久は、毛利軍に降伏を申し出る。そして11月28日(1月8日)、義久は城を明け渡し、ここに戦國大名尼子氏は一時的に滅びることとなる。義久ら尼子3兄弟は、一部の従者と共に円明寺へ連行され幽閉されることとなった。幸盛は隨従を願い出たが許されず、出雲大社で主君と別れた。その後、幸盛は尼子家を再興するため盡力することとなる。第一次尼子再興運動尼子氏滅亡後、幸盛は牢人となる。その後、永祿9年 - 同11年の間(1566年 - 1568年)の幸盛の足取りは定かでない。諸説によれば、有馬溫泉で傷を癒した後に順禮の姿をして東國へ赴き、武田氏(武田信玄)・長尾氏(上杉謙信)・北條氏(北條氏康)などの軍法をうかがい、越前國の朝倉氏の家風を尋ね入り、その後、京に上ったとされる。永祿11年(1568年)、幸盛は立原久綱ら尼子諸牢人とともに、京都の東福寺で僧をしていた尼子誠久の遺児・勝久を還俗させると、各地の尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機會をうかがった。永祿12年4月(1569年5月)、毛利元就が大友氏を攻撃するため北九州へ軍を派遣すると、挙兵の機會をうかがっていた幸盛は、出雲國へ侵攻を開始する。このとき、幸盛ら尼子再興軍を支援していたのは山名祐豊であった。山名氏の総帥として、長年にわたって尼子氏と敵対してきた祐豊であったが、領國であった備後・伯耆・因幡を毛利氏によって制圧されてきており、勢力回覆を図るにあたって手を結んだと考えられる。もっとも、その後に毛利氏から要請を受けた織田信長の軍によって領內を攻められ、支援はままならなかったようである。6月23日(8月6日)、幸盛らは丹後國もしくは但馬國から數百艘の船に乗って海を渡り島根半島に上陸すると、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する。幸盛らがここで再興の檄を飛ばすと、國內に潛伏していた舊臣らが続々と集結し、5日の內に3,000餘りの軍勢になったという。そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は、多賀元龍が籠もる新山城(真山城)を攻略すると、山陰地方の各地で合戦を繰り広げつつ勢力を拡大していった(尼子再興軍の雲州侵攻)。7月中旬、幸盛は、かつての尼子氏の居城・月山富田城の攻略に取りかかる(尼子再興軍による月山富田城の戦い)。この戦いは、力攻めによる攻略とはならなかったものの、城に籠もる毛利軍の兵糧は欠乏しつつあり、また、城內より投降者がでるなど尼子方が優勢であった。しかし、石見國で活動していた尼子再興軍が、毛利軍に攻められ危険な狀態となると、幸盛は、城攻めを一旦中止して救援に向う。 石見に駆けつけた幸盛は、毛利軍を原手郡( 現在の島根県出雲市斐川地域の平野部あたり )で撃破すると(原手合戦)、その後、出雲國內において16の城を攻略し、その勢力を6,000餘りにまで拡大させた。また、元就が尼子再興軍を討伐するため、九州より帰陣させた米原綱寛、三刀屋久扶などの出雲國の有力國人を相次いで味方につけると、出雲國の一円を支配するまでになった。さらに、伯耆國においても尾高城を始め、中央の八橋城、因幡國との境にある岩倉城など、多くの主要な城を攻略。謀略を用いて末吉城の神西元通を寢返らせたのをはじめ、日野郡一帯を支配する日野衆を味方につけるなど、伯耆國全土にも勢力を拡大していった。その他、因幡・備後・備中・美作においても勢力を拡張し、戦いを繰り広げていたことが分かっている。加えて10月11日(11月19日)、大內輝弘が大內家再興を目指して周防國山口へ攻め込み、築山館跡を占領する事態が発生する。10月15日(11月23日)、相次ぐ領內の反亂により支配體制の危機を感じた元就は、反亂軍の鎮圧を優先させるため、九州から軍を撤収させることを決定する。10月18日(11月26日)、吉川元春・小早川隆景ら毛利軍は、九州から陣を撤収して長府に帰著すると、10月25日頃に大內家再興軍の反亂を鎮圧する。輝弘は富海で自刃し、大內家再興の戦いは僅か半月足らずで終結した(大內輝弘の亂)。反亂を鎮圧した毛利軍は、12月23日に長府にあった陣を引き払い、居城である吉田郡山城へ帰還している。永祿13年1月6日(1570年2月10日)、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より大軍を率い出陣する。毛利軍は北上して出雲國へ入國すると、尼子方の諸城を次々と攻略しながら月山富田城へ陣を進めていった。 一方の尼子再興軍は、先の原手郡の戦いや隠岐為清の反亂(美保関の合戦)などによって時間をとられ、出雲國の拠點である月山富田城を攻略することができないでいた。そのため尼子再興軍は、毛利軍の進軍を防ぐため布部山(現在の島根県安來市広瀬町布部)に陣を張り決戦に備える。2月14日(3月20日)、尼子再興軍は、布部山で毛利軍と戦い敗北する(布部山の戦い)。幸盛は、味方が敗走するなかで最後まで殿として殘り、軍の崩壊を防いだ後に居城の新山城へ帰還している。戦いに勝利した毛利軍は、翌2月15日に月山富田城に入城し、尼子再興軍の包囲から城を解放する。一方の尼子再興軍は、この戦いに敗れたことにより、以後衰亡していくこととなる。6月、布部山の敗戦により出雲における尼子再興軍の勢力は、新山城と高瀬城の2城となるまで追いつめられていた。7月 - 8月には、両城下で毛利軍による麥薙ぎが行われるなど危険な狀態となるが、9月5日(10月4日)、安芸國で元就が重病に陥り、吉川元春を殘して毛利輝元・小早川隆景らの軍が國許へ帰還すると狀況が一変する。山陰地方の毛利軍が手薄になったことにより、幸盛ら尼子再興軍は再びその勢力を盛り返した。幸盛ら尼子再興軍は、中海における海運の重要拠點である十神山城や末吉城など、出雲・伯耆の國境にある城を次々と奪還するとともに、一時、清水山要害を攻略して再び月山富田城へ迫った。また、高瀬城に籠もる米原綱寛との連攜を図るため、宍道湖北岸に満願寺城を建設。 吉川元春を追い詰め、その居城である手崎城(平田城)へ攻め込むなど、その攻勢を強めている。さらに、隠岐國の國人・隠岐弾正左衛門尉を味方につけることに成功しており、日本海側の制海権も取得しつつあった尼子再興軍は、再びその勢力を島根半島全域にまで拡大する。元亀元年10月6日(1570年11月3日)、出雲國における毛利軍劣勢の知らせを受けた元就は、毛利軍を援護するとともに、日本海側の制海権を奪還するため、直屬の水軍部隊・児玉就英を派遣する。この援軍によって、その後の戦いは次第に毛利軍が優勢となり、10月下旬頃には十神山城が、12月には満願寺城が落城するなど、尼子再興軍の勢力は次第に縮小していくこととなる。そして、元亀2年8月20日(1571年9月8日)頃には、最後の拠點であった新山城が落城。籠城していた尼子勝久は、落城前に脫出して隠岐へ逃れている。同じ頃、末吉城に籠もり戦っていた幸盛も敗れ、吉川元春に捕らえられる。幸盛は尾高城へ幽閉されることとなるが、その後に隙をついて脫出している。 こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、1回目の再興運動は失敗に終わった。第二次尼子再興運動尾高城から脫出した幸盛は、海を渡って隠岐國へ逃れると、元亀3年3月 - 4月(1572年2月 - 3月)頃には再び海を渡って本土へ戻り、但馬國に潛伏する。 そして、瀬戸內海の海賊・村上武吉や美作三浦氏の重臣・牧尚春らと連絡を取りつつ、再び尼子家再興の機會をうかがっていた。なお、このとき幸盛は亀井姓を名乗っていたようである。元亀4年(1573年)初頭、幸盛は但馬國から因幡國へ攻め込み、桐山城を攻略して拠點とすると、様々な軍事活動を開始する。幸盛は、因幡國を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を計畫していたと思われる。このとき、因幡國の実質的な領主は、毛利方の國人・武田高信であった。高信は、去る永祿6年(1563年)に當時の因幡國主・山名豊數と爭って勝利を収めると、毛利氏と連攜をとりつつ因幡の地で勢力拡大をしてきた人物である。幸盛ら尼子再興軍は、豊數の弟で山名氏再起を目指す山名豊國を味方につけると、因幡國の各地で転戦し勝利を収め、勢力を拡大する。そして、天正元年8月1日(1573年8月28日)、甑山城(こしきやまじょう)の戦いで武田軍に決定的な勝利を得ると(鳥取のたのも崩れ)、高信の居城・鳥取城攻めを本格化させる。尼子再興軍は、約1,000の兵で武田軍5,000が籠もる鳥取城へ攻め寄ると、その後も攻勢を続け、同年9月下旬に鳥取城を攻略した(尼子再興軍による鳥取城の戦い)。 城に籠もっていた武田家臣らは、尼子再興軍に人質を差し出し降伏した。鳥取城には山名豊國が入り、尼子再興軍は、私部城に本拠を構え居城とした。 幸盛はその後、10日の間に15城を攻略するなどして勢力を3,000餘りに拡大し、東因幡一円の支配に成功した。ところが11月上旬、山名豊國が、田公高次などの懐柔により毛利方に寢返る。尼子再興軍は、わずか1ヶ月餘りで毛利氏に鳥取城を奪い返されてしまった。鳥取城を奪われ勢力が不安定となった幸盛は、その後、因幡各地でさまざまな軍事活動・調略を行い、因幡平定に向けて盡力することとなる。因幡國內で毛利軍と交戦する一方、美作美浦氏や備前國の浦上氏、豊前國の大友氏などの反毛利勢力と連攜を図るとともに、密かに織田信長配下の柴田勝家と連絡を取って體制の立て直しを図っていった。これら戦いの中で幸盛は、天正2年11月(1574年12月)、美作三浦氏の居城・高田城で宇喜多直家軍を撃退し功績を挙げたとして、大友宗麟から火薬の原料となる塩硝1壷をもらい受けるなどしている。天正3年5月(1575年7月)、但馬國の山名祐豊が毛利氏と「芸但和睦」と呼ばれる和平交渉を成立させる。 かつて毛利氏と敵対し、尼子再興軍を支援していた祐豊であったが、この頃は信長に但馬の支配権や生野銀山に対する権益を脅かされつつあり、毛利氏と手を組むことは重要であった。但馬山名氏の支援を受けられなくなった幸盛は、天正3年6月14 - 15日(7月21 - 22日)に因幡國の若桜鬼ヶ城を攻略し、拠點をここに移す。元の居城・私部城には亀井茲矩が入ったとされる。 この若桜鬼ヶ城は、因幡國から但馬・播磨へ向かう山間交通路の結節點に位置しており、敵対する山名氏の本拠である但馬を避けつつ、播磨から京都へ向かうルートを確保するという目的があったと思われる。6月、吉川元春と小早川隆景は、約47,000の兵を率いて因幡國へ軍を進め、尼子再興軍への総攻撃を開始する。 元春ら毛利軍は、尼子再興軍の諸城を次々と攻略するとともに、8月29日(10月2日)には幸盛が籠もる若桜鬼ヶ城へ攻撃を開始する。尼子再興軍は、毛利軍の攻撃を防ぎ撃退することに成功するも、10月上旬頃には私部城が落城し、因幡における尼子再興軍の拠點はこの若桜鬼ヶ城の1城を殘すのみとなるのである。しかしながら、その後の尼子再興軍の奮戦や、山陽方面で織田氏と毛利氏との間の緊張が高まったことなどにより、10月21日(11月23日)、毛利軍は若桜鬼ヶ城の周辺に多數の付城を築いて因幡から撤退する。ところが、反毛利勢力の三村氏の滅亡、浦上氏の衰退、また支援を受けていた美作三浦氏が毛利氏に降伏したことなどもあり、尼子再興軍は因幡國において完全に孤立化する。さらに、元春ら毛利軍主力の撤退後も因幡の毛利勢から圧力を受け続けたこともあって、天正4年(1576年)5月頃、尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し因幡國から撤退する。こうして、2回目の尼子再興運動も失敗に終わった。第三次尼子再興運動 - 幸盛の死因幡國より撤退した幸盛は、織田信長を頼り京へ上る。 京で信長に面會した幸盛は、信長より「良き男」と稱され、「四十里鹿毛」という駿馬を賜わったという。その後、幸盛は織田軍の下で尼子家再興を目指すことになる。天正4年(1576年)、幸盛ら尼子再興軍は明智光秀の軍に加わり、但馬八木城攻めや丹波籾井城攻めに參加する。11月、明智軍が籾井城を攻めて敗れると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍の殿となり、追撃する波多野・赤井軍を迎え撃って切り崩し、軍の崩壊を防いだことで光秀より褒美を賜っている。その他、丹波攻めの際には2度の比類ない働きをした。天正5年(1577年)、幸盛は、信長の嫡子・織田信忠に従い、片岡城攻めや松永久秀が篭城する信貴山城攻めに參加する(信貴山城の戦い)。幸盛はこのとき、片岡城攻めでは1番乗り、信貴山城攻めでは2番乗りの功績を上げた。また、この戦いで幸盛は、久秀配下の將・河合將監を一騎討ちで討ち取っている。10月、信長の命令を受けた羽柴秀吉が播磨へ進軍を開始すると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍を離れ、秀吉軍の下で戦うこととなる。12月(1578年1月)、秀吉が、播磨西部の毛利方の拠點である上月城を攻略すると、幸盛は、主君・尼子勝久と共にその城に入る。尼子再興軍は、この城を拠點として最後の尼子家再興を図って行く。 上月城は小城であったが、備前・美作・播磨の國境に位置し、この地域を治める上で重要な拠點であった。城番となった幸盛は、この區域の守備を行うと共に、織田氏と美作江見氏との仲介を行うなど、美作國人の懐柔・調略を行っていく。天正6年2月1日(1578年3月9日)、宇喜多軍の將・真壁次郎四郎が約3,000の兵で上月城を攻める。この戦いは、幸盛が約800の兵を率いて宇喜多軍を夜討ちし、次郎四郎を討ち取って尼子再興軍が勝利している。2月中旬(3月下旬)、三木城の別所長治が信長に叛旗を翻し、毛利氏に味方する。 織田氏と交戦狀態にあった毛利氏は、これを好機と捉え、4月、吉川元春・小早川隆景ら率いる3萬以上の兵をもって播磨に進軍する。そして4月18日(5月24日)、尼子再興軍が籠もる上月城を包囲する。5月4日(6月9日)、毛利軍による上月城包囲の知らせを受けた秀吉は、荒木村重らと共に1萬の軍を率いて上月城の救援に向かい、高倉山に布陣する。しかし、秀吉軍は、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられたことや、6月21日(7月25日 )の高倉山合戦で毛利軍に敗れたこともあって、6月26日(7月30日)に陣を引き払い書寫山まで撤退する。その結果、上月城は孤立無縁となり、兵糧が底を突き、また城を離れる者も後を絶たなくなったため、7月5日(8月8日 )、尼子再興軍は毛利軍に降伏する(上月城の戦い)。降伏の條件として、尼子勝久及び弟の助四郎は切腹、幸盛と立原久綱は生け捕られ人質となる。その他、毛利氏に敵対した多く者は処刑され、それ以外の者は許され解放された。人質となった幸盛は、備中松山城に在陣する毛利輝元の下へと連行されることとなる。しかし、途上の備中國合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏家臣の福間元明により謀殺された。享年34または39。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%B9%B8%E7%9B%9B
末次元康 Suetsugu Motoyasu(1560年-1601年)毛利元就的八子、母為三吉氏、養父椙杜隆康、正室為杉原盛重之女、繼室為吉見廣賴之女.矢野局;幼名少輔七郎,通稱七郎兵衛尉,別名毛利元康、富田元康,戒名石心玄也。生於安藝國吉田庄,同母兄毛利元秋、出羽元俱,異母兄弟有毛利隆元、吉川元春、小早川隆景等。自元就處受領出雲國末次庄(所領2400貫)末次城故常以末次元康為名。後來代替被椙杜氏迎作養子的同母兄元秋成為椙杜氏家督。天正四年(1578年)跟隨兄長吉川元春進攻因幡國宮石城(現鳥取縣鳥取市氣高町)立功,此為初陣。天正十三年(1585年),毛利氏參加四國征伐時南條直秀(南條元續)趁機奪取伯耆國河原山城,末次元康將城奪回,因而受到褒獎。同年,接替急死的同母兄毛利元秋成為出雲國月山富田城主。天正十九年(1591年)豐臣秀吉命吉川氏當主吉川經言(吉川廣家)轉封月山富田城,元康移至備後國神邊城(現廣島縣廣島縣福山市神邊町)。文祿元年(1592年)開始的文祿慶長之役中作為主君毛利輝元的名代出兵朝鮮。碧蹄館之戰擊退攻來的明軍一千餘人將戰鬥引向勝利,功勞甚大,獲得豐臣秀吉感狀。後於文祿四年(1595年)擔任從五位下官職,並獲賜豐臣姓。文祿之役後的慶長三年(1598年)在瀨戶內海內的小半島上修築了王子山城(現廣島縣福山市東深津町),並將居城自神邊移至此處。嫡男元宣亦生於此城。慶長五年(1600年),豐臣秀吉死後,德川家康極盡專橫之事,與石田三成、宇喜多秀家產生對立,毛利家中對於加入哪一方也是爭論不休。因而元康一邊負責協調家中意見,一邊受毛利輝元之命與堅田元慶等人向藤堂高虎、加藤嘉明領內伊予國國人久枝又左衛門發送書信希望其內應,積極的展開各種內應工作。關原之戰中參加前哨戰伏見城攻城戰,伏見城落城後作為西軍的大將率軍一萬五千進攻京極高次駐守的大津城(大津城之戰)。元康將本陣置於長等山,並在此與立花宗茂軍勢聯合對城內進行炮擊。9月13日開始總攻擊,掩埋了護城河,連下三の丸、二の丸直逼本丸,9月15日城主京極高次投降,同日關原之戰本戰打響,結果沒有趕上本戰。聽聞主力敗北傳聞的元康返回大阪城進行抗戰準備,由於毛利輝元無意作戰,最終撤出大阪城返回本國。戰後由於毛利氏減封至防長兩國,所領變為長門國厚狹郡10,500石,子孫是長州藩一門家老厚狹毛利家。慶長六年(1601年)病死於大阪木津毛利宿陣,得年四十二歲。另:現廣島市內元安橋,本名元康橋,後為避德川家康之諱改名元安橋,此橋即得名自末次元康。橋下的河也因橋而得名元安川。以元康為名的原因一說是其指揮了架橋工作,一說此橋正好通到元康宅邸門前。元安橋經過數次改修,於1920年改為鋼筋混凝土結構。1945年廣島原爆時,此橋距爆心僅130米,然而奇跡般的並未坍塌。1989年,因為原橋結構老化進行了大幅度改修,僅保留了原橋的些許結構物。作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=7#postid-207 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%AC%A1%E5%85%83%E5%BA%B7
杉原盛重 Sugihara Morishige(1533年-1582年)杉原匡信之子,盛重本是備後國國人眾杉原理興的家老,在弘治三年(1557年)杉原理興死後,因他沒有子嗣,以一門眾的身分繼承,成為神邊城主,並娶毛利興元之女,成為毛利家臣。跟隨吉川元春參予山陰道的戰事,被吉川元春評價為一名勇猛的武將,而且麾下支配著德岡眾、佐田彥四郎等許多忍者,在陰德太平記中也描寫他擅長智謀、思慮極深。毛利元就在永祿七年(1564年)伯耆國尾高城主行松正盛病故後,將尾高城轉交給盛重顧守,而盛重雖取代行松氏,但當行松正盛的妻子改嫁後,也擔起扶養行松氏遺兒的責任。盛重也在同年討伐反出毛利家的江尾城主蜂塚右衛門尉。後來盛重也因功加封至東伯耆的要衝八橋城,但尾高城也因此在永祿十二年(1569年)被意圖復興尼子家的山中鹿之介奪回,為此盛重在元龜二年(1571年)奪回此城,併消滅親尼子家的羽倉氏。天正六年(1578年),盛重也指揮所領忍者參予上月城之戰,天正八年(1580年)南條元續、小鴨元清兄弟倒戈至織田家後兩度進攻八橋城,盛重都將他們擊退。翌年,盛重即病故於八橋城。天正十年(1582年)因為織田家部將羽柴秀吉的謀略,次子杉原景盛謀殺繼為當主的兄長元盛,倒戈織田家,最後是吉川元春發兵將之討伐,景盛被擒後自刃。而毛利輝元看重盛重過往功勞,讓同族的高洲元士之子元勝繼承其一部份領地。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E7%9B%9B%E9%87%8D