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本庄繁長

上杉謙信 Uesugi Kenshin(1530年-1578年)長尾為景的幼子、母為虎御前.青岩院、養父為長尾晴景、上杉憲政;幼名虎千代、初名長尾景虎;繼承上杉氏,名為上杉政虎;受足利義輝偏諱「輝」字,改為上杉輝虎;入道法名謙信,以「上杉謙信」之名為人所知。天文五年(1536年)八月,父親為景進攻越中之前,預計到進程可能不會很順利,先將家督之位讓給長子長尾晴景。十二月,長尾為景在越中旃檀野與一向一揆作戰時中計敗死(另有病死說)。為景一死,本來就不太平的越後國更加動蕩,各地豪強佔據一方,各自為政,儼然是個「小戰國」。當時謙信年僅七歲,穿著盔甲送為景下葬,國內的混亂可見一斑。按照室町時代武家的傳統習慣,沒有繼承權的幼子常常被送去出家。於是這一年謙信受戒於春日山麓的林泉寺名僧天室光育門下,學習禪與文武之道。繼承越後守護代的長尾晴景,比謙信年長十八歲,是為景生前最疼愛的兒子。然而,晴景體質虛弱,沒有作為武將的統領之才,被國內的其它勢力所輕視。為緩和自己的窘境,天文十二年(1543年),晴景嘗試著讓十四歲的謙信協助強化統治權,入駐越後中部的栃尾城,在確保長尾家在越後中部領地的同時,牽制本庄繁長、色部勝長、中條藤資等敵對勢力。一開始,附近的國人眾們根本沒把這個少年放在眼裡。但謙信到城後,得到母親家的古志長尾氏和栃尾城代本庄實乃等人的援助,多次擊退敵對勢力的來犯,並很快將安田長秀、北條高廣、小河長資等國人眾收伏於帳下。在栃尾城的一系列作戰是謙信最初的戰爭經歷。天文十四年-天文十五年(1545年-1546年),守護上杉家的老臣黑田秀忠兩度佔據黑瀧城謀反,謙信代兄長晴景率兵平叛,表現神勇,最後依守護上杉定實之命消滅黑田一族。謙信的聲望迅速壓倒晴景,國中漸漸有改立謙信為守護代的苗頭,這是晴景始料未及的。終於,難以容忍的兄長聯合上田長尾氏長尾政景、黑川清實等人,打出討伐自己弟弟的旗號。內戰中,謙信雖然兵少,卻以攻其不備之法大敗晴景軍。天文十七年(1548年)十二月,雙方由上杉定實做調解人達成和議:晴景引退,謙信作為晴景的養子繼承家督和守護代職,當時謙信十九歲。天文十九年(1550年)二月二十六日,越後守護上杉定實病死。定實沒有兒子,守護家絕後。兩天後,將軍足利義輝承認謙信有白傘袋和毛氈鞍覆的使用權。這樣,謙信實質的國主地位得到認證。次年,一直不承認謙信地位的長尾政景降服於謙信麾下,越後長尾一族實現統一。天文二十一年(1552年),謙信被授予彈正少弼,從五位下的官位。天文二十一年(1552年),上野平井城的關東管領山內上杉憲政抵擋不住北條氏康的攻勢,逃到越後求助於謙信。這成為謙信後來十四次進軍關東的起因。下一年,信濃的小笠原長時、村上義清、高梨政賴等來越後泣訴,請謙信幫助回復被武田信玄佔領的信濃領地。以謙信的性格,自無不允,當年八月就爆發對武田氏的第一次川中島會戰。是役雖然只是小規模的接觸,卻介紹謙信和信玄這對宿敵的相識,對其後整個戰國形勢的發展也造成不小的影響。當年九月,謙信進京,為此前接受彈正少弼,從五位下的官位向皇室獻禮。後奈良天皇授予謙信天杯、御劍和「討伐對鄰國懷有野心之徒」的敕命。無疑,這等於給謙信攻擊武田、北條的名分。然而,與進京的成功同時而至的是巨大的花銷,圍繞著這些費用的徵收問題在家臣中出現爭執。敏銳的武田信玄立即抓住這一機會。天文二十三年(1554年)十二月,越後刈羽郡北條城主北條高廣在信玄的煽動下自立,但三個月後就失敗投降。北條高廣是鎌倉幕府的名臣大江廣元的後人,越後國人中的實力人物,平日自負武略不遜於謙信,常懷異志。謙信待高廣卻顯得極為寬大,後來還讓他去上野廄橋城經略關東。十三年後的永祿十年(1567年),高廣受北條氏康支持再度謀反。然而越後和相模同盟時,謙信又一次饒恕高廣,依舊像從前那樣重用他。越後鬆散的主從關係由此亦可見一斑。武田信玄幾乎沒有給謙信喘息的機會。緊接著在弘治元年(1555年)七月,因為締結三國同盟而無後顧之憂的信玄大舉進兵川中島,謙信亦駐軍於善光寺與之對抗。兩雄對峙一百五十多天,各自滴水不漏,互無建樹。最後由今川義元出面調停,議和罷兵,第二次川中島會戰結束。收兵回國後謙信面臨的是一場內亂,有力家臣間的領土紛爭不絕。謙信被各種訴訟糾纏得心灰意冷,於弘治二年(1556年)三月在給自己的老師天室光育的信中留下「功成名就,急流勇退」的話,宣告隱退,欲獨自一人前往高野山(或說比睿山)出家。這一突如其來的舉動晴天霹靂般地令家臣們大吃一驚,宇佐美定滿和長尾政景二人慌忙召集重臣商議,以「景虎乃越後統合之中心,捨此無人可內服眾將,外御強敵」故,說服中條藤資,驅逐欲乘亂謀反的大熊長秀(大熊朝秀),極力懇請謙信復出。謙信趁機要求諸將提交聯合署名的起誓文書,並向春日山城送出人質。對此當然無人再敢表示異議。謙信的隱退可能只是一種計謀,但在內憂外患前,這出苦肉計式的隱退戲的確帶來強化家臣團統治的好結果。從越後逃亡的大熊長秀到甲斐投靠武田信玄,上杉、武田間的和約至此破裂。弘治三年(1557年),武田軍進逼栃尾城,謙信親率大軍迎戰。素來以戰法穩健著稱的信玄極力避免打硬仗,只是以先鋒部隊作試探性的攻擊。信玄曾趁夜埋伏下騎兵五十和步兵三百,次日清晨故意放出三匹驚馬,意在誘使上杉軍奪馬而騷亂。謙信任由三馬在陣前狂奔許久,視若無睹。關於第三次川中島會戰的記載很不明確,大體上是沒有決戰就不了了之。同年,關東管領上杉憲政再度逃到越後,將關東管領職、系圖、重寶等一起轉讓給謙信。為此謙信在永祿二年(1559年)第二次進京,由朝廷和將軍正式認許這一繼承。時值正親町天皇新立,同樣賜予謙信天杯和御劍。永祿四年(1561年)3月,謙信以關東管領的名義,集合關東諸侯共計十一萬五千兵馬,討伐「逆臣」北條。北條氏康的居城小田原被大軍圍困逾一個半月,但絲毫沒有要陷落的跡象。同時,謙信在陣中收到北條的盟友武田趁虛進兵信濃的探報,無奈之下只得放棄攻取小田原的打算。謙信先順路去鎌倉,在鶴岡八幡宮舉行關東管領的正式就職儀式,接受上杉憲政的「上杉」姓和「政」字,改名為上杉政虎(同年十二月,受將軍足利義輝賜予「輝」一字,而稱上杉輝虎)。從鎌倉往越後的歸途中還攻取北條方的武藏松山城。而武田信玄和決戰的機會,終於在永祿四年(1561年)夏的第四次川中島會戰中被謙信抓到。謙信駐軍妻女山,與海津城的信玄對峙十日,雙方都有些一反常態:謙信雖然兵力只有信玄的三分之二,且已近缺糧,卻還是打打小鼓,哼著謠曲『八島』,悠閑地過著每一天;信玄在優勢兵力下毫無進展,採用軍師山本勘助的建議「啄木鳥戰術」,由高阪昌信、馬場信房、真田幸隆等率一萬兩千人的別動隊夜襲妻女山,信玄本陣八千人則守候於山前的八幡原。九月九日傍晚,在慶祝重陽佳節後,謙信照例在山頭遙望海津城,發現武田軍的炊煙比平時濃密,從而預感到武田的行動。九月十日天明,決戰的時刻到來,原來意圖守候伏擊的武田本陣遭受幾乎上杉全軍的突擊。據『甲陽軍鑒』載,當時有一位頭纏白絹,只露出雙眼的越後武士,騎馬突入武田中軍,揮刀直砍坐在折凳上指揮的信玄。信玄不及拔刀,只得以軍配團扇抵擋。第一刀使團扇碎裂,後兩刀砍傷信玄肘、肩部。信玄的近侍二十餘人急來救主,原虎義挺槍刺傷越後武士的馬屁股,馬驚而載著武士逃去。雖然『上杉年譜』說這位武士是謙信的「影武士」荒川伊豆守,『北越軍記』又說遭突襲的也是信玄的影武士,但民間依然傳說這是謙信與信玄的單挑。岌岌可危中的武田本陣因別動隊的及時來援而起死回生,後來豐臣秀吉評說道:「卯時至辰時上杉勝勢,辰時至巳時武田勝勢」。是役乃少見的惡戰,雙方均死傷慘重,戰後信玄一直迴避與謙信的正面對決。三年後的第五次川中島會戰其實並未交鋒,雙方相持六十餘日,武田與上杉在信濃的拉鋸就這樣結束。信濃人口眾多、資源豐富,又沒有統一的勢力,自然成為武田擴張領地的突破口;而對於上杉來說,撇開道義上的原因,信濃也是越後聯絡關東的通道之一,更是保護越後安全的屏障。兩雄的爭奪在所難免。但是,正因為謙信與信玄棋逢對手,難解難分,二人把一生的過多時間耗費在信濃,錯過進取天下的大好時機,從而使織田信長的成功省不少力。這也許是川中島會戰最大的意義。關於謙信的戰法之猛烈,後來在大阪戰役中表現神勇而得到德川幕府的感狀的上杉家臣杉原常陸說:「我等追隨謙信公時,歷大戰小戰不計其數,其酷烈無可相比者;縱不期生還之惡戰,亦未足得一感狀。今之戰猶如小兒投石打鬧,彷彿賞花遊山而得褒賞。」永祿六年(1563年),北條氏康發兵五萬進攻武藏松山城。謙信率軍援救,未至,城已陷,遂移兵附近北條方的私市城。該城背依大湖,建於險要之地,難以卒拔。城的本丸臨湖,築得很高。謙信巡視時,見從本丸通往二丸的廊橋上張著竹簾,湖水中映出橋上站的一個穿素白單衣的人影。謙信三次見到這樣的人影,推測本丸中拘有不少作為人質的婦孺,就先令柿崎景家帶隊猛攻正門。待城內的注意力都被轉移到正門時,派人拆毀附近的民房,用柱子結成大筏投入本丸後的湖中,並故意發出很響的水聲,佯裝要從水路進攻。本丸的婦孺著實被嚇一跳,紛紛奪路逃向二丸。把守正門的兵將不明真相,見到本丸突然大亂,只道是城內有內應已佔據本丸,頓時無心再戰,自殺的自殺,投降的投降。謙信遂拱手而取此堅城。可見謙信用兵之機略。在關東反反覆復的爭紛又持續好幾年,各方都沒有什麼大進展。永祿十年(1567年),武田信玄開始把矛頭轉向昔日的盟友今川,而三國同盟的另一端北條則站到今川一邊。為一起對付武田,北條氏康甚至與長年敵對的謙信和好並結成短暫的越相同盟。鑒於甲斐是內陸山國,而越後、駿河、相模都是沿海國,今川氏真建議三國共同停止向甲斐運鹽作為制裁。提議得到北條氏康的贊同,但謙信知道後卻說:「斷鹽而使甲州的民眾受苦,非有勇之人所為。勝負當在戰場上分曉,敵國之民亦人眾也,不可採取此等殘忍手段。」遂命藏田五郎左衛門運鹽往信濃深志的集市販賣。元龜二年(1571年),北條氏康死,武田信玄與北條氏政重新結好後,攻德川家康於三河,開始他的進京作戰。織田信長與謙信締結同盟,謙信出兵信濃長沼,遙相聲援德川家康。時駐守信濃的武田勝賴部僅有八百餘人,勉強前來迎戰。謙信贊其勇,不欲以眾克寡,竟引兵退去。次年四月,武田信玄突然病死於進京途中。死前曾囑勝賴與謙信修好,並以為依託,由此可見其對謙信人格的肯定。謙信知信玄死,亦為之傷感,嘆道:「吾國之弓箭將不利矣。」隨即絕音曲三日,並遣使往海津城弔唁。有老臣進言趁機收復信濃,謙信以「乘人之危之舉,不齒為之」,未予採納。後武田勝賴違背信玄「死後三年不可出戰」的遺言,強行出兵,在長筱慘敗於織田、德川,元氣大傷,越後諸將復請乘虛進攻武田,謙信以同樣理由未准,至死不曾為難勝賴。信玄死後,謙信與信長雖然還保持著表面上的友好,但決裂已只是時間問題。信長消滅室町幕府之舉使謙信認定信長是天下動亂的禍首,而被驅逐的將軍足利義昭也請求謙信進京再興足利家。從越後進京的道路是順著北陸道,經越中、加賀、越前至近畿。為此,謙信的軍鋒首先指向越中和能登。越中、能登原本都是守護畠山氏的領國,但能登的實權早已旁落入重臣遊佐氏、溫井氏、長氏、三宅氏等手中,形成所謂重臣合議體制。重臣之間明爭暗鬥,可是把畠山氏傀儡化卻是一致的。永祿九年(1566年),欲奪回權力的畠山義續、義綱父子被群臣逐出能登;繼承守護職的畠山義慶還只是個幼童,天正二年(1574年)也不明不白地死於變亂;其弟義隆上台後兩年就病死;群臣中勢力最大的長綱連索性扶立一個年僅兩歲的幼童為主。能登實際上處於極度混亂的無主狀態。至於越中,更早已是國人眾與一向宗勢力林立,其中不少以武田信玄為後盾。信玄進京的同時,謙信也曾出兵奪取越中的大部分地區。天正五年(1577年),謙信平定越中最後的幾個據點,並順勢掃平能登除七尾城以外的所有地方。七尾城中群臣之首的長綱連與織田素有親交,一面閉城堅守,一面遣其弟長連龍向信長求援。九月,正在圍攻七尾城的謙信接到探報,以柴田勝家(一說為織田信長)為主帥的五萬織田大軍渡過加賀的手取川攻入能登。當時七尾城內已發生傳染病,許多士兵因而病死。十五日,倒向上杉方的遊佐續光、溫井景隆等發動叛亂,誅殺長續連、長綱連父子及其一族,七尾城在困守四十餘日後陷落。謙信隨即率三萬五千人馬迎擊織田軍。織田軍已在手取川前背水列陣,且人數佔優,但聞知七尾城已陷,謙信親自統兵前來時,竟畏其名而戰意盡失,乘夜撤兵。謙信隨後追擊,恰逢手取川漲水,織田軍難以渡回,登時混亂,在謙信的猛攻之下潰不成軍。戰後留在岸邊的織田軍屍體有千餘具,另外數倍於此的人淹死在河裡或被河水沖走。織田與上杉的第一次正面交鋒以慘敗告終。因為北條在關東有所動作,得勝後的謙信沒有乘勢進兵,而是退回越後。翌年正月,謙信下達關東征討的總動員令。然而,謙信的生命也正隨著越後的積雪一起漸漸消逝。即將出陣前的三月九日,謙信突然昏倒於廁所,並失去知覺。謙信是戰國有名的酒豪,甚至騎在馬上也不忘飲酒,因飲酒過量而造成腦溢血。三月十三日,與世長辭,年49歲。出處 http://www.twwiki.com/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1
中條藤資 Nakajo Fujisuke(生年不詳-1568年)中條定資之子,正室為高梨政盛之女,別名與次郎、彌三郎,號梅波齋。中條氏是桓武平氏的後裔三浦和田氏的分支,為揚北眾的筆頭。明應三年(1494年)父親定資戰死,繼承鳥阪城家督之位。當時越後守護上杉房能因身體病痛不適而收同族的上杉定實為養子繼嗣,隱居至溫泉療養,由於定實年幼因此大權盡落入守護代長尾為景之手。不料,在溫泉療養的上杉房能在健康好轉後想收回權力,為景的勢力已蓬勃發展,尾大斷不掉。雙方為了爭奪越後的支配權嚴重對立,越後一分為二,期間中條藤資從屬於為景方。永正四年(1507年),上杉房能不敵善戰的長尾為景,敗逃至武藏缽形城後自殺。為此關東管領上杉顯定大怒,憤而發兵征討為景替一族的上杉房能報仇。永正五年(1508年),中條藤資做為為景麾下的部將擊敗了本庄房長、色部昌長的部隊並攻下色部家的要害平林城,而面對上杉軍優勢兵力的為景也在翌年將戰線拉至越中,後於長森原之戰中討取了上杉顯定,確立了他對越後的統轄,後中條藤資隨為景轉戰越後各處,天文二年(1533年)藤資燒毀上杉定憲軍所盤據的居多神社,然後在天文五年(1536年)隨為景將上杉實房殺敗,完成一統越後的霸業,中條藤資也因戰功獲得奧山莊的關澤、金山以為賞賜。甫一統越後的長尾為景旋即在越中與一向一揆作戰時敗亡,大位由長子晴景繼任,為了確定統治的名義晴景依然擁立上杉定實為守護建立傀儡政權,但紛亂也因此而來,上杉定實無子後嗣問題再起,奧州的豪強伊達稙宗有意讓自己的兒子時示丸(伊達實元),成為定實的養子日後好順勢掌握越後,由於伊達實元是中條藤資嫁給伊達稙宗的妹妹所生,因此中條藤資認為這是自己成為守護家親族以進一步稱雄越後的大好機會,而傾力支持伊達家,但是卻受到色部勝長、本庄房長等揚北眾的大力反對且伊達家中反彈聲浪亦不息,這項養子策略才因此作罷。但從此下越地方紛擾不斷,晴景為了強化對下越的統治,讓幼弟長尾景虎(上杉謙信)入主栃尾城以牽制色部勝長、本庄房長、中條藤資等騷動勢力,弱冠之年的景虎便已發揮出他過人的才華屢次擊退敵對力的來犯,使原本看不起他的中條藤資等人驚嘆不已。之後天文十四年(1545年)時守護上杉家的老臣黑田秀忠兩度占領黑瀧城謀反,都由景虎領兵平定,中條藤資也以協助討伐的名義兩次馳援景虎軍,在後來景虎和晴景的鬩牆之戰中中條藤資也與本庄實仍等人支援景虎。在守護上杉定實的調停下景虎以晴景養子的名義繼承家督,此後藤資成為上杉謙信的股肱勇將,列位七手組大將之一,在後來永祿四年(1561年)的第四次川中島合戰中立下大功,謙信賜給中條藤資「血染的感狀」以茲感懷。永祿十一年(1568年),將本庄繁長受武田信玄挑撥而謀反的消息通報謙信,後隨謙信於同年十一月攻打本庄城鎮壓叛亂。同年,中條藤資過世,由於無子,將女兒嫁給吉江景資的次子以為中條家的婿養子,自上杉謙信處拜領「景」字,改名為中條景泰繼承中條家家督。出處 http://www.twwiki.com/wiki/%E4%B8%AD%E6%A2%9D%E8%97%A4%E8%B3%87
仁賀保挙誠 NiKaho Takanobu(1560年-1624年)出羽国由利郡の南部を支配した。実名は文書上確認されるのは「光誠(みつしげ)」であり、これは次男の誠政が将軍徳川家光の「光」の字を憚り、代わりに「挙」の字を当てたためと考えられている(自身も光政から名を誠政に変えている)。なお『寛政重修諸家譜』では、挙誠を「たかのぶ」と読ませている。仁賀保氏は通字に「挙」を、家紋に「一文字に三つ星」をそれぞれ使用するため大江氏との関係を指摘する旨もあるが、「挙」の通字は文書上は確認されない。これは大井姓が誤伝により大江と伝えられ、これによるものであると考えられる。仁賀保氏はその家系は断続的ながら文書上に確認されており、「光長」「光誠」など「光」が通字であったのであろう。また、家紋は「一文字に三つ星」の他に「松葉菱」も使用しており、大井氏の流れを汲むのはほぼ確実である。仁賀保氏の成立 仁賀保氏は清和源氏小笠原氏流の大井氏の流れを汲み、その祖先は元々は信濃大井庄の領主であった大井朝光である。朝光は叔母である大弐局より出羽国由利郡を相続し、その縁で由利郡に信濃大井氏が繁栄することとなる。鎌倉時代初期、大井氏は信濃大井庄を本貫の地とし、地頭代を派遣して由利郡を支配していた。これは鎌倉時代末期まで続いていたと考えられる。当初は「津雲出郷」と呼ばれた矢島郷(現在の由利本荘市矢島町付近)を支配した矢島氏が地頭代であったらしい。矢島氏の祖と考えられる大井政光と仁賀保氏の祖と考えられる甲斐守光長は兄弟であるらしく、光長の孫の友光の代には仁賀保郷(現在のにかほ市付近)に進出していたらしい。仁賀保氏の菩提寺である禅林寺にはこの時代からの位牌が残っている。後、建武の新政・南北朝などの混乱期を経て、由利郡は大井氏からの独立の気運があったと考えられ、それを制するために新たに地頭代として任命されて由利郡に移住してくる者達が多く居たようである。特に、後に赤尾津(あかおつ)氏とも呼ばれる小介川(こすけがわ)氏は大井氏の分家として、由利郡の北から雄物川河口部にかけて勢力を広げ、室町時代中期には醍醐寺三宝院門跡領を横領するほど勢力を増した。友光の四男の友挙は彼らを説圧するために鎌倉より下されたと伝えられる。無論、当時の東北地方の政治状況から勘案すれば、事は簡単なものではなく、関東管領・出羽探題・室町幕府の思惑が複雑に絡んだものであったと考えられる。当時の大井宗家の当主である持光は鎌倉公方足利成氏の外祖父にあたり、関東管領である上杉氏と対立関係にあった。また、醍醐寺の荘園を横領した大井氏の分家の小介川氏(赤尾津氏)の存在もあり、上杉氏と近い関係にあった大井氏分家の友挙の由利郡下向は、非常に政治的なものであったのだろう。友挙の子の大和守挙政は、主な領地名である仁賀保郷を以って「仁賀保」を名字とした。仁賀保の名は大永4年(1524年)の長尾為景宛斯波政綿書状の中に出てきており、この時代、仁賀保氏は中央政権に対して馬の献上をもしていたらしき事が推察される。挙政の子の挙久は優れた人物で、兵を庄内地方に進め、日本海に浮かぶ飛島を切り取るなど活躍したが、矢島氏との戦いに敗れて討死したことにより仁賀保氏は衰退した。この時代、北出羽では湊安東氏、小野寺氏は京都御扶持衆であり、仁賀保氏は定かではないが、同じ由利郡の国人領主である滝沢氏が京都に代官所を持っていた事、御用商人の来訪などからしても、中央政権に近い有力な国人領主としての地位を確立していたらしい。挙誠の登場 挙誠は仁賀保氏がお家騒動と敗戦により当主が挙久から4代続けて非業の死を遂げた後に、一族である赤尾津氏から養子に入った仁賀保氏中興の祖である。仁賀保氏は歴代、山内上杉家またその分家の越後上杉家、長尾氏と関係が深く、本庄氏や大宝寺氏らと共に上杉氏の影響を受けていたらしい。上杉謙信の死後、長尾上杉氏の影響下にあった出羽庄内の大宝寺氏当主の大宝寺義氏が独立を目指すと、仁賀保氏は大宝寺氏らと戦うことになる。また、義氏は仙北の小野寺義道と同盟し、背後より矢島氏に仁賀保氏を攻めさせた。この為仁賀保氏は国力を大きく落とし、天正10年(1582年)頃より翌11年(1583年)にかけ、義氏に何度か大きく攻め込まれた。このため、仁賀保氏は5代当主の重挙が死亡後、独自に当主を立てられなかったものと考えられる。6代当主の八郎が没した後、仁賀保宮内少輔など有力な一族が居たにもかかわらず、挙誠が赤尾津氏より養子に入ったのは、赤尾津氏を支援した安東愛季の意思が働いたものか。挙誠が家督を継いだ天正13年(1585年)の時点の仁賀保氏は、小野寺氏の有力一族である西馬音内(にしもない)氏の娘を娶っていた矢島満安と鋭く敵対していたが、出羽庄内地方に最上義光が勢力を伸ばし、上杉方の大宝寺氏と戦闘を繰り返しており、背腹両面に敵を受けるわけには行かないので、矢島満安と和睦し、庄内戦に専念した。この頃、大宝寺義氏は重臣の東禅寺義長の謀反によって殺され、義氏の弟の義興が当主となっていた。義興と東禅寺義長が対立しており、更には大宝寺氏を本庄繁長・上杉景勝が、東禅寺氏を最上義光がそれぞれ支援していた。この戦いは本庄繁長が庄内に攻め込み、東禅寺義長を討ち取り最上軍を殲滅した事によりケリがついた。さてこの騒動の間、最上義光は不利になりつつあった庄内での戦いを有利に進めるため、由利郡の国人領主にも使いし、自身に与同する様に要請している。この際、義光は豊臣秀吉の惣無事令を実行する代官であるという立場を強調している。無論、秀吉の威光を以って仁賀保氏らを自身の配下にしようとする魂胆であるが、あまり効果が無かった様である。仁賀保氏らは秀吉には出仕するが、義光の命令は聞かないという立場をとったようである。天正16年(1588年)になり義光は出羽探題に任ぜられたとして、再び挙誠らに圧力をかけて来たが、越後から本庄繁長が来襲して最上軍を粉砕した事は先述した。これ以後庄内は完全な上杉領となった。この時、仁賀保氏らは庄内に出兵して最上軍を駆逐して回ったらしい。この上杉軍と挙誠の動向からして、庄内の領有権は歴代上杉氏のものであり、上杉軍・仁賀保氏らは豊臣秀吉の惣撫事令に基づく天下軍として最上方を成敗したという形であったらしい。この直後、義光は仁賀保氏らを揺さぶるためこれと敵対する矢島満安に使者を出し、これを懐柔することに成功する。挙誠らは満安の単独行動を良しとせず、奸智により矢島氏を攻め滅ぼし、矢島氏を利用して由利郡を自身の領土にしようと画策した義光の野望を挫いた。以後矢島郷は仁賀保氏領となり、秀吉の小田原征伐に加わり、仁賀保郷・矢島郷の領有を認められ、天正18年(1590年)12月24日付の知行宛行状により、由利郡南半分を領有することが決定した。なお、天正16年(1588年)に最上軍を粉砕した本庄繁長率いる上杉軍は天下軍として賊軍を成敗するという性質を持っていたと解釈すべきである。故に仁賀保氏ら由利衆もこれに加わったものであり、再び翌天正17年(1589年)に安東氏の内紛である湊騒動に対して、由利衆は天下軍として上杉氏より派遣され、秋田実季を支援して戦を鎮めた。よって関東奥羽惣無事令が出されていたのにかかわらず、上杉、仁賀保らの戦闘は私戦は考えられず、天下軍であるとは考えられなかった実季は改易は免れたが、湊安東家の領土は没収され天領となった。挙誠の領地 挙誠の領地は現在のにかほ市と由利本荘市矢島・鳥海地区に跨る。天正18年(1590年)に奥州仕置が行われたとき、由利郡では仁賀保氏のほか、赤尾津氏、滝沢氏、打越氏、岩屋氏、石沢氏、下村氏、根井氏、玉米氏、潟保氏らの存続が認められた。この内、石沢、下村、玉米、根井、潟保氏は文禄4年(1595年)に他氏の傘下に入ったらしい。但し、現在にかほ市教育委員会に保管されている「仁賀保家文書」には打越氏・根井氏宛の秀吉からの知行宛行状も含まれている。両氏とも大名として存続しているので、当初から挙誠にまとめて交付され、仁賀保氏の傘下に入っていたらしきことが推察される。後に根井は完全に仁賀保氏の傘下に入り、打越氏は軍事指揮下に入ったようである。また、潟保氏配下の稲葉氏の覚書により、関ヶ原の戦いの折には潟保氏の配下が仁賀保軍に加わっていた事が確認できるので、潟保領も仁賀保氏領になっていたと考えられる。石高は天正18年(1590年)には3,716石の記載があるが、天正20年(1592年)には8,000石強であることが確認されており、領内に設置された天領分を合わせると1万2,000石はあったものと考えられる。これに後に根井氏・潟保氏分が加わった。豊臣政権下 他の奥羽の武将の例に漏れず、小田原参陣の後、挙誠は妻子を京都に人質に取られた。翌天正19年(1591年)には九戸政実の乱の討伐軍の一軍として参陣し、『奥羽永慶軍記』によれば大功を立てている。文禄の役では肥前名護屋城に駐屯し、「おこし炭」の役をこなしている。また、牧使城攻撃の一軍として渡海する予定であったが、落城したため渡海することは無かった。文禄年間末からは北東北総ての大名に言い渡された杉材木の献上事業に豊臣政権が崩壊するまで従事した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、最上義光より東軍与同の誘いを受け、同族の赤尾津氏当主の赤尾津孫次郎と共に東軍に加わり、庄内まで出陣したが、石田三成が挙兵して徳川家康が上洛すると、家康より文書を受けて後、居城に帰還している。その直後、上杉方より唆された矢島満安の遺臣が一揆を起こした為、これを討伐した。この為、庄内の上杉勢を攻めることができず、後に義光より西軍与同の嫌疑を受けた。しかしながら石田三成が敗死した後、ただ一人徹底抗戦している景勝を攻めた。この際、上杉家臣の下次右衛門の菅野城を始め、数多くの城を攻め落とし、自身も負傷するほど力戦した。このため、後に家康から所領を安堵され、感状を与えられている。戦後、挙誠は秋田実季らと共に西軍与同の嫌疑を受け、慶長7年(1602年)、常陸国武田(現在のひたちなか市)5,000石に移封された。徳川政権下 常陸武田に移封になった挙誠は江戸に屋敷をつくり、大坂冬の陣では馬廻りの一軍として出兵、翌夏の陣では淀城の守備を務めた。元和2年(1616年)に伏見城番、元和9年(1623年)には大坂城の守衛を務めた。さて、時の老中土井利勝の家臣に鮭延秀綱という人物が居た。秀綱は元々は最上義光の重臣であり、最上騒動に絡んで土井家に御預けになっていた。その秀綱が主君利勝の諮問に答え、関ヶ原の戦いの時の挙誠の勇戦振りを語った。それに感銘を受けた利勝により元和9年(1623年)10月18日、挙誠は旧領仁賀保に所領を与えられ転封になった。この際、分家の打越氏にも領土の内の矢島郷を与えた様である。よって、仁賀保氏は打越領を含めると旧領をほぼ取り戻したことになる。この際、挙誠は仁賀保主馬という人物に700石与えている。分家であろうかと考えられる。なお、万石以上が大名であるというのは後世の感覚であり、当時は外様の領土持ちは大名であったと考えるべきである。仁賀保氏も打越氏も領内に居城を持ち、住んでいた。仁賀保郷に復帰した翌年の寛永元年(1624年)2月14日に死去、享年65(『寛政譜』の没年は誤り)。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E8%B3%80%E4%BF%9D%E6%8C%99%E8%AA%A0
佐野昌綱 Sano Masatsuna(1529年-1574年)佐野泰綱的次子,幼名小太郎,法名天山道一居士。佐野氏本為藤原秀鄉的後代,奉足利七郎有綱之子基綱為初祖,是基綱入封下野安蘇郡佐野庄後方稱佐野氏,在鐮倉幕府滅亡後,臣從於室町幕府新設的關東公方足利氏。據佐野記所載,佐野昌綱其父泰綱當政情形,是讚道:「國中無事四民業樂。」可見佐野泰綱已為諸子留下穩健的基礎,至兄長豐綱繼任家督時,亦效力於關東公方麾下和山內上杉氏等家族交鋒,在河越夜戰後北條家直竄為關東第一強權時,投向繼任關東管領的上杉謙信,於永祿元年(1558年)五月,上杉謙信攻打宇都宮家時出陣,卻在多劫城下被宇都宮老臣多劫長朝擊破戰死。兄長英年早逝後,在一門與重臣認可下,由佐野昌綱繼任家督之位,從佐野記中描述佐野昌綱的言詞:「幼年時便才智過人,勇力絕倫。成年後軍略優秀、槍法精妙,施仁惠於民、與鄰近諸將和睦。」當然出自佐野家臣所撰的佐野記,自要對己家之主褒揚一番,而不免有過溢之處,但也能這樣的記載看出,佐野昌綱的繼位因為他的能力尚算繼任平順,也在家臣領民中有著一定的威望。佐野昌綱繼承佐野氏後卻犯了難,正如其他關東國人眾一般,佐野氏同樣包夾在上杉、北條兩大勢力之間,初時佐野昌綱延續兄長的外交方針,與上杉家親善,也因此在永祿二年(1559年)北條氏康便看準佐野氏新主甫立,正陷於重整期,派遣長子氏政領三萬五千兵馬圍攻佐野氏居城唐澤山城。唐澤山城,又名根古屋城,乃是佐野氏數代傳承的城池,經過建有堅固的石垣,加上有豐富的水資源,使北條氏政大為苦惱,久攻不落。相對地佐野昌綱便趁北條軍糾結於城下時,遣使向布陣於上野平井城的上杉謙信求援,謙信聞訊後隨即點八千精兵急襲北條軍,謙信一馬當先於城西督戰領四十五人衝陣,引兵馬集於一點攻擊,使圍城的北條軍發揮不出數量優勢,一舉衝進城中和佐野昌綱會合,隨即突出城外大破北條軍。永祿三年(1560年),佐野昌綱開始進行領內整頓,重理領地分配,於八月派小野寺景綱為寺岡代官,確保當地領民的年貢上納,將該地收為佐野氏的直轄領,一來增加主家實力,同時也減少領民被庄屋、地頭等擅加稅賦的情事。也在同年十一月,在給家臣福地右衛門三郎領地事務的印判狀中開始使用貫高制度,以金錢收入標立家臣領地,以重臣大貫武重經營足尾銅山,建設本家財政基盤。永祿四年(1561年),佐野昌綱因為和上杉謙信不睦,在上杉謙信回歸越後,北條家再度大肆侵略之際,服從古河公方足利義氏的命令臣從北條家,引起上杉謙信不滿,鑑於佐野氏領地追位居下野南部的交通要衝,是下野攻略的必爭之地,旋於翌年三月在攻打館林城後,出兵唐澤山城,當初讓北條氏政難以攻陷的堅城同樣讓上杉謙信無法順心擴大戰果,在北條氏康自河越城出兵來救,無奈退兵歸國。為此上杉謙信在永祿六年(1563年),再度出兵唐澤山城,但在佐野昌綱的固守下,依然難越雷池一步,所以上杉謙信便轉向壓制周邊的佐野氏領地,使佐野昌綱大為所苦,因為他深知兵法通曉自家實力不足以和上杉軍進行野戰,但是無能出城任上杉軍於城下肆虐,必使來年的年貢收入銳減。可是佐野昌綱也只能咬牙硬撐,畢竟堅守還有希望,出城則必然落入下風,上杉謙信見佐野昌綱依舊不出,便解圍撤走。來年元月,上杉謙信再度冒著寒冷南下攻打唐澤山城,意圖以迅雷不及掩耳之勢破城,但佐野昌綱早有應戰準備,昌綱仍能藉唐澤山城之防禦力守備,雙方一時激戰。佐野昌綱終因連年征戰而無力應付,而轉托常陸佐竹家、下野宇都宮家出面仲介,臣服於上杉謙信,謙信收佐野昌綱末子虎松丸為養子,上杉謙信也為保唐澤山城不失,遂調來越後平林城主色部勝長與荻原伊賀守、吉江織部擔任城將。同年四月,佐野昌綱重新整頓戰後領地,發佈下都賀郡寺尾、千手、梅澤村的在地領主小曾戶長門守給予上都賀郡粕尾鄉五十貫以及松崎、布施谷、遠木一帶二十名武將的安堵,穩定人心,並將次子親綱過繼分家桐生氏。十月,佐野昌綱內通北條家再次樹立反旗,但上杉謙信反應快速,隨於二十七日發兵征討,佐野昌綱不敵再降,上杉謙信遂讓虎松丸連同三十餘名佐野氏人質和色部勝長回歸越後。但是在永祿十年(1567年),佐野昌綱又再次反出上杉家,上杉謙信即聯合在地國人眾小山秀綱、太田資正一同發兵,並請來常陸佐竹氏協陣,由於敵軍勢大,雖然佐野昌綱仍堅守未落,也知難以討好,又表達降意,上杉謙信認為可以只要控制唐澤山城便替上杉家箝制下野增一基地,使北條家的下野攻略受挫,因此再度同意,但為了防止佐野氏又倒向北條家,便以色部勝長為城將,正式分薄佐野昌綱對領地的控制權,但也引起佐野昌綱不滿於心。然而就在永祿十二年(1569年),色部勝長隨上杉謙信攻伐叛變的本庄繁長時陣亡,使上杉家對唐澤山城的代官人選一時懸空,失去了有力的節制者,佐野昌綱便聯合北條氏康、氏政父子再度叛出上杉家,而上杉謙信為確保在下野的勢力,領兵包圍唐澤山城,但同樣又是僵持居面,在佐野昌綱的領導下上杉謙信始終未正式攻陷唐澤山城,只是佐野昌綱亦自知野戰對佐野氏不利,而屢屢迴避上杉家的挑釁動作,而呈現不勝不敗的局面。直到當年三月,為對抗武田信玄的駿河攻略,北條家轉與上杉謙信同盟,這才由北條家出面,仲介佐野昌綱和上野的北條高廣重投上杉謙信陣營,唐澤山城城代由色部勝長之子顯長繼任。天正二年(1574年),佐野昌綱逝世,享年四十五歲,葬於本光寺,法名天山道一居士。佐野昌綱雖在上杉、北條兩家之反覆無常,卻也不能不說是戰國時代小大名的無奈,但觀期能在兩大勢力之中力保不失,尤其十三年中受到有軍神美譽之上杉謙信近大大小小十餘攻打,都能屹立不搖,可見佐野記予他文武兼資的評價並非完全不實。只可惜在失去昌綱之後,佐野氏歷經幾度搖擺,終於失去向心力而分裂,在其子宗綱戰死後,一舉分裂。家臣為保安泰迎入北條氏康五子氏忠入繼,昌綱三弟房綱憤而出走往依豐臣秀吉。雖然佐野房綱終究靠著秀吉之勢得回舊領,但仍因無子而收秀吉家臣富田一白之子信吉為繼,後來佐野信吉在江戶時代因大久保長安之事及其兄富田信高與阪崎直盛的爭執被連座,失去領地,直到寬永十五年(1638年)才被重新招為旗本,方能延續家名。出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/80945476/
五百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名止々斎、佐竹義重、上杉憲政、結城晴朝、里見義堯、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角承禎、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、足利義輝、足利義昭、福島正則、加藤清正、大谷吉継、島清興、竹中重治、井伊直政、榊原康政、片倉景綱、伊達成実、津軽為信、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、蒲生氏郷、鈴木重秀、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花道雪、立花宗茂、高橋紹運、鍋島直茂、細川幽斎、細川忠興、浅井亮政、林羅山、土井利勝、酒井忠世、青山忠俊、足利義明、稲葉貞通、真田幸昌、小幡景憲、蘆名盛舜、尼子経久、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵
大宝寺義増 Daihoji Yoshimasu(1522年-1581年)義増の周辺の系図には諸説あり、義増は大宝寺九郎の子で前当主の大宝寺晴時の従兄弟に当たる(祖父は大宝寺政氏)。ちなみに義増の別名として「晴親」(はるちか)が伝わっているが、これは晴時と同じく将軍足利義晴から1字を与えられたものとみられる。義増の「義」の字も時期的にみて義晴またはその子・義輝から賜ったものであろう。晴時の死後、土佐林禅棟の援助により後を継いだが統率力が無く、領内では内紛が絶えなかった。そのため、元々結びつきのあった越後国の本庄繁長や仙北の小野寺景道の援助を得ることで命脈を保ったと言われている。一時最上氏の家臣の清水氏と抗争し、永禄8年(1565年)には清水義高を合戦で討ち取り一時は村山郡に進出を果たしたものの、直ぐに上杉軍によって撤退を余儀なくされている。また、永禄11年(1568年)本庄繁長の謀反に荷担したが、上杉氏に本庄氏よりも先に軍を差し向けられるとすぐ降伏し、息子の義氏を人質として謙信に差し出し陳謝し、翌年に上杉氏によって義氏に強制的に家督を継がされると隠居(死去とも)した。天正9年(1581年)8月1日死去。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%AF%BA%E7%BE%A9%E5%A2%97
大寶寺義氏 Daihoji Yoshiuji(1551年-1583年)大寶寺義增之子、母不明;幼名滿千代、別名武藤義氏、四郎三郎,號桃翁,法號淨影,渾名庄內屋形、惡屋形。大寶寺、土佐林、來次、砂越四家乃是控制庄內平野的四家國人眾,其中大寶寺家因為領有羽黑山,利用宗教權威來擴大本家實力,因此是四家中實力最強者。永祿十二年(1569年),父親義增與本庄繁長聯合對抗上杉謙信,但是因為不敵而臣服,義氏被送入上杉家當人質,並且在隔年便在上杉謙信的壓力下將家督讓給嫡子義氏,改由受到謙信所信任的土佐林禪棟監督。但後來土佐林禪棟聯合越後國人眾大川長秀入侵大寶寺家時,義氏連忙請出上杉謙信調停才告解決。元龜二年(1571年),義氏派遣家臣和仙北的小野寺輝道締結同盟,並與秋田安東家和睦。同時土佐林禪棟也再度叛變,義氏一改前年退讓的態度,迅速反撲打敗土佐林禪棟,並藉此機會肅清領內,促成來次氏、砂越氏稱臣,義氏成功統一庄內平野。為了和最上義光對抗,義氏聯合伊達輝宗在天正二年(1574年)攻打清水城,後以失敗告終。天正六年(1578年),大寶寺家的靠山,上杉謙信病逝。來次氏因不滿義氏的統治而叛變,雖然最終遭到鎮壓,但是義氏考量到領地的穩定,反而增加來次氏的知行作為安撫。義氏見織田信長已經控制日本中央一帶,勢力龐大,遂於天正七年(1579年)派使者前往京都向織田信長送上馬匹、獵鷹,而被織田信長許以「屋形」的稱號及從五位下左京大夫的官位。天正十年(1582年),義氏鞏固和小野寺家的同盟,還結合仙北戶蒔、金澤、六鄉等國人眾並與津輕為信取得聯繫,在當年十二月大舉進攻由利郡的國人眾,但因為安東愛季派出援軍幫助由利的國人眾,最後義氏兵敗撤退。但他並未死心,隨即於翌年正月再次出兵,但也再次被安東愛季派兵擊退。同年三月二十七日,妹婿前森藏人與最上義光勾結,聯合砂越氏、來次氏襲擊義氏,義氏兵敗自刃,年三十三歲。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AF%B6%E5%AF%BA%E7%BE%A9%E6%B0%8F
後藤勝元 Goto Katsumoto(生年不詳-沒年不詳)初見資料は永禄8年(1565年)3月5日付の結城晴朝書状写(「伊勢古文書集」)で、勝元は越後上杉氏と結城氏、小山氏との間の取次を務めている。また、同年2月29日付蔵田紀伊守宛河田長親書状写(「伊勢古文書集」)には勝元に比定される可能性のある「左京亮」の名が見られる。上杉謙信の関東侵攻後、倉賀野氏や河田氏ら上野国衆と共に上野国の守将となる。永禄12年(1569年)の越相同盟に際して活動が見られ、前年3月からの本庄繁長の乱においては蘆名氏のもとへ派遣されているほか、伊達氏との外交にも携わっている。元亀3年(1572年)には越相同盟の破綻により上杉氏は越後上田庄の上田衆を越中国に配置し、代わりに栃尾衆を上田庄に配置されている。勝元は栃尾衆を率いて上田庄坂戸城(新潟県南魚沼市)に在城しており(東京大学史料編纂所所蔵栗林文書)、天正2年(1574年)2月5日付上杉謙信書状(「後藤文書」)に拠れば上野における軍事行動が行われている。天正5年(1577年)の奥付を持つ「上杉家家中名字尽手本」(『新潟県史』資料編所載)には「後藤左京亮」として記載があり、北条高広・景広、那波顕宗に次いで記載されている。天正6年の上杉謙信死去の前後に出家しているが、法名は不詳。天正6年(1578年)、謙信死後の御館の乱の際には上野国防衛を放棄し越後へ帰国し、当初は上杉景勝につき(天正6年上杉景勝書状写「覚上公御書集」)、後に景虎方に転身し(天正6年北条氏政書状写『武家事紀』)、蒲沢城(南魚沼市)を拠点に北条高広・河田重親ら景勝方の武将と協力し景勝方と敵対した。翌天正7年2月には蒲沢城が落城し上田庄は景勝方に制圧され、3月17日には御館城が落城し景虎は自害した。その後は景勝に信任され、越後統一のため奔走する。景勝の佐渡平定の際には両本間氏の内乱の調停に入った。上杉家はこの調停の直前に、佐渡仕置の勧告もしていたが、結局調停は失敗し武力制圧することとなった。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%8B%9D%E5%85%83
新發田重家 Shibata Shigeie(1560年-1601年)上杉謙信に仕え、川中島の戦い(第4次川中島の戦いで諸角虎定を討ち取ったのは新発田勢とも言われている)や関東出兵などに参加する。謙信の死後に起こった御館の乱では安田顕元の誘いに応じて上杉景勝を支持し、上杉景虎方についた同族の加地秀綱を降し、三条城の神余親綱を討ち、乱に介入した蘆名盛氏・伊達輝宗の兵を退けるなど大いに活躍した。天正8年(1580年)、兄の死により新発田家に戻って家督を相続し、新発田重家と名乗った。三条攻略・蘆名撃退など数々の武功を挙げた重家は、新発田勢の活躍に相応する恩賞を期待していた。しかし、重家が貰えるものと思っていた恩賞のほとんどは、景勝子飼いの上田衆の手に渡り、亡くなった兄・長敦の功績は軽んじられ、重家に対する恩賞も新発田家の家督相続保障のみに終わった。重家を景勝陣営に引き入れた顕元は、景勝と重家の和解に奔走したものの効果がなく、重家に謝罪する意味合いで自刃し果てた。天正9年(1581年)、蘆名盛氏の後を継いだ盛隆と伊達輝宗は、重家が景勝に対して不満を募らせている状況を見て、上杉に対して反乱を起こさせるべく様々な工作を行った。こうして6月16日、重家は一門衆のほか、加地秀綱ら加地衆や、上杉景虎を支持していた豪族を味方に引き入れ新潟津を奪取、同地に新潟城を築城し独立する。景勝は本庄繁長・色部長真(重家の義弟)に重家の抑えを命じたが、年内にはそれ以上の動きはなかった。一方、西側から上杉領攻略を進めていた織田信長の重臣柴田勝家は、この機に乗じて輝宗との連携を緊密にし、ますます上杉への攻勢を強めた。天正10年(1582年)2月、景勝は重家に対する最初の攻勢を発動したが、あっけなく撃退されてしまった。そこで景勝は蘆名盛隆に背後から重家を襲うよう依頼したが、反乱の仕掛人である盛隆が応じる筈もなく、重臣の津川城主金上盛備に重家を援護させ、赤谷城に小田切盛昭を入れるなどかえって介入を強化した。4月に入り雪解けが本格化すると、景勝は再び重家攻めに着手したが、西からの柴田勝家、南からの森長可・滝川一益らの侵攻に対処するため本庄繁長・色部長真に重家対策を任せることとした。6月2日、本能寺の変で信長が死に、織田軍が撤退したため、とりあえず西方と南方からの脅威は取り除かれたが、景勝自身は織田の旧領をめぐって、休む間もなく信濃で北条氏直と対陣していたので、この時は重家との本格的な戦は無かった。景勝は7月に北条と和睦すると重家攻めに力を入れたものの、兵糧不足に陥り撤兵した。天正11年(1583年)に入っても状況は変わらず、景勝は4月と8月に出陣したが頑強な抵抗は相変わらずで、8月の出陣の際には、上杉勢は豪雨と湿地帯のせいで大混乱に陥り、間隙を突いた新発田勢に散々に打ち据えられ、危うく景勝を討ち取られそうになった(放生橋の戦い)。この猛反撃で、重家の勢力範囲は一時的にせよ広がる結果となった。一方で景勝は蘆名家中の撹乱を狙い、直江兼続に命じて富田氏実・新国貞通などの盛隆に反抗的な重臣達を調略し、揺さぶりをかけた。天正12年(1584年)8月、景勝は水原城奪還のため出陣した。上杉勢は重家率いる本隊を水原城下に引き付けて戦い、その間に迂回していた景勝が八幡砦を奪取して水原城を孤立させたため、新発田方は水原城を放棄して退却した(八幡表の戦い)。ところが上杉方は直江兼続の陣が重家の攻勢を受けて崩壊し大損害を蒙っていたため、それ以上兵を進めることが出来なくなり、水原城もほどなくして新発田方の手に戻った。そのため新発田方の意気は揚がり、一時は佐々成政と共に景勝の挟撃を目論むほどであった。しかし、10月6日に蘆名盛隆が家臣に殺害されたことで、重家を取り巻く状況が暗転し始める。天正13年(1585年)5月、伊達輝宗に家督を譲られた政宗が蘆名と開戦し、秋には上杉に新発田への道を貸すなど、輝宗による越後介入路線を完全に放棄した。さらには10月8日には輝宗が死んだことで、伊達・蘆名両家による重家の支援体制は崩れ、重家は後ろ盾を失った。加えて11月20日に新潟城と沼垂城が藤田信吉の調略によって上杉方の手に落ちると、新発田方は新潟港から塩の津潟を経由して新発田に至る水利権を失い、これにより物資の大量輸送が困難になり、蘆名家との津川経由のルートによって当面の物資を補給せざるをえない状況に追い込まれた。天正14年(1586年)、景勝は上洛して正式に羽柴秀吉に臣従した。これによって強力な後ろ盾を得た景勝は、新発田攻めに全力を傾けたものの、決着をつけることは出来なかった。しかし、この頃になると新発田方では兵糧が欠乏し、配下の討死や寝返りなどもあって戦力が目に見える形で衰えていった。天正15年(1587年)夏、秀吉の支援を受けた景勝は1万余の大軍をもって新発田城を遠巻きに取り囲んだ。また、景勝と親交があった青蓮院門跡尊朝法親王が重家に和睦を勧告したが、重家はこれを断固としてはねつけた。周囲の諸城は上杉勢に次々攻略され、金上盛備が赤谷城の救援に向かうも藤田信吉に阻まれて撤退。9月19日、赤谷城が攻略された事により補給路は陸路・水路共に完全に寸断され、新発田城は義弟の五十公野信宗らが籠る五十公野城共々、孤立した。9月24日、秀吉からの使者が先ず景勝に対し派遣された。「因幡守(重家)城を出て降参すれば赦すべし」との降伏勧告・ただし助命条件であり、景勝は使者を新発田城に送った。使者は重家に対面して勧告内容を伝えたが重家は拒否、景勝は秀吉に早飛脚を送り勧告の結果を報告した。折り返し、秀吉から景勝に対し「来春までには落着すべし」と厳命が下ったことにより、景勝は先ずは五十公野城を総攻撃することになった。10月13日、藤田信吉らが五十公野城を陥落させ、残る主要な城は新発田城のみとなった。10月25日、景勝勢に厳重に包囲された新発田城内で重家は最期の宴を催し、それが終わるや否や城を打って出た。重家自らが率いる一隊は色部長真の陣に突入し、重家は「親戚のよしみをもって、我が首を与えるぞ。誰かある。首をとれ」と甲冑を脱ぎ捨て真一文字に腹を掻き切って自刃した。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%99%BA%E7%94%B0%E9%87%8D%E5%AE%B6
最上義光 Mogami Yoshiaki(1546年-1614年)最上義守的長子、母為小野少將.永浦尼(大崎氏說?)、正室為大崎義直之女.釋妙英、繼室為清水義氏之女、側室為天童賴貞之女;幼名白壽,通稱源五郎、二郎太郎,受足利義輝偏諱「義」字,名為義光,受領名出羽侍從,別名高榆小僧丸、出羽殿、虎將,戒名光禪寺殿玉山道白大居士。家督繼承之前 永祿三年(1560年),進行元服禮(一說為永祿元年(1558年)),並與父親義守一同上洛拜見室町幕府第十三代將軍.足利義輝,受義輝賜與偏諱「義」字,改名為源五郎義光。而義光的母親為祝福父子倆人上洛期間的一路平安與武運昌隆所做的繡有「文殊菩薩騎獅像」七個字的刺繡,也在近年間被發現。同時由於伊達氏已經漸漸從天文之亂的內耗中逐漸恢復實力,因此父親義守時代的最上家獨立到接下來持續的領國擴張也大約於同時受到頓挫。永祿七年(1564年),義光之妹義姬為最上與伊達兩家的友好而嫁給伊達家的家督伊達輝宗,並於永祿十年(1567年)生下長男梵天丸(伊達政宗)。這段婚姻也對於日後兩家之間的外交關係有者非常大的影響。天正最上之亂 元龜元年(1570年),最上氏內發生混亂,由於對於周遭國人眾與分家的態度和伊達輝宗間領土爭奪的小摩擦,父親義守便與義光產生對立。5月,經宿老氏家定直抱病向義守進諫,兩人換取短暫的和平;同年8月(另一說為翌年(1571年))義守隱居,義光正式成為最上氏家督,但到天正二年(1574年)1月,由於義守對於義光對國人眾所採取的強硬態度深感不安,因此隱居後的義守乃致書信給女婿伊達輝宗派出援軍協同出兵,義光與義守再度爆發對立並轉變成武裝衝突(天正最上之亂)。當時最上家臣與周邊國人眾大都支持義守。最上家與周邊國人眾大致上在當時可以分成兩個派系: 義光方:義光、楯岡光直、大崎義隆、寒河江堯元(寒河江城城主) 義守方:義守、伊達輝宗、大寶寺義氏、白鳥長久(谷地城城主)、上山滿兼(上山城城主)、細川直元(小國城城主)、最上八楯:天童賴貞(天童城城主)、延澤滿延(野邊澤城城主)、長靜守兼、六田氏最上郡地區領國化 在天正最上之亂的家族內亂之後,儘管義光取得最終勝利,但最上家之分家天童賴貞、東根賴景、上山滿兼等依舊對於義光感到不滿因而進行武力抗爭。谷地城主白鳥長久也於此時向日本京都地區的實力者織田信長派遣使者表示自己是出任羽州探題的最上家的正統繼承者。並獻上巨鷹、良馬給織田信長請求他給予自己出羽守一職。此時的義光面臨的是連最上郡一郡都沒有統一的情形。為此義光整頓家中的法度,之後更為恢復羽州探題最上氏的威信而不斷戰鬥。天正五年(1577年),義光與以天童氏為首的最上八楯進行短暫的和解,雙方進行停戰,義光也娶天童賴貞的女兒(天童御前)為側室。天正六年(1578年),上山城主上山滿兼在伊達輝宗的支援下,對最上氏的領地發動侵略作戰。後在義光的頑強抵抗下成功的將上山軍擊退。因為這原因義光便自得意滿起來,魯莽的向伊達輝宗發起攻擊,而察覺到兄長有難的義姬便在柏木山之役中趕到戰場,對義光與伊達輝宗兩人進行說服,成功的使得兩者進行停戰協議。天正八年(1580年),義光以給予其主家舊領的條件成功的誘使上山滿兼家臣里見義近、民部父子,誅殺同為滿兼家臣的里見民部之兄長里見內藏介,而義光趁此時機發兵上山城,在與里見父子的裡應外合下,誅殺城主上山滿兼,成功的奪取上山城。天正九年(1581年),義光對村山郡發動侵略作戰。首先在萬騎原之役將天童氏的姻親小國城主.細川直元擊破並佔領小國城。之後更是於夏天對小野寺重臣鮭延城主鮭延秀綱進行調略使其降伏最上氏。天正十年(1582年),天童御前與義光生下義光三子清水義親沒多久後隨即因產後身體失調死去,因此最上、天童兩家的關係也就再度惡化。天正十一年(1583年),尾浦城的大寶寺義氏向清水城攻擊,義光對清水城進行救援。翌年,義氏再次攻擊時,義光利用內應的前森藏人,當義氏進軍期間,前森的軍隊向大寶寺義氏突襲,義氏在混亂的期間自盡。天正十二年(1584年),義光利用嫡子最上義康與白鳥長久女兒的婚姻關係向白鳥長久進行懷柔,之後則是假稱自己病重不已希望長久能夠來到山形城已交代自己死後的後事,藉機暗殺谷地城主白鳥長久,形成山形城日後有名的血染之櫻花典故。(但此典故也有人懷疑乃小說家之創作)同年義光也攻擊寒河江氏與最上八楯盟主天童氏,可是遭到最上八楯之一的延澤滿延頑強抵抗,最上軍因而撤退,但儘管如此,義光仍讚嘆滿延之武勇並希望將其收為家臣,義光乃利用自己的女兒松尾姬與滿延的長子延澤光昌的婚姻,使滿延、光昌父子歸順義光,因此失去猛將的天童氏與寒河江氏乃被義光擊潰,寒河江家督寒河江堯元兵敗自殺。同時義光也對東根城主.東根賴景的家老里見源右衛門進行調略使其成為已方內應,完成東根城攻略。而剛接替死去的父親天童賴貞繼承天童氏家督之位的天童賴澄則是於同年天童城陷落後投奔伊達家。自此最上八楯宣告完全崩壞。義光也完成壓制最上郡地區全境與該地的領國化。天正十四年(1586年),小野寺義道侵入最上家領地,雙方於有屋隘口間爆發激戰。在前哨戰中,最上軍敗給小野寺軍,但在戰役的後半段,靠著義光嫡子.義康與家臣楯岡滿茂的奮戰成功的進行反擊並轉敗為勝。庄內進出與本庄繁長和伊達政宗間的鬥爭 天正十五年(1587年),大寶寺氏秘密與親族上杉家臣本庄繁長串通並試圖接近上杉景勝,但是此消息遭到義光察覺,趁其後援本庄繁長調往協助攻打叛出上杉家的新發田重家時,立即利用內應前森藏人等庄內地區國人眾的力量向大寶寺攻擊,最終大寶寺義興自盡,不過義興的養子大寶寺義勝成功的逃回親生父親本庄繁長領內。天正十六年(1588年)2月,伊達政宗率兵1萬向義光正室大崎御前的兄長大崎義隆發動進攻,義光率兵5千趕往支援大崎軍並打敗伊達軍(大崎合戰),並策反伊達家重臣鯰貝城主鯰貝宗信,後在義光妹妹義姬突然出現於戰場中懇求最上、伊達兩軍進行停戰後。最上軍與伊達軍便達成和睦,而義姬也因和睦中的條件以伊達家人質身分回到山形城。同時間,大寶寺義勝與其父親本庄繁長,趁者伊達政宗向大崎義隆發動侵攻期間,向庄內地區發起反攻,並於十五裡原之戰大破以庄內地區以國人眾為主的最上軍,奪回庄內的領地,也趁機向最上氏的領地發動侵略作戰,但隨即在東根城遭到最上軍的奇襲因而撤退。而日後在庄內裁判權的紛爭中,儘管義光請求之前便有交好的德川家康幫忙說情,但是本庄繁長與大寶寺義勝的外交手腕及上杉家重臣直江兼續與石田三成的關係,使得豐臣秀吉將庄內裁判權的歸屬交給大寶寺義勝,並承認大寶寺氏為上杉氏的與力大名。義光因此在庄內地區的爭奪戰中落敗。豐臣政權下的義光 在天正十八年(1590年)的小田原征伐中,由於準備父親義守葬禮的關係,義光甚至是比姪子伊達政宗還晚進行出兵,因而幾乎失去領地,幸好在事前拜託德川家康對秀吉的遊說,以及之後義光與其夫人大崎御前一同來到宇都宮城參見豐臣秀吉,因而確保自己24萬石的領地。同時也對於奧州置仕發布後的仙北一揆派兵進行鎮壓並趁機攻佔小野寺氏的部分領地。天正十九年(1591年),德川家康為討伐九戶政實而來到山形城時,義光便將次子家親送到家康身邊成為其侍童。也成為諸大名裡第一位將兒子送去德川家康身邊擔當貼身侍童的先驅。而同期間,豐臣秀次也為討伐九戶政實而來到山形城,並在此段滯留期間見到義光之女駒姬。秀次對於駒姬的美貌一見鍾情,便數度說服義光將駒姬嫁給自己成為自己的側室之一,起先義光並不同意這婚事,認為應該等到駒姬再年長點時在論及婚嫁。但由於秀次的關白地位,因此義光也沒有強烈拒絕,後來秀次終於說服義光讓駒姬出嫁。同時間,由於豐臣秀賴的出生,義光也派三子清水義親前往大阪擔當秀賴的侍童,希望以此確保最上家的安泰。天正二十年(1592年),由於豐臣秀吉下令出兵攻打朝鮮的關係,義光因而也率領500名士兵前往九州的前線名護屋城坐鎮,也於同一時間展開山形城的擴建工作。文祿三年(1594年),義光送一封假的書信給小野寺義道的忠臣八柏道為,成功的讓小野寺義道中義光的離間計誅殺八柏道為,之後小野寺氏在與最上氏的作戰中便經常戰敗,在關原之戰(慶長出羽合戰)時也因加入西軍,而在戰後遭到改易。文祿四年(1595年),駒姬從山形城出發並抵達大阪,但豐臣秀次卻因謀叛與眾多不良行為的嫌疑,因而遭到秀吉軟禁,駒姬也因而與秀次眾多妻室一同與秀次被軟禁。同年8月,秀次切腹謝罪後。駒姬與秀次妻室一共31人慘遭連坐,被下令押解到京都三條河畔下令處斬,當時駒姬只有15歲。一說駒姬當時也還未成為實質的秀次側室),義光想盡辦法挽救駒姬。但最終噩耗還是傳來。據傳義光夫婦聽聞噩耗時皆悲嘆不已,義光數日內食不下咽,而大崎御前則是在幾天之後便因不明原因隨者駒姬死去的消息傳來而跟著死去。義光也因此事件與伊達政宗一同受到牽連被下令進行自省。此段期間義光長子義康.次子家親也曾為父親義光的安危而進行祈福。駒姬事件發生後,義光便開始痛恨豐臣秀吉與豐臣家。因而外交態度上出現明顯的改變。一改以往對於豐臣氏進行接近的態度,而是一面倒向支持自己的好友德川家康。當慶長年間於京阪地區發生大地震時(慶長伏見地震),各個大名皆是火速趕往秀吉宅邸確認秀吉安危,但義光卻是第一時間趕往家康宅邸確認德川家康的安危,此外當秀吉邀請家康前去茶會的時候,也自願性的擔當家康的貼身護衛確保家康安危。慶長三年(1598年),在會津若松城城主蒲生秀行的家臣團之間爆發的鬥爭所引發蒲生家改易的蒲生騷動中,越後的上杉景勝為替豐臣家擔當監視奧羽諸大名的監視者與牽制關東德川家康行動因而入主會津。由於義光與上杉景勝長期在庄內地區的鬥爭與爭奪,加上景勝移封會津後依然握有佐渡島與庄內地區,因此兩者之間也因而產生嚴重矛盾,形成日後最上氏與上杉氏在慶長出羽合戰中激戰的遠因。在此期間,義光也娶清水城主清水義氏的女兒辰姬(清水御前)為繼室,年紀小義光可能約20至30歲左右的清水御前不但是名協助義光文學與內政的賢內助,據傳也是義光面臨妻女相繼死去與政治上失意的人生最低潮時,帶給他人生一道曙光的女子。慶長出羽合戰 在秀吉死後的慶長五年(1600年),由於上杉景勝回到領內進行道路整備、城池修築、收集兵器與招募浪人等備戰行動,因而引來周遭大名的舉發,後在上杉氏重臣直江兼續寫出直江狀給德川家康後,引發會津征伐。由於義光與上杉早在以前交惡,加上義光和家康之間的深厚交情,最上氏因而被委任為奧羽地區除伊達外的會津征伐軍總大將,義光命其嫡子義康為自己名代後便率領以6千5百名最上軍為主,共1萬1千名的會津征伐奧羽方面軍蓄勢待發。同年7月,石田三成於京阪地區起兵討伐德川家康,會津征伐軍主力於同月的小山評定後班師趕回西方與石田三成等西軍決戰。而義光底下的奧羽諸路軍在聽聞家康回師之後,也各自帶者自己軍隊撤回己領。9月1日由於義光支持家康的東軍,上杉氏便以直江兼續為總大將,分別從庄內地區、米澤地區率兵2萬5千向最上氏領地發動侵略作戰,義光自知不敵,因而下令大部分的城兵放棄支城,集中兵力固守堅城池長谷堂城、上山城和主城山形城。當中畑谷城守將江口光清無視於義光的撤退命令,率領300兵於畑谷城頑強抵抗。當時直江兼續也對於江口的器量感到佩服因而表示只要江口願意降伏的話,便會給與極優的待遇。但是光清無視於直江兼續的勸降,率領城兵頑強抵抗,最後與城兵一同和畑谷城玉石俱焚,而上杉軍也因此場攻城戰傷亡近1千人。畑谷城陷落後,上杉軍主力則繼續深入攻擊最上領,9月14日,上杉軍1萬7千名的主力包圍由守將志村光安與僅1千守軍的長谷堂城。而此期間志村光安與勇將鮭延秀綱奮戰以及城內守軍不斷對上杉軍進行鐵砲和弓箭的攻勢下,長谷堂守軍戰功彪炳,使得直江兼續為首的1萬7千名上杉主力軍久攻長谷堂城依舊無法攻下。此期間在最上家臣上山城城主里見民部、湯澤城城主楯岡滿茂的奮戰下也都順利擊退上杉家的側翼軍與仙北的小野寺軍。同時間義光也派遣長子義康前往伊達家向伊達政宗請求援軍支援,而此時伊達政宗正是聽聞南部利直打算派軍支援義光因而在南部領內煽動一揆已達到自己擴張領土的目的。政宗在聽聞義康前來求援,而自己留在山形城的母親義姬也寫信請求伊達家支援後,便率兵3千支援最上,但其到達最上領後並沒有直接參與戰鬥,一說即為政宗聽從片倉景綱的意見,打算等到長谷堂的最上、上杉兩軍兵疲馬乏時,再收漁翁之利。9月29日,當關原之戰的戰報傳給兩軍後,最上軍兵民聽到皆大為振奮,而上杉軍總大將直江兼續聽聞此消息後便解除對長谷堂城的包圍,並立即撤退,義光聯同伊達軍一起追擊上杉軍,但上杉軍卻在此場追擊戰中,在勇將前田利益與水原親憲所帶領的鐵砲隊率領下奮勇作戰,最上軍於此追擊戰中竟付出整場戰役中的最大傷亡,而義光本人也親率軍隊追擊,當時義光身邊的側近軍師堀(築紫)喜吽齋苦勸義光勿衝動出擊,但這時義光本隊卻遭到上杉軍的鐵砲隊火力攻擊,堀喜吽齋為保護義光而子彈從左肩貫穿到右胸當場斃命,而義光身旁的部隊長志村藤右衛門也為保護主公義光隨即成為義光的盾牌,為保護義光而戰死,這時候上杉家的鐵砲隊也成功的打中義光所戴的頭盔,而遠在戰場外的義光嫡長子義康見到父親有難,便率兵趕往父親身邊,成功保護義光。追擊戰最終上杉軍主力回到上杉領國內,而最上軍則是於戰後向上杉家的庄內地區發動侵略作戰,並成功迫使上杉家庄內最後一個據點酒田東禪寺城的守將降伏從城中撤出。在關原之戰後,最上氏被分配57萬石的領地,當中加封的部分包括上杉氏庄內地區、由利十二黨領地與一部份小野寺義道的領地。晚年 江戶幕府成立以後,義光為恢復領內的繁榮,因此對於自己的百姓所採取的政策是相當的寬容,也因此相傳在義光時代最上氏的領地都沒有發生過一揆的事蹟。因此義光治下的百姓也常常歌頌到「最上源五郎可是無視稅役的」(最上源五郎は役をばかけぬ)。之後義光也繼續擴建山形城的規模,不但使山形城成為日本國內數一數二的平城,同時也進行城下町整備,同時也為活絡商人町的發展也對於城下的地子錢與年貢進行免除。並發送土地與整備羽州街道和設立定期市集,同時點對從上杉氏奪來的日本海貿易商港酒田港做非常大的建設與投資。也對於庄內地區到山形城的沿路街道進行改修、擴建。同時義光也對於最上川的水運開鑿下很大的功夫。使其水運量大增並因此改善山形藩的財政,同時也對於工匠為主的職人町設為「御免町」免除各項的勞役,也有部分的工匠受到家臣般的規格待遇。而當時山形城下町數共約31個左右,人口約19,796人,加上最上家臣團,估計當時山形城的人口約到達3萬人左右。在農政面方面,義光也命家臣北楯利長、新關久正等修建北楯大堰與因幡堰等水利設施使得領內的農業用水獲得解決,庄內平原地區的開發也因而大為發展,即使到今日,日本的庄內地區的農業仍然受到這些水利設施非常大的幫助。而義光也將庄內地區的大寶寺城進行改築,並更名為鶴岡城,並有意晚年在此鶴岡城進行隱居。但原本義光與嫡子義康良好的關係,卻在短短幾年之內因不明原因而生變,這時候最上家中也有些人有將與幕府親近的次子家親設為繼承人的想法。慶長八年(1603年,一說為1611年),義光暗殺長男義康,原因不明,這卻是導致最上氏在義光死後家中混亂最後被幕府改易的遠因。(但這件事情近年來也興起一些新的說法,也就是義康暗殺之事也有可能非義光指使,而是由家臣戶井半左衛門自己獨斷暗殺義康。原因在於當義康遭到暗殺之後,義光聽聞消息據傳悲痛不已,甚至痛哭失聲,而義光為準備義康的後事跟早年死去的愛女駒姬的後事也都耗盡心力。)而義光在『分限帳』提到家臣戶井半左衛門時也有提到「成敗」(處罰)二字。因此義康暗殺是否為義光指使,至今仍舊是個無法確定的定案。慶長十六年(1611年)3月。義光就任從四位下左近衛少將與出羽守的官職。慶長十八年(1613年),義光來到駿河城慶祝駿河城擴建完成時開始病發。慶長十九年(1614年),當義光由駿河城回山形城後,於山形城病死,年六十九歲。出處https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E4%B9%89%E5%85%89
本庄充長 Honjo Mitsunaga(1573年-1623年)本庄繁長的次子、養父大寶寺義興、妻為島津利忠之女;別名本庄義勝、大寶寺義勝(武藤義勝)。父親繁長為上杉氏重臣,當主上杉景勝想獲得庄內平野這塊肥沃之地的統治權,因此與大寶寺義氏聯手,敵對最上義光。天正十一年(1583年),大寶寺義氏遭到內通最上氏的家臣前森蔵人(東禪寺義長)殺害,後來繼承家督的大寶寺義興為強化與上杉家之間的關係,便收充長作為養子,充長改名為大寶寺義勝。此項舉動惹怒親最上反上杉派的國人眾,開始攻擊大寶寺義興,最後義興居城陷落自殺,充長亦逃回實父繁長的身邊。天正十六年(1588年),與父親繁長共同攻擊最上義光,發動十五里原之戰,成功取回庄內地方的統治權。之後充長與上杉景勝一同臣從於豐臣秀吉。天正十九年(1591年),和父親繁長有煽動藤島一揆的嫌疑,被流放至大和國。後參加文祿之役才獲得赦免,重回上杉氏陣營。慶長十九年(1614年),父親繁長去世後,改回本姓本庄,繼承本庄氏家督,死後由末弟本庄重長繼承家督。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E5%85%85%E9%95%B7
本庄繁長 Honjo Shigenaga(1540年-1614年)本庄房長之子、母不明、正室為上杉景信之女、繼室為須田滿親之女、側室為大川忠秀之女;幼名千代豬丸、通稱彌次郎、法號雨順齋全長。天文十一年(1542年),越後守護上杉定實欲收伊達晴宗之子伊達實元作為養子,父親房長與同族的色部氏極力反對,因此與支持派的中條藤資對立。受到伊達家支援的中條藤資便對房長進行攻擊,房長聽從弟弟小川長資與同族的鯰川清長之建議逃往出羽國庄內地方的盟友大寶寺氏(武藤氏)處。但這卻是小川長資的陷阱,他趁機奪走了房長的居城,房長聽到此消息後悲憤交加,不久病死。之後本庄氏的家臣團就推擁尚年幼的繁長繼承家督,但此時實權卻落入小川長資手中。年紀還不大的繁長被周遭的人譽為「幼少時期個性就剛強勇猛」。天文二十年(1551年),在房長的第13回忌時繁長強迫小川長資切腹,重新奪回本庄家的實權。一時獨立繁長後來跟隨上杉謙信參加川中島之戰、關東出兵等等戰役。但本庄氏自立性比較強,因此於永祿十一年(1568年)受到武田信玄的挑撥從上杉家中與大寶寺氏聯合對抗上杉謙信,並與武田信玄、越中一向宗聯手,趁著上杉謙信攻入越中時叛變。繁長叛變之初,曾試圖聯合鯰川盛長、色部勝長、中條景資等人一同反抗上杉謙信,但遭到他們的拒絕,其中中條景資還將信件送去給上杉謙信,讓上杉謙信適時從越中回軍越後。而武田信玄也在七月時親自發兵進攻北信濃的飯山城,請來蘆名盛氏出兵北越後。但是蘆名盛氏作戰失利,而武田信玄在包圍飯山城一個多月不果後,也撤兵回甲斐。因此上杉謙信在當年十月先進攻大寶寺義增使其降伏,繁長因此被孤立,在十一月時正式包圍繁長的本庄城,但長期籠城作戰中,繁長讓上杉軍受到不小的打擊。但是在孤立無援下,繁長還是接受蘆名盛氏的仲介,重新歸降謙信,在二月時送出長子本庄顯長作為人質。繁長此時在上杉家中的地位一落千丈,直到謙信死去。御館之亂天正六年(1578年),上杉謙信死後發生御館之亂,繁長本人加入上杉景勝方與上杉景虎方的鯰川氏交戰,另一方面繁長的長子顯長與大寶寺義氏加入景虎方,御館之亂景勝勝利後便廢除顯長的家督繼承權。後來討伐新發田重家也立下許多功勞。庄內攻防天正十一年(1583年),最上義光欲進攻庄內地方因此想謀殺大寶寺義氏,繁長為了阻止義光便去支援大寶寺氏,大寶寺義氏為了強化本庄氏與大寶寺氏之間的關係便令其弟大寶寺義興收繁長的次子本庄充長作為養子,並改名為大寶寺義勝。此項舉動激怒了反大寶寺親最上派的國人們,這時的繁長還在對付新發田重家,最上義光趁隙進攻。天正十五年(1587年),大寶寺義興的居城陷落並自殺,義勝則是逃回實父繁長的身邊。天正十六年(1588年),這次換繁長趁義光在對付伊達政宗的時候進攻庄內,發動十五裡原之戰大破最上軍,後追擊最上軍遭到奇襲才撤退。但已經成功幫義勝奪回庄內地方,並於天正十七年(1589年)參見豐臣秀吉,秀吉則承認大寶寺氏正式成為上杉景勝的與力大名。短期流放天正十八年(1590年),豐臣秀吉命上杉景勝進行檢地工作,繁長與同僚色部長真起爭執,之後奧羽地區發生反豐臣一揆。一揆平定後,由於繁長、義勝父子有煽動藤島一揆的嫌疑被流放到大和國,之後參加文祿之役才獲得赦免,並領1萬石高回歸上杉家。慶長三年(1598年),景勝轉封到東北的會津,繁長則擔任田村郡的守山城主。松川之戰慶長五年(1600年)爆發關原之戰,上杉景勝命繁長改任信夫郡的福島城主,並與梁川城主須田長義一同防範伊達家的侵攻。關原之戰東軍勝利,此時在攻擊最上義光的直江兼續不得不撤退(長谷堂城之戰)。10月6日,伊達家的片倉景綱、茂庭綱元、屋代景賴等人便開始攻擊福島城,義勝出城迎擊但遭伊達軍擊退。後來進行守城戰,成功擊殺了片倉景綱的數名家臣,伊達政宗停止攻擊並退往國見山的陣地,這時須田長義部將車斯忠則從信夫山的後方出陣,橫渡大隅川攻擊伊達軍後方的運輸隊,繁長也趁機進攻伊達軍,成功擊敗伊達,此乃松川之戰。但關於這場戰役有許多說法,此乃其中一種,但繁長成功守住福島城並使伊達軍撤退是千真萬確的。戰後外交戰後上杉家為了對付德川家康,家中分為抗戰派與講和派,直江兼續堅持抗戰到底,繁長則是支持講和,最後上杉景勝同意講和,繁長與千坂景親為了上杉家的存續到處奔波,景勝與兼續也上京向家康請罪,才從原本可能領地全部沒收的情況轉成會津120萬石減封為米澤30萬石。由於上杉家不因此事裁員,為了支付全員的薪資,多數家臣全部減薪,繁長也僅剩3300石與上杉家共渡難關。也因此事繁長繼續擔任福島城主,日後本庄氏在米澤藩也一直是家中的首席重臣。慶長十九年(1614年)辭世,年七十三歲,法名「憲德院殿傑伝長勝大居士」。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E7%B9%81%E9%95%B7