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三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、木下秀吉、斎藤道三、松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田晴信、飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、長尾景虎、長尾顕景、樋口兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、毛利元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友義鎮、龍造寺胤信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義秋、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、戸次鑑連、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、久慈為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、後藤基次、山中幸盛、陶隆房、吉弘統虎、吉弘鎮種、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、石川信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、木下秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、武田盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、三木自綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、細野光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新斎、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠隣、城井正房、大熊朝秀、氏家行広、池田知正、土井利勝、徳山則秀、平田範重、穴山信君、一条兼定、堀秀政、百々安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、佐竹義広、三善一守、板部岡江雪斎、岡本顕逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、浅野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重経、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、三木嗣頼、和田惟政、新発田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大内定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長増、安東実季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間頼照、酒井家次、宇都宮朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪頼忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色満信、真壁氏幹、本庄実乃、大田原晴清、中村春続、朝比奈信置、安藤守就、山名豊国、鵜殿長持
三百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名盛氏、佐竹義重、山内上杉憲政、結城晴朝、里見義尭、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角義賢、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆
土岐頼武 Toki Yoritake(1498年?-1547年?) 土岐政房の嫡男で弟に頼芸、治頼、揖斐光親らがいる。別名の諱として政頼(まさより、「政」は父の偏諱であろう)、盛頼(もりより)が伝わる。次郎と称す。官位は修理大夫。妻は朝倉貞景の3女。子に頼純。 土岐政房は家督を次男である頼芸に継がせようと考え、小守護代長井長弘が頼芸側に加わった。一方、守護代である斎藤利良は頼武を推したため、美濃国内は頼武派と頼芸派に分かれ、永正14年(1517年)12月27日、遂に両派の合戦となった。この合戦は頼武派が勝利したが、頼芸派は尾張に亡命していた前守護代斎藤彦四郎と連絡を取り、逆襲の機会を狙った。 永正15年(1518年)8月10日、再び両派の間で合戦が起こり、頼芸派が勝利、頼武は利良と共に利良の伯母の嫁ぎ先である越前朝倉氏のもとへ亡命した。この越前亡命中に朝倉貞景の娘と結婚したとされる。頼芸派は室町幕府に要請し、頼武の上洛を促す御内書を出してもらうことに成功したが、朝倉孝景(宗淳)はこれを無視した。 頼武の越前在国中も美濃は内乱状態にあり、永正16年(1519年)3月には垂井辺りで激戦が展開されている。同年6月16日に土岐政房が没すると、孝景は弟の景高に美濃出陣を命じる。7月、景高に率いられた3000の朝倉勢に護られて頼武は美濃に入国、9月14日の正木合戦、10月10日の池戸合戦に連戦連勝して、遂に美濃守護になることに成功した。長井長弘は没落、彦四郎は失脚した(戦死とも)。 その後、頼武政権は一応の安定を見ていたが、大永5年(1525年)6月に至り、頼芸を奉じた長井長弘が再挙兵する。6月23日、岐阜茜部で合戦があり、守護代斎藤利茂ほか頼武政権の主だった人々は守護所福光館を脱出、館は長井勢に占領された。更に8月2日、長井氏支援のため、近江から浅井亮政の軍勢が美濃に侵攻、関ヶ原今須付近で土岐軍と合戦となった。頼武は武芸谷の汾陽寺にあって、救援を朝倉氏に求めた。朝倉氏はこれに応じ、朝倉宗滴が小谷城に出張り六角氏とも協力して浅井勢を牽制、更に朝倉景職の率いる軍勢が10月14日に稲葉山まで出兵した。内乱は大永7年(1527年)末には一段落するが、その後も政情不安は続き、享禄3年(1530年)、頼武は再び越前に逃れ、頼芸は翌年「濃州太守」と呼ばれるまでになる(実際にはまだ守護に就いていない)。 朝倉軍の援助で美濃入国を果たすと、頼武は山県郡大桑城に本拠を置き再び頼芸と対決する。天文4年(1535年)、頼武は出家、恵胤と号した。6月、頼芸が父政房の17回忌を行って自らの正当性を主張したため、両者の対立は深まった。8月、修理大夫に任官、更に権威付けのため奈良正倉院秘蔵の蘭奢待の切り取りを朝廷に申請、許可されている。8月17日、朝倉氏や六角氏の援兵とともに頼武軍は攻勢を開始、11月までの間、多芸郡・池田郡から岐阜・関に及ぶ広範囲で合戦が繰り広げられ、多くの神社仏閣が焼亡した。 天文5年(1536年)6月20日、頼武(恵胤)は朝廷に対し蘭奢待切り取りの答礼をしている。しかし、これを最後に史料から姿を消している。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E6%AD%A6
堀江景忠 Horie Kagetada(生年不詳-1576年) 家伝によると、堀江氏(堀江氏)は利仁流河合斎藤氏の系統であり、鎌倉時代から越前国坂井郡河口荘堀江郷(現在のあわら市周辺)に有力国人として、土着拠点したとされる。また堀江氏の家伝として、確実な史料からは応永3年(1398年)に興福寺の配下として活動した人物として、「堀江賢光」の名前が見える。 その後、堀江氏は興福寺から離反し、守護である斯波氏の配下として三国湊の代官などを務めるなど大きな勢力を誇るが、本家筋は長禄年間の斯波氏と守護代の甲斐氏の争いの中で没落した可能性が高い。一方で、傍流がその後越前に勃興した朝倉氏に仕えることとなったと考えられている。朝倉氏のもとで堀江氏は有力な国衆の一人として一乗谷内にも屋敷を持ち(『一乗谷古絵図』)、坂井郡三国湊の舟奉行を勤めるなど重用されている。 景忠の生年は明らかではないが、弘治元年(1555年)の朝倉宗滴を総大将とする加賀一向一揆攻めに従軍、戦功をあげたことが見える。 永禄7年(1564年)に朝倉軍は加賀へ再度侵攻し、翌年、翌々年も一向一揆勢との合戦が続いたが、この最中、景忠は子の利茂と共に一向一揆に通じ、朝倉義景に対し謀叛を企てた。永禄10年(1567年)3月、堀江氏謀叛が噂にのぼると、3月12日、一向一揆勢が加賀から越前へ来襲し朝倉軍と激戦を繰り広げた。一方、堀江氏の館(あわら市下番)には3月18日に魚住景固・山崎吉家が大将として出陣、激しく攻め立てたが、容易に勝敗がつかず、結局、堀江父子を能登に亡命させることで事件の決着を見た。なお、朝倉景鏡の讒言により景忠父子が失脚させられたという説は、事前に一向一揆の攻撃が始まっていること、亡命後の景忠に対し顕如から感状が出されていることから疑わしいと言わざるを得ない。 その後、景忠は「幸岩斎藤秀」と改名し、朝倉氏滅亡後、一向一揆が支配するところとなった越前に舞い戻り、杉津砦の守将をまかされるが、織田勢に寝返り、一揆勢を壊滅させた。 織田信長は藤秀の戦功を賞して、息子の利茂に加賀大聖寺の所領を与えた。しかし、藤秀は恩賞に不満をもっていたらしく、それが信長の耳に入り天正4年(1576年)4月に誅殺されたという(異説あり)。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%B1%9F%E6%99%AF%E5%BF%A0
朝倉孝景 Asakura Takakage(1493年-1548年) 曽祖父(7代)孝景にあやかって、自身も「孝景」と名乗った。今日においては区別するため便宜上、法名から「宗淳孝景」(大岫孝景)と呼んで区別する。 朝倉氏10代目当主。朝倉貞景の子。朝倉義景の父。母親は美濃守護代格斎藤利国の娘。妹は美濃守護土岐頼武に嫁ぎ、嫡男・土岐頼純を産む。 一門の朝倉宗滴の補佐を受けて、当時混乱の多かった周辺国の加賀・美濃・近江・若狭らにしばしば出兵・侵攻し、各国の守護家や諸勢力に軍事的優位性、政治的影響力を見せ付け、代々対立してきた加賀一向一揆との和睦をも成立させたと言われている。絶え間なく中央(京都)および周辺諸国情勢に煩わされたが、結果的に朝倉氏の勢力をさらに拡大するとともに、朝廷や幕府との繋がりをも深め、越前に更なる繁栄をもたらし、本拠・一乗谷城に京風の文化を華開かせた。 軍事面においては、当主自らではなく一族の主なものを名代として派遣する例が多い。この制度が次代の義景の統治にも影響を及ぼすこととなる。 統治面においては、守護斯波氏の下では同格であった国人衆などと呼ばれる諸勢力を完全に臣従下させるには至っていない。また、弟である朝倉景高と対立するという内紛もあった。 経済面においては、周辺諸国への大軍派遣、朝廷や幕府に対する多額の献金等からの一乗谷の繁栄が見られた。また、豪商らが名物茶器を所持していたり、家臣らが京に書物を求めるなどの面も見られた。 天文17年(1548年)3月22日に死去。波着寺への参詣の帰りに急死したという。享年56。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%AD%9D%E6%99%AF_(10%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB)
朝倉宗滴 Asakura Soteki(1477年-1555年) 朝倉敏景的八子、母為溫科氏之女・桂室永昌大姉、正室為朝倉景冬之女;幼名小太郎、別名太郎左衛門尉、實名朝倉教景、號宗滴,以「朝倉宗滴」之名為人所知。 應仁之亂期間,父親敏景身為越前國人乘時而起,在東西兩軍在京畿爭持激烈之際,率兵驅逐越前守護斯波氏和守護代甲斐氏,佔據越前一國;此後,朝倉氏被任命為越前守護,正式轉型為戰國大名,完成其下剋上的道路。朝倉敏景生前著有「朝倉孝景十七條」,制定朝倉家以能力為標準的人才登用制度,和家臣集居於一乘谷等等的家法,為朝倉家奠下繁榮之道。 文龜三年(1503年),朝倉敏景妾生之子・朝倉景總聯合敦賀郡司朝倉景豐,對朝倉家第九代當主朝倉貞景舉起反旗,叛亂的主謀者是景總,時年二十六歲的宗滴也加入叛亂。宗滴參與的理由是因為他娶景豐的妹妹,也有一說是他對自己的待遇不滿而加入叛亂。然而,就在舉兵的當夜,宗滴突然把謀反的全部計劃向朝倉貞景告密,隨後宗滴與貞景一同領兵進攻敦賀,景豐被逼自殺。被放逐到加賀國的朝倉景總在次年率軍反攻,但被宗滴擊退。宗滴因此戰功被任命為金崎城敦賀郡司,並擔任朝倉家的軍奉行,活躍在各地的戰場上。 朝倉家的領地越前國及北陸地方的一向宗勢力非常強大,特別是鄰國加賀國,更是有「百姓把持之國」之稱,不斷對朝倉家領地構成威脅。永正三年(1506年),受到加賀國一向一揆的支持,越前國一向一揆爆發。宗滴以其非凡的能力,瞬間完成越前國領內暴動的鎮壓。同年,宗滴在九頭龍川河畔迎擊侵攻越前的加賀、能登一揆大軍三十萬,並成功的將擁有壓倒性優勢兵力的敵軍擊退。 永正十四年(1517年),宗滴出陣丹後國,支援若狹守護武田氏攻打丹後守護代延永氏的唐橋城。 大永五年(1525年),宗滴應淺井亮政之請出陣近江國小谷城,調停淺井家與六角家的戰爭,並與亮政締結同盟協定。 大永七年(1527年),宗滴應流亡於近江國的將軍足利義晴和幕府管領細川高國之請,率軍上洛,與細川晴元、三好元長軍交戰,並討取對方的侍大將。 享祿四年(1531年),宗滴將敦賀郡司之職讓給養子朝倉景紀後出家,號「照葉宗滴」,但仍擔任朝倉家軍奉行的職務。天文十二年(1544年),宗滴應織田信秀的邀請出陣,在稻葉山城下擊破齋藤道三軍。 弘治元年(1555年),宗滴為掃除朝倉家的後患,決定討伐加賀一向一揆,但遭到朝倉家當主朝倉義景的反對。然而宗滴不顧反對之聲和年事已高,決定親任總大將,呼應能登國的田山氏出陣加賀。 宗滴率軍依次攻打一揆方據點大聖寺、南鄉、津葉、千足諸城,殲滅一揆軍數千人,但宗滴年老的身體受到病魔的侵蝕,在陣中發病,回國後於同年9月23日在一乘谷城病死,年七十九歲,法名月光院殿照葉宗滴大居士。 出處 http://baike.baidu.com/view/723048.htm?fromtitle=%E6%9C%9D%E4%BB%93%E6%95%99%E6%99%AF
朝倉景紀 Asakura Kagenori(1505年-1572年) 越前國大名朝倉貞景之子,朝倉孝景(10代,宗淳孝景)之弟,朝倉宗滴養子。 其人長與武勇,不遜於其養父,在大永七年(1527年)的京都出陣,享祿四年(1531年)的加賀出陣中皆有從軍,表現活躍。享祿四年(1531年)就任敦賀郡司一職。郡司職在永祿元年(1558年)被讓給嫡子景垙,在此之後景紀也代表敦賀郡司家執行軍事行動,永祿四年(1561年)5月,受若狹武田氏要請作為朝倉軍總大將出兵鎮壓逸見氏的叛亂。在永祿六年(1563年)到永祿十一年(1568年)期間進攻若狹三方郡的粟屋勝久,多次進行盜割稻穀等破壞工作。 然而,永祿七年(1564年)9月2日,出兵加賀國之時,其子景垙與朝倉景鏡爭奪總大將之位,未果自殺於陣中(當時朝倉義景匆忙作為總大將出陣以防止事態惡化),景紀一氣之下將景垙之子帶回自領隱居。以後,兩者激烈對立,足利義昭進入一乘谷時,兩人圍繞座次問題大起爭執,最後發展到一方服侍在義昭身旁另一方則乾脆不出席的地步。 在此之後,織田信長進攻金崎城攻略時其子景恆(注一)沒落,敦賀郡司職也被廢止。元龜三年(1572年)在失意之中死去。 另:其人常參加各類連歌會,被認為和養父朝倉宗滴一樣是長於和歌精通文武兩道的人物。 注一:朝倉景恆:景紀之子,其兄景垙死後接任敦賀郡司。永祿十一年(1568年)參與進攻若狹國,將守護武田元明綁縛越前。元龜元年(1570年)織田信長入侵越前時駐守金崎城,由於兵力差過大開城投降,事後遭受朝倉家各方的責難,同年鬱鬱而終。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=10#postid-261 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%99%AF%E7%B4%80
朝倉景隆 Asakura Kagetaka(1508年?-1570年?) 越前朝倉氏家臣朝倉景職(朝倉家第七代英林孝景,即朝倉敏景之孫)之子。母為朝倉貞景(朝倉家第十代宗淳孝景之父)長女北殿。和朝倉義景是從兄弟,在一族內享有高位。 天文二十四年(1555年)9月進攻加賀一向一揆攻之際,總大將朝倉宗滴病死,被委以朝倉軍的軍權,戰鬥持續到第二年四月。當時,與山崎吉家合力統領全軍,奈何兩人並沒有宗滴那般的水平,從9月到10月嘗試進攻粟津、安宅(現石川縣小松市)等地失敗。反過來在第二年3月遭到了加賀方的反攻,一揆方侵入越前四處放火,最終在4月21日由室町幕府從中調停講和,朝倉軍收兵返回一乘谷。 永祿七年(1564年)9月1日與朝倉景鏡共同作為總大將出兵加賀,人稱其頗有武力。 元龜元年(1570年),景隆嫡子與弟弟計三人在一年內接連死去,景隆此後不久也作古。僅留一末子朝倉景健。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=10#postid-261 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%99%AF%E9%9A%86
朝倉義景 Asakura Yoshikage(1533年-1573年) 朝倉孝景的長子、母為高德院(廣德院)、正室為細川晴元之女、繼室為近衛前久之妹;幼名長夜叉,通稱孫次郎,初名延景,受足利義輝偏諱「義」字,名為義景,戒名松雲院殿太球宗光大居士。 天文十七年(1548年)父親死後,義景身為孝景唯一的兒子繼承家督,該年與細川晴元之女進行婚姻。天文二十一年(1552年)6月16日,獲幕府將軍足利義輝授予義字下,改名為義景。由於年輕的關係,在弘治元年(1555年)前,政務及軍事由朝倉宗滴負責,宗滴死後,義景親自掌管政務。永祿二年(1559年)11月9日,就任從四位下。 永祿八年(1565年)足利義輝被松永久秀等人指使暗殺,義輝之弟足利義秋(足利義昭)前往越前一乘谷尋求保護,但是義景對於上京表現反應冷淡。義昭離開朝倉前往美濃尋找織田信長。 永祿十年(1567年)堀江景忠藉助一向一揆背叛義景。朝倉軍在加賀與一揆勢力交戰。義景命令魚住景固及山崎吉家攻擊堀江家,最後雙方和解,景忠逃往能登國。 永祿十一年(1568年)介入若狹國武田的內亂,以保護武田元明為名保護將元明軟禁在一乘谷中。其中義景將政務交由朝倉景鏡、朝倉景健等人負責。同年,織田信長將足利義昭帶返京都,信長以將軍名為兩度要求義景上京,但義景拒絕,於是與信長對立。 永祿十三年(1570年)織田信長和德川家康的聯合軍攻過來,攻陷支城天筒山城及金崎城,一乘谷陷入危機。在此時,淺井氏背叛織田信長,結果信長逃離京都(金崎之戰)。同年6月,雙方在姊川交戰(姊川之戰)朝倉軍的總大將是景健,朝倉部隊與德川軍的榊原康政交戰大敗。 9月,當織田信長出兵攝津攻打三好三人眾及石山本願寺時(野田.福島之戰)義景親自出陣進攻近江阪本城。信長的弟弟織田信治及森可成戰死。不久信長返回近江,在比叡山與織田軍對峙。12月與信長議和。元龜二年(1571年)6月,義景與本願寺顯如達成友好關係,與顯如長子.本願寺教如進成婚姻。8月與義景與淺井長政攻擊橫山城,被織田信長部下木下秀吉(豐臣秀吉)擊退。 元龜三年(1572年)7月,織田信長包圍小谷城,義景前來支援。信長知道義景派遣援軍後,並無攻擊小谷城的行動,兩軍開始進行對峙。織田信長則在御前山八相山、宮部等地準備牽制朝倉軍,經謀略後,朝倉軍的前波吉繼、富田長繁加入織田信長。 在10月,甲斐國武田信玄向織田和德川領地進攻。織田信長仍然繼續對義景對峙。直到10月信長撒退到歧阜為止,此時與淺井進行反擊,擊退虎御前山的織田軍。12月以部下疲勞加上積雪返回越前。天正元年(1573年)4月,朝倉家同盟武田信玄病逝,武田軍返回甲斐。 天正元年(1573年)8月8日,織田信長率領號稱3萬大軍攻擊近江。義景命令所有家臣出征,但因為之前失態使家臣對主君失去信心,當中重臣朝倉景鏡及魚住景固等人拒絕參戰。義景只好召集山崎吉家、河井宗清等為數2萬人出戰。 8月12日,織田信長藉助暴風雨峙堉親自出兵向朝倉方大嶽砦進攻。信長的突擊使朝倉軍大敗,朝倉軍撤離大嶽砦。8月13日攻下丁野山砦後,無法再與長政合作。義景只好撤退到越前。信長對朝倉軍進行追擊,在田部山之戰被信長擊敗,逃離到柳瀨。 信長繼續對朝倉軍進行追擊,在刀根阪再次與織田軍交戰,義景逃往疋壇城。此戰中,齋藤龍興、山崎吉家、山崎吉延等武將戰死。義景從疋壇城返回一乘谷城。期間將兵相繼逃亡,僅得鳥居景近、高橋景業十多人跟隨。8月15日義景返回一乘谷城。留守的將兵得知朝倉軍大敗後,多數逃走。義景之後命令各將出陣,但除朝倉景鏡外就沒有其他將領來到。 8月16日,聽從朝倉景鏡放棄一乘谷城,逃離東雲寺。8月17日義景向東雲寺提出增援,這時候織田信長要求平泉寺停止增援。8月19日,逃離到賢松寺。另一方面,織田軍先鋒柴田勝家攻擊一乘谷城,對一乘谷放火。這場火燒了三天三夜。 逃到賢松寺的義景在8月20日的早上,朝倉景鏡與織田信長內通,背叛義景,向賢松寺發兵攻擊。義景在鳥居景近介錯下自盡而亡。年四十一歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E7%BE%A9%E6%99%AF
柴田勝家 Shibata Katsuie(1522年?-1583年) 柴田勝義之子?、正室為織田信長之妹.阿市;通稱權六郎、權六,號淨勝,渾名鬼柴田、かかれ柴田、瓶割り柴田。 早年是織田信秀的家臣,在織田家中與佐久間信盛並稱『衝鋒柴田』、『撤退佐久間』,信秀死後成為織田信勝(織田信行)的家老。天文二十一年(1552年)織田信長與清洲城城主織田信友交戰時勝家擔任大將,先是斬殺敵方家老阪井甚介,後又立下了討取三十騎的戰功。弘治二年(1556年)8月與林秀貞策劃叛變計劃,試圖推翻織田信長。兩軍最終在稻生原交戰,過程中勝家殺死敵方勇將佐佐孫介(佐佐成政次兄),最終信行方戰敗,勝家被捕後,由於信長母親土分御前的求情,及被織田信長賞識勇武而受用,之後勝家為表示忠誠而剃髮。弘治三年(1557年)信行再次謀反,不過計劃被勝家發現,向信長揭發事件,因而使信行遭信長派遣的河尻秀隆暗殺,之後信長命令柴田勝家將信行的兒子津田信澄撫養至成人。 織田信行死後勝家獲得織田信長的重用,身為先鋒戰場突進力極為優秀,在軍事與政務上皆有貢獻。他參加尾張統一戰、桶狹間之戰及對齋藤氏的戰爭,齋藤氏勢力瓦解後,協助信長進行上洛的戰爭,率領織田軍內四先鋒一路攻下城池,替信長開了一條上洛的康庄大道。永祿十二年(1569年)1月、為鎮壓三好三人眾的本國寺之變,與信長再度上京、4月上旬之前,在京都與畿內擔任行政事務5人組,有著不錯的評價。同年8月、支配南伊勢5郡,參與討伐北町氏的戰爭。永祿十三年(1570年)足利義昭向織田信長宣戰,信長包圍網時期不斷跟隨信長作戰,擔任先鋒大將立下了眾多戰功。5月六角氏響應包圍網再次攻擊琵琶湖,柴田勝家被大量的敵人重重包圍,水源又遭壟斷,勝家將水缸打破,讓敵人以為織田軍水源充足,當晚勝家待在部隊最前線衝鋒殺入敵陣,與佐久間信盛、森可成及中川重政奮戰,最後完全殲滅敵軍,獲得了過人的戰果。 元龜二年(1571年)5月參與攻擊長島一向一揆,地形狹窄樹林茂密對織田軍不利,多數織田戰將死於此役,織田軍撤退之時由勝家擔任墊軍,奮戰之下勝家自身也受到重傷,之後墊軍部隊交由氏家直元指揮,後直元也在此役中陣亡。元龜四年(1573年)2月勝家參與對足利義昭攻擊,勝家率領軍隊攻略義昭數城池使其投降,但是被松永久秀從中議和妨礙而失敗。4月跟隨織田信長攻打足利義昭居城,信長指示勝家放火燒城,義昭逃離京都被逼到槙島城。義昭的側近三淵藤英據有二條城,也在勝家的調略下開城投降。7月,勝家擔任攻打槙島城的總大將,七萬人向勝家投降,此後義昭已無任何權勢,逃到毛利氏的勢力範圍,室町幕府實質滅亡。8月份擔任攻打朝倉氏的先鋒,突破朝倉軍陣後以火攻燒毀朝倉大本營一乘谷城,朝倉義景的勢力從此被趕出越前。 天正二年(1574年)第三次攻擊長島一向宗,與佐久間信盛共同指揮,今次終於攻陷。天正三年(1575年)參與長篠之戰,戰鬥途中擋下了攻入防馬欄的真田信綱與真田昌輝兩兄弟的突擊,使真田信綱死於火槍的攻擊,真田昌輝則負傷撤退。天正4年(1576)年,當織田信長攻下了越前之後,勝家獲封北陸方面軍總大將,下轄越前五人眾:前田利家、原長賴、不破光治、金森長近、佐佐成政,受封為北陸越前國國主,領有越前國八郡49萬石和北之庄城,並在越前當地實施日本歷史上首次的刀狩令。天正五年(1577年),越後國大名上杉謙信出兵攻打加賀,柴田勝家作出迎擊,雙方在手取川交戰,柴田勝家和羽柴秀吉發生了戰術上的衝突,之後秀吉自行率兵撤退。勝家因無法單獨對抗上杉謙信而收兵撤退。消息快速的傳入上杉謙信的耳裡,謙信在夜中追擊被手取川河水暴漲所擾的柴田軍,勝家在當下做出了正確的判斷,命令全軍撤退並親自殿軍,所幸如此織田軍沒有失去任何重要將領,而勝家本人也相安無事回歸。 手取川之戰後,上杉謙信急病逝去,而上杉家繼承人出現了內亂。天正八年(1580年)勝家完全平定作亂90多年的加賀一向一揆,這是朝倉氏歷代與朝倉宗滴不曾做到的壯舉。天正九年(1581年)以越前眾的身份參與京都舉行的馬揃活動,同年為防範上杉軍透過伊達家臣遠藤基信與伊達氏外交並聯手。 天正十年(1582年)3月攻擊上杉氏的魚津城及松倉城,6月3日攻克魚津城後,包圍松倉城時,得知織田信長在本能寺身亡的消息,勝家嘗試前往京都了解情況,但軍隊受到上杉軍的攻擊,未能前往京都。於6日當晚撤兵返回北之庄城。。 本能寺之變後,柴田勝家與羽柴秀吉的分歧變大,在清州會議決定織田家繼承人問題之爭,清州會議後勝家雖然增加了北近江3郡及長濱城共6萬石的領地,但是秀吉更是增加了河內、丹波及山城共70萬石,而且織田家繼承人確定為秀吉推薦的織田信長長孫三法師(織田秀信)。不久,柴田勝家迎娶織田信長之妹阿市。後來試圖拉攏瀧川一益及織田信孝與秀吉對抗,然而秀吉趁著北陸大雪封山之際,首先針對留守長濱城的勝家養子柴田勝豐進行壓迫與懷柔。其次包圍岐阜的織田信孝並使其屈服。天正十一年(1583年)正月,秀吉對瀧川一益的北伊勢發動7萬大軍爭討。一益於3月兵敗逃亡。隨一益及信孝失利,秀吉矛頭直指向勝家。 天正十一年(1583年)3月12日,勝家進軍北近江,與北伊勢的羽柴秀吉對峙(賤岳之戰),在此之前,勝家向毛利家保護的足利義昭去信,要求毛利出兵夾擊秀吉未果。進行了一段時間的持久戰之後,勝家派遣姪子佐久間盛政突襲敵軍,殺死了敵方將領中川清秀。雖然獲得了一時的勝利,但是盛政違反軍令拒絕撤退,4月16日,秀吉擊敗再度舉兵的織田信孝與瀧川一益後,自岐阜進攻勝家在賤岳的大岩山砦,盛政因而在山砦中被擊潰。之後前田利家又忽然率軍撤退,丹羽長秀也解除了琵琶湖水道的封鎖,使本來兵力就較少的柴田軍戰敗。 戰後,羽柴軍大舉包圍勝家居城北之庄城,然而勝家卻原諒前田利家在賤岳之戰不出手相救的舉動,並讓利家和自己的家臣們去追隨羽柴秀吉,4月24日,妻子阿市與80多位家臣跟隨勝家一同自盡身亡,家臣中村聞荷齋擔任介錯。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%8B%9D%E5%AE%B6
正木時茂 Masaki Tokishige(1513年-1561年) 1513年(永正10年)、正木時綱の子として誕生。1533年(天文2年)、里見氏の内紛である稲村の変が発生し、父・時綱と兄が戦死したため家督を相続した(時茂は傷を負いながらも命からがら脱出したと言われている)。時茂は槍術に優れており、槍大膳と称された。 里見義堯に寄騎として属し、1534年(天文3年)の里見義豊討伐に従い、勝利した義堯が安房本国に入った為にそれまで居城としていた上総国金谷城に代わりに入ったとされる。翌年に北条氏綱が扇谷上杉家と戦った際には北条方の援軍として派遣されている。その後、里見氏と北条氏の関係が対立関係に転じ、1538年(天文7年)の第一次国府台合戦には里見方として参陣する。 その後、一族である内房正木氏の北条方への離反や上総武田氏勢力の衰退という状況を受けて、金谷城がある西上総から安房国朝夷郡に本拠を移した後に東上総へ進出し1542年(天文11年)には勝浦城を攻めてこれを奪っている。1544年(天文13年)には真里谷朝信を討ち、その所領である小田喜城(後の大多喜城)を奪って居城とした。その後、1561年初頭の上杉輝虎(謙信)の関東出陣に際しては、義堯の嫡男・里見義弘に従って嫡男の信茂とともに参陣している。 1561年(永禄4年)、死去。なお、これまでは没年は天正4年(1576年)あるいは6年(1578年)とされてきたが、近年里見氏・正木氏ゆかりの寺院である妙本寺や慈恩院から、時茂の命日を示す資料が発見された。これに従えば、以後の時茂の功績とされるものや「正木大膳(亮)」の名乗ったのは第二次国府台合戦で戦死した嫡男・信茂や後に里見氏に反乱した養子・正木憲時であったとされている。安房国長狭郡宮山(現在の千葉県鴨川市)の長安寺に葬られた。法号は長安寺殿武山正文または松徹主順。 越前の朝倉宗滴が語った言葉をまとめたとされる『朝倉宗滴話記』には、同時代の優秀な武将が列挙されているが、その中に「正木大膳亮」の名も挙げられている。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%9C%A8%E6%99%82%E8%8C%82_(%E6%AD%A3%E6%9C%A8%E6%99%82%E7%B6%B1%E5%AD%90)
武田信豐 Takeda Nobutoyo(1514年-沒年不詳) 武田元光之子、妻為六角定賴之女;幼名彥二郎。 天文元年(1532年)元光出家隱居,18歲的信豐在困境中繼承家督,一心想要通過戰爭恢復武田氏昔日的輝煌。 天文四年(1535年)10月至次年5月,信豐不顧家老粟屋元隆的勸阻,一意發動對丹後田邊城的進攻。由於將帥不合以及大永七年(1527年)川勝寺合戰的慘敗,創傷尚未撫平。信豐兩度對田邊城的攻略都遭到失敗,粟屋親榮之子粟屋勝春於該役戰死。信豐將挫敗的原因歸疚於粟屋元隆的不盡心力,元隆則因發動戰爭所產生的沉重負擔而怨恨信豐,雙方的矛盾在戰役結束後迅速激化。 天文七年(1538年),雙方的矛盾達到頂點,粟屋元隆出奔至丹後田邊城,開始對若狹武田氏的武裝反抗。由於元隆的行動得到若狹一部分家臣的同情,使得信豐在很長時間裡未能對元隆的反叛采取有力措施進行鎮壓。 同年,7月17日,由於元隆的反亂已對信豐在若狹的統治造成相當大的不利影響,信豐強行組織討伐軍出陣遠敷郡谷田寺。7月27日,粟屋元隆在被擊敗後逃往遠敷郡名田庄;9月8日,元隆又離開若狹前往丹波尋求細川晴元勢的支持以重新進攻若狹。借著元隆反亂造成家中局勢不穩的機會,叔父武田信孝也乘機掀起爭奪家督的叛亂。 天文七年(1538年)9月20日,受武田信孝邀請的朝倉孝景借幕府命令平定若狹亂局的名義攻入若狹。信豐在嚴峻的局面下表現自己一生最傑出的行動,信豐一方面聯接加賀的本願寺證如,以加賀本願寺軍攻入越前來牽制朝倉氏,另一方面迅速擊破信孝勢力。而朝倉孝景也被迫撤回越前。 接下來信豐以得勝之軍再次擊敗粟屋元隆,元隆失敗後再次逃亡。作為粟屋氏本家家督的元隆雖然這次內亂的始作俑者,但樹大根深的粟屋氏分為幾家,而幾個分家在此次亂局中都站在信豐一方並立下功勛,內亂之後由幾個分家的家督牽頭組織若狹一部分重臣為粟屋氏對內亂應負的責任進行開脫。信豐雖然對粟屋元隆遺恨未消,但一方面不能不給重臣們面子;更重要的一方面則在於,粟屋氏最初封在東若狹三方郡就是為防備朝倉氏,在與朝倉氏再次交惡的時候嚴懲粟屋氏的話,輕則造成戰力下降、邊防不穩;重則導致粟屋氏背離投靠朝倉。處在信豐的立場,有朝倉氏做後臺的武田信孝比其他任何人都更加危險。在權衡利弊之後信豐把謀反歸咎於粟屋元隆一人,對粟屋氏只做象征性的處罰,而三方郡與國吉城仍舊牢牢握在粟屋氏手中。 雖然流亡的武田信孝在越前向信豐提議和談,但信豐對其在朝倉氏的支持下所擁有的競爭力感到疑忌。在得到岳父六角定賴支持後,信豐斷然拒絕讓信孝再次返回若狹。心有不甘的武田信孝開始借朝倉軍對若狹進行不間斷的騷擾,而粟屋氏所領的的三方郡深受其害,領內產生強烈的反朝倉情緒。 由於朝倉氏積極介入若狹的內政,在力量對比中處於劣勢的信豐不得不進一步依靠六角氏的支援。很快一部分不勝朝倉氏騷擾的家臣提出與朝倉氏和睦的建議,所持理由是反正都要依靠別家,那與其依靠隔著淺井、朽木而緩不濟急的的六角氏還不如就近依靠朝倉氏。信豐對此十分惱怒,若狹君臣間又開始新一輪對抗。與敦賀郡司朝倉宗滴為鄰的粟屋氏因為領國處於隨時可能被宗滴吞並的危險中,出於保衛領國的原因而站在信豐一方,從而重新得到信豐的信任並迅速恢復筆頭重臣的地位。 此後信豐雖然沒有被朝倉氏在戰場上擊敗,但在和越前的國力對比上,若狹卻處於絕對的劣勢。隨著長期的征伐,許多不堪重負的家臣為自身的利益放棄追隨信豐,若狹國內形成旗幟鮮明的親六角派與親朝倉派並產生尖銳對立;而親朝倉派的首領正是信豐的嫡子-武田義統。 天文二十一年(1552年),長期作為信豐後臺的六角定賴去世;失去明主的近江六角氏迅速衰弱下來,六角氏對若狹的影響也隨之減小。若狹國內親六角派與親朝倉派的對抗失去平衡,武田義統獲得壓倒性的優勢;有鑒於此,朝倉氏放棄對武田信孝的支持,改而全力支持武田義統。 弘治二年(1556年),信豐之弟-武田重信為親六角派,無法坐視親朝倉派上臺執政,在反朝倉派中的粟屋勝久支持下向親朝倉的義統發起挑戰。雖然粟屋勝久在若狹國擁有舉足輕重的軍力,但其在敦賀郡朝倉軍的壓迫下根本無法離開三方郡國吉城去小濱支援重信,於是重信很快被占優勢的義統擊敗。擊敗重信後,義統把矛頭指向作為親六角派總大將的父親信豐。從永祿元年(1558年)7月至次年6月,若狹爆發內戰,在近江六角氏的調停下以信豐隱居為條件而很快結束。 永祿元年(1558年)信豐與義統父子正式開始內戰,但內戰在近江六角氏的調停下以信豐隱居為條件很快結束。 出處 http://tw.hjwzw.com/Book/Read/33851,7089633

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