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那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之
土岐頼武 Toki Yoritake(1498年?-1547年?) 土岐政房の嫡男で弟に頼芸、治頼、揖斐光親らがいる。別名の諱として政頼(まさより、「政」は父の偏諱であろう)、盛頼(もりより)が伝わる。次郎と称す。官位は修理大夫。妻は朝倉貞景の3女。子に頼純。 土岐政房は家督を次男である頼芸に継がせようと考え、小守護代長井長弘が頼芸側に加わった。一方、守護代である斎藤利良は頼武を推したため、美濃国内は頼武派と頼芸派に分かれ、永正14年(1517年)12月27日、遂に両派の合戦となった。この合戦は頼武派が勝利したが、頼芸派は尾張に亡命していた前守護代斎藤彦四郎と連絡を取り、逆襲の機会を狙った。 永正15年(1518年)8月10日、再び両派の間で合戦が起こり、頼芸派が勝利、頼武は利良と共に利良の伯母の嫁ぎ先である越前朝倉氏のもとへ亡命した。この越前亡命中に朝倉貞景の娘と結婚したとされる。頼芸派は室町幕府に要請し、頼武の上洛を促す御内書を出してもらうことに成功したが、朝倉孝景(宗淳)はこれを無視した。 頼武の越前在国中も美濃は内乱状態にあり、永正16年(1519年)3月には垂井辺りで激戦が展開されている。同年6月16日に土岐政房が没すると、孝景は弟の景高に美濃出陣を命じる。7月、景高に率いられた3000の朝倉勢に護られて頼武は美濃に入国、9月14日の正木合戦、10月10日の池戸合戦に連戦連勝して、遂に美濃守護になることに成功した。長井長弘は没落、彦四郎は失脚した(戦死とも)。 その後、頼武政権は一応の安定を見ていたが、大永5年(1525年)6月に至り、頼芸を奉じた長井長弘が再挙兵する。6月23日、岐阜茜部で合戦があり、守護代斎藤利茂ほか頼武政権の主だった人々は守護所福光館を脱出、館は長井勢に占領された。更に8月2日、長井氏支援のため、近江から浅井亮政の軍勢が美濃に侵攻、関ヶ原今須付近で土岐軍と合戦となった。頼武は武芸谷の汾陽寺にあって、救援を朝倉氏に求めた。朝倉氏はこれに応じ、朝倉宗滴が小谷城に出張り六角氏とも協力して浅井勢を牽制、更に朝倉景職の率いる軍勢が10月14日に稲葉山まで出兵した。内乱は大永7年(1527年)末には一段落するが、その後も政情不安は続き、享禄3年(1530年)、頼武は再び越前に逃れ、頼芸は翌年「濃州太守」と呼ばれるまでになる(実際にはまだ守護に就いていない)。 朝倉軍の援助で美濃入国を果たすと、頼武は山県郡大桑城に本拠を置き再び頼芸と対決する。天文4年(1535年)、頼武は出家、恵胤と号した。6月、頼芸が父政房の17回忌を行って自らの正当性を主張したため、両者の対立は深まった。8月、修理大夫に任官、更に権威付けのため奈良正倉院秘蔵の蘭奢待の切り取りを朝廷に申請、許可されている。8月17日、朝倉氏や六角氏の援兵とともに頼武軍は攻勢を開始、11月までの間、多芸郡・池田郡から岐阜・関に及ぶ広範囲で合戦が繰り広げられ、多くの神社仏閣が焼亡した。 天文5年(1536年)6月20日、頼武(恵胤)は朝廷に対し蘭奢待切り取りの答礼をしている。しかし、これを最後に史料から姿を消している。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E6%AD%A6
土岐頼芸 Toki Yorinori(1502年-1582年) 文亀元年(1501年)に土岐政房の子として生まれる。この当時の美濃の国内情勢は重臣の斎藤家は守護代斎藤利国の戦死により衰退し、代わってその庶流長井家が台頭するなど斎藤家中は不安定であった。 斎藤家だけではなく守護土岐家も暗雲が漂っていた。父政房には長男の頼武がいたが、政房は次男の頼芸を溺愛して頼武の廃嫡を考えるようになり、政房によって頼芸は小守護代長井長弘、長井新左衛門尉(斎藤道三の父)らに擁立され、兄の頼武も守護代斎藤利良の支持を受けたことにより、両者は対立して家督争いが起こり、永正14年(1517年)、合戦となった。 この戦いで頼芸側は敗れたが、前守護代斎藤彦四郎の助力も得て、翌永正15年(1518年)、再び合戦となり、頼芸側が勝利し頼武を越前に追放し、頼武方の勢力を一掃した。しかし、永正16年(1519年)、朝倉孝景の支援を得た頼武側が美濃に侵攻し、頼芸側は圧倒され頼武側が勝利し、頼武が美濃守護に就くことになったことで決着がついたと思われた。 しかし、頼芸は政権奪取を企て、大永5年(1525年)に再び挙兵し、美濃守護所の福光館を占拠した。享禄3年(1530年)には兄を再び越前に追放し、「濃州太守」と呼ばれて実質的な守護となった。その後、後ろ盾であった長弘、新左衛門尉らが相次いで死去したため、新左衛門尉の子規秀(後の斎藤道三)を重用し、勢力保持をはかったとされる。 天文4年(1535年)6月、父の17回忌を執り行い、自らの正統性を国内に宣言したため、兄の跡を継いだ甥頼純と対立し、朝倉氏、六角氏らが頼純側に加担したことにより戦火は美濃全土へ広がった。同年7月1日、新たな守護所であった枝広館が長良川大洪水で流され、稲葉山の麓に移る。同年同月22日、第12代将軍足利義晴の執奏により、修理大夫に任官。翌天文5年(1536年)、勅許により美濃守に遷任して正式に守護の座に就いた。 同じ頃、頼芸は六角定頼の娘を娶り、六角氏と和睦したことによって争乱はほとんど治まり、天文8年(1539年)には頼純との間に和議が成立した。天文10年(1541年)、重臣の斎藤道三が頼芸の弟頼満を毒殺する事件が起こったため、これ以降道三との仲が険悪となり、次第に対立する。 天文11年(1542年)、頼純の籠もる大桑城が落城し鷺山城へ移る。またこの年、頼芸は子の頼次ともども道三により尾張へ追放された(この時点で追放されたのは頼次であり、頼芸は道三の傀儡として守護の座に留まっていたという説もある)。 尾張の織田信秀の支援を得て、越前で朝倉孝景の庇護下にいた頼純と連携し守護の座に復帰するが、まもなく天文15年(1546年)、道三と孝景が和睦し、その和睦の条件が頼芸の守護退任であったため、頼芸は守護の座を頼純に明け渡した。さらに天文17年(1548年)、信秀と道三が和睦したことによって後盾を失い、天文21年(1552年)頃、再び道三に追放され、妹の嫁ぎ先である近江の六角氏、続いて実弟の治頼がいる常陸に寄寓し、この時治頼に系図や家宝を譲り渡したという。次いで上総の土岐為頼を頼り、後に甲斐の武田氏に身を寄せる。この間に病によって失明する。 最後は旧臣であった稲葉一鉄のはからいで美濃に戻り、死去したといわれている。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E8%8A%B8
斎藤利良 Saito Toshinaga(生年不詳-1538年) 美濃斎藤氏持是院家6代目当主。持是院家3代目当主斎藤利親の嫡男で斎藤妙純の孫。兄弟に花村外記利房。幼名は勝千代、新四郎と称す。大和守。法名は権大僧都法印岱宗妙全、持是院妙全。 父と祖父が明応5年(1497年)12月に近江で戦死した時は幼少の為、2人の叔父又四郎、彦四郎が持是院家の当主を継いだ。 美濃守護土岐政房に仕えたが、その後継をめぐり意見が対立した。利良は政房の嫡男頼武を推し、政房と小守護代長井長弘は次男頼芸を推した。それぞれ派閥を組み、永正14年(1517年)12月27日には遂に合戦となる。この合戦は利良(頼武派)の勝利に終わり、頼芸派は永正9年(1512年)に尾張へ亡命した前守護代彦四郎と連絡を取り合い、逆襲の機会を狙った。 永正15年(1518年)8月10日、再び合戦が起こり今度は頼芸派の勝利となった。彦四郎は美濃に再入国し、逆に頼武と利良は、利良の従兄である越前の朝倉孝景(宗淳)を頼って亡命した。頼芸派は室町幕府に御内書を出してもらい、頼武を上洛させるよう朝倉氏に迫ったが、朝倉孝景はこれを無視した。この間も美濃国内で頼武派と頼芸派の合戦が続いている。 永正16年(1519年)6月16日に土岐政房が没し、美濃守護職が空位となると、朝倉孝景は弟の景高に美濃出陣を命令、景高は兵3000を率いて頼武、利良と共に美濃に侵攻、連戦連勝し、頼武は美濃守護となることができた。彦四郎は失脚か戦死したと見られる。 頼武政権下で利良は守護代として力を揮うが、永正18年(1521年)には目立った活動は見られなくなり、天文7年(1538年)9月1日に死去して、利親の弟斎藤利茂(斎藤利為の子とも)が新守護代として登場する。 殺害されたとされる。その後持是院家は近衛稙家の庶子とされる多幸丸が斎藤道三の養子となり、斎藤正義と名乗って持是院家の名跡を継いだと思われる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%88%A9%E8%89%AF
朝倉孝景 Asakura Takakage(1493年-1548年) 曽祖父(7代)孝景にあやかって、自身も「孝景」と名乗った。今日においては区別するため便宜上、法名から「宗淳孝景」(大岫孝景)と呼んで区別する。 朝倉氏10代目当主。朝倉貞景の子。朝倉義景の父。母親は美濃守護代格斎藤利国の娘。妹は美濃守護土岐頼武に嫁ぎ、嫡男・土岐頼純を産む。 一門の朝倉宗滴の補佐を受けて、当時混乱の多かった周辺国の加賀・美濃・近江・若狭らにしばしば出兵・侵攻し、各国の守護家や諸勢力に軍事的優位性、政治的影響力を見せ付け、代々対立してきた加賀一向一揆との和睦をも成立させたと言われている。絶え間なく中央(京都)および周辺諸国情勢に煩わされたが、結果的に朝倉氏の勢力をさらに拡大するとともに、朝廷や幕府との繋がりをも深め、越前に更なる繁栄をもたらし、本拠・一乗谷城に京風の文化を華開かせた。 軍事面においては、当主自らではなく一族の主なものを名代として派遣する例が多い。この制度が次代の義景の統治にも影響を及ぼすこととなる。 統治面においては、守護斯波氏の下では同格であった国人衆などと呼ばれる諸勢力を完全に臣従下させるには至っていない。また、弟である朝倉景高と対立するという内紛もあった。 経済面においては、周辺諸国への大軍派遣、朝廷や幕府に対する多額の献金等からの一乗谷の繁栄が見られた。また、豪商らが名物茶器を所持していたり、家臣らが京に書物を求めるなどの面も見られた。 天文17年(1548年)3月22日に死去。波着寺への参詣の帰りに急死したという。享年56。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%AD%9D%E6%99%AF_(10%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB)
朝倉宗滴 Asakura Soteki(1477年-1555年) 朝倉敏景的八子、母為溫科氏之女・桂室永昌大姉、正室為朝倉景冬之女;幼名小太郎、別名太郎左衛門尉、實名朝倉教景、號宗滴,以「朝倉宗滴」之名為人所知。 應仁之亂期間,父親敏景身為越前國人乘時而起,在東西兩軍在京畿爭持激烈之際,率兵驅逐越前守護斯波氏和守護代甲斐氏,佔據越前一國;此後,朝倉氏被任命為越前守護,正式轉型為戰國大名,完成其下剋上的道路。朝倉敏景生前著有「朝倉孝景十七條」,制定朝倉家以能力為標準的人才登用制度,和家臣集居於一乘谷等等的家法,為朝倉家奠下繁榮之道。 文龜三年(1503年),朝倉敏景妾生之子・朝倉景總聯合敦賀郡司朝倉景豐,對朝倉家第九代當主朝倉貞景舉起反旗,叛亂的主謀者是景總,時年二十六歲的宗滴也加入叛亂。宗滴參與的理由是因為他娶景豐的妹妹,也有一說是他對自己的待遇不滿而加入叛亂。然而,就在舉兵的當夜,宗滴突然把謀反的全部計劃向朝倉貞景告密,隨後宗滴與貞景一同領兵進攻敦賀,景豐被逼自殺。被放逐到加賀國的朝倉景總在次年率軍反攻,但被宗滴擊退。宗滴因此戰功被任命為金崎城敦賀郡司,並擔任朝倉家的軍奉行,活躍在各地的戰場上。 朝倉家的領地越前國及北陸地方的一向宗勢力非常強大,特別是鄰國加賀國,更是有「百姓把持之國」之稱,不斷對朝倉家領地構成威脅。永正三年(1506年),受到加賀國一向一揆的支持,越前國一向一揆爆發。宗滴以其非凡的能力,瞬間完成越前國領內暴動的鎮壓。同年,宗滴在九頭龍川河畔迎擊侵攻越前的加賀、能登一揆大軍三十萬,並成功的將擁有壓倒性優勢兵力的敵軍擊退。 永正十四年(1517年),宗滴出陣丹後國,支援若狹守護武田氏攻打丹後守護代延永氏的唐橋城。 大永五年(1525年),宗滴應淺井亮政之請出陣近江國小谷城,調停淺井家與六角家的戰爭,並與亮政締結同盟協定。 大永七年(1527年),宗滴應流亡於近江國的將軍足利義晴和幕府管領細川高國之請,率軍上洛,與細川晴元、三好元長軍交戰,並討取對方的侍大將。 享祿四年(1531年),宗滴將敦賀郡司之職讓給養子朝倉景紀後出家,號「照葉宗滴」,但仍擔任朝倉家軍奉行的職務。天文十二年(1544年),宗滴應織田信秀的邀請出陣,在稻葉山城下擊破齋藤道三軍。 弘治元年(1555年),宗滴為掃除朝倉家的後患,決定討伐加賀一向一揆,但遭到朝倉家當主朝倉義景的反對。然而宗滴不顧反對之聲和年事已高,決定親任總大將,呼應能登國的田山氏出陣加賀。 宗滴率軍依次攻打一揆方據點大聖寺、南鄉、津葉、千足諸城,殲滅一揆軍數千人,但宗滴年老的身體受到病魔的侵蝕,在陣中發病,回國後於同年9月23日在一乘谷城病死,年七十九歲,法名月光院殿照葉宗滴大居士。 出處 http://baike.baidu.com/view/723048.htm?fromtitle=%E6%9C%9D%E4%BB%93%E6%95%99%E6%99%AF
朝倉敏景 Asakura Toshikage(1428年-1481年) 朝倉家景之子、正室為朝倉將景之女・圓溪真成大姊、繼室為溫科氏之女・桂室永昌大姊;幼名小太郎,初名教景、受斯波義敏偏諱「敏」字,取名朝倉敏景、後改名孝景(與十代朝倉當主同名,本文以朝倉敏景為主)、法名「英林宗雄」。 朝倉氏是開化天皇的後裔,原姓日下部,平安時期居住在但馬國朝倉這個地方,所以稱為朝倉氏。南北朝時期,朝倉廣景身為斯波氏的被官,跟新田義貞等南朝將領作戰有功而受到注目,室町初期作為斯波氏宿老受封於越前井郡,成為越前一國中頗有力量的國人眾;朝倉氏歷經幾代的辛苦經營,至朝倉敏景這一代,才有重大的轉變。 那個時期,日本國內暗潮洶湧,先是六代將軍足利義教被赤松滿祐暗殺(嘉吉之變),幕府失去權威,繼之而來的是越前斯波氏的內訌、田山氏的家督之爭、伊勢一族跟山名宗全(山名持豐)的權力抗爭等等,到後來發展成大規模的內戰(應仁.文明之亂)。 元服時,拜受六代將軍足利義教的偏諱,取名「教景」。 享德元年(1452年),敏景與越前、遠江守護代甲斐常治合力擁立大野氏的斯波義敏成為斯波家第十代當主,此後拜受義敏之偏諱,改名「敏景」。實際上,這個守護的權力卻落在甲斐常治手上,義敏當然有所不滿,他籠絡甲斐常治之弟甲斐近江守,向幕府控訴甲斐常治的專橫,卻沒有成功,自此斯波義敏跟甲斐常治的關係日益惡化。 長祿二年(1458年),斯波義敏跟甲斐常治正式決裂。按照常理來看,朝倉敏景既然拜受義敏的偏諱,自然是支持義敏一方,不過,事實上敏景跟守護代甲斐氏卻是同一伙的。斯波義敏派出大將堀江石見守利真攻打甲斐常治和朝倉敏景,花了幾個月的時間把他們逐出越前國境;這段期間,幕府向斯波義敏下達出兵討伐前鎌倉公方足利成氏的命令。 斯波義敏遂前往京都,接受幕府的命令,領兵前往鎌倉;大軍行至近江,已是長祿三年(1459年)初,這時朝倉敏景聯合甲斐常治盤據在敦賀城,與堀江利真對峙,斯波義敏察覺到形勢不妙,立即令大軍改變方向,攻擊敦賀城,卻遭逢大敗,朝倉敏景與甲斐常治取得優勢後,轉攻越前,時為長祿三年五月;這場以敦賀城為主戰場,大小共二十一回的戰事,稱為「長祿合戰」。而斯波義敏因為違反幕府命令,翌年被下令隱居,由其子松王丸接替守護一職,而義敏逃到大內氏領地周防國,密謀東山再起,但這是後話,暫且按下不表。 自從朝倉敏景跟甲斐常治擊敗斯波義敏後,雙方呈現緊張局面。這時的朝倉氏,勢力已凌駕於守護代甲斐氏之上,其實力亦在長祿合戰中得到肯定。 此時,因斯波義敏下台,朝倉敏景遂放棄「敏景」這個名字,回復「教景」這個舊名。這個年頭,適逢日本國內出現極嚴重的大饑荒(長祿.寬正大饑饉),而敏景禁止控制越前的莊園的興福寺眾向領民徵收反錢(莊園收入),此舉得罪一眾興福寺僧徒,「教景」這個名字,遂成為興福寺眾詛咒的目標;有見及此,唯有再度改名,成為「朝倉孝景」。 寬正二年(1461年),朝倉敏景和守護代甲斐敏光聯手,把當上家督之位還不足一年的義敏之子松王丸從守護這個寶座上扯下來,而擁立澀川氏的斯波義廉成為斯波氏第十二代當主。這個出自澀川氏的斯波義廉,是山名宗全的外孫,擁有極大的勢力。而朝倉敏景亦積極擴展自己在越前的勢力,經過和田合戰、鯖江新庄合戰、杣山合戰等等戰事,把守護代甲斐氏和二宮氏的力量都壓下來,相對地,朝倉氏在越前的聲望日隆。 回說逃亡到周防的斯波義敏,一直與政所執事伊勢貞親等將軍義政的近臣保持聯絡,謀求東山再起。寬正六年(1465年),得到幕府的赦免,這邊廂的斯波義廉感到守護之職受到威脅,遂聯同山名宗全圖謀舉兵,此舉被幕府知悉,遂被罷免家督之位,翌年(文正元年,1466年)由義敏上台;可是隨即被斯波義廉和山名宗全反擊而下野,史稱「文政之變」;斯波義廉復位,並被任命為管領。 就在斯波義敏和義廉雙方相互傾軋的同時,京都爆發應仁之亂,斯波義敏投到以細川勝元為首的東軍;而斯波義廉因為是山名宗全的外孫,順理成章投到西軍,朝倉敏景亦因為支持斯波義廉,所以也投到西軍麾下。在戰爭初期,朝倉敏景大破阿波守護細川成之、若狹守護武田信賢,戰功卓絕;同時足利義視投向西軍,斯波義廉於自宅近接,當上以足利義視為將軍的西幕府的管領。處於劣勢的東軍細川勝元,以重金聘請農民組成「足輕」隊,令大將骨皮道賢率領,登時令西軍陷入苦戰。 朝倉敏景作為西軍的重要力量,果然不負眾望,討取骨皮道賢,西軍士氣大增。文明三年(1471年),東軍的細川政元(細川勝元之子)決定授予朝倉敏景越前守護一職,以拉攏敏景為己方;由於在當時並沒有從守護代以下的身份擢升至守護一職的前例,所以政元這個決定確實令人震驚。 朝倉敏景遵守協定,毅然倒戈,留下兒子朝倉氏景在京都做政治上的支援,而自己隨即率軍脫離戰場,返回越前,並以一乘谷為本據地,全力掃蕩周圍的勢力,並把守護代甲斐氏驅逐出國;如此一來,朝倉敏景佔據越前一國,正式轉化為戰國大名。 朝倉敏景既佔領越前,卻惹來原本的越前守護斯波義敏的紅眼,義敏聯合甲斐氏和二宮氏攻打朝倉,企圖奪回他對越前原有的支配權。 經過長年的爭戰,於文明十三年(1481年),朝倉敏景在戰陣中逝世,年五十三歲,法名「英林宗雄」。 敏景成為大名後所制定的家訓「朝倉敏景十七條」,內容大致如下: 一 身為朝倉家臣,須注重自身的器量和忠節; 二 大將和奉行的職位不得世襲; 三 要在各地遍佈眼線,留意各地所發生的事情; 四 與其購一柄名刀,不如購一百枝槍給一百名士兵裝備,如此方能提高軍隊的作戰能力; 五 不得讓京都的人到越前國表演猿樂,這些費用倒不如讓猿樂高手上洛去學習,藝成後,往後能夠看到的就是那個人所學得的猿樂了。此外,晚上不得在城內表演能樂; 六 持有任務而出使伊達白川家的使者,不得要求好馬和鷹。此外須對自伊達白川家以外的歸國者要多加留意。 七 凡姓朝倉者,初出仕的時候上裝要用布料,並配上朝倉家紋。如果說是有錢就做豪華的衣服的話,便會出現崇尚好衣服的風氣,一旦在正式場合沒有好衣服就難以出席,因此而稱病不任事,如果還有二、三年不任事的話,那就無人為朝倉家效力了; 八 外表醜陋但意志堅定的人可以付以重任,外表得體但內心懦弱的人則可為侍從,如果兩方面都不濟的話,那麼給他賞賜、領地也是浪費; 九 如果勤奮的人和懶惰的人所得到的報酬都一樣,那就沒有人會願意多幹活了; 十 除緊急情況外,不得由他國浪人為代筆; 十一 無論任何人,只要是有一點可取之處的人,都不能離開本國。但一些恃才傲物,且不願效忠朝倉家的都不在此限; 十二 戰鬥或攻城時,哪怕是吉日還是凶日,地形、情勢對我軍是有利還是不利,只是仔細、有效地利用虛實之道,隨機應變執行謀略,還是可以必勝無疑; 十三 任命正直不阿的人一年最少三次進行對領內的視察,聽取民聲,改善政治不足之處; 十四 在國內不得築城,重臣一律移居到一乘谷,支配地只可留下代官; 十五 視察民情時,認為好的地方就該表揚,不好的地方就指出來。如此一來,不知情的人也可以從主公的口中得知情況而對症下藥,進行改良,而好的地方就愈來愈好。君民必須同心,才能把城鎮建設好; 十六 當主在作出審判、裁決的時候,必須公正嚴明,不能徇私。一旦姑息縱容,導致國內目無法紀之得氣盛行,則易為他國所攻; 十七 身為當主,需像不動明王和愛染明王一樣,具有慈悲為懷的心腸,須先行良策,刑罰為最後才用。善惡好壞要公平處理,哪怕殺生也是心懷慈悲。另外,即使讀得聖賢書,身懷絕技,但不得性情乖僻。假使在論語中看到君主若輕浮則無威嚴的內容,就以為行事必須嚴肅,這是不對的。一張一馳,文武之道,適時而用是很重要的。 出處 http://www.se-n-go-ku.org/%E7%9C%9F%E6%AD%A3%E7%9A%84%E3%80%8C%E4%B8%8B%E5%89%8B%E4%B8%8A%E3%80%8D%E5%85%88%E9%A9%85%E3%80%80%E3%80%80%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%95%8F%E6%99%AF/
朝倉景紀 Asakura Kagenori(1505年-1572年) 越前國大名朝倉貞景之子,朝倉孝景(10代,宗淳孝景)之弟,朝倉宗滴養子。 其人長與武勇,不遜於其養父,在大永七年(1527年)的京都出陣,享祿四年(1531年)的加賀出陣中皆有從軍,表現活躍。享祿四年(1531年)就任敦賀郡司一職。郡司職在永祿元年(1558年)被讓給嫡子景垙,在此之後景紀也代表敦賀郡司家執行軍事行動,永祿四年(1561年)5月,受若狹武田氏要請作為朝倉軍總大將出兵鎮壓逸見氏的叛亂。在永祿六年(1563年)到永祿十一年(1568年)期間進攻若狹三方郡的粟屋勝久,多次進行盜割稻穀等破壞工作。 然而,永祿七年(1564年)9月2日,出兵加賀國之時,其子景垙與朝倉景鏡爭奪總大將之位,未果自殺於陣中(當時朝倉義景匆忙作為總大將出陣以防止事態惡化),景紀一氣之下將景垙之子帶回自領隱居。以後,兩者激烈對立,足利義昭進入一乘谷時,兩人圍繞座次問題大起爭執,最後發展到一方服侍在義昭身旁另一方則乾脆不出席的地步。 在此之後,織田信長進攻金崎城攻略時其子景恆(注一)沒落,敦賀郡司職也被廢止。元龜三年(1572年)在失意之中死去。 另:其人常參加各類連歌會,被認為和養父朝倉宗滴一樣是長於和歌精通文武兩道的人物。 注一:朝倉景恆:景紀之子,其兄景垙死後接任敦賀郡司。永祿十一年(1568年)參與進攻若狹國,將守護武田元明綁縛越前。元龜元年(1570年)織田信長入侵越前時駐守金崎城,由於兵力差過大開城投降,事後遭受朝倉家各方的責難,同年鬱鬱而終。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=10#postid-261 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%99%AF%E7%B4%80
朝倉景鏡 Asakura Kageakira(生年不詳-1574年) 朝倉景高的長子、母為烏丸冬光之女;初名景鏡、別名孫八郎,受織田信長偏諱「信」字,改名為土橋信鏡,戒名松雲院殿太球宗光大居士。 朝倉家大野郡司,支配越前國大野郡的土橋城(亥山城),位列朝倉一門眾筆頭;父親景高為朝倉孝景之弟,景鏡為當主朝倉義景堂弟。 永祿七年(1564年)加賀一向一揆征伐、元龜元年(1570年)金崎合戰追擊織田軍、近江・美濃(志賀之戰)代替朝倉義景為總大將出陣指揮。之後在畿內的近江國與織田家戰斗,經過朝倉家中的權力爭奪,景鏡與義景之間開始出現距離感。 元龜三年(1572年),織田信長在北近江淺井氏(朝倉氏同盟)的居城小谷城眼前築起虎御前山城(守將羽柴秀吉)。這時,景鏡再次向小谷城派遣援軍,陣中的前波吉繼(桂田長俊)、富田長繁、毛屋豬介投降織田軍。 翌年八月,織田軍出兵北近江,小谷城被圍之際,景鏡以「連續的軍事行動使得軍隊疲敝」的理由拒絕出陣,朝倉義景親自出陣救援淺井,刀根阪之戰戰敗。 八月十五日,朝倉義景勉強逃回一乘谷城。景鏡反對與織田信長在一乘谷城交戰,主張撤退到自領大野郡。最後朝倉義景接受景鏡勸說,棄城外逃,前往景鏡領地,盆地地形的大野郡,並且招募一向友善締盟的平泉寺僧兵協助,試圖東山再起。義景撤退時,景鏡為義景一行提供住處。不料,朝倉義景走到半途,織田信長便用所領安堵的條件勸降平泉寺僧兵。 八月十八日,織田軍先鋒柴田勝家攻破一乘谷城,火燒城下町,而朝倉義景逃往賢松寺後,景鏡見義景大勢已去,倒戈織田方,發動兵變包圍賢松寺,與家內重臣魚住景固一起逼義景自刃,然後將織田信長迎進一乘谷城,景鏡因此保住領地。之後景鏡上洛,得到本領安堵狀,被織田信長賜與「信」字,並用領地土橋城為姓,改名土橋信鏡。 天正二年(1574年)一月,因桂田長俊的暴政,越前原朝倉家臣富田長繁本與桂田長俊不合,自認戰功顯赫,不願屈居桂田長俊之下,與民眾造反爆發反桂田土一揆,之後土一揆演變為一向一揆,兵力高達14萬。 四月十四日,景鏡捨棄居城土橋城逃往平泉寺,結果平泉寺被眾徒放火,與分別十歲、六歲幼子一同被殺。 出處#1 http://baike.baidu.com/subview/1565962/1565962.htm 出處#2 http://baike.baidu.com/view/1566005.htm
朝倉義景 Asakura Yoshikage(1533年-1573年) 朝倉孝景的長子、母為高德院(廣德院)、正室為細川晴元之女、繼室為近衛前久之妹;幼名長夜叉,通稱孫次郎,初名延景,受足利義輝偏諱「義」字,名為義景,戒名松雲院殿太球宗光大居士。 天文十七年(1548年)父親死後,義景身為孝景唯一的兒子繼承家督,該年與細川晴元之女進行婚姻。天文二十一年(1552年)6月16日,獲幕府將軍足利義輝授予義字下,改名為義景。由於年輕的關係,在弘治元年(1555年)前,政務及軍事由朝倉宗滴負責,宗滴死後,義景親自掌管政務。永祿二年(1559年)11月9日,就任從四位下。 永祿八年(1565年)足利義輝被松永久秀等人指使暗殺,義輝之弟足利義秋(足利義昭)前往越前一乘谷尋求保護,但是義景對於上京表現反應冷淡。義昭離開朝倉前往美濃尋找織田信長。 永祿十年(1567年)堀江景忠藉助一向一揆背叛義景。朝倉軍在加賀與一揆勢力交戰。義景命令魚住景固及山崎吉家攻擊堀江家,最後雙方和解,景忠逃往能登國。 永祿十一年(1568年)介入若狹國武田的內亂,以保護武田元明為名保護將元明軟禁在一乘谷中。其中義景將政務交由朝倉景鏡、朝倉景健等人負責。同年,織田信長將足利義昭帶返京都,信長以將軍名為兩度要求義景上京,但義景拒絕,於是與信長對立。 永祿十三年(1570年)織田信長和德川家康的聯合軍攻過來,攻陷支城天筒山城及金崎城,一乘谷陷入危機。在此時,淺井氏背叛織田信長,結果信長逃離京都(金崎之戰)。同年6月,雙方在姊川交戰(姊川之戰)朝倉軍的總大將是景健,朝倉部隊與德川軍的榊原康政交戰大敗。 9月,當織田信長出兵攝津攻打三好三人眾及石山本願寺時(野田.福島之戰)義景親自出陣進攻近江阪本城。信長的弟弟織田信治及森可成戰死。不久信長返回近江,在比叡山與織田軍對峙。12月與信長議和。元龜二年(1571年)6月,義景與本願寺顯如達成友好關係,與顯如長子.本願寺教如進成婚姻。8月與義景與淺井長政攻擊橫山城,被織田信長部下木下秀吉(豐臣秀吉)擊退。 元龜三年(1572年)7月,織田信長包圍小谷城,義景前來支援。信長知道義景派遣援軍後,並無攻擊小谷城的行動,兩軍開始進行對峙。織田信長則在御前山八相山、宮部等地準備牽制朝倉軍,經謀略後,朝倉軍的前波吉繼、富田長繁加入織田信長。 在10月,甲斐國武田信玄向織田和德川領地進攻。織田信長仍然繼續對義景對峙。直到10月信長撒退到歧阜為止,此時與淺井進行反擊,擊退虎御前山的織田軍。12月以部下疲勞加上積雪返回越前。天正元年(1573年)4月,朝倉家同盟武田信玄病逝,武田軍返回甲斐。 天正元年(1573年)8月8日,織田信長率領號稱3萬大軍攻擊近江。義景命令所有家臣出征,但因為之前失態使家臣對主君失去信心,當中重臣朝倉景鏡及魚住景固等人拒絕參戰。義景只好召集山崎吉家、河井宗清等為數2萬人出戰。 8月12日,織田信長藉助暴風雨峙堉親自出兵向朝倉方大嶽砦進攻。信長的突擊使朝倉軍大敗,朝倉軍撤離大嶽砦。8月13日攻下丁野山砦後,無法再與長政合作。義景只好撤退到越前。信長對朝倉軍進行追擊,在田部山之戰被信長擊敗,逃離到柳瀨。 信長繼續對朝倉軍進行追擊,在刀根阪再次與織田軍交戰,義景逃往疋壇城。此戰中,齋藤龍興、山崎吉家、山崎吉延等武將戰死。義景從疋壇城返回一乘谷城。期間將兵相繼逃亡,僅得鳥居景近、高橋景業十多人跟隨。8月15日義景返回一乘谷城。留守的將兵得知朝倉軍大敗後,多數逃走。義景之後命令各將出陣,但除朝倉景鏡外就沒有其他將領來到。 8月16日,聽從朝倉景鏡放棄一乘谷城,逃離東雲寺。8月17日義景向東雲寺提出增援,這時候織田信長要求平泉寺停止增援。8月19日,逃離到賢松寺。另一方面,織田軍先鋒柴田勝家攻擊一乘谷城,對一乘谷放火。這場火燒了三天三夜。 逃到賢松寺的義景在8月20日的早上,朝倉景鏡與織田信長內通,背叛義景,向賢松寺發兵攻擊。義景在鳥居景近介錯下自盡而亡。年四十一歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E7%BE%A9%E6%99%AF

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