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三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、木下秀吉、斎藤道三、松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田晴信、飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、長尾景虎、長尾顕景、樋口兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、毛利元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友義鎮、龍造寺胤信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義秋、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、戸次鑑連、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、久慈為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、後藤基次、山中幸盛、陶隆房、吉弘統虎、吉弘鎮種、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、石川信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、木下秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、武田盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、三木自綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、細野光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新斎、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠隣、城井正房、大熊朝秀、氏家行広、池田知正、土井利勝、徳山則秀、平田範重、穴山信君、一条兼定、堀秀政、百々安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、佐竹義広、三善一守、板部岡江雪斎、岡本顕逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、浅野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重経、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、三木嗣頼、和田惟政、新発田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大内定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長増、安東実季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間頼照、酒井家次、宇都宮朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪頼忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色満信、真壁氏幹、本庄実乃、大田原晴清、中村春続、朝比奈信置、安藤守就、山名豊国、鵜殿長持
五十位人物:武田勝賴、足利義輝、尼子晴久、津輕為信 / 久慈為信、榊原康政、伊達成實、山本晴幸、真田幸隆、太原雪齋、朝倉宗滴、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢 / 陶隆房、立花宗茂 / 吉弘統虎、高橋紹運 / 吉弘鎮種、細川幽齋 / 細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角承禎....
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、羽柴秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、津軽為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、羽柴秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路頼綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、分部光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、、
織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豊臣秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
大田原晴清 Otawara Harukiyo(1567年-1631年) 父:大田原綱清,母:角田源左衛門の娘,妻那須資貞の娘。 天正13年(1585年)に那須資晴と宇都宮国綱との戦いである薄葉ヶ原の戦いで父縄清や弟増清と共に参じたのが初陣。 天正18年(1590年)に大田原氏の家督を継ぐ。同年の小田原征伐に参じる為に駿河国沼津で豊臣秀吉に謁見した際には、弟増清が既に豊臣秀吉と謁見を済ませていた事もあって主の那須資晴が所領を没収され、他の那須七騎の諸氏も減封処分を受ける家が出る中で大田原氏は7,100石の所領を安堵された。この時に秀吉より備前国勝光・宗光両作の太刀を賜った事から備前守を称した。 小田原落城後は降服した成田氏長の忍城接収の任を浅野長政に属して務めた。戦後、晴清は遅参の罪を問われて所領を没収された那須氏の再興を願い出る為、資晴の息子・資景(藤王丸)を伴い、奥州仕置の中途で大田原城に着陣した秀吉に陳謝し、その甲斐有ってか那須資景は新たに秀吉から5,000石を与えられ、那須氏は小さいながらも領主として復活する事が出来た。 文禄元年(1592年)の文禄の役の際には名護屋城まで出陣したが渡航はしなかった。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、上杉景勝の領地の様子を諜報し徳川家康に報告を入れている。同年6月には石川重次・内藤忠清らを奉行とした歩卒1,000人余りを大田原城に迎え、陸奥国境の城郭修造の任にあたった。この時、徳川秀忠から境目の往来禁制の事も重ねて申し付けられている。更に同じ月に援軍として皆川隆庸・服部正成らが大田原城に入り、長筒の大砲十挺が配備された。 7月24日には大関資増・伊王野資信らと共に下野国小山に参じ家康に謁見。上杉景勝南進の際には大田原城に籠城するよう申し付けられ、家康から正恒の太刀と黄金100両、秀忠から金熨斗付きの長船師光の刀を与えられた。8月25日には家康より書状で景勝が人数を出すに及んだ時は速やかに注進する事を命じられている。 関ヶ原の戦いで家康率いる東軍が勝利した後には下野国森田に800石を加増され7,900石に加増。慶長6年(1601年)7月に服部正成が大田原城を去る際には対上杉用の備えとして持ち込まれた徳川軍の大砲十挺のうち三挺がそのまま大田原城に与えられた。 慶長7年(1602年)7月には関ヶ原で西軍に属して改易された陸奥国の相馬義胤の居城であった相馬中村城の守備に弟増清と共にあたり、同年12月25日に下野国芳賀郡・那須郡、陸奥国磐城郡に4,500石を加増され、合わせて1万2,400石を領する大名となり大田原藩を立藩した。 慶長19年(1614年)9月に安房国の里見忠義が改易された際には一族と共に館山城の接収を行い、同城の守衛としてしばらく入った。また同年冬からの大坂冬の陣では徳川方として本多正信に属して参陣し、翌年の大坂夏の陣でも本多正信に属して戦い敵の首を70個挙げた。 元和3年(1617年)には徳川秀忠の上洛に近従し、京から戻った後の8月から12月まで駿府城の城番を務めた。元和8年(1622年)に出羽国の最上義康が改易された時も弟増清と共に同年の9月から10月まで山形城に入って守備にあたっている。 元和9年(1623年)にも秀忠の上洛に供奉。寛永2年(1625年)に従五位下叙任。寛永4年(1627年)3月には酒井直次と共に陸奥国二本松城の城番を務めた。 寛永8年(1631年)、江戸で病死した。享年65。法名は、奪勝院殿印国永金大居士。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8E%9F%E6%99%B4%E6%B8%85
服部正成 Hattori Masanari(1542年-1596年) 服部保長的四子,伊賀忍者集團的名門,二代目服部半藏,以「鬼半藏」之名縱橫戰國時代,擔任德川家忍者集團的總帥,為主君德川家康進行謀略、情報戰。 服部氏本姓千賀地氏,千賀地氏居住於伊賀國千賀地,與藤林、百地並稱為伊賀上忍三家,為三家裡最具勢力者,出侍室町幕府十二代將軍足利義晴,室町幕府衰退後;父親保長與松平清康(德川家康祖父)有來往而受清康徵召,為赴松平家埋姓,改姓服部。 正成於天文十一年(1542年)出生,與德川家康同年,雖為第四子,卻因器量才能受到推崇,而越過三位兄長繼承父親的地位,成為一族的頭領;從永祿十一年(1568年)起,率領伊賀忍者五十名,正式效力於家康。正成除了是忍者以外,其在家康麾下也是出色的武將,例如永祿十二年(1569年),家康與武田信玄合作進攻今川氏真,於氏真最後的據點「掛川城之戰」表現突出,掛川城因而淪陷。 天正七年(1579年),因德川家康嫡子松平信康被織田信長懷疑私通武田勝賴,信長下令信康自殺,家康特命所信賴的正成擔任介錯者,負責監督信康切腹自殺的任務,據說一向被人認為冷酷無情的正成,深知家康為德川家全體安危而不得不犧牲信康,正成難忍哀痛無法下手介錯取信康首級,改由同行的天方通綱代而為之;正成於晚年時,特別在江戶建立安養院祈求信康的冥福,或可窺見正成內心被壓抑的情感。 天正九年(1581年),織田信長派遣包括丹羽長秀、瀧川一益、蒲生氏鄉等以四萬大軍重重包圍進攻伊賀,徹底鎮壓伊賀忍者集團,包括老弱婦孺都不放過,幾乎將之消滅殆盡,面對故鄉淪於戰火攻擊,正成暗地幫助許多伊賀忍者逃難,等待時機。 天正十年(1582年),信長在「本能寺之變」遭明智光秀突襲而死,正成當時正隨同德川家康同遊堺港當中,局勢大亂,家康本有一死之覺悟,但隨行的酒井忠次、本多忠勝勸阻而讓家康冷靜下來,正成建議家康選擇穿越伊賀的路線返回三河,經家康採納後,正成隨即展開多方聯絡,與家康的御用商人茶屋四郎次郎合作,號召當地國人眾及先前因躲避戰火而藏匿的甲賀忍者一百名及伊賀忍者二百名出面保護家康一行人之安全,在眾多忍者的協助下,家康一行人得以安然通過盜賊橫行、百姓趁火打劫的混亂地區而返回三河。 德川家康安全穿越伊賀之後,有感於忍者的實力,乃透過正成將彼等收服,由正成統領。在對抗豐臣秀吉的「小牧山、長久手之戰」的前哨戰時,就是由正成統領的忍者集團順利佔領尾張蟹江城,迫使已經臣服於秀吉的瀧川一益退兵,一益後來因此而被下令隱居,報憾而終,此舉也算是報了一益當年接受信長之命殘酷鎮壓伊賀領的宿仇,正成因此獲得遠江八千石領地的賞賜。家康與秀吉和解之後,受命進攻小田原城的北條氏政、北條氏直父子,正成亦參與了該戰而表現活躍。 戰後,豐臣秀吉將德川家康移封關東,家康營建江戶城(現在的東京),江戶城的後門即由正成負責守衛,正成乃在該處營建住宅居住,現在東京的皇居(以前的江戶城)還殘留有「半藏門」的稱呼。正成成為統一甲賀、伊賀兩大忍者集團的總帥,是黑暗世界的實力支配者。慶長元年(1596年),正成還來不及目睹家康消滅大阪城統一天下,便以享年五十六歲去世。 正成之長子正就在大阪城夏之陣之役戰死,次子正重後來因事改易,服部家因而斷絕。但正成創建的德川忍者集團,日後成為幕府公儀隱密集團,為幕府監視諸侯舉動的利器,對於德川江戶政權二百多年的安定有不可磨滅的功績。 作者 Thbobo 出處 http://thbobo.pixnet.net/blog/post/31401654
松平信康 Matsudaira Nobuyasu(1559年-1579年) 德川家康的長子、母為今川義元姪女.築山殿、正室為織田信長之女.德姬,側室為淺原昌時之女、日向大和守時昌之女;幼名竹千代、通稱岡崎三郎、別名次郎三郎,受織田信長偏諱「信」字,名為信康。 信康幼年作為今川氏的人質在駿府度過,不過在桶狹間之戰後,德川軍以俘虜鵜殿氏長、鵜殿氏次交換,信康前往岡崎城居住。 永祿五年(1562年),父親家康和織田信長的清洲同盟成立。在永祿十年(1567年)5月與信長的女兒德姬結婚,兩人都是9歲並以夫婦的形式在岡崎城生活。 同年六月,家康把居城移往濱松城,把岡崎城讓給信康。在7月元服時,從信長接受偏諱「信」字。元龜元年(1570年)正式成為岡崎城的城主。 信康自小就勇猛果敢,在天正元年(1573年)完成初陣。 天正三年(1575年)的長篠之戰中以大將身份參戰,之後在與武田氏的戰役中獲得軍功受到注目。特別在天正五年(1577年)8月,遠江橫須賀之戰中的退卻戰中擔任殿軍,令武田軍不能越過大井川,率領岡崎眾輔助家康。 天正七年(1579年)8月3日,家康到訪岡崎城,翌日信康離開岡崎城並被移至大濱城。之後信康被移至遠江的堀江城、二俁城,在9月15日被家康命令切腹,年21歲。 信康切腹的事件在『三河物語』中有詳細的記述。根據此書記載,信長的女兒德姬和跟今川氏有關係的築山殿不和,與信康的關係都相當差,天正七年(1579年),德姬向父親信長寫了12項事情的信書,並拜託德川家重臣酒井忠次作為使者送信給信長。信中包括了自己與信康不和及築山殿與武田勝賴內通的事情。信長質問使者忠次,忠次完全沒有庇護信康並確認書信所寫的是事實。結果,信長要求家康讓信康切腹。 在德川家中反對把信康處死的人有很多,甚至有家臣主張破棄與信長的同盟關係。信康的傅役平岩親吉想負上責任,要求把自己的首級送給信長。但是家康判斷形勢後,認為這些小手段不能平息信長的怒火,於是決定處決信康。8月29日,首先是築山殿被護送前往二俁城(守將是大久保忠世)途中,在佐鳴湖湖畔被德川家家臣岡本時仲和野中重政殺死。之後的9月15日,事件發生以來一直被幽禁在二俁城的信康被命令切腹。介錯是服部正成,但是正成無法向信康揮刀,最後由負責檢死的天方道綱介錯。 關於切腹的原由有諸多說法,包括父子不和、家中派系鬥爭、與家臣團對立等。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%BA%B7
渡邊守綱 Watanabe Moritsuna(1542年-1620年) 渡邊高綱之子、母為同族渡邊義綱之女、妻為平岩親吉之妹;通稱忠右衛門、渾名「槍半藏」,與「鬼半藏」之稱的服部正成並稱。 三河渡邊氏自稱為渡邊綱的後裔,是渡邊綱的孫兒源正(源次正、小源次正、源公賴)流。根據系譜是仕於足利將軍家的直臣,後來移住到三河國,渡邊氏代代仕於松平氏並立下功績。 守綱出仕同年出生的松平家康(德川家康),與族人都為一向宗(本願寺)門徒;永祿六年(1563年)三河一向一揆時,因信仰出走與家康對立,多數族人戰死。戰事平定後,生還的守綱被允許再仕於家康。 姊川之戰、三方原之戰、長篠之戰和小牧長久手之戰,都以旗本和足輕組頭身份出戰,擔任先鋒隊;在長篠之戰,討死山本勘藏(山本勘助長子)。 天正十八年(1590年)德川家康移往關東地區,被給予武藏國比企郡3000石。在關原之戰時,因為長年功績再賜予1000石,騎馬同心30人、足輕隊1000人也一齊給賞6000石。 慶長十三年(1613年)成為德川家康九子.德川義直的家老,受予武藏國4000石、尾張岩作5000石、三河寺部5000石,共1萬4000石並再加一座居城寺部城。 慶長十九年(1614年)的大阪冬之陣和翌年的大阪夏之陣都有出戰。元和二年(1616年)德川家康死後,回到領國尾張,並擔任德川義直補佐。 元和六年(1620年)於名古屋死去,年七十九歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%B9%E5%AE%88%E7%BA%B2
滝川雄利 Takigawa Katsutoshi(1543年-1610年) 『星合系図』によると伊勢北畠家の傍流木造氏の一族といわれ、父は木造俊茂という。また、木造具康(兄弟説もある)の三男、家臣の柘植三郎兵衛に嫁いだ具康の娘の子・木造具政の三男という説もあり、定かではない。母は木造俊茂の娘との説がある。 天文12年(1543年)、誕生。はじめは源浄院主玄と名乗り、僧として木造氏に仕えた。永禄12年(1569年)、織田信長の北畠家攻略戦の時に、信長の家臣滝川一益にその才能を見出されて、柘植保重と共に当主・木造具政を説得し寝返らせ、織田軍の勝利に貢献した。この時、還俗して一益の娘婿として迎えられ、滝川姓となる(この当時の諱は別名として伝わる一盛(かずもり)、雅利(まさとし)のいずれかであったと思われる)。信長の命により、北畠家に養子入りした北畠具豊(のち信意、織田信雄に改名)の付家老となる。 天正4年(1576年)11月25日、雄利は長野左京亮・軽野左京進と共に軍勢を率い、北畠具教の居城・三瀬御所を密かに包囲。具教の近習を寝返らせて、太刀を抜けないように細工して、具教を討ち果たした(三瀬の変)。 天正6年(1578年)、信意の命によって伊賀国丸山城を修繕するが伊賀国の豪族達の奇襲に遭い伊勢国へ敗走した。天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱の際には伊賀豪族を調略して結束力を弱め、勝利に貢献し、信意は雄利を伊賀国守護に任命した(『諸国廃城考』)。雄利は大寺院、丸山城、滝川氏城を改修、平楽寺の跡に後の伊賀上野城となる砦を築き伊賀国を支配した。翌天正10年(1582年)、本能寺の変後に北畠具親が一揆を起こした際は、これを鎮圧し、「大剛之者也」と評価されている(『勢州兵乱記』)。同年、主君・信意が「信勝」に改名したのに伴い、その偏諱を与えられて勝雅(かつまさ)と改名、さらに信勝が「信雄」に改名すると重ねて偏諱の授与を受けて雄利(または雄親(かつちか))と改名した。 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、はじめ羽柴秀吉の内応勧誘を断って日置大膳亮、服部正成と共に伊勢国松ヶ島城に籠城したが、主君・信雄が和睦を決意すると岳父の一益を通じて秀吉に接近、信雄に単独講和をさせた。その後、秀吉側の講和の使者として、徳川家康の元へ派遣された。 戦後は羽柴姓を賜り、以後、北伊勢の運営を任され、天正13年(1585年)の『織田信雄分限帳』では3万8370貫という信雄家中では異例の高禄を与えられている。 その後は九州征伐や小田原征伐に参加した。九州征伐では、戦後に石田三成・長束正家・小西行長らとともに荒廃した博多の復興事業を奉行として命じられている。小田原征伐では北条氏直の訪問を受けて、その降伏を仲介している(『天正記』)。信雄改易後もそのまま領国を安堵、伊勢神戸城2万石を領した。秀吉の天下統一後は御伽衆の一人となる。文禄の役では肥前名護屋に参陣した。文禄3年(1594年)には7000石、文禄4年(1595年)には、さらに5000石を加増されている。同年、秀次事件にも連座しているが、叱責されただけで特に処罰は受けずに済んでいる。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、軍勢400名で関ヶ原・伊勢口の防備にあたった後、居城・神戸城に籠城した。このため戦後に改易され再び出家した。後に徳川家康に召し出されて再び滝川姓を名乗り、常陸片野2万石の所領を与えられ、家康の御伽衆の一人となった。 慶長10年(1605年)、この年に亡くなった娘を悼み京都金戒光明寺に塔頭・龍光院を建立した 慶長15年(1610年)、死去。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E9%9B%84%E5%88%A9

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