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三百八十五位人物:高島正重、佐伯惟教、山上照久、穗井田元清、阿蘇惟光、織田秀信、正木為春、大關高增、鵜殿長照、那須資胤、織田信孝、西園寺實充、長野具藤、奧平貞能、尼子勝久、上杉景虎、天野隆重、北畠晴具、朝比奈泰能、京極高吉、德川秀忠、上條政繁、山村良候、林秀貞、高森惟直、畠山義隆、北畠具房、田尻鑑種、一色義幸、土居清良、平岡房實、小梁川宗秀、岩成友通、武田信豐、德永壽昌、本願寺教如、高梨政賴、片桐且元、朝倉景紀、赤松則房、小島職鎮、橫瀨成繁、浦上宗景、佐世元嘉、木造具政、成田長泰、益田藤兼、福原資保、宮部繼潤、三雲成持、小野崎從通、大田原資清、志道廣良、真田幸昌、豐臣秀賴、伊達實元、內ヶ島氏理、淺利勝賴、安東茂季、寒川元鄰、杉重良、桑名吉成、斯波義銀、織田信勝、泉田胤清、百地三太夫、畠山義慶、有馬義貞、豬俁邦憲、加藤嘉明、稻富祐直、平野長泰、波多野宗高、淺井久政、國分盛顯、兒玉就忠、山口重政、石川康長、那須資景、赤星統家、赤松晴政、京極高次、斯波詮直、山崎片家、最上義時、相良賴房、松本氏輔、柴田勝豐、戶澤政盛、藤方安正、脇坂安治、原田信種、小寺政職、豬苗代盛國、岡家利、蒲生秀行、鳥屋尾滿榮、吉弘鎮信、村井貞勝、一迫隆真、蘆名盛興、小野寺輝道、神代勝利、篠原長房、島津豐久、矢澤賴康、村上通康、阿蘇惟種、阿蘇惟將、阿蘇惟豐、阿閉貞征、安芸國虎、安見直政、安宅冬康、安田顯元、安田能元、朝倉景隆、安富純治、安富純泰、伊集院忠倉、伊集院忠棟、伊集院忠朗、伊達盛重、伊東義益、伊東祐慶、伊東祐兵、伊奈忠次、井伊直孝、磯野員昌、一栗放牛、一色義清、一色義道、一色藤長、稻葉貞通、宇喜多忠家、宇山久兼、芳賀高武、羽床資載、臼杵鑑續、延原景能、延澤滿延、遠山景任、鹽屋秋貞、奧平信昌、岡部長盛、岡本賴氏、屋代景賴、屋代勝永、屋代政國、溫井景隆、溫井總貞、下間仲孝、下間賴龍、糟屋武則、河尻秀長、河尻秀隆、河田長親、河東田清重、河野通宣、河野通直、河野通直、花房職秀、花房正幸、花房正成、皆川廣照、垣屋光成、垣屋續成、角隈石宗、葛山氏元、葛西俊信、葛西親信、葛西晴胤、樺山久高、蒲生賢秀、蒲池鑑盛、肝付兼護、肝付良兼、關一政、關盛信、岩上朝堅、岩清水義教、岩清水義長、願証寺証惠、吉見廣賴、吉見正賴、吉川經安、吉川經家、吉田孝賴、吉田康俊、吉田重俊、吉田重政、吉良親實、津輕信枚、久能宗能、久武親信、久武親直、宮城政業、朽木元綱、魚住景固、近藤義武、金子元宅、金上盛備、九戶康真、九戶實親、九戶信仲、九戶政實、窪川俊光、窪田經忠、熊谷元直、熊谷信直、隈部親永、結城政勝、兼平綱則、犬甘久知、犬童賴兄、原胤榮、原胤貞、原長賴、原田宗時、古田重然、戶川秀安、戶川達安、戶澤政重、戶澤盛重、戶澤道盛、戶田勝成、後藤高治、後藤勝元、後藤信康、御子神吉明、御宿政友、公文重忠、弘中隆兼、江井胤治、江上武種、江村親家、江馬輝盛、江馬時盛、江里口信常、溝尾茂朝、甲斐親英、荒木氏綱、香川之景、高橋鑑種、高原次利、高山友照、高城胤則、高城胤辰、高梨秀政、高梨賴親、國司元相、國分盛氏、黑岩種直、黑川晴氏、佐久間安政、佐久間勝政、佐久間盛政、佐竹義久、佐竹義憲、佐竹義斯、佐竹貞隆、佐田鎮綱、佐田隆居、佐波隆秀、佐野宗綱、佐野房綱、最上家親、最上義守、妻木廣忠、齋藤龍興、細野藤敦、鮭延秀綱、三好義興、豐臣秀次、三好政康、三好政勝、十河存保、三好長逸、三村家親、三村元親、三村親成、三澤為清、三木國綱、山崎家盛、山崎長德、山田宗昌、山田有榮、山田有信、山內一豐、山名豐定、山名祐豐、四釜隆秀、市川經好、志賀親次、志賀親守、志賀親度、志村光安、斯波義冬、斯波經詮、斯波長秀、氏家吉繼、氏家守棟、寺崎盛永、寺澤廣高、寺島職定、筒井順國、筒井定次、七里賴周、執行種兼、車斯忠、種子島惠時、種子島時堯、酒井忠勝、酒井敏房、秋月種實、秋月文種、三好義繼、楯岡滿茂、小笠原信淨、小笠原成助、小笠原長雄、小笠原貞慶、小貫賴久、小山高朝、小山秀綱、小田氏治、小田守治、小田政光、小田友治、小幡憲重、小峰義親、小野木重次、松浦鎮信、松永久通、內藤忠俊、松倉重信、松平信康、松平忠輝、松平忠吉、松野重元、沼田顯泰、沼田祐光、上村賴興、上田憲定、城井長房、城井鎮房、城親基、城親冬、植田光次、織田信光、織田信澄、織田信包、色部顯長、色部長實、新井田隆景、新關久正、新發田綱貞、新發田重家、森岡信元、森下通與、森好之、森長可、森田淨雲、真柄直隆、神戶具盛、神保長城、神保長職、仁保隆慰、壬生義雄、壬生綱房、壬生綱雄、須田長義、須田滿親、水越勝重、水谷胤重、水谷正村、杉原盛重、菅沼定盈、菅谷政貞、成松信勝、成澤光氏、正木憲時、生駒親正、西園寺公廣、青景隆著
三百六十位人物:北条氏直、足利晴氏、松平秀康、岡吉正、一栗高春、北条景広、富田隆実、木下昌直、岡部元信、円城寺信胤、遠藤直経、岡本禅哲、安倍元真、大宝寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫広門、春日元忠、戸蒔義広、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣、高島正重、佐伯惟教、山上照久、毛利元清、阿蘇惟光、織田秀信、正木為春、大関高増、鵜殿長照、那須資胤、織田信孝、西園寺実充、北畠具藤、奥平貞能、尼子勝久、北条氏秀、天野隆重、北畠晴具、朝比奈泰能、京極高吉、松平秀忠、畠山政繁、山村良候、林秀貞、高森惟直、畠山義隆、北畠具房、田尻鑑種、一色義幸、土居清良、平岡房実、小梁川宗秀、石成友通、武田信豊、徳永寿昌、本願寺教如、高梨政頼、片桐且元、朝倉景紀、赤松則房、小島職鎮、横瀬成繁、浦上宗景、佐世元嘉、木造具政、成田長泰、益田藤兼、福原資保、宮部継潤、三雲成持、小野崎従通、大田原資清、志道広良、真田幸昌、木下秀頼、伊達実元、内ヶ島氏理、浅利勝頼、安東茂季、寒川元隣、杉重良、桑名吉成、斯波義銀、織田信勝、泉田胤清、百地三太夫、畠山義慶、有馬義貞、猪俣邦憲、加藤嘉明、稲富祐直、平野長泰、波多野宗高、浅井久政、国分盛顕、児玉就忠、山口重政、石川康長、那須資景、赤星統家、赤松晴政、京極高次、斯波詮直、山崎片家、最上義時、相良頼房、松本氏輔、柴田勝豊、戸沢政盛、藤方安正、脇坂安治、原田信種、小寺政職、猪苗代盛国、岡家利、蒲生秀行、鳥屋尾満栄、吉弘鎮信、村井貞勝、一迫隆真、蘆名盛興、小野寺輝道、神代勝利、篠原長房、島津豊久、矢沢頼康、来島通康、阿蘇惟種、阿蘇惟将、阿蘇惟豊、阿閉貞征、安芸国虎、安見直政、安宅冬康、安田顕元、安田能元、朝倉景隆、安富純治、安富純泰、伊集院忠倉、伊集院忠棟、伊集院忠朗、伊達盛重、伊東義益、伊東祐慶、伊東祐兵、伊奈忠次、井伊直孝、磯野員昌、一栗放牛、一色義清、一色義道、一色藤長、稲葉貞通、宇喜多忠家、宇山久兼、宇都宮高武、羽床資載、臼杵鑑続、延原景能、延沢満延、遠山景任、塩屋秋貞、奥平信昌、岡部長盛、岡本頼氏、屋代景頼、屋代勝永、屋代政国、温井景隆、温井総貞、下間仲孝、下間頼竜、加須屋真雄、河尻秀長、河尻秀隆、河田長親、河東田清重、河野通宣、河野通直、河野通直、花房職秀、花房正幸、花房正成、皆川広照、垣屋光成、垣屋続成、角隈石宗、葛山氏元、葛西俊信、葛西親信、葛西晴胤、樺山久高、蒲生賢秀、蒲池鑑盛、肝付兼護、肝付良兼、関一政、関盛信、岩上朝堅、岩清水義教、岩清水義長、願証寺証恵、吉見広頼、吉見正頼、吉川経安、吉川経家、吉田孝頼、吉田康俊、吉田重俊、吉田重政、吉良親実、久慈信枚、久能宗能、久武親信、久武親直、宮城政業、朽木元綱、魚住景固、近藤義武、金子元宅、金上盛備、九戸康真、九戸実親、九戸信仲、九戸政実、窪川俊光、窪田経忠、熊谷元直、熊谷信直、隈部親永、結城政勝、兼平綱則、犬甘久知、犬童頼兄、原胤栄、原胤貞、原長頼、原田宗時、古田重然、戸川秀安、戸川達安、戸沢政重、戸沢盛重、戸沢道盛、戸田勝成、後藤高治、後藤勝元、後藤信康、御子神吉明、御宿政友、公文重忠、弘中隆兼、江井胤治、江上武種、江村親家、江馬輝盛、江馬時盛、江里口信常、溝尾茂朝、甲斐親英、荒木氏綱、香川之景、高橋鑑種、高原次利、高山友照、高城胤則、高城胤辰、高梨秀政、高梨頼親、国司元相、国分盛氏、黒岩種直、黒川晴氏、佐久間安政、佐久間勝政、佐久間盛政、佐竹義久、佐竹義憲、佐竹義斯、佐竹貞隆、佐田鎮綱、佐田隆居、佐波隆秀、佐野宗綱、佐野房綱、最上家親、最上義守、妻木広忠、斎藤龍興、細野藤敦、鮭延秀綱、三好義興、三好秀次、三好政康、三好政勝、三好存保、三好長逸、三村家親、三村元親、三村親成、三沢為清、三木国綱、山崎家盛、山崎長徳、山田宗昌、山田有栄、山田有信、山内一豊、山名豊定、山名祐豊、四釜隆秀、市川経好、志賀親次、志賀親守、志賀親度、志村光安、斯波義冬、斯波経詮、斯波長秀、氏家吉継、氏家守棟、寺崎盛永、寺沢広高、寺島職定、慈明寺順国、慈明寺定次、七里頼周、執行種兼、車斯忠、種子島恵時、種子島時堯、酒井忠勝、酒井敏房、秋月種実、秋月文種、十河義継、楯岡満茂、小笠原信浄、小笠原成助、小笠原長雄、小笠原貞慶、小貫頼久、小山高朝、小山秀綱、小田氏治、小田守治、小田政光、小田友治、小幡憲重、小峰義親、小野木重次、松浦鎮信、松永久通、松永忠俊
三百位人物:三好清海、三好伊三、肝付良兼、由利鎌之助、肝付兼亮、肝付兼護、穴山小助、島津豊久、伊集院忠倉、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎、山浦国清、高梨政頼、屋代政国、屋代勝永、須田満親、須田長義、蘆田信蕃、小笠原長時、小笠原秀政、犬甘政徳、犬甘久知、二木重吉、溝口貞泰、木曾義利、諏訪頼忠、保科正俊、三木顕綱、三木国綱、長尾晴景、上杉景信、色部勝長、色部顕長、色部長実、河田長親、北条景広、本庄慶秀、安田能元、甘粕景継、鬼小島弥太郎、水原親憲
有馬晴信 Arima Harunobu(1567年-1612年) 有馬義貞的次子、母為安富德圓之妹、正室為有馬義純或大村純忠之女・ルチア、繼室為山田純規之女・大上、中山親綱之女・ジュスタ;通稱十郎、受大友義鎮偏諱「鎮」字,初名名為鎮純,後改名為晴信,洗禮名為ドン・プロタジオ(Don Protasius)。 元龜二年(1571年),長兄義純早世,晴信繼承家督之位。此時有馬氏受到西鄉純堯、深堀純賢二兄弟的壓迫,而二兄弟的後臺則是龍造寺隆信。天正六年(1578年)晴信降服於龍造寺氏。天正十二年(1584年)晴信與島津義久聯合,在沖田畷之戰殺死隆信,穩固有馬氏。 晴信原本對基督教持反對態度,天正八年(1580年)接受范禮安神父的洗禮,取名唐.玻羅大削(Don Protasius),此後轉而支持基督教活動。天正十年(1582年),與大友義鎮(大友宗麟)、大村純忠一起派遣天正遣歐少年使節。由於出身於九州肥前國的關係,在肥前國於十六、十七世紀之交成為日本與海外交通的重要門戶之後,也擁有優於其他地區的雄厚海洋貿易實力。 天正十五年(1587年),豐臣秀吉進行九州征伐的時候,晴信與島津氏斷絕關係,投靠豐臣氏。豐臣秀吉下達禁教令後,晴信仍保護不少基督徒。 後來,晴信跟隨小西行長,先後參加兩次侵略朝鮮的戰爭。慶長五年(1600年)關原之戰中支持西軍,但晴信並沒有參戰,在得知西軍戰敗之後轉而支持東軍,並攻擊小西行長的居城宇土城,成功保住領地。 德川家康掌權之後,晴信成為島原藩第一代藩主。晴信繼續利用日本官方特許的朱印船往來台灣、呂宋、澳門、占城、交趾、暹羅等地從事船運貿易,並成為鉅富,在日本戰國時代的對外關係中,扮演重要的角色。 慶長十四年(1609年),德川家康任命晴信前往台灣探勘地形,並囑意佔領台灣港口,以建立對明貿易的據點。該次行動雖頗為順利,也俘擄台灣原住民數人回日本,不過也在侵掠過程中,與西班牙及葡萄牙在台勢力產生衝突。 翌年,晴信挾怨焚燬葡萄牙停泊於日本的船隻,是為慈悲聖母號事件。晴信試圖以此向幕府邀功,並向老中本多正純的家臣岡本大八行賄,希望恢復有馬氏之前的藤津、杵島、彼杵三郡(這三郡當時已歸鍋島氏所領)。此事被德川家康知道後,將岡本大八處以火刑,晴信流放甲斐國初鹿野(岡本大八事件)。 後來由於晴信是吉利支丹(基督徒)、並且庇護天主教教徒等事被揭發,慶長十七年(1612年)德川家康令其自殺。晴信由於是基督徒,不能自殺,遂令家臣殺死自己,年46歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%99%B4%E4%BF%A1
有馬義貞 Arima Yoshisada(1521年-1577年) 天文21年(1552年)、父・晴純から肥前有馬氏の家督を譲られると同時に室町幕府の相伴衆ともなった。しかし、キリスト教に対する姿勢の違いから来る父との確執や、隣国の大友宗麟や龍造寺隆信の圧迫、父の時代には服従していた西郷氏の西郷純堯(義貞の義兄)などの台頭を受けて次第に勢力を失い、高来郡一郡を支配する小勢力にまで転落した。 一方で南蛮貿易で大きな利益を築き上げた。義貞は父の晴純から、大村純忠のように、ポルトガル船との交易の為にキリシタンになるよう奨励されていた。宣教師アルメイダの記録によれば、1568年、教会から岬へ向かい、「償いの行列」を行っているキリシタンの集団を見て、義貞は強い感銘を受けたという。義貞はキリスト教に興味を抱いたが、自分の政治的地位や命の危険などから逡巡もしていた。1573年には、大村純忠に、命の危険があるから棄教した方が良いと推奨している。 入信を延期していた義貞だが、天正3年(1576年)4月15日、カブラル神父の洗礼を受け、キリシタンとなった。洗礼名は「アンドレス(安天烈)」であった。家臣団の中にも義貞の影響を受けてキリシタンになった者が多かったといわれている。ルイス・フロイスは「詩歌に造詣深く、書道に巧みで、為政者としては老練慎重かつ賢明である」と『フロイス日本史』に記している。 元亀元年(1570年)に嫡男の義純に家督を譲ったが、翌元亀2年(1571年)に義純が急死したため、次男の鎮純(晴信)を当主とした。 天正4年(1577年)、死去。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E7%BE%A9%E8%B2%9E
西郷純堯 Saigo Sumitaka(生年不詳-没年不詳) 西郷氏は菊池氏の一族とされ、戦国時代の頃には、有馬氏配下として肥前の伊佐早荘(現在の諫早市及び北高来郡)に勢力を持ち、有馬氏の東肥前に対する前線を守っていた。有馬氏が衰退し龍造寺氏の勢力が増すと有馬氏から離反し、龍造寺氏へ従うようになる。 永禄5年(1562年)、純堯は有馬義貞に従い、龍造寺隆信を討つため肥前佐嘉城攻略を目指す大友宗麟方として行動する。義貞は軍を二手に分け、一方を大村純忠に率いらせ須古へ、もう一方を純堯に指揮させ多久から小城に進出させた。小城を突こうと丹坂口に向かった純堯は千葉胤連勢と交戦したが、隆信からの援軍もあり激戦となった。有馬勢は数の上では優勢であったが次第に押され始め、ついには潰走し大敗を喫した。純堯は戦線を離脱し、多久を経て藤津へ逃れようとしたが、武雄の後藤貴明が龍造寺方に転じたため、有田へ出て平戸の松浦隆信の支援によって居城へ帰還することができた。 翌6年(1563年)、純堯は有馬氏から離反し後藤貴明、松浦隆信と盟約を結び、大村純忠を攻めようとした。これに対して有馬義貞は純堯を討つため、埋津まで攻め込んだ。純堯は多くの犠牲を払いながら有馬勢を撃退した。以後、純堯は有馬氏との抗争を繰り返すこととなる。元亀3年(1572年)7月、大村純忠の三城城を攻める後藤貴明の要請に応じて出兵する(三城七騎籠)。天正2年(1574年)には、大村領の萱瀬へ攻め込み、天正8年(1580年)には弟である深堀純賢と共に鶴城を攻めるが、大村勢の反撃を受け撤退する。 なお、『歴代鎮西要略』によると、天正5年(1577年)、6月下旬、龍造寺隆信が伊佐早侵攻のため出陣してくることを知った純堯は、有馬氏に救援を求めたが、神代氏や島原氏、安富氏が龍造寺方に付いたため、有馬氏は純堯に援軍を出すことを断念した。純堯は自軍のみで龍造寺勢を迎撃することとなったが、龍造寺勢に宇木城を初め多くの支城を攻略される中、兄より先に龍造寺氏に従属していた深堀純賢が調停に入り純堯の降伏が許された。降伏によって、純堯の嫡男・純尚は隆信から偏諱を受け信尚と改めた。純堯は隠居し、ほどなく死去したとされる。これ以後、西郷氏は有馬氏から完全に離反した。 純堯は、有馬義貞や同盟関係にあった大村純忠がキリシタン大名となると離反し、後藤貴明や松浦氏と同盟を結び大村・長崎へ侵攻した。元亀3年(1572年)、深堀純賢と図り、純堯は大村純忠を、純賢は長崎氏を攻撃した。純賢勢は長崎氏領の館や教会を焼きはらったが、武士や百姓の激しい抵抗を受け撤兵した。一方、純堯勢も大村純忠が戦死したとの噂が立つほどに攻め立てるも、純忠の反撃を受け撤退している。 ルイス・フロイスの『日本史』によると、フロイスに「伊佐早殿」と称される純堯は「有馬義貞を家来同然に扱い」、キリスト教へ入信しようとした義貞は純堯を憚り入信を逡巡するほどであった。そのためフロイスは、純堯について「詭計、策略、欺瞞の点では、下の殿たちの第一人者であった」と、厳しい評価を下している。 熱心な仏教徒である純堯は、キリシタンとなった大村純忠を予てから苦々しく思っていた。大村攻めが思うようにいかないことに苛立った純堯は、計略を用いて純忠を殺害し、大村領を併呑しようとした。 天正元年(1573年)、純堯は純忠の実兄である有馬義貞に、純忠を誘殺するため、小浜へ呼び帰途に諌早城に立ち寄らせるよう要請した。謀を知った義貞は純堯の謀略を純忠へ知らせた。義貞は、純堯の純忠に対する憎悪の主な原因はキリスト教へ入信したことであり、棄教すれば純堯との敵対関係も解消されると忠告した。これに対して純忠は、領国や家臣及び、生命を失っても棄教はしないと返答した。純堯は、義貞を訪ねる純忠が城下を通る際、自分へ訪問を行うものと確信して純忠が来るのを待っていたが、純堯の謀略を聞いていた純忠は、急な病のため此度は訪問できないと伝え、城下を馬で疾駆し、純堯の謀略から逃れた。純堯はその後も、純賢と共に幾度も大村・長崎氏へ攻撃を加えたが、その都度、純忠や長崎純景によって退けられた。 天正8年(1580年)も、大村・長崎勢に西郷勢は敗れた。この際、深堀純賢勢400は森崎に砦を構え迎撃したが、純景が自ら300の兵を指揮し桜馬場城から森崎に向かい、純忠の援軍も加わったため純賢の兵は破られた。以後、森崎の小山は勝山と呼ばれるようになり、これが、今日の長崎市勝山町の起源となっている。   出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E7%B4%94%E5%A0%AF
龍造寺政家 Ryuzoji Masaie(1556年-1607年) 龍造寺隆信的長子、母為龍造寺家門之女、正室為有馬義貞之女;幼名長法師丸,通稱太郎四郎,受大友義鎮偏諱「鎮」字,初名為鎮賢,最終改名為政家,戒名龍洞院殿大雲宗長大居士。 永祿四年(1561年)元服,受鄰近的強大勢力大友義鎮(大友宗麟)下賜偏諱「鎮」字,而改名為鎮賢(『系圖纂要』)。後來改名為久家、政家。 天正六年(1578年),被父親隆信讓予家督,不過只是形式上繼承家督,政治、軍事的實權仍然由隆信掌握。天正十二年(1584年),有馬晴信背叛龍造寺氏,於是被隆信命令討伐有馬氏,不過因為妻子是有馬氏一族而相當消極,因此隆信親自前往討伐有馬,而在此時政家負責留守,在這次進攻有馬的結果,隆信在沖田畷之戰中戰死。 父親隆信死後,雖然名實上都繼承龍造寺氏,不過因為本來病弱,加上欠缺作為戰國大名的才能,於是國政的實權被義理上的叔父兼重臣鍋島直茂掌握。而且面對因為隆信死去而乘勢進攻的島津氏侵攻,無計可施下向島津氏投降。 天正十五年(1587年),有交誼的豐臣秀吉成功平定九州,此時成功保有肥前7郡32萬石(『系圖纂要』)。天正十六年(1588年),被下賜羽柴和豐臣姓。 不過在天正十五年(1590年)3月,因為豐臣秀吉的命令而把家督讓予嫡男高房並隱居,國政的實權正式被移讓給鍋島直茂。 慶長十二年(1607年),發生嫡男高房殺死妻子(鍋島直茂養女)並自殺未遂的事件,最終高房再度自殺而死去。 同年,政家死去,作為大名的龍造寺宗家斷絕。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E9%80%A0%E5%AF%BA%E6%94%BF%E5%AE%B6

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