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五十位人物:相馬盛胤、小島政章、宍戶隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡邊了、田原紹忍 / 田原親賢、茂庭綱元 / 鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米穀常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顯、本城常光、江戶忠通、肝付兼続、中條藤資、南部晴政....
三百位人物:三好清海、三好伊三、肝付良兼、由利鎌之助、肝付兼亮、肝付兼護、穴山小助、島津豊久、伊集院忠倉、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎、山浦国清、高梨政頼、屋代政国、屋代勝永、須田満親、須田長義、蘆田信蕃、小笠原長時、小笠原秀政、犬甘政徳、犬甘久知、二木重吉、溝口貞泰、木曾義利、諏訪頼忠、保科正俊、三木顕綱、三木国綱、長尾晴景、上杉景信、色部勝長、色部顕長、色部長実、河田長親、北条景広、本庄慶秀、安田能元、甘粕景継、鬼小島弥太郎、水原親憲
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、羽柴秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、津軽為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、羽柴秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路頼綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、分部光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、、
織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豊臣秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春
千々石ミゲル Miguel Chijiwa(1569年-1633年?) 肥前有馬氏当主有馬晴純の三男であり、肥前国釜蓋城城主であった千々石直員の子として生まれる。 父は肥前有馬氏の分家を開き、千々石氏の名を用いていた。肥前有馬氏と龍造寺氏の合戦で父が死に、1577年に釜蓋城が落城すると乳母に抱かれ、戦火を免れたと伝えられている。その後は有馬晴純の次男として大村氏を継承していた伯父の大村純忠の元に身を寄せていたが、1580年にポルトガル船司令官ドン・ミゲル・ダ・ガマを代父として洗礼を受け、千々石ミゲルの洗礼名を名乗る。これを契機にして同年、有馬のセミナリヨ(イエズス会の神学校)で神学教育を受け始める。 1582年、巡察師として日本を訪れたイエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノ司祭は既にキリシタン大名であった有馬氏及び大村氏に接近し、日本での布教活動を知らしめる為にカトリック教会の本山であるローマに使節を送りたいと提案した。ヴァリニャーノは原マルティノ、伊東マンショ、中浦ジュリアン、そして大村純忠の甥でもある千々石ミゲルをセミナリヨから選び、正使として共にヨーロッパへと渡った。東洋からの信徒として教皇グレゴリウス13世と謁見し、フェリペ2世ら世俗当主からの歓迎を受けながら見聞を広めた。 1590年、日本に戻ってきた彼らは翌1591年、聚楽第で豊臣秀吉と謁見、秀吉は彼らに仕官を勧めたが、一様に神学の道を志してそれを断った。司祭叙任を受けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続け、1593年7月25日、他の3人と共にイエズス会に入会した。だが千々石は次第に神学への熱意を失ってか勉学が振るわなくなり、また元より病弱であった為に司祭教育の前提であったマカオ留学も延期を続けるなど、次第に教会と距離を取り始めていた。欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、欧州滞在時点でキリスト教への疑問を感じていた様子も見られている。 1601年、キリスト教の棄教を宣言し、イエズス会から除名処分を受ける。棄教と同時に洗礼名を捨てて千々石清左衛門と名を改め、伯父の後を継いだ従兄弟の大村喜前が大村藩を立藩すると藩士として召し出される。大村藩からは伊木力(現在の諫早市多良見地区の一部)に600石の領地を与えられる。 千々石は棄教を検討していた大村喜前の前で公然と「日本におけるキリスト教布教は異国の侵入を目的としたものである」と述べ、主君の棄教を後押ししている。また藩士としても大村領内での布教を求めたドミニコ会の提案を却下し、更に領民に「修道士はイベリア半島では尊敬されていない」と伝道を信じない様に諭したという。イエズス会の日本管区区長に推挙された原マルティノやマカオへ派遣された伊東マンショと中浦ジュリアンらが教会への忠誠を続ける中、共に欧州でキリスト教の本山を見聞きして来た千々石が反キリストに転じた事は宣教師達の威信を失わせた。 こうした出来事は後に日蓮宗への改宗を迫った加藤清正と並んで大村喜前の棄教とキリシタン弾圧の後押しとなったとする論もある。一方、自身も喜前と(原因は定かでないが)不仲となり、藩政からは遠ざけられた。加えて本家筋として肥前有馬氏を継いでいたもう一人の従兄弟で、やはりキリシタン大名であった有馬晴信の遺臣による暗殺未遂が起きるなど親キリシタン派からも裏切り者として命を狙われた。晩年については現在も謎に包まれているが、2003年に自らの領地であった伊木力で子息の千々石玄蕃による墓所と思われる石碑が発見されており、領内で隠棲したものと考えられる。 伊木力の伝承では、大村喜前に対する恨みを弔うため、伊木力から大村藩の方を睨むようにして葬られたという。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E3%80%85%E7%9F%B3%E3%83%9F%E3%82%B2%E3%83%AB
平井経治 Hirai Tsuneharu(生年不詳-没年不詳) 肥前平井氏は武藤氏の支流で、肥前有馬氏の有馬晴純はその当主である経治に娘を娶せて婿とし、杵島郡の数千町を与えてその境を守らせていた。天文10年(1541年)、このとき多久宗時が少弐冬尚から有馬晴純へ寝返ったのであるが、これに気を良くした晴純が千葉喜胤、更に少弐氏・龍造寺氏を攻め滅ぼそうと派兵した際に、経治はその先陣を務めている(但しこのときは、東西に分裂していた千葉氏が協調体制を布いたため、戦乱前に有馬勢が退いている)。 永禄5年(1562年)大友氏が有馬氏へ、先年に龍造寺隆信により滅ぼされた少弐氏を再興するための協力を打診する。有馬晴純は承諾し隆信討伐の軍を起こしたが、龍造寺勢に迎え撃たれたばかりか逆に隆信が攻め込んできたため、有馬勢は経治と塚崎城の後藤貴明に助勢を請うている。またこのとき、龍造寺勢に居城を落とされた多久宗利が経治を頼っているが、隆信は今度は経治を攻めるべく納富信景・鍋島信昌(後の鍋島直茂)に2,000の兵を与えて進軍させた。経治は居城の須古城(高城、高岳城とも)より出陣してこれを迎え討ち、散々に打ち負かした上に追い打ちを掛けている。翌永禄6年(1563年)8月、後藤貴明が経治の領地へ進軍してきた際も、経治はこれを返り討ちにした。 しかし、翌永禄7年(1564年)2月、龍造寺隆信が経治への再戦を挑んで進軍してきた際は、迎え撃つも押されて城へ退却せざるを得なくなった。但し、須古城は堅城であり、城攻めの難儀を悟った隆信が和睦を打診、経治もこれに応じると、経治の弟の平井直秀に隆信の養女(龍造寺信純の娘)を娶せ、須古城の大溝や土手を崩すことを約束して和睦が成立した。 天正2年(1574年)、隆信は経治が尚も異心を抱いているとして、7月に経治討伐に動いた。経治は弟の直秀と共に打って出て数日凌いだが、徐々に押され須古城へと退散する。鍋島信昌は堅城である須古城を落とすべく、直秀を説き伏せて平井家臣の殆どを龍造寺方に寝返らせる。やむなく経治は藤津郡の吉田へと落ち延びたが、10月になるとすぐさま叔父の新宗吟と共に直秀を攻め滅ぼして、須古城への復帰を果たした。これを聞いた隆信は、翌月には経治討伐の軍を出す。合戦は一月余り続いたが経治は敗れ、須古城も落城した。 軍記物である『肥陽軍記』は、このとき経治は切腹して果てたとも、城を落ち延びる際に流れ矢に当たって死んだともしているが、『九州治乱記』ではこれを全て誤りとした上で、経治は切腹しようとしたが家臣に止められ、城を落ち延びると後藤貴明を頼り、その二年後に上ノ城(上戸城とも)に入ったとしている。但し、以後の消息は詳らかに無い。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E7%B5%8C%E6%B2%BB
有馬晴純 Arima Haruzumi(1483年-1566年) 有馬尚鑑(有馬純鑑)之子、正室為大村純伊之女;受足利義晴偏諱「晴」字,名為晴純、別名賢純・義純・義統、號仙岩・南明軒 肥前有馬氏在晴純祖父有馬貴純這一代大舉成長、擴大勢力,統治以高來郡為中心的島原半島一帶,並擁有獨占貿易,創造了有馬家的全盛期。而有馬家也因此獲得室町幕府將軍足利義晴的認同,天文八年(1539年)晴純拜領將軍義晴的偏諱「晴」字,獲封修理大夫,而有馬家也獻上刀、馬及黃金等做為答謝。 天文十五年(1546年)攻下龍造寺家兼的居城水江城,但2個月後被家兼奪回。之後晴純將次男純忠送往大村氏做為養子,接連把三男直員、四男盛分別送到千千石氏及松浦氏(相神浦松浦家)當養子,為的是強化在肥前的支配力。 天文十九年(1550年)隨著葡萄牙商船的到來,為有馬家帶來南蠻貿易的利益的同時,傳教也是其目的之一,但受到討厭基督教的晴純強力的鎮壓。 天文二十一年(1552年)將家督讓與嫡男義貞後,過著悠閒自在的隱居生活。但這時也面臨大友宗麟和龍造寺隆信對肥前的侵略,直到晴純去世左右,有馬氏的勢力大幅衰退。 永祿九年(1566年)去世,年八十四歲。 作者 秋霜烈日 譯文出處 https://sepkalily41.blogspot.com/2018/07/blog-post_15.html 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%99%B4%E7%B4%94
松浦隆信 Matsura Takanobu(1529年-1599年) 松浦氏の分家の一つである平戸松浦氏の生まれで、松浦党には総領はおらず、上松浦党の波多氏と下松浦党の松浦氏(平戸松浦氏及び佐世保の相神浦松浦氏)が争ってきた。父の興信の代に、大内氏との強い結びつきにより平戸松浦氏の優位が固まりつつあったが、天文10年(1541年)8月13日に興信は突然病で死去した。この時、源三郎はまだ13歳の元服前で実務に当たることができなかった。暫くは家中の混乱もあったが、籠手田安昌や波多盛、波多武などに支えられ、天文12年(1543年)になってようやく家督を継いだ。大内義隆から偏諱を受けて隆信と名乗り、肥前守に任じられた。 隆信は、普門寺の前住老甫禅師に師事し、新当流の志多信定や藤原宗卜に兵法を、伊勢貞順に礼法を学んだ。横笛の名手で、鷹狩を好んだ。 平戸には明の商人や(中国商人を庇護する)中国人の海賊(後期倭寇)が多く住んでいたが、勝尾山に邸宅を構えた海賊王に「五峯」を称した王直がおり、伝承ではこの人物がポルトガル船を水先案内して初めて平戸に来航させたと言われる。隆信はこれを主君筋にあたる大友義鎮に報告して互市の許可を得て、ポルトガル貿易(南蛮貿易)が開始された。 さらに天文19年(1550年)、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが布教を断られた鹿児島から平戸にやってきた。隆信は宣教師の同地での布教活動を許したので、1553年から1561年までの間、ポルトガル船は毎年来航するようになり、平戸は中心交易地として栄えた。隆信は鉄砲や大砲などの武器を率先して購入した。しかし宣教師を厚遇したが、隆信(=熱心な曹洞宗宗徒)自身はキリスト教には馴染まず、信者の拡大は地域に軋轢を生んだ。永禄元年(1558年)、隆信は宣教師ガスパル・ヴィレラに平戸からの退去を命じ、これに乗じた仏教徒が教会を焼討する事件が起こった。さらに永禄4年には商取引の揉め事でポルトガル人が殺傷される事件(宮ノ前事件)もあり、ポルトガル船は大村純忠の支配する横瀬浦に移ってしまった。しかし横瀬浦でも焼討があったため、永禄7年(1564年)に隆信が請うてポルトガル船の再入港を促し、教会も再建されたが、翌年にはルイス・フロイスらの周旋で自らキリシタン大名となった大村純忠の領土の福田浦にポルトガル船は去ってしまい、長崎港が本格開港されるに及んで平戸のポルトガル貿易は終焉した。 一方で、貿易による巨万の富を築き上げた隆信は、領内でも鉄砲の製造を命じ、火薬の備蓄や、鉄砲足軽の訓練に勤しんで、軍備を拡大した。その力を背景にして(衰退傾向にあった)倭寇の拠点3ヵ所の制圧し、北松浦半島を制圧した。 隆信は、有馬氏や龍造寺氏などの近隣の大名と事を構え、度々合戦をしながら、志佐氏や波多氏の一部を攻撃し、婚姻や血族を養子として入れることでを松浦党の一族をまとめようとしていた。 永禄6年(1563年)、後藤貴明は龍造寺隆信の威に屈したため、武雄後藤氏の養子に送った次男後藤惟明は、龍造寺隆信の子の後藤家信により後藤家を追われたが、松浦隆信は飯盛城を攻めて、長年対立してきた相神浦松浦家の松浦親(宗金)をついに屈服させた。和議の結果、相神浦松浦家に既に養子として入っていた有馬晴純の子の松浦盛を他家(有田氏)に追いやり、新たに平戸松浦家より隆信の子の九郎を養子として親(養父と同名、松浦丹後守九郎親)とし、宗金を隠居させたことにより、相神浦松浦家の平戸松浦家への従属を確かなものとした。 永禄11年(1568年)、嫡男の鎮信に家督を譲って隠居したが、実権はなおも握り続けたと言われる。元亀2年(1571年)、壱岐を支配下に置いた。 天正9年(1581)直谷城主の志佐純正の弟純元(純意)に娘を嫁がせ、純正の子純量を攻め滅ぼして、志佐氏を傘下に収めた。 大友家の退潮により、龍造寺隆信の勢いは肥前のみならず北九州を席捲するほどであったが、天正12年(1584年)に隆信が薩摩島津氏の支援を受けた有馬氏に敗れ戦死したため(沖田畷の戦い)、松浦家も独立を保つことができた。 天正15年(1587年)には豊臣秀吉の九州平定に参陣して所領安堵を許された。隆信は中国の文物、名器を所有していたので、翌年、初めて京に上った際には秀吉に茶讌を所望されて、千利休と3人で、それぞれの茶器を披露した。 文禄・慶長の役には当主たる息子が出征して隆信は出陣しなかったが、文禄2年(1594年)、壱岐や五島列島と朝鮮間の兵糧米の輸送の監督を秀吉に依頼され、これを果たしたので賞された。 慶長元年(1597年)、長門国大寧寺に僧安叟珠養に道号を付けてもらい、「印山」と号す。慶長4年、平戸勝尾山の自邸で没した。享年72。追称して尊勝院。 隆信は、弱小勢力に過ぎなかった平戸松浦氏を戦国大名へと躍進させて、近世への存続の道を切り抜けさせた名君であり、松浦氏の基礎を築き、息子鎮信によってその繁栄はより確かなものとなった。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E9%9A%86%E4%BF%A1
松浦隆信 Matsuura Takanobu(1529年-1599年) 松浦氏の分家の1つである平戸松浦氏の生まれで、松浦党には総領はおらず、上松浦党の波多氏と下松浦党の松浦氏(平戸松浦氏および佐世保の相神浦松浦氏)が争ってきた。父の興信の代に、大内氏との強い結びつきにより平戸松浦氏の優位が固まりつつあったが、天文10年(1541年)8月13日に興信は突然病で死去した。この時、源三郎はまだ13歳の元服前で実務に当たることができなかった。しばらくは家中の混乱もあったが、籠手田安昌や波多盛、波多武などに支えられ、1543年になってようやく家督を継いだ。大内義隆から偏諱を賜り、隆信と名乗り、肥前守に任じられた。 隆信は、普門寺の前住老甫禅師に師事し、新当流の志多信定や藤原宗卜に兵法を、伊勢貞順に礼法を学んだ。横笛の名手で、鷹狩を好んだ。 平戸城下には明の商人や(中国商人を庇護する)中国人の海賊(後期倭寇)が多く住んでいたが、勝尾山に邸宅を構えた海賊王に「五峯」を称した王直がおり、伝承ではこの人物がポルトガル船を水先案内して初めて平戸に来航させたと言われる。隆信はこれを主君筋にあたる大友義鎮に報告して互市の許可を得て、ポルトガル貿易(南蛮貿易)が開始された。 さらに天文19年(1550年)、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが布教を断られた鹿児島から平戸にやってきた。隆信は宣教師の同地での布教活動を許したので、1553~1561年までの間、ポルトガル船は毎年来航するようになり、平戸は中心交易地として栄えた。隆信は鉄砲や大砲などの武器を率先して購入した。しかし宣教師を厚遇したが、隆信(=熱心な曹洞宗宗徒)自身はキリスト教には馴染まず、信者の拡大は地域に軋轢を生んだ。永禄元年(1558年)、隆信は宣教師ガスパル・ヴィレラに平戸からの退去を命じ、これに乗じた仏教徒が教会を焼討する事件が起こった。さらに永禄4年には商取引の揉め事でポルトガル人が殺傷される事件(宮ノ前事件)もあり、ポルトガル船は大村純忠の支配する横瀬浦に移ってしまった。しかし横瀬浦でも焼討があったため、永禄7年(1564年)に隆信が請うてポルトガル船の再入港を促し、教会も再建されたが、翌年にはルイス・フロイスらの周旋で自らキリシタン大名となった大村純忠の領土の福田浦にポルトガル船は去ってしまい、長崎港が本格開港されるに及んで平戸のポルトガル貿易は終焉した。 一方で、貿易による巨万の富を築き上げた隆信は、領内でも鉄砲の製造を命じ、火薬の備蓄や、鉄砲足軽の訓練に勤しんで、軍備を拡大した。その力を背景にして(衰退傾向にあった)倭寇の拠点3ヵ所の制圧し、北松浦半島を制圧した。 隆信は、有馬氏や龍造寺氏などの近隣の大名と事を構え、度々いくさをしながら、志佐氏や波多氏の一部を攻撃し、婚姻や血族を養子として入れることでを松浦党の一族をまとめようとしていた。 永禄6年(1563年)、後藤貴明は龍造寺隆信の威に屈したため、武雄後藤氏の養子に送った次男後藤惟明は、龍造寺隆信の子の後藤家信により後藤家を追われたが、松浦隆信は飯盛城を攻めて、長年対立してきた相神浦松浦家の松浦親(宗金)をついに屈服させた。和議の結果、相神浦松浦家にすでに養子として入っていた有馬晴純の子の松浦盛が他家(有田氏)に追いやり、新たに平戸松浦家より隆信の子の九郎を養子として親(養父と同名、松浦丹後守九郎親)とし、宗金を隠居させたことにより、相神浦松浦家の平戸松浦家への従属を確かなものとした。 永禄11年(1568年)、嫡男の鎮信に家督を譲って隠居したが、実権はなおも握り続けたと言われる。元亀2年(1571年)、壱岐を支配下に置いた。 天正9年(1581)直谷城城主の志佐純正の弟志佐純元(純意)に娘を嫁がせ、純正の子純量を攻め滅ぼして、志佐氏を傘下に収めた。 大友家の退潮により、龍造寺隆信の勢いは肥前のみならず北九州を席捲するほどであったが、1584年に隆信が薩摩島津氏の支援を受けた有馬氏に敗れ戦死したため(沖田畷の戦い)、松浦家も独立を保つことができた。 天正15年(1587年)には豊臣秀吉の九州平定に参陣して所領安堵を許された。隆信は中国の文物、名器を所有していたので、翌年、初めて京に上った際には秀吉に茶讌を所望されて、千利休と3人で、それぞれの茶器を披露した。 文禄・慶長の役には当主たる息子が出征して隆信は出陣しなかったが、文禄2年(1594年)、壱岐や五島列島と朝鮮間の兵糧米の輸送の監督を秀吉に依頼され、これを果たしたので賞された。 慶長元年(1597年)、長門国大寧寺に僧安叟珠養に道号を付けてもらい、「印山」と号す。慶長4年、平戸勝尾山の自邸で没した。享年72。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E9%9A%86%E4%BF%A1_(%E9%81%93%E5%8F%AF)

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