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最上義光

下間賴廉、細川幽齋、村上義清、朝倉義景、織田信忠、成田甲斐、井伊直虎、母里友信、森長可、世良田元信、大祝鶴、望月千代女、櫛橋光、石川五右衛門、弥助、山内千代、朝倉一玄、織田信長、織田信長、豐臣秀吉、德川家康、德川家康、伊達政宗、武田信玄、真田信繁、上杉謙信、毛利元就
北信愛 Kita Nobuchika(1523年-1613年) 北致愛的長子,幼名彥太郎,法名松齋。 北致愛為三戶南部氏的一族劍吉城主,其後信愛繼承父親的封地,領劍吉城兩千五百石,並讓次子秀愛迎娶了當主南部晴政的五女。 元龜二年(1571年),南部家中發生「屋裏之變」,信愛選擇保護石川高信之子南部信直,並與南部晴政對立。後來晴政隱居,便輔佐晴政之子南部晴繼,並為晴繼戴上成年禮的烏帽子。 天正十年(1582年),晴政父子先後在同年辭世,家中因為爭奪家督一事大亂,除了南部信直之外,九戶城主九戶政實力挺娶了南部晴政之次女的弟弟九戶實親。當時因為北信愛的正室為淺水城主南長義之女,而南長義又是南部信直親父石川高信之弟,由於這層姻親關係北信愛決定擁立信直,南部氏家督之位最終也在八戶政榮和北信愛領兵百人護送信直入三戶城繼任後,確定由信直坐上南部家第二十六代家督的寶座,此後北信愛稱尾張守,全力輔佐南部家的內政與外交,做為南部氏家老活躍。身為信直的擁立者,北信愛自然想讓信直的江山安穩。 天正十五年(1587年),北信愛向信直建言與幾近掌握天下的豐臣秀吉臣服,在信直接納同意後,北信愛便出使金澤城拜訪秀吉的重臣前田利家並送上老鷹表示忠誠,透過前田利家與豐臣秀吉交涉。 天正十七年(1589年),南部信直乘安東家檜山、湊兩系紛爭再起之際命北信愛與大湯昌次攻奪比內大館城。 天正十八年(1590年),在秀吉發起小田原討伐時勸諫信直出兵參戰,終得到秀吉確保南部本領安堵的朱印狀,被承認是南部氏正統的家督,同時因為早些年的大浦為信(津輕為信)謀反而失去了津輕的領地,但是在北信愛的努力下經由前田利家從秀吉手中得到和賀、稗貫兩郡作為補償。 天正十八年(1590年)信愛的四子愛邦過世。同時長年與南部信直對立的九戶政實趁大崎、葛西的遺臣們發動一揆時於天正十九年(1591年)起事,並且引誘久慈、七戶諸氏一同背叛南部家,在信直鎮壓失敗,派出北信愛與長男利直趕往京都聚樂第,乞求豐臣秀吉派出援軍助信直平亂,北信愛更以九戶政實違反當初秀吉在征討小田原前所發佈的奧羽物無事令為由進行控訴,最後秀吉以羽柴秀次為總大將展開討伐,以九戶政實的反亂被蒲生氏鄉統領六萬大軍平靖,期間北信愛的次子秀愛也有出陣,而且之後也參與平定葛西、大崎一揆,表現豪勇。戰後,秀愛成為和賀郡鳥屋崎城代,獲得八千石領地,並自信直處拜領「直」字,改名為直愛,也把鳥屋崎城易名為花卷城,三男愛繼也獲得輕米城兩千石。九戶之亂終息後,北信愛做為南部家的重臣協佐信直治國,奠定日後南部藩的基礎。 慶長三年(1598年),直愛逝世,北信愛替代亡兒接任花卷城代,並且收妹夫櫻庭光康的四子為養子,是為北信景,而北信愛也在至花卷城赴任後開始進行本丸、二之丸、三之丸的整備與構築花卷城下町的工作,此外為了方便統治當地以收安撫民心之效北信愛招募起用已沒落的名門斯波遺族雫石久詮及豬去久道為家臣。 慶長四年(1599年),南部信直死後,信愛剃髮自號松齋,獲得許可隱居,讓信景繼承北家。慶長五年(1600年),德川家康與石田三成引爆關原之戰,遠在東北的南部家亦被波及,花卷城周邊騷亂再起。南部家選擇投向東國有強大實力的德川家,當時同樣為東軍效力的最上義光因與上杉軍的交鋒陷入苦戰,為了救援最上,北信愛與藩主利直一同領兵救援山形城,就在南部軍主力盡出之刻,早對南部領土有覬覦之心的巖出山城主伊達政宗煽動和賀、稗貫二郡的舊領主和賀義忠和稗貫家法帶領一揆勢力包圍花卷城,由於防守薄弱三之丸被一揆軍攻下,已半失明的北信愛迅速回軍與信景合兵,以老邁之身奮力死守,因為兵力不足,北信愛將農民和町民、甚至將女官也投入戰鬥,而年輕力壯的北信景則親率五十精兵以拿手的弓箭、槍砲之術遊擊叛軍。 翌年,南部利直在上杉軍退出最上領後回援將叛軍鎮壓,和賀忠親被捕送往江戶,花卷城解圍,慶長十八年(1613年)八月北信愛過世於花卷城,享壽九十一歲,因為當時北信景已經叛離南部家,所以由南部信直的次男政直繼為花卷城主。 做為盛岡藩開創之時的股肱重臣,北信愛的功勞不可謂不大,據說他每次參戰都會在髮髻之中放一尊觀音像以求平安。 出處#1 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=03183&sn=288 出處#2 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BF%A1%E6%84%9B
南部利直 Nanbu Toshinao(1576年-1632年) 南部信直的長子、母為泉山古康之女・慈照院、正室為蒲生氏鄉之女・源秀院、側室為山田九郎左衛門之妹・法源院;通稱彥九郎、別名晴直,受前田利家偏諱「利」字,名為利直。 慶長三年(1598年),豐臣秀吉去世後,父親信直開始積極接近五大老筆頭的德川家康。翌年,父親信直因病逝世,利直繼承家督。 慶長五年(1600年),關原之戰時期,家康命令東北及北陸的大名攻擊與西軍石田三成內通的會津上杉景勝,利直便以最上義光的後援身分參加慶長出羽合戰,但此時卻遭同為東軍的伊達政宗煽動和賀忠親於南部領地的和賀郡引起一揆。利直將主力帶回到領內後平息該亂(通稱岩崎一揆)。 戰後獲德川家康承認領土,成為盛岡藩藩祖,領有10萬石。之後著手於盛岡藩政的整備,開發白根金山與西道金山等礦山來使財政安定。 慶長二十年(1615年),盛岡城建造完畢,城下町也慢慢形成。因為先前有像九戶政實之亂的多數有血緣關係家臣遭處罰的案例,因此利直選擇集權獨裁化來鞏固盛岡藩的基礎。 慶長十九年(1614年),出兵參與大阪之陣,與江戶幕府關係大大強化。 寬永九年(1632年),在江戶的櫻田宅邸過世,年五十七歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%88%A9%E7%9B%B4
土肥政繁 Doi Masashige(生年不詳-1590年) 越中国弓庄城主。通称、四郎。官位は美作守。娘は下秀久の室。 越中土肥氏は土肥実平を祖とし、鎌倉時代より新川郡堀江庄の地頭職として名が見える。戦国期には、神保長職の膨張に伴いこれに属した為、椎名・上杉氏との抗争に巻き込まれ没落し、弓庄城に拠った庶流の政繁が上杉謙信に臣従して辛うじて命脈を保った。 天正6年(1578年)に謙信が急死すると、多くの越中国人と同様、織田方に寝返った。しかしその後上杉方に復帰したらしく、同9年(1581年)8月、佐々成政により城を囲まれている。この時は何とか城を持ちこたえたが、上杉氏の後詰が得られず、翌10年(1582年)に降伏した。しかし本能寺の変が起こるとまたしても上杉方に寝返る。 同11年(1583年)2月には成政の越後出兵の隙を突いて太田新城を奪うなどの働きを見せるが、成政・秀吉・景勝の三者が和睦を結ぶと進退窮まり、弓庄城を立ち退き、越後に落ちて上杉景勝を頼った。 同12年(1584年)10月、上杉軍の越中攻めの先鋒として宮崎城攻略に功をあげたが、上杉家中では冷遇され、同18年(1590年)、越後国能生で病死した。一族はその後最上義光、村上頼勝などに仕えた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E8%82%A5%E6%94%BF%E7%B9%81
大寶寺義氏 Daihoji Yoshiuji(1551年-1583年) 大寶寺義增之子、母不明;幼名滿千代、別名武藤義氏、四郎三郎,號桃翁,法號淨影,渾名庄內屋形、惡屋形。 大寶寺、土佐林、來次、砂越四家乃是控制庄內平野的四家國人眾,其中大寶寺家因為領有羽黑山,利用宗教權威來擴大本家實力,因此是四家中實力最強者。 永祿十二年(1569年),父親義增與本庄繁長聯合對抗上杉謙信,但是因為不敵而臣服,義氏被送入上杉家當人質,並且在隔年便在上杉謙信的壓力下將家督讓給嫡子義氏,改由受到謙信所信任的土佐林禪棟監督。但後來土佐林禪棟聯合越後國人眾大川長秀入侵大寶寺家時,義氏連忙請出上杉謙信調停才告解決。 元龜二年(1571年),義氏派遣家臣和仙北的小野寺輝道締結同盟,並與秋田安東家和睦。同時土佐林禪棟也再度叛變,義氏一改前年退讓的態度,迅速反撲打敗土佐林禪棟,並藉此機會肅清領內,促成來次氏、砂越氏稱臣,義氏成功統一庄內平野。 為了和最上義光對抗,義氏聯合伊達輝宗在天正二年(1574年)攻打清水城,後以失敗告終。 天正六年(1578年),大寶寺家的靠山,上杉謙信病逝。來次氏因不滿義氏的統治而叛變,雖然最終遭到鎮壓,但是義氏考量到領地的穩定,反而增加來次氏的知行作為安撫。 義氏見織田信長已經控制日本中央一帶,勢力龐大,遂於天正七年(1579年)派使者前往京都向織田信長送上馬匹、獵鷹,而被織田信長許以「屋形」的稱號及從五位下左京大夫的官位。 天正十年(1582年),義氏鞏固和小野寺家的同盟,還結合仙北戶蒔、金澤、六鄉等國人眾並與津輕為信取得聯繫,在當年十二月大舉進攻由利郡的國人眾,但因為安東愛季派出援軍幫助由利的國人眾,最後義氏兵敗撤退。但他並未死心,隨即於翌年正月再次出兵,但也再次被安東愛季派兵擊退。 同年三月二十七日,妹婿前森藏人與最上義光勾結,聯合砂越氏、來次氏襲擊義氏,義氏兵敗自刃,年三十三歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AF%B6%E5%AF%BA%E7%BE%A9%E6%B0%8F
大崎義隆 Osaki Yoshitaka(1548年-1603年) 大崎氏從父親義直當政時一直從屬於伊達氏;到義隆當政時,得到最上義光(正室為義隆之妹)的支持後想要獨立,因而與伊達氏對立。 天正十六年(1588年),大崎氏家中發生大崎騷動(因義隆喜好男色,家中的美少年侍童彼此爭寵、對立,而造成家臣團的分裂),伊達政宗以協助鎮壓為名,發兵進攻,掀起大崎之戰。此戰結果因黑川晴氏的反叛和最上義光出兵相助,大崎氏得到勝利。 翌年,伊達政宗在摺上原之戰大捷,滅亡蘆名氏,成為名副其實的奧州霸主,義隆受到政宗的壓迫,只得再次從屬於伊達氏。 天正十八年(1590年),豐臣秀吉追究沒有參加小田原之戰的責任,義隆遭到改易被沒收領地(奧州仕置),大崎氏就此滅亡。 之後,經前田利家、德川家康等人的斡旋,向豐臣秀吉表達義隆復興家業的請求,雙方一度約定大幅度減少大崎氏原有領地,而只給與舊領的一部分;但發生葛西大崎一揆事件後,約定作廢,伊達政宗也因鎮壓有功,獲得葛西.大崎12郡的封賞。此後,義隆輾轉流落到最上氏、蒲生氏、上杉氏各家。 慶長八年(1603年),潦倒地死於越後國,年五十六歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E7%BE%A9%E9%9A%86
安東実季 Ando Sanesue(1576年-1660年) 天正15年(1587年)、父・愛季が病死したため、わずか12歳で跡を継ぐこととなったが、その継承に不満を持った従兄で12歳年長の安東通季(豊島通季)が「上国湊安東氏の復興」を掲げて反乱を起こした(湊合戦)。通季は日本海沿岸の海港の確保を願う内陸部の戸沢氏や小野寺氏、北奥の南部氏らの諸勢力とも通じていた。 実季は天正17年(1589年)、機先を制して出陣したが逆に撃退され、自身が檜山城に籠城するなど苦戦を重ねてようやく鎮圧した。通季らの軍勢は実季ら籠城側の十数倍におよび、籠城側は銃を300挺しか持たなかったが、5ヶ月以上も檜山城を守り抜いたといわれる。このときの実季の主力は檜山郡(後の山本郡)に基盤をもつ檜山衆であり、加えて阿仁川流域地方の嘉成氏や米代川中流域の浅利氏一族などの比内衆、また湊から檜山に移った竹ヶ鼻伊予など二十数名の湊衆が与同したといわれる。 この合戦は、北出羽内陸部の平鹿郡、比内郡方面への進出をはかる南部信直やその南部一族から津軽地方の独立をはかる大浦為信との抗争を巻き込んで、北奥羽における政治的激動の震源となった。実季は平鹿郡・雄勝郡地方を本拠とする小野寺義道と戦うが、その隙を狙って東方より侵入した南部信直とも激しく戦っている。 天正17年7月、由利郡の赤尾津氏や津軽の大浦為信との提携をはかることで、戸沢氏や南部氏と結んだ通季を破ることに成功した。 天正18年(1590年)、比内大館を南部氏から奪回した。これには大浦為信の助力があり、浅利頼平は為信の斡旋で比内の地に戻った。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉より小田原征伐への参陣を命じられ、これに従った。 続いて同年に奥州仕置がなされ、天正19年(1591年)には太閤検地がおこなわれた。湊合戦は秀吉によって惣無事令違反と見なされて一時問題となったものの、実季の中央工作もあって出羽国内の所領7万8,500石余のうち約5万2,440石の安堵が認められた(ただし、実高は15万石におよんだといわれる)。旧領の3分の1にあたる約2万6,000石は太閤蔵入地として没収され、実季はその代官に任じられた。 ここで重要なのは、永年にわたる係争の地であった比内(後の北秋田郡)の領有が確定されたことで、比内を地盤とする浅利氏・嘉成氏の領主権は否定された。そして秋田(南秋田郡)・檜山・比内のいわゆる秋田下三郡に加え、豊島郡(河辺郡)を有する大名としての地歩が固められた。なお太閤蔵入地設定の理由としては、蔵米輸送ないし地払いによる運上収益よりもむしろ秋田杉運上のためと考えられている。秋田杉運上は、文禄2年(1593年)の前田利家建造の安宅船の船材運上にはじまり、淀舟材木、橋板を経て、慶長2年(1597年)以降は伏見作事用板(太閤板)の運上として固定した。また領内の土崎湊(現在の秋田港)、能代湊(能代港)の2港を整備して、領国経済を確立させ、両港および越前国敦賀湊(現在福井県敦賀市)などでは米のほか木材を販売している。 奥州仕置後、実季はあらためて平城として、雄物川河口の土崎湊に堀をともなう湊城を築いて本拠をここに移し、秋田城介を号して秋田氏を名乗った。また大館城(大館市)・脇本城(男鹿市)・馬場目城(五城目町)などの要地に功臣・一族を配して、比較的安定した領国支配を築いた。 豊臣秀次を総大将とする天正19年(1591年)の九戸政実の乱における討伐軍、文禄元年(1592年)よりはじまる朝鮮出兵にも参陣している。文禄2年(1593年)の文禄の役での渡海割当は、『浅野家文書』によれば134名であった。 文禄年間にはまた、自領の一部について検地を行った形跡がある。文禄3年(1594年)成立とみられる『秋田城之助殿分限帳』では秋田領は9万8,500石、蔵入地2万9,000石余と算定された。 文禄3年から文禄4年(1594年)にかけては、比内の浅利氏との間に小競り合いが生じている。史料には比内南西部の村がこの時「秋田よりなてきり」「秋田より放火」との記録が残る。浅利氏の家老であった片山弥伝(比内中野)、浅利七兵衛(十二所)、浅利内膳(八木橋)らは、これを機に直接、実季に従うこととなった。 慶長4年(1599年)から翌年にかけては本拠湊城の大規模な改築を行なっている。そこには、多数の大工・鍛冶・大鋸引・葺士・壁塗りが参加したことが記録に残されている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方に立ち、小野寺義道を平鹿郡大森城(秋田県横手市大森町)に攻めた。これについては山形城主最上義光が、実季が裏では小野寺方と通じていて実は東軍方と言えないとして徳川家康に訴えている。それに対し実季は弁明し、家康の嫌疑を晴らすことに成功した。 慶長7年(1602年)、家康の命を受けて常陸国宍戸に転封された。関ヶ原戦の際に不手際があったともいわれるが、常陸国の大名佐竹氏の秋田・仙北への入部にともなうものであった。このとき、姓を秋田から伊駒へと改めている(その後復姓)が、太閤蔵入地とされた旧領が豊臣氏の所領として家康によって没収されたことに対し、実季が不満を抱いたのではないかとも推測される。慶長16年1月15日(1611年2月27日)には、従来自称してきた従五位下秋田城介に正式に補任された。 宍戸藩主となった実季は、慶長19年(1614年)の大坂夏の陣では豊臣方先鋒隊らと激突したものの大損害を出し、敗北を喫した。 寛永7年(1630年)、元和偃武後も戦国大名らしい気骨が横溢していることが幕府の忌み嫌うところとなり、突如伊勢国朝熊(三重県伊勢市朝熊町)へ蟄居を命じられた。嫡男の俊季との不和説や、従来からの檜山系・湊系による家臣間の対立が背後にあったのではないかとする見解もあるが、詳細は不明である。なお、秋田氏は俊季の幕府への忠節と、俊季の母が大御所秀忠の正室崇源院の従姉妹にあたることも幸いして俊季の家督継承が認められ、正保2年(1645年)陸奥三春に5万5,000石移封すると以後幕末まで同地で存続した。 寛永7年以降約30年にわたり、実季は伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を余儀なくされた。万治2年(1660年)、同地にて死去した。享年85。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%94%B0%E5%AE%9F%E5%AD%A3
安東愛季 Ando Chikasue1539年-1587年 安東舜季的長子、母為安東堯季之女、正室為砂越宗順之女、側室為畠山清信之女;別名近季、渾名北天の斗星、戒名龍隱院殿萬鄉生鐵大禪定門。 安東氏以安倍貞任次子高星為遠祖,在鎌倉時代受幕府之命擔任蝦夷地管理,以津輕十三湊為根據地利用日本海發展商業貿易,被稱為海之豪族,實力跨過津輕海峽,遙領北海道上的和人館主。因而被北條義時封為蝦夷管領。在室町中期遭到三戶南部氏的攻打,當主貞季的兩子在戰敗後各自重起爐灶,先是次子鹿季奪下土崎湊,稱湊系安東家。而長子盛季一脈也在其曾孫政季時攻下葛西秀清的檜山城,遂為檜山系安東家。 繼承家督 繼承父親的地位成為家督後,先求內部發展,積極整頓城下町,善用安東家海上貿易的傳統,派遣家臣清水治郎兵衛政吉駐能代掌管町建設,並負責木材整備工作,在米代川河口建立和北國船隻的交易據點,將米代川上流出產的秋田杉、阿仁礦山的金、鉛等礦產和米、大豆等農産物輸出至京都、關西一帶,構築了緊密的貿易網和情報網,不但替安東家帶大量金錢,也帶來了上方第一手的新消息,同時愛季也活用水運和越後上杉謙信、能登畠山氏、越前朝倉義景等北國大名簽訂商盟,實施遠交近攻的謀略。土崎湊也因此與越前三國湊、加賀本吉湊、能登輪島湊、越中岩瀨、越後今町湊和津輕十三湊合稱北國七湊,是北日本最大的港灣都市。 入侵奧州 永祿元年(1558年),比內豪族淺利則祐之弟淺利勝頼不服兄長獲得繼承權,因而受到愛季利用,成為愛季侵入比內的重要棋子,比內擁有豐沛的森林資源是秋田杉的重要產地,而且淺利氏還支配著大葛、阿仁的礦山,因此早為安東家覬覦。愛季遂趁著這次淺利氏爆發窩裡反之際於永祿五年(1562年)迅速起兵1千5百侵略比內,由於內有親弟勝賴之亂,為了抵禦安東家,淺利則祐離開本據十狐城,將兵力聚集於扇田長岡城展開守城戰,但是寡不敵眾下,淺利則祐終究支撐不住安東家的攻撃,兵敗自盡。戰後,愛季讓淺利勝賴如願當上了淺利氏當主,同時擔任安東家代官管理比內,藉此掌握住比內並能增加來自淺利氏礦山的收入。 永祿六年(1563年),愛季透過莊內的砂越宗順與最上義光結盟,當時沿著雄物川往南便是仙北戶澤氏和小野寺氏的領地,隔著由利郡便是莊內大寶寺氏的地盤,愛季選擇和最上義光聯手正是有意藉義光之力牽制這些敵對勢力,以爭取北上和南部家爭鋒的時間,而最上義光也需要安東家來引開這些敵對勢力的目光,使無法動用最大兵力防守最上家。此時奪下比內的安東家已經與陸奧鹿角郡相鄰接,鹿角郡本為安東家的領地但是卻在室町時代時被南部氏佔去,愛季為此積極策劃對鹿角郡的攻略。永祿6年,愛季派遣接連鹿角邊境的十二所城城代大高築前與鹿角國人眾花輪中務接觸。 而南部方在鹿角郡也以長牛城為中心依夜明島川配置三田、石鳥谷、長內、谷內諸城建設防線,兼之又有大裡、花輪、柴內等郡內國人協助,鞏固著南部家在鹿角郡的支配,令愛季不易下手。然而就在永祿八年(1565年)以降數年間,北奧發生農地大規模的欠收,糧食產量銳減,由於長牛地方本就是稻米的生產重地,加上領內人心惶惶,此時出兵外征,一來可以抒解人口壓力,二來也能趁機奪取南部家的糧食,於是在愛季成功鎮壓因為糧食問題爆發的志戶橋一揆後,便於同年8月愛季聯合比內的淺利氏和阿仁的嘉成一族出兵5千由大館自犀川峽谷越過卷山峠侵入鹿角郡,採用南北夾擊的戰略分別進攻,安東軍一路向長牛、石鳥谷城出擊,另外新降的柴內氏則出兵長嶺、谷內城。南部家當主南部晴政聞悉戰報後連忙調遣田頭、松尾、沼宮內、一方井等岩手眾往援,其時石鳥谷城、長嶺城已經先後陷落,而谷內城也被淺利勝賴所包圍,愛季主軍圍籠長牛城,但是因為冬季來臨,大雪不利攻戰,加上還要準備來年春耕,於是愛季撤圍回國,同時與莊內的土佐林禪棟交誼,藉此牽制大寶寺義氏。 翌年2月,愛季以大高築前為先鋒率領淺利氏、阿仁及投降的鹿角國人,並且調來北海道的蠣崎季廣及由利十二頭聯手,舉兵6千人再度攻打長牛城,城主一戶友義領兵進行城外戰兵敗,其叔父南部彌九郎亦討死,愛季一鼓作氣包圍長牛城,然而南部晴政早有準備,動員一族分家的重臣北、南、東等家起兵援救,愛季迅速退兵。同年10月,愛季再次起兵攻擊鹿角郡,侵襲谷內城,後由於久攻不下,愛季臨時決定轉攻長牛城,長牛城一戶友義應變不及,遭到安東軍全殲,城池被奪,一戶友義逃往三戶,愛季佔領鹿角郡全境。 永祿十一年(1568年)3月,南部晴政以南部信直為總大將,領石川高信、長牛友義協助翻過來滿峠,另外大將九戶政實則經由保呂邊道進入三田城,分別從南北兩面合攻鹿角郡,由於安東家年前方新佔鹿角郡,郡內仍有許多原屬於南部家的勢力存在,當其呼應了南部軍的收復行動,頓時使安東家在鹿角的支配崩解,領內兵士先後投奔南部軍,安東方守將大裡備中無奈潛逃,鹿角郡重歸南部氏掌中,此後兩家於比內、鹿角一線長期對峙。 永祿十二年(1569年),愛季為了緩和南部氏攻略的壓力,與津輕浪岡氏聯姻,津輕浪岡氏與三戶南部家素來交好,同時跟安東家也是自祖輩以來的世交,因此最後愛季在蝦夷領主蠣崎季廣的仲介下將年僅10歲的女兒嫁給浪岡顯村,和與南部家交好的津輕浪岡氏結下姻盟,對安東家來說無疑是在南部背後埋下了一手伏筆,增添許多變數,間接牽制住了南部氏的部分行動。 湊騷動 元龜元年(1570年),原屬於湊安東家的國人眾豐島重村因為在愛季的經濟政策上受損,本來以海運著名的湊安東家所擁有的土崎湊成為愛季的下蛋金雞,但是這份收支卻讓失去支配權的原湊系家臣十分眼紅吃味,兼之整個安東家的重心全在愛季一方,湊系形同附庸,對此不滿的豐島重村於是決定反叛,聯同下刈右京、川尻中務,引小野寺家、戶澤家為後援起兵包圍湊城,監禁愛季之弟安東茂季。(湊騷動) 為解決這場反叛,愛季從檜山城出陣,豐島重村也在又得到莊內大寶寺家協助後,兩軍在推古山對戰,經歷兩年的往來征戰,愛季挾全為強大的軍事力與內政後勤於元龜三年(1572年)獲得勝利,攻下了豐島城,豐島重村敗逃往依靠仁賀保氏。同時愛季掃平了與豐島重村一同起兵的川尻氏、下刈氏,並伺機打擊同樣與土崎湊的交易有著關係的大平氏、新城氏、八柳氏。戰後,湊周邊全為愛季的直轄領,兩安東家在實質上統一,茂季以也將當主之位讓給兒子通季,由愛季擔任後見役,移居豐島城,出羽北部幾乎完全為愛季平定。 上方外交 同時外交觸覺敏銳的愛季雖處於東北羽州,但是經由水運貿易的情報網對天下大勢也有準確的掌握,一方面利用北海道的獸皮、海產與京都來往,並且和制霸中央近畿一帶的織田信長交好,在天正元年(1573年)起開始雙方的書信來往,也派出使者向信長獻上了一頭獵鷹,信長也送來一把太刀作為回禮給愛季,增強兩邊的關係。愛季同時貫徹遠交近攻之略,拒絕大寶寺義氏的和睦之議進而奪下羽根川領。 天正七年(1579年),愛季的使者檜山三次與仙北上浦小野寺輝道、仙北北浦戶澤盛安的使者前田薩摩一同上洛晉見織田信長。天正八年(1580年),愛季在織田信長的仲介下拜領了從五位上侍從的官職,並且讓次子安東實季迎娶了信長的外甥女,細川信良之女為妻,但是與此同時安東家在比內的代官淺利勝賴叛變,愛季意圖迅速出兵平亂,但是卻為淺利勝賴所敗,不得已只好提出和議以暫時安撫。天正十年(1582年),織田信長在本能寺之變中身死,愛季是東北最早知道此一消息的人,並在信長死後,迅速看清中央的局勢,轉與羽柴秀吉通誼。 出羽的北斗星 同年12月,大寶寺義氏進攻由利郡,瀧澤、矢島、打越諸氏偕連戰敗投降,並進而意圖攻打大內村的小助川館,小助川館當主‧由利十二頭之一的赤尾津光政迅速向愛季求援。由於赤尾津氏位在由利郡最北邊,與安東家多有來往,也是愛季侵襲由利郡的橋頭堡,所以愛季連忙派家臣一部勝景為總大將、連同比內的淺利勝賴、阿仁的嘉成重盛共為援軍出陣擊退了大寶寺軍及其援軍小野寺氏,贏得赤尾津氏、羽川氏、岩屋氏等由利北部國人的信賴。 天正十一年(1583年)3月,在大寶寺家退出由利郡後,愛季將矛頭重新指向內部,以邀請淺利勝賴赴宴為由,將他誘入檜山城,在宴中由深持季總、松前慶廣將其斬殺。隨後出兵失去當主的淺利氏,完全併吞比內,勝賴之子賴平投靠津輕為信。 自此,愛季勢力遍及西津輕、比內、檜山、大阿仁、小阿仁、湖東、小鹿島、湊、豐島、赤尾津、羽川,構築安東家的最大版圖,愛季因此被喻為是如同天上北斗星一般的人物。 殞落 愛季接下來將目標訂在仙北,意圖併吞仙北北浦戶澤家,這是因為戶澤家所據的北浦乃是仙北雄物川川筋平原一帶最重要的穀倉,沿雄物川的小野寺、戶澤兩家要對外輸出作物都必須透過舟運經由秋田湊轉口,但是秋田湊卻為愛季掌控,每次通過都會被抽關稅。對愛季來說,單單抽關稅並不能達到最大利益,鯨吞其領地把貿易所得置入自家袋內才是最大利益。 天正十五年(1587年)4月小野寺義道和戶澤盛安不和之際,愛季提出與戶澤聯合打倒小野寺之議,圖收漁翁之利,但是卻被戶澤盛安嚴拒,於是愛季便調轉槍頭,先是對戶澤家採取經濟封鎖,之後以館澤城、淀川城為據點,率兵3千攻打戶澤。 愛季遣家臣鎌田自淀川城出兵截斷戶澤家西方的退路。由於安東家在水運上的經濟封鎖,讓戶澤氏的財源大受打擊,如今愛季又重兵壓境,戶澤盛安在接獲軍報後決議背水一戰,領兵1千2百從荒川城出動,兩軍在秋田、仙北交界的唐松野布陣,戶澤盛安讓家臣進藤築後守分軍於安東軍之東進行遊擊,盛安本人正面迎擊安東軍,在三天的白刃戰鬥後,安東軍敗退,折損3百人,而戶澤軍僅陣亡1百人,只是安東軍的三分之一,猛將嘉成重盛也於是役中戰死。而愛季也在戰敗後,撤兵至男鹿肋本城途中病逝,年四十九歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9D%B1%E6%84%9B%E5%AD%A3
小野寺義道 Onodera Yoshimichi(1566年-1646年) 小野寺景道(輝道?)の次男。子に小野寺保道。出羽国横手城主。 兄で嫡男であった光道が戦死したため、父から家督を譲られる。武勇には優れていたが知略に乏しく、1581年には、支配下にあった鮭延秀綱が離反。同じく影響下にあった由利十二頭の人質の一部が自害した事などから領内に一揆を招いたり、楯岡満茂の謀略によって家臣を誅殺するなど、次第にその勢力を減退させ、最上義光や戸沢盛安との戦いで雄勝郡・平鹿郡などの所領を失った。 天正18年(1590年)には小田原征伐に参陣し、豊臣秀吉に謁見して、所領を安堵された。 だが、その後の奥州仕置において幾つもの不手際によって仙北一揆が起こったのを咎められ、天正19年(1591年)所領の3分の1が没収され、上浦郡に3万1600石を給された。 没収された雄勝郡は最上義光の領土とされたが、義道はこれを認めずに雄勝郡の支配を継続した。 文禄元年(1592年)、文禄の役においては肥前国名護屋に参陣し、その功績から叙位・任官した。 文禄4年(1595年)、最上義光の謀略によって家臣八柏道為を誅殺。 その後、最上義光は雄勝郡を支配するため楯岡城主楯岡満茂が率いる軍勢を湯沢城に差し向けた。 湯沢城が落城した事を聞いた岩崎城主岩崎義高は義道に援軍を要請したが、同日に今泉城、角間城、鍋倉城、植田城、新田目城が最上軍の攻撃にあったため岩崎城の方には手が回らず、ほとんど援軍が来なかった。 その後、前森城主原田大膳が岩崎城に夜襲をかけて落城した。 1600年、関ヶ原の戦いでは最初は東軍に与したが、後に上杉景勝と通じて西軍に寝返ったため、戦後の1601年に徳川家康によって改易され、弟・康道とともに石見国津和野に追放された。1645年、同地で80歳で死去している。 以上のように中央の政争に振り回され、家の存続には失敗した人物ではあったが、その一方で人情味もあったようで、幽閉の身の自分を温かく遇してくれた津和野藩主・坂崎直盛が謀叛の疑いで自害に追い込まれると、秘かにその墓を建立したと言われている。 その後小野寺氏は、坂崎氏の後を受けた津和野藩主・亀井氏の重臣となって明治維新を迎えた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA%E7%BE%A9%E9%81%93
山野邊義忠 Yamanobe Yoshitada(1588年-1664年) 最上義光的四子,其母姓名與出身皆不明,據傳是現在大石田町深堀鄉士之女;幼名比治利丸,初名光茂,後改名為義忠,別稱最上義忠,法名道慶,水戶藩家老山野邊氏之祖。 慶長五年(1600年),關原之戰之前被送到德川家康處做人質。戰後歸國,次年14歲時成為山野邊19,300石之城主,此後稱山野邊氏。入主山野邊的義忠對山野邊城(現山形縣山邊町)開始了擴張改修,同時進行城下町建設,開設市場,修建諸如釣通堰這樣的水利工程,還致力於神社佛閣和交通網的建設,努力在領內廣施善政。 元和三年(1617年),其兄最上家親死去後,家親之子即義忠之侄最上義俊成為當主,『最上氏系圖』(『寬政重修諸家譜』)中批評義俊說「家信(義俊)年紀尚淺不能聽取國政。而其人沉迷於宴飲酒色,家老屢次進諫依舊我行我素,家臣大半支持另立其叔父義忠做家督」,義俊一無人望又無實力,鮭延秀綱與楯岡光直等許多家臣將家親擁立為繼承者候補。 因而最上氏分裂成了最上義俊派和義忠派,最終發展成了被稱作「最上騷動」的內鬥。江戶幕府對義俊方的松根光廣做出流放處分,試圖求得山形藩內的安定,然而許多家臣不願意出力輔佐義俊。因而在元和八年(1622年)8月山形藩最上家受幕命改易。義忠也因此被追責被罰流放備前國岡山,由池田忠雄負責看管。隨他一同前往岡山的有包括兩名孩子在內的16名近臣。義忠自34歲至46歲在岡山度過了12年的軟禁生涯。 寬永十年(1633年)9月,受德川家光之命被送往水戶藩主德川賴房處看管,自賴房處獲得1萬石領地與水戶藩家老職。後來負責賴房世子德川光圀(水戶黃門)的教育。光圀執政時期的寬文3年(1663年)9月,遁入佛門,號道慶。 次年寬文4年(1664年)12月16日死去,年七十七歲,戒名良源院殿前堅門貞譽松座道慶大居士。是義光所有男子中唯一得享天年的(注一)。 其子義堅亦仕於德川光圀,子孫代代擔任家老職務。山野邊家在水戶藩擁有僅次於禦附家老中山氏的厚祿。由於最上騷動的教訓,在江戶後期直到19世紀20年代後半(文政年間)這段時間主要負責對朝廷與將軍的儀禮,對藩政沒有太多參與。 注一:義光長子最上義康被廢嫡後遭里見民部殺害,次子最上家親而立之年暴斃身亡,三子清水義親大阪之陣中被懷疑勾結豐臣氏,被殺,五子上山野義直與六子大山光隆在最上家改易幾年後於流放地切腹,唯有義忠天壽得全。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=8#postid-212 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%87%8E%E8%BE%BA%E7%BE%A9%E5%BF%A0
志駄義秀 Shida Yoshihide(1560年-1632年) 上杉氏の家臣。志駄氏(志田氏とも)当主。幼名は寉千代、通称は源四郎。官名は修理亮。志駄義時の子。子は義繁、上泉秀富。上杉二十五将にも列挙されている。 永禄3年(1560年)、上杉氏の家臣・志駄義時の子として誕生。母は直江景綱の娘。 永禄4年(1561年)、父義時が川中島の戦いで戦死したために家督を継ぐが、まだ2歳と幼かったために祖父・春義を後見人として家督を継ぎ、夏戸城主(寺泊。現長岡市)となる。しかし春義も永禄6年(1563年)に死去したために、母の実家である直江氏の比護を受け、直江景綱の妻(後室)に養育された。 成人後は上杉謙信に仕える。天正6年(1578年)、謙信死後の上杉氏の家督争いである御館の乱が起こると上杉景勝に味方して戦功を挙げた。天正9年(1581年)、信濃国の大須賀氏の反乱を鎮め、天正10年(1582年)、越中国松倉城将となって織田氏と対峙した。 その後は与板衆筆頭として直江兼続の配下に置かれる。文禄4年(1595年)、兼続の下で庄内経営に関与し、庄内金山の奉行や大宝寺城代などに就いている。慶長3年(1598年)、上杉家の会津転封時に従い、東禅寺城(現酒田市)将となり5100石を知行した。同年、兼続の朝日軍道開削に尽力している。 慶長5年(1600年)、慶長出羽合戦においては東禅寺城で最上義光を牽制。攻め寄せる池田盛周らを破り最上領まで侵入するも西軍敗退の報を受け撤退する。しかし翌慶長6年(1601年)、先年の合戦で戦場に取り残されたまま最上氏に降っていた尾浦城主の下吉忠に先導された最上義康軍に再び攻められ、防戦するも敵わず開城して米沢に撤退した。戦後は高野山に蟄居を命じられている。 慶長8年(1603年)、上杉家に帰参し、荒砥城代となって1000石を知行。慶長12年(1607年)、江戸幕府の指示によって一時再蟄居するも、慶長16年(1611年)には再帰参を果たし侍大将となった。慶長19年(1614年)にかけての大坂の陣に出陣している。元和8年(1622年)諸司代・奉行郡代を歴任し、間もなく政務奉行(国家老)に就任する。同年には改易された最上家の仕置きに奉行している。元和9年(1623年)、景勝死後は跡を継いだ上杉定勝に引き続き仕え、翌元和10年(1624年)、定勝の婚儀を取り仕切った。 寛永9年(1632年)、死去。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E9%A7%84%E7%BE%A9%E7%A7%80
戶澤盛安 Tozawa Moriyasu(1566年-1590年) 戶澤道盛的次子、母為本堂親條之女、側室為仙北在家之女;別名九郎、異名「鬼九郎」、「夜叉九郎」。 天正六年(1578年),父親道盛隱居,由於長兄盛重自幼多病,出家為僧。家督便由年僅十三歲的次子盛安繼承。此後,道盛仍以隱居之身料理著戶澤家的大小事務。 天正七年(1579年),戶澤家家臣前田薩摩守於七月二十五日上洛,向織田信長獻上飛鷹,並得到信長「所領安堵」的許可,這是道盛黯淡的統治中較風光的一幕。 雖然盛安在天正六年(1578年)就繼任為戶澤家當主,但直到天正十四年(1586年)還是一直默默無聞。而這八年,正是北出羽最強者安東家的極盛期。 安東愛季經過近二十年的奮斗,終於在元龜三年(1572年)統一湊與下國的安東家,擊退南部,在北出羽建立起廣大的版圖。安東家獨占著以湊為中心的北日本海的貿易,連織田信長也一度向之示好。隨著南部晴政去世,南部家陷入暫時的混亂,北顧無憂的安東愛季展開對出羽南面諸家的攻略。 首當其鋒的淺利、豐島、大寶寺等國人眾於安東的攻擊調略之下先後走向崩潰:天正十年(1582年),安東愛季假借講和謀殺了淺利勝賴;同年底,荒澤合戰,安東愛季擊敗大寶寺義氏,次年義氏自殺,由利十二頭中的赤尾津、羽川、岩屋諸家向安東降伏。安東家版圖達到最盛期。 天正十四年(1586年),斯波氏、花輪氏等家向安東愛季參禮,其中還包括戶澤屬下的一門滴石氏,安東的獨霸似乎已成為北出羽不可阻擋的潮流。邁入天正十五年(1587年),安東愛季終於把矛頭對准戶澤家。 最初愛季利用戶澤與小野寺的長期不和,一度勸誘盛安與其聯手進攻小野寺,被盛安拒絕。此時的戶澤與小野寺,儼然是唇亡齒寒,由出羽的勢力分布可以看出,假若安東吞並小野寺,戶澤家的領地將被安東家三面包圍,背後又是高山大湖,為安東家所吞並就勢所難免,愛季的要請,是明顯的假途伐虢之計。 洞析形勢與年少氣盛,使得盛安不但拒絕了安東愛季的聯軍要求,反而加強了邊界上的戒備,以示與愛季正面對抗的決心,兩家的沖突由此走向激化。 天正十五年(1587年),安東愛季手下嘉成播磨、鐮田河內攻擊戶澤家澱川城,拉開戰幕。澱川東面荒川城主進藤築後守隨即向戶澤主家求援,此後澱川城陷落。四月二日,安東愛季親率3000騎精銳集結於仙北唐松野,對荒川城發動攻擊,四月五日,戶澤盛安引1000騎由小松山出發赴援。此時遭到危脅的小野寺也派出援軍加入戶澤方。除了戶澤家與小野寺之外,出羽其它國人眾如六鄉政乘等也在其中,可見這實際是一場小國人眾聯合對抗安東愛季統一出羽大潮的死戰。 戶澤盛安首先以突襲戰術主動攻擊安東軍,並討取安東方嘉成右馬頭重盛。連續5天的激戰,安東愛季突然病發,安東軍被逼撤退。戶澤軍死傷百多人,安東軍則是戶澤軍的三倍。戶澤氏重新奪回澱川城,唐松野之戰以安東軍戰敗而完結。愛季不久病亡,生前統一的檜山安東氏和湊安東氏宣告分裂,戶澤氏和南部氏乘機支持湊安東氏的安東通季與愛季次子實季爭奪家督,安東氏至此走向衰落。 唐松野合戰徹底改變了北出羽諸家的勢力對比,盛極一時的安東因愛季之死而發家內的雪崩,再未回復到之前盛勢;而戶澤則由長期名不見經傳的小國人眾,一躍成為出羽的有力大名。 小野寺氏礙於受到安東氏的威脅,於是出兵緩助戶澤氏,以免唇亡齒寒。但兩家的內在矛盾並沒有因此而解決。唐松野之戰一個月後,戶澤氏突然出兵攻擊小野寺的上浦郡沼館城,小野寺氏雖然正和最上氏對歭,依然派出2000援軍。阿氣野合戰爆發,戶澤氏聯合盟友楢岡氏與小野寺氏開戰,小野寺方的小清水藏人被戶澤盛安討取,戶澤氏乘勝攻陷沼館城。但九州征伐的完成,使豐臣秀吉逐漸把目光的焦點集中往關東和奧羽,天正十六年(1588年)五月,秀吉派出使者金山宗洗安撫奧羽諸家,通過金山的調停,最上與小野寺達成和解,這使得戶澤盛安再無進攻小野寺之隙。 天正十八年(1590年),秀吉以前田利家、上杉景勝為先鋒從北陸道、德川家康從東海道,裡見、佐竹、結城由奧州、房總,全面向北條發兵,同時向天下武將發布參戰動員令。津輕為信、最上義光等奧羽大名在收到動員令後馬上前往與秀吉會合,戶澤盛安也是其中的一人。 戶澤盛安和家中8騎動身隨秀吉「參戰」。盛安西行的路線,是自仙北去到庄內,再由海路前往京都。當他們到達京都時秀吉已動身前往關東,於是盛安一行又開始追趕秀吉。當在駿河國與秀吉會面後,秀吉當場賜予他寶刀「太閣兼光」,而且賜予盛安北浦郡4萬4千石。然而,盛安不待戰爭完結回鄉,便病死在小田原,年二十五歲,過度的勞累與長途跋涉是他英年早逝的主因。 由於盛安嫡子政盛當時只有4歲的緣故,豐臣秀吉將戶澤氏託付給盛安之弟光盛,由光盛擔任家督繼承人。不過,光盛在朝鮮出兵之時,也以17歲之齡病亡於前去九州大本營的途中,政盛繼任家督。 出處#1 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B6%E6%BE%A4%E7%9B%9B%E5%AE%89 出處#2 http://baike.baidu.com/view/704080.htm