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最上義光

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成長類型:中庸型、統率型、武勇型、知略型、政治型、万能型、万能統率型 成長類型:万能武勇型、万能知略型、万能政治型、勇将型、勇将射撃特化型、勇将槍特化型、勇将騎馬特化型 成長類型:猛将型、猛将射撃特化型、猛将槍特化型、猛将騎馬特化型、文官型、外交僧型、宰相型 成長類型:軍師型、副将型、軍団長型、梟雄型、海戦名人型、籠城型、籠城達人型 成長類型:築城名手型、女性型、女武将型、薄幸美人型、良妻賢母型、女戦国大名型、くのいち型 成長類型:夜叉型、鬼型、虎型、捨て奸型、信仰心型、大筒型、鉄甲船型 成長類型:下忍型、忍型、上忍型、剣豪型、不幸型、幸運型、明智光秀型 成長類型:井伊直政型、石田三成型、今川義元型、上杉謙信型、織田信長型、織田信秀型、片倉小十郎型 成長類型:加藤清正型、蒲生氏郷型、吉川元春型、黒田官兵衛型、高坂昌信型、小早川隆景型、鈴木重秀型 成長類型:斎藤道三型、榊原康政型、佐久間信盛型、真田昌幸型、真田幸隆型、真田幸村型、島津家久型 成長類型:島津義弘型、滝川一益型、武田信玄型、武田信虎型、竹中半兵衛型、立花宗茂型、伊達政宗型 成長類型:長宗我部元親型、藤堂高虎型、徳川家康型、豐臣秀吉型、長尾為景型、原虎胤型、古田織部型 成長類型:北条氏綱型、北条氏康型、北条綱成型、細川忠興型、堀秀政型、本願寺顯如型、本多忠勝型 成長類型:前田慶次型、前田利家型、毛利隆元型、毛利元就型、最上義光型、山県昌景型 成長類型:山中鹿之介型、阿国型、ガラシャ型、帰蝶型、小松姫型、立花誾千代型
以下數據只適用於「信長之野望.創造」本體版,加強版 請到「信長之野望.創造 威力加強版」專長習得條件(成長類型)「信長之野望.創造」本體版 專長習得條件(成長類型) 歷史武將的成長類型,可於「信長之野望.創造」本體版 全武將數據一覽查出成長類型:統率型、武勇型、智略型、政治型、萬能統率型、萬能武勇型、萬能智略型 成長類型:萬能政治型、中庸型、萬能型、公主武將型、內政拿手型、幸運型、不幸型 成長類型:槍拿手型、赤備型、夜叉型、鬼型、守城型、守城專家型、捨奸(島津泛用)型 成長類型:信仰心型、大筒型、鐵甲船型、海戰名人型、忍者型、劍豪型、副將型 成長類型:騎馬突擊型、梟雄型、猛將(均衡)型、猛將(攻擊)型、智將(內政)型、智將(軍師)型、織田信長型 成長類型:豐臣秀吉型、德川家康型、武田信玄型、上杉謙信型、北条氏康型、真田幸隆型、真田昌幸型 成長類型:真田幸村型、伊達政宗型、毛利元就型、吉川元春型、小早川隆景型、島津義弘型、島津家久型 成長類型:竹中半兵衛型、黑田官兵衛型、明智光秀型、山縣昌景型、高坂昌信型、本多忠勝型、井伊直政型 成長類型:片倉景綱型、立花宗茂型、立花誾千代型、前田慶次型、蒲生氏鄉型、鈴木重秀型、山中鹿之介型 成長類型:長宗我部元親型、本願寺顯如型、榊原康政型、北条綱成型、佐久間信盛型、古田織部型、堀秀政型 成長類型:保科正俊型、服部半藏型、石田三成型、原虎胤型、毛利隆元型、加藤清正型、築城名手型 成長類型:外交僧型、最上義光型、軍團長型、今川義元型、齊射萬能型、齊射武勇型、出雲阿國型 自創武將成長類型的條件 武將如何增加四圍屬性? 遊戲的武將情報中,每個屬性下方都有一個經驗條,當某個經驗條滿了,對應的屬性就會+1,上限是+20。 填滿一個經驗條需要100點經驗,以下列出部份命令能得到的經驗。 數據來源: 01‧城主:4圍每月獲得7點經驗 02‧內政-開發:每月政治經驗+16(出陣武將無法獲得開發經驗) 03‧普請-建設:每次政治經驗+21 04‧普請-設營:每次政治經驗+18 05‧普請-整備:每次政治經驗+18 06‧普請-築城:每次政治經驗+60 07‧外交-工作:每月知略經驗+19 08‧調略-懷柔:每次知略經驗+28 09‧調查-巡查:每次知略經驗+24 10‧調查-偵查:每次知略經驗+24 11‧普請-修復:每月政治經驗+28 統率&武勇經驗,除了城主固定加以外,只能靠戰爭來獲得,但戰爭經驗計算比較複雜無法列出,但同一部隊大將和副將獲得經驗是一樣的。 出處 http://forum.gamer.com.tw/C.php?bsn=64&snA=8870 成長類型:統率型、武勇型、智略型、政治型、萬能統率型、萬能武勇型、萬能智略型成長類型:萬能政治型、中庸型、萬能型、公主武將型、內政拿手型、幸運型、不幸型成長類型:槍拿手型、赤備型、夜叉型、鬼型、守城型、守城專家型、捨奸(島津泛用)型成長類型:信仰心型、大筒型、鐵甲船型、海戰名人型、忍者型、劍豪型、副將型成長類型:騎馬突擊型、梟雄型、猛將(均衡)型、猛將(攻擊)型、智將(內政)型、智將(軍師)型、織田信長型成長類型:豐臣秀吉型、德川家康型、武田信玄型、上杉謙信型、北条氏康型、真田幸隆型、真田昌幸型成長類型:真田幸村型、伊達政宗型、毛利元就型、吉川元春型、小早川隆景型、島津義弘型、島津家久型成長類型:竹中半兵衛型、黑田官兵衛型、明智光秀型、山縣昌景型、高坂昌信型、本多忠勝型、井伊直政型成長類型:片倉景綱型、立花宗茂型、立花誾千代型、前田慶次型、蒲生氏鄉型、鈴木重秀型、山中鹿之介型成長類型:長宗我部元親型、本願寺顯如型、榊原康政型、北条綱成型、佐久間信盛型、古田織部型、堀秀政型成長類型:保科正俊型、服部半藏型、石田三成型、原虎胤型、毛利隆元型、加藤清正型、築城名手型成長類型:外交僧型、最上義光型、軍團長型、今川義元型、齊射萬能型、齊射武勇型、出雲阿國型自創武將成長類型的條件
上杉景勝 Uesugi Kagekatsu(1556年-1623年)長尾政景的次子、母為上杉謙信之姐.仙桃院、養父為上杉謙信、正室為武田信玄之女.菊姬、側室為四辻公遠之女.桂岩院;幼名卯松、初名長尾顯景、繼承上杉氏,改名為上杉景勝、法名宗心。永祿七年(1564年),政景與謙信的家臣宇佐美定滿(定行)於野尻池遊舟時意外溺死,成為謙信的養子,改名為上杉景勝。天正六年(1578年)3月13日,謙信於征伐越中時病歿,謙信生前並沒有立下後繼者。使景勝與謙信的另一個養子上杉景虎因爭奪家督繼承權而展開內戰,景勝一方自稱根據謙信遺言景勝才是合法繼承人,並於3月24日佔據春日山城本丸(實城)與金庫,景虎則進駐春日山城下的上杉憲政的官邸(御館)與景勝對峙。同年6月,景勝為了盡快解決與景虎的鬥爭,以東上野四郡與部分的黃金讓渡為條件交換與甲信武田家的和睦並取得其支持,翌年9月景勝迎娶武田家當主・勝賴的異母妹・菊姬為正室,締結「甲越同盟」。天正七年(1579年)3月,雙方達成議和,由景勝的養祖父上杉憲政偕同景虎的嫡長子・道滿丸進入春日山城作為人質,卻在前往的途中被不知情的景勝手下斬殺(一說為直江兼續所策畫),聽聞噩耗的景虎於御館切腹自盡。為期兩年的御館之亂終告結束。不管怎麼說,在繼承權上,至少景勝(母親是謙信公的姐姐,父親也是長尾氏一族)在血緣上比外來子景虎(實父北條氏康)更有說服力。上杉氏於謙信時期的天正四年(1576年)時與北陸本願寺達成協議共同對抗織田氏,但是在御館之亂爆發之後,北陸的上杉軍陷入混亂使得織田軍有機可乘。天正九年(1581年),北越後的新發田重家因不滿獎賞不公而反叛,並與織田信長內通,同時信長麾下的北陸攻略軍團・柴田勝家展開對越中上杉領內的侵攻。翌年,景勝為了出兵越中對抗柴田勝家而無暇顧及武田家,使得武田勝賴於天目山之戰中被織田氏消滅,武田氏滅亡,越後的上杉氏頓時陷入了唇亡齒寒的局面。天正十年(1582年),織田軍壓制魚津城,上杉氏失去了在越中的所有領地。同年6月2日,京都的明智光秀叛變,引發「本能寺之變」,織田信長自盡。織田氏的北陸征伐軍受挫、柴田勝家退兵,景勝死裡逃生。但是御館之亂長期以來的混亂局面再加上織田氏的侵攻,讓謙信時期以來所擴大的國力大幅的衰退。也使得新發田重家的叛亂到了豐臣時代才得以平息。本能寺之變後,羽柴秀吉在山崎之戰擊敗明智光秀成為織田霸權的繼承者,景勝隨後派遣直江兼續前往,達成「越水同盟」(實則為臣屬關係)。天正十一年(1583年)秀吉與其對立的柴田勝家展開賤岳之戰,景勝也奉命入侵越中。天正十二年(1584年),爆發小牧・長久手之戰,翌年真田氏以與上杉家平等關係為由放棄了同盟關係,轉而臣服於秀吉。天正十四年(1586年)6月,景勝與直江兼續上洛會見秀吉,以養子・畠山義真作為人質成功保住了領地。同時景勝也拜揭正親町天皇受任右近衛少將。天正十五年(1587年),在秀吉作為後盾之下,景勝討伐新發田重家平定內亂、統一越後。天正十六年(1588年)再次上洛,6月15日敘昇為從三位・參議。天正十七年(1589年),討伐佐渡本間氏,平定佐渡。此時上杉氏的領地為越後、佐渡、出羽莊內三郡以及信濃川中島四郡,合併共90萬石。同年8月,趁最上義光派遣援軍幫助大崎氏防御伊達政宗的侵攻之時,命令本莊繁長協助大寶寺氏奪回莊內地方的統治權,在十五裡原之戰大敗最上軍奪回莊內地方,後秀吉承認大寶寺氏為上杉家的與力大名。天正十八年(1590年),秀吉以違反無事令為由,下令各家大名出兵討伐關東北條氏,是為小田原之役,景勝即派出山浦景國為先鋒會同前田利家與真田昌幸攻略上野、武藏境內的北條氏領地。同年7月,小田原城開城投降,北條氏滅亡。文祿元年(1592年),秀吉開始向朝鮮出兵,爆發「文祿之役」,景勝率領5000人駐紮於肥前名護屋城,隨後渡海進軍朝鮮。文祿三年(1594年),上洛拜領「豐臣」之姓並敘昇權中納言,人稱越後中納言。文祿四年(1595年)1月,秀吉授命景勝管領越後、佐渡的金山、銀山。同年,原來的「豐臣五大老」之一的小早川隆景因病隱居,由景勝接替隆景的空位,「五大老」分別為:內大臣德川家康、大納言前田利家、中納言毛利輝元、中納言上杉景勝、中納言宇喜多秀家。慶長三年(1598年),移封會津一百二十萬石,是豐臣政權之下少有超過一百萬石的大名(其中出羽米澤6萬石為其家老直江兼續的封賞),往後便改稱「會津中納言」,代替蒲生氏監視東北各大名(尤其是野心極大的伊達政宗)。雖然移封會津,但景勝仍實際支配佐渡一國與越後東蒲原郡以及出羽莊內地方。慶長三年(1598年)8月,秀吉病歿。慶長五年(1600年),上杉景勝命令直江兼續增建神指城增加防御力。後來堀秀治向德川家康報告,指出上杉景勝有叛意。5月3日,德川家康下命各大名進攻會津。由於德川家康的軍隊在上野國小山得知石田三成進攻伏見城,經過會議後決定返回關東重整軍勢,德川軍主力沒與上杉景勝交戰,成為雙方在關原交戰的序幕。慶長五年(1600年)10月,關原之戰中歸屬西軍,在東北地區與伊達和最上兩軍交戰。後來西軍敗北,景勝的領地由一百二十萬石減至三十萬石,並移封至本為家臣的直江兼續的領地米澤城,成為米澤藩。元和九年(1623年)在米澤城病逝,年69歲。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D
仁賀保挙誠 NiKaho Takanobu(1560年-1624年)出羽国由利郡の南部を支配した。実名は文書上確認されるのは「光誠(みつしげ)」であり、これは次男の誠政が将軍徳川家光の「光」の字を憚り、代わりに「挙」の字を当てたためと考えられている(自身も光政から名を誠政に変えている)。なお『寛政重修諸家譜』では、挙誠を「たかのぶ」と読ませている。仁賀保氏は通字に「挙」を、家紋に「一文字に三つ星」をそれぞれ使用するため大江氏との関係を指摘する旨もあるが、「挙」の通字は文書上は確認されない。これは大井姓が誤伝により大江と伝えられ、これによるものであると考えられる。仁賀保氏はその家系は断続的ながら文書上に確認されており、「光長」「光誠」など「光」が通字であったのであろう。また、家紋は「一文字に三つ星」の他に「松葉菱」も使用しており、大井氏の流れを汲むのはほぼ確実である。仁賀保氏の成立 仁賀保氏は清和源氏小笠原氏流の大井氏の流れを汲み、その祖先は元々は信濃大井庄の領主であった大井朝光である。朝光は叔母である大弐局より出羽国由利郡を相続し、その縁で由利郡に信濃大井氏が繁栄することとなる。鎌倉時代初期、大井氏は信濃大井庄を本貫の地とし、地頭代を派遣して由利郡を支配していた。これは鎌倉時代末期まで続いていたと考えられる。当初は「津雲出郷」と呼ばれた矢島郷(現在の由利本荘市矢島町付近)を支配した矢島氏が地頭代であったらしい。矢島氏の祖と考えられる大井政光と仁賀保氏の祖と考えられる甲斐守光長は兄弟であるらしく、光長の孫の友光の代には仁賀保郷(現在のにかほ市付近)に進出していたらしい。仁賀保氏の菩提寺である禅林寺にはこの時代からの位牌が残っている。後、建武の新政・南北朝などの混乱期を経て、由利郡は大井氏からの独立の気運があったと考えられ、それを制するために新たに地頭代として任命されて由利郡に移住してくる者達が多く居たようである。特に、後に赤尾津(あかおつ)氏とも呼ばれる小介川(こすけがわ)氏は大井氏の分家として、由利郡の北から雄物川河口部にかけて勢力を広げ、室町時代中期には醍醐寺三宝院門跡領を横領するほど勢力を増した。友光の四男の友挙は彼らを説圧するために鎌倉より下されたと伝えられる。無論、当時の東北地方の政治状況から勘案すれば、事は簡単なものではなく、関東管領・出羽探題・室町幕府の思惑が複雑に絡んだものであったと考えられる。当時の大井宗家の当主である持光は鎌倉公方足利成氏の外祖父にあたり、関東管領である上杉氏と対立関係にあった。また、醍醐寺の荘園を横領した大井氏の分家の小介川氏(赤尾津氏)の存在もあり、上杉氏と近い関係にあった大井氏分家の友挙の由利郡下向は、非常に政治的なものであったのだろう。友挙の子の大和守挙政は、主な領地名である仁賀保郷を以って「仁賀保」を名字とした。仁賀保の名は大永4年(1524年)の長尾為景宛斯波政綿書状の中に出てきており、この時代、仁賀保氏は中央政権に対して馬の献上をもしていたらしき事が推察される。挙政の子の挙久は優れた人物で、兵を庄内地方に進め、日本海に浮かぶ飛島を切り取るなど活躍したが、矢島氏との戦いに敗れて討死したことにより仁賀保氏は衰退した。この時代、北出羽では湊安東氏、小野寺氏は京都御扶持衆であり、仁賀保氏は定かではないが、同じ由利郡の国人領主である滝沢氏が京都に代官所を持っていた事、御用商人の来訪などからしても、中央政権に近い有力な国人領主としての地位を確立していたらしい。挙誠の登場 挙誠は仁賀保氏がお家騒動と敗戦により当主が挙久から4代続けて非業の死を遂げた後に、一族である赤尾津氏から養子に入った仁賀保氏中興の祖である。仁賀保氏は歴代、山内上杉家またその分家の越後上杉家、長尾氏と関係が深く、本庄氏や大宝寺氏らと共に上杉氏の影響を受けていたらしい。上杉謙信の死後、長尾上杉氏の影響下にあった出羽庄内の大宝寺氏当主の大宝寺義氏が独立を目指すと、仁賀保氏は大宝寺氏らと戦うことになる。また、義氏は仙北の小野寺義道と同盟し、背後より矢島氏に仁賀保氏を攻めさせた。この為仁賀保氏は国力を大きく落とし、天正10年(1582年)頃より翌11年(1583年)にかけ、義氏に何度か大きく攻め込まれた。このため、仁賀保氏は5代当主の重挙が死亡後、独自に当主を立てられなかったものと考えられる。6代当主の八郎が没した後、仁賀保宮内少輔など有力な一族が居たにもかかわらず、挙誠が赤尾津氏より養子に入ったのは、赤尾津氏を支援した安東愛季の意思が働いたものか。挙誠が家督を継いだ天正13年(1585年)の時点の仁賀保氏は、小野寺氏の有力一族である西馬音内(にしもない)氏の娘を娶っていた矢島満安と鋭く敵対していたが、出羽庄内地方に最上義光が勢力を伸ばし、上杉方の大宝寺氏と戦闘を繰り返しており、背腹両面に敵を受けるわけには行かないので、矢島満安と和睦し、庄内戦に専念した。この頃、大宝寺義氏は重臣の東禅寺義長の謀反によって殺され、義氏の弟の義興が当主となっていた。義興と東禅寺義長が対立しており、更には大宝寺氏を本庄繁長・上杉景勝が、東禅寺氏を最上義光がそれぞれ支援していた。この戦いは本庄繁長が庄内に攻め込み、東禅寺義長を討ち取り最上軍を殲滅した事によりケリがついた。さてこの騒動の間、最上義光は不利になりつつあった庄内での戦いを有利に進めるため、由利郡の国人領主にも使いし、自身に与同する様に要請している。この際、義光は豊臣秀吉の惣無事令を実行する代官であるという立場を強調している。無論、秀吉の威光を以って仁賀保氏らを自身の配下にしようとする魂胆であるが、あまり効果が無かった様である。仁賀保氏らは秀吉には出仕するが、義光の命令は聞かないという立場をとったようである。天正16年(1588年)になり義光は出羽探題に任ぜられたとして、再び挙誠らに圧力をかけて来たが、越後から本庄繁長が来襲して最上軍を粉砕した事は先述した。これ以後庄内は完全な上杉領となった。この時、仁賀保氏らは庄内に出兵して最上軍を駆逐して回ったらしい。この上杉軍と挙誠の動向からして、庄内の領有権は歴代上杉氏のものであり、上杉軍・仁賀保氏らは豊臣秀吉の惣撫事令に基づく天下軍として最上方を成敗したという形であったらしい。この直後、義光は仁賀保氏らを揺さぶるためこれと敵対する矢島満安に使者を出し、これを懐柔することに成功する。挙誠らは満安の単独行動を良しとせず、奸智により矢島氏を攻め滅ぼし、矢島氏を利用して由利郡を自身の領土にしようと画策した義光の野望を挫いた。以後矢島郷は仁賀保氏領となり、秀吉の小田原征伐に加わり、仁賀保郷・矢島郷の領有を認められ、天正18年(1590年)12月24日付の知行宛行状により、由利郡南半分を領有することが決定した。なお、天正16年(1588年)に最上軍を粉砕した本庄繁長率いる上杉軍は天下軍として賊軍を成敗するという性質を持っていたと解釈すべきである。故に仁賀保氏ら由利衆もこれに加わったものであり、再び翌天正17年(1589年)に安東氏の内紛である湊騒動に対して、由利衆は天下軍として上杉氏より派遣され、秋田実季を支援して戦を鎮めた。よって関東奥羽惣無事令が出されていたのにかかわらず、上杉、仁賀保らの戦闘は私戦は考えられず、天下軍であるとは考えられなかった実季は改易は免れたが、湊安東家の領土は没収され天領となった。挙誠の領地 挙誠の領地は現在のにかほ市と由利本荘市矢島・鳥海地区に跨る。天正18年(1590年)に奥州仕置が行われたとき、由利郡では仁賀保氏のほか、赤尾津氏、滝沢氏、打越氏、岩屋氏、石沢氏、下村氏、根井氏、玉米氏、潟保氏らの存続が認められた。この内、石沢、下村、玉米、根井、潟保氏は文禄4年(1595年)に他氏の傘下に入ったらしい。但し、現在にかほ市教育委員会に保管されている「仁賀保家文書」には打越氏・根井氏宛の秀吉からの知行宛行状も含まれている。両氏とも大名として存続しているので、当初から挙誠にまとめて交付され、仁賀保氏の傘下に入っていたらしきことが推察される。後に根井は完全に仁賀保氏の傘下に入り、打越氏は軍事指揮下に入ったようである。また、潟保氏配下の稲葉氏の覚書により、関ヶ原の戦いの折には潟保氏の配下が仁賀保軍に加わっていた事が確認できるので、潟保領も仁賀保氏領になっていたと考えられる。石高は天正18年(1590年)には3,716石の記載があるが、天正20年(1592年)には8,000石強であることが確認されており、領内に設置された天領分を合わせると1万2,000石はあったものと考えられる。これに後に根井氏・潟保氏分が加わった。豊臣政権下 他の奥羽の武将の例に漏れず、小田原参陣の後、挙誠は妻子を京都に人質に取られた。翌天正19年(1591年)には九戸政実の乱の討伐軍の一軍として参陣し、『奥羽永慶軍記』によれば大功を立てている。文禄の役では肥前名護屋城に駐屯し、「おこし炭」の役をこなしている。また、牧使城攻撃の一軍として渡海する予定であったが、落城したため渡海することは無かった。文禄年間末からは北東北総ての大名に言い渡された杉材木の献上事業に豊臣政権が崩壊するまで従事した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、最上義光より東軍与同の誘いを受け、同族の赤尾津氏当主の赤尾津孫次郎と共に東軍に加わり、庄内まで出陣したが、石田三成が挙兵して徳川家康が上洛すると、家康より文書を受けて後、居城に帰還している。その直後、上杉方より唆された矢島満安の遺臣が一揆を起こした為、これを討伐した。この為、庄内の上杉勢を攻めることができず、後に義光より西軍与同の嫌疑を受けた。しかしながら石田三成が敗死した後、ただ一人徹底抗戦している景勝を攻めた。この際、上杉家臣の下次右衛門の菅野城を始め、数多くの城を攻め落とし、自身も負傷するほど力戦した。このため、後に家康から所領を安堵され、感状を与えられている。戦後、挙誠は秋田実季らと共に西軍与同の嫌疑を受け、慶長7年(1602年)、常陸国武田(現在のひたちなか市)5,000石に移封された。徳川政権下 常陸武田に移封になった挙誠は江戸に屋敷をつくり、大坂冬の陣では馬廻りの一軍として出兵、翌夏の陣では淀城の守備を務めた。元和2年(1616年)に伏見城番、元和9年(1623年)には大坂城の守衛を務めた。さて、時の老中土井利勝の家臣に鮭延秀綱という人物が居た。秀綱は元々は最上義光の重臣であり、最上騒動に絡んで土井家に御預けになっていた。その秀綱が主君利勝の諮問に答え、関ヶ原の戦いの時の挙誠の勇戦振りを語った。それに感銘を受けた利勝により元和9年(1623年)10月18日、挙誠は旧領仁賀保に所領を与えられ転封になった。この際、分家の打越氏にも領土の内の矢島郷を与えた様である。よって、仁賀保氏は打越領を含めると旧領をほぼ取り戻したことになる。この際、挙誠は仁賀保主馬という人物に700石与えている。分家であろうかと考えられる。なお、万石以上が大名であるというのは後世の感覚であり、当時は外様の領土持ちは大名であったと考えるべきである。仁賀保氏も打越氏も領内に居城を持ち、住んでいた。仁賀保郷に復帰した翌年の寛永元年(1624年)2月14日に死去、享年65(『寛政譜』の没年は誤り)。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E8%B3%80%E4%BF%9D%E6%8C%99%E8%AA%A0
伊達政宗 Date Masamune(1567年-1636年)伊達輝宗的長子、母為最上義守之女.義姬、正室為田村清顯之女.愛姬、側室為飯坂宗康之女.飯坂之局;幼名梵天丸、通稱藤次郎、渾名獨眼龍。右眼失明 政宗在年幼的時候由於罹患皰瘡(天花)失去右眼的視力,也因此後世皆稱之為獨眼龍。不過關於政宗右眼失明的原因,之後多採用「從樹上摔下來時眼球被樹枝刺下來,於是便把眼球吞進肚子」的說法。母親義姬在政宗右眼失明後,便覺得政宗的容貌十分的醜惡。因此義姬嫌棄政宗,轉而喜愛次子小次郎。之後義姬更有毒殺政宗的行動(該次暗殺行動後小次郎被政宗殺害),不過政宗卻說:「這件事與母親無關」。元龜三年(1572年),父親輝宗聘請臨濟宗的虎哉宗乙禪師為五歲的政宗的老師,天正三年(1575年),輝宗讓神職之子片倉小十郎(片倉景綱)擔任政宗的侍童。片倉景綱可以說是政宗最親近的人,側近中的側近,日後是政宗的得力軍師。天正五年(1577年)元服,取名與伊達家第九代當主,有中興之祖之稱的伊達政宗同名,足以見得輝宗期望政宗能振興伊達家。另外,原本政宗的名字預定是取第十五代將軍足利義昭的昭字,定名為昭宗。天正七年(1579年),在父親輝宗的安排下,政宗與同屬陸奧國大名,三春城城主田村清顯的獨生女,愛姬成婚(陸奧田村氏傳說乃古代遠征奧羽的坂上田村麻呂後代)。〔這樁聯姻在於相馬氏屢屢來犯時,相馬顯胤總是與嫡子盛胤從犯伊達家領地的東南邊領,同時又聯同其他大名侵略田村氏,故換句話說是兩家結盟對抗相馬等氏的政略婚姻。相馬顯胤是輝宗的祖父伊達稙宗的女婿,算是輝宗的姑丈。兩家自從天文之亂後一直交惡。(顯胤經常說:「我是伊達家的女婿,盛胤是稙宗大人生前鍾愛的孫子,憑什麼不讓我們成為伊達家臣?」)版圖擴充 天正九年(1581年),15歲的政宗由片倉景綱與伊達成實陪同初次領軍作戰(另有一說為天正十年,但大多作九年),政宗先下大森城,再破金津城,沒幾天後伊達軍又攻破丸森城與金山城。但兩家並未分出勝負。(伊達氏自此之後,東面戰線的主要交戰對手都是相馬氏,直至天正十八年(1590年),政宗與相馬氏一直處於交戰對立狀態。)天正十二年(1584年)父親輝宗有鑒於家內為未來繼承人的問題而分為兩派(政宗與小次郎,其中小次郎派為義姬幕後主腦),為停止家中分裂,輝宗決定讓政宗繼任家督的同時宣布退位。雖然政宗多次諫止,但在群臣的勸說後,18歲的政宗正式繼任為伊達家17代家督(「貞山公治家記錄」卷一)。政宗繼位後,決意向周邊的敵對大名交戰。第一步是迫立場反覆不定的大內氏投降,其當主大內定綱在蘆名的支持下拒絕政宗的威脅,於是政宗便大舉進攻大內定綱,並發生小手森城屠城的事件。深感危機的二本松義繼為求自保,終在天正十三年(1585年)前往拜見輝宗,但義繼突然發難脅持輝宗威迫伊達家讓步,政宗下令向義繼部隊射擊,結果是義繼和輝宗二人在鐵砲射擊下死亡,是為粟之巢之變。其後,政宗開始鎮壓叛變的大內定綱。同時在蘆名義廣、常陸的佐竹義重為首的奧羽南部大名,如岩城常隆、石川昭光,白川義親、相馬盛胤、二階堂盛義等反伊達的軍隊也開始向伊達家進攻,戰場從觀音堂轉戰到人取橋,慘烈的程度連指揮的政宗都投入一般的白刃戰鬥。儘管戰鬥經常呈現膠著,但是政宗聯絡北條氏派軍攻擊佐竹領,同時義重本營又收到反佐竹的江戶重通趁機入侵,故反伊達陣線因此一夜撤軍。政宗辛辛苦苦終於贏取是役的勝利。可是政宗也損失七十三歲的老部將鬼庭良直,他為保護伊達軍免於崩潰,於是殿後作戰,於人取橋附近奮戰而死。之後政宗又於天正十七年(1589年)在摺上原對抗(摺上原之戰),並先後將蘆名氏和二階堂氏消滅。經過摺上原等對周邊大名的戰爭後,伊達的勢力已經滲入整個會津及奧州,而政宗開創比父祖更大的伊達家版圖,當時領地的石高推定為120萬石左右。豐臣政權家臣時期 天正十八年(1590年),豐臣秀吉出兵後北條氏小田原城,並下令伊達家派兵協助,但是因為在出兵前中欺騙秀吉,政宗遲遲還沒作出決定,幸而有片倉景綱的提醒下,部隊遲出發,秀吉曾打算將政宗處死,於是政宗將自己和其部隊全身白色裝束上陣,並且甘願受罰,以表示忠誠和謝罪,所以秀吉以杖代刀的方式來處罰政宗,並且寬恕政宗罪過;戰後由於出兵有功,所以伊達家能保持原有的領地,而失去會津一帶的領地。戰前,母親義姬因支持政宗之弟伊達小次郎政道而欲毒殺政宗,讓政道取而代之;之後小次郎被處死,義姬則在事件發生數年後離開伊達家,回到兄長山形國大名最上義光的山形城(原因不明)。天正十九年(1591年),協助蒲生氏鄉平定葛西大崎一揆,但是氏鄉則指政宗與一揆軍內通,於是政宗為此事再次上京解釋,證明該書物是偽造後,而秀吉則決定改封政宗至岩出山城58萬石(但米澤等地則被沒收,故是減遷)。天正二十年(1592年),受豐臣秀吉之命令派三千兵出征朝鮮,3月抵達征明(中國當時為明朝)之地名護屋,文祿四年(1595年)獲批准回日本。政宗沒有參與慶長之役。慶長四年(1599年)將嫡女五郎八姬與松平忠輝婚姻。自此就與德川家康有親近的關係。在關原之戰時支持東軍,雖然無法直接參與在關原的本戰,但是政宗在長谷堂城之戰接受最上義光的求援,派遣留守政景支援長谷堂城的戰況,使直江兼續無法攻下長谷堂城。仙台藩主 由於關原之戰所屬的德川軍取得勝利,因此政宗的領地得以保留。德川家康原定安排政宗成為100萬石大名,但是因為被揭發煽動和賀忠親引發岩崎一揆,只能由原來石高57萬增封為62萬的大名,成為仙台藩藩祖,隨後立即築起仙台城及城下町,當時仙台城仍為山城,在山下設下城下町,仍有統一天下之心(政宗死後被改建為平山城)。參與由德川對豐臣的大坂冬之陣及大坂夏之陣等著名戰鬥,在夏之陣的道明寺之戰於譽田與真田信繁部隊激戰,在天王寺·岡山之戰,曾經向我方神保相茂部隊自相殘殺以鐵炮部隊使之全滅,之後神保遺臣透過水野勝成喊冤,要求德川家要政宗需對事件作出解釋。但是最終幕府沒有對政宗的行軍作出任何懲罰。此外政治方面,更於慶長十八年(1613年)派遣家臣支倉常長到羅馬與教廷使節會面長達七年,成功在外國進行貿易。亦成功將仙台一帶成為經濟的重心。德川幕府成立後,曾多次任將軍的上京供奉。曾說「願早生二十年,成就如信長公霸業」,政宗雖有想要一統天下的志向,卻難逃生不逢時的厄運。寬永十三年(1636年),已隱居的政宗於江戶因食道癌病逝,年七十歲。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97
伊達輝宗 Date Terumune(1544年-1585年)伊達晴宗的次子、母為岩城重隆之女.久保姬、正室為最上義守之女.義姬(保春院);通稱彥太郎、總次郎,受足利義輝偏諱「輝」字,名為輝宗,戒名覺範寺殿性山受心大居士。因為長兄親隆成為外祖父岩城重隆的養子,於是輝宗成為世子。天文二十四年(1555年)3月19日元服,受將軍足利義輝的偏諱而改名為輝宗。於永祿七年(1564年)迎娶最上義守之女.義姬(最上義光的妹妹),同年末期繼承家督。不過此時家中的實權被已經隱居的父親晴宗和在天文之亂期間成為家中最大實力者的重臣中野宗時、牧野久仲父子所掌握。因此希望得到家中統制的輝宗在永祿十三年(1570年)4月,以中野宗時企圖謀反的口實攻陷久仲的居城小松城,此後把中野父子流放。另外輝宗還處罰沒有幫助自己的小梁川盛宗、白石宗利、宮內宗忠等人。同年,正室義姬父家最上家中最上義守、最上義光父子之間發生鬥爭,輝宗出兵支援義守並進攻義光,不過因為義姬請求輝宗撤兵而歸還。此時已掌握家中實權的輝宗提拔鬼庭良直為評定役並加以重用,而且發現中野宗時的家來遠藤基信的才能而把其召到自己身邊,令基信負責外交。以這兩人為中軸的輝宗政權持續執行父親晴宗的方針,與蘆名氏保持同盟關係,另一方面則調停南奧羽諸侯之間的紛爭。更進一步展開廣大的外交活動,在天正三年(1575年)7月向中央的實力者織田信長贈送鷹等,再命遠藤基信向北條氏政和柴田勝家頻繁地送出書簡和禮物,建築出多方的友好關係。天正六年(1578年)因為上杉謙信死去而引發的御館之亂中,輝宗把對相馬氏的戰線交給叔父亙理元宗,並基於北條的同盟而與蘆名盛氏一同支援上杉景虎方參戰,不過御館之亂最終由上杉景勝方得到勝利,蘆名、伊達軍沒能夠阻止新發田長敦、新發田重家兄弟的奮鬥。但是在御館之亂後的論功行賞時,新發田勢的軍功被低估,而且希望仲裁的安田顯元自殺,於是新發田重家在天正九年(1581年)向上杉景勝發動叛亂,輝宗與蘆名盛氏的後繼者蘆名盛隆(二階堂盛義之子)一同支援重家,而柴田勝家亦一同連手介入越後的戰鬥。於是新發田的叛亂就陷入7年的長期戰中。另一方面,在對相馬氏的戰鬥中,因為相馬盛胤、相馬義胤父子相當善戰,戰局完全沒有好轉,不過在天正七年(1579年)迎田村清顯的女兒愛姬為嫡男伊達政宗的正室來壓迫相馬方,於天正十年(1582年)向小齋城城主佐藤為信的調略成功的同時,在天正十一年(1583年)5月17日終於成功奪回天文之亂以後最重要的要衝丸森城,翌年(1584年)1月11日,攻略金山城(在於寬文7年(1667年)的相馬中村藩士中津幸政編纂的『奧相茶話記』中記載,因為田村清顯在天正十一年(1583年)2月的仲介下而決定丸森、金山兩城的返還)。獲得伊具郡全域的輝宗決定停戰。同年5月,以祖父伊達稙宗的隱居領伊具郡為伊達領地,宇多郡為相馬領地,於是與相馬氏達成和解。此時的伊達家恢復稙宗時代的勢力圈(11郡餘),而且更將影響力遍及南奧羽全域。天正十一年(1583年)收到盟友柴田勝家4月在賤岳之戰中被羽柴秀吉擊敗並滅亡的消息,於同年6月5日送給姪子岩城常隆的書狀中,提到秀吉的勢力已經蔓延到東國,希望聯合奧羽的諸大名對抗(在『性山公治家記錄』和『大日本史料』都記載書狀的發出日期是天正十一年(1583年)6月5日。另一方面,小林清治的『米澤市史』(1985)則記載是天正十年(1582年))。天正十二年(1584年)10月6日,蘆名盛隆因為男色問題而被家臣殺害,輝宗成為出生只有1個月的當主.盛隆的兒子龜王丸的後見。輝宗在此時決定把伊達家的家督讓予嫡男伊達政宗,並移居至已修築的館山城。以後自身專注介入越後方面的事情。而繼任家督的政宗則與上杉景勝講和,並放棄伊達、蘆名、最上共同介入越後的策略,於是蘆名家中開始增大對伊達家的不信任感。翌年(1585年)春天,響應田村清顯的請求,以清顯向伊達、蘆名方服從為條件,伊達氏命令從田村氏之下獨立的小濱城城主大內定綱返回田村氏的支配下。(田村氏在前年與大內氏鬥爭之際,因為對輝宗的調停方案不服而沒有跟從,於是遭到向大內氏支援的石川昭光、岩城常隆、伊達成實等人攻擊,於是田村氏屈服)而定綱則拒絕返回田村氏的命令,於是伊達政宗在同年4月向大內氏下達討伐命令。定綱向蘆名盛隆的未亡人彥姬(輝宗的妹妹,龜王丸的母親)求助,但是政宗在5月突然侵攻蘆名的領地(關柴合戰),在失敗後再向定綱和定綱的親戚.二本松城城主畠山義繼(二本松義繼)加強攻擊。因為政宗這樣激烈地轉換戰略方針,使輝宗所建構出的南奧羽外交秩序開始出現破綻。同年10月,二本松義繼向伊達政宗請求降伏,政宗對義繼顯示出苛烈的態度,向其宣告要大幅削減所領,不過負責調停的輝宗則對政宗的決定表示不滿(義繼向輝宗請求減輕處分),於是政宗亦決定減輕處分。10月8日,二本松義繼為向負責調停的輝宗表達謝意而前往宮森城(一說是義繼看見在館內磨刀的士兵,於是態度出現變化),突然挾持輝宗返回二本松城。伊達政宗前往追趕義繼,雙方在阿武隈川河畔的安達郡平石村高田相遇。此時政宗命令鐵炮隊射擊,於是義繼和輝宗都被擊殺(一說是義繼知道自己無路可逃,於是在殺害輝宗後割腹自殺),年四十二歲。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E8%BC%9D%E5%AE%97
人物:織田信長 柴田勝家 前田利家 明智光秀 丹羽長秀 羽柴秀吉 石田三成 長井規秀 松平元康 本多忠勝 伊達政宗 南部信直 最上義光 蘆名盛氏 佐竹義重 上杉憲政 結城晴朝 里見義尭 北条氏康 武田晴信 武田勝頼 飯富昌景 馬場信房 真田昌幸 真田幸村 村上義清 長尾景虎 上杉景勝 ...
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三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、羽柴秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、津軽為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、羽柴秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路頼綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、分部光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、、
八柏道為 Yagashiwa Michitame(生年不詳-1595年)八柏道為,八柏館主,稱大和守。八柏氏乃是落合十郎的後裔,自寬正元年(1460)八柏大和守道友入八柏館始稱八柏氏後,世居八柏館擔任小野寺家重臣,多次參與小野寺家平定周邊國人眾的戰事,武勳素著。在八柏道為繼任八柏館主後,在天文二十一年(1552年)橫手城主橫手光盛糾合金澤八幡宮宗徒謀叛,當主植道出兵討伐時八柏道為亦列陣中,不料征戰中途小野寺家臣增田大學及淺舞內藏助竟然雙雙倒戈和橫手光盛裡應外合,植道無奈敗走轉進湯澤城,在回到湯澤城的路上植道軍被橫手光盛發動的追擊戰打得狼狽不堪,植道身邊的譜代重臣連連折損,在此危難之時八柏道為自願殿後組成三十餘騎的敢死隊衝入進藤原擋住敵軍的追殺。一時間,八柏軍的勇悍使植道得到喘息的空隙快馬加鞭逃回湯澤城,戰鬥中連八柏道為的從弟,年僅十七歲的孫七也為了護主壯烈犧牲,最後僅道為一人回到湯澤城。此次大敗後,湯澤城遭到緊追而來的橫手光盛圍城攻打,混戰中植道被一箭射中眉心,絕命當場,藤盛監物抱住植道的遺體逃進湯澤城。驟失當主,使小野寺軍完全混亂,湯澤城也隨之陷落,兵兇戰危之際植道遺兒四郎丸在八柏道為等重臣的保護下投往莊內大寶寺家,三年後借大寶寺家的五千援軍出兵報仇,得到領內被橫手光盛荼毒的百姓支持,攻破橫手光盛軍並將他擊殺,入主橫手城,恢復了往日小野寺家的舊領,四郎丸改名輝道。在輝道的時代,輝道建立了小野寺氏全盛光輝,作為其麾下軍師的八柏道為也以出色的智謀輔弼輝道構築了小野寺家最大的勢力圈。在天正十四年(1586年)時當主之位已改為輝道之子義道,其時最上義光在暗殺了小野寺盟軍大寶寺家當主義氏侵吞莊內後,趁小野寺家方跟仙北戶澤家火拼一場後將軍勢轉入小野寺領地,數座城池接連陷落,所幸上杉家武將本莊繁長為了援助親子,過繼給大寶寺家的大寶寺義勝而出兵莊內,義光放棄跟小野寺家的戰事,親自出陣莊內。小野寺義道見機不可失火速出兵五千追擊,以山田清道、八口內定冬、御返事貞光為先鋒直驅最上領邊境的八口內,與最上義光和楯岡滿茂合流後的一萬最上軍於有屋卡對峙。當時最上軍勢為小野寺軍的兩倍,但最上軍背後另有在莊內的戰場,所以兩軍一直都只是以洋槍來往射擊,互相警戒。當時隨軍出陣的八柏道為登上附近的丘陵觀察局勢後地勢後,排下一計命令三十名特別精準的鐵砲射手針對最上軍的先鋒將領射擊,這番挑撥行徑使義光一怒出擊,被八柏道為的假撤退引入一處巖場,倚地利之便布下弓矢、落石夾攻,最上軍慌忙敗退,戰後最上軍死者多達數千之眾,小野寺軍僅僅陣亡三十八人。翌日,莊內大敗落入上杉家掌中的消息傳來,最上義光重整軍勢在休戰數日後,由嫡子義康率八百騎對小野寺軍急襲,倉皇間生變讓義道無力應付,八柏道為見無力回天於是親身擔下殿軍的職務,拼殺挺住最上軍的攻勢,讓義道從容回到橫手城。此戰之後,八柏道為深知無法跟上杉軍一爭莊內領地的最上義光必定會將擴張的目標放在小野寺家上,於是以昔日盟友的名義和大寶寺家的新當主義勝再次締盟,並透過他與其父本莊繁長結交,促成和上杉家的交誼,反過來從分別從南北兩方對最上義光進行壓迫。同時為了強化本家的戰力,八柏道為也開始辛勤練兵,並且留下了指導家中眾將的「八柏大和守掟條」三十一條,依照「奧羽永慶軍記」所載的殘篇,其中大致是包含不可斬殺來使、交戰時亦不可割取敵方平民稻米、奪取他人討取之首級死罪等指導性教條。天正十八年(1590年),豐臣秀吉出兵小田原,小野寺義道雖然前往參陣,但是因為麾下本堂忠親、六鄉政乘搶先一步宣告獨立,且不若最上、大浦、南部是秀吉積極想招徠的對象,所以只得到五萬石的安堵,增田、湯澤檢地代官任命權更被交給最上義光。其後在文祿元年(1592年)秀吉發起朝鮮侵略時,小野寺義道和最上義光、秋田實季前往參陣,然而最上義光卻心懷不軌趁機命楯岡豐前守及鮭延典膳以擁有增田、湯澤檢地代官任命權之名義侵入小野寺家領有的上浦郡,八口內的領主八口內定冬向相交多年且被譽為名軍師的八柏道為求援,但是正逢道為重病無法出兵,但為了援救定冬八柏道為仍迅速調兵遣將從本國派出援軍,但是八口內定冬的情況卻已到最危急的關頭,最後定冬捨命突擊人數是自方十倍之多的最上軍,在一陣奇襲後定冬自知無勝算便自害了。其後最上軍也因為小野寺援軍雲集而退卻。對小野寺的侵略再次因為八柏道為而受阻,這支撐著小野寺家的老將讓最上義光傷透腦筋,八柏道為是非除不可的。於是最上義光在文祿三年(1594年)模仿昔年毛利元就除去尼子家新宮黨的計謀,讓楯岡豐前守偽造一封八柏道為和最上內通的書信被小野寺義道的妻弟吉田孫市得到,在吉田孫市向義道告發後,義道大怒竟不分黑白,趁八柏道為前來橫手城經過中之橋時派遣刺客將道為暗殺,親手除去了家中最大的柱石,小野寺家也在八柏道為死去後一路急遽衰退。出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=03183&sn=365
前田慶次 Maeda Keiji(1533年?-1612年?)瀧川益氏/瀧川益重之子、養父前田利久、妻為前田安勝之女;幼名宗兵衛、實名利益、別名慶次,以「前田慶次」為人所知。生於尾張海東郡荒子怖的寒村,幼年過繼予前田利久(前田利家之兄)為養子。童年時的慶次於荒子城渡過,當時荒子城主為前田利昌(利久、利家之父);永祿三年(1560年)利昌死,利久繼為城主,但因為利久體弱多病,無力出戰,相反利家戰功卓著,於桶狹間之戰作戰勇猛,為織田信長所讚賞,這令作為家督的利久帶來無比壓力。永祿十年(1567年),織田信長命令養父利久讓出家督之位給前田利家,並在命令書上寫道:「前田家中有異行者(利益),對繼家督來說是無所用,又左衛門(利家)常在我身邊為近習而仕織田家,而且立功無數,家督之位由又左衛門繼承,正符合正理!」而後,利久與利益四處流浪。根據《米澤人國記》的記載,利益於(1567年-1582年)期間到京都與關白一條兼冬及右大臣西園寺公朝的屋敷活動,學習文學、音樂,又聽學大納言三條公光講解源氏物語及伊勢物語、向名茶道家千利休學者茶道,更學懂亂舞、猿樂、笛吹、太鼓的舞技,且向連歌第一大師紹巴學習連歌、俳句和歌等藝文。利益於當時又同時向伊勢松阪城主寶藏院胤榮學習騎馬弓箭之術,自認文武雙全、十八般武藝皆通。天正十年(1582年),織田信長命喪本能寺,其後,羽柴秀吉(豐臣秀吉)打敗明智光秀,又於賤岳之戰打敗柴田勝家,掌握織田勢,前田利家倒向秀吉,得到極大的信任。同時養父利久、慶次回到能登,利家以七千石之地給予二人,利久分予慶次其中五千石。同年,利家封慶次為阿娓城主。天正十二年(1584年),佐佐成政入侵,攻打末森城,守將奧村永福以寡兵死守半年,前田利家命慶次前往救援,慶次到達後,立即與成政激戰,並且成功擊到成政,正當眾人期望成政之死時,向來我行我素的慶次因敬重成政而放其離開,這使利家非常憤怒,但翌年的阿娓之戰立下戰功,受到利家的賞賜。天正十八年(1590年),隨前田利家出戰北條,戰後協助利家為陸奧地方的檢田使。天正十九年(1591年),養父利久病死,慶次決定出走,離開前田家,利家得知後大為憤怒,並揚言必殺之!其間的慶次再入京都,於各大名及貴族的屋敷間出入,同時在京都遇上一生中的至友——直江兼續,兩人一見如故,不時往來。慶長三年(1598年),直江兼續極力推薦慶次予上杉景勝,據記載,當時的慶次自稱名為「谷藏院了齋」,但有趣的是當時時值盛夏,但慶次穿著厚衣,據說當時景勝見到後,驚言:「此果為傾奇者也!」;景勝最後以一千石為俸召用慶次,但慶次回應道:「石錄高低,吾不問,只要可自由地為閣下服務便可」。同年八月,豐臣秀吉病死,德川家康迅速掌握天下。慶長五年(1600年),德川向上杉用兵,派大軍直指會津,但由於石田三成於畿內起兵,九月十五日,德川家康引兵到關原與西軍決戰,而上杉則向最上義光用兵以擴大版圖。但卻被伊達、最上聯軍打敗並且追擊,慶次有見及此,擔任殿後軍以換取撤退時間,並與直江兼續八百人共拒最上聯軍,使向來號稱於羽州縱橫無忌的最上軍損失慘重,於幾次戰鬥爭後,最上撤離,慶次等成功的阻止進攻。慶次更自稱「天下第一將」、「槍法第一」。關原之戰後,上杉降伏,由一百二十萬石減為米澤三十萬石,據說當時慶之有份與上杉景勝、直江兼續上京,並得到德川家康的接見。當時更據說,有很多大名向慶次招手,但都一一被拒,由於領地大減,上杉家無力出高俸,僅以五百石俸給聘用慶次。慶長六年(1601年),到達米澤,並在途中寫成描寫民風民俗的「前田慶次道中日記」,這是對當時的風俗的研究非常有用的史料。其後,慶次於堂森山東北的無苦庵居住,終日看花賞月,與近鄰住民相處融洽,不時參加宴會祭典。其間作成「無庵記」,記末慶次寫道「當生活時生活,當要死時當點綴,不為煩惱動一眉,不為俗事怨一言。」慶長十二年(1612年)六月四日,年七十三歲,葬於刈布安樂寺,法名龍碎軒不便齋。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E7%9B%8A