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三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、木下秀吉、斎藤道三、松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田晴信、飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、長尾景虎、長尾顕景、樋口兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、毛利元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友義鎮、龍造寺胤信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義秋、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、戸次鑑連、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、久慈為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、後藤基次、山中幸盛、陶隆房、吉弘統虎、吉弘鎮種、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、石川信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、木下秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、武田盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、三木自綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、細野光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新斎、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠隣、城井正房、大熊朝秀、氏家行広、池田知正、土井利勝、徳山則秀、平田範重、穴山信君、一条兼定、堀秀政、百々安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、佐竹義広、三善一守、板部岡江雪斎、岡本顕逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、浅野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重経、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、三木嗣頼、和田惟政、新発田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大内定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長増、安東実季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間頼照、酒井家次、宇都宮朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪頼忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色満信、真壁氏幹、本庄実乃、大田原晴清、中村春続、朝比奈信置、安藤守就、山名豊国、鵜殿長持
五百位人物:河東田清重、一栗放牛、一迫隆真、稗貫晴家、氏家吉継、四釜隆秀、新井田隆景、宮崎隆親、鱒沢広勝、水谷胤重、大塚政成、郡司敏良、大塚隆成、国分盛氏、駒木根利政、白河晴綱、白河義顕、針生盛信、松本氏輔、佐瀬種常、留守景宗、遠藤盛胤、西野道俊、二本松家泰、二本松義綱、片平親綱、高玉常頼、戸蒔義広、本堂茂親、南部政直、豊島重村、浅利頼平、戸沢盛重、戸沢政重、鮭延貞綱、大和田光盛、本堂忠親、大宝寺晴時、来次時秀、東禅寺義長、東禅寺勝正、織田信安、来次氏秀、仁賀保挙誠、北楯利長、懸田俊宗、小梁川宗朝、小梁川宗秀、船尾昭直、桑折貞長、大道寺盛昌、牧野久仲、佐竹義廉、佐竹義斯、江戸通泰、江戸通政、本多利久、神生通朝、本多利朝、兼松正吉
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、羽柴秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、津軽為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、羽柴秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路頼綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、分部光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、、
織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豊臣秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春
明石全登 Akashi Takenori(生年不詳-没年不詳) 備前保木城主の明石行雄(明石景親)の子として生まれた。備前明石氏(美作明石氏)は赤松氏の末裔(守護大名赤松円心の次男・赤松貞範の子孫)である。 行雄は、天神山城主の浦上宗景の家臣であったが、浦上氏滅亡の際には宇喜多直家に呼応して寝返り、以後、宇喜多家の客将となった。景親は弟の景季と共に、直家とその子の秀家に仕えて、4万石の知行までになった。景親の嫡子全登もその跡を継いで、和気郡大俣城(大股城)の城主となり、家老格であった。 慶長4年(1599年)、お家騒動(宇喜多騒動)が起こって、家宰(執政)の長船綱直が私的に殺害されると、関与した4人の重臣(戸川達安・宇喜多詮家(坂崎直盛)・岡貞綱・花房正成)が出奔したため、全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切った。主に軍事面を支えたことから、宇喜多秀家の軍師的存在だったと言う。当初、4万石の知行だったが、秀家の岳父である太閤・豊臣秀吉の直臣としても知行を貰い、併せて10万石取りとなった。 慶長5年(1600年)、東西の戦が始まると、全登は宇喜多秀家に従って出陣し、西軍に与すると7月から8月にかけて伏見城を攻略。(伏見城の戦い) 9月14日の杭瀬川の戦いでは、中村一栄をまず撃ち破って前哨戦を勝利し、9月15日の関ヶ原の戦い本戦では、宇喜多勢8,000名を率いて先鋒を努めた。宇喜多勢は福島正則を相手に善戦したが、小早川秀秋の裏切りをきっかけとして敗戦。全登は、斬り死にしようとした主君秀家を諫めて大坂へ退くように進言し、殿軍を務めた。 西軍敗走の際に田中吉政の家来・上坂万兵衛と接触したという記述がある。なお9月18日付けで、田中吉政は東近江の村々に石田三成、宇喜多秀家、島津惟新を捕らえるよう書状を配っている。 戦後、岡山城に退くが、城はすでに荒らされていて、秀家とも連絡が取れずにそのまま出奔。 宇喜多氏が没落し浪人となると、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田如水の下で庇護されたといわれている。如水の死後、息子の黒田長政がキリスト教を禁止したため、柳川藩の田中忠政を頼ったとされている。ただしこの時期の消息については諸説ある。 慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると豊臣方として参陣した。翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、まず道明寺の戦いに参加。後藤基次が突出して戦死し敗れたが、全登隊は水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と交戦して混乱に陥れ、政宗と相茂の同士討ちを起している。この戦いで全登は負傷した。天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷家臣の小倉行春と共に全登は300余名の決死隊を率いて、家康本陣への突入を狙っていたが、天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、水野勝成、松平忠直、本多忠政、藤堂高虎の軍勢からなる包囲網の一角を突破して戦場を離脱した。 その後の消息は不明である。徳川方の複数の家伝がそれぞれに全登をこの戦いで討ち取ったと伝え、戦死したとも言うが、それ以上に落ち延びたとする伝承も多く、いくつかは嫡子内記と共に九州に、またある物には南蛮に逃亡したのであろうと取沙汰したと書かれたものもあるほどで、諸説あり、判然としない。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%A8%E7%99%BB
明石景親 Akashi Kagechika(生年不詳-没年不詳) 備前国で浦上氏の家臣として浦上則宗の代から仕える備前明石氏の出身。父の名は源三郎景憲であるとも言われるが確証は得られておらず今のところは不明である。 天文年間末からの浦上政宗と浦上宗景兄弟の分裂において『備前軍記』では終始宗景に味方した股肱の臣として挙げられており、以後宗景に重臣として仕える。永禄10年(1567年)の明善寺合戦では浦上方として宇喜多直家の援軍として駆けつけ勝利に貢献したという。 永禄11年(1568年)6月1日には備前の片上と浦伊部(いずれも現在の岡山県備前市内)の間で起こった境界争いの仲介を大田原長時・服部久家・日笠頼房・岡本氏秀・延原景能と行雄の6人が行っている。永禄12年(1569年)には10月には美作国で毛利氏に奪われた高田城の奪還を狙う三浦貞広を岡本・長船・岡らと共に支援して高田城代香川広景を攻撃した。 天正2年(1574年)から浦上宗景と宇喜多直家の対立が激化し、天神山城の戦いが開戦した際には宗景を支持し、情勢不利となっても宗景とともに天神山城に籠り交戦していたが、やがて抗い切れないと悟ると宗景を見限り天神山城に火を放った上で城内の一角を占拠し天神山城陥落のきっかけを作った。この時、行雄の裏切りが天神山陥落に絡んだことは毛利氏の記録でも確認できる。 浦上氏滅亡後は浦上時代の所領をそのまま認められたが、宇喜多氏の老臣の列には加えられず「客分」として行雄は迎え入れられた。天正6年(1578年)の第二次上月城の戦いでは攻城側の後巻として八幡城に布陣していたが、この時上月城の救援に来ていた羽柴秀吉の家臣の竹中重治に密かに通じるなど不穏な行動を取っていたものの、攻城側優位のこの戦いにおいて実際に行動は起こしていない。 天正7年(1579年)に直家が毛利氏を裏切って織田信長に通じた際には毛利との戦争に備えて備前と美作の国境付近の白石城の改修に当たった。天正8年(1580年)3月には宇喜多から毛利へと寝返った竹内為能の籠る高城攻囲に参加。この攻城戦の際、蕨尾山に陣取った行雄の軍勢が籠城兵の夜討ちによる反撃を受け平尾弾正忠が討ち取られるなどの被害を出したが宇喜多軍は高城の攻略に成功し為能を追放した。高城陥落後の同年9月には篠向城に移って城の改修をした。 天正10年(1582年)には備中高松城の戦いに直家の嫡子八郎(後の宇喜多秀家)を奉じて羽柴秀吉の元に参陣し賞賛された。 天正11年(1583年)、羽柴秀吉と毛利氏との話し合いで決められた宇喜多・毛利両氏の領地の境界で宇喜多方に組み込まれた事に不満を示し、交戦の構えを見せた娘婿である虎倉城主伊賀家久に対して城を開城し毛利領へと退去するよう説得し、家久を虎倉より退去させる事に一役買った。天正14年(1586年)に従五位下伊予守叙任、以後の書状での名乗りは明石伊予守行雄となる。 天正16年(1586年)9月8日には上洛した毛利輝元の屋敷に宇喜多秀家の使者として参上し宇喜多屋敷へと輝元を招待したいという旨を伝えた。文禄3年(1594年)に行雄は娘婿伊賀家久の遺児である才法師丸の行く末を心配して、当時の家久の主君であった小早川秀秋の家老である山口宗永に書状を送って「似合いの御用」を仰せつけて欲しいと頼んだ。また、この書状では「老足の儀」により参上は出来ないので御用は掃部助(全登)に仰せつけて欲しいとも頼んでいるので、この時既に老衰が始まっており明石氏の当主も掃部助に移譲されていたものと見られる。 文禄3年(1594年)付けの書状が行雄の遺した最後の書状であるが、没年については不明である。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E8%A1%8C%E9%9B%84
浦上宗景 Uragami Munekage(生年不明-卒年不明) 享祿四年(1531年)、父親村宗在攝津國與細川晴元聯合軍的天王寺一戰中戰死後,兄長政宗以年幼之身繼承了家督之位。但在天文二十年(1551年)、尼子晴久入侵備前國之時,宗景與政宗在對策上有了意見的分歧。此後,兩兄弟各擁山頭,形成兩大權力集團;宗景團結了國中同樣暴露在尼子氏威脅下的國人眾勢力,與傾向尼子氏的哥哥完全對立而分裂了浦上氏。 天文二十三年(1554年)、宗景在天神山城揚旗,並與毛利元就同盟,以對抗和尼子氏站在同一陣線的政宗。宗景在毛利本隊及從屬於毛利氏的備中國大名三村家親親率的「備中眾」等援軍的幫助下,紛紛在各地擊破政宗、尼子聯合軍隊。永祿三年(1560年)左右、將兄長浦上政宗的勢力從備前國東部驅逐出去,完全掌握了備前國的支配權。 但是,和備中國的三村氏相同,在這個時期充其量只是處在毛利氏庇護下的弱小大名,而且內政上也受到毛利氏的介入,很難說是完全掌握權力的戰國大名。此外,三村氏也開始將勢力伸進美作國,兩家因而產生嫌隙。而政宗的勢力雖然已經大幅削弱,但仍存在於備前國,因此宗景的敵人還是很多。 與毛利氏斷交 永祿六年(1563年)5月左右、和政宗和談、斷絕後顧之憂的宗景,和三村家親發生戰爭。同年12月前宣布和毛利氏斷交,開始步上戰國大名之路。 翌年,永祿七年(1564年)、發生政宗和其嫡男清宗為赤松政秀殺害的事件,繼承家業的政宗次子浦上誠宗對此事並未採取任何動作,宗景得以專心和三村氏作戰。經過明善寺之戰等勝利,終於在永祿十年(1567年)時,成功將三村、毛利氏的勢力驅逐出備前國;同年,浦上領家的當主.誠宗也遭其暗殺。翌年,永祿十一年(1568年)、剿滅備前國中為數不多的國人眾松田氏,並將版圖擴展到除瀨戶內海的兒島外,領有備前國全域及美作國東南部,確定了浦上氏在戰國時代的地位。 可是,在此之前的戰爭中立下顯赫戰功的宇喜多直家及其家臣岡氏、長船氏等人,已經成為有獨立傾向的強大勢力。對宗景本身可以說是「在軍事上有著從屬關係的盟友」的勢力,很難說是像大名和家臣那樣的主從關係。因此,宗景在直家領內如水運等重要據點設下很多直轄地、並派官員管理,來限制直家的統治權。此外,浦上氏雖然將勢力擴展到美作國,但直家的封地卻始終限制在西備前國外圍的程度,而美作國仍然交與沼本氏和菅納氏等在地的國人眾治理。在現今、傳聞直家當時已凌駕於主家的論點是有誤的,就算以陪臣(家臣的家臣)水準的俸祿來比較,直家也並未逾矩。然而,直家獲得松田氏舊領的一部分,並在拉攏家臣團上有所建樹,對備前國的影響力也日益增加,這些都成為日後不利於宗景施政的要素。 直家、最初的謀反 永祿十二年(1569年)、赤松義祐和赤松政秀失和。宗景和舊播磨國守護家的赤松義祐、赤松則房及播磨國有力領主小寺政職等人結盟;以出兵援助為名義,吸收了兄長政宗在播磨國的遺領;並為了討伐赤松政秀,率領「備作眾」攻進西播磨。此外,積極支援亟欲復興尼子氏的尼子勝久等反毛利勢力,並和九州的大友宗麟同盟,顯露和毛利氏對抗的態勢。 但是,抵擋不住宗景猛攻的政秀,向同年中順利上洛的將軍足利義昭和織田信長請求援軍。8月到9月、宗景受到信長派遣的池田勝正、別所安治的攻擊;同時,私通信長的宇喜多直家也對宗景掀起反旗,令宗景陷入危境。不過,義昭、織田軍在攻下播磨國數城後很快就撤退了;反而是政秀被浦上軍打到節節敗退,困守在龍野城中。11月、政秀投降,宗景將其領地都收歸在手。而直家眼見形勢不對,也在同年向宗景請罪,重新回歸家中。 解除織田信長威脅的宗景,在翌年的元龜元年(1570年)、入侵備中國南部。此外,派遣援軍前往出雲國幫助尼子勝久;另一方面,還派出分隊向東支援赤松則房,攻擊別所長治的三木城(別所安治於此年過世),在軍事行動上非常活躍。元龜二年(1571年)、經由締結同盟的三好氏篠原長房的協助下,在備前國兒島戰勝毛利軍。同年秋天以後,又在備中國的佐井田城、松島城等地擊退毛利、三村軍隊。但在元龜三年(1572年)、毛利氏和大友宗麟在北九州的競爭暫時告一段落,毛利軍集結東進而來;宗景向足利義昭、織田信長請求調停,謀求和毛利氏的和睦。最初、毛利輝元不肯答應和議;但在10月、毛利氏和浦上氏終於締結和約,雙方歸還城池。 直家、再度的謀反 天正元年(1573年)12月、在信長的斡旋下,與別所長治達成和解;宗景也從信長手中取得備前、播磨、美作三國的朱印狀而被認可擁有上述三國的支配權。於是,宗景得到相當於以前守護的地位,浦上氏的勢力也凌駕於舊主赤松氏之上;浦上氏在宗景一代,其強盛達到了頂點。然而,根據此朱印狀,原先不屬於浦上氏的東播磨領主小寺、別所等人、也形同浦上氏的家臣,這個情形也招來了反感。注意到這點的宇喜多直家,暗中向小寺政職探詢,意圖將浦上政宗之孫久松丸帶往備前。在得到政職的承諾後,久松丸被秘密送進了岡山城。 翌年,天正二年(1574年)3月、擁立久松丸的宇喜多直家再度反叛,宗景的直屬部隊「天神山眾」在備前、美作國各地和宇喜多軍戰鬥。之後宗景也即刻展開外交戰,和備中的三村元親、美作的三浦貞廣等人結盟。此外,也向大友宗麟、三好長治請求援軍,但兩家有各自的敵人要應付而無暇相助。和前次的謀反不同,因為有久松丸的存在、直家在事前施展謀略將沼田氏、菅納氏等美作國人眾及宗景麾下諸將相繼策反,使得宗景陷入苦戰。而且,旁觀的毛利輝元無視於織田信長讓兩家和解的要求,更因為三村氏的反叛,決定支持宇喜多氏打倒浦上氏。天正三年(1575年)6月、毛利軍攻下備中松山城後,三村元親切腹自殺。在經過名為「備中兵亂」的一連串戰事後終於平定三村氏,毛利氏也全力支持直家而將宗景打到走投無路。 接著家中重臣明石景親等人也遭到策反。同年9月、從天神山城宇喜多軍的重重包圍中成功逃離。之後,宗景得到信長派遣的荒木村重支援,奪回了宇喜多端城(所在地不明),之後就以此為居城。 流放後 遭驅逐出天神山城的宗景,家臣並未全部投向直家。宗景以播磨為據點,和坪井氏、馬場氏等舊浦上家臣暗中取得聯繫。他們與一族的浦上秀宗蟄伏在備前國內,等待再起的機會。為了實現復興的夢想,宗景到天正五年(1577年)前曾多次上京拜見信長,但卻得不到積極的支援。結果,得不到信長幫助的宗景只得獨力成事。天正六年(1578年)12月左右、潛伏在備前的秀宗、坪井、馬場等反宇喜多勢力、以幸島(現岡山市水門町附近)為據點紛紛起兵,宗景也率兵前來會合,浦上軍成功收復天神山城。可是在翌年的天正七年(1579年)4月、文獻中記載秀宗和坪井等人退往播磨,可以想見這期間的叛亂已經得到了鎮壓。因此,殘存在備前的浦上派勢力也遭一掃而空,重掌備前國的夢想終究無法達成。失去宇喜多端城的時間則不詳。 關於宗景的晚年並未留下確實的史料,死亡的年代並不明確。《天神山記》中相傳曾應黑田長政邀請前往築前國,於此地出家並在七十~八十多歲時病逝。而宗景的麼子成宗、為元、浦上家臣高取備中守養育成人。備中守在關原之戰戰死後,據說成宗逃往九州,之後再偷偷返回備前定居,延續血脈。《備前浦上氏研究》的作者浦上元,就自稱是成宗的子孫。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%AE%97%E6%99%AF

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