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明智光秀

以下數據只適用於「信長之野望.創造」本體版,加強版 請到「信長之野望.創造 威力加強版」專長習得條件(成長類型) 「信長之野望.創造」本體版 專長習得條件(成長類型) 歷史武將的成長類型,可於「信長之野望.創造」本體版 全武將數據一覽查出 成長類型:統率型、武勇型、智略型、政治型、萬能統率型、萬能武勇型、萬能智略型 成長類型:萬能政治型、中庸型、萬能型、公主武將型、內政拿手型、幸運型、不幸型 成長類型:槍拿手型、赤備型、夜叉型、鬼型、守城型、守城專家型、捨奸(島津泛用)型 成長類型:信仰心型、大筒型、鐵甲船型、海戰名人型、忍者型、劍豪型、副將型 成長類型:騎馬突擊型、梟雄型、猛將(均衡)型、猛將(攻擊)型、智將(內政)型、智將(軍師)型、織田信長型 成長類型:豐臣秀吉型、德川家康型、武田信玄型、上杉謙信型、北条氏康型、真田幸隆型、真田昌幸型 成長類型:真田幸村型、伊達政宗型、毛利元就型、吉川元春型、小早川隆景型、島津義弘型、島津家久型 成長類型:竹中半兵衛型、黑田官兵衛型、明智光秀型、山縣昌景型、高坂昌信型、本多忠勝型、井伊直政型 成長類型:片倉景綱型、立花宗茂型、立花誾千代型、前田慶次型、蒲生氏鄉型、鈴木重秀型、山中鹿之介型 成長類型:長宗我部元親型、本願寺顯如型、榊原康政型、北条綱成型、佐久間信盛型、古田織部型、堀秀政型 成長類型:保科正俊型、服部半藏型、石田三成型、原虎胤型、毛利隆元型、加藤清正型、築城名手型 成長類型:外交僧型、最上義光型、軍團長型、今川義元型、齊射萬能型、齊射武勇型、出雲阿國型 自創武將成長類型的條件 武將如何增加四圍屬性? 遊戲的武將情報中,每個屬性下方都有一個經驗條,當某個經驗條滿了,對應的屬性就會+1,上限是+20。 填滿一個經驗條需要100點經驗,以下列出部份命令能得到的經驗。 數據來源: 01‧城主:4圍每月獲得7點經驗 02‧內政-開發:每月政治經驗+16(出陣武將無法獲得開發經驗) 03‧普請-建設:每次政治經驗+21 04‧普請-設營:每次政治經驗+18 05‧普請-整備:每次政治經驗+18 06‧普請-築城:每次政治經驗+60 07‧外交-工作:每月知略經驗+19 08‧調略-懷柔:每次知略經驗+28 09‧調查-巡查:每次知略經驗+24 10‧調查-偵查:每次知略經驗+24 11‧普請-修復:每月政治經驗+28 統率&武勇經驗,除了城主固定加以外,只能靠戰爭來獲得,但戰爭經驗計算比較複雜無法列出,但同一部隊大將和副將獲得經驗是一樣的。 出處 http://forum.gamer.com.tw/C.php?bsn=64&snA=8870 成長類型:統率型、武勇型、智略型、政治型、萬能統率型、萬能武勇型、萬能智略型 成長類型:萬能政治型、中庸型、萬能型、公主武將型、內政拿手型、幸運型、不幸型 成長類型:槍拿手型、赤備型、夜叉型、鬼型、守城型、守城專家型、捨奸(島津泛用)型 成長類型:信仰心型、大筒型、鐵甲船型、海戰名人型、忍者型、劍豪型、副將型 成長類型:騎馬突擊型、梟雄型、猛將(均衡)型、猛將(攻擊)型、智將(內政)型、智將(軍師)型、織田信長型 成長類型:豐臣秀吉型、德川家康型、武田信玄型、上杉謙信型、北条氏康型、真田幸隆型、真田昌幸型 成長類型:真田幸村型、伊達政宗型、毛利元就型、吉川元春型、小早川隆景型、島津義弘型、島津家久型 成長類型:竹中半兵衛型、黑田官兵衛型、明智光秀型、山縣昌景型、高坂昌信型、本多忠勝型、井伊直政型 成長類型:片倉景綱型、立花宗茂型、立花誾千代型、前田慶次型、蒲生氏鄉型、鈴木重秀型、山中鹿之介型 成長類型:長宗我部元親型、本願寺顯如型、榊原康政型、北条綱成型、佐久間信盛型、古田織部型、堀秀政型 成長類型:保科正俊型、服部半藏型、石田三成型、原虎胤型、毛利隆元型、加藤清正型、築城名手型 成長類型:外交僧型、最上義光型、軍團長型、今川義元型、齊射萬能型、齊射武勇型、出雲阿國型 自創武將成長類型的條件
本作以《信長之野望·創造》的基礎上制作的全新遊戲而非追加DLC,主打武將扮演而非系列傳統的君主扮演模式,玩家可扮演一名武將通過「立身出世」「下克上」等等元素在遊戲中揚名天下。預計於2016年3月24日發售。
一色満信 Isshikii Mitsunobu(生年不詳-1582年?) 父は一色義道、妻は細川藤孝(幽斎)の娘・伊也(『一色軍記』では”菊の方”);別名は義定、義俊、義有。通称を五郎。 剛勇に優れ、父・義道と共に織田信長配下の長岡藤孝(細川藤孝)の奥丹後侵攻を退けたという。天正7年(1579年)に義道が自害すると一色家の家督を継承し、弓木城で残党を率いて織田方に抗戦した。信長の意向もあり抗戦に手こずった藤孝は、明智光秀の助言により政略結婚によって和議を結び、以後、丹後国を長岡氏(細川氏)と分割統治した。 中郡・竹野郡・熊野郡のいわゆる奥丹後を領した義定(長岡氏は加佐郡・与謝郡を領有した)は織田政権の丹後守護として天正9年(1581年)の京都御馬揃えにも参加し、織田氏による甲州征伐にも口丹後の長岡氏(細川氏)と共に参戦している。隣国である但馬国の山名堯熙(氏政)とも親しく旧守護家同士ということで親交を深めていた。姻戚関係にあったともいう。 また国許においては弓木城を居城にして城下町を形成し丹後北半国を統治した。天正10年(1582年)の山崎の戦いでは直接の上司である明智光秀に味方する(長岡氏は上司である明智光秀に背く)。 戦後、天下を掌握しつつあった羽柴秀吉からの義定による謀反企図の報に接し、南丹後の長岡氏によって長岡氏の居城である宮津城内で謀殺された。その際、城内の家臣や城下の雑兵100人も松井康之、米田求政率いる軍勢に討ち取られ、弓木城も降伏した。なお、妻・伊也は降伏した際に長岡氏に戻っている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E5%AE%9A
一色義道 Isshikii Yoshimichi(生年不詳-1579年) 別名は一色義辰(よしたつ)・一色義通(よしみち)、「義」の字は室町幕府第15代将軍足利義昭より足利将軍家の通字を賜ったものである。官途は式部大輔、左京大夫。父は義幸、子に義定、兄弟に昭辰(あきたつ)、義清がいる。 一色氏は室町幕府の四職に数えられる名家であったが、戦国時代には没落の一途をたどり、丹後守護職の名分も宿敵である若狭武田氏に奪われ、長らく続いたかつての守護家の権威をもって丹後の実効支配を続ける状態にあった。 永禄元年(1558年)、父・義幸の隠居により家督を継承し加佐郡の八田守護所および建部山城に入り、実弟の義清を吉原城に配して丹後国の奥三郡を治めさせた。また同じく弟の昭辰(あきたつ)には「辰」の字を与え、彼は同じく将軍足利義昭より偏諱(下の「昭」の字)を授与されてその奉公衆として将軍家に近侍した。 義辰は昭辰を介して毛利輝元とも親交を深め、戦国武将としての地位を確立した。また、越前一向一揆討伐戦に参加するなど織田信長とも親交を深め、信長が擁立した足利義昭将軍より丹後一国を正式に安堵される。しかし、比叡山焼き討ちよって追われた延暦寺の僧を匿うなど信長と対立し、天正6年(1578年)には織田家の武将である明智光秀と長岡藤孝による丹後国への侵攻を招いた。 翌天正7年(1579年)、丹後国人の相次ぐ織田方への寝返りを招き、丹後守護所の詰城である建部山城も落城する。義道は但馬国の山名氏への亡命を企てて途中中山城に身を寄せたが、城主の沼田幸兵衛は長岡方に内応したため行き場を失って自害した。(細川家譜には丹後平定戦の最中に病死したとある) 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E9%81%93
三好康長 Miyoshi Yasunaga(生年不詳-1585年?) 三好氏の1人で、初めは甥に当たる本家当主三好長慶の弟で阿波国主の三好実休に仕え、篠原自遁・加地盛時と共に実休の家臣として活動した。永禄元年(1558年)に長慶が京都郊外で室町幕府13代将軍足利義輝・細川晴元と対峙した際は実休ら四国勢の先鋒として畿内に上陸、永禄3年(1560年)の河内遠征でも実休の名代として長慶と対面、永禄5年(1562年)3月の久米田の戦い、同年5月の教興寺の戦いなどで活躍した。実休の死後は拠点を河内高屋城に移し、他の家臣団と協力して実休の遺児長治を支えた一方、茶人としての活動も見られ、津田宗達・宗及父子の茶会に度々出席している。 長慶の死後大甥に当たる三好義継(長慶の甥)が相続したが、三好三人衆と松永久秀が敵対し、家中が割れると康長は三人衆に同調し、永禄9年(1566年)2月の上芝の戦いに参戦、5月に久秀が侵入した堺を三人衆と共に包囲した。しかし、翌永禄10年(1567年)2月に義継が突如三人衆の下から逃れて高屋城から脱出、堺へ赴き久秀と手を結ぶと、康長と安見宗房も久秀側へと鞍替えしたが、永禄11年(1568年)2月には三人衆が担いだ14代将軍足利義栄の将軍就任の祝賀会と考えられる大宴会に出席しており、その頃には義継の元を去っている。この宴会には、阿波三好家の大軍を率いる篠原長房も参加しており、三人衆は松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城を落とすなど(信貴山城の戦い)、松永勢を追い込んでいた。 しかし、15代将軍足利義昭を擁立した織田信長が同年9月7日に岐阜を出立、9月25日には大津まで兵を進めると三人衆の軍は崩壊し、29日に三人衆の1人で山城勝龍寺城主岩成友通が降伏、30日に摂津芥川山城で織田軍に抗戦した三人衆筆頭の三好長逸が細川昭元と共に退去、10月2日には三好康長も摂津越水城を放棄した篠原長房らと共に阿波へ落ち延びた。翌永禄12年(1569年)1月に康長は三人衆と共に和泉に上陸、京都本圀寺に滞在していた義昭を襲撃したが、細川藤孝や義継、摂津国人伊丹親興・池田勝正・荒木村重らの援軍に敗れ、再度阿波に逃れた(本圀寺の変)。 しかし、元亀元年(1570年)6月、三好長逸に通じた荒木村重が池田勝正を追放すると、7月21日に康長と三人衆は摂津中嶋に上陸し、野田城・福島城を築城する。織田軍は8月26日から9月23日にかけてこれを攻めるも、石山本願寺の参戦もあり攻城戦に失敗(野田城・福島城の戦い)、更に、9月27日には篠原長房率いる阿波・讃岐の軍勢が兵庫浦に上陸し山城へ向けて兵を進めたが、11月21日に久秀の仲介により長房・康長・三人衆は信長と和睦した。 元亀2年(1571年)5月、松永久秀と三好義継が信長に反旗を翻し、長房・康長・三人衆・荒木村重と共に河内の畠山昭高、大和の筒井順慶、箸尾為綱、摂津の和田惟政を攻めている。更に元亀3年(1571年)中には、将軍・足利義昭も加わり信長包囲網が形成された。 しかし、天正元年(1573年)、長房が三好長治に誅殺され阿波三好家からの支援が絶たれてしまう(上桜城の戦い)。同年7月に義昭も信長に敗れ追放(槇島城の戦い)、続いて11月に義継が討たれ三好本家が滅亡(若江城の戦い)、12月に久秀も降伏し三人衆も壊滅する中、康長は高屋城にあって三好一族の中で最後まで畿内で抵抗を続けたが、天正3年(1575年)4月に松井友閑を通じてついに降伏した(高屋城の戦い)。同年7月、所持していた名物三日月葉茶壷を信長に献上している。その後は、信長から重用されたようで、石山本願寺との和睦交渉の担当や、河内半国の支配を命じられている。 織田家において、康長は四国に強い地盤を持つ三好一族として四国攻略の担当とされ、主な活動の場を四国に移し、安宅信康の勧誘工作、当時長宗我部氏に属して岩倉城主であった子の三好康俊を寝返らせるなど成果を挙げている。ただ常時四国にいたわけではなく、河内領内の都合もあり、頻繁に河内と四国を行き来していたようである。天正4年(1576年)、石山合戦の一環として信長の部将・塙直政の与力とされ本願寺包囲網に加わったが、本願寺の奇襲を受けて逃亡、塙直政は戦死している(天王寺の戦い)。 天正9年(1581年)、康長は四国征伐の先鋒として阿波に再び渡っていたが、この際、信長の3男・神戸信孝を養子とする事が決定され、四国統一の暁には阿波一国を与えられる約束をされたと言う。ところが、翌天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が明智光秀の手勢に攻撃され横死した為、四国征伐は中止となり、康長は四国から逃亡し河内に帰った。その後は日の出の勢いで四国統一を目前にした長宗我部元親に対抗するため、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い秀吉の甥・治兵衛(三好信吉、後の豊臣秀次)を養子として迎えている。なお、康長と治兵衛の養子縁組は信長生前の天正7年(1579年)11月段階で既に実施されており、秀吉-康長ラインと光秀-元親ラインの対立が本能寺の変の一因であったとする説もある。 天正10年9月の紀州・根来寺攻めに参加しているのが最後の従軍記録であり、康長のその後の行方は詳しくわかっていないが、『宗及記』では天正12年(1584年)8月28日に津田宗及の茶会に出席しており、『元親記』では、天正13年(1585年)に秀吉に降伏した元親を出迎えている旨の記載がある。少なくとも、この辺りまでは存命していたものと思われる。 なお、本来の後継者である嫡男康俊は、三好三将と呼ばれる阿波三好家の重臣を謀殺してその首級を手土産に長宗我部氏に寝返った上、康長の四国到来に呼応して再度の反乱を試みたが、失敗して討ち果たされた。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%BA%B7%E9%95%B7
三好義繼 Miyoshi Yoshitsugu(1549年-1573年) 十河一存的長子、養父為三好長慶、正室為足利義晴之女;幼名熊王丸,初名十河重存、繼承三好家,名為三好義繼。 義繼出繼三好本家的過程說法不一。一般認為是三好義興死後長慶無嗣才將義繼順理成章的過繼過來,這是順理成章的。不過據『十河家傳』所言,早在十河一存在世時,就已將義繼出繼給其兄三好長慶為養子,而以二哥三好義賢的次子為十河家的養子,這樣三兄弟之間的聯系便得以加深,而後一存又以義賢在阿波的強大軍力為後盾逐步控制贊岐全境。可以肯定的是一存在永祿四年(1561年)四月病逝之後,是十河存保進入十河城繼承十河家,並在其父三好義賢的授意下將居城遷到東贊岐的虎丸城,由此可見義繼出繼三好本家的時間肯定是在一存死之前,所以才無法繼承十河家家督。另外,義繼之所以能出繼到三好家,很大程度上是因為其母是公卿九條稙通的獨生女,而義繼由此便是五攝家的外孫,這種關系自然有助於長慶加強與公卿間的聯系,而對於正試圖掌控畿內的長慶來說,這是非常重要的,結合以上種種原因,義繼在十河一存病死前就過繼到三好本家,也是不難理解的。如果說是長慶主動要義繼過繼到本家,以加強一門眾力量也有很大的可能。 不過過繼與繼承根本就是兩回事,長慶已經有一個非常優秀的嫡子三好義興,讓義繼過繼過來,也只不過是希望他以後在義興身邊發揮義賢之於長慶的那種作用吧。義興在跟隨長慶奮戰畿內時已表現出優秀的才能,永祿四年(1561年)左右長慶已經開始在做著將家督之位讓給義興的准備。從永祿四年(1561年)到永祿六年(1563年)這一段時間三好家的政令,大都是由三好義興發布,松永久秀協助執行,長慶處於半退隱狀態。然而在永祿六年(1563年)八月22日,風華正茂的三好義興卻突然發急病死掉。關於他的死有人一般說是瘟疫,但更多的說法認為是被松永久秀毒死的,因為在這兩年多的執政過程中,義興的英明果敢與久秀的權力欲望不可避免的產生沖突。此事使長慶遭到最撤底的打擊以至幾近崩潰,而後便長期臥床不起。另一方面三好本家的繼承人之位便落到義繼身上,永祿七年(1564)六月22日,義繼被准許以家督繼承人的禮儀上洛,同行的有三好長逸、松永久通等家臣及廣橋大納言國光等公卿,隨行人數達到四千人。六月二十三日,義繼進見將軍足利義輝,得到繼承三好氏家督的正式許可。七月四日,三好長慶病逝,義繼正式成為三好家督,同時由重存改名為三好義繼。 永祿八年(1565)四五月間,三好義繼在松永久秀的陪同下率三好大軍再度上洛。五月19日上午,松永久秀與三好三人眾突然攻入二條城,殺害將軍足利義輝,顯然是得到義繼的許可。而後三好軍在京城橫行到七月份,才在七月五日歸國。從義繼繼任到此期間,松永一直擔任輔佐一職,操縱義繼的行事。十月份,三好三人眾與松永久秀在河內國發生沖突,十一月十六日,乘松永久秀在大和攻擊筒井順慶之機,三好三人眾從松永派的奉行人金山長信手中綁架義繼,並殺死長信,隨後脅持義繼對三好家內外發布義繼與久秀斷絕君臣關系的公告。從此三好家下轄畿內各國國人眾分為三人眾與松永兩派,開始長期混戰。在這一段時期義繼一直居於河內高屋城,處在三好三人眾的監視之下。 永祿十年(1567年)初,三好三人眾正忙於擁立平島公方足利義榮為將軍,乘此空隙,對三人眾一直不滿的義繼在奉行人也是叫金山某(可能與被殺死的金山長信有關)的安排下逃出高屋城,移據到界附近的材木町,受到池田氏保護,二月26日,與松永久秀達成聯合,而後便與久秀一起逃入大和,開始與三好三人眾的長期作戰。由於義繼在兩個勢力間的游移,河內、攝津的大小國人眾也開始反覆不定,而這也使得三好三人眾的立場變得可笑起來。而義繼之所以選擇松永,恐怕與松永毒殺義興的傳聞有很大關系,由於義興之死,義繼才得以繼承三好家,因此義繼對松永久秀不可能不報著一種感恩的心理。加上最初三人眾是以挾持控制義繼,足以使義興產生強烈的反感,在年輕人簡單的思路和個人好惡感影響下,義繼很自然的就投向松永久秀。然而他卻沒看到久秀笑臉下的反覆無常。 永祿十一年(1568年),信長擁代足利義昭入京,攻擊勝龍寺城兵力達到驚人的五萬之巨。受到強大威攝的義繼與久秀一起加入到支持義昭幕府的隊伍中,因為雙方有著共同的敵人,三好三人眾。第二年(1568年)一月,三好三人眾突襲足利義昭的住所,隨後義繼也率軍參加對足利義昭的救援,永祿十二年(1569年)三月五日,為表示感謝,足利義昭與三義繼一起放鷹,這也是當時莫大的榮耀。三月十六日,義繼與松永久秀一起參見信長,得到河內半國安堵的許諾。然而隨著信長對原三好領的全面侵入,義繼與久秀最終認識到最大的危脅就來自織田方,元龍二年(1571年)二月,松永久秀反叛信長,與三好三人眾達成和解,在此事表面上看義繼是保持中立的,實質上他卻一直與松永聯合行動。 元龜二年(1571年)年底到第二年年初這段時間,義繼與松永久秀一起致力於恢復畿內勢力,攻入之前倒向織田方的國人眾。元龜三年(1572年)四月,義繼與久秀從河內和攝津進攻敵對的細川昭元領地,八月份包圍昭元的居城中島城,年底,三好三人眾也加入對中島城的攻擊。第二年二月27日,中島城陷落,細川昭元逃往界。這一段時期正是武田信玄上洛的取得巨大進展,將軍足利義昭由此公然起兵反抗信長,並得到三好義繼的支持,究其原因,義繼當年救援義昭已使兩人結下深厚情宜,而義昭此後也用盡辦法籠絡義繼,甚至不惜將自己的妹妹嫁給義繼作後妻,一向以個人好惡決定立場的義繼自然而然的就站在義昭一方。此時三好三人眾也出現在支持義昭的隊伍中,可以說這是三好家內近十年來頭一次真正的聯合對敵,也許義繼已把這次支持義昭看成三好家再度興盛的契機吧。然而天有不測風雲,四月信玄於上洛途中去世,同月信長包圍義昭的二條城,義昭顯得不堪一擊,在交出人質後與信長講和,七月,義昭在宇治再次兵敗,二十一日,逃入義繼的居城若江城,八月二日信長軍攻擊澱城,三好三人眾中的岩成友通戰死。 十一月五日,足利義昭離開若江城逃往紀伊,十六日佐久間信盛與明智光秀攻擊若江,遭到義繼的頑強抵抗。在此關頭若江的三家老多羅尾右近、池田丹後和野間左吉聯手殺死被義繼委以處理庶政的金山駿河守,而後又打開城門引入佐久間信盛軍,其余各部織田軍紛紛殺入城內,最終包圍天守閣,在此情況之下三好義繼已經完全絕望,留下「憂世もこれまで」(對世間的憂慮到此為止)的辭世句,義無反顧的親手殺死妻妾子女,在最後時刻他終於展現出鬼十河之子的武勇,持槍殺入湧來的織田軍,親手刺死多名敵軍,最後終因體力不繼而以十文字槍切腹,結束游移反覆的短暫一生,年僅二十五歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/1128716.htm
上杉景勝 Uesugi Kagekatsu(1556年-1623年) 長尾政景的次子、母為上杉謙信之姐.仙桃院、養父為上杉謙信、正室為武田信玄之女.菊姬、側室為四辻公遠之女.桂岩院;幼名卯松、初名長尾顯景、繼承上杉氏,改名為上杉景勝、法名宗心。 永祿七年(1564年),政景與謙信的家臣宇佐美定滿(定行)於野尻池遊舟時意外溺死,成為謙信的養子,改名為上杉景勝。 天正六年(1578年)3月13日,謙信於征伐越中時病歿,謙信生前並沒有立下後繼者。使景勝與謙信的另一個養子上杉景虎因爭奪家督繼承權而展開內戰,景勝一方自稱根據謙信遺言景勝才是合法繼承人,並於3月24日佔據春日山城本丸(實城)與金庫,景虎則進駐春日山城下的上杉憲政的官邸(御館)與景勝對峙。 同年6月,景勝為了盡快解決與景虎的鬥爭,以東上野四郡與部分的黃金讓渡為條件交換與甲信武田家的和睦並取得其支持,翌年9月景勝迎娶武田家當主・勝賴的異母妹・菊姬為正室,締結「甲越同盟」。 天正七年(1579年)3月,雙方達成議和,由景勝的養祖父上杉憲政偕同景虎的嫡長子・道滿丸進入春日山城作為人質,卻在前往的途中被不知情的景勝手下斬殺(一說為直江兼續所策畫),聽聞噩耗的景虎於御館切腹自盡。為期兩年的御館之亂終告結束。不管怎麼說,在繼承權上,至少景勝(母親是謙信公的姐姐,父親也是長尾氏一族)在血緣上比外來子景虎(實父北條氏康)更有說服力。 上杉氏於謙信時期的天正四年(1576年)時與北陸本願寺達成協議共同對抗織田氏,但是在御館之亂爆發之後,北陸的上杉軍陷入混亂使得織田軍有機可乘。天正九年(1581年),北越後的新發田重家因不滿獎賞不公而反叛,並與織田信長內通,同時信長麾下的北陸攻略軍團・柴田勝家展開對越中上杉領內的侵攻。翌年,景勝為了出兵越中對抗柴田勝家而無暇顧及武田家,使得武田勝賴於天目山之戰中被織田氏消滅,武田氏滅亡,越後的上杉氏頓時陷入了唇亡齒寒的局面。 天正十年(1582年),織田軍壓制魚津城,上杉氏失去了在越中的所有領地。同年6月2日,京都的明智光秀叛變,引發「本能寺之變」,織田信長自盡。織田氏的北陸征伐軍受挫、柴田勝家退兵,景勝死裡逃生。但是御館之亂長期以來的混亂局面再加上織田氏的侵攻,讓謙信時期以來所擴大的國力大幅的衰退。也使得新發田重家的叛亂到了豐臣時代才得以平息。 本能寺之變後,羽柴秀吉在山崎之戰擊敗明智光秀成為織田霸權的繼承者,景勝隨後派遣直江兼續前往,達成「越水同盟」(實則為臣屬關係)。天正十一年(1583年)秀吉與其對立的柴田勝家展開賤岳之戰,景勝也奉命入侵越中。天正十二年(1584年),爆發小牧・長久手之戰,翌年真田氏以與上杉家平等關係為由放棄了同盟關係,轉而臣服於秀吉。 天正十四年(1586年)6月,景勝與直江兼續上洛會見秀吉,以養子・畠山義真作為人質成功保住了領地。同時景勝也拜揭正親町天皇受任右近衛少將。 天正十五年(1587年),在秀吉作為後盾之下,景勝討伐新發田重家平定內亂、統一越後。天正十六年(1588年)再次上洛,6月15日敘昇為從三位・參議。天正十七年(1589年),討伐佐渡本間氏,平定佐渡。此時上杉氏的領地為越後、佐渡、出羽莊內三郡以及信濃川中島四郡,合併共90萬石。同年8月,趁最上義光派遣援軍幫助大崎氏防御伊達政宗的侵攻之時,命令本莊繁長協助大寶寺氏奪回莊內地方的統治權,在十五裡原之戰大敗最上軍奪回莊內地方,後秀吉承認大寶寺氏為上杉家的與力大名。 天正十八年(1590年),秀吉以違反無事令為由,下令各家大名出兵討伐關東北條氏,是為小田原之役,景勝即派出山浦景國為先鋒會同前田利家與真田昌幸攻略上野、武藏境內的北條氏領地。同年7月,小田原城開城投降,北條氏滅亡。 文祿元年(1592年),秀吉開始向朝鮮出兵,爆發「文祿之役」,景勝率領5000人駐紮於肥前名護屋城,隨後渡海進軍朝鮮。 文祿三年(1594年),上洛拜領「豐臣」之姓並敘昇權中納言,人稱越後中納言。 文祿四年(1595年)1月,秀吉授命景勝管領越後、佐渡的金山、銀山。同年,原來的「豐臣五大老」之一的小早川隆景因病隱居,由景勝接替隆景的空位,「五大老」分別為:內大臣德川家康、大納言前田利家、中納言毛利輝元、中納言上杉景勝、中納言宇喜多秀家。 慶長三年(1598年),移封會津一百二十萬石,是豐臣政權之下少有超過一百萬石的大名(其中出羽米澤6萬石為其家老直江兼續的封賞),往後便改稱「會津中納言」,代替蒲生氏監視東北各大名(尤其是野心極大的伊達政宗)。雖然移封會津,但景勝仍實際支配佐渡一國與越後東蒲原郡以及出羽莊內地方。 慶長三年(1598年)8月,秀吉病歿。 慶長五年(1600年),上杉景勝命令直江兼續增建神指城增加防御力。後來堀秀治向德川家康報告,指出上杉景勝有叛意。5月3日,德川家康下命各大名進攻會津。由於德川家康的軍隊在上野國小山得知石田三成進攻伏見城,經過會議後決定返回關東重整軍勢,德川軍主力沒與上杉景勝交戰,成為雙方在關原交戰的序幕。 慶長五年(1600年)10月,關原之戰中歸屬西軍,在東北地區與伊達和最上兩軍交戰。後來西軍敗北,景勝的領地由一百二十萬石減至三十萬石,並移封至本為家臣的直江兼續的領地米澤城,成為米澤藩。 元和九年(1623年)在米澤城病逝,年69歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D
中川清秀 Nakagawa Kiyohide(1542年-1583年) 父は高山重清(中川重清、中川佐渡守重清)で、母は中川清村の娘。 父である中川重清は、桓武平氏良文流の後裔である常陸の高山重利の次男とされるが疑問点もある。 高山右近の父・高山友照は、中川清秀の父・高山重清と兄弟であるとされているが、高山友照は摂津出身とされているので、常陸から来たのか、元々摂津出身なのか、それともどちらかが明らかな養子なのか?余計に出自に疑問が残り、良くわからない。 ともあれ、中川清秀の父・高山重清は1535年頃?に常陸から京の都に上って、その後、摂津国に移ると中川清村に仕えたとされる。 その後、主である中川清村の嫡男・中川清照が戦死し、跡取りがなくなった中村清村は、娘と高山重清を結婚させて養子に迎え、このとき、高山重清は平氏から源氏に改め、中川重清と改名した。恐らく、父・高山重清は有能な武将だったのだろう。推測するに、1541年前後と考えられる。 そして、子になる中川清秀が1542年に誕生したのだ。幼名は虎之助。通称は中川瀬兵衛。 中川重清は稲田城主として摂津の小大名となったが、周辺には巨大勢力があり、領土経営は大変難しい状態であった為、池田城主・池田勝正に最初従属。 しかし、1564年、山崎恒政(山崎右馬允)に攻められて敗走。のち稲田城を再興するが、1570年には摂津国平定をめざす荒木村重に攻められて降伏。以後、池田氏家臣である荒木村重の重臣として仕えた。 父・中川重清の没年や家督が譲られた時期は不明なので、この頃、既に中川家は中川清秀が率いていたと考えられる。 中川清秀の正室は稍姫(熊田宗白の娘、やや)で、1568年には中川清秀の嫡男・中川秀政、1570年には次男・中川秀成が誕生している。 池田家の一家臣であった荒木村重は、池田城から池田勝正を追いだして池田家を掌握すると、1571年には白井河原の戦いで荒木村重と中川清秀が、茨木城主・茨木重朝と高槻城主・和田惟政を討ち取ると中川清秀が荒木村次を補佐し実質的な茨木城主となった。そして、中川清秀は1577年に正式に60000石の茨木城主となっている。 この荒木村重の活躍に目をつけたのは1568年に上洛を果たした織田信長で、荒木村重は織田信長から厚い信頼を得て摂津一国を任された。 1573年、中川清秀は、柴田勝家が指揮する河内の高屋口の合戦に参加し、宣教師や相手方の首を切り、功をたてた。 1574年11月5日に、荒木村重・中川清秀らは伊丹城を落とし、荒木村重は伊丹城主となり、摂津国を支配。高槻城主となっていた高山右近も、荒木村重の与力として加わったが、荒木村重の活躍もこう言った有能な武将が支えていたことが分かる。 しかし、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)や黒田官兵衛・竹中半兵衛・蜂須賀小六らと三木城攻めをしていた1578年7月、荒木村重が戦線を離脱して有岡城(伊丹城)に戻り織田信長に謀反を起こす。 この荒木村重謀反の原因となった石山本願寺への兵糧の横流しをしたのは、中川清秀の家臣とする説がある。 荒木村重は、織田信長の使者である明智光秀、松井友閑、万見重元に説得や、高槻城の高山右近の説得も受けて、釈明のため安土城に旅だったが、途中で寄った茨木城で中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け、伊丹城に戻った。 この事により、織田勢は有岡城を包囲し、有岡城の戦いとなる。 中川清秀や高山右近らも縁故であるということもあって荒木村重に味方し各持ち城にて籠城し、荒木村重は有岡城に篭城。 黒田官兵衛も荒木村重説得の為単身で赴くが、牢に捕えられてしまった。 荒木村重は織田勢に対して徹底抗戦をしたが、中川清秀は10月28日に織田勢と戦わずに降伏し、高山右近も11月に降伏。 荒木村重は圧倒的に不利となったが、1年籠城し翌年1579年9月2日に有岡城は落城した。 領土安堵された中川清秀は、その後、織田信長の家臣となり、丹羽長秀や池田恒興の旗下として転戦。 娘である糸姫は、池田恒興の子・池田輝政に嫁いでいる。 1582年、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死すると、高山右近と共に行動し羽柴秀吉勢に合流して、山崎の戦いで主戦力として活躍。 1583年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでも先鋒二番手として参戦。 しかし、大岩山砦を高山右近・三好秀次らと守備していた際に、柴田勝家勢の勇将・佐久間盛政の猛攻を受けた。 中川清秀の家臣、熊瀬莇助、松田孫三郎、田代太左衛門、奥彦太夫、同彦作、入江土佐、寺井弥次右衛門、高山総吉らも防戦に奮闘したが、中川清秀の弟・中川淵之助も討死し、中川清秀も自害。享年42。 墓所は大阪府茨木市の梅林寺、滋賀県長浜市大岩山砦跡。 この時、命を落とした中川家臣は、中川清秀以外に、中川淵之助熊田孫七資一熊田兵部次矩熊田三太夫資之森本道徳山岸監物重本杉村久助正英森権之助鳥養四郎太夫大田平八菅杢伝兵衛重武野尻出助重英藤井半右衛門田代太左衛門奥彦太夫光英奥彦作奥孫兵衛田能村杢左衛門入江土佐赤井弥次右衛門元定高山総吉桜井河内正利野口新助田島伝次右衛門玄正亡知半。 他には台所人11人仲間御小人20人余雑兵300人となっている。 当時の梅林寺住職・是頓和尚は、中川清秀戦死の報を受けると、すぐさま賤ヶ岳に向かい、遺髪を貰い受けて持ち帰り菩提を弔ったと言う。 中川家の家督は長男・中川秀政が相続して茨木城50000石を継ぎ、その後見人には古田重然がついた。 この古田重然は千利休の死後は天下一の茶人となった人物で「利休七哲」の一人とされ「織部流」開祖で、古田織部と呼ばれた方が有名か?古田重定(茶人である)の子で、妻は中川清秀の妹・せんである。(1569年に結婚) その後、中川秀政は古田重然と共に、小牧長久手の戦いや、四国攻めに参戦し手柄を立て、三木城主13万石となり、1590年の小田原攻めにも2000を率いて出陣している。 しかし、1592年の文禄の役で、朝鮮で鷹狩りの最中に敵兵に包囲されて亡くなった。享年25。 出處 http://senjp.com/nakagawa
丹羽長秀 Niwa Nagahide(1535年-1585年) 丹羽長政的次子、正室為織田信長養女・桂峰院、側室為杉若無心之女;幼名萬千代、通稱五郎左衛門尉、渾名「鬼五郎左、米五郎左」、別名惟住長秀。 依照丹羽家譜的記錄,父親丹羽長政與信長父親織田信秀同為尾張守護斯波氏的家臣。但斯波氏已衰微,自斯波義統以後皆由織田氏為實際統治者。所以長秀在天文十八年(1549年)時就仕於織田家並擔任信長的近衛,後來更娶了信長二哥信廣之女。之後參與在天文二十一年(1552年)的萱津會戰和永祿三年(1560年)的桶狹間會戰,在永祿五年(1562年)時正式獲得一萬貫的知行,同時和柴田勝家、佐佐主知一起擔任寺領安堵的奉行職務。在信長推動兵農分立的政策後,要求領內重臣離開原本世襲的農田遷移至城下住宅,這個措施令一眾老臣感到十分不滿,而支持信長之意率先放棄,改以傭兵替代農民兵的既是丹羽長秀與柴田勝家兩人。 隨後在信長統一尾張的軍事行動中,丹羽長秀寢返了犬山城織田信清的家老和田新介及中島豐後守使犬山城反過來陷入信長軍勢的包圍,在城落後長秀因功受信長策為駐守犬山城的城將。對一統尾張的信長來說北進美濃乃必要的策略,從其父信秀的時代起織田家便長期對美濃展開一連串的行動,歷經齋藤家道三、義龍兩代,現今領主是第三代的龍興,不若乃祖的智謀亦不及親父的武勇,使信長得到北進的良機。由於後來各本太閣記的大興以及後人專看秀吉忽略其他織田家諸將等因素影響,使得這段期間還名喚木下藤吉郎的秀吉之功被過份地誇張為織田家進佔美濃的最大功臣,實際上當時作為信長部將的丹羽長秀同樣有著不俗的功績,長秀充分發揮其智謀武勇,在戰場上領兵攻下堂洞城,此外兵不血刃地在進攻猿啄城時截斷水源逼降城將,之後在秀吉策反大澤基康時施以援手,本身亦仲介加治田城的佐藤紀伊守改投織田家,丹羽長秀的穩重和柴田勝家的驍勇並列著名為織田家的一雙寶。 就在信長一統尾張即將進軍美濃的這段時間裡,織田家的風氣也慢慢開始改變,木下藤吉郎與瀧川一益等出身浮野的司令官從諸將中冒出頭來,不像柴田勝家對木下藤吉郎始終抱持成見,對這些新人丹羽長秀都採支持的態度。就像木下藤吉郎在信長攻下美濃後受命易姓,藤吉郎決意自丹羽和柴田兩人各借一字改姓羽柴,柴田勝家藐視地一笑,丹羽長秀則是開心地說:「是嗎?真是榮幸。」 美濃陷落後,明智光秀以將軍特使的名義來訪,督請信長幫助足利義昭擊敗三好一黨,上京就任將軍。信長在精密考量後先與淺井家建立姻親再假意和六角家談判,然後再出奇不意地出兵近江直驅上落,當時丹羽長秀與羽柴秀吉、佐久間信盛、明智光秀等在一天之內攻下六角家南近江箕作城被世人喻為奇蹟。 信長上洛後,不願後方大本營出現空虛的信長迅速回到岐阜,長秀受命與羽柴秀吉、中川重政、村井貞勝一同擔任京都奉行,在永祿十二年(1569年)丹羽長秀單獨發佈了遍照心院、誓願寺、三井寺花光坊的安堵,同年八月長秀對新降的池田勝正所領的界五力莊做出指示,並與中川重政一起本因寺學道中的知行進納進行確認,同時再次受命出戰伊勢,攻打大河內城的北田具教,與稻葉一鐵、池田恆興夜襲失敗。翌十三年,丹羽長秀先在三月和松井友閑一同擔任對界市的名物茶道具收集購入之職務,然後於四月對若狹廣野孫三郎、武田義統的忠節次第所領下安堵令,禁止渡邊太郎左衛門尉在愛宕山供料外畑村下司職務的不法行為。五月時與塙直政共同擔當鐵砲調達奉行,替織田家進行採購洋槍的事務。 金崎撤退後一直順風順水的織田家陷入了四面皆敵的窘局,越前朝倉家、北近江淺井家、阿波三好餘黨以及四處蜂起的一向宗教徒與不斷發出御信替織田家增加敵人的將軍足利義昭。元龜元年(1570年)四月自越前急遽迴轉京都的織田信長命丹羽長秀和明智光秀出使若狹向武藤友益徵收人質,並與當地公方眾一色藤長會面種下日後支配若狹的伏筆。在長秀於五月回到京都後,當年六月便再次被調上戰場,出陣江北和柴田勝家、佐久間信盛、蜂屋賴隆於小谷城近邊放火,其後參加姊川之戰和池田恆興協助德川家康攻擊朝倉軍,戰後秀吉攻下橫山城,丹羽長秀也和河尻秀隆、水野信元、市橋九郎右衛門攻打佐和山城,降服淺井家猛將磯野員昌,得到信長厚信的丹羽長秀被封作掌管京、近江、美濃間要衝之地的佐和山城城主,領五萬石領地。 身任佐和山城城主後,丹羽長秀先是將犬上郡的在地領主收為麾下與力,後出兵與佐久間盛信、柴田勝家、中川重政攻打神崎郡的小川城、志村城,元龜二年(1571年)九月與河尻秀隆誘殺高宮右京亮於佐和山,並制訂多賀神社條規防止混亂。隔年,丹羽長秀和明智光秀、中川重政出兵打下木戶城、田中城。七月,和佐久間盛信、柴田勝家燒毀小谷城的城下町,在信長令下丹羽長秀完全封鎖住琵琶湖的水運將淺井、朝倉的對外物資流通切斷。 天正元年(1573年),信長交付給丹羽長秀軍船建造的任務,長秀在召集職人工匠商討後設計製出可拆裝的大型船,在七月五日船隻完工的同時馬上用來攻打將軍足利義昭的槙島城,倚槙島城之險自豪的足利義昭沒想到信長竟然從阪本口搭船穿越琵琶湖攻城,措手不及下城陷被擒,遭到流放,室町幕府足利家就此終結。將軍追放後,信長把軍勢開回江北圍籠小谷城,並且擊退應援的朝倉軍,更以丹羽長秀為先鋒深入越前打下一乘谷城,家督朝倉義景兵敗自盡,嫡男阿君丸也在信長命令下由丹羽長秀殺害。在淺井家的小谷城亦宣告陷落後,信長將毛頭指向伊勢的一向一揆,丹羽長秀和羽柴秀吉、佐久間信盛包圍桑名方面的西別所,攻下中島將監所鎮守的白山城。 在朝倉家滅亡後,丹羽長秀出鎮混亂的若狹確立織田家對當地的支配,對若狹長源寺和遠敷郡瀧村發佈禁令,然後在若狹的御料所接受敕命得到小濱城十萬石領地,並在隔年發佈西福寺寺領的安堵。天正三年(1575年),信長任命的越前守護前波吉繼(桂田長俊)被一向一揆勢力所殺,近在咫尺的丹羽長秀和羽柴秀吉、明智光秀立即出兵鎮壓,和柴田勝家領兵攻下鳥羽城。同年四月,與村井貞勝一同處理將國人眾侵佔地歸還公家眾本領的事務,並在閏十一月,丹羽長秀對若狹遠敷郡鐵屋安堵,妥善安排鐵屋職讓他們繼續為織田家效力鑄造鐵砲。而織田信長也在此時奏請朝廷賜官給他麾下的將領,如柴田勝家官拜修理亮、瀧川一益官拜左近將監。同時期明智光秀得到「惟任」一姓和日向守的官位、塙直政改姓「原田」,拜備中守、粱田廣正易「別喜」姓,封右近大夫、羽柴秀吉拜領築前守一職,令人注目的是丹羽長秀堅決不受越前守一職,僅接受「惟住」的姓氏,依照這次信長大賜官的過程看來,織田家軍團的東西分立該是由此而見,「惟任」、「原田」、「別喜」、「惟住」都是以往鎮西的大姓,顯見拜領了築前守、日向守等九州官職的明智光秀、羽柴秀吉等人該當是往西前進的軍將,然而當時往東的上、中、下三路已分別由北陸的柴田勝家、東海道的德川家康負責,正中與美濃相接的木曾路也有信長嫡子信忠擔綱與不斷對武田部將宣慰的瀧川一益,毫無丹羽長秀可建功的餘地,反觀對西國戰事尚未正式開啟,發揮空間依然很大,所以丹羽長秀拒受越前守,改姓「惟住」該是意圖指染西線戰事的象徵。 天正四年(1576年),丹羽長秀奉信長之命修建安土城,擔任普請奉行。同時身為織田譜代家臣的長秀也率領著若狹眾與瀧川一益、荒木村重組成遊擊軍團,以援軍身份往援在各地方作戰的柴田勝家、佐久間信盛、明智光秀、羽柴秀吉等軍團,在當年五月協助佐久間信盛圍攻石山本願寺。翌五年二月和佐久間信盛、明智光秀、羽柴秀吉轉戰紀伊與協助本願寺的當地國人眾交戰,與明智光秀、瀧川一益合攻鈴木孫市的居城,之後隨柴田勝家出陣加賀迎戰攻下能登後南下的上杉謙信,在手取川戰敗,引發連鎖效應松永久秀起兵反叛,丹羽長秀和瀧川一益、羽柴秀吉協助織田信忠攻入大和,打下多聞城、信貴山城,戰後駐於大和在藥師寺發佈禁令管理當地治安。天正六年(1578年),丹羽長秀再度擔當明智光秀的援軍出兵圍攻丹波八上城、攻打園部城。然後火速轉援在播磨吃緊的羽柴秀吉,先攻下志方城,然後轉入但馬侵略神吉城。十一月,在傳來荒木村重盼變的消息後,丹羽長秀便和瀧川一益、羽柴秀吉、明智光秀隨織田信長展開對村重的圍殲。天正七年(1579年),在安土城落成時丹羽長秀因功得到珠光茶碗和備前長光的名刀。 天正八年(1580年),丹羽長秀隨柴田勝家出陣加賀,平定當地的一向一揆,由長秀自小濱經海路進發截斷一向勢力的物資補給路線。在轉戰各地的同時,丹羽長秀和其他軍團長最大的不同處便是他仍然擔綱著織田家的各項重要內政工作,在五月時替天主教在安土城城下町興建禮拜所,由於之前僅考量到武士的居處,所以未留下多餘的空地,因此在長秀臨時受命後便索性挖山填湖,用山泥將鄰近的湖邊低窪填成平地興建。之後再天正九年(1581年),在正親町天皇觀閱下的大軍事演習中經由信長欽點,丹羽長秀統領武田元明、內藤、熊谷、粟屋、逸見、山縣等若狹眾擔任一番手的馬前率先行進。同年九月,曾攻打伊賀失敗的織田信雄在精通忍術的瀧川一益輔佐下第二次對伊賀展開攻略,丹羽長秀隨軍助戰率領筒井順慶、蒲生氏鄉平定伊賀的名張郡。 天正十年(1582年),丹羽長秀隨軍出征甲信武田家,之後長秀受命輔佐信長的三子信孝應十河存保的求助出兵平定四國,丹羽長秀終在實質上成為一個地方的軍團長,然而緊接而來的本能寺之變讓準備好進佔四國的兩人下半生命運起了翻天覆地的變化,進軍河內森口時四國討伐軍的兵士聞得本能寺之變後逃亡大半,但丹羽長秀仍意圖奮力一搏和信孝帶兵討伐了光秀的女婿織田信澄,然後說服信孝前往尼崎與自中國戰線迴轉的羽柴秀吉聯合討逆。 在叛將明智光秀的戰鬥中,長秀先是在山崎之戰協助羽柴秀吉擊敗明智光秀。明白天下大勢所向的丹羽長秀在清州會議中與池田恆興一起成為秀吉最有力的協力者,支援秀吉擁立信長的年幼嫡孫三法師作為信長的繼承者,會議後加封近江高島・志賀兩郡,以大溝城為居城。自願屈居秀吉下風的長秀甚至還跟遠本地位天差地別的秀吉副將蜂須賀正勝一同擔任與毛利家締盟的職務,和吉川元春來往密切。翌年賤岳之戰時和秀吉聯手於海津口、敦賀口牽制柴田軍並封鎖琵琶湖水運,戰後秀吉加封越前一國與加賀半國能美、江沼兩郡給長秀,成為北之莊城城主,領地達一百二十三萬石,同時替丹羽長秀向朝廷奏請越前守的官位,並且賜姓羽柴。 晚年因身患腫瘤長年臥榻,同十二年時因為德川家康、織田信雄與丹羽長秀聯手的流言直上塵囂,所以秀吉藉機要長秀上洛朝見,病重的長秀屢次回絕,雙方關係一度惡化,最後是在重臣村上義明來回奔走下方告解凍。小牧、長久手之戰前丹羽長秀抱病離開領國進入大阪城,並且派遣嫡子丹羽長重參陣,後於天正十三年(1585年),丹羽長秀在病榻上切腹自盡,年五十一歲,法名為光寺大憐宗。 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=03183&parent=151&sn=306&lorder=66&ptitle=%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%BB%8B%E7%B4%B9
井伊直政 Ii Naomasa(1561年-1602年) 井伊直親的獨子、母為奧山親朝之女、養母井伊直虎、正室為松平康親之女・花(德川家康養女)、側室為伊具;幼名虎松、萬千代,渾名井伊の赤鬼、人斬り兵部,戒名祥壽院殿清涼泰安大居士。 二歲的時候,父親直親因為涉縑暗殺主君今川氏真關係,被氏真下令處死,失去井伊谷的領地。後來生母重嫁給松下清景,改姓松下。不久生母逃到三河國,由於受到今川氏追殺,曾於三河及遠江兩地四處移居。 天正三年(1575年)德川家康在松下城獵鷹,遇上直政,直政請求成為家臣,獲家康接納,獲得井伊谷的領地,復姓井伊。 直政開始在德川家的舞台開始活躍,初次上戰場是高天神城之戰,後來立下不少戰功,更擔任德川家康的旗本手先鋒,與當時德川家的名將本多忠勝和柛原康政齊名。 天正十年(1582年)元服。同年2月,武田氏滅亡,德川家康派遣與北條氏進行外交交涉,過程頗為順利。6月,爆發本能寺之變,明智光秀謀反,當時在織田信長領地的直政陪伴家康等人安全地重返三河國。 後來直政從投降德川的武田遺臣當中,將武田家山縣昌景的赤備隊再次復活,從此赤備成為井伊軍的象徵。後被加封井伊谷4萬石。井伊對部下過度嚴謹,而且非常好戰,所以有人稱之為「赤鬼井伊」。在小牧長久手之戰初次以赤備隊參戰且表現出色,斬殺池田恆興,獲豐臣秀吉曾經高度評價。當德川家康與秀吉和解後,就任官職從五位下侍從.兵部少輔。 天正十三年(1585年)8月,德川家康跟北條同盟一起進攻北信濃和上野,派遣鳥居元忠為總大將帶領7000人,攻打背叛德川投向上杉氏的真田氏上田城。但鳥居元忠在上田城之戰遭伏兵奇襲而退敗,家康震怒之下在9月時命令直政、大須賀康高、松平康重等帶5000人北上前往救援。在小諸城跟鳥居元忠會師穩定軍隊,此時直政聽聞北條氏直率領的3萬人,已在沼田城被真田氏用同樣的戰略敗於真田與上杉聯軍之下。 在盟軍北條擅自退兵與上杉援軍趕到之後,直政判斷此時僅剩己方孤軍跟上杉真田聯軍纏鬥沒任何利益可言,於9月28日留下大久保忠世守備小諸城後亦帶主力回師,沒跟上杉真田作任何交戰。不久德川家發生石川數正出奔事件,讓遭此變故的德川家康全面停止北信攻略。事後家康對直政回師保存德川實力的判斷沒有異議,加封直政至6萬石。 天正十八年(1590年),德川家康參加小田原征伐,任命為直政為總大將,當大軍包圍小田原城時,直政決定夜襲,並成功突圍,更是唯一成功突襲的武將。戰後,家康獲封關東地區,而直政被分封於上野國的箕輪十二萬石,是德川家家臣當中排行第一。慶長三年(1598年),接獲家康命令,將箕輪城拆除,於箕輪城附近以南地區改建高崎城(今群馬縣高崎市)作為居城。 慶長三年(1598年),豐臣秀吉過世,埋藏已久的不和隨之爆發,主要的人物分別是德川家康及石田三成,後來家康決定討伐會津的上杉景勝,直政負責遊說各地大名加入東軍的工作外,後來家康折返江戶,並向近畿地方前進,在關原之戰中協助松平忠吉(家康四男)與小西行長、宇喜多秀家等將領的激烈戰鬥,後來西軍潰敗,德川軍全軍追擊,當他們追擊島津義弘隊的時候,被鐵砲擊中肩部而墮馬受傷。 戰後,積極處理西軍大名的獎罰,與長宗我部氏交涉,後來島津氏交涉(此工作其後交由本多正信處理)。被德川家康分封於石田三成的舊領的佐和山城,石高18萬石,後來積極去除石田三成的政治風格,準備以彥根城取代原有的佐和山城。 慶長七年(1602年)因為關原之戰舊傷口破傷風復發的關係,病逝。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E6%94%BF
京極高次 Kyogoku Takatsugu(1563年-1609年) 京極高吉的長子、母為淺井久政之女・京極マリア、正室為淺井長政之女・初;幼名小法師、別名羽柴大津宰相、京極侍從、京極若狹守。 最初是足利氏的家臣,後來足利幕府遭到織田氏攻擊而滅亡,臣從織田信長之下。本能寺之變後,織田氏變得四分五裂,最初支持明智光秀,光秀在山崎之戰大敗後逃往若狹。 天正十二年(1584年)成為羽柴秀吉(豐臣秀吉)家臣。天正十八年(1590年)成為近江國八幡山二萬八千石大名。文祿四年(1595年)加封至大津六萬石。 慶長五年(1600年),德川家康討伐會津時,高次受到家康堅守大津城的委託。不久後氏家行廣與朽木元綱前來要求高次加入西軍,此時高次考慮大津城的守備不足而同意加入西軍。然而,表面上高次在動員準備參戰,實則仍暗中將西軍的動向告知家康。 9月1日,高次與西軍主力一同出發,次日在琵琶湖畔乘船潛返大津。9月3日,立即向德川家重臣井伊直政告知倒向東軍的消息。此事同時被大阪方得知,附近經過的西軍部隊立即在毛利元康(末次元康,毛利輝元的叔父)的指揮下圍攻大津城。不久西軍的立花宗茂也率軍加入圍攻。高次率軍苦戰十餘天,在14日拒絕西軍的勸降,直到15日北政所派出使者孝藏主前來,高次才在當天夜間投降,次日與七十餘名將兵一同到附近的園城寺剃髮為僧前往高野山。 同日早晨關原之戰爆發,圍攻大津城的西軍末次元康、立花宗茂等一萬五千部隊只前進到草津,無法參加數十裡外發生的決戰。如果沒有大津城拖住西軍大批部隊十餘日,德川家康就必須在關原面對更大量的西軍部隊,有可能輸掉這場戰爭,因此德川家康對高次的功勞非常看重。 戰後井伊直政派使者請高次下山不成,由在關原會戰中立下戰功的弟弟高知親自請求,高次才同意下山。家康立即重召高次成為大名,並加封到八萬五千石的若狹小濱藩。 慶長十四年(1609年)病逝,年47歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E9%AB%98%E6%AC%A1
仙石秀久 Sengoku Hidehisa(1551年-1614年) 仙石久盛的四子、養父為萩原國満;別名千石秀久、秀康、盛長,通稱権兵衛。 自稱為清和源氏土岐家支流,原為齋藤氏家臣,曾過繼於越前國豪族萩原伊予守國満為養子,因三位兄長相繼於對織田氏戰事中戰死後,復姓仙石繼承家督。齋藤氏滅亡後,投靠織田信長,任命為羽柴秀吉配下的馬廻衆。 永祿十三年(1570年)對淺井的姊川之戰,殺掉敵方武士山崎新平(此人身份不明)。天正二年(1574年),秀吉將近江野洲郡1000石領地賜給秀久,到天正六年(1578年)增加到四千石。 在秀吉被任命為中國征伐軍之後隨軍作戰,獲得戰功,後被任命為淡路國方面的大將,秀吉交待秀久任務是消滅支持明智光秀的淡路國人眾。 賤岳之戰爆發前,秀久原已到達近江,不過當長宗我部軍的菅達長佔據洲本城後,急忙由近江返回淡路。秀久攻破洲本城後,再與長宗我部軍主力交戰,雙方在引田交戰(引田之戰),雖然秀久曾佔有上風,但是經長宗我部軍猛攻後,引田城終被攻下。雖然敗陣,但因敵我態勢懸殊且未犯大錯,因此並未被追究責任。 天正十一年(1583年),羽柴秀吉消滅柴田勝家的勢力後,秀久成為淡路國洲本城5萬石大名(另一說法在天正八年(1580年)成為大名)。天正十三年(1585年)四國征伐結束後,秀久增封至讚岐高松10萬石大名。 天正十四年(1586年),秀吉準備征伐薩摩國大名島津氏的勢力,任命秀久與長宗我部元親和十河存保一起擔任九州征伐軍,渡海作戰的時候,秀久為搶功制定有勇無謀的作戰計畫。依據這個計畫作戰的豐臣軍在戶次川之戰被島津家久所率領的島津軍徹底擊敗,包括元親的嫡子長宗我部信親,十河存保等多名武將戰死,更顯出醜態的是秀久拋棄諸將一路逃回四國。被這樣的行為所震怒的秀吉,沒收秀久所有領地并放逐高野山。 在那之後經過德川家康的說項,於天正十八年(1590年)小田原征伐之時,秀久以借將的形式參加征伐,穿著掛著鈴鐺光亮燦爛的鎧甲,建立出眾的武功。根據秀久當時的功績,在信濃的小諸得到五萬石的領地,重新成為大名。而秀吉派兵出征朝鮮期間,秀久因建造名護屋城有功,獲得從五位下越前守官職。 文祿三年(1594年)因建造伏見城有功,成為5萬7千石大名。 慶長五年(1600年)隨家康軍參加關原之戰,隨德川秀忠一起被真田昌幸所固守的上田城所阻,使參與關原之戰遲延,秀久努力地為秀忠的遲到向震怒的家康謝罪。秀忠擔任將軍之後,因此特別重用秀久。 江戶時代秀久成為信濃小諸藩的初代藩主,由於壓搾農民過度導致佐久郡一郡農民逃亡的失態事件,但是在笠取垰、小諸城和城下町的治理則卓有成效。 慶長十九年(1614年)5月6日,由江戶返回小諸期間病發,於武州鴻巢逝世,年63歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E7%9F%B3%E7%A7%80%E4%B9%85