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早川殿

今川氏真 Imagawa Ujizane(1538年-1614年)今川義元的長子、母為武田信虎之女.定惠院、正室為北條氏康之女.早川殿;幼名龍王丸,號宗誾。父親義元安排氏真與北條氏康之女.早川殿於天文二十三年(1554年)成婚,同時也把一些內政交予氏真接;雖然氏真終日出入於侍女名閨群之間,其中包括松平元康(德川家康)的正室築山殿(鶴姬),傳聞家康的長女龜姬即為氏真的女兒。但氏真的內政也是受到群臣的贊賞,包括積極發展三國的經濟及農產,對義元上洛的軍費帶來不少的貢獻。永祿三年(1560年)義元率領號稱2萬大軍上京,結果在桶狹間之戰遭織田信長突襲陣亡。氏真接任家督,新為家督的氏真卻未有如重臣所望為義元報仇。雖然氏真常被指責沉迷於女色、蹴鞠及和歌之中,但實際上他屢次派兵阻攔德川家康對東三河及遠江的攻擊,只是所用非人,成效不彰。而這段期間,除了德川家康以岡崎城為根據地脫離今川家控制之外,德川家康並且與織田信長結盟。永祿八年(1565年)七月,氏真頒布免除御用商人松木氏的商稅,翌年三月,下達『五條定書』對寺廟僧侶作出制訂及治安強化令,諸上的政策吸引無數的商人來到遠駿,加快了經濟發展,同時氏真於同年四月三日立下「富士大宮之樂市朱印狀」,成為第一個戰國大名訂下樂市政策,是項政策更使國內的發展邁進一大步,後來也為信長所采用。永祿十年(1567年)八月十七日,武田信玄看準今川氏勢衰,暗地裡煽動今川領地內的國人眾,由於氏真不滿武田信玄暗中協助叛黨,於是停止運送海鹽予甲斐的政策,致使信玄不得不出兵以保護其命脈。永祿十一年(1568年)二月,信玄以此為藉口斷絕甲相駿三國同盟的盟約進行駿河侵攻,氏真在兵力不足下由駿府逃到家臣朝比奈泰朝的掛川城,當時逃亡人數由二千人減至最後一百人。但信玄未肯罷休,同年十二月十三日,出兵攻打駿府城,並與氏真大戰於薩埵卡,但氏真勢迅速潰敗,氏真立即請娘家北條氏康出兵援援助,但最後駿府失守,氏真帶余部逃到遠江。永祿十二年(1569年)德川家康進攻掛川城,掛川城卻在老將朝比奈泰朝的指揮下負隅頑抗,形成拉鋸戰,永祿十二年(1569年)三月五日,德川家康親率兵馬與掛川方大戰於城西的天王山,正當戰時正熾,信玄乘機入侵遠江以坐收漁利,家康認為不利,立即向氏真表達和議要求,但五月十五日氏真等已逃到伊豆戶倉城,十七日掛川開城投降,今川家在駿遠三的霸業到此算是滅亡,距離氏真接手家督為時十年。後與朝比奈泰朝前往伊豆國,投靠北條氏康,元龜二年(1571年)恢復駿河國支配權,氏康死後繼承人北條氏政外交轉換為「甲相一和」,12月氏真離開相模。投靠德川家康使得家康有保護舊國主的大義名份支配駿河國,長篠合戰後、氏真殘敵掃蕩討伐,天正三年(1575年)攻下諏訪原城(牧野城),之後一年氏真以牧野城為居城。城主任期間氏真出家,法號宗誾,天正四年(1576年)被召回濱松,解任當時氏真發出「現存」最後一封以今川家當主名義的文書,此時距氏真接任家督已超過18年。之後與「氏真眾」獃在濱松,氏真在赴京都與公卿貴族鑽研和歌藝術。天正三年(1575年)三月十六日於相國寺會見了織田信長,並把今川家的香爐「千鳥」送予信長,二十日,於信長面前表現了利害的足球球技,令信長大為贊譽,面見之後,信長對氏真再不忌憚,讓他生活於京都。德川家康接掌天下後把氏真送到品川城居住,並尊稱其為「品川殿」為旗本;慶長十九年(1614年)氏真於品川城病死,終年七十七歲。氏真得四子,除末子澄存出家及長子范以之外,其余二子則因德川幕府的命令而改姓為品川高久及西尾安信,而今川氏也由遠江今川氏存續。今川氏真雖然是昏庸類似中國之李後主,作和歌一千七百首,其和歌與藝術造詣卻頗為時人與史家所肯定,氏真也是好讀書之人,其蹴鞠(古代的足球)的技術更是一流。值得一提的是氏真以『五條定書』首創樂市鼓勵貿易,加速經濟發展,促進領內的富裕;而這一方式後來也被織田信長等戰國大名采用。武藝方面,曾向名劍豪學習新當流劍術,之後自身開創了今川流劍法。在甲相駿三國同盟中的三國(武田氏、後北條氏、今川氏),在戰國亂世中後來都滅亡了,今川氏是最早從戰國大名的地位中下來的,諷刺的是在這三國同盟的政治婚姻中,氏真與其正室早川夫人的婚姻是最幸福的,跟武田勝賴、北條氏政相比也是活最久的一位。懂得觀察時勢,正是他能在戰國亂世能活的久的原因。出處#1 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E6%B0%8F%E7%9C%9F 出處#2 http://baike.baidu.com/view/89291.htm
今川義元 Imagawa Yoshimoto(1519年-1560年)今川氏親的五子、母為中禦門宣胤之女・壽桂尼、正室為武田信虎之女・定惠院;幼名芳菊丸、法號栴嶽承芳、還俗後初名氏元;後受將軍足利義晴偏偉「義」字,改名為義元,異名「東海一の弓取り」。義元幼年出家,法號栴嶽承芳,接受重臣太原雪齋(太原崇孚)的教育;天文五年(1536年)在長兄今川氏輝死亡時還俗,在得太原雪齋協助平定「花倉之亂」後得權並繼承家業。「花倉之亂」為今川氏內部的繼承人之爭,今川氏親生前指定氏輝為繼承人,然而在氏親和氏輝病死後,今川氏的家督之位懸空,所以氏親所剩下的兩個兒子,庶兄玄廣惠探(今川良真)和義元便開始為爭取家督之位而對立。今川家臣太原雪齋倒向義元,義元率領大軍包圍今川良真的居城花倉城,良真戰敗自殺。義元掌權後,不斷於與北條家、織田家爭權,而且勢力不斷擴大,並且於天文二十三年(1554年)訂立今川家、武田家與北條家的同盟,史稱善德寺三國同盟。義元之女・駿河姬嫁給武田晴信的長子・武田義信為妻,北條氏康之女・早川殿嫁給義元之子・今川氏真。其後,藉以織田家攻擊松平家,義元先後在小豆阪之戰及安祥城之戰擊敗織田信秀將松平元康(德川家康)納為今川家的人質,巧妙地運用德川家康而掌控松平家,令松平家所領的岡崎城成為義元的領土之一,最終擴至擁有駿河、遠江、三河的領地,成為東海大大名。義元擔任今川家督後,由於對京都文化有狂熱的崇拜,將京都文化往關東地區流傳視為使命。因此義元刻意仿效並且遵循京都裡華麗的王孫公卿,穿直-衣、戴立烏帽子、塗黑齒、描蟬眉、抹脂粉、召開詩會, 甚至是孌童。義元所刻意興建的臨濟寺,只是為利用駿府在禪宗文化傳播中的地理優勢,來滿足自己對臠童的癖好。也因為義元以京都文化作為包裝行臠童之實的行為影響到駿河人,導致駿河人普遍將相貌尚可以上的男童送入臨濟寺去接受寺廟僧侶的調教與打扮,以求麻雀變鳳凰的可能。另外義元又為今川氏親的《今川假名目錄-》追加制定,加上重視內政、名主層的組織化、強化對工-商業者的管理、建立交通制度等,並強調主從間的恩給與奉公關係。《今川假名目錄》自此凡五十四條,即《假名目錄追加21條》,是東國大名中最早的分國法,也是戰國家法中最完備-的一部。由於今川氏世代的累積加上義元細心管理,今川氏由最初的駿河22萬石知行領地,到義元時的實力已有七十六萬石,可調集投入戰鬥的兵員更可達二萬六千多人。相較當時尾張織田家的四十三萬石也只能勉強調集出將近一萬五千多人而已。永祿三年(1560年)5月,義元認為尾張國內的政情混亂,尾張北邊美濃的信長岳父齋藤道三被齋藤義龍奪權所殺,情勢一片大好,因此欲上洛以勤皇為名掌握天下,以動員二萬五千人出兵入侵尾張,對外則號稱四萬人。義元派朝比奈泰朝為先鋒進攻鷲津,命令松平元康(德川家康)攻下丸根城。由於松平元康進攻丸根城的進展相當順利,18日上午進攻,下午丸根城就淪陷;加上據守丸根城的佐久間大學的腦袋一起被松平元康的軍使送到義元的面前,以致於鬆懈今川軍的鬥志。到5月19日午後,義元誤以為此刻織田信長應該還瑟縮在清洲城(織田氏居城)內不敢出兵,於是大意輕敵,在善照寺砦東南方的桶狹間附近歇息,並且竟在陣地中開擺筵席,大宴將士,因此受到織田信長率眾三千的突襲。義元遭到織田信長的侍衛服部一忠、毛利新助近身攻擊,儘管義元奮勇力戰,還將毛利新助小指頭咬斷,最後仍被梟首,年42歲。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%85%83
早川殿 Hayakawa Dono(生年不詳-1613年)北条氏康の長女、北条氏政の異母姉とするのが通説であるが、出生年や生母を確定できる史料はない。氏康の正室瑞渓院(今川氏親の娘)の娘とする見解もあり、この場合氏真とはいとこ婚であったことになる。氏政の姉とする説は、出生順に子を示している『寛政重修諸家譜』や『小田原編年録』所収系図において、早川殿が氏政よりも先に掲げられていることから来ている。また、江戸時代初期に成立した『校訂松平記』にも「氏真の御前は氏政の姉にて御座候」と記されている。一方、氏政の妹とする推測もある。氏政は天文7年(1538年)生まれで氏真と同年であるが、早川殿が氏真より年上とすれば30代半ばから4人の子を産むという高齢出産になるためである。氏康の正室瑞渓院(今川氏親の娘)は、従来天文6年(1537年)嫁入とされてきたため、早川殿を氏政の姉と見る場合は側室の所生ということになる。しかし、瑞渓院の嫁入は天文4年(1535年)が妥当とする見解もあり、この見解に立てば氏政の姉である早川殿が瑞渓院所生(氏政の同母姉)であることも成り立つ。後北条氏と駿河の今川氏はもともと後北条氏の始祖である伊勢盛時(北条早雲)の姉北川殿が今川義忠の正室であり、義忠と北川殿の子今川氏親を盛時が家臣として補佐していたことから同盟関係(駿相同盟)にあったが、天文6年(1537年)に氏親の子今川義元が北条氏と敵対関係にあった甲斐の武田氏と駿甲同盟を結んだことから敵対関係に入り、富士川以東をめぐる争奪戦が約10年にわたり繰り広げられていた(河東の乱)。武田・北条・今川氏の間で甲相駿三国同盟が結ばれると、早川殿はその婚姻政策の一環として天文23年(1554年)7月に今川義元の嫡子氏真(17歳)の許に嫁いだ。甲斐で記された『妙法寺記』には、輿入の行列の見事さが伝聞として記されている。伊豆と駿河の国境を流れる境川に架けられた農業用水の千貫樋は、北条氏康からの聟引出物として建設されたという伝承もある。年次は不明ながら、早川殿は駿河時代に長女(吉良義定室)を儲けたと思われる。永禄11年(1568年)12月、甲斐国の武田信玄が駿河侵攻を行うと、氏真とともに遠江国掛川城へ逃れた。この逃避行の際、武田氏は早川殿の保護を怠ったために、早川殿が徒歩で逃げる羽目になった。このことに父の北条氏康は激怒し、武田との同盟を破棄して長年の宿敵だった上杉謙信との同盟に切り替え(越相同盟)、今川氏を支援するために駿河に出兵した。翌年、掛川城の開城により、氏真・早川殿と長女らは伊豆国(当時)戸倉城に移った。ついで実父を頼って氏真らとともに小田原の早川へ移っており、「早川殿」の称はここから来ていると推測される。元亀元年(1570年)、長男今川範以を生む。氏真が33歳で得た嫡男である。元亀2年(1571年)10月、父氏康が死去し、甲相同盟の復活によって氏真の駿河帰国が頓挫すると、12月に氏真とともに小田原を出奔し、浜松の徳川家康を頼った。『校訂松平記』には、北条氏政が武田信玄と結んだ際、信玄が氏真を討つべく人数を小田原に送り込んだが、これを知った早川殿が大いに腹を立て、小田原に在住していた譜代の者を集めて船を仕立て、氏真とともに白昼に小田原を退去した、との記述がある。氏真が家康の庇護下に入ったのち、夫とともに浜松周辺で暮らしていたと思われる。天正4年(1576年)、次男品川高久を儲けた。さらに三男西尾安信、天正7年(1579年)には四男澄存を産んでいる。早川殿の動向を史料から直接うかがうことはできないが、夫と行動をともにしたとするならば天正18年(1590年)頃に京都に移り、慶長12年(1607年)11月には長男範以に先立たれる。慶長17年(1612年)には京都を離れ、江戸品川に移る。次男高久はすでに徳川秀忠に出仕していた。慶長18年(1613年)2月15日、氏真に先立って江戸で死去した。法名・蔵春院殿天安理性。甲相駿三国同盟で成立した三組の夫婦のうち、離別を経なかったのは氏真夫妻のみである。早川殿の死に際し、末子澄存は高野山高室院で日牌供養をおこなった。25回忌の折に澄存によって造立された墓が、高家今川氏の所領であった観泉寺(現・東京都杉並区今川二丁目)に現存している。また、元和4年(1618年)著賛のある、氏真夫妻の肖像画が現存している(米国の個人蔵)。夫妻の没後まもなく遺族により追慕のために制作されたものとみられる。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E6%AE%BF