首頁 Tags 新發田重家

Tag: 新發田重家

上杉景勝 Uesugi Kagekatsu(1556年-1623年) 長尾政景的次子、母為上杉謙信之姐.仙桃院、養父為上杉謙信、正室為武田信玄之女.菊姬、側室為四辻公遠之女.桂岩院;幼名卯松、初名長尾顯景、繼承上杉氏,改名為上杉景勝、法名宗心。 永祿七年(1564年),政景與謙信的家臣宇佐美定滿(定行)於野尻池遊舟時意外溺死,成為謙信的養子,改名為上杉景勝。 天正六年(1578年)3月13日,謙信於征伐越中時病歿,謙信生前並沒有立下後繼者。使景勝與謙信的另一個養子上杉景虎因爭奪家督繼承權而展開內戰,景勝一方自稱根據謙信遺言景勝才是合法繼承人,並於3月24日佔據春日山城本丸(實城)與金庫,景虎則進駐春日山城下的上杉憲政的官邸(御館)與景勝對峙。 同年6月,景勝為了盡快解決與景虎的鬥爭,以東上野四郡與部分的黃金讓渡為條件交換與甲信武田家的和睦並取得其支持,翌年9月景勝迎娶武田家當主・勝賴的異母妹・菊姬為正室,締結「甲越同盟」。 天正七年(1579年)3月,雙方達成議和,由景勝的養祖父上杉憲政偕同景虎的嫡長子・道滿丸進入春日山城作為人質,卻在前往的途中被不知情的景勝手下斬殺(一說為直江兼續所策畫),聽聞噩耗的景虎於御館切腹自盡。為期兩年的御館之亂終告結束。不管怎麼說,在繼承權上,至少景勝(母親是謙信公的姐姐,父親也是長尾氏一族)在血緣上比外來子景虎(實父北條氏康)更有說服力。 上杉氏於謙信時期的天正四年(1576年)時與北陸本願寺達成協議共同對抗織田氏,但是在御館之亂爆發之後,北陸的上杉軍陷入混亂使得織田軍有機可乘。天正九年(1581年),北越後的新發田重家因不滿獎賞不公而反叛,並與織田信長內通,同時信長麾下的北陸攻略軍團・柴田勝家展開對越中上杉領內的侵攻。翌年,景勝為了出兵越中對抗柴田勝家而無暇顧及武田家,使得武田勝賴於天目山之戰中被織田氏消滅,武田氏滅亡,越後的上杉氏頓時陷入了唇亡齒寒的局面。 天正十年(1582年),織田軍壓制魚津城,上杉氏失去了在越中的所有領地。同年6月2日,京都的明智光秀叛變,引發「本能寺之變」,織田信長自盡。織田氏的北陸征伐軍受挫、柴田勝家退兵,景勝死裡逃生。但是御館之亂長期以來的混亂局面再加上織田氏的侵攻,讓謙信時期以來所擴大的國力大幅的衰退。也使得新發田重家的叛亂到了豐臣時代才得以平息。 本能寺之變後,羽柴秀吉在山崎之戰擊敗明智光秀成為織田霸權的繼承者,景勝隨後派遣直江兼續前往,達成「越水同盟」(實則為臣屬關係)。天正十一年(1583年)秀吉與其對立的柴田勝家展開賤岳之戰,景勝也奉命入侵越中。天正十二年(1584年),爆發小牧・長久手之戰,翌年真田氏以與上杉家平等關係為由放棄了同盟關係,轉而臣服於秀吉。 天正十四年(1586年)6月,景勝與直江兼續上洛會見秀吉,以養子・畠山義真作為人質成功保住了領地。同時景勝也拜揭正親町天皇受任右近衛少將。 天正十五年(1587年),在秀吉作為後盾之下,景勝討伐新發田重家平定內亂、統一越後。天正十六年(1588年)再次上洛,6月15日敘昇為從三位・參議。天正十七年(1589年),討伐佐渡本間氏,平定佐渡。此時上杉氏的領地為越後、佐渡、出羽莊內三郡以及信濃川中島四郡,合併共90萬石。同年8月,趁最上義光派遣援軍幫助大崎氏防御伊達政宗的侵攻之時,命令本莊繁長協助大寶寺氏奪回莊內地方的統治權,在十五裡原之戰大敗最上軍奪回莊內地方,後秀吉承認大寶寺氏為上杉家的與力大名。 天正十八年(1590年),秀吉以違反無事令為由,下令各家大名出兵討伐關東北條氏,是為小田原之役,景勝即派出山浦景國為先鋒會同前田利家與真田昌幸攻略上野、武藏境內的北條氏領地。同年7月,小田原城開城投降,北條氏滅亡。 文祿元年(1592年),秀吉開始向朝鮮出兵,爆發「文祿之役」,景勝率領5000人駐紮於肥前名護屋城,隨後渡海進軍朝鮮。 文祿三年(1594年),上洛拜領「豐臣」之姓並敘昇權中納言,人稱越後中納言。 文祿四年(1595年)1月,秀吉授命景勝管領越後、佐渡的金山、銀山。同年,原來的「豐臣五大老」之一的小早川隆景因病隱居,由景勝接替隆景的空位,「五大老」分別為:內大臣德川家康、大納言前田利家、中納言毛利輝元、中納言上杉景勝、中納言宇喜多秀家。 慶長三年(1598年),移封會津一百二十萬石,是豐臣政權之下少有超過一百萬石的大名(其中出羽米澤6萬石為其家老直江兼續的封賞),往後便改稱「會津中納言」,代替蒲生氏監視東北各大名(尤其是野心極大的伊達政宗)。雖然移封會津,但景勝仍實際支配佐渡一國與越後東蒲原郡以及出羽莊內地方。 慶長三年(1598年)8月,秀吉病歿。 慶長五年(1600年),上杉景勝命令直江兼續增建神指城增加防御力。後來堀秀治向德川家康報告,指出上杉景勝有叛意。5月3日,德川家康下命各大名進攻會津。由於德川家康的軍隊在上野國小山得知石田三成進攻伏見城,經過會議後決定返回關東重整軍勢,德川軍主力沒與上杉景勝交戰,成為雙方在關原交戰的序幕。 慶長五年(1600年)10月,關原之戰中歸屬西軍,在東北地區與伊達和最上兩軍交戰。後來西軍敗北,景勝的領地由一百二十萬石減至三十萬石,並移封至本為家臣的直江兼續的領地米澤城,成為米澤藩。 元和九年(1623年)在米澤城病逝,年69歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D
伊達輝宗 Date Terumune(1544年-1585年) 伊達晴宗的次子、母為岩城重隆之女.久保姬、正室為最上義守之女.義姬(保春院);通稱彥太郎、總次郎,受足利義輝偏諱「輝」字,名為輝宗,戒名覺範寺殿性山受心大居士。 因為長兄親隆成為外祖父岩城重隆的養子,於是輝宗成為世子。天文二十四年(1555年)3月19日元服,受將軍足利義輝的偏諱而改名為輝宗。於永祿七年(1564年)迎娶最上義守之女.義姬(最上義光的妹妹),同年末期繼承家督。 不過此時家中的實權被已經隱居的父親晴宗和在天文之亂期間成為家中最大實力者的重臣中野宗時、牧野久仲父子所掌握。因此希望得到家中統制的輝宗在永祿十三年(1570年)4月,以中野宗時企圖謀反的口實攻陷久仲的居城小松城,此後把中野父子流放。另外輝宗還處罰沒有幫助自己的小梁川盛宗、白石宗利、宮內宗忠等人。 同年,正室義姬父家最上家中最上義守、最上義光父子之間發生鬥爭,輝宗出兵支援義守並進攻義光,不過因為義姬請求輝宗撤兵而歸還。 此時已掌握家中實權的輝宗提拔鬼庭良直為評定役並加以重用,而且發現中野宗時的家來遠藤基信的才能而把其召到自己身邊,令基信負責外交。以這兩人為中軸的輝宗政權持續執行父親晴宗的方針,與蘆名氏保持同盟關係,另一方面則調停南奧羽諸侯之間的紛爭。更進一步展開廣大的外交活動,在天正三年(1575年)7月向中央的實力者織田信長贈送鷹等,再命遠藤基信向北條氏政和柴田勝家頻繁地送出書簡和禮物,建築出多方的友好關係。 天正六年(1578年)因為上杉謙信死去而引發的御館之亂中,輝宗把對相馬氏的戰線交給叔父亙理元宗,並基於北條的同盟而與蘆名盛氏一同支援上杉景虎方參戰,不過御館之亂最終由上杉景勝方得到勝利,蘆名、伊達軍沒能夠阻止新發田長敦、新發田重家兄弟的奮鬥。但是在御館之亂後的論功行賞時,新發田勢的軍功被低估,而且希望仲裁的安田顯元自殺,於是新發田重家在天正九年(1581年)向上杉景勝發動叛亂,輝宗與蘆名盛氏的後繼者蘆名盛隆(二階堂盛義之子)一同支援重家,而柴田勝家亦一同連手介入越後的戰鬥。於是新發田的叛亂就陷入7年的長期戰中。 另一方面,在對相馬氏的戰鬥中,因為相馬盛胤、相馬義胤父子相當善戰,戰局完全沒有好轉,不過在天正七年(1579年)迎田村清顯的女兒愛姬為嫡男伊達政宗的正室來壓迫相馬方,於天正十年(1582年)向小齋城城主佐藤為信的調略成功的同時,在天正十一年(1583年)5月17日終於成功奪回天文之亂以後最重要的要衝丸森城,翌年(1584年)1月11日,攻略金山城(在於寬文7年(1667年)的相馬中村藩士中津幸政編纂的『奧相茶話記』中記載,因為田村清顯在天正十一年(1583年)2月的仲介下而決定丸森、金山兩城的返還)。獲得伊具郡全域的輝宗決定停戰。 同年5月,以祖父伊達稙宗的隱居領伊具郡為伊達領地,宇多郡為相馬領地,於是與相馬氏達成和解。此時的伊達家恢復稙宗時代的勢力圈(11郡餘),而且更將影響力遍及南奧羽全域。 天正十一年(1583年)收到盟友柴田勝家4月在賤岳之戰中被羽柴秀吉擊敗並滅亡的消息,於同年6月5日送給姪子岩城常隆的書狀中,提到秀吉的勢力已經蔓延到東國,希望聯合奧羽的諸大名對抗(在『性山公治家記錄』和『大日本史料』都記載書狀的發出日期是天正十一年(1583年)6月5日。另一方面,小林清治的『米澤市史』(1985)則記載是天正十年(1582年))。 天正十二年(1584年)10月6日,蘆名盛隆因為男色問題而被家臣殺害,輝宗成為出生只有1個月的當主.盛隆的兒子龜王丸的後見。輝宗在此時決定把伊達家的家督讓予嫡男伊達政宗,並移居至已修築的館山城。以後自身專注介入越後方面的事情。而繼任家督的政宗則與上杉景勝講和,並放棄伊達、蘆名、最上共同介入越後的策略,於是蘆名家中開始增大對伊達家的不信任感。 翌年(1585年)春天,響應田村清顯的請求,以清顯向伊達、蘆名方服從為條件,伊達氏命令從田村氏之下獨立的小濱城城主大內定綱返回田村氏的支配下。(田村氏在前年與大內氏鬥爭之際,因為對輝宗的調停方案不服而沒有跟從,於是遭到向大內氏支援的石川昭光、岩城常隆、伊達成實等人攻擊,於是田村氏屈服)而定綱則拒絕返回田村氏的命令,於是伊達政宗在同年4月向大內氏下達討伐命令。定綱向蘆名盛隆的未亡人彥姬(輝宗的妹妹,龜王丸的母親)求助,但是政宗在5月突然侵攻蘆名的領地(關柴合戰),在失敗後再向定綱和定綱的親戚.二本松城城主畠山義繼(二本松義繼)加強攻擊。因為政宗這樣激烈地轉換戰略方針,使輝宗所建構出的南奧羽外交秩序開始出現破綻。 同年10月,二本松義繼向伊達政宗請求降伏,政宗對義繼顯示出苛烈的態度,向其宣告要大幅削減所領,不過負責調停的輝宗則對政宗的決定表示不滿(義繼向輝宗請求減輕處分),於是政宗亦決定減輕處分。 10月8日,二本松義繼為向負責調停的輝宗表達謝意而前往宮森城(一說是義繼看見在館內磨刀的士兵,於是態度出現變化),突然挾持輝宗返回二本松城。伊達政宗前往追趕義繼,雙方在阿武隈川河畔的安達郡平石村高田相遇。此時政宗命令鐵炮隊射擊,於是義繼和輝宗都被擊殺(一說是義繼知道自己無路可逃,於是在殺害輝宗後割腹自殺),年四十二歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E8%BC%9D%E5%AE%97
三百八十五位人物:高島正重、佐伯惟教、山上照久、穗井田元清、阿蘇惟光、織田秀信、正木為春、大關高增、鵜殿長照、那須資胤、織田信孝、西園寺實充、長野具藤、奧平貞能、尼子勝久、上杉景虎、天野隆重、北畠晴具、朝比奈泰能、京極高吉、德川秀忠、上條政繁、山村良候、林秀貞、高森惟直、畠山義隆、北畠具房、田尻鑑種、一色義幸、土居清良、平岡房實、小梁川宗秀、岩成友通、武田信豐、德永壽昌、本願寺教如、高梨政賴、片桐且元、朝倉景紀、赤松則房、小島職鎮、橫瀨成繁、浦上宗景、佐世元嘉、木造具政、成田長泰、益田藤兼、福原資保、宮部繼潤、三雲成持、小野崎從通、大田原資清、志道廣良、真田幸昌、豐臣秀賴、伊達實元、內ヶ島氏理、淺利勝賴、安東茂季、寒川元鄰、杉重良、桑名吉成、斯波義銀、織田信勝、泉田胤清、百地三太夫、畠山義慶、有馬義貞、豬俁邦憲、加藤嘉明、稻富祐直、平野長泰、波多野宗高、淺井久政、國分盛顯、兒玉就忠、山口重政、石川康長、那須資景、赤星統家、赤松晴政、京極高次、斯波詮直、山崎片家、最上義時、相良賴房、松本氏輔、柴田勝豐、戶澤政盛、藤方安正、脇坂安治、原田信種、小寺政職、豬苗代盛國、岡家利、蒲生秀行、鳥屋尾滿榮、吉弘鎮信、村井貞勝、一迫隆真、蘆名盛興、小野寺輝道、神代勝利、篠原長房、島津豐久、矢澤賴康、村上通康、阿蘇惟種、阿蘇惟將、阿蘇惟豐、阿閉貞征、安芸國虎、安見直政、安宅冬康、安田顯元、安田能元、朝倉景隆、安富純治、安富純泰、伊集院忠倉、伊集院忠棟、伊集院忠朗、伊達盛重、伊東義益、伊東祐慶、伊東祐兵、伊奈忠次、井伊直孝、磯野員昌、一栗放牛、一色義清、一色義道、一色藤長、稻葉貞通、宇喜多忠家、宇山久兼、芳賀高武、羽床資載、臼杵鑑續、延原景能、延澤滿延、遠山景任、鹽屋秋貞、奧平信昌、岡部長盛、岡本賴氏、屋代景賴、屋代勝永、屋代政國、溫井景隆、溫井總貞、下間仲孝、下間賴龍、糟屋武則、河尻秀長、河尻秀隆、河田長親、河東田清重、河野通宣、河野通直、河野通直、花房職秀、花房正幸、花房正成、皆川廣照、垣屋光成、垣屋續成、角隈石宗、葛山氏元、葛西俊信、葛西親信、葛西晴胤、樺山久高、蒲生賢秀、蒲池鑑盛、肝付兼護、肝付良兼、關一政、關盛信、岩上朝堅、岩清水義教、岩清水義長、願証寺証惠、吉見廣賴、吉見正賴、吉川經安、吉川經家、吉田孝賴、吉田康俊、吉田重俊、吉田重政、吉良親實、津輕信枚、久能宗能、久武親信、久武親直、宮城政業、朽木元綱、魚住景固、近藤義武、金子元宅、金上盛備、九戶康真、九戶實親、九戶信仲、九戶政實、窪川俊光、窪田經忠、熊谷元直、熊谷信直、隈部親永、結城政勝、兼平綱則、犬甘久知、犬童賴兄、原胤榮、原胤貞、原長賴、原田宗時、古田重然、戶川秀安、戶川達安、戶澤政重、戶澤盛重、戶澤道盛、戶田勝成、後藤高治、後藤勝元、後藤信康、御子神吉明、御宿政友、公文重忠、弘中隆兼、江井胤治、江上武種、江村親家、江馬輝盛、江馬時盛、江里口信常、溝尾茂朝、甲斐親英、荒木氏綱、香川之景、高橋鑑種、高原次利、高山友照、高城胤則、高城胤辰、高梨秀政、高梨賴親、國司元相、國分盛氏、黑岩種直、黑川晴氏、佐久間安政、佐久間勝政、佐久間盛政、佐竹義久、佐竹義憲、佐竹義斯、佐竹貞隆、佐田鎮綱、佐田隆居、佐波隆秀、佐野宗綱、佐野房綱、最上家親、最上義守、妻木廣忠、齋藤龍興、細野藤敦、鮭延秀綱、三好義興、豐臣秀次、三好政康、三好政勝、十河存保、三好長逸、三村家親、三村元親、三村親成、三澤為清、三木國綱、山崎家盛、山崎長德、山田宗昌、山田有榮、山田有信、山內一豐、山名豐定、山名祐豐、四釜隆秀、市川經好、志賀親次、志賀親守、志賀親度、志村光安、斯波義冬、斯波經詮、斯波長秀、氏家吉繼、氏家守棟、寺崎盛永、寺澤廣高、寺島職定、筒井順國、筒井定次、七里賴周、執行種兼、車斯忠、種子島惠時、種子島時堯、酒井忠勝、酒井敏房、秋月種實、秋月文種、三好義繼、楯岡滿茂、小笠原信淨、小笠原成助、小笠原長雄、小笠原貞慶、小貫賴久、小山高朝、小山秀綱、小田氏治、小田守治、小田政光、小田友治、小幡憲重、小峰義親、小野木重次、松浦鎮信、松永久通、內藤忠俊、松倉重信、松平信康、松平忠輝、松平忠吉、松野重元、沼田顯泰、沼田祐光、上村賴興、上田憲定、城井長房、城井鎮房、城親基、城親冬、植田光次、織田信光、織田信澄、織田信包、色部顯長、色部長實、新井田隆景、新關久正、新發田綱貞、新發田重家、森岡信元、森下通與、森好之、森長可、森田淨雲、真柄直隆、神戶具盛、神保長城、神保長職、仁保隆慰、壬生義雄、壬生綱房、壬生綱雄、須田長義、須田滿親、水越勝重、水谷胤重、水谷正村、杉原盛重、菅沼定盈、菅谷政貞、成松信勝、成澤光氏、正木憲時、生駒親正、西園寺公廣、青景隆著
新發田重家 Shibata Shigeie(1560年-1601年) 上杉謙信に仕え、川中島の戦い(第4次川中島の戦いで諸角虎定を討ち取ったのは新発田勢とも言われている)や関東出兵などに参加する。謙信の死後に起こった御館の乱では安田顕元の誘いに応じて上杉景勝を支持し、上杉景虎方についた同族の加地秀綱を降し、三条城の神余親綱を討ち、乱に介入した蘆名盛氏・伊達輝宗の兵を退けるなど大いに活躍した。 天正8年(1580年)、兄の死により新発田家に戻って家督を相続し、新発田重家と名乗った。 三条攻略・蘆名撃退など数々の武功を挙げた重家は、新発田勢の活躍に相応する恩賞を期待していた。しかし、重家が貰えるものと思っていた恩賞のほとんどは、景勝子飼いの上田衆の手に渡り、亡くなった兄・長敦の功績は軽んじられ、重家に対する恩賞も新発田家の家督相続保障のみに終わった。重家を景勝陣営に引き入れた顕元は、景勝と重家の和解に奔走したものの効果がなく、重家に謝罪する意味合いで自刃し果てた。 天正9年(1581年)、蘆名盛氏の後を継いだ盛隆と伊達輝宗は、重家が景勝に対して不満を募らせている状況を見て、上杉に対して反乱を起こさせるべく様々な工作を行った。こうして6月16日、重家は一門衆のほか、加地秀綱ら加地衆や、上杉景虎を支持していた豪族を味方に引き入れ新潟津を奪取、同地に新潟城を築城し独立する。景勝は本庄繁長・色部長真(重家の義弟)に重家の抑えを命じたが、年内にはそれ以上の動きはなかった。一方、西側から上杉領攻略を進めていた織田信長の重臣柴田勝家は、この機に乗じて輝宗との連携を緊密にし、ますます上杉への攻勢を強めた。 天正10年(1582年)2月、景勝は重家に対する最初の攻勢を発動したが、あっけなく撃退されてしまった。そこで景勝は蘆名盛隆に背後から重家を襲うよう依頼したが、反乱の仕掛人である盛隆が応じる筈もなく、重臣の津川城主金上盛備に重家を援護させ、赤谷城に小田切盛昭を入れるなどかえって介入を強化した。4月に入り雪解けが本格化すると、景勝は再び重家攻めに着手したが、西からの柴田勝家、南からの森長可・滝川一益らの侵攻に対処するため本庄繁長・色部長真に重家対策を任せることとした。6月2日、本能寺の変で信長が死に、織田軍が撤退したため、とりあえず西方と南方からの脅威は取り除かれたが、景勝自身は織田の旧領をめぐって、休む間もなく信濃で北条氏直と対陣していたので、この時は重家との本格的な戦は無かった。景勝は7月に北条と和睦すると重家攻めに力を入れたものの、兵糧不足に陥り撤兵した。 天正11年(1583年)に入っても状況は変わらず、景勝は4月と8月に出陣したが頑強な抵抗は相変わらずで、8月の出陣の際には、上杉勢は豪雨と湿地帯のせいで大混乱に陥り、間隙を突いた新発田勢に散々に打ち据えられ、危うく景勝を討ち取られそうになった(放生橋の戦い)。この猛反撃で、重家の勢力範囲は一時的にせよ広がる結果となった。一方で景勝は蘆名家中の撹乱を狙い、直江兼続に命じて富田氏実・新国貞通などの盛隆に反抗的な重臣達を調略し、揺さぶりをかけた。 天正12年(1584年)8月、景勝は水原城奪還のため出陣した。上杉勢は重家率いる本隊を水原城下に引き付けて戦い、その間に迂回していた景勝が八幡砦を奪取して水原城を孤立させたため、新発田方は水原城を放棄して退却した(八幡表の戦い)。ところが上杉方は直江兼続の陣が重家の攻勢を受けて崩壊し大損害を蒙っていたため、それ以上兵を進めることが出来なくなり、水原城もほどなくして新発田方の手に戻った。そのため新発田方の意気は揚がり、一時は佐々成政と共に景勝の挟撃を目論むほどであった。 しかし、10月6日に蘆名盛隆が家臣に殺害されたことで、重家を取り巻く状況が暗転し始める。天正13年(1585年)5月、伊達輝宗に家督を譲られた政宗が蘆名と開戦し、秋には上杉に新発田への道を貸すなど、輝宗による越後介入路線を完全に放棄した。さらには10月8日には輝宗が死んだことで、伊達・蘆名両家による重家の支援体制は崩れ、重家は後ろ盾を失った。加えて11月20日に新潟城と沼垂城が藤田信吉の調略によって上杉方の手に落ちると、新発田方は新潟港から塩の津潟を経由して新発田に至る水利権を失い、これにより物資の大量輸送が困難になり、蘆名家との津川経由のルートによって当面の物資を補給せざるをえない状況に追い込まれた。 天正14年(1586年)、景勝は上洛して正式に羽柴秀吉に臣従した。これによって強力な後ろ盾を得た景勝は、新発田攻めに全力を傾けたものの、決着をつけることは出来なかった。しかし、この頃になると新発田方では兵糧が欠乏し、配下の討死や寝返りなどもあって戦力が目に見える形で衰えていった。 天正15年(1587年)夏、秀吉の支援を受けた景勝は1万余の大軍をもって新発田城を遠巻きに取り囲んだ。また、景勝と親交があった青蓮院門跡尊朝法親王が重家に和睦を勧告したが、重家はこれを断固としてはねつけた。周囲の諸城は上杉勢に次々攻略され、金上盛備が赤谷城の救援に向かうも藤田信吉に阻まれて撤退。9月19日、赤谷城が攻略された事により補給路は陸路・水路共に完全に寸断され、新発田城は義弟の五十公野信宗らが籠る五十公野城共々、孤立した。 9月24日、秀吉からの使者が先ず景勝に対し派遣された。「因幡守(重家)城を出て降参すれば赦すべし」との降伏勧告・ただし助命条件であり、景勝は使者を新発田城に送った。使者は重家に対面して勧告内容を伝えたが重家は拒否、景勝は秀吉に早飛脚を送り勧告の結果を報告した。折り返し、秀吉から景勝に対し「来春までには落着すべし」と厳命が下ったことにより、景勝は先ずは五十公野城を総攻撃することになった。 10月13日、藤田信吉らが五十公野城を陥落させ、残る主要な城は新発田城のみとなった。10月25日、景勝勢に厳重に包囲された新発田城内で重家は最期の宴を催し、それが終わるや否や城を打って出た。重家自らが率いる一隊は色部長真の陣に突入し、重家は「親戚のよしみをもって、我が首を与えるぞ。誰かある。首をとれ」と甲冑を脱ぎ捨て真一文字に腹を掻き切って自刃した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%99%BA%E7%94%B0%E9%87%8D%E5%AE%B6
最上義光 Mogami Yoshiaki(1546年-1614年) 最上義守的長子、母為小野少將.永浦尼(大崎氏說?)、正室為大崎義直之女.釋妙英、繼室為清水義氏之女、側室為天童賴貞之女;幼名白壽,通稱源五郎、二郎太郎,受足利義輝偏諱「義」字,名為義光,受領名出羽侍從,別名高榆小僧丸、出羽殿、虎將,戒名光禪寺殿玉山道白大居士。 家督繼承之前 永祿三年(1560年),進行元服禮(一說為永祿元年(1558年)),並與父親義守一同上洛拜見室町幕府第十三代將軍.足利義輝,受義輝賜與偏諱「義」字,改名為源五郎義光。而義光的母親為祝福父子倆人上洛期間的一路平安與武運昌隆所做的繡有「文殊菩薩騎獅像」七個字的刺繡,也在近年間被發現。同時由於伊達氏已經漸漸從天文之亂的內耗中逐漸恢復實力,因此父親義守時代的最上家獨立到接下來持續的領國擴張也大約於同時受到頓挫。 永祿七年(1564年),義光之妹義姬為最上與伊達兩家的友好而嫁給伊達家的家督伊達輝宗,並於永祿十年(1567年)生下長男梵天丸(伊達政宗)。這段婚姻也對於日後兩家之間的外交關係有者非常大的影響。 天正最上之亂 元龜元年(1570年),最上氏內發生混亂,由於對於周遭國人眾與分家的態度和伊達輝宗間領土爭奪的小摩擦,父親義守便與義光產生對立。5月,經宿老氏家定直抱病向義守進諫,兩人換取短暫的和平;同年8月(另一說為翌年(1571年))義守隱居,義光正式成為最上氏家督,但到天正二年(1574年)1月,由於義守對於義光對國人眾所採取的強硬態度深感不安,因此隱居後的義守乃致書信給女婿伊達輝宗派出援軍協同出兵,義光與義守再度爆發對立並轉變成武裝衝突(天正最上之亂)。當時最上家臣與周邊國人眾大都支持義守。最上家與周邊國人眾大致上在當時可以分成兩個派系: 義光方:義光、楯岡光直、大崎義隆、寒河江堯元(寒河江城城主) 義守方:義守、伊達輝宗、大寶寺義氏、白鳥長久(谷地城城主)、上山滿兼(上山城城主)、細川直元(小國城城主)、最上八楯:天童賴貞(天童城城主)、延澤滿延(野邊澤城城主)、長靜守兼、六田氏 最上郡地區領國化 在天正最上之亂的家族內亂之後,儘管義光取得最終勝利,但最上家之分家天童賴貞、東根賴景、上山滿兼等依舊對於義光感到不滿因而進行武力抗爭。谷地城主白鳥長久也於此時向日本京都地區的實力者織田信長派遣使者表示自己是出任羽州探題的最上家的正統繼承者。並獻上巨鷹、良馬給織田信長請求他給予自己出羽守一職。此時的義光面臨的是連最上郡一郡都沒有統一的情形。為此義光整頓家中的法度,之後更為恢復羽州探題最上氏的威信而不斷戰鬥。 天正五年(1577年),義光與以天童氏為首的最上八楯進行短暫的和解,雙方進行停戰,義光也娶天童賴貞的女兒(天童御前)為側室。 天正六年(1578年),上山城主上山滿兼在伊達輝宗的支援下,對最上氏的領地發動侵略作戰。後在義光的頑強抵抗下成功的將上山軍擊退。因為這原因義光便自得意滿起來,魯莽的向伊達輝宗發起攻擊,而察覺到兄長有難的義姬便在柏木山之役中趕到戰場,對義光與伊達輝宗兩人進行說服,成功的使得兩者進行停戰協議。 天正八年(1580年),義光以給予其主家舊領的條件成功的誘使上山滿兼家臣里見義近、民部父子,誅殺同為滿兼家臣的里見民部之兄長里見內藏介,而義光趁此時機發兵上山城,在與里見父子的裡應外合下,誅殺城主上山滿兼,成功的奪取上山城。 天正九年(1581年),義光對村山郡發動侵略作戰。首先在萬騎原之役將天童氏的姻親小國城主.細川直元擊破並佔領小國城。之後更是於夏天對小野寺重臣鮭延城主鮭延秀綱進行調略使其降伏最上氏。 天正十年(1582年),天童御前與義光生下義光三子清水義親沒多久後隨即因產後身體失調死去,因此最上、天童兩家的關係也就再度惡化。 天正十一年(1583年),尾浦城的大寶寺義氏向清水城攻擊,義光對清水城進行救援。翌年,義氏再次攻擊時,義光利用內應的前森藏人,當義氏進軍期間,前森的軍隊向大寶寺義氏突襲,義氏在混亂的期間自盡。 天正十二年(1584年),義光利用嫡子最上義康與白鳥長久女兒的婚姻關係向白鳥長久進行懷柔,之後則是假稱自己病重不已希望長久能夠來到山形城已交代自己死後的後事,藉機暗殺谷地城主白鳥長久,形成山形城日後有名的血染之櫻花典故。(但此典故也有人懷疑乃小說家之創作) 同年義光也攻擊寒河江氏與最上八楯盟主天童氏,可是遭到最上八楯之一的延澤滿延頑強抵抗,最上軍因而撤退,但儘管如此,義光仍讚嘆滿延之武勇並希望將其收為家臣,義光乃利用自己的女兒松尾姬與滿延的長子延澤光昌的婚姻,使滿延、光昌父子歸順義光,因此失去猛將的天童氏與寒河江氏乃被義光擊潰,寒河江家督寒河江堯元兵敗自殺。同時義光也對東根城主.東根賴景的家老里見源右衛門進行調略使其成為已方內應,完成東根城攻略。而剛接替死去的父親天童賴貞繼承天童氏家督之位的天童賴澄則是於同年天童城陷落後投奔伊達家。自此最上八楯宣告完全崩壞。義光也完成壓制最上郡地區全境與該地的領國化。 天正十四年(1586年),小野寺義道侵入最上家領地,雙方於有屋隘口間爆發激戰。在前哨戰中,最上軍敗給小野寺軍,但在戰役的後半段,靠著義光嫡子.義康與家臣楯岡滿茂的奮戰成功的進行反擊並轉敗為勝。 庄內進出與本庄繁長和伊達政宗間的鬥爭 天正十五年(1587年),大寶寺氏秘密與親族上杉家臣本庄繁長串通並試圖接近上杉景勝,但是此消息遭到義光察覺,趁其後援本庄繁長調往協助攻打叛出上杉家的新發田重家時,立即利用內應前森藏人等庄內地區國人眾的力量向大寶寺攻擊,最終大寶寺義興自盡,不過義興的養子大寶寺義勝成功的逃回親生父親本庄繁長領內。 天正十六年(1588年)2月,伊達政宗率兵1萬向義光正室大崎御前的兄長大崎義隆發動進攻,義光率兵5千趕往支援大崎軍並打敗伊達軍(大崎合戰),並策反伊達家重臣鯰貝城主鯰貝宗信,後在義光妹妹義姬突然出現於戰場中懇求最上、伊達兩軍進行停戰後。最上軍與伊達軍便達成和睦,而義姬也因和睦中的條件以伊達家人質身分回到山形城。 同時間,大寶寺義勝與其父親本庄繁長,趁者伊達政宗向大崎義隆發動侵攻期間,向庄內地區發起反攻,並於十五裡原之戰大破以庄內地區以國人眾為主的最上軍,奪回庄內的領地,也趁機向最上氏的領地發動侵略作戰,但隨即在東根城遭到最上軍的奇襲因而撤退。 而日後在庄內裁判權的紛爭中,儘管義光請求之前便有交好的德川家康幫忙說情,但是本庄繁長與大寶寺義勝的外交手腕及上杉家重臣直江兼續與石田三成的關係,使得豐臣秀吉將庄內裁判權的歸屬交給大寶寺義勝,並承認大寶寺氏為上杉氏的與力大名。義光因此在庄內地區的爭奪戰中落敗。 豐臣政權下的義光 在天正十八年(1590年)的小田原征伐中,由於準備父親義守葬禮的關係,義光甚至是比姪子伊達政宗還晚進行出兵,因而幾乎失去領地,幸好在事前拜託德川家康對秀吉的遊說,以及之後義光與其夫人大崎御前一同來到宇都宮城參見豐臣秀吉,因而確保自己24萬石的領地。同時也對於奧州置仕發布後的仙北一揆派兵進行鎮壓並趁機攻佔小野寺氏的部分領地。 天正十九年(1591年),德川家康為討伐九戶政實而來到山形城時,義光便將次子家親送到家康身邊成為其侍童。也成為諸大名裡第一位將兒子送去德川家康身邊擔當貼身侍童的先驅。而同期間,豐臣秀次也為討伐九戶政實而來到山形城,並在此段滯留期間見到義光之女駒姬。秀次對於駒姬的美貌一見鍾情,便數度說服義光將駒姬嫁給自己成為自己的側室之一,起先義光並不同意這婚事,認為應該等到駒姬再年長點時在論及婚嫁。但由於秀次的關白地位,因此義光也沒有強烈拒絕,後來秀次終於說服義光讓駒姬出嫁。同時間,由於豐臣秀賴的出生,義光也派三子清水義親前往大阪擔當秀賴的侍童,希望以此確保最上家的安泰。 天正二十年(1592年),由於豐臣秀吉下令出兵攻打朝鮮的關係,義光因而也率領500名士兵前往九州的前線名護屋城坐鎮,也於同一時間展開山形城的擴建工作。 文祿三年(1594年),義光送一封假的書信給小野寺義道的忠臣八柏道為,成功的讓小野寺義道中義光的離間計誅殺八柏道為,之後小野寺氏在與最上氏的作戰中便經常戰敗,在關原之戰(慶長出羽合戰)時也因加入西軍,而在戰後遭到改易。 文祿四年(1595年),駒姬從山形城出發並抵達大阪,但豐臣秀次卻因謀叛與眾多不良行為的嫌疑,因而遭到秀吉軟禁,駒姬也因而與秀次眾多妻室一同與秀次被軟禁。同年8月,秀次切腹謝罪後。駒姬與秀次妻室一共31人慘遭連坐,被下令押解到京都三條河畔下令處斬,當時駒姬只有15歲。一說駒姬當時也還未成為實質的秀次側室),義光想盡辦法挽救駒姬。但最終噩耗還是傳來。據傳義光夫婦聽聞噩耗時皆悲嘆不已,義光數日內食不下咽,而大崎御前則是在幾天之後便因不明原因隨者駒姬死去的消息傳來而跟著死去。義光也因此事件與伊達政宗一同受到牽連被下令進行自省。此段期間義光長子義康.次子家親也曾為父親義光的安危而進行祈福。 駒姬事件發生後,義光便開始痛恨豐臣秀吉與豐臣家。因而外交態度上出現明顯的改變。一改以往對於豐臣氏進行接近的態度,而是一面倒向支持自己的好友德川家康。當慶長年間於京阪地區發生大地震時(慶長伏見地震),各個大名皆是火速趕往秀吉宅邸確認秀吉安危,但義光卻是第一時間趕往家康宅邸確認德川家康的安危,此外當秀吉邀請家康前去茶會的時候,也自願性的擔當家康的貼身護衛確保家康安危。 慶長三年(1598年),在會津若松城城主蒲生秀行的家臣團之間爆發的鬥爭所引發蒲生家改易的蒲生騷動中,越後的上杉景勝為替豐臣家擔當監視奧羽諸大名的監視者與牽制關東德川家康行動因而入主會津。由於義光與上杉景勝長期在庄內地區的鬥爭與爭奪,加上景勝移封會津後依然握有佐渡島與庄內地區,因此兩者之間也因而產生嚴重矛盾,形成日後最上氏與上杉氏在慶長出羽合戰中激戰的遠因。 在此期間,義光也娶清水城主清水義氏的女兒辰姬(清水御前)為繼室,年紀小義光可能約20至30歲左右的清水御前不但是名協助義光文學與內政的賢內助,據傳也是義光面臨妻女相繼死去與政治上失意的人生最低潮時,帶給他人生一道曙光的女子。 慶長出羽合戰 在秀吉死後的慶長五年(1600年),由於上杉景勝回到領內進行道路整備、城池修築、收集兵器與招募浪人等備戰行動,因而引來周遭大名的舉發,後在上杉氏重臣直江兼續寫出直江狀給德川家康後,引發會津征伐。由於義光與上杉早在以前交惡,加上義光和家康之間的深厚交情,最上氏因而被委任為奧羽地區除伊達外的會津征伐軍總大將,義光命其嫡子義康為自己名代後便率領以6千5百名最上軍為主,共1萬1千名的會津征伐奧羽方面軍蓄勢待發。同年7月,石田三成於京阪地區起兵討伐德川家康,會津征伐軍主力於同月的小山評定後班師趕回西方與石田三成等西軍決戰。而義光底下的奧羽諸路軍在聽聞家康回師之後,也各自帶者自己軍隊撤回己領。 9月1日由於義光支持家康的東軍,上杉氏便以直江兼續為總大將,分別從庄內地區、米澤地區率兵2萬5千向最上氏領地發動侵略作戰,義光自知不敵,因而下令大部分的城兵放棄支城,集中兵力固守堅城池長谷堂城、上山城和主城山形城。 當中畑谷城守將江口光清無視於義光的撤退命令,率領300兵於畑谷城頑強抵抗。當時直江兼續也對於江口的器量感到佩服因而表示只要江口願意降伏的話,便會給與極優的待遇。但是光清無視於直江兼續的勸降,率領城兵頑強抵抗,最後與城兵一同和畑谷城玉石俱焚,而上杉軍也因此場攻城戰傷亡近1千人。畑谷城陷落後,上杉軍主力則繼續深入攻擊最上領,9月14日,上杉軍1萬7千名的主力包圍由守將志村光安與僅1千守軍的長谷堂城。而此期間志村光安與勇將鮭延秀綱奮戰以及城內守軍不斷對上杉軍進行鐵砲和弓箭的攻勢下,長谷堂守軍戰功彪炳,使得直江兼續為首的1萬7千名上杉主力軍久攻長谷堂城依舊無法攻下。此期間在最上家臣上山城城主里見民部、湯澤城城主楯岡滿茂的奮戰下也都順利擊退上杉家的側翼軍與仙北的小野寺軍。 同時間義光也派遣長子義康前往伊達家向伊達政宗請求援軍支援,而此時伊達政宗正是聽聞南部利直打算派軍支援義光因而在南部領內煽動一揆已達到自己擴張領土的目的。政宗在聽聞義康前來求援,而自己留在山形城的母親義姬也寫信請求伊達家支援後,便率兵3千支援最上,但其到達最上領後並沒有直接參與戰鬥,一說即為政宗聽從片倉景綱的意見,打算等到長谷堂的最上、上杉兩軍兵疲馬乏時,再收漁翁之利。 9月29日,當關原之戰的戰報傳給兩軍後,最上軍兵民聽到皆大為振奮,而上杉軍總大將直江兼續聽聞此消息後便解除對長谷堂城的包圍,並立即撤退,義光聯同伊達軍一起追擊上杉軍,但上杉軍卻在此場追擊戰中,在勇將前田利益與水原親憲所帶領的鐵砲隊率領下奮勇作戰,最上軍於此追擊戰中竟付出整場戰役中的最大傷亡,而義光本人也親率軍隊追擊,當時義光身邊的側近軍師堀(築紫)喜吽齋苦勸義光勿衝動出擊,但這時義光本隊卻遭到上杉軍的鐵砲隊火力攻擊,堀喜吽齋為保護義光而子彈從左肩貫穿到右胸當場斃命,而義光身旁的部隊長志村藤右衛門也為保護主公義光隨即成為義光的盾牌,為保護義光而戰死,這時候上杉家的鐵砲隊也成功的打中義光所戴的頭盔,而遠在戰場外的義光嫡長子義康見到父親有難,便率兵趕往父親身邊,成功保護義光。追擊戰最終上杉軍主力回到上杉領國內,而最上軍則是於戰後向上杉家的庄內地區發動侵略作戰,並成功迫使上杉家庄內最後一個據點酒田東禪寺城的守將降伏從城中撤出。 在關原之戰後,最上氏被分配57萬石的領地,當中加封的部分包括上杉氏庄內地區、由利十二黨領地與一部份小野寺義道的領地。 晚年 江戶幕府成立以後,義光為恢復領內的繁榮,因此對於自己的百姓所採取的政策是相當的寬容,也因此相傳在義光時代最上氏的領地都沒有發生過一揆的事蹟。因此義光治下的百姓也常常歌頌到「最上源五郎可是無視稅役的」(最上源五郎は役をばかけぬ)。 之後義光也繼續擴建山形城的規模,不但使山形城成為日本國內數一數二的平城,同時也進行城下町整備,同時也為活絡商人町的發展也對於城下的地子錢與年貢進行免除。並發送土地與整備羽州街道和設立定期市集,同時點對從上杉氏奪來的日本海貿易商港酒田港做非常大的建設與投資。也對於庄內地區到山形城的沿路街道進行改修、擴建。同時義光也對於最上川的水運開鑿下很大的功夫。使其水運量大增並因此改善山形藩的財政,同時也對於工匠為主的職人町設為「御免町」免除各項的勞役,也有部分的工匠受到家臣般的規格待遇。而當時山形城下町數共約31個左右,人口約19,796人,加上最上家臣團,估計當時山形城的人口約到達3萬人左右。 在農政面方面,義光也命家臣北楯利長、新關久正等修建北楯大堰與因幡堰等水利設施使得領內的農業用水獲得解決,庄內平原地區的開發也因而大為發展,即使到今日,日本的庄內地區的農業仍然受到這些水利設施非常大的幫助。 而義光也將庄內地區的大寶寺城進行改築,並更名為鶴岡城,並有意晚年在此鶴岡城進行隱居。但原本義光與嫡子義康良好的關係,卻在短短幾年之內因不明原因而生變,這時候最上家中也有些人有將與幕府親近的次子家親設為繼承人的想法。 慶長八年(1603年,一說為1611年),義光暗殺長男義康,原因不明,這卻是導致最上氏在義光死後家中混亂最後被幕府改易的遠因。(但這件事情近年來也興起一些新的說法,也就是義康暗殺之事也有可能非義光指使,而是由家臣戶井半左衛門自己獨斷暗殺義康。原因在於當義康遭到暗殺之後,義光聽聞消息據傳悲痛不已,甚至痛哭失聲,而義光為準備義康的後事跟早年死去的愛女駒姬的後事也都耗盡心力。) 而義光在『分限帳』提到家臣戶井半左衛門時也有提到「成敗」(處罰)二字。因此義康暗殺是否為義光指使,至今仍舊是個無法確定的定案。 慶長十六年(1611年)3月。義光就任從四位下左近衛少將與出羽守的官職。 慶長十八年(1613年),義光來到駿河城慶祝駿河城擴建完成時開始病發。慶長十九年(1614年),當義光由駿河城回山形城後,於山形城病死,年六十九歲。 出處https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E4%B9%89%E5%85%89
本庄繁長 Honjo Shigenaga(1540年-1614年) 本庄房長之子、母不明、正室為上杉景信之女、繼室為須田滿親之女、側室為大川忠秀之女;幼名千代豬丸、通稱彌次郎、法號雨順齋全長。 天文十一年(1542年),越後守護上杉定實欲收伊達晴宗之子伊達實元作為養子,父親房長與同族的色部氏極力反對,因此與支持派的中條藤資對立。受到伊達家支援的中條藤資便對房長進行攻擊,房長聽從弟弟小川長資與同族的鯰川清長之建議逃往出羽國庄內地方的盟友大寶寺氏(武藤氏)處。但這卻是小川長資的陷阱,他趁機奪走了房長的居城,房長聽到此消息後悲憤交加,不久病死。之後本庄氏的家臣團就推擁尚年幼的繁長繼承家督,但此時實權卻落入小川長資手中。年紀還不大的繁長被周遭的人譽為「幼少時期個性就剛強勇猛」。天文二十年(1551年),在房長的第13回忌時繁長強迫小川長資切腹,重新奪回本庄家的實權。 一時獨立 繁長後來跟隨上杉謙信參加川中島之戰、關東出兵等等戰役。但本庄氏自立性比較強,因此於永祿十一年(1568年)受到武田信玄的挑撥從上杉家中與大寶寺氏聯合對抗上杉謙信,並與武田信玄、越中一向宗聯手,趁著上杉謙信攻入越中時叛變。 繁長叛變之初,曾試圖聯合鯰川盛長、色部勝長、中條景資等人一同反抗上杉謙信,但遭到他們的拒絕,其中中條景資還將信件送去給上杉謙信,讓上杉謙信適時從越中回軍越後。而武田信玄也在七月時親自發兵進攻北信濃的飯山城,請來蘆名盛氏出兵北越後。但是蘆名盛氏作戰失利,而武田信玄在包圍飯山城一個多月不果後,也撤兵回甲斐。 因此上杉謙信在當年十月先進攻大寶寺義增使其降伏,繁長因此被孤立,在十一月時正式包圍繁長的本庄城,但長期籠城作戰中,繁長讓上杉軍受到不小的打擊。但是在孤立無援下,繁長還是接受蘆名盛氏的仲介,重新歸降謙信,在二月時送出長子本庄顯長作為人質。繁長此時在上杉家中的地位一落千丈,直到謙信死去。 御館之亂 天正六年(1578年),上杉謙信死後發生御館之亂,繁長本人加入上杉景勝方與上杉景虎方的鯰川氏交戰,另一方面繁長的長子顯長與大寶寺義氏加入景虎方,御館之亂景勝勝利後便廢除顯長的家督繼承權。後來討伐新發田重家也立下許多功勞。 庄內攻防 天正十一年(1583年),最上義光欲進攻庄內地方因此想謀殺大寶寺義氏,繁長為了阻止義光便去支援大寶寺氏,大寶寺義氏為了強化本庄氏與大寶寺氏之間的關係便令其弟大寶寺義興收繁長的次子本庄充長作為養子,並改名為大寶寺義勝。此項舉動激怒了反大寶寺親最上派的國人們,這時的繁長還在對付新發田重家,最上義光趁隙進攻。天正十五年(1587年),大寶寺義興的居城陷落並自殺,義勝則是逃回實父繁長的身邊。天正十六年(1588年),這次換繁長趁義光在對付伊達政宗的時候進攻庄內,發動十五裡原之戰大破最上軍,後追擊最上軍遭到奇襲才撤退。但已經成功幫義勝奪回庄內地方,並於天正十七年(1589年)參見豐臣秀吉,秀吉則承認大寶寺氏正式成為上杉景勝的與力大名。 短期流放 天正十八年(1590年),豐臣秀吉命上杉景勝進行檢地工作,繁長與同僚色部長真起爭執,之後奧羽地區發生反豐臣一揆。一揆平定後,由於繁長、義勝父子有煽動藤島一揆的嫌疑被流放到大和國,之後參加文祿之役才獲得赦免,並領1萬石高回歸上杉家。慶長三年(1598年),景勝轉封到東北的會津,繁長則擔任田村郡的守山城主。 松川之戰 慶長五年(1600年)爆發關原之戰,上杉景勝命繁長改任信夫郡的福島城主,並與梁川城主須田長義一同防範伊達家的侵攻。關原之戰東軍勝利,此時在攻擊最上義光的直江兼續不得不撤退(長谷堂城之戰)。10月6日,伊達家的片倉景綱、茂庭綱元、屋代景賴等人便開始攻擊福島城,義勝出城迎擊但遭伊達軍擊退。後來進行守城戰,成功擊殺了片倉景綱的數名家臣,伊達政宗停止攻擊並退往國見山的陣地,這時須田長義部將車斯忠則從信夫山的後方出陣,橫渡大隅川攻擊伊達軍後方的運輸隊,繁長也趁機進攻伊達軍,成功擊敗伊達,此乃松川之戰。但關於這場戰役有許多說法,此乃其中一種,但繁長成功守住福島城並使伊達軍撤退是千真萬確的。 戰後外交 戰後上杉家為了對付德川家康,家中分為抗戰派與講和派,直江兼續堅持抗戰到底,繁長則是支持講和,最後上杉景勝同意講和,繁長與千坂景親為了上杉家的存續到處奔波,景勝與兼續也上京向家康請罪,才從原本可能領地全部沒收的情況轉成會津120萬石減封為米澤30萬石。由於上杉家不因此事裁員,為了支付全員的薪資,多數家臣全部減薪,繁長也僅剩3300石與上杉家共渡難關。也因此事繁長繼續擔任福島城主,日後本庄氏在米澤藩也一直是家中的首席重臣。 慶長十九年(1614年)辭世,年七十三歲,法名「憲德院殿傑伝長勝大居士」。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E7%B9%81%E9%95%B7
東禪寺義長 Tozenji Yoshinaga(1544年-1588年) 大寶寺義氏的妹婿,原名前森藏人,以東禪寺城自立,改名為東禪寺義長。 義長與弟弟一同擔當義氏的近臣侍奉大寶寺家。大寶寺義氏武勇過人並與越後上杉家、仙北小野寺家締盟以和最上、安東抗爭,同時也和制霸近畿的織田信長有外交往來而被信長許以「屋形」的稱號。但是也因為義氏性情粗暴、肆意出兵使軍民兩疲,時有「義氏繁昌、土民陣勞」的說法,義氏更被稱做是「惡屋形」,其不得軍民之心的缺點也因此為死敵最上義光所乘,誘使義長叛變。 天正十一年(1583年),早與最上義光內通的義長突然襲擊當主大寶寺義氏,義氏在匆促間不及應變兵敗自刃,在大寶寺重臣協議後決定由大寶寺義氏之弟義興繼任當主,然而義氏的橫死讓原本被壓制在其武威之下的一揆勢力蜂起叛亂,莊內頓時陷入混亂局勢,本來隸屬於大寶寺家的國人眾紛紛為了自家的利益汲汲營營而紛亂不休,義長也乘此時機奪下大寶寺家的東禪寺城自立,由前森藏人改名為東禪寺義長,其弟也改稱東禪寺勝正。 弒主並奪取東禪寺城獨立的義長和欲為兄復仇奪回城池的大寶寺義興兩方爭端不止,義長雖然有最上義光作為後盾,但是大寶寺義興也和越後本莊繁長結合引上杉勢力為援。但是隨著兩方衝突的升溫,早已準備進軍莊內的最上義光置義長所佔據的東禪寺城為最上軍的橋頭堡隨時有出兵的圖謀,大寶寺義興為了確保上杉家的後援決定增強和本莊繁長之間的關係,收繁長的二男千勝丸為養子,強化雙邊的交誼,但是這番等同對最上家示弱的舉動卻使莊內國人眾對義興投去了不信任的眼光。 天正十三年(1585年)六月,大寶寺義興攻打最上家的清水城正式拉開最上義光莊內侵略的序幕,翌年,義長在飽海郡掀起叛亂呼應最上軍侵略莊內的軍事舉動,最上家重臣氏家尾張守親率大軍擊潰來次氏房奪下飽海郡,心怕不敵的大寶寺義興在請來上杉景勝援軍鞏固田川郡的同時也向伊達政宗求助,得到政宗允諾,最後在伊達政宗中介協調雙方和議。 這次和議維持的並不久於天正十四年(1586年)便被打破,當年十月,義長舉兵擔當嚮導,最上義光親率大軍來攻莊內,時值伊達政宗與蘆名氏、佐竹氏對立且上杉家重臣新發田重家叛亂,自顧不暇之餘,一時間大寶寺家難得援軍,被最上義光直逼居城尾浦城。所幸伊達政宗也顧慮到若讓最上義光取得莊內,實力再增必對本家不利而再次促使雙方和談。 翌年四月,最上義光再度發起攻勢,這次則是以足從新發田之亂中騰出手腳的本莊繁長派出援軍才及時挽救大寶寺家。但是大寶寺家是不該總是依賴他人的保護的。同年九月,最上和義長再次大舉進攻莊內,義長倚城出戰,最上義光派出的援軍則由六十裡越街道進擊殺退大寶寺義興,隨後義光帶領著山形的本隊與義長合流攻下尾浦城,大寶寺義興兵敗自盡,養子義勝避難於越後國境左近的小國城並向生父本莊繁長求援。 併吞了莊內後,義長因為身為引領最上軍進入莊內的大功者被最上義光任命為莊內的目付負起掃蕩莊內殘餘越後勢力的任務,然後留下心腹中山朝正鎮守尾浦城,一方面是要加強最上家對莊內的控制,另一方面也是讓中山朝正擔起監視督導義長之責。 天正十六年(1588年),回到越後的大寶寺義勝與親父本莊繁長同率大軍攻入莊內,迅速攻下了國境邊屬於最上方的兩座城堡,當時莊內領中國人眾對於最上義光讓弒主投敵的義長一類的不義徒成為莊內之主早有不滿之聲,而義長兄弟在入封後橫征暴歛的惡政更是讓人民怨聲載道,因此一傳來義勝復辟消息城中城下一時被越後勢寢反者眾。雖然聲勢大振但是本莊繁長深知若要強攻尾浦城犧牲必然不小,因此撿中大寶寺城和尾浦城中間尚未開墾且有三川並流天險的十五裡原作為野戰戰場。 得知本莊繁長做出野戰扎營準備的義長決定發動夜襲,但是卻被內應將情報洩漏給本莊繁長,結果奇襲者反被奇襲,雖然義長仍欲力圖振作奮戰但麾下兵士在混亂之中急急欲脫出倚川為陣的敵營卻反而多溺死於千安川。義長兄弟無力再戰,中山朝正敗走山形城,義長與弟勝正雙雙戰死。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/65835683/1
武田勝賴 Takeda Katsuyori(1546年-1582年) 武田信玄的四子、母為諏訪賴重之女.諏訪御料人、正室為織田信長養女.龍勝院(遠山直廉之女)、繼室為北條夫人(北條氏康六女);取諏訪氏通字「賴」字,初名諏訪勝賴,通稱四郎,別名伊奈勝賴、復姓武田,戒名景德院殿賴山勝公大居士。 在生母諏訪御寮人還未與父親信玄生子以前,在祖父武田信虎擔任當主時期,武田氏仍然與諏訪氏維持良好關係。 天文十年(1541年),父親信玄逼走祖父信虎出走並繼承武田家當主之後,武田家與諏訪家的友好關係即破滅,並在隔年之後,諏訪家當主諏訪賴重即被信玄遣軍征伐而戰敗被俘,幽禁在東光寺,最後自殺。 父親信玄出於能對信濃國諏訪地方的有效統治之政略,遂納諏訪賴重之女諏訪御料人為妾,諏訪御料人生下勝賴,成年後以「諏訪(四郎)勝賴」之名繼嗣諏訪家。但因為勝賴後來是擔任高遠城城主,也有說法認為勝賴是繼承高遠諏訪氏。 父親信玄為專注在北信濃地區對抗上杉謙信的軍勢,與領國西陲相鄰的織田信長締結「甲尾同盟」,並且將信長養女遠山夫人嫁給勝賴達成政略聯姻的政治同盟。 勝賴成年繼嗣諏訪家之後,先後隨武田家重臣秋山信友及馬場信房學習軍學及城務管理等事務。 永祿六年(1563年),首次在進攻上野國箕輪城參戰,在北武藏方面作戰中立下戰功。 勝賴在父親信玄晚年被由高遠城召回信玄身邊,準備繼承武田家,曾參與三方原之戰。在信玄病故後,勝賴成為武田家實質的當主。在一般通說裡,採用『甲陽軍鑑』的記載,信玄死後將家督之位傳給勝賴之子武田信勝,勝賴為陣代,秘不發喪三年,由勝賴代為行事。但之後的『當代記』雖然承認有秘不發喪一事但質疑陣代之說,並記載勝賴繼承家督。『甲斐國志.卷九十四.人物誌三』則是認為秘不發喪與陣代說均不合常理,亦記載勝賴繼承家督。『甲斐志料集成.甲陽傳記』與『甲陽國歷代譜』則採用家督說。『顯如上人御書札案留』也收錄本願寺顯如恭賀勝賴繼承家督的書信,『高野山文書』裡也有勝賴為繼承家督奉獻的文書。 勝賴在不久已經在一些戰役中顯示實力,天正二年(1574年)佔領織田軍美濃國明智城(明智城之戰),使原本來救援的織田六萬大軍退回岐阜。後來,勝賴率軍攻下德川軍的高天神城(今屬靜岡縣掛川市),是為高天神城之戰。面對織田家與德川家兩方軍勢先後展現出優異的軍事本領,令織田信長跟上杉謙信通信時,稱讚勝賴「武勇更勝信玄」。 天正三年(1575年),原武田家臣長篠城主奧平貞能、奧平貞昌父子受德川家康策反倒戈,於是勝賴以討伐叛臣名義出兵長篠城,勝賴最初先圍攻長篠城,但奧平父子的守軍奮力守城等待織田、德川軍的馳援,使得武田軍遲遲無法攻下長篠城。 作戰途中擄獲向德川家康求援之後返還的奧平家臣鳥居強右衛門(本名勝商),勝賴威迫他向守軍告知「援軍不會到達的,你們開城門投降吧!」以減低守軍士氣,不料強右衛門表面上答應,一到城前即向守軍告知援軍將至消息,武田軍怒而將他刺死,此舉亦令守軍堅守意志更甚。 另一方面織田德川聯軍行軍至離長篠城不遠處的設樂原之後,便先駐紮在此進行構築防禦陣地的準備,未立即對武田軍採取攻勢。 勝賴及武田家臣們原本打算先攻下長篠城之後,再以長篠城為據點,與織田德川聯軍決戰,不料原本負責駐防能制高監視軍勢動向在鳶巢山的守軍主將三枝守友及河窪信實,遭到德川家臣酒井忠次率領三千兵急襲,在姥懷支砦戰死。獲知鳶巢山失守的勝賴與武田家臣擔憂退路失守的可能,決定與織田德川聯軍決一死戰。 5月21日早時,勝賴與武田軍將軍勢移駐以天王山為中心,布陣在與織田德川聯軍隔川對面,並且發動猛攻,武田軍在諸將輪番猛攻之下,曾有2度差點突破防馬柵殺進織田信長所在的本陣地,戰鬥過程大約持續約8小時才結束。 但是在此戰中,織田、德川的聯軍巧妙利用火繩槍、防馬柵以及地勢、兵力數量上的優勢,擊敗勝賴的軍勢;武田家除山縣昌景、內藤昌豐、小幡信貞、真田信綱、土屋昌次與馬場信房等大將戰死外,武田家的軍隊死傷達一萬餘人,受到慘重的打擊。 長篠之戰結束不久,織田信長與德川家康相約分道襲擊武田領國,德川軍從東海道進攻遠江,織田軍從東山道進攻東美濃,駐防東美濃岩村城的秋山信友,遭到織田信忠領軍及前來督戰信長的織田軍團包圍,勝賴與武田軍主力正在應戰德川軍難以適時分兵馳援,勝賴命鄰近的木曾義昌先行馳援岩村城,但木曾義昌以軍資不足延遲出兵,秋山信友見援軍遲遲未至,向織田軍請降,但信長痛恨武田家反覆背信,將包括秋山信友及叔母織田艷等武田家降將一併處死(岩村城之戰)。 經過長筱.設樂原會戰的挫敗,勝賴有感於軍備與經濟有必要進行革新,勝賴向京都商人添購大批新式鐵炮充實軍備,對武田領國進行檢地政策,提拔次代家臣以利重振武田家的領國經濟與軍事發展。經過長篠之戰後,武田家雖然損失許多重要將領與士兵,但此時的武田家整體國力及軍勢還未明顯到衰弱地步。 外交戰略方面拒絕織田家遣使請和聯攻上杉家的邀約,藉由原將軍足利義昭的調停,與上杉謙信結盟合抗織田家再度組成反信長包圍網局勢,採納高阪昌信建議,迎娶北條氏政之妹.相模夫人為繼室,嘗試結成「甲越相同盟」的政略婚姻以利穩定東邊。 天正五年(1577年),北條家當主.北條氏政自從奉父北條氏康之遺命與上杉斷交改與武田同盟後,不斷進攻關東國人眾領主的領地,而在甲相同盟已成,故本以武田為靠山的關東諸國人眾只能再向上杉謙信求援,但此時上杉忙於攻略越中,根本分身乏術,北條家與上杉家因為關東領國糾紛關係早以陷入險惡狀態,本來『此時』「甲越相同盟」外交根本就不可能。 天正六年(1578年),上杉謙信病死之後,發生御館之亂,上杉景勝與上杉景虎(北條氏政之弟,過繼予上杉謙信)兩派為家督之爭而對峙,勝賴受到北條家以希望幫助景虎為由介入調停上杉家家督之爭,勝賴本意想景勝派與景虎派兩方能夠和睦,於是遣兵以軍事威脅方式迫使兩方和談,在一番交涉談判後,於8月19日達成和談協議,以景勝收養景虎之子道滿丸為嗣子做為和談條件之一而停止對峙,勝賴在確認和談順利落幕,此時傳來德川軍進犯的消息,於8月27日撤軍返回甲府防備德川軍,在武田家撤軍不久,景勝派與景虎派的家臣武士破壞和談再度交戰,上杉景虎、上杉憲政及道滿丸等先後在此役中遭殺害,事件最終以景勝派一方勝出落幕,北條家得知噩耗,認為勝賴先前作為偏袒景勝方,將景虎之死怪罪於勝賴的背信而反目。 北條方當時也派軍欲助景虎,但在上野與越後的交界處受阻,而身為同盟的武田方出兵2萬,卻未援助景虎,而武田方確實收下上杉景勝所給的黃金與數座城為回報來進行調停,甚至與景勝結為姻親,最後最有機會成功的『甲相越三國同盟』的機會,就此完全消失,怒於武田的背信,甲相同盟破滅,北條方改與織田信長結盟,而上杉方御館之亂後國力已損,更致命的是事後分賞問題導致的新發田重家之亂,與見此良機,柴田勝家大舉進攻,柴田勝家與新發田重家雙面的戰線,使上杉家進入近乎滅亡的巨大危機,武田方根本沒有可能得到由上杉方的足夠幫助(由後來的甲州征伐,上杉方基本完全沒有幫上忙,頂多出2千兵力可以得證)爾後武田家面臨北條家、德川家、織田家三方勢力的包圍局勢。 勝賴面臨此包圍局勢以與常陸的佐竹家及上杉家締結「甲越佐同盟」因應對抗包圍,派遣真田昌幸為主將領兵防衛上野方面的北條軍,派遣以曾根昌世為主將領兵防禦伊豆方面的北條軍,派遣駿河水軍反擊侵攻而來的北條家水軍,並予以重挫,數度壓制北條家軍勢,擴大對上野國北部與伊豆國西部等領地的控制。 此外勝賴透過佐竹家,設法與織田信長談和,並且釋放原本在武田家當質子的信長之子信房(織田勝長)做為談和善意,但信長已決意討滅武田家,不願與之談和。 第二次高天神城之戰,德川家康遣兵包圍高天神城,武田守將岡部元信籠城孤守,此時勝賴正在領兵全力對付北條家軍勢,難以分兵馳援高天神城,岡部元信體諒勝賴難處,遣橫田尹松(橫田康景之子)突圍向勝賴密信告知放棄馳援高天神城的打算與向自身準備德川家開城請降的事宜,勝賴閱過書信後認同岡部元信的請議。 此後岡部元信遣使書信向德川家康請降,德川家康將高天神城守將請降的事情遣信告知織田信長,信長閱過書信後向家康回覆說明接受高天神城請降雖能使遠江一國安定,但若是拒絕請降將高天神城猛攻使守將奮戰而死,能使勝賴背負見棄友軍不肯馳援的負面罵名,屆時能在兩、三年內全面攻入武田家領國腹地,家康同意信長的提議,拒絕高天神城守將的請降,全面猛攻高天神城至武田家守城將士奮戰而亡。 勝賴因為未能遣軍援救被德川家包圍攻擊的守將岡部元信及麾下守城武士,使其任由遭德川軍圍攻戰死,織田家藉由這一既成事實來宣傳勝賴對「高天神城見死不救」及「岡部元信抵死不降」的負面情報,在武田領內國人留下負面認知印象被認為是促成武田家覆亡關鍵,潛在打擊家臣將士及國人眾對勝賴領導威信的信心。 而勝賴接受穴山信君建議,命真田昌幸著手建築新府城,以利發展經濟及軍事戰略,期間以築新府城為名向領地內新徵賦稅,導致武田家的大將木曾義昌因負擔不起稅賦,也叛離勝賴。 勝賴得知木曾義昌的叛離相當震怒,依法度將留在甲州為質的木曾家親屬處死,勝賴為討伐木曾義昌而再度舉兵,遣令武田信豐領兵先鋒向木曾義昌的居城福島城進軍,並於木曾谷(鳥居卡)地方與木曾家部隊鑿戰,勝賴徵調約2萬兵力本隊蓄勢準備隨後赴援作戰,木曾義昌為能對抗武田家的軍勢而向織田求援。 天正十年(1582年)織田信長藉此一機遇向朝廷徵求將武田家指為朝敵的大義徵令,下達甲府討伐令,織田、德川、木曾、北條等總勢17萬餘兵力同時分路向武田家領國發動進攻。 同年2月,此時遭逢氣候異常降下大雪影響武田先鋒部隊作戰效能,遲遲未能攻克木曾家部隊,最終武田先鋒部隊在鳥居卡之戰中遭到趕來赴援的織田軍重創幾乎殲滅挫敗,武田信豐狼狽撤退,得知先鋒部隊潰敗噩耗的勝賴與本隊家臣正在商討如何因應織田家進攻部隊時,獲悉原本應當防備德川家進攻駿河的主將穴山信君已經歸降於德川家消息,更令武田家本隊家臣與兵員軍心動搖渙散,開始出現士兵與將領潰散叛逃情形,而前線守城將士也在軍心動搖之下對織田家與德川家進攻南信部隊紛紛出現不戰而逃或獻城投降情形。 面臨這樣的險惡劣勢,勝賴與繼續留在本隊的家臣決定先撤退到新府城商議後勢對策,勝賴遣令要求駐守高遠城的異母弟仁科盛信隨行撤退,盛信以殿後抵擋織田家與德川家軍勢爭取轉圜時間為由拒絕撤退,此後盛信與高遠城守城將士在遭遇織田軍主力包圍猛攻的奮戰之後陣亡。 勝賴知悉南信武田軍勢潰敗之後決定棄守新府城逃亡,軍議時真田昌幸曾致信勸勝賴逃往北信上州方面的「岩櫃城」以抗織田軍,最後勝賴卻決定逃往武田家宿臣小山田信茂的居城「岩殿山城」,不料由於小山田信茂的背叛,使得勝賴與嫡男武田信勝及家臣武士等殘餘48人(據說餘半是婦孺)走投無路逃往天目山。 在此與武田信勝、土屋昌恆等殘餘武士於天目山之戰抵抗瀧川一益3000人的包圍,明白勢寡難敵,便在供奉先祖武田信滿的栖雲寺與北條夫人自殺,年三十七歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E5%8B%9D%E8%B3%B4
直江兼續 Naoe Kanetsugu(1560年-1620年) 樋口兼豐的長子、母為藤もしくは蘭子、妻為直江景綱之女.阿船;幼名與六、初名樋口兼續,繼承直江氏,名為直江兼續。 先祖據説是平安時代源義仲的忠臣義仲四天王之一的樋口兼光,對於其父兼豐的身份有所爭議,根據米澤藩的記録《古代士籍》和《上田士籍》樋口兼豐是長尾政景家老、上田執事,而根據《藩翰譜》兼豊只不過是管理薪炭的小吏。 少年時代 生於越後國阪戶城(現新潟縣南魚沼市),湯澤町姓樋口的很多也有說他生在越後湯澤。五歲開始在仙桃院(上杉謙信的姐姐同時也是上杉景勝的母親)的推薦下成為長尾顯景(上杉景勝)的侍童.近侍。永祿七年(1564年)因為上田長尾家當主長尾政景去世,於是跟隨作為上杉謙信養子的上杉景勝進駐春日山城。目前無任何史料紀錄兼續跟隨過謙信,倒是孩童時代就早早侍奉景勝。 直江家繼承 上杉謙信暴卒的天正六年(1578年),上杉家爆發御館之亂,年僅18歲的兼續和父親兼豐協助上杉景勝擊敗上杉景虎,幫助景勝快速佔領春日山城,成為平定亂事的功臣之一。天正九年(1581年),景勝的親信直江信綱被毛利秀廣殺害。為免直江氏斷後,兼續奉景勝之命入贅直江家,娶直江景綱的女兒、信綱之妻阿船,繼承直江氏,正式改名為直江兼續,並且成為與板城城主。之後,與狩野秀治共同執政,輔助景勝治理越後。 豐臣政權時代 天正十一年(1583年)成為山城守。天正十二年(1584年)狩野秀治病倒,基本由兼續負責內政外交。秀治死後就完全由對外文相當擅長的兼續一人擔當。家臣們稱上杉景勝為「御屋形」(主公),稱兼續為「旦那」(主人)。天正十四年6月22日(1586年8月7日),兼續陪同景勝上洛,天皇冊封主君景勝為從四位下左近衛權少將,兼續為從五位下。 在新發田之亂中為爭奪戰略要地新潟與新發田重家展開激烈的戰鬥。天正十一年(1583年)因為大雨上杉家敗北。兼續於是整治主流不定的信濃川,開鑿支流中之口川奠定現在新潟平原的基礎,然後逐漸擠壓新發田家的空間。天正十三年11月20日(1586年1月9日),佔領新潟城和沼垂城,取得新潟港的控制權。失去經濟來源的新發田重家很快衰敗。天正十五年10月13日(1587年11月13日),兼續和藤田信吉一起攻陷新發田城的支城五十公野城,之後立刻攻佔新發田城,結束戰爭。 天正十六年(1588年10月7日)豐臣秀吉賜姓豐臣,以豐臣兼續的名字成為山城守。天正十七年(1589年)和上杉景勝一起出兵佐渡。佔領之後被委派管理佐渡。天正十八年(1590年)跟隨景勝參加小田原征伐,和松山城城代山田直安以及其部下金子家基,難波田憲次收降若林氏,然後作為先鋒佔領八王子城等關東多處城池。文祿元年(1592年)又和景勝一起出兵朝鮮參加文祿慶長之役取得戰功。此外還修整庄內地方的大寶寺城,以及平定領內的農民起義。 兼續為恢復戰亂後的越後經濟也施行很多政策。他鼓勵農民開墾新田。越後平原現在也是日本的稻穀主要產地。他還支持手工業和商業的發展。越後農民種植一種叫苧麻的植物,在木綿沒有普及的時代苧麻被當作衣用纖維重要材料。青薴做成的布在京都能賣很高的價錢,取得很大的收益。在兼續的領導下越後變得和謙信統治時代一樣繁榮。 文祿四年(1595年)1月,豐臣秀吉命令上杉景勝管理越後,佐渡的金銀礦山,兼續任代官。 慶長三年(1598年)豐臣秀吉改封上杉景勝到會津成為一百二十萬石的大名,其中出羽國米澤六萬石(加上寄騎有三十萬石)賜予兼續,幾乎等同於大名的待遇,時人乃稱兼續是「天下第一陪臣」。這次改封上杉家領地被最上家領地分隔為會津,置賜地方和庄內地方兩個部分。為聯絡兩地兼續修築朝日軍道。朝日軍道是沿朝日山地山脊的險道,關原之戰後廢棄。 關原之戰 慶長三年8月18日(1598年9月18日)豐臣秀吉逝世,德川家康勢力抬頭。在好友石田三成的請求下,兼續決定跟家康對立,放逐主張與德川家和睦的上杉家重臣藤田信吉。同時拒絕家康的上洛要求,執筆著名的「直江狀」。 這封令德川家康大怒而招致會津遠征的直江狀後世認為是偽作,改竄的可能性很大,但是在勸阻家康上杉征伐的舊豐臣奉行的書信中所寫「這次的直江所作所行,是在有無禮之處,令您生氣也是情有可原」,「您不必和鄉下人一般見識」,兼續的信是存在的,也的確因此激怒家康。 上杉景勝、兼續一面修築新城神指城來取代難以防守的若松城,一面在白河練兵準備迎擊德川軍。由於石田三成的舉兵,德川家康率領的東軍主力不得不停止對上杉的攻擊。兼續率領3萬精銳部隊入侵東軍最上義光的領地山形。最上義光和上杉家一直為庄內地方而戰事不斷。從上杉家來看領土被最上家隔開,從最上家來看領土被上杉家包圍。當初東北方面的東軍集結在最上家領地,家康撤退以後其他大名也跟著一起撤離,因此最上領地內東軍兵力驟減。義光感到危機一邊派出使者和上杉家講和,一邊向東軍諸侯求援企圖先發制人。察覺到義光動向的兼續拒絕和議。 最上義光為集中兵力命令部下放棄一部分外城。畑谷城江口光清拒絕服從據城頑守,在上杉軍猛烈攻擊下失守。隨進攻志村光安守衛的長谷堂城和里見民部守衛的上山城。上山城只有500名士兵守衛,兼續派4000人的分隊,里見民部出城迎戰。上杉軍以8倍的兵力仍然久攻不下,反而損失數名武將,分隊直到最後也沒有和兼續的本隊會合。進攻長谷堂城的是兼續親自率領的1萬8000人。志村光安,鮭延秀綱帶領1千名守軍奮力抵抗,上杉軍上泉泰綱戰死。本來想速戰速決結果演變成持久戰,9月29日關原之戰失敗的消息傳來,上杉軍經過20天的戰鬥連攻不下只能撤退。詳細參照長谷堂城之戰。 最上軍和前來救援的伊達政宗部隊乘勝追擊,在水原親憲、前田利益等上杉諸將的奮戰下終於撤回米澤。這次撤退非常經典,受到兼續敵人最上義光和德川家康的稱讚,後來還作為日本陸軍參謀本部的戰例。 結果上杉軍進攻最上侵佔山形的行動以失敗告終,最上軍奪回庄內地方,並且發生伊達進攻上杉領地的松川之戰,但本庄繁長有成功擊退伊達。上杉景勝、兼續打算殲滅最上、伊達的構想就此破碎。 江戶時代 返回本領地後,兼續原本是堅持要與德川家抗戰到底,後被上杉景勝與本庄繁長說服而作罷。慶長六年(1601年)7月,兼續隨同景勝上洛向德川家康請罪,景勝減封至米澤三十萬石,兼續六萬石。但兼續只自取五千石,其他分給其他大臣。家康知悉後讚嘆道:「能得如此之能臣,取天下可無難矣!」自此上杉家向德川家宣示忠誠。 慶長十三年(1608年)兼續改名為重光,輔助上杉景勝治理米澤藩。和在越後一樣致力於新田開發和治水,在流經米澤的最上川上游修築3公里長的石堤防止氾濫,後來被稱為「直江石堤」。米澤藩表面石高只有三十萬石,實際達到五十一萬石。此外還擴大城鎮面積,振興手工業,開發礦山,只用十年就把米澤發展成擁有繁榮城下町的豐城。 為和德川家搞好關係通過德川家近臣本多正信開展外交,慶長十四年(1609年)在正信幫助下免除10萬石的賦稅。兼續還把正信的兒子本多政重認作養子。儘管後來中斷養子關係仍然和本多家保持親密的友情。 慶長十九年(1614年)作為東軍參加大阪之役,在鴫野之戰中立下戰功。 元和五年(1619年),病逝於江戶鱗屋敷,年六十歲。據說兼續去世時,一向面無表情的上杉景勝放聲痛哭,可見兩人之間的情誼。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E5%85%BC%E7%BA%8C
色部長實 Irobe Nagazane(1553年-1592年) 色部勝長的次子、母不詳、妻為新發田重家之妹;通稱惣七郎,初名長實,後改名為長真。 父親勝長仕於長尾為景、長尾晴景、長尾景虎(上杉謙信),為三代宿老;永祿十二年(1569年)在本庄繁長謀反時,於進攻繁長居城本庄城中遭繁長夜襲戰死,一說病死。 長兄顯長繼承家督之位,但顯長體弱多病,遂於天正四年(1576年)隱居,將家督之位讓與弟弟長實。 天正六年(1578年)上杉謙信去世,上杉家爆發御館之亂。長實加入支持上杉景勝的一方與上杉景虎作戰,立下戰功,戰後成為上杉景勝的家臣。 天正九年(1581年)爆發新發田重家叛亂,盡管正室為重家之妹,但長實仍領命討伐重家。天正十六年(1588年)隨上杉景勝上洛,與直江兼續、須田滿親一同被豐臣秀吉授予豐臣姓。 天正十八年(1590年)仙北一揆發生暴動,受豐臣秀吉之命,長實居出羽大森城與大谷吉繼共同負責鎮壓,立有功勳。 天正二十年(1592年)豐臣秀吉開始對朝鮮用兵,長實跟隨上杉景勝趕赴肥前名護屋城,但中途突然生病,被准許返回國內。歸國後,在伏見養傷,但病情一直沒有好轉。 同年9月10日病死,年四十歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/3043281.htm
金上盛備 Kanagami Moriharu(1527年-1589年) 金上盛信之子,別名平六、右衛門大夫、盛滿。 金上氏與蘆名氏同出自桓武平氏三浦氏,家徽為三引兩。文治五年(1189年)佐原義連受封會津,傳子盛連。盛連生有六子,長男經連(豬苗代氏),次男廣盛(北田氏),三男盛義(藤倉氏),四男光盛(蘆名氏),五男盛時(迦納氏),六男時連(新宮氏)。其中三男盛義生盛經(又名時盛),盛經生長男盛種和次男盛弘,長男盛種子盛俊為栗村地頭,後代即栗村氏。而次男盛弘成為金上地頭,在領地修築居城津川城。盛弘生兵庫頭盛仁,從盛仁起開始改稱金上氏。 金上氏世代擔當蘆名家的筆頭家臣,傳至金上盛備已是第15代,父親金上盛信死後繼承了津川城主的職位。 金上氏雖然與蘆名氏同族,又世代享受筆頭的尊榮,但是由於領地離會津中心較遠,政治影響力較弱,雖說保留了很大的自主性,卻在很長一段時間裡在主家的地位較為低下,遠不如「蘆名四天宿老」的佐瀨、平田、富田、松本氏。這種情況到蘆名盛高、盛滋時代開始有所轉變:松本氏屢次反叛,富田氏關係較疏遠,佐瀨、平田兩氏雖然忠誠但到底是擁兵自重的外人,主家蘆名氏開始轉變倚重的對象。在同族中,豬苗代氏一向自認嫡流瞧不起強大但是庶出的蘆名氏,雙方征戰不斷;新宮氏已經在蘆名盛高一代就被討平;栗村等氏實力弱小。於是雖然偏遠但是一直比較忠誠,又有一定實力的金上氏重新走入了主家蘆名的視線。 蘆名盛舜繼任當主後,開始提拔金上盛備。蘆名盛氏時代,依然延續了這種做法,加之盛備出色的內政能力,最終盛備所領高達三萬八千石,遠高於「四天宿老」的五千石,甚至高於主家的旗下大名豬苗代氏(一萬八千石)、山內氏(一萬五千石),而與白河氏相當。這也反映出盛備在家中的地位。 金上氏的領地津川位於會津出入北越後的要道,承擔著防備上杉家的重任。雖然蘆名家的戰略進攻方向在東方和南方,與上杉家大部分時間都有同盟關係,但是小征斗仍然不斷,如弘治二年(1556年)出兵越後駒掃、永祿七年(1564年)出兵越後官名庄,都是依託津川作為後方基地,而以金上氏旗下家臣小田切氏為先導的。上杉家臣大熊朝秀、本庄繁長叛亂也是通過小田切氏或者金上氏與蘆名家聯繫。 天正六年(1578年),傳來上杉謙信去世的消息,蘆名盛氏立刻命小田切孫七郎前往春日山城,在確認消息後,蘆名家派出小股部隊(估計是小田切氏的人馬)偽裝成強盜試探了上杉家的防禦力量。 很快「御館之亂」爆發,上杉景勝與上杉景虎爭立,5月,景虎的後台武田家、北條家致信蘆名家,懇請蘆名盛氏出兵援助景虎。對北越後出海口早有野心的蘆名盛氏很快同意,於9月任命金上盛備為總大將,攻入北越後腹地。但是蘆名盛氏的目的不在於援助景虎,而是渴求土地,蘆名軍很快攻陷了要地北蒲原郡安田城,隨後又勸誘山浦國清家臣從而侵入下條等地,達到了擴充了領土的目的。而景虎不僅沒有得到期望中的來自東方的援助,反而不得不承認了蘆名家對佔有的土地的所有權。 天正七年(1579年),上杉氏家臣.新發田重家因為對封賞不滿,受到柴田勝家勸誘而叛亂,蘆名家依舊通過津川金上氏暗中支持新發田氏,力圖在與上杉領地間建立一個緩衝地帶。 天正八年(1580年)7月28日(一說6月17日),蘆名盛氏去世,年60歲,埋葬在小田村;蘆名盛氏唯一的嫡子盛興已於天正三年(1575年)去世,因此蘆名盛氏選擇過繼旗下大名二階堂盛義的嫡子二階堂蘆名盛隆為養子。蘆名盛隆繼任為蘆名家第18代當主。但是在蘆名盛氏時代團結一致的家臣,面對這個外來的少主,卻難以保持尊敬和信服。 蘆名盛隆即位後,急需獲得威望以贏得家臣們的信任,對內他選擇依靠自己親信的二階堂派系,並籠絡家臣筆頭金上盛備等舊家臣;對外,於天正九年(1581年)命盛備帶上禮物(名馬三頭,蠟燭千支)上洛,為主家爭取三浦介的職位。盛備禮儀周備,口才出眾,贏得了織田信長的好感,在信長的斡旋之下蘆名盛隆敘任三浦介,蘆名家在名義上成為了三浦氏嫡流,而盛備也因功被任命為遠江守。由此,蘆名盛隆穩定了家中的形式,而盛備也更加為主公所倚賴。 之後金上盛備作為重臣在內政、外交等方面繼續活躍著,如天正十年(1582年)5月29日,盛備代表主家就織田家臣瀧川一益背棄盟約聯絡伊達家一事向織田信長表示抗議等。正是在蘆名盛隆時代,盛備得到了「蘆名執政」的稱號。 天正十二年(1584年)10月6日,24歲的蘆名盛隆被寵臣大庭三左衛門殺害,不滿一歲的嫡子龜王丸繼任當主,蘆名家實際權力掌握在了金上盛備、四天宿老等重臣集團手中。 而到了天正十四年(1586年)12月31日,龜王丸又由於患皰瘡病死,年僅3歲。多災多難的蘆名家由於繼承人問題,家臣分裂為兩派:伊達派和佐竹派。伊達派以富田氏、平田氏為首,主張迎立關係較近的伊達小次郎竺丸(伊達政道),而以金上盛備為首的佐竹派則主張迎立佐竹義重的次子佐竹義廣。雖然蘆名家歷史上和佐竹、伊達都有爭鬥,但在蘆名盛氏時代就與佐竹達成了和睦,佐竹家也承認了蘆名家在南陸奧的霸權。而伊達家則不同,雖然兩家有姻親關係,但在「天文之亂」以後,伊達家沒落,蘆名家崛起,期間兩家爭執不斷,並在蘆名盛隆即位後愈演愈烈。蘆名盛隆被刺後僅20天,伊達家就趁亂出兵,消滅了一直為蘆名家守衛檜原通道的穴澤氏,之後兩年不到的時間裡,蘆名、伊達大規模的交戰就有五次之多。所以,在蘆名家臣團內部,支持佐竹派的輿論佔優。加之外界石田三成的介入,最終,佐竹義廣繼承蘆名家,並改名為蘆名盛重(蘆名義廣)。 在蘆名家為繼承人問題陷入爭論的同時,北方的上杉景勝在支持豐臣秀吉擊敗柴田勝家後,解決了後顧之憂,決心討平新發田氏的叛亂。之前景勝不斷派遣使者出使蘆名家,承認蘆名家在北越後新佔領土地的合法性,希望以此來換取蘆名家的中立。但在景勝正式知會蘆名家其即將征討新發田氏的消息後,新即位的蘆名義廣,在其親信的佐竹系家臣慫恿下,拒絕了以金上盛備為首的眾多家臣的建議。在得到新發田氏從屬的承諾後,下令出動金上氏兵馬支援新發田氏。這種做法也許是急於通過戰爭樹立威信,也許是蘆名義廣為了削弱手握實權、功高震主的盛備的實力而刻意為之,但卻直接導致了蘆名家在北越後新擴張的土地全部丟失,赤谷城陷落,小田切盛昭被討死的慘痛結局。 在北越後的失敗,更加加劇了蘆名家臣團的分裂,這連在家中有著崇高威望的金上盛備也無能為力。為了延續主家,盛備向蘆名義廣建議以承認本領安堵為條件徹底投靠豐臣家,在獲得同意後,盛備第三次上洛,晉見豐臣秀吉,並圓滿完成了使命。而此時,蘆名家的領地已從蘆名盛氏時代的一百二十萬石銳減至四十八萬石。 但僅僅半年之後,天正十七年(1589年)6月5日,摺上原之戰爆發,由於家臣團的分裂,導致戰場上蘆名軍前後脫節,在前線奮戰的金上盛備等人拚命贏得的優勢遲遲無法轉為勝利。在後備部隊遭到小規模襲擊紛紛退走後,前軍終於支持不住開始潰敗,二番備盛備隊被切斷退路,全部戰死,年63歲。 金上盛備死時其家臣白橋權左衛門記下他的遺言,逃回津川轉告盛備之子金上盛實「依靠山內,誓死抵抗伊達」。 出處 http://www.twwiki.com/wiki/%E9%87%91%E4%B8%8A%E7%9B%9B%E5%82%99

Send this to a friend