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三百六十位人物:北条氏直、足利晴氏、松平秀康、岡吉正、一栗高春、北条景広、富田隆実、木下昌直、岡部元信、円城寺信胤、遠藤直経、岡本禅哲、安倍元真、大宝寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫広門、春日元忠、戸蒔義広、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣、高島正重、佐伯惟教、山上照久、毛利元清、阿蘇惟光、織田秀信、正木為春、大関高増、鵜殿長照、那須資胤、織田信孝、西園寺実充、北畠具藤、奥平貞能、尼子勝久、北条氏秀、天野隆重、北畠晴具、朝比奈泰能、京極高吉、松平秀忠、畠山政繁、山村良候、林秀貞、高森惟直、畠山義隆、北畠具房、田尻鑑種、一色義幸、土居清良、平岡房実、小梁川宗秀、石成友通、武田信豊、徳永寿昌、本願寺教如、高梨政頼、片桐且元、朝倉景紀、赤松則房、小島職鎮、横瀬成繁、浦上宗景、佐世元嘉、木造具政、成田長泰、益田藤兼、福原資保、宮部継潤、三雲成持、小野崎従通、大田原資清、志道広良、真田幸昌、木下秀頼、伊達実元、内ヶ島氏理、浅利勝頼、安東茂季、寒川元隣、杉重良、桑名吉成、斯波義銀、織田信勝、泉田胤清、百地三太夫、畠山義慶、有馬義貞、猪俣邦憲、加藤嘉明、稲富祐直、平野長泰、波多野宗高、浅井久政、国分盛顕、児玉就忠、山口重政、石川康長、那須資景、赤星統家、赤松晴政、京極高次、斯波詮直、山崎片家、最上義時、相良頼房、松本氏輔、柴田勝豊、戸沢政盛、藤方安正、脇坂安治、原田信種、小寺政職、猪苗代盛国、岡家利、蒲生秀行、鳥屋尾満栄、吉弘鎮信、村井貞勝、一迫隆真、蘆名盛興、小野寺輝道、神代勝利、篠原長房、島津豊久、矢沢頼康、来島通康、阿蘇惟種、阿蘇惟将、阿蘇惟豊、阿閉貞征、安芸国虎、安見直政、安宅冬康、安田顕元、安田能元、朝倉景隆、安富純治、安富純泰、伊集院忠倉、伊集院忠棟、伊集院忠朗、伊達盛重、伊東義益、伊東祐慶、伊東祐兵、伊奈忠次、井伊直孝、磯野員昌、一栗放牛、一色義清、一色義道、一色藤長、稲葉貞通、宇喜多忠家、宇山久兼、宇都宮高武、羽床資載、臼杵鑑続、延原景能、延沢満延、遠山景任、塩屋秋貞、奥平信昌、岡部長盛、岡本頼氏、屋代景頼、屋代勝永、屋代政国、温井景隆、温井総貞、下間仲孝、下間頼竜、加須屋真雄、河尻秀長、河尻秀隆、河田長親、河東田清重、河野通宣、河野通直、河野通直、花房職秀、花房正幸、花房正成、皆川広照、垣屋光成、垣屋続成、角隈石宗、葛山氏元、葛西俊信、葛西親信、葛西晴胤、樺山久高、蒲生賢秀、蒲池鑑盛、肝付兼護、肝付良兼、関一政、関盛信、岩上朝堅、岩清水義教、岩清水義長、願証寺証恵、吉見広頼、吉見正頼、吉川経安、吉川経家、吉田孝頼、吉田康俊、吉田重俊、吉田重政、吉良親実、久慈信枚、久能宗能、久武親信、久武親直、宮城政業、朽木元綱、魚住景固、近藤義武、金子元宅、金上盛備、九戸康真、九戸実親、九戸信仲、九戸政実、窪川俊光、窪田経忠、熊谷元直、熊谷信直、隈部親永、結城政勝、兼平綱則、犬甘久知、犬童頼兄、原胤栄、原胤貞、原長頼、原田宗時、古田重然、戸川秀安、戸川達安、戸沢政重、戸沢盛重、戸沢道盛、戸田勝成、後藤高治、後藤勝元、後藤信康、御子神吉明、御宿政友、公文重忠、弘中隆兼、江井胤治、江上武種、江村親家、江馬輝盛、江馬時盛、江里口信常、溝尾茂朝、甲斐親英、荒木氏綱、香川之景、高橋鑑種、高原次利、高山友照、高城胤則、高城胤辰、高梨秀政、高梨頼親、国司元相、国分盛氏、黒岩種直、黒川晴氏、佐久間安政、佐久間勝政、佐久間盛政、佐竹義久、佐竹義憲、佐竹義斯、佐竹貞隆、佐田鎮綱、佐田隆居、佐波隆秀、佐野宗綱、佐野房綱、最上家親、最上義守、妻木広忠、斎藤龍興、細野藤敦、鮭延秀綱、三好義興、三好秀次、三好政康、三好政勝、三好存保、三好長逸、三村家親、三村元親、三村親成、三沢為清、三木国綱、山崎家盛、山崎長徳、山田宗昌、山田有栄、山田有信、山内一豊、山名豊定、山名祐豊、四釜隆秀、市川経好、志賀親次、志賀親守、志賀親度、志村光安、斯波義冬、斯波経詮、斯波長秀、氏家吉継、氏家守棟、寺崎盛永、寺沢広高、寺島職定、慈明寺順国、慈明寺定次、七里頼周、執行種兼、車斯忠、種子島恵時、種子島時堯、酒井忠勝、酒井敏房、秋月種実、秋月文種、十河義継、楯岡満茂、小笠原信浄、小笠原成助、小笠原長雄、小笠原貞慶、小貫頼久、小山高朝、小山秀綱、小田氏治、小田守治、小田政光、小田友治、小幡憲重、小峰義親、小野木重次、松浦鎮信、松永久通、松永忠俊
三百位人物:羽柴秀次、石川五右衛門、久武親直、三好政勝、一条兼定、河野通直、来島通康、松平忠吉、阿蘇惟将、松平忠輝、柳生宗厳、松浦鎮信、相良義陽、相良頼房、深水長智、犬童頼安、伊東義祐、伊東祐兵、稲富祐直、島津家久、種子島時尭、母里太兵衛、伊集院忠朗、伊集院忠棟、新納忠元、京極高次、花房職秀、柳生宗矩、百地三太夫、大内義長、大友義統、岩城重隆、赤井直正、本願寺証如、尼子国久、尼子勝久、里見義頼、吉田孝頼、龍造寺政家、鈴木重則、足利義氏、千葉胤富、斯波義統、相良晴広、東郷重位、武田信廉、武田義信
五百位人物:有馬直純、明智秀満、鵜殿長照、赤尾清綱、増田長盛、鵜殿氏長、脇坂安治、長束正家、岡部正綱、岡部長盛、奥平貞能、葛山氏元、蒲生賢秀、蒲生秀行、京極高吉、松平広忠、籾井教業、三好義興、青山忠成、石川家成、石川康長、畠山昭高、薄田兼相、大野治長、板倉勝重、筒井定次、伊奈忠次、鈴木重朝、榊原康勝、酒井忠勝、内藤清成、牧野康成、山口重政、尼子誠久、斯波義銀、毛利長秀、津川義冬、立原久綱、織田広信、織田信秀、織田信澄、織田信包、河尻秀隆、河尻秀長、柴田勝豊、丹羽長重、宇喜多詮家、平岡頼勝、松野重元、原田直政、三村元親、前田利長、前田利政、蜂屋頼隆、古田重然、小早川秀包、森忠政、生駒親正、柴田勝政、佐久間安政、前野長康、小野木重次、桑山重晴、仙石秀久、三好長治、徳永寿昌、戸田勝成、百々安信、中村一氏、原長頼、平塚為広、堀尾吉晴、溝口秀勝、徳山則秀、毛受勝照、土岐頼次、氏家行広、日根野弘就
太田牛一 Ota Gyuichi(1527年-1613年) 『信長公記』などの軍記と伝記の著者。官位は和泉守。通称は又助(又介)あるいは和泉を用いた。 諱は天正9年(1581年)までの文書では「信定」と署名しているのが確認できる。その後の書状では、年代の確実なもので古いものは天正17年(1589年)から「牛一」と署名して、晩年までこれを続けた。そのため信長の死んだ天正10年(1582年)前後に諱を変えたのではないかと言われている。また平家語り一方流琵琶法師が名乗りの一文字の末尾に「一」を付けるので、それに倣ったという説もある。 大永7年(1527年)、尾張国春日井郡山田荘安食村(現・名古屋市北区)の恐らく土豪の家に生まれる。成願寺において僧侶をしていたが、還俗し斯波義統の家臣となる。 天文23年(1554年)7月12日の義統殺害の後、那古野城の織田信長の保護を求めた遺児の斯波義銀に付いて織田家に行った可能性がある。 天文23年(1554年)、信長の家臣・柴田勝家に仕え足軽衆となる。同年7月18日、安食の戦いに参加する。義統弔い合戦の意味もあったと思われる。弓の腕を認められ、信長の直臣となり弓3人鑓3人の「六人衆」の一員となり近侍衆となる。永禄7年(1564年)、美濃斎藤氏の堂洞城攻略では二の丸の門近くの建物の高い屋根から弓を射て活躍し信長に褒められ知行を増やされる。 その後は近習の書記となる。後には安土城下で屋敷を持ち、信長に近侍する官僚(吏僚)として、永禄12年(1569年)から天正10年(1582年)にかけて丹羽長秀の与力として京の寺社との間の行政を担当する。本能寺の変後は長秀に2,000石で仕え柴田勝家との戦いのため坂本城に長秀に従い参陣する。後に天正13年(1585年)の長秀没後は丹羽長重に加賀国松任で仕えるが、公務は息子に譲り同地で一時隠居する。 しばらくして豊臣秀吉に召し出され、天正17年(1587年)から洛南の行政官僚となり再度寺社行政と検地なども担当し、この年から山城国加茂六郷を検地する。天正18年(1588年)には淀城を拠点にし、南山城と近江国浅井郡の代官も兼任する。天正20年(1590年)、肥前国名護屋へ秀吉に従軍し、道中の人足や馬を配分する奉行に就く。名護屋では名護屋城の建築工事の差配をする。文禄元年(1592年)の文禄の役では城の留守番衆として詰める。文禄3年(1594年)、大阪に戻る。文禄5年(1596年)5月9日、豊臣秀頼の初の上洛に供奉する。この時に後陽成天皇に『太閤御代度々御進発之記』を献上する。慶長3年(1598年)3月15日の醍醐の花見では秀吉の側室・三の丸殿の警護を務めた。同年3月17日、醍醐寺三宝院で門跡・義演から信長から秀頼までの記録を書いたと紹介され一部暗誦もした。 同年9月18日の秀吉の没後は豊臣秀頼に仕えた。慶長6年(1601年)までに『関ヶ原合戦双紙』を徳川家康に献上し、11月7日中井宗茂にも進上する。慶長11年(1606年)、南禅寺金地院の河内真観寺領の代官になる。慶長12年(1607年)頃、『関ヶ原合戦双紙』奥書で自分の著作をまとめて「五代之軍記」と名付ける。慶長16年(1611年)3月28日、秀頼の家康との京都二条城での会見への上洛に供奉する。 80代で感冒で重体となり、体力が低下したが回復する。隠居しないまま大阪城東南の重臣の屋敷地区の大坂玉造で慶長18年(1613年)に病死する。 非常に長寿で壮健で慶長15年(1610年)、84歳の時の書も残っている。 記録作者として優れ、信長・秀吉・秀次、秀頼、家康の軍記・伝記を著述したが、信長の一代記である『信長公記』が、その綿密さと史料性の高さから特に有名である。戦記としても軍事的に正確で研究対象となっている。江戸時代の通常の編纂物や軍記物とは一線を画している。長篠の戦いを描いた屏風『長篠合戦屏風』は地形は前後に縮小されているが概ね、『信長公記』通りでありその信ぴょう性を高めている。人の行為、戦争や生死に対しては、天道が定めているという運命論者であり、信長の虐殺も坦々と事実を描くが批判はしない。他には安土城についても細部まで正確に記録していたことが、上層の絵の位置が一部入れ替わっているが加賀藩伝来の天守指図の発見で裏付けられた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E7%89%9B%E4%B8%80
斯波義統 Shiba Yoshimune(1513年-1554年) 斯波義達的長子、母為家女房(多多良氏)、妻為石橋氏之女;初名義元、法名德照院殿道鑑天與。 其父義達當權時,斯波氏受到鄰國的今川氏攻擊,其中一個守護國遠江國被奪去等事件令其處於劣勢。因此義達對奪回遠江有相當大的意欲,不斷地向遠江出兵。永正十年(1513年)出兵遠江時,這次被重臣織田氏反對,接著守護代織田達定(清洲織田氏)開始舉兵反對義達,最後演變成守護對守護代的合戰。最後在這次合戰中,守護義達討伐守護代織田達定並令守護代勢力崩壞,之後繼續向遠江出兵。但是在永正十二年(1515年),義達被今川氏親大敗,自身亦被捕虜而感到相當屈辱,把守護職讓給3歲的兒子義統,數年後在失意中病逝。 原本被義達一時弱化的織田氏回復勢力。在尾張國中,從應仁之亂以來守護代織田一族中分裂為支配上四郡的「伊勢守家」(岩倉織田氏)和支配下四郡的「大和守家」(清洲織田氏)兩派,但是伊勢守家很早就被弱化,其次的大和守家因為被義達討伐,尾張國內因為織田一族的混亂而陷入群雄割據狀態。年幼的義統對於這個狀況亦無可奈何,被父親義達曾經討伐過的守護代織田達勝(織田達定養子)和養子織田信友擁立而變成傀儡。 在陷入群雄割據狀態的尾張國內中,特別是掌握津島經濟的織田彈正忠家(織田信秀)抬頭,達勝和信友(大和守家)、上四郡的守護代織田信安(伊勢守家)和變得強勢的織田信秀(大和守家的家臣)都想成為織田家宗家而在形式上擁護著義統。 義統經常被信友當作傀儡支配,對此表示不滿;除政治的對立以外,義統還與織田信秀爭奪女人(後來信秀的側室岩室),兩者的對立開始深化。 天文二十三年(1554年),義統對這樣的狀況感到相當厭惡,於是在信友企圖謀殺彈正忠家的織田信長時,向信長密告這個計劃以求取得信長的協助,但是知道此事的信友被激怒,在義統的嫡男斯波義銀率領有力家臣前往狩獵之際,信友與小守護代阪井大膳一同攻入守護所,並逼使義統自盡,年42歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AF%E6%B3%A2%E7%BE%A9%E7%B5%B1
斯波義銀 Shiba Yoshikane(1540年-1600年) 斯波義統的長子;幼名岩龍丸,忌諱尾張守護的斯波氏而改姓津川氏,名為津川義近,入道法號三松軒。 父親義統雖然是尾張守護,但是沒有實權,而是支配著尾張下四郡的守護代織田信友的傀儡,但是在天文二十三年(1554年)當義銀率領部下前去狩獵之際,義統被信友和信友的家臣.尾張小守護代阪井大膳殺害。知道此事的義銀馬上命令織田信長討伐信友。但是隨著尾張守護代信友被消滅,比起信友更加利用斯波家為傀儡的信長得勢。 此後義銀受到信長的庇護,一時間信長為了轉移內部和外間的視線而定下計劃,奉義銀為守護來企圖與三河國的吉良氏、駿河國的今川氏等、以及守護足利氏一門的同士立下盟約等,義銀以信長的傀儡身份而繼續被利用著。 締結這個同盟時,義銀與吉良氏的吉良義昭會談,但是雙方都以自己是足利一門最高的身份而爭奪席次。根據『信長公記』記載,為了締結同盟,斯波・吉良兩家的軍勢到達約定的地點上野原,雙方以一町之隔的距離設置了很多人戒備。現場的一方是吉良義昭,另一方是義銀,彼此都在陣前設置床幾,但是兩人一步都沒有動過。事實上為了爭取面談的席次而發生爭執,因為雙方互不相讓,面談只是互相在十步的距離前見面,連見面禮都沒有就完結了。 但是,當初與吉良氏爭奪席次的義銀為了搶回斯波氏的權勢而與吉良氏計劃將信長趕走,義銀與在尾張建立御座所的斯波氏一門石橋氏、吉良義昭、今川義元、河內的服部友貞串通,把今川氏的軍勢從海上引入尾張。但是此事被信長知道,結果義銀被趕出尾張,大名斯波武衛家自此滅亡。後來信長上洛後,武衛家的京屋敷就用作為將軍足利義昭的居城。 後來在河內國的町山高政保護下,洗禮信奉基督教。之後與信長和解,此際改名為津川義近。其中一個女兒嫁給信長的弟弟織田信包的長男,深化與織田家的關係,在織田政權下受到織田家親族中貴族的待遇。 在本能寺之變之後,因為弟弟津川義冬是信長兒子織田信雄的家老,於是向他投靠,義冬被信雄殺害後,在小牧、長久手之戰中守在義冬的居城松島城,降於豐臣秀吉並成為秀吉的家臣。 在秀吉政權下與足利義昭和山名豐國一同成為御伽眾,當初在外交方面活躍,為處班東北的斯波家(大崎氏、最上氏等)當主和伊達政宗等大名折衝。但是在小田原之役後,他希望赦免後北條氏的北條氏直而惹怒了秀吉並失勢。後來被赦免,但沒有回復原有的政治影響力。天正十七年(1589年)3月,與細川信良和尾藤知信一同被捲入在聚樂第發生的塗污書物事件而一時間被捕縛。慶長五年(1600年)逝世,年61歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AF%E6%B3%A2%E7%BE%A9%E9%8A%80
細川昭元 Hosokawa Akimoto(1548年-1592年) 幼少期の天文21年(1552年)、父が三好長慶と一時的に和睦した際に人質となる。父が再び長慶と敵対すると管領細川氏綱と共に山城淀城に軟禁され、永禄元年(1558年)に11歳で長慶のもとで元服した。 永禄4年(1561年)、実弟の細川晴之が六角・畠山軍に擁立され、将軍足利義輝の命を受け近江に於いて反三好の兵を挙げる(将軍地蔵山の戦い)。しかしこの戦いにて戦死。 永禄5年(1562年)、父が長慶と和睦すると父子は久々の対面を果たしている(久米田の戦い)。 永禄6年(1563年)3月に摂津富田普門寺で病没した父の跡を継ぐものの、勢力は取り戻せず、管領であった氏綱の没後も管領職に任命されることはなかった。ただし、永禄8年(1565年)の永禄の変の後、足利義栄を室町幕府14代将軍に擁立する三好三人衆により名目上の管領として処遇を受けた。 永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると三人衆の筆頭である三好長逸と共に摂津芥川山城に籠城するも、三人衆派の他の城が織田軍に次々と落とされると9月30日に城を捨てて長逸と共に阿波へ逃亡、義栄の急死もあり義昭が15代征夷大将軍に任じられると敵対行動を続けた。 元亀元年(1570年)、野田城・福島城の戦いにおいて三人衆に加勢して当初は織田軍と対峙した。 同年に三人衆と信長が和睦すると、翌元亀2年(1571年)12月17日に上洛、やがて義昭に対し臣下の礼をとり、京兆家歴代の慣例として義昭より一字拝領を受けて昭元(あきもと)と名乗った。 義昭より重用され、三好勢力が後退した後の名目上の摂津の旗頭とされた。名門の出身であった昭元はしばしば外交官としての役割を果たしている。四職家の当主でもある丹後の一色義道が義昭に臣従し、誼を求めて信長との面会を求めたとき昭元はこれに立ち会い、ともに堺を見物した。 信長の勢力下では、元亀3年(1572年)に摂津で本願寺坊官の下間頼龍・下間頼純と交戦して敗北したり、翌元亀4年(天正元年、1573年)2月17日に反信長派の三好義継・松永久秀らに居城の摂津堀城を落とされるなど武功には恵まれなかったが、足利将軍家に次ぐ武門の名門であったため、信長の傀儡として後年さらに最大限に利用されることとなる。 7月に義昭が追放された時昭元は京都に留まり、義昭が去った後の槇島城(京都府宇治市)を任された。槇島城は山城の守護所だったので、信長は昭元を山城守護に任じることにより山城における将軍権力を否定したともいわれている。管領家当主である昭元の存在は、義昭が去った後の織田政権にとり、重要な存在となった。同族の細川藤賢も近江坂本城を任されている。 天正3年(1575年)には信長の推挙により、正式に右京大夫に任じられる。このことにより京兆家当主として朝廷からも認められた。 天正5年(1577年)には信長の妹お犬を娶り、信長からの偏諱を受けて細川信元(ほそかわのぶもと)、さらに信良(のぶよし)と名を改めた。お犬の方にとっては2度目の結婚であり、信良よりも年長であった。以後、織田家の親族として織田政権内で厚遇されることとなるが、反対に信長は「京兆家当主の義兄」として立場を手に入れることとなる。信良はさらに丹波の桑田郡・船井郡の支配を許され、名目上丹波の旗頭の地位を委ねられた。しかし丹波支配の実権は、しだいに信長の家臣明智光秀に移っていった。 天正10年(1582年)の本能寺の変の直後、正室のお犬の方とは死別した。変後から天正13年(1585年)の羽柴秀吉による四国攻めまでの間にかけて、本来は細川氏の家臣の家系であった長宗我部氏と阿波において連絡を取りあい、秀吉に抵抗した記録が残されている。 しかし、やがて秀吉に属し、名を再び元の昭元に戻した。関白となった秀吉から貴人の1人として遇され、斯波義銀や山名豊国らと共に御伽衆に加えられた。 ただし、本願寺法主顕如の元へ身を寄せていたともいわれ、天正17年(1589年)3月9日に京都聚楽第の壁に書かれた落書の犯人が本願寺寺内町に逃げ込んだ事件で、斯波義銀・尾藤知宣と共に逮捕、後に釈放されたとされる。 晩年は不詳の部分も多いが、天正20年(1592年)に病没したと伝わる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E4%BF%A1%E8%89%AF
足利義昭 Ashikaga Yoshiaki(1537年-1597年) 足利義晴的次子、母為近衛尚通之女.慶壽院、側室為さこの方(宇野氏)、小宰相局(大河內氏);法號覺慶,還俗後名為義秋,後改名為義昭、戒名靈陽院昌山道休。 將軍之路 出生後,被外祖父近衛尚通收為猶子;而兄長足利義輝早已被立為嗣子,根據當時足利將軍家的慣例,未能獲得嗣子地位的將軍之子都要出家,因此被送入佛門,進入興福寺的一乘院,法名覺慶。 義昭在興福寺擔任權少僧都的高級官職,本來他一生應該是在擔任高級僧官中度過的。但在永祿八年(1565年)發生永祿之變,第13代將軍足利義輝連同其母親慶壽院一起,被松永久秀、三好三人眾弒殺;擔任鹿苑院院主的弟弟周暠也被久秀誘殺。由於害怕殺害義昭會引發興福寺僧眾的敵對情緒,松永久秀沒有殺害義昭,而是將其暫時囚禁在興福寺。但不久忠於足利義輝的一色藤長、和田惟政、仁木義政、三淵藤英、細川藤孝,以及大覺寺門跡義俊(近衛尚通之子)等幫助義昭逃出囚牢。 在此期間的文書中,義昭被稱作「將軍家的當主」、「矢島的武家御所」等。4月21日被敘為從五位下左馬頭的官位。經過奈良、木津川逃到伊賀國後(伊賀國的守護是將軍的近臣仁木義政,該國國人服部氏後來追隨義昭),通過近江國六角義賢的許可後暫時居住在甲賀郡的和田城(和田惟政的居城,位於伊賀和近江交界之處)。 義昭試圖再興正統的足利將軍家的威權,永祿九年(1566年)2月17日,還俗,改名為足利義秋。和田惟政(甲賀住人)和仁木義政(伊賀住人)的斡旋下,六角義賢、義治父子同意讓義昭以野洲郡矢島村(今守山市矢島町)為住所。 居住在矢島御所的義昭,積極同管領畠山高政、關東管領上杉輝虎、能登守護畠山義綱(居住在近江滋賀郡)取得聯絡,希望得到支持。河內國的畠山高政積極支持義昭,其弟弟秋高野表示支持。得知此事後,三好三人眾率3000騎襲擊矢島御所;大草氏等奉公眾(將軍親衛隊)浴血奮戰擊退進攻。但義昭發現自己視為心腹的南近江領主六角義治竟然暗中與三好三人眾勾結,義昭只得在8月前往投奔武田義統,前往若狹國。但當時若狹武田氏正處於家督爭奪和重臣謀反的內亂中,無法支援義昭上洛;武田義統僅派遣弟弟武田信景前往追隨義昭。義昭只得前往越前國,請求朝倉義景(仁木義政的親族)出兵上洛。義昭上奏朝廷,將義景的母親封為從二位官位。但義景只有對足利將軍家的連枝鞍谷公方足利嗣知(足利義嗣的子孫)擁上將軍之位有興趣,對還俗的義昭一點興趣也沒有。義昭長期滯留越前,上野清延、大館晴忠等幕府重臣紛紛前往越前參見將軍。 永祿十一年(1568年)4月15日,義昭在越前舉行元服禮,由朝倉義景擔任加冠役。同時由於「秋」字不吉利,改名義昭。在朝倉家重臣明智光秀的介紹下,前往尾張國,尋求管領斯波氏的有力家臣織田信長的幫助。 再興幕府 永祿十一年(1568年)9月,織田信長擁護義昭上洛,途中又受到美濃齋藤氏、北近江淺井氏、南近江六角氏等勢力的支持,在織田信長、淺井長政等警護下進軍京都。中途六角氏由於有力支族箕作氏的叛亂而撤退,在父親足利義晴所建的桑實寺駐紮,順利到達京都。三好三人眾退出京都。10月18日朝廷封義昭為征夷大將軍,同時敘從四位下參議兼左近衛權中將的官位。 就任將軍的義昭下令將對暗殺兄長足利義輝持縱容態度、慫恿天皇封足利義榮為將軍的近衛前久流放,並讓二條晴良復任關白之職。義昭又將自己的偏諱授予管領細川昭元、畠山昭高,以及關白家的二條昭實,試圖鞏固自己的統治,掌握兄長義輝所擁有的山城國御料所。同時在山城國設置守護,令三淵藤英據守伏見城。在政務上,義昭同兄長義輝一樣,任命攝津晴門為政所執事,任命飯尾昭連、松田藤弘等為奉公眾,再興幕府。之前因反叛義輝而被滅的伊勢氏,其末裔伊勢貞興被義昭允許再任官職。 當時義昭暫時以山城國本國寺(位於今京都府京都市山科區)為居住地。永祿十二年(1569年)正月,織田信長率部返回美濃、尾張時,三好三人眾趁機反撲,襲擊本國寺(本國寺之變)。奉公眾和明智光秀所率的織田軍奮勇抵抗,北近江的淺井長政以及攝津國的池田勝正、和田惟政等也奮戰,擊退三好三人眾的進攻。 這次事件暴露出本國寺守備不足的現狀,因此義昭請求織田信長重建兄長足利義輝建造的烏丸中御門第(舊二條城),以之為將軍邸。重修的烏丸中御門第新挖兩道護城河,並翻修加高石垣,增強防禦機能。只有世代擔任室町幕府奉公眾的武士和高級守護大名才能進入拜見。 與織田信長發生對立 義昭依據當初的許諾,就任將軍之後,在10月24日給予織田信長「御父織田彈正忠(信長)殿」的尊稱,以尋求信長對幕府的支持。 織田信長將義昭扶上將軍之位後,其對尾張、美濃的領有權得到認可,並被封為和泉守護,得到昔日三好氏的領地和泉國(繁榮的界港在該國轄下)。同時義昭對其他武將論功行賞,池田勝正被任命為攝津守護,畠山高政、三好義繼各被封為河內半國守護。織田信長被任命為管領代,其地位與管領相當;此後義昭又向朝廷推薦信長擔任副將軍,但被信長推辭,改封彈正忠。 然而義昭一心想要復興室町幕府,而織田信長則有用武力統一天下的野心,因此兩者最終關係逐漸惡化。織田信長為限制將軍的權力,於永祿十二年(1569年)正月頒布《殿中御掟》9條,並脅迫義昭承認。這使幕府將軍的行動受到很大的制約。翌年正月又追加5條,信長更進一步限制幕府的權力。元龜元年(1570年)4月,織田信長討伐越前大名朝倉義景,但就在此時織田氏的同盟淺井長政與信長反目,導致信長大敗。早已對信長的專橫十分不滿的義昭趁機與信長決裂,元龜二年(1571年)左右向上杉輝虎(謙信)、毛利輝元、本願寺顯如、武田信玄、六角義賢等大名發出御內書,下令討伐信長。這些大名加上與信長敵對的朝倉義景、淺井長政、松永久秀、三好義繼以及三好三人眾、延曆寺僧兵等勢力,形成信長包圍網。 元龜三年(1572年)10月,信長向義昭送達17條意見狀,批評義昭的一些舉措。此時東方的武田信玄率兵進軍京都,12月22日在三方原之戰中擊破織田信長的盟友德川家康,信長陷入窘境。義昭趁機任命寵臣山岡景友(六角義賢的重臣以及幕府的奉公眾)為山城半國守護。翌年正月,信長欲遣子入質於義昭以求和解,但遭義昭的拒絕。義昭在近江的今堅田城和石山城為幕府軍的據點,舉起反對信長的旗幟,但數日後兩城皆被攻陷。同時東方戰線的武田信玄病重,武田軍於4月開始撤回本國,12日信玄逝世。 織田信長攻入京都,在知恩院布開陣勢。幕臣細川藤孝、荒木村重等人見大勢已去,投降信長。但是不知道武田信玄已經去世的義昭據守自己的居城烏丸中御門第繼續抵抗。信長再次提出和解,但義昭認為信長沒有信用,斷然拒絕。織田信長威脅幕臣以及義昭的支持者,聲稱若不投降,自己將會攻打上京並將此整個地區焚為焦土。同時包圍義昭的居城烏丸中御門第。另一方面,織田信長尋求朝廷的支持,4月5日,在正親町天皇敕命下,雙方講和。 但是義昭於7月3日宣布背棄和約,在三淵藤英、伊勢貞興以及公家奉公眾的簇擁下逃往南山城的要害槙島城(山城國的守護所)舉兵。槙島城建在宇治川和巨椋池水系交叉處的島上,是義昭近臣真木島昭光的居城,為兵家必爭之地。烏丸中御門第的守軍於3日投降信長,信長率7萬大軍包圍槙島城。7月18日織田軍開始攻城,槙島城的建築被破壞,義昭以自己的兒子義尋為人質,向織田信長投降。 被逐出京都 織田信長將義昭逐出京都,並將足利將軍家在山城、丹波、近江、若狹等地的御料所據為己有。織田信長以天下人(掌握日本實權的人)自居,挾持幕府將軍和天皇支配京都周圍的地區,並充當各地大名紛爭的調停人。放逐將軍後,織田信長保持天下人的地位,現在日本的歷史教科書一般認為此時室町幕府滅亡。但事實上根據《公卿補任》的記載,此後的義昭依然長期保持著征夷大將軍的職位。天正元年(1573年)8月,織田信長滅亡朝倉氏,9月滅亡淺井氏,信長包圍網完全瓦解。織田信長於次年任命塙直政為山城、大和守護,鞏固織田氏在畿內的支配權。 義昭雖被放逐後,退往枇杷庄(今京都府城陽市),在本願寺顯如的介紹下前往河內國三好義繼的處點若江城,以羽柴秀吉擔任護衛。義昭仍開設幕政,以伊勢氏、高氏、一色氏、上野氏、細川氏、大館氏、飯尾氏、松田氏、大草氏等勢力為幕府的中樞,組成奉公眾和奉行眾,並授予近臣和大名室町幕府中的官職。除近畿周邊的信長勢力圈以外(北陸地方、中國地方、九州地方),義昭依然保持著被流放以前的權威,甚至對京都五山的住持還有任命權。織田信長與三好義繼的關係惡化後,義昭於11月5日移駕到和泉國的界。義昭曾提出要返回京都,但織田信長提出人質的要求,最終交涉決裂。 天正二年(1574年)移駕紀伊國興國寺,又移駕泊城。當時紀伊國是管領畠山氏的轄境,值得一提的是畠山高政的重臣湯川直春的勢力在當時很強大,直春的父親湯川直光擔任河內守護代一職。 天正四年(1576年),義昭移駕到毛利輝元轄下備後國的鞆。鞆是當年足利尊氏接受光嚴上皇追討新田義貞院宣的地方,對於足利將軍家可謂是有淵源的地方。第十代將軍足利義材在此處受到大內氏的支持,從而回到京都。因此這被足利將軍家當作吉祥之地。此後義昭在此地開設流亡幕府,史稱「鞆幕府」。義昭在鞆以備中國的御料所所進獻的年貢,以及足利將軍家任命京都五山住持所獲得的禮錢維持生活,同時收到宗氏、島津氏通過明日貿易獲得的財政收入,近畿、東海以外支持足利將軍家的武家很多。鑒於此,義昭向全國大名下達討伐織田信長的御內書,天正4年甲斐的武田氏、相模的北條氏、越後的上杉氏結為同盟,但收效甚微。 信長的死以及回到京都 天正五年(1577年)上杉謙信在手取川之戰擊破織田軍,但上杉謙信在天正六年(1578年)死去。天正八年(1580年)石山本願寺投降信長,織田氏勢力達到鼎盛。然而天正十年(1582年)明智光秀發動本能寺之變,織田信長及其子信忠皆死去。此時義昭身在備後國的鞆。而明智光秀麾下的家臣,如伊勢貞興、蜷川貞周等,多為昔日室町幕府的幕臣。 義昭趁此好機欲返回京都,尋求毛利輝元的支持;另一方面尋求羽柴秀吉和柴田勝家的支持。毛利氏中親秀吉派的小早川隆景等極力反對送義昭到京都,認為這樣會使羽柴氏和毛利氏之間關係冷淡。但天正十一年(1583年)毛利輝元、柴田勝家、德川家康著手籌備支持義昭上洛。同年,毛利輝元臣服於羽柴秀吉。天正十四年(1586年)羽柴秀吉成為關白太政大臣。此後進入「關白秀吉、將軍義昭」並立的2年時期。在此兩年裡,豐臣秀吉逐漸統一天下。 天正十五年(1587年),豐臣秀吉在九州征伐期間途經備後國沼隈郡的津之郡村,在田邊寺訪問義昭,二人交換太刀。次年薩摩國島津氏歸順秀吉,義昭回到京都,天正十六年(1588年)2月9日與關白豐臣秀吉一起參見正親町天皇,辭去征夷大將軍之職並出家,法號昌山。朝廷給予其准三後的待遇。 晚年 豐臣秀吉將山城國的槙島城給予他當作居城,並給予義昭一萬石的領地。由於義昭是前將軍的緣故,豐臣秀吉才給予他這樣高的待遇。在豐臣秀吉侵略朝鮮之際,義昭率兵200人來到肥前名護屋,參加戰鬥。 晚年與斯波義銀、山名豐國等,成為太閣豐臣秀吉御伽眾的成員,受到太閣的親近。慶長二年(1597年)在大阪死去,年六十一歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD