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三百一十二位人物:小出吉政、山口宗永、石川貞清、毛利高政、長崎元家、藤堂高刑、青木一矩、早川長政、土岐政賴、土岐賴次、土岐賴元、齋藤利茂、齋藤利良、不破光治、明智光繼、明智光安、稻葉典通、稻葉重通、稻葉道通、稻葉正成、佐藤堅忠、橫山長隆、橫山長知、野野村幸成、一柳直盛、伊藤盛正、堀田正吉、遠山景前、遠山友勝、遠山友政、加藤光泰、關盛雄、鹿伏兔定秀、國府盛種、細野藤光、分部光高、木造具康、田原重綱、森本具俊、九鬼守隆、堀內氏善、一條信龍、三枝昌貞、小幡昌盛、駒井政武、長坂光堅、禰津元直、海野棟綱、海野幸義、真田昌輝、真田信尹、常田隆永、鎌原幸定、鈴木忠重、蘆田信守、大井貞隆、大井貞清、笠原清繁、小笠原信定、溝口長友、溝口長勝、溝口貞泰、諏訪賴滿、諏訪賴重、諏訪滿鄰、知久賴元、藤澤賴親、保科正直、保科正光、江馬信盛、麻生野慶盛、長尾房景、上條定憲、齋藤定信、本庄房長、竹俁慶綱、吉江宗信、桃井義孝、山本寺定長、山吉政久、山吉豐守、山吉景長、大石綱元、狩野秀治、神保長住、長澤光國、長尾景直、土肥政繁、飯川光誠、遊佐秀賴、三宅總廣、富田長繁、溝江長逸、逸見昌經、武藤友益、野村直隆、石田正繼、石田正澄、小堀政一、垣見一直、蒲生茂綱、蒲生元珍、進藤賢盛、駒井重勝、高田吉次、一色在通、京極高廣、細川忠利、細川興秋、細川興元、三淵光行、蘆田國住、足立基助、願証寺証意、下間真賴、杉浦玄任、細川昭元、荒木村次、荒木元清、木下重堅、池田信正、茨木長隆、木澤長政、香西元定、香西佳清、中川秀成、岡國高、結城忠正、菅達長、安見信國、安見勝之、平盛長、遊佐長教、筒井順弘、中坊秀祐、岸田忠氏、寶藏院胤榮、津田算長、鈴木重次、太田宗正、野長瀨盛秀、小山隆重、湯川直春、山名豐賴、山名誠通、垣屋恒總、太田垣宗壽、太田垣朝延、太田垣輝延、八木豐信、山田重直、行松正盛、尼子清久、尼子久幸、赤穴久清、赤穴光清、牛尾幸清、龜井秀綱、別所重棟、別所吉治、宇野政賴、赤松村秀、井上之房、栗山利安、黑田一成、後藤勝國、後藤元政、原田忠長、原田貞佐、三浦貞久、三浦貞盛、金田弘久、中村則治、牧良長、宇喜多興家、伊賀久隆、遠藤俊通、庄高資、三村元祐、植木秀長、植木秀資、石川久智、石川久式、中島輝行、三村元範、上野隆德、楢崎元兼、新見國經、新見貞經、小早川正平、小早川興景、杉原理興、田坂義詮、乃美景興、椋梨盛平、三吉隆亮、三吉廣高、多賀山通續、山內直通、山內隆通、和智誠春、毛利元氏、粟屋元親、天野興定、井上元兼、赤川元保、三浦元忠、武田光和、武田信實、武田信重、阿曾沼廣秀、天野隆綱、香川光景、己斐直之、渡邊通、森脇祐有、手島興信、二宮經方、平賀隆宗、平賀廣相、陶興房、吉見廣長、益田尹兼、大西賴包、大西覺養、新開實綱、高原次勝、安富盛方、伊澤綱俊、石川通清、大野直之、戒能通森、村上元吉、村上景親、來島通總、宇都宮清綱、井上重房、祖母井之照、西園寺宣久、渡邊教忠、長宗我部親和、長宗我部親忠、長宗我部親吉、江村親俊、香宗我部親秀、香宗我部秀通、細川定輔、橫山友隆、吉松光久、安芸元泰、敷地藤安、野仲鎮兼、本庄右述、加來統直、田原親盛、佐伯惟定、入田親誠、秋月種信、麻生隆守、麻生鎮里、麻生元重、井田親氏、惠利暢堯、蒲池鑑久、大木俊光、西牟田鎮豐、原野惠俊、江上家種、神代長良、高木鑑房、馬場賴周、龍造寺家純、龍造寺周家、鍋島清久、松浦興信、籠手田安經、佐川信利、日高喜、有馬直純、平井經治、大村純伊、朝長前安、鹿子木親員、北里政義、伊東義賢、伊東祐安、稻津重政、三田井親武、長倉祐有、北原兼孝、安樂兼寬、肝付兼演、肝付兼盛、肝付兼篤、祁答院良重、島津勝久、入來院重朝、入來院重時、樺山善久、樺山忠助、島津忠將、島津以久、島津尚久、島津忠長、鎌田政年、園田實明、佐多忠增、島津忠廣、北鄉忠相、島津忠親、島津忠辰、平田宗茂、茶茶、定惠院、菊姬、義姬、仙桃院、淺井初、三條の方、黃梅院、藏春院、禰禰、瀨名姬、嶺松院、松平千、淺井江、妙玖、お船、武田松、德姬、督姬、お市、歸蝶、ガラシャ、妻木熙子、諏訪姬、まつ、壽桂尼、津田宗及、千宗易、快川紹喜、澤彥宗恩、俊崇坊、二本松義繼、土田御前、ねね、千坂景親、名古屋山三郎、多目元忠、柳生利嚴、井伊直虎、愛洲久忠、伊東景久、杉谷善住坊、大久保忠教、太田牛一、齋藤福、赤井輝子、大村由己、平原綾香、世良田元信、大祝鶴、望月千代女、櫛橋光、孔雀、塚原卜伝、卡天士郎、石川五右衛門、彌助、里見伏、犬塚信乃、犬川庄助、犬山道節、犬飼現八、犬田小文吾、犬江親兵衛、犬坂毛野、犬村大角、卜部季武、碓井貞光、坂田金時、渡邊綱、源賴光、源義經
飯尾定宗、土岐頼芸、内ヶ島雅氏、明叔慶浚、浅井亮親、多賀貞能、足利義晴、朽木晴綱、三淵晴員、細川藤賢、武田元光、武田信豊、粟屋光若、赤井時家、酒井豊数、下間頼慶、本泉寺蓮悟、富樫晴貞、十市遠忠、越智家増、柳生家厳、筒井順興、筒井順政、湯川直光、畠山稙長、畠山政国、衣笠範景
土岐頼武 Toki Yoritake(1498年?-1547年?) 土岐政房の嫡男で弟に頼芸、治頼、揖斐光親らがいる。別名の諱として政頼(まさより、「政」は父の偏諱であろう)、盛頼(もりより)が伝わる。次郎と称す。官位は修理大夫。妻は朝倉貞景の3女。子に頼純。 土岐政房は家督を次男である頼芸に継がせようと考え、小守護代長井長弘が頼芸側に加わった。一方、守護代である斎藤利良は頼武を推したため、美濃国内は頼武派と頼芸派に分かれ、永正14年(1517年)12月27日、遂に両派の合戦となった。この合戦は頼武派が勝利したが、頼芸派は尾張に亡命していた前守護代斎藤彦四郎と連絡を取り、逆襲の機会を狙った。 永正15年(1518年)8月10日、再び両派の間で合戦が起こり、頼芸派が勝利、頼武は利良と共に利良の伯母の嫁ぎ先である越前朝倉氏のもとへ亡命した。この越前亡命中に朝倉貞景の娘と結婚したとされる。頼芸派は室町幕府に要請し、頼武の上洛を促す御内書を出してもらうことに成功したが、朝倉孝景(宗淳)はこれを無視した。 頼武の越前在国中も美濃は内乱状態にあり、永正16年(1519年)3月には垂井辺りで激戦が展開されている。同年6月16日に土岐政房が没すると、孝景は弟の景高に美濃出陣を命じる。7月、景高に率いられた3000の朝倉勢に護られて頼武は美濃に入国、9月14日の正木合戦、10月10日の池戸合戦に連戦連勝して、遂に美濃守護になることに成功した。長井長弘は没落、彦四郎は失脚した(戦死とも)。 その後、頼武政権は一応の安定を見ていたが、大永5年(1525年)6月に至り、頼芸を奉じた長井長弘が再挙兵する。6月23日、岐阜茜部で合戦があり、守護代斎藤利茂ほか頼武政権の主だった人々は守護所福光館を脱出、館は長井勢に占領された。更に8月2日、長井氏支援のため、近江から浅井亮政の軍勢が美濃に侵攻、関ヶ原今須付近で土岐軍と合戦となった。頼武は武芸谷の汾陽寺にあって、救援を朝倉氏に求めた。朝倉氏はこれに応じ、朝倉宗滴が小谷城に出張り六角氏とも協力して浅井勢を牽制、更に朝倉景職の率いる軍勢が10月14日に稲葉山まで出兵した。内乱は大永7年(1527年)末には一段落するが、その後も政情不安は続き、享禄3年(1530年)、頼武は再び越前に逃れ、頼芸は翌年「濃州太守」と呼ばれるまでになる(実際にはまだ守護に就いていない)。 朝倉軍の援助で美濃入国を果たすと、頼武は山県郡大桑城に本拠を置き再び頼芸と対決する。天文4年(1535年)、頼武は出家、恵胤と号した。6月、頼芸が父政房の17回忌を行って自らの正当性を主張したため、両者の対立は深まった。8月、修理大夫に任官、更に権威付けのため奈良正倉院秘蔵の蘭奢待の切り取りを朝廷に申請、許可されている。8月17日、朝倉氏や六角氏の援兵とともに頼武軍は攻勢を開始、11月までの間、多芸郡・池田郡から岐阜・関に及ぶ広範囲で合戦が繰り広げられ、多くの神社仏閣が焼亡した。 天文5年(1536年)6月20日、頼武(恵胤)は朝廷に対し蘭奢待切り取りの答礼をしている。しかし、これを最後に史料から姿を消している。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E6%AD%A6
斎藤利良 Saito Toshinaga(生年不詳-1538年) 美濃斎藤氏持是院家6代目当主。持是院家3代目当主斎藤利親の嫡男で斎藤妙純の孫。兄弟に花村外記利房。幼名は勝千代、新四郎と称す。大和守。法名は権大僧都法印岱宗妙全、持是院妙全。 父と祖父が明応5年(1497年)12月に近江で戦死した時は幼少の為、2人の叔父又四郎、彦四郎が持是院家の当主を継いだ。 美濃守護土岐政房に仕えたが、その後継をめぐり意見が対立した。利良は政房の嫡男頼武を推し、政房と小守護代長井長弘は次男頼芸を推した。それぞれ派閥を組み、永正14年(1517年)12月27日には遂に合戦となる。この合戦は利良(頼武派)の勝利に終わり、頼芸派は永正9年(1512年)に尾張へ亡命した前守護代彦四郎と連絡を取り合い、逆襲の機会を狙った。 永正15年(1518年)8月10日、再び合戦が起こり今度は頼芸派の勝利となった。彦四郎は美濃に再入国し、逆に頼武と利良は、利良の従兄である越前の朝倉孝景(宗淳)を頼って亡命した。頼芸派は室町幕府に御内書を出してもらい、頼武を上洛させるよう朝倉氏に迫ったが、朝倉孝景はこれを無視した。この間も美濃国内で頼武派と頼芸派の合戦が続いている。 永正16年(1519年)6月16日に土岐政房が没し、美濃守護職が空位となると、朝倉孝景は弟の景高に美濃出陣を命令、景高は兵3000を率いて頼武、利良と共に美濃に侵攻、連戦連勝し、頼武は美濃守護となることができた。彦四郎は失脚か戦死したと見られる。 頼武政権下で利良は守護代として力を揮うが、永正18年(1521年)には目立った活動は見られなくなり、天文7年(1538年)9月1日に死去して、利親の弟斎藤利茂(斎藤利為の子とも)が新守護代として登場する。 殺害されたとされる。その後持是院家は近衛稙家の庶子とされる多幸丸が斎藤道三の養子となり、斎藤正義と名乗って持是院家の名跡を継いだと思われる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%88%A9%E8%89%AF
斎藤利茂 Saito Toshishige(生年不詳-没年不詳) 斎藤妙純または斎藤利為の子。通称は帯刀左衛門尉と称す。斎藤又四郎とは同一人物とも。 永正18年(1521年)頃より、斎藤利良に代わって美濃国守護土岐頼武のもとで守護代を務める。汾陽寺文書によればこの年に汾陽寺(岐阜県関市)に禁制を出している。、大永5年(1525年)、守護の頼武と対立していた頼武の弟頼芸を奉じた長井長弘と長井新左衛門が反乱を起こし、美濃守護所の福光館を占拠し、さらに利茂が拠る稲葉山城を攻め取った。 享禄3年(1530年)には頼武が越前へ逃れたことにより、庶流の長井氏が美濃実権を握った。 その後も頼芸方との対立は続き、長井氏の名跡を継いだ長井規秀(斎藤道三)と争うが、天文5年(1536年)7月、頼芸が美濃国守護となると、頼武の子土岐頼純を見捨て、六角定頼の仲介により頼芸方に寝返り、頼芸のもとで守護代を務める。 天文7年(1538年)、阿願寺文書によれば、阿願寺(岐阜県岐阜市)に寺領安堵をしている。 天文10年(1541年)までその動静が判明しているが、道三が頼芸を追放した際にともに、追放されて没落したと伝わる。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%88%A9%E8%8C%82

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