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後藤基次

本作以《信長之野望·創造》的基礎上制作的全新遊戲而非追加DLC,主打武將扮演而非系列傳統的君主扮演模式,玩家可扮演一名武將通過「立身出世」「下克上」等等元素在遊戲中揚名天下。預計於2016年3月24日發售。
井上之房 Inoue Yukifusa(1554年-1634年) 井上之正之子,井上庸名之父。黑田氏家臣。黑田二十四騎,黑田八虎之一。正室為櫛橋伊定之女,和主公黑田孝高是連襟關係。最為人所知的通稱是九郎右衛門。 天文二十三年(1554年),生於播磨國飾東郡松原鄉(現兵庫縣姬路市白濱町松原)。 初名政國,最早是作為黑田職隆的小姓。天正六年(1578年),黑田孝高被荒木村重囚禁在有岡城時與栗山利安、母里友信一同潛伏到有岡城下確認孝高的安危。天正十三年(1585年)職隆死後孝高受其遺命將井上之房任用為重臣。天正十五年(1587年)九州平定後在鎮壓國人一揆過程中與黑田長政一同進攻姬隈城。同年,長政進攻城井鎮房時曾嘗試勸諫,然而長政一意孤行領兵出擊,之房別無他法只得從軍,戰敗。 天正十六年(1588年),獲賜6,000石。文祿元年(1592年)開始的文祿慶長之役中遠渡朝鮮參戰。慶長三年(1598年)歸國後,與栗山利安、母里友信共同參與修建宇佐神宮。慶長五年(1600年)的關原之戰同黑田孝高一同駐留豐前國中津並在其後的石垣原之戰擊殺大友氏家臣吉弘統幸立下功勞(注一)。戰後主君長轉封築前國後在豐前國小倉附近修築築前六端城之一的黑崎城(注二),領地計1萬6,000石,擁有大名格的待遇。 慶長十二年(1607年),作為黑田長政的使者拜見德川秀忠與德川家光,獲賜駿馬一匹並開始以「周防守」自稱。慶長十九年(1614年)大阪冬之陣跟隨長政嫡子黑田忠之出征。元和元年(1615年),由於幕府頒布一國一城令,黑崎城被拆除。元和九年(1623年),將1萬3,000石領地讓給孫子正友,隱居、剃髮後號半齋道柏。 寬永十年(1633年),黑田騷動中與栗山利章聯合排斥倉八正俊(注三)。 寬永十一年(1634年)10月22日死去。年八十一歲。 其子井上庸名與黑田長政長女菊姬成親,仕於二代將軍德川秀忠。慶長十五年(1610年)受封5,000石成為旗本,出任從五位下淡路守。之房實弟的家系後來受聘為福岡藩士返回築前。 注一:關於此事有一逸話。吉弘統幸在大友氏改易後有一段時間寄身於井上之房處。後來在石垣原之戰中吉弘統幸斬殺小田九朗左衛門等三四十餘人後身負重傷,為了讓舊友井上之房立功便自殺身亡。 注二:黑崎城位於今福岡縣北九州市八幡西區。築前六端城為黑田長政為防備領國小倉藩細川忠興而修築的六座支城,由北向南為若松城、黑崎城、鷹取城(城主母里友信)、益富城(城主後藤基次)、松尾城、麻底良城(城主栗山利安)。六座城全部坐落在小倉藩與福岡藩交界處福岡藩一側,防備小倉藩的意圖十分明顯。 注三:黑田騷動:福岡藩二代藩主黑田忠之時代,藩主重用倉八十太夫(倉八正俊)等一派新晉家臣而疏遠譜代老臣,最終導致家老與藩主及新晉家臣間的對立。此事以家老一派栗山利章被流放盛岡藩,倉八十太夫被逐出福岡藩告終。(另見黑田忠之條目) 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=11#postid-272 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E4%B9%8B%E6%88%BF
佐竹義宣 Satake Yoshinobu(1570年-1633年) 佐竹義重的長子、母為伊達晴宗之女、正室為那須資胤之女.正洞院、繼室為多賀谷重經之女.大壽院、側室為蘆名盛興之女.岩瀨御台;幼名德壽丸,通稱常陸侍從,別名次郎,法名淨光院殿傑堂天英大居士。 在出生的同一時期,父親義重正在進攻那須氏,但是在元龜三年(1572年)與那須氏達成和睦。這次和睦有那須氏當主那須資胤的女兒嫁給義宣等條件,當時義宣3歲。 天正十四年(1586年)至天正十八年(1590年)間,因為父親義重隱居而繼任家督。 佐竹氏在天正十二年(1584年)與後北條氏建立和議而抑制著南面的入侵,但是北面的伊達政宗攻陷義重次男.蘆名義廣所屬黑川城,因而陷入失去南奧州的局面。在佐竹氏與伊達氏對立的同時與豐臣秀吉聯絡,亦與石田三成和上杉景勝建立親交。在這個狀況下,義宣在天正十七年(1589年)11月28日,從秀吉處受到小田原征伐的出陣命令。但是因為義宣正在南鄉與伊達政宗對峙,因此不能直接按命令出陣。在知道秀吉自身從京出發後與宇都宮國綱商量,在天正十八年(1590年)5月,與宇都宮國綱等與力大名率領1萬餘軍勢前往小田原。義宣一面攻陷北條方的城池,一面向小田原進軍,在5月27日,謁見秀吉後正式加入豐臣家。在秀吉之下參陣的義宣在天正十八年(1590年)6月,於石田三成的指揮下進攻忍城。在向忍城發動水攻之際參與構築堤防。 在小田原之役後,義宣與伊達政宗不斷爭奪的南奧羽(滑津、赤館、南鄉)的知行被豐臣秀吉承認,奧州仕置後,被賜予本領常陸國以及下野國的一部份合計35萬石餘知行的朱印狀。 天正十八年(1590年)12月23日,因為豐臣秀吉的上奏而被賜予從四位下,補任侍從、右京大夫。在天正十九年(1591年)1月2日,被秀吉賜予羽柴姓。 義宣在受到朱印狀的所領安堵通知後,馬上謀求支配常陸國全域,首先把居城從太田城移到水戶城。當時的水戶城城主是沒有參加小田原征伐的江戶重通。因為義宣還有上洛途中,攻略水戶城就由父親義重進行,在天正十八年(1590年)12月20日,攻陷水戶城,在同月22日進攻佔據府中的大掾清幹並令大掾氏滅亡。天正十九年(1591年)2月9日,從京返還的義宣把分布在鹿島郡和行方郡的大掾氏配下的國人眾「南方三十三館」殺死,成功確立在常陸國全域的支配權。同年3月21日,義宣移到水戶城並命令佐竹義久在水戶城擴張整備。 把本據移到水戶城後的6月,豐臣政權命令義宣向奧州出兵(2萬5千人),這次是非常沉重的軍役,這次動員一直至到10月為止,持續大約4個月。 天正十九年(1591年)9月16日,豐臣秀吉為侵攻中國而命令各國大名出兵,義宣亦被命令率5千人出兵。這次軍役由文祿元年(1592年)1月至翌年9月為止持續大約21個月,當初5千人的軍隊在途中被估計為有3千人,在名護屋陣中的報告是「御軍役役貳千八百六十九人」。 義宣在文祿元年(1592年)1月10日,從水戶出發,在同年4月21日到達名護屋城。文祿二年(1593年)5月23日,義宣被命令乘船前往朝鮮,6月13日,先陣佐竹義久率領1千4百40人從名護屋出航。但是在7月7日,有對義宣延遲渡海的連絡,義宣自身並沒有前往朝鮮。在第1次進攻朝鮮後,義宣在這段期間建議整備和活用軍役體制而改修水戶城,在文祿三年(1593年)完成。文祿三年(1594年)1月19日,義宣被豐臣秀吉命令改修伏見城,伏見城竣工後,被賜予伏見城下的屋敷。 這次改修伏見城動用3千人並持續約10個月。 文祿四年(1595年)6月19日,因為太閤檢地而令到諸大名的石高被確定,義宣從豐臣秀吉處受領54萬石的朱印狀。而義宣在文祿四年(1595年)7月16日以後,把家中的知行分配一起轉換,因而令到領主和領民之間的傳統主從關係被斷絕,於是令佐竹宗家的統率力得到強化。而一門佐竹義久在豐臣政權中擁有特殊地位,因為有豐臣藏入地的設置而令豐臣氏直接掌握著金山等,亦令豐臣政權的統制被強化。 慶長二年(1597年)10月,佐竹氏的與力大名.義宣的從兄弟宇都宮國綱遭到改易。佐竹氏亦可能會受到處分,但是全靠在從前開始就是親交的石田三成而避免處分。慶長四年(1599年)閏3月3日,以前田利家死去為契機,加藤清正、福島正則、加藤嘉明、淺野幸長、黑田長政、細川忠興和脇坂安治前往石田三成的屋敷並襲擊三成。得知此事的義宣安排橋讓三成逃難,於是三成從宇喜多秀家的屋敷中成功逃脫。 在這一連串的行動後,義宣的茶道師匠古田織部(古田重然)被德川家康說服而勸告義宣。對此義宣回答「三成明明沒有違背公命,加藤清正等人卻要討殺三成。因為我曾經受過三成的恩惠,所以在見到三成的危急時捨命相救而已。如果因為此事而要向家康謝罪的話,就請閣下替我去吧」,受到這個請求的重然透過細川忠興來調停。家康從忠興處聽到這段說話後回答「義宣以性命來報舊恩,應該說是義,沒有異議。」。 慶長五年(1600年)5月3日,德川家康為發動會津征伐而在京都召集東國的諸大名。義宣亦有前往並在同年5月中旬到達京都。同年6月6日,被召集的諸大名被告知進擊的路線,義宣被任命在仙道口前進,於是返回水戶。同年7月24日,到達小山的德川家康派遣使者前往告知在水戶的義宣,把命令改為討伐上杉景勝。此時家康的使者要求義宣送出人質並上洛,但是義宣以會津征伐是代替豐臣秀賴而實行的命令,因為自己無法背離秀賴的意志,所以沒有需要送出新的人質,因此把這個要求拒絕。而家康為防避佐竹氏而命花房道兼確認義宣的動向。 這段時期的佐竹氏的動向是沒有加入東軍,亦沒有加入西軍。 慶長五年(1600年)7月19日,向上杉方交換密約,於是停止向赤館以北進軍,在8月25日突然向水戶城撤退。對德川家康則派遣重臣小貫賴久為使者解釋歸還水戶城的原因,而向攻擊佔據上田城的真田昌幸的德川秀忠送出援軍,令佐竹義久率領3百騎前往支援。 關原之戰最後以東軍的勝利為終結,義宣向德川家康和德川秀忠派遣祝賀戰勝的使者,因此收到秀忠的禮狀,但是不肯定家康有沒有送出禮狀。義宣在上杉景勝與伊達軍和最上軍對峙未有出兵,恐怕會連累到佐竹氏,因此為向家康解釋而前往伏見。途中在神奈川遇到秀忠並向其解釋,到達伏見後向家康謝罪及請求能存續家名。 根據『德川實記』,德川家康對義宣作出評價「現今世上沒有像佐竹義宣這樣重視律儀的人,但是這樣過度地重視律儀亦很困擾」,一直考慮著會津征伐以來義宣的態度。 慶長七年(1602年)3月,義宣謁見在大坂城的豐臣秀賴和德川家康。之後的同年5月8日,義宣接到家康轉封的命令。但是轉封前的情況不明,轉封後的石高亦不明。於是義宣在向家臣和田昭為送出的書狀中描述不能像以前一樣扶持譜代家臣,連把50石和100石分給家臣都不行。5月17日,轉封地方決定是秋田。由常陸水戶54萬石減封至出羽秋田20萬石。但是佐竹氏的正式石高被決定的時間是在佐竹義隆的一代。 佐竹氏的處罰決定與其他大名家比較是大幅度遲緩,理由有諸多說法,一說指是因為最初與上杉氏的密約被發現;亦有說法指是為先處分島津氏來抑制島津氏的反亂。而被減封的理由是因為有大量無傷的兵力被保存的佐竹氏遠離江戶。 慶長七年(1602年)9月17日,進入秋田的土崎湊城。義宣在角館城、橫手城、大館城等據點中執行內政,平定仙北地方的一揆來謀求領內安定。後來土崎湊城被廢棄,以從慶長八年(1603年)5月,開始築城的久保田城為本城。父親義重主張以橫手城為本城,但是義宣則主張以久保田城為本城,因此就決定是久保田城。而義宣根據家名和舊例,以能力本位來登用澀江政光、梅津憲忠、梅津政景和須田盛秀等舊家臣和關東、奧州的舊大名的遺臣,積極地進行開墾。因此在江戶中期的久保田藩實施石高上升至45萬石。但是重用年輕浪人澀江政光的事令到譜代老臣相當反感,家老川井忠遠等人於是密謀暗殺義宣和政光。以此義宣決定把企圖暗殺自己的家臣們肅清。 義宣以減封至秋田為契機,把一門和譜代家臣的知行減少,以此來抹殺這些勢力並強代當主的權力,令到新政策的實施和登用人材變得更容易。 慶長十九年(1614年),大坂之陣中,義宣屬於德川方參陣。同年9月25日,義宣為參勤而離開久保田城。10月7日,在途中收到向大坂出陣的命令。因此佐竹軍在同月15日以後依次從久保田城出發,在江戶的義宣在同月24日從江戶出發,並於同年11月17日到達大坂。在玉造口奪陣,和上杉景勝一同與木村重成和後藤基次率領的軍勢交戰。此時澀江政光戰死。因為今福之戰的勝利對戰況有很大影響,幕府對佐竹軍的評價相當高。在大坂之役.冬之陣中從幕府處收到感謝狀的12人中,有5人是佐竹家的家臣。 寬永十年(1633年)1月25日,於江戶神田屋敷死去,年六十四歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E5%AE%A3
三百八十五位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豐臣秀吉、齋藤道三、德川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北條氏康、武田信玄、山縣昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼續、柿崎景家、本願寺顯如、今川義元、淺井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黑田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉繼、島清興、蒲生氏鄉、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝賴、足利義輝、尼子晴久、津輕為信、榊原康政、伊達成實、山本晴幸、真田幸隆、太原雪齋、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季廣、石川高信、丸目長惠、上泉信綱、渡邊守綱、里見義堯、蘆名盛氏、瀧川一益、佐佐成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、豐臣秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、齋藤義龍、稻葉良通、石川數正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戶澤盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北條氏政、可兒吉長、北條綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、內藤昌豐、真田信幸、今川氏真、柳生宗嚴、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安國寺惠瓊、黑田長政、宇喜多秀家、長宗我部國親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覺兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定滿、齋藤朝信、北條幻庵、本庄繁長、下間賴廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、穎娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀨種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政德、村上國清、平塚為廣、朝倉景健、安田景元、北條氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政廣、兒玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黑田職隆、甘粕景繼、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七條兼仲、伊東義祐、瀧川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路賴綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戶隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡邊了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顯、本城常光、江戶忠通、肝付兼續、中條藤資、南部晴政、分部光嘉、多田滿賴、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑實、齋藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北條氏邦、犬童賴安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為賴、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮廣綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顯綱、平田舜範、正木賴忠、關口氏廣、別所安治、伊達晴宗、龜井茲矩、後藤賢豐、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北條氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮國綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北鄉時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠鄰、城井正房、大熊朝秀、氏家行廣、池田知正、土井利勝、德山則秀、平田範重、穴山信君、一條兼定、堀秀政、百百安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、蘆名義廣、三善一守、板部岡江雪齋、岡本顯逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、淺野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重經、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、姉小路良賴、和田惟政、新發田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大內定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長增、安東實季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間賴照、酒井家次、結城朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪賴忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色滿信、真壁氏幹、本庄實乃、大田原晴清、中村春續、朝比奈信置、安藤守就、山名豐國、鵜殿長持、北條氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北條景廣、富田隆實、木下昌直、岡部元信、圓城寺信胤、遠藤直經、岡本禪哲、安倍元真、大寶寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫廣門、春日元忠、戶蒔義廣、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣
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望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
堀直寄 Hori Naoyori(1577年-1639年) 天正18年(1590年)、従叔父に当たる堀秀政が没し、又従弟で秀政の嫡男・秀治が幼かったため、家督相続が遅々として進まなかった。家老の直政は直寄を使者として豊臣秀吉に直訴した。「先臣秀政、軍に死し候えば、その子秀治、幼年なりと申せ、よろしく嗣と為し給ふべし、若し立つことを得ざらんには、これ使臣の罪なり、」と口上したが、直寄はこの時13歳であった。秀吉は秀治の相続を認め、直寄を自らの小姓にし、従五位下丹後守に叙任された。 慶長3年(1598年)、堀家が越前北ノ庄城から越後春日山城へ転封となる。直寄は秀吉に直訴し、「父監物(直政)事、老齢にして此の度、北国へ罷越し、自然彼の国にて一揆など起らば、落着くことも成り難く、是れのみ心元なく、何卒三年の御暇を賜りたし、」と申し、秀吉も感心し、「丹後(直寄)の申し様奇特なり、早々に久太郎(秀治)のあとより下るべし、」といい、増田長盛を召し、「丹後守は器量あるものなり、父兄と共に国政を聞くべし」といって越後魚沼郡坂戸城に2万石を与えた(坂戸藩)。 会津では上杉景勝が不穏な動きをしており、直政は徳川家康に情勢を報告した。家康が上杉討伐を決めると、堀家にも「津川口より会津へ攻め入るべし」との指示が来る。一族の合議の際、直寄は太閤殿下への御恩に報いるべきと上杉、石田三成と組むことを主張したが、堀氏は東軍方に就いた。 慶長5年(1600年)8月1日、越後国内で上杉遺民一揆が勃発する。一揆勢により下倉城が陥落し城主の小倉政熙が討ち死にした。直寄は下倉城に攻撃を加えて翌日に奪還し、戦後に家康、秀忠父子から感状を授与されている。9月1日、家康より書状が来る。石田三成らが美濃の大垣に集結しているので、自分はそちらへ出馬する。会津の上杉景勝が坂戸方面へ侵攻するようなら、真田信幸、本多康重、平岩親吉、牧野康成に援兵を出すよう命じてあるから、これら諸将と協力して城を堅守するように、というものであった。 9月8日、直寄は父直政、兄直清と共に三条城から津川に向けて兵を出した。津川に向かう途中、会津の兵3000余人とともに一揆の兵が高所に登り、三段に構え、深田を前にして備えていた。これを見て直寄は家臣に「敵が深田を前にして、高きところに備えたれば、我れよりかかって勝負をいたせば敗北は必定なり、密かに脇道より敵の横合いに出でて仕掛けて切り崩さば、勝利は我にあらん」として、身近な兵10人ほどで崖陰に廻り敵の右の傍より迫り、鉄砲を撃ちかけ敵を切り崩し、これを平定した。 慶長7年(1602年)、堀秀治の弟で越後蔵王堂城主の堀親良は家老の直政と不和になり、国政を顧みない兄秀治にも不満があり出奔した。親良は甥で秀治の次男・鶴千代を自分の養子として蔵王堂城主にした。直寄は鶴千代を補佐し、鶴千代が早世して蔵王堂藩が廃藩になると坂戸と蔵王堂を兼務し5万石を領有した。蔵王堂城は長尾為景の弟・為重が築城した城だったが、信濃川の側で年々浸食が進んでいたので、上流の大島庄平潟原に築城の計画を立てる。この地が長岡と呼ばれるようになる。 語源には、神田表町千手の地が遠くから見ると長い丘のように見えるから(『長岡市史』)、長岡京に似ているから(『越後往古城主付』)、そしてこの地を御館の乱の時に本荘清七郎の家臣・神保隠岐守と長岡縫殿助(ぬいのすけ)が領していて、戦に敗れ神保は会津へ逃亡、長岡は討死したという記述が『越後治乱記』にあり、この長岡縫殿助の名から付いたという説がある。長岡が文書に出てくるのは慶長10年(1605年)に蔵王堂渡し守与助に、長岡渡しに場所を変更する、今まで通りの給米で雇う旨の文書が、鶴千代の老臣堀甲斐守から出された時である。これ以後、長岡の名が文書に多く出てくる。 慶長13年(1608年)、父が死去した後、兄が家督を継いだのを不満に思い対立する。そして慶長15年(1610年)、直清が僧侶を殺害した事件を徳川家康に訴えた為、直清と越後高田藩主で秀治の嫡男・堀忠俊は改易され、自身も1万石減封された(越後福嶋騒動)。秀治と親良、直清と直寄の兄弟相克が引き金になり、家康に堀家除封の口実を与えてしまったのである。直寄は信濃飯山藩4万石に転封され、長岡築城は中断。新たに高田藩主となった松平忠輝の家臣・山田勝重が蔵王堂城主になるが、高田城築城の為、任地を顧みる暇はなかったようである。 飯山藩4万石を領してからは、駿府にいて家康に仕えた。慶長16年(1611年)、駿府城火災のさい、いち早く駆けつけ、宝物金銀を運び出し、消火にあたり、消火の器物に自分の名前を書いておき、後からきた人々はみな直寄の名の入った器を使ったので、この時の手柄は直寄のものとなり、美濃多芸郡に1万石加増された。 大坂夏の陣に弟の直之と共に参陣。大和口の軍将水野勝成の手に属し、1番に直寄、2番に松倉重政とした。5月5日、水野、松倉らが田尻越えを経て河内へ入ったという知らせを聞き、里人に近道を尋ねた。古老がいうには「亀瀬より入らば道は近し、されどその昔、守屋大臣、此の道を通り河内へ往きて、戦ひに敗れし故、聖徳太子の御世より、赴軍の者、この道を戒められて、石に亀を刻み、その印とせられたが、刻みし亀は、その後首を隠せりにより、首なき亀を見て、戦に利なきと戒めて、この道を通らずと云う、」直寄、之を聞いて、「我いま、人に先立ってこの道を進み、敵に勝つときは千年の禁忌を破りて、愚者の迷を解かん、守屋大臣は戦いに敗れ死す、我は勝ちて生きん、若し戦に利なくして、死なば、末世の勇者の戒めとすべし、」と亀瀬を越え、河内の国府へ駆けつけ、しばらくすると、水野、松倉らも到着した。 夜も更けて、水野勝成より、「敵寄せ来たると見えて、松明多く見ゆ、あなどるべからず、」と諸将に伝言があった。直寄之を聞きて、「勝成は物に馴れたると聞きしに、巧者とも思はれず、寄せ来たる敵、何んぞ松明を多く燈さんや、敵にはあらず」というところに、再び伝令がきて、「松明皆消えたり、敵にはあらず」告げると、直寄は「これぞまさしく敵なり、なに心なく松明をとぼしたるが、巧者あって消させたり」といった。これが敵将後藤基次の部隊であった。6日未明、片山・道明寺の戦いで松倉重政の崩れるのを助け、横から討って出て、基次の兵が崩れた所を一気に押し切った。この激戦で後藤基次、薄田兼相らの名将は戦死した。7日の天王寺の戦いを経て、8日に大坂城は陥落、大坂夏の陣は終結した。 元和2年(1616年)4月1日、家康は病重く、寝殿に直寄を召して、大坂の軍功、平時の武備を称美し、「我れ、死せる後に、若し国家擾乱せば、藤堂高虎を将軍の一陣とし、井伊直孝を二陣とし、汝は両陣の間にたむろし、其の横を打ってこれを破るべし、必ず忠義に懈るべからず」と遺言した。 元和2年7月、松平忠輝が改易となり、10月に直寄は3万石加増で再び長岡の領主となり、越後長岡藩が立藩された。築城と共に城下町の整備も行い、外港の新潟町(新潟港、現在の新潟市古町付近)は交易や人口増加の事を考えて諸税を免除し、以後の発展の礎を築いた。 元和4年(1618年)、2万石の加増を受け、越後村上藩10万石に転封。長岡城は完工目前で牧野忠成に引き継がれた。牧野氏は幕府の要職にあり、寛永7年(1630年)まで長岡に入国できなかった事もあり、明暦3年(1657年)の改正まで「しきたり」と称し「堀丹後守御証文通り」として、直寄の制度をそのまま踏襲し、いささかの不便もきたさなかったという。 直寄が村上に入部のさい、家康より百万石の禄を与えるという御墨付きを所有していた。これを示して老中に百万石の請求をした所、老中は困り果てたが、百万石の「石」の字に虫食いがあるのを見つけ、「之は百万石に非ずして百万両なり、依って佐渡金山を向う三ヶ年取らすべし」と下命して早々に立ち去った。怒った直寄はこの金で村上城を増改築し、士分の増員を行い、江戸の上屋敷に凌雲院を建て、不忍池を作った。後に居城の改築と士分の増員について幕府の詰問を受けた。また、村上藩主として村上城下町の整備に携わり、現在の市街地の基礎を築いた。 直寄の屋敷には徳川秀忠、家光父子が訪ねて来ている。「寛永六年十二月二十六日台徳院殿(秀忠)直寄が邸に御渡りありて、助国の御刀貞宗の御脇差をよび黄金三百両を賜ふ、七年二月十三日大猷院殿(家光)直寄が宅に渡らせたまふのときも、助光の御腰物黄金二百両を恩賜せらる、」(『寛政重修諸家譜』) 元和年代、上野には直寄の屋敷のほかに藤堂高虎、津軽信枚の屋敷があった。津軽家の『常福寺御由緒略記』によると、「上野は御家(津軽家)、並びに藤堂家、堀家の屋敷と申し候ところ、徳川家にて、御廟地と成され候節、替地を以って、御取上げと相成候ところ、御家の寺院、津梁院、藤堂家の寒松院、堀家の凌雲院は格別に対遇なさるる趣、」とある。寛永2年(1625年)に天海の発意で寛永寺が草創され、凌雲院は上野最大の塔頭であった。直寄は他にも祇園堂、大仏殿なども寄進した。 寛永4年(1627年)、沢庵宗膨が罪に問われた際、天海僧正、柳生宗矩と共に赦免に奔走した。沢庵和尚は直寄の駒込の別邸に2年間世話になった。寛永8年(1631年)、戦死者慰霊の為上野寛永寺に上野大仏(釈迦如来坐像)を建立。 寛永13年(1636年)、60歳の還暦で隠居し、嫡男の直次に家督を譲り、自らは「鉄団」と号した。この人生の節目に肖像画制作を希望、或いは沢庵らから勧められ、狩野探幽の筆になる寿像が残っている。しかし、寛永15年(1638年)に直次が先立って死去、孫の直定が家督を継いだ。 寛永16年(1639年)6月29日、病の為、駒込の別邸で亡くなる。享年63。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%9B%B4%E5%AF%84
小野鎮幸 Ono Shigeyuki(1546年-1609年) 小野鑑幸之子,受大友義鎮偏諱「鎮」字,名為鎮幸、官拜和泉守,別名小野和泉、位列日本槍柱七本、立花四天王之一。 小野家原是藤原道長之孫祐家的後裔,輾轉於戰國時代遷移至豐後成為大友家管轄下的國人眾。 元龜年間,鎮幸以大友家軍目付的身分前往道雪的軍陣,道雪心腹大將由布惟信認為鎮幸的言行舉止不凡,並向道雪提出向主君宗麟要求讓鎮幸轉為立花家麾下的想法,惟信還不惜消減自己領地分給鎮幸,並在鎮幸成功轉為立花家臣時舉行投票讓鎮幸擔任立花家老,道雪甚至讓自己的小姑以養女身份嫁給鎮幸,可見對鎮幸之重視。 被謳歌為知勇兼備的鎮幸,在作戰方面擔任道雪的「奇將」替大友、立花家出戰大戰二十二場,小戰不計其數,奮勇負傷六十七處,包含腰部以上四十四處傷,五處鐵砲傷,七處槍傷,其餘刀傷,領受兩家的感狀有六十八張,為家中屈指的英傑。 更在弘治三年(1557年),攻打秋月文種時展現謀將之才;秋月文種當時受到毛利元就的謀略而反叛大友家,立花道雪、臼杵鑑速二將受命舉兵討伐,鎮幸於此時對仕於秋月家中的堂兄弟做調略,順利的令其反叛成為內應而使秋月文種陷於被包夾圍攻的命運而兵敗自殺。 天正十三年(1585年),立花道雪於出兵築後期間逝世,這時立花家的繼承問題終於爆發,因道雪生前並無親生嫡子,僅留一名親生女子誾千代,為此立花家中的重臣如由布惟信以及薦野增時早先已決定由和道雪齊名的高橋紹運之子高橋統虎(立花宗茂)以入贅的方式迎娶誾千代並繼承立花家,但是鎮幸有感於道雪的恩威,認為立花家應該讓道雪的親生骨肉誾千代來繼承才不失其正統,並以自己的戰功和立花家筆頭家老的身分為憑,堅持讓十歲的誾千代成為名副其實的立花城主,然而高橋紹運以從此不再和立花家合作為由以及大友本家的干涉,鎮幸只能讓步,立花家正式由高橋統虎繼承,並改名立花統虎。 自從大友家於耳川敗於島津家後,大友家如同風中殘燭,面對島津家的築前侵攻,第一防衛線的高橋紹運於巖屋城壯烈玉碎後,緊接著便是立花山城,然而鎮幸對於立花家新繼承人的統虎也終於在此時有信任感,一同艱苦的守住立花城後便隨統虎猛烈的追擊島津軍,並在攻略島津軍築前據點的高鳥居城時雖然雙足皆被鐵砲擊中扔然揮舞著采配指揮,大大的振奮鼓舞士氣,終攻克高鳥居城。 之後豐臣秀吉對於立花統虎的奮戰大為嘉獎,並使其獨立為大名領築後柳川13萬2千石,此時鎮幸以正使身分前往柳川城向前任城主龍造寺晴信交割印信,立花家正式接受柳川城後,鎮幸受領蒲池城5千石,領家中最高俸祿。 文祿年間,鎮幸也隨統虎出兵朝鮮,並於碧蹄館之戰勇猛奮戰,擔任立花家中核備隊之一的鎮幸,反覆與統虎衝進明軍陣中,鎮幸更將明將李有聲勾下馬,和小早川隆景的部將井上景貞一同討殺,隨後更活躍於朝鮮各戰場中,將「立花家有小野鎮幸」的名聲傳至國內外,歸國後和統虎上洛參見豐臣秀吉時,秀吉便褒稱為「日本槍柱七本之筆頭」和本多忠勝、島津忠恆、後藤基次、直江兼續、飯田直景、吉川廣家並列,且為大友、立花家第一功勞者,並期望鎮幸以其精湛的槍術和統虎一同守禦西國。 文祿之役結束後,雖然鎮幸的勇名傳開,但是跟著也出現一項不利於鎮幸的傳聞,當時鎮幸被人認為是守財奴,更被質疑做賄賂等等勾當,家中重臣如由布惟信和安東連直皆質問過鎮幸,然而到慶長元年(1596年)再次出兵朝鮮之前,立花家因為長期出兵於財政面面臨金錢不足的問題,鎮幸此時慷慨付出家財以支出兵費用,終於令眾人領悟鎮幸的作為,也佩服其過往的深意和深謀遠慮。 關原時期,鎮幸主張參加西軍,這是難得和統虎意見一致的場面。然而關原之戰西軍戰敗,立花軍以失望的態度回到柳川,隨即遭到變節的鍋島軍侵攻領地,鎮幸了解統虎為主家的存續不可親自出戰,負責任的擔任立花軍總大將的身分率軍1萬3千於江上八院對戰鍋島軍3萬5千,僅以1千3百名兵力將10倍於己的鍋島軍十二段軍陣衝毀九段,自身也在奮戰中左乳下被鐵砲擊中,四肢也廣佈刀傷槍傷,膝蓋更被弓箭射中,最後和來援的立花成家合作縱橫於鍋島軍中,最終迫使鍋島軍元氣大傷不敢逼近柳川城,而立花軍也因兵力懸殊退回城池。 然而立花家最終遭到德川家康的改易,面對無力支付薪俸的立花家,小野鎮幸為廣大的家族只能轉仕加藤清正,清正也給予4千79石的厚遇。之後其舊主立花宗茂一行人離開肥後往京都流浪,鎮幸因先前關原時的重傷未癒而無法追隨,但扔不忘持續給予其一行人金錢米糧的資助。 鎮幸轉仕加藤清正後,清正每每為鎮幸的豪膽和小心謹慎的處世感到驚訝和佩服,並且近臣們也讚美鎮幸『他確實是豪勇無敵的人,在戰場上讓他進攻的話,即使對方是如何的堅陣也沒有他破不了的,是真正有本領的武士。』 某日鎮幸和清正對話,鎮幸坦白自己從小因為時常作戰而無緣讀書,就算已經六十好幾的歲數仍不會寫「いろは」等等的字,對於這些丟臉的事,鎮幸沒有避諱的敘述自己當時在朝鮮作戰期間,毛利輝元公曾來信至陣中,使者要求當面回信,那時正煩惱著那些不會寫的字,恰巧內田鎮家經過才請他代筆,為此回國後還請妻子教自己寫字,如今總算會書寫那些字。後來清正請到內田鎮家提起此事真偽,鎮家回答確實如此。清正也因此欽佩鎮幸的誠實,說:「鎮幸小事都不會撒謊,更不用說大事會撒謊!」而對鎮幸更加優待。 又某日鎮幸和清正玩著象棋,隔壁房間的近習者突然打架還拔刀相向,當時清正的棋盤已經是快輸的模樣,清正藉口要過去調停打架而想藉機終止這一盤棋,然而鎮幸卻說:「作為主君者是要做好榜樣的,不能在進行某件事時因為別的事情而忘記原本在做的事,如果隔壁打過來就讓我這老人去抵擋就好,請殿下安心的下棋吧!」並怒目而視。對於看穿自己心事的鎮幸,即使是豪勇的清正除臉紅外無話可說。 然而清正對於鎮幸的優遇引起加藤家臣對立花家臣的不快,並於某日的酒席中,加藤家武名極高的飯田直景、莊林一心、森本一久、加藤清兵衛等對著鎮幸說:「我們聽聞很多立花家的戰功,但是宗茂公自身奮戰且戰功最大的戰場是哪一場阿?」鎮幸沉默著沒回答,接著他們又問:「那麼,請鎮幸公談談你的武功?」鎮幸依舊沉默不回答,並在酒席終後退出,結果加藤家臣卻譏諷鎮幸:「人們皆說他是英雄豪傑,說不定在柳川的確是那樣,但是在肥後可真是沒什麼了不起阿。」這件事往後加藤家臣和立花家臣變的更加不合,為此鎮幸思索一條計策。 後日同樣又在夜晚舉行酒宴當中,鎮幸又被問起自身的武勇之事,當初沒回答的鎮幸這次終於同意說明,突然在眾人面前脫去上衣,暴露上半身的四十四所傷痕,眾人不禁啞然,鎮幸淡泊的說:「我參加的合戰很多,今天特地帶感狀來解釋。」並一邊核對感狀一邊核對傷痕講述起來,眾人聽聞鎮幸壯烈的傷痕的事蹟後接連向鎮幸道歉,並說明他們已經了解可以不用在說下去,要不然可是會說到天亮才結束。 這時換鎮幸詢問加藤家臣,說:「聽說以前清正公於佛木板中和木山彈正激戰並且折損槍的一鐮,雖然最終討取木山彈正,但是那時各位在何處呢?既然有看到主君置身於危險之中,卻沒能用自己的武功去護衛而留下事績,你們到底在做什麼呢?」結果眾人皆脹紅著臉。往後又有酒席之時,眾家臣也不敢再鎮幸面前談起自己的武勇事績。 終於,鎮幸於慶長十四年(1609年)6月23日於肥後死去,死前對子孫的遺言為:「我小野家代代都將必是立花家的家臣,要是立花家回封大名,你們定要回仕立花家。」 鎮幸即使到死都認為自己為立花家臣,然而無法撐到立花家回封柳川或許是鎮幸最大的遺憾吧,年六十四歲,法名華德院殿宗珊大居士。 由於鎮幸嫡子質幸早逝,便迎來森下釣雲之子鎮矩來繼承,立花家回封柳川後小野家便由鎮幸嫡孫、鎮矩之子小野茂高繼承,茂高也遵從鎮幸遺命於立花家回封柳川後回仕,擔任家老大組頭領3千石,並擔任立花家在大阪城修築的總奉行指揮,途中病死後由長子小野正俊接續,小野家歷代都成為立花家老。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E9%8E%AE%E5%B9%B8
後藤基次 Goto Mototsugu(1560年-1615年) 黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は又兵衞で、後藤 又兵衛(ごとう またべえ)として広く知られる。黒田如水、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」の一人に数えられた。 諸説あるが、『大日本史』などによると、永禄3年(1560年)に播磨国姫路近郊の神東郡山田村に生まれる。父は別所氏家臣で、後に小寺政職の下にいた後藤新左衛門(基国?・後藤氏当主・伯父説あり)の次男として生まれた。 天正6年(1578年)、黒田孝高が荒木村重によって有岡城に幽閉された際、黒田家家臣一同の誓紙への署名を又兵衛の伯父・藤岡九兵衛が拒否したため一族追放となり、仙石秀久に仕えることとなる。 当時の記録に基次の具体的な足跡が現れるようになるのは、天正14年(1586年)、九州征伐の宇留津城攻めの頃からである。戸次川の戦いにおいて仙石秀久が島津家久に大敗し、領国の讃岐国に逃げ帰った後には、黒田孝高の重臣である栗山利安の与力となり、黒田家に100石で仕えている。領地替えを巡って徹底抗戦を行った城井氏との戦いでは、吉田長利と共に途中で黒田長政に退却を勧めるが聞き入れられずに敗北を喫し、天正15年(1587年)12月の長岩城攻めの際には瀕死の重傷を負った。文禄元年(1592年)から始まる朝鮮出兵にも従軍し、第二次晋州城攻防戦では亀甲車なる装甲車を作って城壁を突き崩し、加藤清正配下の森本一久らと一番乗りを競った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成家臣の剛槍使い、大橋掃部を一騎討ちで破るなどの武功を挙げ、戦後大隈城(益富城)16,000石の所領を与えられた。 如水(孝高の法号)の死から2年後の慶長11年(1606年)、基次は一族揃って黒田長政が後を継いだ黒田家を出奔する。当初は豊前国の細川忠興を頼ったが、元から関係がこじれていた両家(黒田家・細川家)が一触即発の状況となり、徳川家康などの仲裁により細川家を退去する。基次の智勇を惜しんで福島正則・前田利長・結城秀康などから召し出しがかかるが、長政により「奉公構」という措置がなされていたため実現しなかった。一旦故郷である播磨国に戻り、領主となっていた池田輝政を介して岡山の池田忠継に仕えた。しかし、「奉公構」の影響で慶長16年(1611年)より京都で浪人生活を送ることになる(浪人した時期は慶長18年(1613年)6月、池田輝政の死後とも)。 慶長19年(1614年)、大坂の役が勃発すると、大野治長の誘いを受け、先駆けて大坂城に入城する。旗頭として天満の浦での閲兵式の指揮を任された際、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称される。徳川家康からは、基次と御宿政友のみが警戒される名望家であった。歴戦の将として大坂城五人衆の一人に数えられ、山川賢信、北川宣勝以下を与力として、大野治長・治房らを補佐した。冬の陣では6000人の遊軍を任され、鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。 翌年5月、大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて、大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて、6日の未明、平野郷から出陣した。しかし、徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が、既に国分村まで進出していた。次善の策として、中間にあった小松山に布陣し、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次(奥田忠高の子)を討ち取るなど、孤軍で奮戦し賞賛された。しかし、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁らの軍が霧の発生により到着が遅れ、逆に伊達政宗の家臣片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対し、基次は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死した。享年56。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%AC%A1
明石全登 Akashi Takenori(生年不詳-没年不詳) 備前保木城主の明石行雄(明石景親)の子として生まれた。備前明石氏(美作明石氏)は赤松氏の末裔(守護大名赤松円心の次男・赤松貞範の子孫)である。 行雄は、天神山城主の浦上宗景の家臣であったが、浦上氏滅亡の際には宇喜多直家に呼応して寝返り、以後、宇喜多家の客将となった。景親は弟の景季と共に、直家とその子の秀家に仕えて、4万石の知行までになった。景親の嫡子全登もその跡を継いで、和気郡大俣城(大股城)の城主となり、家老格であった。 慶長4年(1599年)、お家騒動(宇喜多騒動)が起こって、家宰(執政)の長船綱直が私的に殺害されると、関与した4人の重臣(戸川達安・宇喜多詮家(坂崎直盛)・岡貞綱・花房正成)が出奔したため、全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切った。主に軍事面を支えたことから、宇喜多秀家の軍師的存在だったと言う。当初、4万石の知行だったが、秀家の岳父である太閤・豊臣秀吉の直臣としても知行を貰い、併せて10万石取りとなった。 慶長5年(1600年)、東西の戦が始まると、全登は宇喜多秀家に従って出陣し、西軍に与すると7月から8月にかけて伏見城を攻略。(伏見城の戦い) 9月14日の杭瀬川の戦いでは、中村一栄をまず撃ち破って前哨戦を勝利し、9月15日の関ヶ原の戦い本戦では、宇喜多勢8,000名を率いて先鋒を努めた。宇喜多勢は福島正則を相手に善戦したが、小早川秀秋の裏切りをきっかけとして敗戦。全登は、斬り死にしようとした主君秀家を諫めて大坂へ退くように進言し、殿軍を務めた。 西軍敗走の際に田中吉政の家来・上坂万兵衛と接触したという記述がある。なお9月18日付けで、田中吉政は東近江の村々に石田三成、宇喜多秀家、島津惟新を捕らえるよう書状を配っている。 戦後、岡山城に退くが、城はすでに荒らされていて、秀家とも連絡が取れずにそのまま出奔。 宇喜多氏が没落し浪人となると、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田如水の下で庇護されたといわれている。如水の死後、息子の黒田長政がキリスト教を禁止したため、柳川藩の田中忠政を頼ったとされている。ただしこの時期の消息については諸説ある。 慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると豊臣方として参陣した。翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、まず道明寺の戦いに参加。後藤基次が突出して戦死し敗れたが、全登隊は水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と交戦して混乱に陥れ、政宗と相茂の同士討ちを起している。この戦いで全登は負傷した。天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷家臣の小倉行春と共に全登は300余名の決死隊を率いて、家康本陣への突入を狙っていたが、天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、水野勝成、松平忠直、本多忠政、藤堂高虎の軍勢からなる包囲網の一角を突破して戦場を離脱した。 その後の消息は不明である。徳川方の複数の家伝がそれぞれに全登をこの戦いで討ち取ったと伝え、戦死したとも言うが、それ以上に落ち延びたとする伝承も多く、いくつかは嫡子内記と共に九州に、またある物には南蛮に逃亡したのであろうと取沙汰したと書かれたものもあるほどで、諸説あり、判然としない。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%A8%E7%99%BB