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原田隆種 Harada Takatane(生年不詳-没年不詳) 原田興種の子、正室は大内義隆の娘であり,子に種門、種吉、繁種、親種などがいる。;主君義隆から「隆」の1字を賜って隆種と名乗った。剃髪して了栄を号したので、原田了栄の名でも知られる。通称は弾正。 享禄4年(1531年)に高祖表で隆種の家臣烏田通勝、王丸進らが、被官水崎盛政と交戦した記録があり、享禄年間に父の興種から家督を譲られたと推測される。 北九州における大内氏方の代表的な国人領主の一人でしばしば大友氏方の国衆と争った。大寧寺の変で大内義隆の自刃後も、主君の恩顧に筋を通して逆臣陶隆房には従わなかったところ、筒城主で家老西重国が不満を持って肥前国の龍造寺隆信と内通したのでこれを討った。しかし天文21年(1552年)に大友氏が陶氏と連合して侵攻すると、配下の王丸隆(兵庫允)、西重通等々がこぞって寝返って陶氏に呼応したため、高祖山城は落城した。 隆種は降伏して蟄居を強いられ、陶氏から弘中隆兼が代官として姪浜城に入り、大友氏からは臼杵鑑続が派遣されて柑子岳城に入って筑前国の政所を設置したが、弘治元年(1555年)に厳島の戦いで隆房が自害すると、その混乱に乗じて高祖山城を奪還した。 弘治3年(1558年)3月、大内義長が毛利元就に攻められて翌月自害すると、筑前の大内領は大友氏に組み入れられたので、隆種も一時大友氏に属した。同年、家臣本木道哲が嫡男種門と三男繁種を讒言したので、8月7日、二人を謀反の疑いによって岐志で謀殺した。後にこれは誤情報であったと判明するが、隆種はもともと四男親種を寵愛しており、これを嫡子とした。 永禄9年(1566年)、岩屋城主高橋鑑種が毛利氏に内通し、大友義鎮に反旗を翻して宝満山城(宝満城)に籠もると、義鎮は四将を派してこれを鎮圧させようとした。隆種入道了栄は鑑種より援兵を要請され、病を理由に断ったものの、他方で了栄も密かに毛利氏に内通して大友氏に敵対した。嫡子親種を避難と人質を兼ねて安芸国の吉田城に送った。 永禄10年(1567年)9月11日、了栄は大友方の西鎮兼の居城宝珠岳城と支城を落とし、西氏を滅ぼした。さらに柑子岳城に攻めよせたが、龍造寺氏が侵攻したために攻撃を中止した。 永禄11年(1568年)4月、鑑種に同調して立花鑑載が大友氏に反乱を起こすと、毛利氏は援軍を送ったが、これに親種が加わっていた。大友勢が立花城を攻囲中、柑子岳城は城代臼杵鎮広が残っていたが、了栄は虚を突いて、7月19日、第1次池田河原の戦いで鎮広を撃破し、城を奪い取った。本来の城主臼杵鎮続は慌てて帰還し、これを回復した。鑑種は親種と清水左近将監と共に陥落した立花城を奪還しようとしたが撃退され、清水は長門に帰還、親種は高祖山城に敗走する。了栄は原田親秀を救援に派遣して、8月2日、第1次生松原合戦で追っ手を撃退したが、嫡孫秀種など家臣の多くを失った。 一連の戦いは毛利方の敗戦に終わって毛利勢は撤退したが、これを見て今度は龍造寺隆信が筑前に侵攻。了栄(および草野氏)は龍造寺氏に服して、孫(次男の種吉の子、後の原田信種)を龍造寺氏に人質に出すことになった。 永禄12年(1569年)、大友氏と龍造寺氏が和睦したため、了栄は大友氏に復した。同年、毛利氏が再び筑前に侵攻したが、このためにこれには呼応しなかった。 元亀2年(1571年)、(了栄の次男)草野鎮永入道宗陽と吉井隆光の領地争いで吉井浜合戦(吉井合戦)があった。両氏は共に了栄の配下で調停を試みたが失敗し、合戦の後、宗麟の下知で両氏は和睦した。 元亀3年(1572年)正月、鎮広の後を継いだ柑子岳城主臼杵鎮氏は、今津毘沙門(登志神社)に参詣する了栄を暗殺しようとするが、失敗。原田勢に逆襲され、これが1月28日の第2次池田河原の戦いとなって、敗れた臼杵鎮氏は泊城逃れようとしてたどり着けず、平等寺 (筑紫野市)で郎党と共に自害して果てた。 筑前臼杵一党が滅ぼされたと聞いた宗麟は激怒し、天正2年(1574年)4月1日、鎮広を再び筑前に派遣して了栄の首を要求させた。原田氏の親族で会議をしているところに親種が鷹狩りより帰り、これを聞いて憤激して自らの腹を十字に切り裂いた上で首を落として本木大原に投じさせた。これには十人余の士が追腹をして殉じた。臼杵側に検死を要求し、親種の遺体に間違いなければ帰還するように求めたところ、臼杵の執筆坂本伊織という者が、親種の首を持ち帰ると言ったために、了栄は激高して、柑子岳城を攻めて必ず宗麟に復讐すると誓ったが、この頃、大友氏の勢いは強くすぐに行動に移すことはできなかった。 嫡子を失った了栄は先祖が開基した天台宗極楽寺を再興し、曹洞宗に改めて萬歳山龍国寺として親種の菩提を祀った。また草野鎮永の次男は人質として送っていたが、龍造寺氏に請うて元服させ、了栄の養嗣子信種とした。 天正6年(1578年)に大友氏が耳川の戦いで大敗すると、筑前の情勢も再び不穏となり、筑紫広門、秋月種実、宗像氏貞が相次いで龍造寺氏に組して大友に反旗を翻し、了栄もこれに同調して蜂起した。宗麟は立花道雪、高橋紹運、志賀道輝の三将を筑前に派遣して鎮定させようとした。天正7年(1579年)、立花勢は安楽平城に集結して出撃し、7月12日、海と陸から押し寄せるが、了栄が陣頭指揮をして撃退。立花勢は生松原に退却したので、これを追撃して第2次生松原合戦となった。了栄は、大友方武将木付鑑実の立て篭もる柑子岳城を包囲した。同城は兵糧が尽きかけていたが、道雪は高祖山城を攻撃すれば了栄は囲みを解いて帰ると考えて救援を送らず、生松原に陣を敷いた。了栄は包囲を継続したまま、8月13日、これを迎撃して第3次生松原合戦となったが、これは両軍痛み分けに終わり、双方が手を引いた。しかし糧米の尽きた柑子岳城は開城投降して退いたので、志摩郡全体が原田氏の領有となった。同月19日、草野鎮永の領地に波多親が侵攻したので、了栄は援軍を送り、浜崎でこれを破った。 天正9年(1581年)、隆信と共に安楽平城を攻略。この頃、了栄は老衰でなくなったようであるが、没年不詳。一説では天正15年(1587年)6月22日卒。法名は諡武徳院殿大倫了栄大禅定門。 原田氏の実権は草野鎮永が握り、息子信種を当主としてもり立てたが、これを快く思わない者が家臣におり、これに波多親が介入して天正12年の鹿家合戦となる。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E9%9A%86%E7%A8%AE
弘中隆兼 Hironaka Takakane(1521年-1555年) 弘中興勝/弘中興兼的長子,正式名為「隆包」,多數以「隆兼」稱之,取自父親別名興兼的「兼」字。 弘中氏為清和源氏一脈,是石見國的國人領主。由室町時代開始成為支持周防大名大內氏的主要氏族,代代均擔任奉行之職或軍事方面職務等要職。此外弘中家在隆兼那一代前還長期兼任白崎八幡宮的大宮司。 隆兼侍奉大內義興、大內義隆兩代,作為智勇兼備的武將而極有名聲,年輕時即已立下許多的功勳,也由於其功績,除石見國外還被任命為安藝守護代,以安藝西條槌山城城主之身分而活躍。 天文九年(1540年),在吉田郡山城之戰中加以援助過的毛利元就於包圍戰後也維持著公私兩方的深交,當大內軍進行月山富田城遠征之時,兩人的交情好到可以在協商之後一起向大內義隆獻策。此外,據說他和元就的嫡子,在山口擔任人質時同樣由大內義隆處拜領一字的毛利隆元,還有次子吉川元春也都有著很親近的關係。 天文二十年(1551年),陶晴賢謀反而殺害大內義隆,並於其後迎立義隆外甥大內義長。隆兼雖在此時始終堅持反對謀反的立場,但最後還是基於對自家累代效力之大內氏的忠誠心而臣服於義長。 弘治元年(1555年)在嚴島之戰爆發前,對於晴賢意圖將3萬大軍開赴嚴島之舉,隆兼識破此為元就之謀略,因此以向義長直接進言或是透過晴賢之妻等方式再三向晴賢提出諫言,但是卻由於晴賢受三浦房清等武功派之言論扇動而失去冷靜故不被採納。更在此時由於元就的奸計,對毛利陣營來說是極大威脅的大內軍兩位勇將江良房榮及隆兼還蒙上謀反之嫌,為求證明自身的清白,隆兼被迫接受晴賢命令而殺死房榮。之後隆兼雖仍一再諫阻晴賢卻還是徒勞,最後被視為膽怯者的隆兼將其弟方明留在石見而和嫡子隆助一同渡海到嚴島。 其後一如隆兼的預測,中了陷阱的大內軍在一夜中就潰滅。在陷入大混亂的大內軍中唯一還能保持陣勢的隆兼挺身為盾來協助總大將晴賢逃亡,在大聖院面對吉川元春等人的大軍。晴賢之後雖然自盡,大內軍中仍僅有弘中軍以不足百人據守天險駒林而孤軍奮戰。經過三天的激鬥,隆兼最後還是被吉川軍所包圍而戰死。 對隆兼的智勇及忠義氣節深深哀悼的元就,此後因而特別禮遇被毛利家所登用及保護的弘中一族,因此在安藝、周防一帶有許多弘中家的親屬擔任住持的寺院。當吉川廣家成為原為隆兼領地的石見國領主時,允許已經改名今地氏的隆兼孫子擔任白崎八幡宮的宮司直至今日。此外隆兼的曾孫創建通津專德寺也同樣得到允許,1941年隆兼之墓也被移至該寺。 弘中隆兼雖然明知自身將死卻仍為了忠義而渡海的悲劇,也作為西國的悲運故事而被流傳下來。 出處 http://wiki.eyny.com/wiki/%E5%BC%98%E4%B8%AD%E9%9A%86%E5%8C%85
毛利元就 Mori Motonari(1497年-1571年) 毛利弘元的次子、母為福原廣俊之女、正室為吉川國經之女.妙玖、側室為乃美大方、三吉隆亮之妹.三吉氏、小幡元重之姐.中の丸;幼名松壽丸,通稱少輔次郎、右馬頭,渾名:乞食若殿、謀神,戒名洞春寺殿日賴洞春大居士。 明應九年(1500年),父親弘元因捲入大內氏及幕府之間的紛爭決定讓位給嫡男.毛利興元,元就和弘元移居多治比猿掛城。 文龜元年(1501年),母親死亡,永正三年(1506年)父親弘元因酒毒逝世,元就自少在失去雙親下長大。及後元就的居城被家臣井上元盛霸佔,因此元就被戲稱為「乞食若殿」。由養母杉大方(弘元側室)養大元就,永正八年(1511年)元服。 永正十三年(1516年),長兄興元病逝,由興元年幼的長男幸松丸就任。而附近的安藝武田氏看見毛利氏的混亂開始入侵毛利的領地,武田元繁率領大軍攻打吉川氏的有田城。吉川氏向毛利氏求援,元就為挽救有田城,代替幸松丸出兵救援,這是元就第一場參與的戰役。他用計謀引誘武田氏先鋒熊谷元直追擊並墮入毛利氏的埋伏圈,熊谷元直隊全軍覆沒,後來總大將武田元繁欲來支援熊谷隊,兩軍在城外附近爆發混戰,最後武田軍主將武田元繁被毛利氏弓箭手狙擊中箭陣亡(有田中井手之戰),此戰又被後世稱為西國的桶狹間。安藝武田氏隨之衰落。 大永三年(1523年),元就在支援尼子經久攻打安藝國的支持大內氏的藏田氏,是為鏡山城之戰,元就用計誘降敵將藏田直信從而攻陷鏡山城,因而威名大振,但毛利幸松丸也在此戰在後,以9歲幼齡病逝,最終家臣推舉元就為毛利家的繼續人。反對他為繼承人包括兩位家老阪廣秀、渡邊勝,在尼子氏的煽動下受到重臣龜井秀綱的指示下他們嘗試謀反,推舉元就之弟相合元綱取而代之。但元就在志道廣良協助下,清除謀反勢力。 大永五年(1525年),由於毛利氏與尼子家敵對及家督繼承人問題內耗下,元就決定轉而臣服於大內義興之下。 享祿二年(1529年),攻滅曾經透過幸松丸介入毛利家的外戚石見國人眾高橋興光。同年,與長年宿敵宍戶家修補關係。將其中一名女兒嫁給宍戶氏家督宍戶元源嫡孫宍戶隆家。後來毛利家亦招攬生城山天野氏及有著殺父之仇的原武田氏家臣熊谷氏,確保安藝國人盟主的地位。 天文八年(1539年),大內氏消滅北九州大名少貳氏,大內氏與大友氏關係得以和解。因而安心向安藝武田氏發動攻擊,首先是向佐東銀山城發動攻擊,元就跟隨戰鬥,城主武田信實逃離佐東銀山城,一度前往若狹國,後來成為尼子氏家臣。 天文九年(1540年),尼子晴久率領三萬大軍入侵吉田郡山城,分兩路進攻毛利氏。先鋒由尼子氏精銳部隊新宮黨擔當,尼子國久為大將經備後進入安藝,元就向姻親宍戶氏求援,宍戶氏及深瀨氏部隊在可愛川附近以投石戰術截擊新宮黨,尼子國久敗走。尼子晴久稍後親率尼子大軍經石見進入安藝,並得到毛利氏舊盟吉川氏加入,在吉田郡山城附近的風越山佈下本陣。元就徵召全境領民加上原有的3000兵準備籠城戰死守,並向大內氏及附近安藝國人眾求援。基於劣勢,毛利軍採取游擊戰減少士兵傷亡,竹原小早川氏及駐紮在豐島的大內氏杉隆相部隊亦與毛利氏合流,尼子勢亦把本陣轉移至青光山。戰事由8月初持續到11月底,他們終於等到大內氏援軍,在陶隆房率領1萬士兵支援下,毛利氏和大內氏部隊成功突襲尼子本陣,討取尼子氏高尾久友,尼子氏戰況危急,原來反對尼子晴久出兵的尼子久幸不惜犧牲己命,掩護晴久撤退,結果被毛利氏中原善左衛門討取。毛利和大內的襲擊成功迫使士氣低落的尼子軍撤退,毛利家確定安藝國的勢力。 同年,毛利軍順勢收復被尼子軍攻佔的佐東銀山城,武田氏家督武田信實逃亡到出雲國,一門眾武田信重切腹自盡,安藝武田氏徹底滅亡。戰後元就將安藝武田氏旗下的川內警固眾組織化,後來成為毛利水軍的基礎。 天文十一年(1542年)至天文十二年(1543年)與大內軍聯合攻打月山富田城(第一次月山富田城之戰),但是安藝國吉川氏家督吉川興經、出雲國人眾三澤為清、三刀屋久扶等叛變,由於大內軍戰線過長,後路一度被尼子軍阻礙,毛利氏家臣渡邊通喬裝為元就的替身,與安藝國人眾小早川正平等人的以死相許奮戰下,元就安全返回吉田郡山城。次年,元就派遣兒玉就忠以及福原貞俊支援備後國三吉氏,但是支援軍被尼子軍所擊敗(布野崩)。 長期臣服於大內氏之下,亦為大內氏立下功勞的元就備受大內義隆的信任,大內義隆將大內氏家老重臣內藤興盛之女收為養女,並許配給曾在山口擔任人質的元就長子.毛利隆元,以此強化大內和毛利的關係。 天文十六年(1547年),元就試圖控制正室妙玖出身的吉川氏,他利用當時吉川氏家臣團的不和,拉攏吉川興經叔父、妙玖的兄弟吉川經世,幫助經世剷除興經寵信的家臣大鹽右衛門尉,並與吉川經世、森脅祐有合謀迫使吉川興經隱居,將次男(吉川元春)過繼吉川氏成為興經的養子,把興經送到毛利領內監視居住。 三年後,元就為免除禍根,委派旗下的國人眾熊谷信直、天野隆重就將吉川興經及其子吉川千法師殺死。另外,元就亦介入安藝國人眾小早川氏的繼承人問題,當時小早川氏分為竹原小早川氏和沼田小早川氏,竹原小早川氏家督興景病亡無嗣,元就先把三子德壽丸(小早川隆景)送往竹原繼承竹原小早川氏,得到手島景繁及磯兼景通等竹原家家臣支持。沼田小早川氏家督小早川正平在月山富田城之戰陣亡,當時小早川繁平(小早川正平長子)雙目失明並不適合繼任家督,元就計劃讓小早川隆景迎娶正平之女,並繼承沼田家,一統兩家小早川。為此元就重施故技拉攏沼田家家臣,如乃美宗勝、椋梨弘平、梨子羽宣平、國貞景氏,但也有部分小早川氏家臣反對,在親毛利派的沼田家臣協助下,反對派的田阪全慶、土倉秋平、近宗長平被殺,小早川氏落入毛利氏的控制下,小早川繁平隱居讓渡家督予小早川隆景,兩小早川氏重新統一。 透過這兩次事件,毛利氏控制吉川氏及小早川氏,確立毛利兩川體制,吉川氏鄰近出雲國和石見國,小早川氏則握有水軍且位處安藝國東南,兩家直接併入毛利氏無疑大大增強毛利氏的實力。元就透過婚姻外交結盟、軍事援助及過繼等手段,把毛利氏勢力逐漸伸展至整個安藝國,甚至接受大內氏的命令進入臨近的備後國,攻打親尼子氏的備後國人眾江田隆連、杉原理興等。 天文十九年(1550年),元就一舉剪除以家臣井上元兼為首的安藝井上氏一族,僅少數井上族人因或與毛利氏有姻親關係;或為元就心腹得以倖免,事件過後毛利氏家臣發表向元就忠誠的宣誓文書。透過這次清洗行動,元就加強家臣對主家的向心力,代表毛利氏正式轉化為戰國大名。 天文二十年(1551年),大內義隆被家臣陶晴賢推翻(大寧寺之變),大內義隆及嫡子龜童丸被弒,陶晴賢不欲負上謀反的罪名,因此向豐後國大友氏過繼大友晴英(大內義長)到大內氏,繼承大內氏。元就一直對陶晴賢的謀反行動不置可否,待義隆死後元就先發制人,出兵攻擊平賀氏的頭崎城及大內氏的槌山城,元就出兵支援平賀氏宗家的平賀廣相奪回被大內義隆指派、來自小早川氏的平賀隆保所佔據的平賀氏家督位置,平賀隆保走投無路下自盡。然而毛利氏仍然未公開跟陶晴賢決裂,石見國吉見氏家督、大內義興女婿吉見正賴首先宣佈討伐陶晴賢,並聯絡元就共事。吉見正賴跟陶晴賢相比實力顯得懸殊,不久戰敗降服。可是這時候,毛利氏卻公開向陶晴賢斷交,並繼續攻打原屬大內氏控制的安藝國西部。 有鑑於兩軍的兵力動員差距,毛利軍最多只能召集4000兵,而陶軍可以召集3萬兵。倘若元就選擇正面跟陶晴賢作戰,可謂毫無勝算。元就決定用計策對付陶晴賢。首先,元就偽造一封書信,刻意洩露給陶晴賢知道,信中涉及毛利氏跟陶晴賢得力家臣江良房榮聯絡,並且得到江良房榮答應擔任內應。陶晴賢不虞有詐,當下捕殺江良房榮。與此同時,元就為避免和大內氏決戰之時受到尼子氏襲擊,元就再次運用偽造書信的策略,同樣刻意把書信洩露給尼子氏家督尼子晴久,元就假造與身兼尼子晴久叔父和丈人、精銳部隊新宮黨領導人尼子國久秘密交往,於是使晴久懷疑新宮黨忠誠,結果晴久召喚新宮黨到月山富田城覲見,以此成功誘殺新宮黨大部分核心成員,包括尼子國久及其子尼子誠久、尼子敬久、誠久數子。尼子誠久第四子在乳母保護下逃亡京都東福寺出家,他就是後來被山中幸盛擁立的尼子勝久。時為天文二十三年(1554年),經過兩次精心策劃的反間計,元就成功削弱大內氏和尼子氏。 為開戰的準備,元就仍需要多做些預備工作,他認為必須把陶晴賢引誘上安藝國南方的嚴島決戰,利用那裏不利於大部隊活動的地形,一舉消滅陶軍,於是他先在嚴島上建築宮尾城,委派己斐直之、新裡宮內少輔率領少量士兵進駐,又派遣間諜進入大內氏領內散佈謠言,宣稱元就害怕陶晴賢攻打宮尾城,讓陶晴賢信以為真。為加強計謀的效果,元就指示擔任自己家臣、嚴島對岸的櫻尾城城主桂元澄寫信予陶晴賢以報父仇為名暗通陶晴賢,願擔任陶軍內應,配合其攻打嚴島雲雲。經過這幾件事,元就成功讓陶晴賢相信攻克宮尾城便能消滅毛利氏。 天文二十三年(1554年),陶晴賢派遣先鋒宮川房長先行出兵三千攻擊毛利氏,雙方在折敷畑山開戰,是為折敷畑之戰。宮川房長部隊和安藝國反毛利氏勢力合流,全軍增加到7000人,但卻被元就、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景四父子從三方面包圍,宮川房長戰敗而亡,支持大內氏的安藝國人眾野間隆實被元就招降後滅族,至此安藝國完全落入毛利氏手中。 天文二十四年(1555年),陶晴賢不顧重臣弘中隆兼等反對決意親征嚴島,弘中等人主張應從陸路攻打毛利氏。陶晴賢得到屋代島水軍的援助,全軍分乘500艘船隻渡海攻打嚴島宮尾城。元就在此時成功爭取到瀨戶內海海賊眾的三家村上水軍加入,據說當元就求助村上水軍時,只要求村上水軍借出船隻一日時間搭載毛利士兵往嚴島。雙方主力在嚴島交戰(嚴島之戰),元就、隆元和元春三父子乘著暴風雨登陸嚴島,並乘夜翻越博弈尾突襲駐紮在山坡下塔之岡的陶軍,另一方面小早川隆景及兒玉就方等率領毛利水軍和村上水軍包圍嚴島對開海面並消滅大內氏的屋代島水軍三浦房清等,陸上的陶軍被毛利軍夜襲而一片混亂,潰不成軍。弘中隆兼及其子隆助嘗試組織士兵抵抗不果,雙雙陣亡。最終僅得4000士兵的元就擊敗5倍於己、號稱二萬大軍的陶晴賢,陶晴賢本人則一路奔逃到陶軍登陸地大元浦,他眼見海面盡是毛利水軍,自覺無路可逃便自盡斷。經此一役,毛利氏加緊進攻大內氏領地,確立橫跨周防、安藝兩國的霸權。 弘治三年(1557年),出兵攻打大內氏(防長經略),接連擊敗或降服大內氏的國人眾,如杉隆泰、椙杜隆康、山崎興盛、江良賢宣等,包圍長門且山城,大內氏家老內藤隆世以毛利氏許諾保全大內義長性命為條件開城投降後切腹自盡,但毛利氏仍強逼義長自盡,大內氏亦告滅亡。同年,亦將家督讓給毛利隆元,但是自己繼續掌握實權。 雖然毛利氏控制大內氏大部份在中國地方的舊領土,毛利軍為奪取石見銀山屢屢向尼子家發起攻勢,弘治二年(1556年)敗給尼子晴久後(忍原崩),永祿二年(1559年)元就再度進攻,雖拿下小笠原長雄鎮守的溫湯城,但無法打下山吹城,毛利軍在撤退時遭到山吹城守將本城常光的突襲受到重創,毛利軍大敗而回(降露阪之戰)。及後,元就假意答應讓出石見銀山的管理權,方能讓本城常光倒戈投降,但本城一族隨即遭到毛利氏誅殺,銀山落入毛利氏手中。本城常光的死令不少一度轉投毛利氏的石見、出雲國人眾,如福屋隆兼、三澤為清、三刀屋久祐等重投尼子氏。 永祿三年(1560年)12月,尼子晴久病逝,由尼子義久繼任。尼子氏出現混亂,幕府將軍足利義輝介入,雖然元就一度無意與幕府協調和解工作,但是為顧及面子,元就決定與尼子氏和睦,史稱雲藝和議。但是毛利氏在第二年撕毀和約。 永祿四年(1561年),尼子軍前線主將本城常光被元就派人勸降。翌年,派兵攻打尼子軍的白鹿城,毛利軍攻佔白鹿城之後基本上將月山富田城包圍起來,對尼子氏來說白鹿城的失陷等於月山富田城已無屏障,大批國人眾被逼降服於毛利氏之下。其後為攻打月山富田城做好足夠的準備。 永祿六年(1563年),毛利隆元在備後國與當地國人眾和智誠春見面後突然急病逝世,對元就造成不少打擊,有傳隆元被下毒暗殺,元就命令和智誠春及隆元心腹赤川元保自盡以示負責。 永祿八年(1565年),毛利軍對月山富田城開始進行包圍,第一次包圍被尼子軍擊退。同年9月,進行第二次包圍,期間成功散佈謠言雲尼子氏家老宇山久兼已和毛利氏內通,尼子義久盡信傳言,將負責處理兵糧的宇山久兼斬首處死。毛利軍經過長時間的包圍下,城內開始缺糧,城中開始以粥代飯,陸續出現投降的士兵。11月,尼子義久向毛利軍投降,與兩名弟弟移送安藝國監禁長達二十多年。當時毛利氏已經成為控制八國的大名。 尼子仍未正式滅亡,部份尼子家家餘臣仍然嘗試作出反抗,山中幸盛推舉尼子誠久在京都出家的兒子尼子勝久,試圖恢復尼子氏的政權,另外大友氏亦準備在九州進行爭奪原屬大內氏的豐前國和築後國領地,長年流亡大友氏的大內義興之侄大內輝弘得到大友氏援助試圖恢復大內氏,向山口發動突襲,毛利陷入兩難情況。毛利氏為進入北九州的門戶——豐前門司城多番和大友氏作戰,並且和古處山城的秋月種實結盟,又策反臣從大友氏的立花山城城主立花鑑載和寶滿山城城主高橋鑑種,經過權衡得失之後,元就決定與大友軍和解,撤兵返回中國地方平定大內氏和尼子氏的殘餘勢力。毛利放棄九州的領土,把大友宗麟一直無法攻佔的門司城讓出,最後毛利軍擊敗受大友氏援助入侵周防的大內輝弘。雖然多個出雲國的城堡被尼子軍攻佔,但毛利軍成功守住險要月山富田城。元龜元年(1570年),毛利輝元率兵在布部山之戰擊敗尼子軍,將尼子軍完全驅逐出雲。 晚年期間,元就開始與京畿活躍的勢力接觸,幕府將軍足利義昭與織田信長關係決裂後,曾拉攏元就參與「信長包圍網」,不過元就拒絕義昭,元就並與信長維持良好關係,在元就逝世,信長派遣使者悼念他。 元就踏入晚年身體開始衰弱,曾經找足利義輝醫師曲直瀨道三治療,並且成功康復。但最終元龜二年(1571年)6月14日,於吉田郡山城病逝,年七十五歲。 出處:https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1

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