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五百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名止々斎、佐竹義重、上杉憲政、結城晴朝、里見義堯、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角承禎、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、足利義輝、足利義昭、福島正則、加藤清正、大谷吉継、島清興、竹中重治、井伊直政、榊原康政、片倉景綱、伊達成実、津軽為信、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、蒲生氏郷、鈴木重秀、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花道雪、立花宗茂、高橋紹運、鍋島直茂、細川幽斎、細川忠興、浅井亮政、林羅山、土井利勝、酒井忠世、青山忠俊、足利義明、稲葉貞通、真田幸昌、小幡景憲、蘆名盛舜、尼子経久、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
堀直寄 Hori Naoyori(1577年-1639年) 天正18年(1590年)、従叔父に当たる堀秀政が没し、又従弟で秀政の嫡男・秀治が幼かったため、家督相続が遅々として進まなかった。家老の直政は直寄を使者として豊臣秀吉に直訴した。「先臣秀政、軍に死し候えば、その子秀治、幼年なりと申せ、よろしく嗣と為し給ふべし、若し立つことを得ざらんには、これ使臣の罪なり、」と口上したが、直寄はこの時13歳であった。秀吉は秀治の相続を認め、直寄を自らの小姓にし、従五位下丹後守に叙任された。 慶長3年(1598年)、堀家が越前北ノ庄城から越後春日山城へ転封となる。直寄は秀吉に直訴し、「父監物(直政)事、老齢にして此の度、北国へ罷越し、自然彼の国にて一揆など起らば、落着くことも成り難く、是れのみ心元なく、何卒三年の御暇を賜りたし、」と申し、秀吉も感心し、「丹後(直寄)の申し様奇特なり、早々に久太郎(秀治)のあとより下るべし、」といい、増田長盛を召し、「丹後守は器量あるものなり、父兄と共に国政を聞くべし」といって越後魚沼郡坂戸城に2万石を与えた(坂戸藩)。 会津では上杉景勝が不穏な動きをしており、直政は徳川家康に情勢を報告した。家康が上杉討伐を決めると、堀家にも「津川口より会津へ攻め入るべし」との指示が来る。一族の合議の際、直寄は太閤殿下への御恩に報いるべきと上杉、石田三成と組むことを主張したが、堀氏は東軍方に就いた。 慶長5年(1600年)8月1日、越後国内で上杉遺民一揆が勃発する。一揆勢により下倉城が陥落し城主の小倉政熙が討ち死にした。直寄は下倉城に攻撃を加えて翌日に奪還し、戦後に家康、秀忠父子から感状を授与されている。9月1日、家康より書状が来る。石田三成らが美濃の大垣に集結しているので、自分はそちらへ出馬する。会津の上杉景勝が坂戸方面へ侵攻するようなら、真田信幸、本多康重、平岩親吉、牧野康成に援兵を出すよう命じてあるから、これら諸将と協力して城を堅守するように、というものであった。 9月8日、直寄は父直政、兄直清と共に三条城から津川に向けて兵を出した。津川に向かう途中、会津の兵3000余人とともに一揆の兵が高所に登り、三段に構え、深田を前にして備えていた。これを見て直寄は家臣に「敵が深田を前にして、高きところに備えたれば、我れよりかかって勝負をいたせば敗北は必定なり、密かに脇道より敵の横合いに出でて仕掛けて切り崩さば、勝利は我にあらん」として、身近な兵10人ほどで崖陰に廻り敵の右の傍より迫り、鉄砲を撃ちかけ敵を切り崩し、これを平定した。 慶長7年(1602年)、堀秀治の弟で越後蔵王堂城主の堀親良は家老の直政と不和になり、国政を顧みない兄秀治にも不満があり出奔した。親良は甥で秀治の次男・鶴千代を自分の養子として蔵王堂城主にした。直寄は鶴千代を補佐し、鶴千代が早世して蔵王堂藩が廃藩になると坂戸と蔵王堂を兼務し5万石を領有した。蔵王堂城は長尾為景の弟・為重が築城した城だったが、信濃川の側で年々浸食が進んでいたので、上流の大島庄平潟原に築城の計画を立てる。この地が長岡と呼ばれるようになる。 語源には、神田表町千手の地が遠くから見ると長い丘のように見えるから(『長岡市史』)、長岡京に似ているから(『越後往古城主付』)、そしてこの地を御館の乱の時に本荘清七郎の家臣・神保隠岐守と長岡縫殿助(ぬいのすけ)が領していて、戦に敗れ神保は会津へ逃亡、長岡は討死したという記述が『越後治乱記』にあり、この長岡縫殿助の名から付いたという説がある。長岡が文書に出てくるのは慶長10年(1605年)に蔵王堂渡し守与助に、長岡渡しに場所を変更する、今まで通りの給米で雇う旨の文書が、鶴千代の老臣堀甲斐守から出された時である。これ以後、長岡の名が文書に多く出てくる。 慶長13年(1608年)、父が死去した後、兄が家督を継いだのを不満に思い対立する。そして慶長15年(1610年)、直清が僧侶を殺害した事件を徳川家康に訴えた為、直清と越後高田藩主で秀治の嫡男・堀忠俊は改易され、自身も1万石減封された(越後福嶋騒動)。秀治と親良、直清と直寄の兄弟相克が引き金になり、家康に堀家除封の口実を与えてしまったのである。直寄は信濃飯山藩4万石に転封され、長岡築城は中断。新たに高田藩主となった松平忠輝の家臣・山田勝重が蔵王堂城主になるが、高田城築城の為、任地を顧みる暇はなかったようである。 飯山藩4万石を領してからは、駿府にいて家康に仕えた。慶長16年(1611年)、駿府城火災のさい、いち早く駆けつけ、宝物金銀を運び出し、消火にあたり、消火の器物に自分の名前を書いておき、後からきた人々はみな直寄の名の入った器を使ったので、この時の手柄は直寄のものとなり、美濃多芸郡に1万石加増された。 大坂夏の陣に弟の直之と共に参陣。大和口の軍将水野勝成の手に属し、1番に直寄、2番に松倉重政とした。5月5日、水野、松倉らが田尻越えを経て河内へ入ったという知らせを聞き、里人に近道を尋ねた。古老がいうには「亀瀬より入らば道は近し、されどその昔、守屋大臣、此の道を通り河内へ往きて、戦ひに敗れし故、聖徳太子の御世より、赴軍の者、この道を戒められて、石に亀を刻み、その印とせられたが、刻みし亀は、その後首を隠せりにより、首なき亀を見て、戦に利なきと戒めて、この道を通らずと云う、」直寄、之を聞いて、「我いま、人に先立ってこの道を進み、敵に勝つときは千年の禁忌を破りて、愚者の迷を解かん、守屋大臣は戦いに敗れ死す、我は勝ちて生きん、若し戦に利なくして、死なば、末世の勇者の戒めとすべし、」と亀瀬を越え、河内の国府へ駆けつけ、しばらくすると、水野、松倉らも到着した。 夜も更けて、水野勝成より、「敵寄せ来たると見えて、松明多く見ゆ、あなどるべからず、」と諸将に伝言があった。直寄之を聞きて、「勝成は物に馴れたると聞きしに、巧者とも思はれず、寄せ来たる敵、何んぞ松明を多く燈さんや、敵にはあらず」というところに、再び伝令がきて、「松明皆消えたり、敵にはあらず」告げると、直寄は「これぞまさしく敵なり、なに心なく松明をとぼしたるが、巧者あって消させたり」といった。これが敵将後藤基次の部隊であった。6日未明、片山・道明寺の戦いで松倉重政の崩れるのを助け、横から討って出て、基次の兵が崩れた所を一気に押し切った。この激戦で後藤基次、薄田兼相らの名将は戦死した。7日の天王寺の戦いを経て、8日に大坂城は陥落、大坂夏の陣は終結した。 元和2年(1616年)4月1日、家康は病重く、寝殿に直寄を召して、大坂の軍功、平時の武備を称美し、「我れ、死せる後に、若し国家擾乱せば、藤堂高虎を将軍の一陣とし、井伊直孝を二陣とし、汝は両陣の間にたむろし、其の横を打ってこれを破るべし、必ず忠義に懈るべからず」と遺言した。 元和2年7月、松平忠輝が改易となり、10月に直寄は3万石加増で再び長岡の領主となり、越後長岡藩が立藩された。築城と共に城下町の整備も行い、外港の新潟町(新潟港、現在の新潟市古町付近)は交易や人口増加の事を考えて諸税を免除し、以後の発展の礎を築いた。 元和4年(1618年)、2万石の加増を受け、越後村上藩10万石に転封。長岡城は完工目前で牧野忠成に引き継がれた。牧野氏は幕府の要職にあり、寛永7年(1630年)まで長岡に入国できなかった事もあり、明暦3年(1657年)の改正まで「しきたり」と称し「堀丹後守御証文通り」として、直寄の制度をそのまま踏襲し、いささかの不便もきたさなかったという。 直寄が村上に入部のさい、家康より百万石の禄を与えるという御墨付きを所有していた。これを示して老中に百万石の請求をした所、老中は困り果てたが、百万石の「石」の字に虫食いがあるのを見つけ、「之は百万石に非ずして百万両なり、依って佐渡金山を向う三ヶ年取らすべし」と下命して早々に立ち去った。怒った直寄はこの金で村上城を増改築し、士分の増員を行い、江戸の上屋敷に凌雲院を建て、不忍池を作った。後に居城の改築と士分の増員について幕府の詰問を受けた。また、村上藩主として村上城下町の整備に携わり、現在の市街地の基礎を築いた。 直寄の屋敷には徳川秀忠、家光父子が訪ねて来ている。「寛永六年十二月二十六日台徳院殿(秀忠)直寄が邸に御渡りありて、助国の御刀貞宗の御脇差をよび黄金三百両を賜ふ、七年二月十三日大猷院殿(家光)直寄が宅に渡らせたまふのときも、助光の御腰物黄金二百両を恩賜せらる、」(『寛政重修諸家譜』) 元和年代、上野には直寄の屋敷のほかに藤堂高虎、津軽信枚の屋敷があった。津軽家の『常福寺御由緒略記』によると、「上野は御家(津軽家)、並びに藤堂家、堀家の屋敷と申し候ところ、徳川家にて、御廟地と成され候節、替地を以って、御取上げと相成候ところ、御家の寺院、津梁院、藤堂家の寒松院、堀家の凌雲院は格別に対遇なさるる趣、」とある。寛永2年(1625年)に天海の発意で寛永寺が草創され、凌雲院は上野最大の塔頭であった。直寄は他にも祇園堂、大仏殿なども寄進した。 寛永4年(1627年)、沢庵宗膨が罪に問われた際、天海僧正、柳生宗矩と共に赦免に奔走した。沢庵和尚は直寄の駒込の別邸に2年間世話になった。寛永8年(1631年)、戦死者慰霊の為上野寛永寺に上野大仏(釈迦如来坐像)を建立。 寛永13年(1636年)、60歳の還暦で隠居し、嫡男の直次に家督を譲り、自らは「鉄団」と号した。この人生の節目に肖像画制作を希望、或いは沢庵らから勧められ、狩野探幽の筆になる寿像が残っている。しかし、寛永15年(1638年)に直次が先立って死去、孫の直定が家督を継いだ。 寛永16年(1639年)6月29日、病の為、駒込の別邸で亡くなる。享年63。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%9B%B4%E5%AF%84
平岩親吉 Hiraiwa Chikayoshi(1542年-1612年) 平岩親重的次子、母為天野貞親之女、正室為石河正信之女;幼名七之助、戒名平田院殿越翁休岳大居士,德川十六神將之一。 平岩氏傳說是物部姓的弓削氏,弓削氏的後裔右衛門尉照氏出仕新田興,因居住在碧海郡平田庄上野,稱上野氏。後來,照氏的四代孫隼人正氏貞出仕今川氏,遷到三河國額田郡阪崎村。阪崎村中有一塊叫「平岩」的巨石在氏貞的居館附近,後代因此改稱平岩氏。 平岩氏和三河松平氏確立臣屬關系是從平岩重益這一代開始。自重益起,平岩氏的信光、親忠、長親三代連任角田郡代官。大永二年(1522年),松平宗家六代松平信忠遷居大濱鄉,平岩重益跟隨信忠一起在阪崎村閒住。父親親重(平岩重益嫡子)先後仕奉松平家的長親、信忠和清康。 親吉在德川家康為今川義元人質時從之,天文十六年(1547年)以小姓身份被送往駿府城。 永祿元年(1558年)親吉初陣,獲德川家康深厚信任感,三河遠江平定戰立有戰功,就此擔任家康長子松平信康元服補佐工作。天正七年(1579年)織田信長要求松平信康自殺後選擇蜇居。後來得到家康允許,以直臣身份復職。 天正十年(1582年)織田信長橫死於本能寺之變;翌年,德川家康平定甲斐,命親吉著手建造甲府城且對於郡代的武田氏遺臣進行慰撫,親吉同時盡力於領內經營。 天正十八年(1590年)小田原征伐戰功顯赫,跟從德川家康移封關東地區,被給予廄橋3萬3000石。在關原之戰中,親吉逗留在上野國廄橋,監視關東地區以及防止上杉景勝南下。 慶長六年(1601年)親吉再度返回甲斐,獲甲府6萬3000石。慶長八年(1603年)養子松平仙千代的弟弟德川義直準備執政,封給親吉甲斐25萬石,慶長十二年(1607年)做為義直家老的親吉被轉封為尾張犬山藩主,領有12萬3000石。 慶長十六年(1612年)於名古屋城死去,年七十歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B2%A9%E8%A6%AA%E5%90%89
德川義直 Tokugawa Yoshinao(1601年-1650年) 德川家康的九子、母為於龜之方(相應院)、正室為淺野幸長之女・春姬、繼室為津田信益之女・於佐井(貞正院)、側室為於尉之方;幼名千代丸、五郎太丸,通稱德川右兵衛督、尾張大納言,別名義知、義利、義俊,字子敬,諡號源敬公。御三家之一的尾張德川家家祖。 出生於伏見城,義直的乳名起初是千代丸,最後改成五郎太丸。據說改名五郎太丸是因為當時伏見成在築城牆,築城牆所用的石頭就叫做五郎太石,因此才取名五郎太丸,而這個名字也是父親家康親自命名。而元服後本來叫做義知,後改為義利,最後才是義直。 幼時,和弟弟紀州德川家初代長福丸(德川賴宣),水戶德川家初代鶴千代(德川賴房)一起,在駿府城由父親家康親自撫養。 慶長八年(1603年),四歲領甲斐國府中藩二十五萬石。慶長十一年(1606年),六歲元服。翌年,慶長十二(1607年)年時,兄長松平忠吉(家康四子)病逝。由於忠吉並沒有子嗣(一子早逝),義直轉封尾張清洲藩五十三萬石。 後來義直成為尾張德川家初代,但那時義直還年幼,尾張的政務都是交由犬山城主的平岩親吉,竹腰正信(義直的異父兄),渡邊守綱,成瀨正成處理,義直自己則是在駿府城父親家康那兒。義直和生母於龜之方一起到名古屋城,是家康去世後的事。 慶長十六年(1611年),豐臣秀賴在二條城與父親家康會見,那時義直擔任迎送的角色,在慶長十九年(1614年)和元和元年(1615年)的大阪之戰,義直也有出征。 元和元年(1615年),十五歲的義直娶淺野幸長的女兒春姬為正室。元和二年(1616年),父親家康去世。元和五年(1619年),義直的領地增加為六十一萬石。元和七年(1621年),此年改名為義直。寬永元年(1623年)立津田信益的女兒於佐井為側室,於佐井之後在京都服侍東福門院(德川和子)。寬永三年(1626年),任從二位權大納言。 尾張藩在義直時期就已經打好基礎,並且強化藩的制度。據說他尊王的志向很厚,比起武術,年幼時期更喜歡學問。拜堀杏庵為師,林羅山忍岡開設私塾時也曾贈送孔子像等。而他幾乎親自編輯『德川氏宗譜』『東照宮御年譜』等著作。 寬永十四年(1637年),正室春姬去世,義直和春姬之間的夫妻關係良好,不過兩人並沒有孩子,不久之後,義直立側室於佐井成為繼室,而於佐井從京都回到江戶。其他較有名的側室,就只有二代藩主光友的母親,於尉之方。 慶安二年(1649年),義直的中風復發,翌年5月7日,逝世,年五十歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B7%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E7%9B%B4
成瀨正成 Naruse Masanari(1567年-1625年) 成瀨正一的長子、母為熊谷直連之妹、正室為森川氏俊之女、繼室為本多正重之女;通稱小吉、戒名白林院殿直指宗心居士。 年少時擔任德川家康的小姓(侍童),初次上陣在天正十二年(1584年)的小牧長久手之戰、隸屬於小姓組。年僅17歲的正成,勇敢地殺入敵陣,取下敵人的首級。在家康正檢視取回的首級時,先遣部隊遭受敵軍猛烈的攻擊;正成看到部隊退縮的情形,不顧旁人的勸阻,再度殺入敵陣取回敵人首級。此戰後,正成因其功績獲家康賞賜500石俸祿及脅差(短腰刀)。 天正十三年(1585年)、德川氏將因根來寺為秀吉所滅、四散而來的50名僧兵交由正成統率,年僅17歲就成為一軍之將。這支洋槍隊就是後來稱為根來組的百人部隊(百人組)的原型,而正成也以17歲創下家康部下最年輕就擔任一軍之將的紀錄。 天正十八年(1590年)的小田原之戰也立下戰功。在家康轉封到關東後,受封下總國葛飾郡栗原藩4000石的領地,並獲得江戶城四谷宅邸的賞賜,正成將屬下根下組配置在內藤新宿以防衛甲州街道。出兵朝鮮前、諸將集結在大阪時,曾得豐臣秀吉青眼有加,想要用5萬石的高俸勸他轉投豐臣氏。但正成以不仕二君為由堅決推辭,甚至說出「無論如何都要這樣的話我就切腹」,有這麼一段軼事。 慶長五年(1600年)的關原之戰,一方面擔任家康的使番(傳令、巡視),另一方面又率領根來組百人隊為先鋒,立下了戰功,也因此被拔擢為堺的奉行。之後,和家康親信本多正純、安藤直次等人擔任老中的職務,共同執掌幕府初期的政務。此外,加封甲斐國內2萬石、三河國加茂郡內1萬石,成為下總國栗原藩3萬4000石俸祿的大名。 慶長十二年(1607年)、敘任從五位下.隼人正。慶長十五年(1610年)、擔任德川御三家之一的尾張藩主.德川義直的輔佐一職,在創藩初期指揮名古屋藩政,立下了功績。 慶長十九年(1614年)大阪冬之陣後,德川氏和豐臣氏暫時達成了和談,但和談條件是必須拆毀大阪城的二丸、三丸,並填平所有濠溝,正成和本多正純、安藤直次共同指揮填平大阪城內壕溝的工程。 尾張藩的附家老.平岩親吉過世後,平岩氏因無嗣子而斷絕家業。家康特別拜託正成出任九男.德川義直的附家老,並封給犬山城。這時,同為家康親信的安藤直次也出任家康十男、紀州藩主.德川賴宣的附家老。 寬永二年(1625年)逝世,年59歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%80%A8%E6%AD%A3%E6%88%90
松平信康 Matsudaira Nobuyasu(1559年-1579年) 德川家康的長子、母為今川義元姪女.築山殿、正室為織田信長之女.德姬,側室為淺原昌時之女、日向大和守時昌之女;幼名竹千代、通稱岡崎三郎、別名次郎三郎,受織田信長偏諱「信」字,名為信康。 信康幼年作為今川氏的人質在駿府度過,不過在桶狹間之戰後,德川軍以俘虜鵜殿氏長、鵜殿氏次交換,信康前往岡崎城居住。 永祿五年(1562年),父親家康和織田信長的清洲同盟成立。在永祿十年(1567年)5月與信長的女兒德姬結婚,兩人都是9歲並以夫婦的形式在岡崎城生活。 同年六月,家康把居城移往濱松城,把岡崎城讓給信康。在7月元服時,從信長接受偏諱「信」字。元龜元年(1570年)正式成為岡崎城的城主。 信康自小就勇猛果敢,在天正元年(1573年)完成初陣。 天正三年(1575年)的長篠之戰中以大將身份參戰,之後在與武田氏的戰役中獲得軍功受到注目。特別在天正五年(1577年)8月,遠江橫須賀之戰中的退卻戰中擔任殿軍,令武田軍不能越過大井川,率領岡崎眾輔助家康。 天正七年(1579年)8月3日,家康到訪岡崎城,翌日信康離開岡崎城並被移至大濱城。之後信康被移至遠江的堀江城、二俁城,在9月15日被家康命令切腹,年21歲。 信康切腹的事件在『三河物語』中有詳細的記述。根據此書記載,信長的女兒德姬和跟今川氏有關係的築山殿不和,與信康的關係都相當差,天正七年(1579年),德姬向父親信長寫了12項事情的信書,並拜託德川家重臣酒井忠次作為使者送信給信長。信中包括了自己與信康不和及築山殿與武田勝賴內通的事情。信長質問使者忠次,忠次完全沒有庇護信康並確認書信所寫的是事實。結果,信長要求家康讓信康切腹。 在德川家中反對把信康處死的人有很多,甚至有家臣主張破棄與信長的同盟關係。信康的傅役平岩親吉想負上責任,要求把自己的首級送給信長。但是家康判斷形勢後,認為這些小手段不能平息信長的怒火,於是決定處決信康。8月29日,首先是築山殿被護送前往二俁城(守將是大久保忠世)途中,在佐鳴湖湖畔被德川家家臣岡本時仲和野中重政殺死。之後的9月15日,事件發生以來一直被幽禁在二俁城的信康被命令切腹。介錯是服部正成,但是正成無法向信康揮刀,最後由負責檢死的天方道綱介錯。 關於切腹的原由有諸多說法,包括父子不和、家中派系鬥爭、與家臣團對立等。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%BA%B7
渡邊守綱 Watanabe Moritsuna(1542年-1620年) 渡邊高綱之子、母為同族渡邊義綱之女、妻為平岩親吉之妹;通稱忠右衛門、渾名「槍半藏」,與「鬼半藏」之稱的服部正成並稱。 三河渡邊氏自稱為渡邊綱的後裔,是渡邊綱的孫兒源正(源次正、小源次正、源公賴)流。根據系譜是仕於足利將軍家的直臣,後來移住到三河國,渡邊氏代代仕於松平氏並立下功績。 守綱出仕同年出生的松平家康(德川家康),與族人都為一向宗(本願寺)門徒;永祿六年(1563年)三河一向一揆時,因信仰出走與家康對立,多數族人戰死。戰事平定後,生還的守綱被允許再仕於家康。 姊川之戰、三方原之戰、長篠之戰和小牧長久手之戰,都以旗本和足輕組頭身份出戰,擔任先鋒隊;在長篠之戰,討死山本勘藏(山本勘助長子)。 天正十八年(1590年)德川家康移往關東地區,被給予武藏國比企郡3000石。在關原之戰時,因為長年功績再賜予1000石,騎馬同心30人、足輕隊1000人也一齊給賞6000石。 慶長十三年(1613年)成為德川家康九子.德川義直的家老,受予武藏國4000石、尾張岩作5000石、三河寺部5000石,共1萬4000石並再加一座居城寺部城。 慶長十九年(1614年)的大阪冬之陣和翌年的大阪夏之陣都有出戰。元和二年(1616年)德川家康死後,回到領國尾張,並擔任德川義直補佐。 元和六年(1620年)於名古屋死去,年七十九歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%B9%E5%AE%88%E7%BA%B2
鳥居成次 Torii Naritsugu(1570年-1631年) 鳥居元忠の三男。母は形原松平家広の娘。子に鳥居忠房(長男)、鳥居忠春(次男)、娘(井上正利正室)、娘(日向政次室)、娘(八木豊次室)。官位は従五位下、土佐守。 幼少時より父と共に徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いでも活躍して戦功を挙げた。父・元忠は先の伏見城攻防戦で石田三成らによって攻め殺されていたが、戦後に三成の身柄を父の仇として預けられた。成次は三成を少しも恨まず、逆に小身ながら大身の主家によく抗した人物として衣服を与えて手厚く厚遇し、三成は成次を大いに賞賛したといわれている。 武田氏滅亡後に家康が領していた甲斐国は、豊臣政権下での家康の関東移封により豊臣系大名が領していたが、家康は関ヶ原後に甲斐領主浅野氏を転封させ再び甲斐を直轄領化する。甲斐一国のうち甲府を中心とする国中地方は城代平岩親吉のもと四奉行・代官制による統治が実施されていたが、甲斐東部の郡内領2万石(「慶長古高帳」『甲斐叢書』)は豊臣系大名支配以前に父・元忠が支配にあたっていた経緯があり、郡内領の支配は浅野氏重に代わって成次が着任し、谷村城に在城して国中地方とは別に独自の統治を行っている。 慶長8年(1603年)に甲斐国は家康の九男・五郎太(義直)が拝領し親吉らは家臣化され、慶長12年(1607年)の尾張国清洲への転封に際しては同行し、国中は再び直轄領化され城番制支配となるが、成次は郡内領主として残留している。同年、従五位下土佐守に叙任されている。 慶長17年(1612年)には御室浅間神社本殿の造営を行った。 慶長20年(1615年)の大坂の陣にも従軍し、5月7日一日で首28級を上げる大功を立てた。元和元年(1615年)には、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の次男・国千代(忠長)が甲斐を拝領し、元和2年(1616年)成次は郡内領主の地位は保ちつつ甲府の朝倉宣正とともに忠長の附家老となる。 同年、北口本宮富士浅間神社の本殿の造営を行った。寛永元年(1624年)、忠長は駿河・遠江・信濃国小諸を加増され、成次も駿河国において加増を受け、3万5000石を領する。忠長領の拡大に伴い支配機構の再編が行われ、朝倉宣正が東海地方担当として駿河掛川城へ移ったため、成次は甲斐支配を一任した。ところが、忠長は3代将軍・徳川家光により、寛永8年(1631年)5月には蟄居処分となり、郡内領を含む忠長領の没収に伴い、成次や朝倉宣正らも失脚した。 成次は赦免に奔走しているが、同寛永8年(1631年)6月18日に死去し(享年62)。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E6%88%90%E6%AC%A1

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