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島津義虎 Shimazu Yoshitora(1536年-1585年) 島津實久的長子、母為島津成久娘・上ノ城、正室為島津義久之女.於平、側室為入來院氏之女;幼名初千代,初名晴久,終改名為義虎,戒名大通玄廣庵主。 其父實久為薩州家第五代當主。自室町幕府12代將軍足利義晴處拜領偏諱起名晴久,在義晴死後將名字改為日語中讀音相同的陽久。 其父實久圍繞薩摩守護之位與伊作家的島津忠良、島津貴久父子對立,而義虎卻對伊作家保持著恭順的態度。實久敗於忠良父子,只得隱居在出水。此時義虎娶島津義久的長女於平為妻嘗試和解,以後臣從於伊作島津家即島津宗家。然而,有一說其父實久至死都在與伊作家鬥爭,至實久死後義虎才臣從於伊作家。 義虎雖然臣從於繼承了島津宗家的伊作家,卻經常獨自採取一些行動。永祿六年(1563年)上洛拜謁第13代將軍足利義輝,再次拜領一字,把名字從陽久改為義俊,後改名義虎。另外以東鄉的領主東鄉重治(大和守)偷了義虎家臣湯田兵庫成重秘藏的名犬為導火線,兩邊起了爭端,自天文十六年(1547年)持續爭執長達二十年,多次兵戎相見。後來在永祿八年(1565年)3月,義虎派遣叔父島津忠兼(注一)攻略肥後國天草的長島。此事的背景是義虎在天文二十三年(1554年)庇護了被相良晴廣趕出長島的長島鎮真。忠兼擊殺了代替鎮真擔任長島領主的天草越前守。長島成為了薩州島津家的領地。 永祿十年(1567年)守備羽月城以提防肥後相良氏。永祿十二年(1569年),相良氏殺害了島津方派去講和的使者,聯合菱刈氏舉兵進攻島津氏,義虎從所防禦的羽月城撤退,逃回了本領出水。島津義久對此事大為光火。後來的天正六年(1578年)高城川之戰時駐守出水城以防相良氏呼應大友氏來犯。天正九年(1581年)擔任相良氏討伐的先鋒,最終消滅相良氏。 天正十二年(1584年)3月,在對龍造寺氏的沖田畷之戰也從軍立功。 自從將軍足利義輝拜領「義」字一事可以看出,義虎在島津一門當中有著僅次於宗家當主島津義久的地位,領地除出水之外還有高城、水引、山野,祿高合計3萬1905石。 天正十三年(1585年),死去,年五十歲。 注一:島津忠兼:薩州家四代當主島津忠興之子,島津實久之弟。永祿八年3月24日(1565年4月24日)受義虎之命出征肥後國天草郡長島,並成為長島一代的領主。而忠兼的領主才做了三個月,因天草越前守的遺臣對此懷恨在心向義虎進讒言,被義虎叫回出水殺害。其妻女在獲知消息後亦自殺。此後長島天災不斷,皆言是忠兼作祟。義虎見狀不得不建立若宮神社以慰靈。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=6#postid-184 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E8%99%8E
島津貴久 Shimazu Takahisa(1514年-1571年) 島津忠良的長子,母為島津成久之女・寬庭夫人、養父為島津勝久、正室為肝付兼興之女、繼室為入來院重聰之女・雪窗夫人、側室為肱岡氏;幼名虎壽丸、別名又三郎、三郎左衛門尉,法號伯囿。 貴久出生時,島津氏一門、分家、國人眾紛紛自立;宗家第十二代家督島津忠治、第十三代家督島津忠隆早逝,即位的勝久年紀尚輕,大幅削弱宗家的實力。 勝久因此將島津宗家拜託給薩摩島津氏分家・伊作家的父親忠良。 大永六年(1526年),貴久作為勝久的養子繼承島津氏宗家。翌年,勝久在父親忠良的本來領土伊作隱居,貴久則進入清水城。 貴久繼任宗家家督後,引起統治加世田及出水、薩州家的當主島津實久的不滿。實久聯合加治木的伊集院重貞及帖佐的島津昌久發動叛亂。在父親忠良討伐叛軍期間,實久方調動北薩摩的士兵攻打伊集院城、又調動加治木、川邊和南薩摩的士兵攻打谷山城,兩座城都被攻陷,隱居的勝久又表示希望復任守護職,貴久在鹿兒島受到攻擊時堅決拒絕勝久方交還守護職位置的要求,趁夜與園田實明逃出城外,退守龜城。 天文二年(1533年),貴久擊敗日置郡南鄉城的島津實久軍,是次戰事不僅是貴久的初陣,更是忠良及貴久父子反擊的開始。天文五年(1536年),忠良、貴久父子奪回伊集院城。天文六年(1537年),攻陷鹿兒島。從天文七年(1538年)起,用上一年的時間攻陷南薩摩以及實久方的最大據點-加世田城,其後忠良及貴久在紫原擊敗實久,平定薩摩半島,名至實歸地成為薩摩國的守護職。天文十九年(1550年),貴久從伊集院城移居至鹿兒島,築起內城以作為島津家的本城。 大隅國內從古就有許多國人眾,不受守護職的支配,亦因此成為島津氏擴大領土的最大障礙。天文二十三年(1554年),降服於島津氏的加治木城城主-肝付兼盛受到蒲生範清、祁答院良重、入來院重朝、菱刈重豐的攻擊。貴久為救援加治木,率領島津一族攻打祁答院氏的巖劍城,解除加治木城被圍的危機。蒲生範清和祁答院一族調遣2000人救援巖劍城。島津軍擊敗蒲生軍,斬下祁答院重經、西俁盛家等50人的首級。 貴久其後繼續大隅國的攻略。弘治元年(1555年),攻打帖佐平佐城;翌年攻打松阪城。蒲生氏在接連失去支城的壓力下,放火燒燬本城的蒲生龍城,逃到祁答院氏。貴久因此成功佔據及支配西大隅,方便島津氏日後繼續擴大領土。 永祿九年(1566年),貴久出家並將家督之位讓與長子島津義久、自號伯囿並隱居。 元龜二年(1571年),與大隅的國人眾肝付氏交戰期間病逝,年五十七歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E8%B2%B4%E4%B9%85
新納忠元 Niiro Tadamoto(1526年-1611年) 新納祐久的長子、母為新納久友之女、妻為種子島時興之女;幼名阿萬丸、通稱次郎四郎,別名拙齋、為舟。 忠元出身於新納氏一族庶流,而新納氏為島津氏庶流,父親祐久仕於新納氏本家,新納氏本為戰國大名,其居城為志布志城。 天文七年(1538年),新納氏遭到豐州島津氏島津忠朝、北鄉氏北鄉忠相、肝付氏肝付兼續的聯合攻擊而滅亡,城落一族離散,父親祐久帶著忠元逃到田布施(地今屬南薩摩市),後來祐久成為伊作家島津忠良的學問師,而忠元也成為島津忠良的家臣。 忠元歷仕島津貴久、島津義久兩代;天文十四年(1545年),忠元參與攻打入來院重朝,一騎打倒入來院氏的家臣,從而使島津氏勝利。 永祿五年(1562年),參與攻打橫川城之役。永祿十二年(1569年)隨赤池長任之後,攻入菱刈隆秋所據的大口城,雖然重傷仍然在戰場上奮勇前進,被評價為「武勇如鬼神」(武勇は鬼神の如し),此後任薩摩國大口地頭職。 元龜三年(1572年),參與木崎原之戰並活躍,天正二年(1574年)包圍牛根城達一年以上,迫使敵將投降並出城為人質。天正九年(1581年)攻打水俁城、天正十二年(1584年)沖田畷之戰中活躍。 豐臣秀吉九州征伐之際,主張抗擊豐臣氏。島津義久、島津義弘向秀吉投降之後,忠元才投降。 秀吉侵略朝鮮之際,島津義弘追隨出征,忠元領命留守薩摩。慶長五年(1600年)關原之戰爆發時未參戰,義弘戰敗逃歸之際,加藤清正攻入葦北城,得知此事的忠元急忙從鹿兒島城趕回大口城,加強邊境的防衛。 慶長十五年(1610年),於大口城逝世,年85歲,戒名耆翁良英庵主。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%B4%8D%E5%BF%A0%E5%85%83
樺山善久 Kabayama Yoshihisa(1513年-1595年) 樺山氏は島津宗家4代忠宗の子である資久を祖とする家で、日向国樺山(現・宮崎県北諸県郡三股町)を領したことから樺山姓を名乗った一族である。善久は永正10年(1513年)、その7代目である樺山広久の子として誕生、島津宗家に仕えて、島津忠良の次女・御隅を正室とした。また和歌を好み、近衛稙家に拝褐して古今伝授を受け、飛鳥井雅綱から蹴鞠を習った。 天文8年(1539年)に主君・島津貴久が市来の平良へ出陣した湯田口合戦の際、手負いと成りながらも敵将の小野左近を討ち取る功をなし、大隅国向島郷の松浦と二俣を賜った(後に藤野に転封)。 天文17年(1548年)に本田氏が領内で争乱を起こすと、島津忠良から盃を受け自ら家臣100人を率いて生別府(おいのびゅう、現鹿児島県霧島市隼人町小浜)へ出陣し清水城を攻め落とした。その折、城から逃亡した本田薫親が城内の書院に「立訓し 槇の柱もわすれなよ 帰り来てあふ 世あるやと」と書き付けたのを見つけると、善久は「流れ出て 浮ふ瀬もなき 水茎の あとはかなくも 頼をくかな」と返歌を読み、それを書いた短冊を矢に結わえて、逃亡する本田勢へと追い付くとその矢を放った。これに感心した島津義久から褒美を受けている。 永禄5年(1562年)、北原氏の旧臣である白坂下総介が北原家再興を願い出た際は、善久が主君・島津貴久と下総介の仲介役を務めた。元亀元年(1570年)に大隅の小浜、堅利の替えとして横川へと移り住んだ。天正11年(1583年)、義久が病を患うと、日向国高岡の法華嶽薬師寺へ17日間籠って平癒の為の和歌を百首詠んでいる。文禄元年(1592年)、文禄・慶長の役において島津義弘が朝鮮に渡海した際に、善久は老年のために出陣が許されなかった事に憤り、「君か為 名のため取りし 梓弓 八十余りの 身こそつらけれ」との歌を詠んでいる。 文禄4年(1595年)に死去。享年83。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%B1%B1%E5%96%84%E4%B9%85
相良晴広 Sagara Haruhiro(1513年-1555年) 永正10年(1513年)、上村頼興の長男、籐五郎頼重として上村城(麓城)で生まれた。 上村氏は相良氏初代当主相良長頼の四男の頼村を祖とする分家であったが、曽祖父上村直頼の室は第12代当主為続の姉で、さらに祖父上村頼廉は為続の三男が直頼の養子となったもので、母は直頼の弟上村長国の娘であった。実父頼興と、養父義滋(長唯)およびその異母弟(長祗、長隆)とは、従兄弟の関係にあたる。 大永4年(1524年)に相良長定と犬童長広が謀反を起こし第14代当主長祗を放逐して家督を奪い、大永6年(1526年)、瑞堅(長隆)が兵を起してこの長定と長広を追放したが、相良氏の家臣団は還俗した長隆の家督相続を容認せず、第13代当主長毎の庶長子長唯(義滋)を推戴して、さらに内紛が続いた。 前述のように宗家に匹敵する家柄を持つ上村氏は、家中で大きな影響力を持っていたが、当主の頼興は相良宗家の兄弟爭いに対して中立の立場をとって、長唯の先陣の要請を拒否していた。しかし、長唯は戦略上重要な上村城を味方につけるために、(自分に後継者となる男子がいなかったこともあって)頼興の長男頼重を相良宗家の養嗣子として迎えるという条件で、頼興の協力を取り付け、弟長隆を討ち果たした。 享禄3年(1530年)、約束を守った長唯は頼重を養子とし、18歳の頼重は名を「長為」と改めて宗家の世子となった。 天文4年(1536年)4月8日、頼興は、長為の将来を案じて、家中で信頼の厚い実弟の長種を暗殺させた。また同年5月18日、頼興は、名和氏(伯耆氏とも言う)に使者を遣わして名和武顕の娘と長為との政略結婚をまとめた。これは翌年12月22日に入輿の儀となった。なお、これより少し前の同年11月22日、長為は洞然(外祖父上村長国の号)に教えを請い、相良家の事績や家督継承者としての心得等を記した『洞然長状』を送られている。 天文6年(1538年)12月14日、長為は名を「為清」と再び改めた。 天文7年(1538年)4月13日、薩摩守護島津貴久が佐敷に来て、長唯・為清親子の饗応を受けた。貴久は伊作家・相州家から島津勝久の養子となって島津宗家(奥州家)を継いだが、薩州家の島津実久がこれに反対して乱を起こしていた。相良氏の勢力範囲はこの実久の勢力範囲の背後(北)に位置するため、協力を要請したものと思われる。実久は天草郡の天草尚種とも争乱を起しており、義滋が間に入って調停している。 天文11年(1542年)6月15日、為清は正室名和氏(伯耆氏)と離縁した。理由などはわかっていないが、名和氏との盟約(三家同盟)は破れ、天文12年(1543年)1月26日、名和勢が小川に侵攻し、相良勢も兵を出して交戦して、高山でこれを撃退した。しかし阿蘇惟前は堅志田城を追われて八代に逃れた。相良氏・名和氏・阿蘇氏は、阿蘇氏の同盟相手を阿蘇惟前から阿蘇惟豊に代えて、天文14年に再び和睦した。 天文14年(1545年)11月27日、大内氏の仲介により、大外記大宮伊治が勅使および室町将軍の使者として八代に来航。12月2日、勅使は長唯を従五位下・宮内大輔を、為清を従五位下・右兵衛佐にそれぞれ叙した。またこの時、将軍足利義晴が一字拝領を許した旨も告げられ、長唯は「義」の字を与えられて義滋と、為清(長為)は「晴」の字を与えられて「晴広」とそれぞれ称することになった。 天文15年(1546年)8月3日、義滋は隠居して家督を晴広に譲った。相良氏が長く内紛に苦しんだ教訓から、義滋は家督相続の事実を内外に広く伝聞して、周知徹底させた。同月25日、義滋は遺書を残して他界した。また同年10月20日に祖父上村長国も死去した。 当主となった晴広は、実父頼興の後ろ楯を得て、戦乱の中でも相良氏を安定に導いていった。島津氏は三州の統一を進めていたが、まだ肥後に進出できるような余裕は無く、薩州島津家とこそ長島の帰属問題で争いがあったものの、島津宗家となった伊作島津家の島津忠良、貴久との関係は、義陽の頃の永禄7年(1564年)に悪化するまでむしろ良好で 、少なくとも晴広の晩年までは比較的平穏だった。 天文18年(1549年)8月、老臣らの勧めにより、嫡子の万満丸(義陽)を世子と定めた。これは同い年の庶弟・徳千代(頼貞)との家督争いが起こるのを未然に避ける意味があった。 これより前、菊池義武(大友重治)は兄の大友義鑑に隈府城を追われて肥前の高来に落ち延び、晴広は彼を庇護してしばしば八代で饗応していたが、天文19年(1550年)2月に義鑑が二階崩れの変で死去して大友義鎮が大友氏の家督を継ぐと、3月14日、隈本城主の鹿子木鎮国(かのこぎ あきくに)が菊池氏旧臣田島重実(たじま しげさね)と謀って菊池家再興の旗印を挙げた。義武はこの機に乗じ、招きに応じてて隈本城に入り、晴広はこれを支援した。晴広は、3月23日、名和・阿蘇・相良の三家同盟にあった阿蘇氏の重臣甲斐親直と、相良綾部助などの老臣を会談させた。大友義鎮は義武の挙兵を驚き、同じ3月23日、相良氏に協力を求めたが、晴広は拒否しただけでなく、義武と名和氏との同盟の仲介を行った。 同年6月、名和行興の家臣皆吉武真(伊予守)が叛乱して宇土城を襲撃した。行興は防戦したが、城を棄てて逃亡した。23日、晴広は自ら出陣して高津賀に陣をしいた。武真はこれを恐れて豊福城に撤退した。これにより名和行興は宇土城を奪還できたので、行興は晴広に感謝してさらに豊福城に進撃するように進言した。しかし25日、皆吉武真は兵百余をつれて八代に来て晴広に投降したので、戦うことなく豊福城は再び相良氏のもとに収まった。 一方、大友義鎮は家臣小原鑑元と佐伯惟教に大軍を与えて菊池義武を攻めさせた。7月11日、義武は合志原でこれを迎え撃った敗れた。7月20日、晴広は薩摩の東郷相模守に相良綾部助を使いに出して、大友氏との和議の仲介を依頼した。しかし8月には隈本城で義武は包囲され、戦利なしとして100騎余をつれて城を脱出し、国人衆に守られた金峰山に籠った。ところが金峰山も大友勢に攻め寄せられて、義武は一族と共に天草の河内浦城に逃れ、さらに島原に渡った。 天文21年(1552年)、頼興が、一族で岡本の地頭相良相模守頼春(長国の子、岡本頼春とも言う)を謀殺し、末弟稲留長蔵を地頭職に据えた。 天文23年(1554年)2月、義武は島津氏を頼ろうとしたが薩摩出水で入国を拒否されたために、3月、晴広を頼って水俣から人吉へと赴いて来て、永国寺で剃髪した。晴広は義武を丁重に保護した。 同年4月1日、人吉城で小火があり、万満丸は家臣宅に難を逃れた。 相良氏と大友氏の和議は成立したものの、伊作家の島津忠良に和睦斡旋を依頼するなどしても、義鎮と義武の調停は上手く行かず、義鎮は義武の身柄引き渡しを要請。4月、豊後から外交僧や田吹上総介が来たが、晴広は応じなかった。5月12日にも再び大友の使いが来たが、同様に拒否した。11月、義鎮は河尻を義武に与えると伝え、重ねて要請したので、義武は覚悟決めてこれを了承し、次男則直と娘・辰若、妻を相良氏に預け、高鑑をつれて11月15日に八代を発ったが、豊後に帰る途上の20日、木原で殺害された。 また同じ天文23年の7月、長島の領主である長島鎮真が堂崎城を放棄し、薩州島津家を頼って出水に逃れた。晴広は同城に兵を進めてこれを占領した。 弘治元年(1555年)2月7日、晴広は式目二十一条を布告した。これは「相良氏法度」として有名なものである。しかしこの「相良氏法度」は相良晴広1人が制定したものではなく、相良氏歴代の当主によって制定されたものに晴広が加筆したものである。第1条から第7条までは相良為続が制定し、第8条から第20条までは相良長毎によって、21条から41条までを相良晴広が制定したものであった。同条により、一向宗は領内で厳しく禁止された。 同年8月12日、先代の築いた八代の鷹峯城(鷹ヶ峰城、古麓城)で晴広は死去した。享年43。八代林泉院に葬られ、法名は林泉院兆山蓮慶。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%99%B4%E5%BA%83
相良義滋 Sagara Yoshishige(1489年-1546年) 第13代当主相良長毎の庶長子で、第14代当主長祗は異母弟。初名を長為(ながため)、通称を左兵衛尉としたが、後に長唯(ながただ)と改名し、近江守を称した。義滋を名乗るのは最晩年であり、相良 長唯の名をより長く用いた。 永正9年(1512年)、父長毎は隠居して嫡子の長祗に家督を譲った。長唯(義滋)は長祗よりも年長であったが、庶子であって宗家を継ぐ立場にはなかった。またもう一人の庶弟瑞堅(長隆)は、同様の理由の他にすでに出家していたという事情もあった。 一方で、第11代当主相良長続の長子頼金の子長定(義滋からは従叔父にあたる)も、嫡流の身でありながら没落の憂き目を見て不満を抱えていた。永正15年(1518年)、隠居後も実権を振るっていた長毎が亡くなり、若年の長祗が親政をするようになると、しばらくして家中の不満が表面化した。 大永4年(1524年)8月24日、長定が奉行犬童長広と謀って人吉城を襲った。長祗を薩摩国出水に放逐して家督を奪い、さらに翌年(1525年)には水俣城で誘殺しせんと謀って、長祗を自害に追い込んでその首を取った。(犬童の乱) 相良氏一族と家臣団では、これを簒奪として非難し、長定には従わぬという者が多くあり、彼らは協議して、長毎の庶長子である長唯を奉じることを決めた。 大永6年(1526年)5月11日、長定非難の急先鋒であった庶弟・瑞堅が、僧兵200名余で人吉城を襲い、長定・長広ら一派を追い落として城を掌握した。瑞堅は俄かに権力欲に駆られて、翌日、還俗して「長隆」と名乗り、自らが家督を相続する意思を示したが、群臣は従わず、3日後に城を出て上村に落ち延び、永里城(あさぎり町上南字永里)に立て籠もった。 人吉の群臣は生かしておけば必ず禍根になると進言し、すぐに追手を差し向けて討伐するように長唯を説得。長唯は、近在の上村城(麓城とも言う。あさぎり町上西字麓)主で、相良氏一族の実力者の上村頼興に先鋒を依頼したが、宗家の権威は弱く、兄弟爭いに巻き込まれるのを嫌ってこれを断ってきた。上村城は永里城の背後にあり、戦略上重要であるため、長唯は重ねて交渉し、「頼興の息子上村籐五郎頼重(後の晴広)を養嗣子にする」と約束して加勢を取り付けた。 5月15日 、長唯は外戚の豊永氏(原田の地頭)の手勢を率いて上村永里に出陣。頼興は(搦め手にあたる)麓諏訪山や権現山に兵を寄せ、長隆を完全に包囲した。翌16日、永里城を強襲して落とした。長隆は金蔵院に逃れ、寺に火を放ち、切腹して果てた。 5月18日、 長唯は人吉城に凱旋して、晴れて家督を相続した。 大永6年(1526年)7月13日、相良家中の混乱を突いて日向国真幸院の北原氏の軍勢が突如として現れて、人吉城を取り囲んだ。北原氏は、長毎に除かれた相良頼泰の血縁で、相良氏とは姻戚関係にあった。 北原勢は南面して、大岩瀬、梅花(かうげ)の森や中川原、対岸の地蔵山宗厳寺にも陣を布いた。上村勢が援軍し、船で城に兵糧を入れようとしたが、北原勢がこれを奪おうとし、城兵も繰り出して中川原合戦が起こった。相良側が勝って無事に兵糧は入れられたが、城兵は数が少なく、長唯は皆越の地頭皆越安芸守貞当を呼び寄せたいと思ったが、包囲されていて連絡する手段がなかった。そこに祐玉寺(人吉市東間上町)の僧・樹薫が志願し、この僧は密書を油紙に包んで川を泳ぎ、矢黒の瀬(下流地点)で上陸して間道を通って皆越に無事書状を届けた。 長唯は、城内より敵に呼び掛け、「明朝、後詰として伊東家より援兵が来るのでその上で一戦交えん」と敢えて告げさせた。皆越貞当は夜に出発すると、長唯に授けられた奇策に従い、高土原(こうどのはる)に篝火を置き、沿道にも点々と篝火を残して行って、100名余りの手勢も各々松明を手にして、実際よりも多数の軍勢が援軍に来たように見せかけた。そして人吉に至ると、皆越勢に「我らは日州伊東家の加勢の者だ。この後も軍兵が参陣するぞ」と呼ばわせ、これを聞いた北原氏の包囲勢は狼狽して潰走した。宗厳寺で僧を殺すなど狼藉を働いたり、城下に残った北原勢は尽く討ち取られ首を斬られた。(大岩瀬合戦) なお、異説であるが『日向国史』によると、伊東祐充は姉の夫である長祗が放逐されたことを知ると、大永6年7月、荒武三省、弓削木工允など家臣を球磨に派遣した。これらは8月7日、犬童長広が逃げ込んだ宮之原城(八代郡氷川町宮原)の攻略と鎮定に貢献したといい、翌年12月26日、(長祗は)都於郡城まで礼に来て、祐充は鎮定の協力に感謝されたのだという。 大永7年(1527年)4月3日、頼興の弟上村長種を八代城主とし、長定に組して謀反を起こした犬童氏の鎮定を始めた。他方で、同月24日、相良刑部大輔が豊福城を放棄して撤退。宇土城主名和武顕の家臣皆吉伊豆守武真がこれを領し、対外勢力との戦いでは一歩後退した。 享禄2年(1529年)3月8日、上村長種は佐敷の犬童一族を攻撃。7月6日には同城を落とし、11月19日には犬童重良の湯浦城(小野嶽城)を落としたので、重良父子は津奈木城へ逃れた。翌年正月5日に津奈木城を攻めて26日に落としたので、相良長定や重良父子はさらに逃亡した。27日、長種は、長祗の首を取った当人である犬童忠匡(匡政)とその息子左近を捕えて、八代に連行して処刑した。3月には、犬童刑部左衛門長広を捕え、人吉に護送して中川原で斬首した。木上城(岩城)主犬童重安(重良の弟、頼安の父)には賜死が命じられ、重良父子も後に捕まって処刑された。 同じ享禄3年(1530年)、嫡男のいなかった長唯は、頼興との約束通り、上村頼重を世子として相良長為と改名させた。 長定は長子の都々松丸を連れて船で筑後国に亡命していたが、長唯は、度々使いを送って許しを与えると甘言して、長定に帰参を勧めた。享禄4年(1531年)、長定はついにこれに騙されて球磨に帰ってきた。長唯は、長祗の首が葬られた法寿寺に長定を泊めて、11月11日、西法路(にし のりみち)に命じてその門外で討たせた。さらに筑後に残った長子の都々松丸も刺客を送って暗殺し、長定の後を追って来た夫人と第二子の都々満丸も、鐘音寺(今の大信寺)で待ち伏せして殺害し、一家皆殺しとした。 天文元年(1532年)6月13日、天草の上津浦治種(鎮貞の祖父)が、天草尚種、志岐重経、長島但馬守、栖本氏、大矢野氏の連合軍に攻められた際、16日、長唯は兵を送って治種を助け、7月20日、連合軍を破って大勝した。 天文2年(1533年)2月20日、大宮司を追われた阿蘇惟長(菊池武経)の息子で、堅志田城主の阿蘇惟前は、相良氏との連携を求めて、政略結婚を要請した。長唯はこれを許して、4月15日、長女を惟前に嫁した。 天文3年(1534年)1月16日から3月10にかけて、長唯は現在の八代市古麓町上り山に鷹峯城(鷹ヶ峰城、古麓城)を築かせ、ここに居を移して、城下町も整備させた。 天文4年(1535年)3月16日、阿蘇惟前と名和武顕の軍が豊福の大野で合戦し、長唯は阿蘇勢に味方して、宇土勢を撃退したので皆吉武真は豊福城を棄てて撤退。同城は再び相良氏の手に落ちた。その後、長唯と名和武顕は互いに契状を交わし、長毎の代に大友義鑑の仲介によって交わされたが、内紛によって反故とされた相良氏と名和氏との和解の約束を再確認した。 同年4月8日、頼興が弟の長種を暗殺した。(この事件に関する長唯の立場や考えは不明) また同じく頼興は、5月18日に使者を遣わして武顕の娘と長為(晴広)の政略結婚をまとめて、翌年12月22日、入輿となった。これによって両家の仲はより強固となった。 これより前、肥後国では守護の菊池氏が内証により没落し、豊後の大友氏が勢力を伸張していた。菊池氏では菊池武経が出奔した後に分家から詫摩武安の子武包を迎えたが、永正17年、大友義鑑は菊池氏家臣団と謀ってこれを放逐して、弟大友重治を入れて「菊池義宗(義武)」としたが、義宗もまた菊池氏家臣団と争って天文3年(5年とする異説もあり)に隈府城を追われて、相良氏に庇護を申し出た。以前から長唯と義宗、隈本城主鹿子木三河守親貞および肥前松浦氏とは連携しており、翌年12月、高来郡より八代を訪れた義宗は、長唯と鷹峯城で会見。同盟を強固とし、高来に帰って後に義宗は義武と改名する。 八代では長唯・武顕・義武の三者はしばしば会見するなどして友好的な関係が維持された。特に義武は相良氏との親交を密にした。 天文7年(1538年)4月13日、薩摩守護島津貴久が佐敷に来て、長唯・為清親子の饗応を受けた。8月24日、義武は世子の鬼菊丸の元服を八代白木社で行い、菊池則治とした。 天文8年(1539年)3月30日、予てより建造中の渡唐船・市木丸が完成したので、八代徳淵(徳淵津)で進水式を行った。徳淵は長唯の時代から相良氏の国内・海外貿易の拠点として発展し、この地域で最大の貿易港となった。長唯は、幕府の対明貿易を一手に任された周防の守護大名大内義隆と友誼を結び、船団護衛などの名目を取り付けており、琉球やその他とも交易をしていたことが伺える。 この頃、大友氏の肥後国への影響力の拡大は年々強まっていたので、同年12月22日、これに対抗するために相良氏・阿蘇氏・名和氏は義武を奉じて大友と戦う旨の盟約を締結した。翌年4月に義武が隈本・隈庄を制圧して木山城を攻めると、大友義鑑は驚いて、偽計によって相良氏と名和氏を戦わせようとしたが、盟約によって通じていた両者はこれを見抜いて動かなかった。 天文10年(1541年)に宇土で兵乱が起こると、長唯は兵を出して鎮定に協力したが、天文11年6月15日、(理由は不明ながら)長為(為清)夫人が破鏡不縁を申し出て宇土に帰ってしまったため、相良氏と名和氏と再び不和となり、天文12年1月26日、名和勢が小川に侵攻。相良勢も兵を出して交戦して、高山でこれを撃退した。 第12代当主為続の弟頼泰が長享元年(1487年)に反乱を起こした際に、長泰の弟で、幼年故に助命された松千代丸(長弘)の子の治頼は、長じて長唯に仕えて、八代岡の地頭となっていたが、これが天文14年(1545年)に犬童頼安や宮原玄蕃らと共謀して謀反を起こした。治頼は人吉を目指したが、途中で妨害を受けて真幸院に向い、それから多良木の鍋城に入ろうとしたが、拒否されて通報された。長唯は追討を命じ、耳取原で合戦して撃破。治頼は日向に逃れ、ついで豊後に落ち延び、同地で亡くなった。 同じく天文14年12月2日、大内氏の仲介により勅使が船で八代に来航し、長唯に従五位下・宮内大輔を、為清に従五位下・右兵衛佐に叙任した。同時にこの使いは将軍足利義晴から一字拝領の偏諱を許された旨を知らせ、長唯は「義」の字を与えられて名を「義滋」と改め、為清は「晴」の字を与えられて名を「晴広」と改めた。 天文15年(1546年)5月1日、為続、長毎以来の式目を改め、義滋は新たに21ヶ条式目を制定した。これは同年8月3日に家督を譲られた晴広によって引き継がれ、彼の名をもって知られる。(相良氏法度) 隠居から間もなくして義滋は病によって亡くなった。享年58。法名は蓮乗院了徳永幸。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E7%BE%A9%E6%BB%8B
祁答院良重 Kedouin Yoshishige(1526年-1566年) 桓武平氏秩父党の一派である渋谷氏の一族(血脈としては紀姓大井氏)。北薩摩地方から大隅地方にかけ勢力を拡げ、同じ渋谷一族である東郷氏・入来院氏らと連携し、薩摩国守護である島津氏に時に従い、時に対立を続けた国人。 天文7年(1538年) 父・祁答院重武の死により家督相続した。 天文23年(1554年) 同盟関係にあった蒲生氏が、蒲生・祁答院両氏と敵対していた島津氏に与する肝付氏の加治木城を攻撃。これに対し、島津貴久は蒲生氏の攻撃の矛先を逸らそうと同年9月12日、蒲生方の岩剣城に兵を進めた。これを迎え撃ったのが、祁答院良重である。岩剣城は三方をそそり立った崖に囲まれた山上に有る天然の要害であり、その険阻な様子をみた島津忠良(日新斎)は、島津義久ら三兄弟のうちの誰かが「死なねば落ちまい」と語ったと伝えられている。良重は奮戦したが、岩剣城が包囲されたことを知った蒲生勢は、加治木城の包囲を解いて救援に向かうも、岩剣城北部の平松(現鹿児島県姶良市)で島津勢と激突し敗走。また、この戦いで良重の嫡子・重経も戦死した。援軍の見込みの無くなった良重はじめ城兵は、夜陰に紛れて落ち延び、同年10月3日頃、岩剣城は島津軍の手に落ちた。 その後、良重は帖佐城・平安城に拠り、島津貴久の侵攻に抵抗を続けた。しかし、天文24年(1555年)、島津義弘、喜入季久らの猛攻撃を受け、さすがの良重も支えきれず、祁答院へと退去する至った。その後も、良重は蒲生氏の支援を得て、帖佐奪還を試みたが、義弘軍に迎撃され大敗。弘治3年(1557年)には、その蒲生氏も本拠を島津軍に包囲され、当主・蒲生範清は、良重の取り成しを入れて島津貴久に降伏する事となった。その時、良重は蒲生範清・蒲生為清父子を祁答院の松尾城に迎えて保護している。 こうして、良重は帖佐の本城を失い、次いで蒲生城の救援に失敗して最大の同盟者を失い、最盛期程の勢いは失ったが、姶良地方より撤退して虎居城に拠り、入来院氏・東郷氏らの渋谷一族である諸勢力と結んで一定の力は保っていた。だが、永禄9年(1566年)の正月に、妻・虎姫によって刺殺された。法名は「樹蔭得鉄大禅定門」。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%81%E7%AD%94%E9%99%A2%E8%89%AF%E9%87%8D
種子島恵時 Tanegashima Satotoki(1503年-1567年) 父:種子島忠時、母:蒲生宣清の女、妻島津忠興の女;諡号意釣,戒名蓮住院日善大居士。 恵時が家督を継承する頃、薩摩国は島津勝久とその養子である島津貴久との間で分裂しており、この抗争で恵時は貴久方に加勢し、天文7年(1538年)の加世田城攻めや天文8年(1539年)の市来城攻めなどで武功を大いに挙げている。 しかし、南北朝時代より種子島の実権をめぐって争っていた禰寝氏との対立がこの頃激化。弟である種子島時述との対立を禰寝氏に付け込まれ禰寝清年(もしくは禰寝重長)との戦いに敗れ、一時的に屋久島に逃れることになった。この争いは天文13年(1543年)に恵時が禰寝氏を攻め種子島・屋久島から駆逐することで一時的に決着をみた。 これと前後して天文13年(1543年)に鉄砲が種子島に伝来。『鉄炮記』などこの事項を示す文書には主に子の時尭が登場していることから、この前後に時尭に家督を譲っていたと考えられている。 永禄10年(1567年)3月14日に死去。享年65。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%AE%E5%AD%90%E5%B3%B6%E6%81%B5%E6%99%82
種子島時尭 Tanegashima Tokitaka(1528年-1579年) 父:種子島恵時、母:島津忠興の女、正室:にし(島津忠良の女)、側室:禰寝尊重の女、黒木道統の女;幼名犬楠丸,改名直時、時堯、法号可釣,別名左兵衛尉、左近衛将監。 『鉄炮記』によると、天文12年(1543年)、ポルトガル商人が乗った明船が種子島に漂着した。好奇心旺盛な数え年16歳の時堯は、この時鉄炮の威力を見て2挺を購入。鍛冶職人八板金兵衛に命じて、鉄炮を分解させて調べさせ、鉄炮製造に成功した(もう一挺は島津氏を通して、室町幕府将軍足利義晴に献上)。これにちなんで、鉄炮は種子島銃とも呼ばれ、戦国時代に大きな影響を及ぼす事になった。なお文書には、この時のやり取りで主に時堯の名が見られることから、これ以前に父・恵時から実質的な家督継承が行われていたようである。 また時堯は、島津忠良の娘を娶り、弘治元年(1555年)には島津貴久に従い大隅国攻めに参加した。正室との間には2人の娘を儲けた。特に次女の妙蓮夫人(円信院殿)は、貴久の嫡男・義久に後妻として嫁いだ。その一方で、島津氏と争っていた禰寝氏からも姫を密かに迎えて側室にし、男子が生まれたのをひた隠しにしていたが、これを知り怒った時堯夫人は、娘2人を連れて種子島を出て鹿児島に帰ってしまったという(その後、夫人は肝付兼盛に再嫁する)。この禰寝氏の娘との間に生まれたのが長男の時次で、次男の久時は黒木氏の娘との間に生まれた子である。 永禄3年(1560年)に家督を長男の時次に譲るが、永禄5年(1562年)に7歳で早世したため家督に復した。後に次男の久時が家督を継いだ。 天正7年(1579年)、死去。享年52,戒名法惟院日勝大居士。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%AE%E5%AD%90%E5%B3%B6%E6%99%82%E5%B0%AD
肝付兼演 Kimotsuki Kanehiro(1498年-1552年) 肝付氏12代兼忠の三男兼光を祖とする庶流で、島津勝久の家老を務めた。大永6年(1526年)11月に勝久が島津貴久に家督を譲った際に、兼演は越前守に任じられ、そのまま貴久に仕えた。 天文3年(1534年)、貴久の実父島津日新斎に辺川・加治木・木ノ内・中ノ州などの領地を与えられてより、それまでの本貫地であった大隅国溝辺から加治木に拠点を移した(大永7年(1527年)説あり)。 天文6年(1537年)、兼演は薩州家当主島津実久の調略に応じ、一転して貴久に敵対する。これに貴久は、天文11年(1542年)に北原氏庶流の北原兼孝の助勢を得て加治木に攻め込むが、兼演はこれを退却せしめた。貴久は次に、天文18年(1549年)5月に伊集院忠朗・樺山善久・北郷忠相らの軍勢を遣わした。これに蒲生氏・入来院氏・祁答院氏・東郷氏が兼演の助勢に駆けつけ対陣するも、11月に伊集院忠朗の子忠倉の火計により陣が乱され敗退、兼演は北郷氏を通じて貴久に降伏した。しかし、翌年に加治木の領有は安堵される。 天文21年に死去。享年55。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%9D%E4%BB%98%E5%85%BC%E6%BC%94
肝付兼盛 Kimotsuki Kanemori(1533年-1578年) 肝付氏本宗家が島津氏に対抗したのに反し、兼盛は父・肝付兼演とともに島津貴久に従い、天文23年(1554年)の岩剣城攻めに参加し4人を討ち取る功を上げた。 翌24年(1555年)にも蒲生氏を攻め、蒲生氏を支援した祁答院氏の領する帖佐の山田へ加治木の長浜衆を率いて進軍、大将の徳永与一左衛門・安田杢之丞ら23人を討ち取り、利を失った敵は帖佐城ならび山田城を棄てて本貫地である祁答院へと逃散した。姶良地方にまで勢力を伸ばしていた祁答院氏をその本貫地のみに封じ込めた功は大きく、貴久より西別府(現・鹿児島市西別府町)と有川(現・霧島市)の地を与えられた。永禄2年(1559年)には島津氏と盟書を交わす。 永禄9年(1566年)に伊東氏の三ツ山城攻め、翌年の菱刈攻めなどにも軍功をあげる。同11年(1568年)には島津忠良から軍功を賞された4人の中の1人となった。また翌年、新納忠元と共に大口城を攻めこれを落城せしめると島津義久から感状と曽於郡上三台堂を与えられた。 その後も大隅国を統一すべく、肝付宗家・伊地知氏・禰寝氏との合戦や、天正4年(1576年)の日向高原城攻めなど数々の合戦に参加したが、 天正6年に没する。享年46。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%9D%E4%BB%98%E5%85%BC%E7%9B%9B
肝付兼續 Kimotsuki Kanetsugu(1511年-1566年) 肝付兼興的長子、母為島津忠朝姪女、正室為島津忠良之女.御南;別名三郎,法名好善院月浦省釣。 肝付氏本是乃弘文天皇皇子余那足的後裔,得賜「伴」姓,以對鶴食若松為家紋。七世孫伴兼行於安和二年被任命為薩摩國惣追捕使,其孫伴兼貞被御冷泉天皇策命為大隈肝付郡弁濟使並加封薩、隅兩國,之後又迎娶島津開發領主太宰大監平季基之女繼任島津院的莊官領有三俁院、島津院、北鄉、中鄉、南中鄉,定居於肝付郡,在長子兼俊繼承肝付本家後於長元九年始稱肝付氏。在室町時代被改為島津忠久的家臣,進入戰國時代後肝付氏為確立對大隅的支配權與島津氏時戰時和。 在兼續之父兼興擔任家督時曾於大永四年(1524年)打下島津忠吉鎮守的串良鶴龜城以逐步擴大領地,至天文二年(1533年)兼興逝世,兼續遂繼為當主。兼續又重新與島津氏交好,迎入島津忠良長女阿南為正室,同時將自己的妹妹嫁給忠良之子島津貴久藉由締結姻親強化兩家的關係。另一方面,兼續也開始著手平定大隅,頻頻侵攻大姶良的禰寢氏逼其從服,於天文七年(1538年)壓迫禰寢清年讓出高隈城。並且修繕領內的三十九所城塞、鋪設本據高山城所處的國見山到內之浦的道路以促進領內海運的興盛。 當時島津氏尚未一統,除宗家以外另有薩州家島津實久及兼續岳父伊作、相州家的島津忠良兩家相爭,由於忠良嫡男島津貴久順利成為無嗣的宗家當主島津勝久的養子,引起島津實久的危機意識出兵攻打島津忠良並將勝久流放至豐後,不願看到島津家重歸合一的兼續跟禰寢清年、本田薰親、樺山幸久等扮起和事佬的角色在忠良方本城伊作城時奔走欲促成和談,但是交涉失敗。然而島津忠良也已將戰局逆轉,反倒制壓實久。天文八年(1539年),兼續基於跟島津忠良的盟約出兵協助在加世田、市來之戰中大破實久,薩摩島津氏終合於島津忠良手中,兼續也趁機完成大隈半島北部的領國化並於天文十五年(1546年)降服蓬原城主救仁鄉賴世擴大領地。 同時,島津貴久、島津義久父子弘治三年(1557年)成功擊破蒲生氏後,領土擴張至肝付家西鄰,令兼續大為不安,因此讓長男良兼與日向大名伊東義祐之女成婚締盟。永祿元年(1558年),兼續聯合伊東義祐攻略位於日向飫肥的島津庶家島津忠親,兼續負責出兵都城攻打北鄉時久,翌年,兼續轉向侵奪島津忠親的支城松尾城。 永祿四年(1561年),肝付氏和島津氏正式撕破臉,據說是因為年初的宴席之中島津氏重臣伊集院忠朗不斷邀勸兼續的家臣藥丸兼將吃下鶴羹,而鶴正是肝付家的家紋,因此雙方出現激烈的口角衝突,同年四月,兼續便以此為理由宣稱島津氏不尊重肝付家,兩家就此決裂,與夫人阿南離婚把她送回島津家。之後兼續外結日向伊東家為奧援、內引伊地知重興、禰寢重長兩家相助興兵攻打由島津治左衛門鎮守的迴城。 島津貴久聞訊派出其弟忠將、嫡男島津義久領兵一千往援,島津忠將自領兩百兵擔當先鋒,兼續得知島津軍來援的消息後決定於竹原山伏擊島津忠將,島津忠將於馬立布陣,雙方在竹原山遭遇,島津忠將部隊在肝付軍的偷襲下崩潰,忠將本人連同五十名家臣戰死,義久無奈下只好收攏敗兵撤退。而兼續也在竹原山之戰中獲得勝利後一鼓作氣讓一族中的老將叔祖父肝付兼名在拜領佩刀進行夜襲一舉奪下迴城。並於翌五年兼續、肝付竹友攻打島津家的志布志城,城主島津忠朝敗走,志布志郡落入兼續袋中,並與伊東義祐一同出兵包圍飫肥城,其石高總計十二萬石,建立肝付氏的全盛時期。 此後肝付氏和島津氏年年互動干戈,島津貴久於永祿七年(1564年)派長子島津義久出兵櫻島、兼續則在永祿九年(1566年)猛攻島津義久的日向櫛間院。 同年,兼續隱居將家督之位交給嫡子肝付良兼,而島津氏也於此時大舉反攻,肝付家居城高山城亦告陷落,兼續在隱居城志布志城附近自刃,年五十六歲。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/66958047
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