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三刀屋久扶 Mitoya Hisasuke(生年不詳—1591年) 有一說三刀屋本姓諏訪部,是清和源氏滿快流信濃源氏的一族。諏訪部幸扶的子孫擔任出雲國飯石郡三刀屋鄉的地頭,開始以「三刀屋」為姓。三刀屋氏到出雲國後先後仕奉過鹽冶氏、山名氏、京極氏,應仁之亂時仕奉出雲國守護京極持清。 享祿元年(1528年)從父親賴扶那裡繼承家督。在尼子氏下擔任總侍眾,俸祿是三刀屋領地的6785石。 天文九年(1540年)隨主君尼子晴久進攻安藝國毛利元就的居城吉田郡山城,天文十年(1541年)敗給大內氏家臣陶隆房的援軍,於是晴久返回出雲國。在此次敗北後三刀屋氏合肉道氏(肉道隆慶)、三澤氏再度倒向大內氏,但天文十二年(1543年)大內義隆遠征出雲,還未攻下月山富田城時,久扶和其他出雲國人眾又倒向尼子氏,義隆因此戰敗。此後,晴久加強對出雲國內家臣的統制,將偏諱廣賜給家臣,而久扶也在弘治三年(1557年)獲得「久」字的偏諱。 久扶回到尼子陣營過了一段時間,永祿元年(1558年)的忍原崩,尼子氏大勝毛利氏,但在永祿五年(1562年)山吹城主本城常光倒向毛利氏,久扶和三澤為清及赤穴盛清也同樣投身到毛氏。而三刀屋城成為毛利氏重要的軍事據點,在久扶的防守下於永祿六年(1563年)在地王卡擊退來犯的立原久綱。之後的白鹿城之戰、第二次月山富田城之戰皆有參與,和三澤為清、米原綱寬從屬小早川隆景,擔任進攻月山富田城菅谷口的先鋒。終於,月山富田城內的尼子氏向毛利氏投降。 永祿十二年(1569年)山中幸盛以復興尼子氏為名舉兵而起,許多尼子舊臣回到復興軍的旗下,但尼子的舊臣們懷疑久扶的忠誠因而拒絕,久扶只好繼續留在毛利方跟著吉川元春攻打私部城等處,並於天正六年(1578年)的上月城之戰將尼子復興軍覆滅。久扶向毛利輝元交出誓文宣示忠誠,也需跟隨毛利家出征,並擁有獨立的權限。 天正十四年(1586年)跟著毛利氏進攻小倉城。而在肥後國發生一揆時,和子孝扶一同參與鎮壓。但是在天正十六年(1588年)跟隨主君毛利輝元上洛之時和德川家康會面,此舉受到輝元的猜疑而被沒收領地並流放。 之後前往京都,天正十九年(1591年)在四日市村死去。 註:忍原崩是尼子晴久和毛利元就爭奪石見銀山的戰爭,戰後晴久將山吹城交給本城常光;晴久死後其子尼子義久單方面和毛利氏議和,令反毛利的國人眾動搖,後毛利氏再度包圍山吹城,投降後的本城常光被元就誅殺。 (點擊查看)附上一張從三刀屋城跡眺望的照片,三刀屋川堤上種了兩排櫻花樹,附近的木次斐伊川堤防是著名的賞櫻景點,從木次走到三刀屋大約40分鐘,不過三刀屋城跡什麼都沒有。這裡有稀有的櫻花品種"御衣黃",花期大約晚染井吉野櫻兩周。 作者 秋霜烈日 譯文出處 https://sepkalily41.blogspot.com/2018/07/blog-post_22.html 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%88%80%E5%B1%8B%E4%B9%85%E6%89%B6
三浦貞広 Miura Sadahiro(生年不詳-没年不詳) 三浦貞久の嫡子。三浦貞勝のおそらくは兄。道祖(才)五郎、次郎。能登守と称したとも考えられる。 天文17年(1548年)9月16日の父・貞久の病死を受けて家督を相続。以降惣領として出雲尼子氏のもとにあったが、後に帰国。牧尚春等と共に、三村家親によって没落した三浦氏の再興を目指した。そして永禄9年(1566年)2月、三村家親が宇喜多直家に美作国籾村の興善寺で暗殺されたのに乗じて所領を奪回した。 しかし永禄11年(1568年)2月19日、毛利元就に攻められて叔父三浦貞盛が死去、居城である高田城も落城し所領を追われた。元亀元年(1570年)、山中幸盛の支援を得て所領を奪回した。 天正2年(1574年)に浦上宗景と宇喜多直家が対立した際には浦上氏に与同し、備中国の三村元親を同盟に引き入れた。このことから宇喜多氏と交戦、更に翌3年(1575年)には備中国を平定した毛利氏の侵攻を受けるに至って、同年9月、宇喜多直家の周旋により降伏した(天神山城の戦い)。 以降貞広は天正10年(1582年)に備中高松合戦に参陣、その後播磨国林田で病死したとされる(「高田城主次第」)。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E8%B2%9E%E5%BA%83
三百八十五位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豐臣秀吉、齋藤道三、德川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北條氏康、武田信玄、山縣昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼續、柿崎景家、本願寺顯如、今川義元、淺井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黑田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉繼、島清興、蒲生氏鄉、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝賴、足利義輝、尼子晴久、津輕為信、榊原康政、伊達成實、山本晴幸、真田幸隆、太原雪齋、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季廣、石川高信、丸目長惠、上泉信綱、渡邊守綱、里見義堯、蘆名盛氏、瀧川一益、佐佐成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、豐臣秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、齋藤義龍、稻葉良通、石川數正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戶澤盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北條氏政、可兒吉長、北條綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、內藤昌豐、真田信幸、今川氏真、柳生宗嚴、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安國寺惠瓊、黑田長政、宇喜多秀家、長宗我部國親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覺兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定滿、齋藤朝信、北條幻庵、本庄繁長、下間賴廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、穎娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀨種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政德、村上國清、平塚為廣、朝倉景健、安田景元、北條氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政廣、兒玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黑田職隆、甘粕景繼、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七條兼仲、伊東義祐、瀧川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路賴綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戶隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡邊了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顯、本城常光、江戶忠通、肝付兼續、中條藤資、南部晴政、分部光嘉、多田滿賴、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑實、齋藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北條氏邦、犬童賴安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為賴、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮廣綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顯綱、平田舜範、正木賴忠、關口氏廣、別所安治、伊達晴宗、龜井茲矩、後藤賢豐、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北條氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮國綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北鄉時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠鄰、城井正房、大熊朝秀、氏家行廣、池田知正、土井利勝、德山則秀、平田範重、穴山信君、一條兼定、堀秀政、百百安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、蘆名義廣、三善一守、板部岡江雪齋、岡本顯逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、淺野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重經、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、姉小路良賴、和田惟政、新發田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大內定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長增、安東實季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間賴照、酒井家次、結城朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪賴忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色滿信、真壁氏幹、本庄實乃、大田原晴清、中村春續、朝比奈信置、安藤守就、山名豐國、鵜殿長持、北條氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北條景廣、富田隆實、木下昌直、岡部元信、圓城寺信胤、遠藤直經、岡本禪哲、安倍元真、大寶寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫廣門、春日元忠、戶蒔義廣、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、木下秀吉、斎藤道三、松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田晴信、飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、長尾景虎、長尾顕景、樋口兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、毛利元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友義鎮、龍造寺胤信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義秋、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、戸次鑑連、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、久慈為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、後藤基次、山中幸盛、陶隆房、吉弘統虎、吉弘鎮種、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、石川信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、木下秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、武田盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、三木自綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、細野光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新斎、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠隣、城井正房、大熊朝秀、氏家行広、池田知正、土井利勝、徳山則秀、平田範重、穴山信君、一条兼定、堀秀政、百々安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、佐竹義広、三善一守、板部岡江雪斎、岡本顕逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、浅野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重経、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、三木嗣頼、和田惟政、新発田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大内定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長増、安東実季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間頼照、酒井家次、宇都宮朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪頼忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色満信、真壁氏幹、本庄実乃、大田原晴清、中村春続、朝比奈信置、安藤守就、山名豊国、鵜殿長持
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
吉岡長増 Yoshioka Nagamasu(生年不詳-1573年?) 大友親秀の子・頼宗が野津氏を称し、その子・親次が吉岡氏を称したとされる。親次の弟・親重は佐土原氏を称し、長増と同時期の頃には佐土原鑑親の名も見られる。 とされているが、この系図は後世の吉岡氏が作り直したもので、当時の本物の系図は焼失したらしく、吉岡鑑興のところを見ると、『永禄3年に亡くなった』(実際は天正6年に亡くなる)、『後は吉岡鑑盈が継いだ』(存在が確認できない)、吉岡長増が『鑑忠』と名乗っていた(天文16年にも長増と名乗っているのが確認される)など誤りが多く、吉岡長増の父親は吉岡重孝になっているが本当かわからず、長増以前の人物に関してははっきりしない点が多い。信憑性の高い史料と見られている「大友家婚姻録」には、長増の子に林式部(吉岡鑑興の弟)という人がいるのが書かれている。 長増に関しても初期の活動については不明で、生没年に関しても確たる証拠がないが、大友義長(義鑑の父、1478-1518)から偏諱(「長」の字)を与えられていることを考えれば、少なくとも義長存命中には誕生し、元服を済ませているものと推定される。活動が見られるようになるのは、義長の子・義鑑の代からであり、以下で後述する。 加判衆に就任し、少弐氏の援護のため大内氏と戦った記録がある。 天文元年(1532年)に陶興房が少弐氏を滅ぼさんとして肥前に侵攻。あらかじめ筑後の領主や肥後の菊池義武、相良氏、筑前の秋月氏、肥前の有馬氏を味方につけての出陣であった。これに対し大友は大内氏の勢力拡大を防ぐため少弐氏援護に動いて援軍を送った。長増は後陣の大将として4千騎を率いて出陣。豊前、次に筑後そして筑前を転戦した。筑後では鏡城を落として陶軍の輸送路を遮断した。 翌天文2年(1533年)、大内義隆の命令を受けた豊前の佐田朝景を筆頭とする宇佐郡衆らが豊後に侵攻。長増が大将となってこれを撃退した。 義鑑には冷遇されていたのか、天文3年(1534年)に解任されて以降、目立った活動はない。また、義鑑から偏諱を賜って鑑忠(あきただ)に改名したとされるが、引き続き、長増で統一する。 長増が宿老として復帰を果たすのは、二階崩れの変が勃発し義鎮が家督を継承した天文19年(1550年)のことである。以後は大友三老の一人として臼杵鑑速や吉弘鑑理と共に重用された。 長増は豊前、筑前、肥前方分として三ヶ国の政務を担当し、また日向の土持氏も管轄した。菊池義武の反乱には佐伯惟教らの苦戦のため、志賀親守と共に出陣。小原鑑元の謀反鎮定や秋月文種討伐、門司合戦に参加。龍造寺隆信の討伐には先だって戸次鑑連と出陣。高橋鑑種の討伐には斉藤鎮実と共に城を包囲するなど主たる戦には大半参加した。この高橋攻めの際、一緒にいた立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理は秋月種実の討伐に向かうが緒戦に勝利するも夜襲を受け敗北、筑後に逃れた。事実上の総大将である宗歓は高橋攻めに残っていたが、新たに出陣を命じた田原親宏に宗麟は「吉岡宗歓に油断なく(がんばるよう)伝えろ」と命令している。(永禄10年10月晦日大友宗麟書状より)急遽宗歓を頼りにする宗麟の様子が見られる。 弘治3年(1557年)より、滅亡した大内氏に代わって北九州に進出するようになった毛利氏との戦いの責任者となり、数々の功績を挙げた。中でも長増が本領を発揮したのは、永禄12年(1569年)に毛利軍が大友領に侵攻して来たときであった。その頃、大友軍は毛利軍の猛攻に押され、筑前の大半を奪われて滅亡の危機に立たされていた。これに対し長増は、毛利の主力軍が筑前に集結しているのを見て尼子の遺臣山中幸盛に弾薬、鉄砲資金を援助して尼子の侵攻を手助けし、毛利に下っていた尼子旧臣の米原綱寛に山中幸盛に合力するよう促し成功。長増は大内輝弘を送るにあたり、周辺海域を支配している村上水軍の村上武吉を筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、この寝返りを毛利元就の策略と疑い、8月9日に大友水軍の若林鎮興に筑前の毛利軍に送る食料補給基地(周防にある)を襲わせて村上の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをして、鎮興の攻撃は成功した。大内旧臣たちに大内輝弘に協力するよう調略を開始し、さらに豊前小倉城を攻めると流言を流してわざと毛利氏につかませ、10月9日に田原親宏に小倉城を攻撃させて吉川元春、小早川隆景の注意を釘付けにし、同日、輝弘に兵を与えて筑前に出兵中の隙を突いて毛利領の周防に侵攻させた。10月10日、大内輝弘、周防の秋穂浦に上陸。毛利氏の強みは村上水軍に守られ、大友が周防、長門を攻撃できないことであった。これを突破したことは長門に本陣を構える元就を驚愕させる。この策は見事に当たり、兵がいない周防は輝弘によって次々と侵食されてゆき、驚いた元就は主力軍を全て筑前から撤退させた。こうして、大友氏は滅亡の危機を免れたのである(大内輝弘の乱)。宗歓は一度、引退を口にしており、親しい関係である筑後の田尻親種に対し「私は極めて年を取っており、(後は戸次鑑連たちに任せて)安心して隠居する決意をしていたのだが、今鑑連、鑑速、鑑理の三人が出陣中なので、筑後の領主たち、鑑連たちの日夜の苦労、迷惑を察しなければなりません」(永禄11年から12年ごろの)9月6日付け吉岡宗歓書状より) しかし宗歓は元亀3年の11月まで家老職に居り、どうも引き止められたらしい。 大友の政治をよく担当した吉岡長増、臼杵鑑速を豊州二老という。なお豊州三老は政務と軍事の二つに分かれていて、小早川隆景等のいう豊州三老(または豊後三老)は軍事面の立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理を指している。 天文19年の後半、菊池義武の討伐が済むと大友は肥後に検使をおくり長増は他の家老と共に肥後経営を行う。 永禄2年(1559年)の9月、今度は豊前、筑前に検使を派遣していた。長増は豊前方分としては宇佐八幡を管轄していたが今度も領主たちから訴訟があるとみて宇佐八幡宮の政務を代役として吉弘鑑理を派遣していた。このころ多忙であったようでその時の長増の書状に鑑理へ「鑑理に頼んで悪いと思うが私の疲労を察してほしい」と記している。また「宇佐宮側に異存のない様によく相談する事が大事であり、社役以下少しも怠たらないよう仕事をさせなさい。鑑理は機会を見て彼らに助言することが第一です。」と念を押して助言している。同年8月、長増は田北鑑生、吉弘鑑理と共に横岳資誠と小田鎮光(小田政光の嫡男)との領地境界線を裁決し仲直りさせ、9月には戦いを続ける龍造寺隆信と神代勝利を和睦させた。 永禄4年(1561年)、奈多鑑基は娘が大友義鎮の正妻になったことで寺社奉行に取り立てられたため、長増は宇佐八幡の政務から身を引いた。しかし、宇佐八幡の分社、八幡奈多宮の神官であった鑑基は義鎮を後ろ盾にして、本社宇佐八幡の領地を横領、権威の一部を剥奪、さらに前大宮司の家を兵を送って破壊するなど横暴を極める。たまらず宇佐宮の宮司たちは同年9月に長増、臼杵鑑速の二老に訴えでた。驚いた長増は謝罪し、前大宮司のもとに警備兵を送りさらに修繕などを約束した。鑑基には鑑速らと共にこれまでの行為を叱責し、横領などを白紙にする意見をし、実行した。この同年8月頃、島津家老の伊集院忠倉の申し出を受け、豊州二老は日向の伊東義祐と日向の島津家(豊州島津)に和睦命令をだし成立させる。島津と大友の仲介となった肥後の阿蘇惟将の家臣、隈庄親昌は書状で「肥後方分の志賀親守はいうに及ばず、吉岡長増、臼杵鑑速にまで私が仲良くさせてもらっているので、(二人を通じて)義鎮公のお耳に入り、大友が動いてくれたのであろうか」と記し、この頃政治において二人の存在感が際立っているのがわかる。 永禄5年(1562年)の5月、大友義鎮(宗麟)と共に出家、吉岡宗歓と号し、筆頭家老に就任、ならびに対毛利戦総責任者となる。 永禄7年(1564年)7月、幕府の仲介をもって毛利と大友は正式に和睦。だが毛利元就は無視して豊前、筑前の領主らに調略を続けたため宗歓と鑑速は幕府に訴え出た。このころから元就に正攻法は通じないと知った宗歓は策略を巡らす。二度目の龍造寺隆信の討伐では宗麟は痺れを切らし、大友親貞を派兵させたが今山の戦いで大敗(この時、肥後の城、隈部・筑後の五条の将らが捕まった)。主力はいまだ健在であったが、大友氏側から和睦を提案。宗歓は戸次鑑連、臼杵鑑速をつれて佐賀城に入り、龍造寺隆信側と対面し和睦を成立させ、人質の解放と龍造寺が肥前の領主たちから奪った領地の返還等について話合われた。また島津義久が相良義陽の天草を攻めるという噂が立ち、義陽は大友に相談。宗歓、鑑速が対応している。かって豊州二老は他の家老と島津貴久に友好の使者を送っており、永禄5年以降には宗歓、鑑速は薩摩に入り、島津貴久と謁見し伊東義祐の対応をめぐって協議した経験を持っており、島津側にも名前が知られている。またこの2人が島津氏との交渉、対応の担当官でもある。特に宗歓は宗麟時代に和睦交渉をことごとく担当していることが当時の書状で分かっている。さらに領内安定のため、永禄8年に田原親宏の長女を秋月種実に、元亀元年に臼杵鑑速の娘を宗像氏貞に、永禄10年から元亀2年に斎藤鎮実の娘を筑紫広門にそれぞれ嫁がせ懐柔策をとった。 天正元年(1573年)ごろに没したと推測されている。長増はただ一人、宗麟の祖父大友義長の時に元服した人物であり、吉岡家で初めて加判衆になったといわれ、大友義鑑は遺言状で吉岡長増を重職に就けるよう指名し、新当主義鎮は重職の最高職、加判衆に就任させた。一度辞めたものが復帰することも実に異例であった。永禄年間には筆頭家老になり、臼杵鑑速とともに政治の中心人物として宗麟時代の最長老であった。立花道雪は耳川の合戦の大敗後、宗麟、家臣団に手紙を送り「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と書き送っている。享年は70代半ばから80ほどと思われる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B2%A1%E9%95%B7%E5%A2%97
吉川元春 Kikkawa Motoharu(1530年-1586年) 毛利元就的次子、母為吉川國經之女.妙玖、養父吉川興經、正室為熊谷信直之女.新庄局;幼名少輔次郎,受兄毛利隆元偏諱「元」字,名為元春,繼承吉川氏,名為吉川元春,法名浪院海翁正。 年幼時期 天文九年(1540年),在出雲國的尼子晴久侵攻之際,無視父親元就反對(理由是未元服)而出陣,此戰成為初陣(吉田郡山城之戰)。 天文十二年(1543年)8月,接受哥哥毛利隆元的偏諱(「元」字)而改名為元春(因為「元」字是毛利氏的通字,所以不是隆元所賜的可能性相當高)。天文十六年(1547年),以自己的意願而與熊谷信直的女兒新庄局結婚。 繼承吉川家 在天文十六年(1547年)7月成為母方的從兄吉川興經的養子,這是與興經不和的叔父吉川經世為首的吉川家臣團勸告,於是興經逼不得已才答應。條件是對興經的生命作出保証,於是興經的兒子千法師成為元春的養子,約定在成長後令千法師繼承家督。天文十九年(1550年),元就強制令興經隱居,於是元春繼任家督並成為吉川氏的當主。而後熊谷信直等人受命殺害興經和兒子千法師,於是毛利家成功奪取名門吉川家。 此後元春進入安藝大朝的小倉山城,在要地築起日野山城並把據點移動到該城。與弟弟小早川隆景一同被稱為「毛利的兩川」(毛利の兩川),負責山陰地方的政治和軍事。 與大內、尼子爭戰 在弘治元年(1555年)的嚴島之戰中率領吉川軍幫助小早川軍,擊滅義兄弟陶晴賢率領的大內軍。在弘治二年(1556年)開始遠征石見國,數度擊退尼子晴久(忍原崩、降露阪之戰)。弘治三年(1557年),在父親元就隱居後,與小早川隆景一同支持毛利家並成為家中核心人物。 在永祿八年(1565年)的第二次月山富田城之戰中以主力身份參戰並立下極大武功,於永祿九年(1566年)降伏尼子義久。 從永祿十二年(1569年)開始與希望再興尼子氏的尼子家舊臣山中幸盛等人率領的尼子軍戰鬥。在布部山之戰中擊破尼子軍,同年,與毛利家敵對的大友宗麟之下寄身的大內氏一族大內輝弘侵攻周防國。對此,被授與軍權的元春在大友家的援軍還未完全集結時,一口氣進攻輝弘並令其自殺(大內輝弘之亂)。在元龜二年(1571年)使用謀略攻擊尼子勝久堅守的末石城並捕獲山中幸盛,令勝久敗走(此後,幸盛用計成功逃走)。 與織田信長爭戰 元龜二年(1571年),父親元就死去後,與弟弟小早川隆景一同負責輔佐姪兒毛利輝元(毛利隆元的嫡男)。 被元春擊敗的尼子勝久等人投靠在中央擴大勢力的織田信長,於是勝久等人在得到信長援助之下持續抵抗。還有在天正四年(1576年),於最後的室町幕府將軍足利義昭投靠毛利氏而下向至安藝國鞆後,毛利家決定與織田氏對立。天正五年(1577年),受織田信長之命的織田氏重臣羽柴秀吉率領中國遠征軍侵攻播磨國。元春對此迎擊,於天正六年(1578年)攻擊尼子勝久和山中幸盛死守的上月城,勝久等人在降伏後自殺。而山中幸盛亦遭到處刑,於是令尼子再興軍被消滅(上月城之戰)。 此後元春在各地持續與織田軍戰鬥,天正八年(1580年),三木城被攻陷,城主別所長治自殺。於是備前國的宇喜多直家和伯耆國的南條元續投向織田家,豐後國的大友宗麟亦與信長呼應而侵攻毛利的領地。天正九年(1581年),因幡國鳥取城的吉川一族吉川經家自殺等,毛利家漸漸處於劣勢。 天正十年(1582年),清水宗治等人守備的高松城被羽柴秀吉攻擊,元春與毛利輝元、小早川隆景等人一同前往救援(備中高松城之戰)。不過因為秀吉的水攻而沒能作出積極的行動,而秀吉亦因為害怕與元春等人的戰鬥會令損失擴大而沒有迎擊,於是戰線陷入膠著狀態。 就在這樣的情況下,織田信長在同年6月2日因為明智光秀謀反而橫死(本能寺之變)。羽柴秀吉把本能寺之變的消息向毛利方隱密,更向毛利氏的外交僧安國寺惠瓊送出「毛利家的武將中已經有很多人會投向我們」的消息,因此毛利方陷入疑惑當中,於是雙方達成和睦。結果備中高松城開城,城主清水宗治等人切腹。織田軍從備中國撤退。 根據『川角太閤記』中記載,元春主張在此時追擊,不過被小早川隆景制止。另一方面,在『吉川家文書』中,元春和隆景都認為追擊是無謀之舉,如果失敗的話會令毛利滅亡,於是放過為了討伐明智光秀而撤走的羽柴秀吉。 最後 在天正十年(1582年)末期把家督讓予嫡男元長並隱居。一說這是因為不想仕於秀吉。此後在吉川氏一族的石經有讓出的地方建設隱居館。此館後來被稱為「吉川元春館」,不過其實在元春生前還未完成。 後來毛利氏幫助秀吉奪取天下,天正十三年(1585年),小早川隆景積極地參加秀吉的四國征伐,而吉川軍則以元長為總大將出陣,元春本人沒有出陣。 天正十四年(1586年),受到已經成為天下人的豐臣秀吉強烈邀請,加上因為弟弟小早川隆景和姪兒毛利輝元等人遊說,於是以隱居的身份參加九州征伐。不過此時元春因為化膿性炎症(一說為癌)而令身體狀況轉差,因此在出征前就在豐前小倉城二之丸中死去,年五十七歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%85%83%E6%98%A5
吉川元長 Kikkawa Motonaga(1548年-1587年) 吉川元春的長子、母為熊谷信直之女・新庄局、正室為宍戶隆家之女;幼名鶴壽丸,初名元資,通稱少輔次郎,號默然齋、鐵齋。 天文十九年(1550年)隨父母一起進入小倉山城生活,同年移居到中日野山城。在這裏元長度過幼年期。 永祿三年(1561年),伯父毛利隆元為元長加冠元服,初名元資。永祿八年(1565年)開始,在月山富田城之戰中,和堂弟毛利輝元一起初次上陣。之後,和父親元春一起追擊剿滅山陰各地的尼子殘黨。 天正元年(1573年)改名元長,和父親一起在山陰用兵。天正元年(1574年),在自己的所領上萬德院修建完成。同年,進入因幡國征伐尼子殘黨,但是尼子殘黨反復叛亂。在天正六年(1578年)上月城之戰,尼子勝久和山中幸盛等自盡和被處以處刑,尼子殘黨的勢力才被連根拔除。 天正九年(1581年),織田信長的大將羽柴秀吉一方包圍前來支援鳥取城的吉川經家,由於兵力懸殊,未等元春等率主力部隊趕到鳥取城,鳥取城就投降了,吉川經家自盡。 天正十年(1582年),以本能寺之變為契機,羽柴秀吉和毛利氏和好,在對待秀吉的姿態中,毛利輝元、小早川隆景和元春之間產生矛盾,同年12月元春引退,以後元長繼承家督。天正十三年(1585年)四國征伐出陣。 天正十四年(1586年),和父親元春一起跟隨秀吉出征平定九州。同年冬,元春在小倉城中病逝,此後元長在天正十五年(1587年)5月出征日向之前也病倒,6月15日在日向都於郡病逝,年40歲。 出處:http://www.twwiki.com/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%85%83%E9%95%B7
吉川廣家 Kikkawa Hiroie(1561年-1625年) 吉川元春的三子、母為熊谷信直之女.新莊局、正室為宇喜多直家之女.容光院;幼名才壽丸,初名經信、經言,由毛利輝元命受毛利氏之祖.大江廣元偏諱「廣」字,名為廣家。 永祿九年(1566年),曾經雄踞十一國的尼子家滅亡。可是毛利家仍然面對尼子餘黨不屈不撓的的反撲。曾立下誓言為復興尼子家四處奔走的山中幸盛,擁立尼子誠久的遺子尼子勝久,召集尼子舊臣,整頓起三千人的軍勢,殺回出雲,誓要奪回月山富田城。 元龜元年(1570年),毛利元就以毛利輝元為總大將,在吉川元春、小早川隆景的輔佐下,動員一萬三千人的大軍,征剿尼子餘黨。同年二月,毛利軍與尼子軍在布部山展開決戰,由吉川元春擔任毛利軍的先陣。十歲的廣家就是在他父親陣中。戰前,廣家就如同當年元春在郡山城合戰時向父親元就請戰般,向元春要求出陣。元春大概從愛子的身上看看到自己三十年前的的影子。在廣家的百般請求下允許出陣。 布部山合戰以毛利軍的勝利宣告尼子的復興失敗。十歲的廣家當然不可能親自參加戰鬥,但他那在戰場上披甲執銳小小身影,卻顯示出廣家的勇氣。 此後,身為安藝毛利一族的廣家追隨父親元春轉戰各地。元龜三年(1572年)廣家入繼吉川氏庶流宮莊氏。織田信長死後,羽柴秀吉(豐臣秀吉)迅即成為天下人。毛利家與秀吉進行友好外交。廣家以人質的身份被送至豐臣秀吉,與同為人質的小早川秀包(毛利秀包)一起長大。 天正十五年(1587年),由於兄長吉川元長在父親元春死後一年,於九州島津征伐之陣中病死,次男吉川元氏繼承繁澤家,所以廣家繼承本家吉川家。毛利輝元將毛利氏之祖.大江廣元的「廣」一字賜予廣家。這個時候,吉川經言易名為吉川廣家。天正十九年(1591年),豐臣秀吉透過毛利輝元封廣家出雲、伯耆、隱岐12萬石,以出雲富田城為居城。此後,在毛利兩川的制度下,廣家作為毛利輝元的先鋒於九州豐前、肥後一揆鎮壓和出兵朝鮮等戰役均建立戰功。 廣家與父親和哥哥一樣是一位勇將,而且更一位是智將,秀吉曾高度評價廣家在吉川元春和小早川隆景死後支撐著毛利家的那種手腕。參陣文祿、慶長之役時,廣家亦曾有在蔚山城以寡兵擊破大軍的漂亮的戰績,難怪世人評價「只要有吉川廣家,即使沒有小早川隆景,毛利家也不會發生政道沒邪門歪道,弓箭衰弱的事吧。」 文祿元年(1592年)三月,豐臣秀吉出兵朝鮮(文祿之役),編成一番隊至九番隊總勢十五萬八千人侵略朝鮮。三十一歲的廣家參亦有參陣,並屢立戰功,如在碧蹄館之戰,以先鋒隊四番隊的身份,在宇喜多秀家、小早川隆景的指揮下,大破明軍總指揮官李如松的軍隊。 慶長二年(1597年)秀吉動員十四萬大軍,第二次出兵朝鮮(慶長之役)。六月,吉川軍的廣家、益田元祥登陸釜山,與同在朝鮮戰場的毛利秀元隊合流。十二月廿二日,明將楊鎬、麻貴,朝鮮都元帥權栗率領明朝、朝鮮聯軍五萬七千人大舉進攻加藤清正、淺野幸長守衛的蔚山城。當時蔚山城只有日兵三千人,加上蔚山城剛剛完工及兵備不足。面業中朝聯軍五萬七千人,落城只是時間的問題。 日軍諸將退入城中舉行軍議,商討對策。廣家發言:「眼下敵方的大軍的確很龐大,但龜縮在城中是敗亡的先兆,倒不如出城轟轟烈烈的作戰。」決戰時,廣家橫刀立馬,領軍渡河向敵軍衝殺。城上諸將見到廣家,非常佩服廣家的無畏精神,紛紛出城作戰,加上其後日方一萬三千人的增援,日方順利擊退中朝聯軍。 中朝聯軍向慶州撤退。加藤清正對廣家站在最前頭衝向敵陣表示讚賞,並自己的馬標送給了廣家。廣家之勇名傳遍諸將。據說之後秀吉曾說:「普通帶領三萬、五萬人的將領也不及廣家。」秀吉死後德川家康露出奪取天下的野心。這個形勢令毛利家內部產生兩派。一派以安國寺惠瓊為首,與石田三成等文治派友好;一派以廣家為首,自九州征伐以來與加藤清正等武斷派友好。石田三成與加藤清正又因文祿慶長之役變得勢成水火,遂使毛利家內部變得越來越復雜,毛利元就苦心創建的毛利兩川體制逐漸瓦解。 慶長五年(1600年)三成起兵反抗家康,爆發關原之戰。毛利輝元被石田三成、安國寺惠瓊等人推舉為西軍的總大將。作為毛利筆頭家臣的廣家獲悉後大為憤怒。 廣家深信秀吉死後家康已是「次之天下殿」,天下已經傾向家康,與家康抗戰只會滅亡毛利家,遂與安國寺惠瓊發生激烈的爭論,並搬出祖父元就「不求天下,只求守成」的遺命。當時除了廣家,還有益田元祥、穴戶元次、熊谷元直和椙森元緣等人反對加入西軍。 結果,安國寺惠瓊以已答應石田三成為由,毛利輝元將會加入西軍。不滿的廣家為主家的安泰,在黑田長政的引導下,透過家康的重臣本多忠勝和井伊直政向家康澄清毛利輝元與西軍起兵無關,全是安國寺惠瓊安排,並在與井伊直政、本多忠勝、福島正則、黑田長政連署下,與家康私下締結「毛利家不參加戰鬥」的約定,以換取毛利家領地一百二十萬石的安堵。 為掩飾自已與家康的私通,廣家在西軍對伊勢安濃津城的攻擊中,顯示出驚人的奮鬥樣子,獲得西軍諸侯的稱讚。 關原戰場上,廣家為確保不戰協定的實行,自願為毛利軍團的先鋒,以封殺毛利軍團的行動。南宮山北面山腳以廣家的三千人為前線,後面的山上則有毛利秀元的一萬五千人駐守。他們兩隊之間的東面由安國寺惠瓊一千八百人負責防禦。決戰時,安國寺惠瓊不斷催促毛利秀元下山應戰。廣家向毛利秀元宣示德川家康答應毛利氏領地安堵的信件,遂使毛利秀元打消參戰的念頭,嚴守中立。廣家對東軍的勝利間接作出貢獻。 關原之戰以東軍家康方面的勝利結束,最初家康因與廣家有私通約定而放過毛利家。可是及後家康發現毛利輝元下令毛利家參與西軍對四國贊岐的征伐,違反廣家所許下的不戰約定,表示要沒收毛利輝元的領地,同時對有功的廣家封賞周防,長門二國。廣家向家康求情,表示毛利輝元已認罪,廣家願意以功贖罪,以保全毛利氏。 故此,德川家康沒收毛利輝元一百二十萬石的八國領地,只保留周防、長門二國共三十七萬石。德川把毛利家部分的領地—岩國三萬石封予廣家以示感謝,廣家成為岩國藩的藩祖。安國寺惠瓊連同石田三成、小西行長三人先在京都遊街示眾,後在京都的六條河原被斬首。 吉川家的岩國藩不被幕府承認為獨立的藩國而以毛利家的支藩對待,直至關原之戰兩百六十八年後的明治元年(1867年),岩國藩才被承認為獨立的藩國。 廣家為本家的安泰而不懈奔走。然而,毛利本家卻對廣家的行為有所指責,被毛利家視作出賣本家的內通者,受盡到毛利家臣的白眼,特別是在關原之戰代替毛利輝元作戰的毛利秀元,據說終身沒有寬恕廣家。獨自私通家康令其他的家臣難以容忍。廣家以至吉川家只被毛利本家稱為「岩國領主」,而不是「藩主」。 慶長十九年(1614年)十二月,廣家隱退,讓位與吉川廣正。 寬永二年(1625年)病故,年六十五歲,法名全光院殿中嚴肅如兼大居士。 出處 http://baike.baidu.com/view/730725.htm
天野隆重 Amano Takashige(1503年-1584年) 安芸天野氏は、藤原南家工藤氏の一族で安芸国に下向し国人化したもので、隆重の系統は天野政貞から始まる金明山天野氏にあたる。同じく安芸国の国人で、毛利氏に仕えた天野興次・天野興定・天野元定の一族の系統は生城山天野氏である。 隆重は安芸国の国人で、金明山城主。はじめ大内氏に従属したが、天文20年(1551年)に大内義隆が陶隆房(陶晴賢)の謀反によって殺害される(大寧寺の変)と、毛利元就に従属した。隆重の妻は福原貞俊の妹だったため、毛利元就から厚い信頼を受けた。その後はある程度の独立性を維持しながらも、毛利氏に従い厳島の戦いや防長経略など多くの戦いで活躍した。出雲国の尼子氏が滅亡すると、月山富田城の城代を任される。 永禄12年(1569年)、尼子勝久率いる尼子再興軍が隠岐国より出雲国に上陸し、出雲国奪還へと行動を開始した。これに呼応し尼子氏残党も一斉に蜂起してこれに加わり、6000を超える人数が尼子再興軍の勢力下に入った。当時、毛利氏はその主力を北九州の大友氏との戦いに向けており、月山富田城を守る兵はわずか300であった。しかし、隆重は城主の毛利元秋と相談して一計を案じ、降伏する旨の書状を送り尼子再興軍を月山富田城に誘引して奇襲をかけ、秋上宗信率いる2千の兵を散々に打ち破った。 この敗戦の報に激怒した山中幸盛は、自身と立原久綱で2千の兵を率いて月山富田城に迫った。幸盛は兵に百姓の格好をさせて毛利軍を油断させておびき出し、一気に攻めようとした。しかし隆重はこの計略に乗ることは無くこれを撃退。幸盛は再度、伏兵により殲滅しようと画策し、城下の浄安寺に幸盛率いる1千の兵が待機し、近くの田畑3ヶ所に伏兵を置いた。隆重はこれを察知して、浄安寺に静かに近づき、鉄砲や矢を寺内に猛射して、またもや打ち破った。これにより、尼子側の戦意は失い、城攻めは膠着状態に陥った。その上、毛利軍本隊が大軍を率いて出雲国に迫っているとの報告が届き、尼子再興軍は四散した。 天正12年(1584年)に死去。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E9%9A%86%E9%87%8D
尼子勝久 Amago Katsuhisa(1553年-1578年) 尼子誠久的五男、母不詳、尼子晴久之姪;幼名孫四郎。 天文二十三年(1554年),新宮黨之亂爆發。祖父尼子國久、父親尼子誠久等尼子新宮黨一族被當主尼子晴久誅殺;勝久受到小川重遠的協助,倖免遇難。後來以晴久為保證人,前往京都的東福寺充任僧侶。 永祿九年(1566年),受到毛利元就的攻打,月山富田城落,尼子氏滅亡。 永祿十一年(1568年),時年十六歲的勝久被尼子家遺臣山中幸盛、立原久綱等找到,勸其還俗,擁立為尼子家家督,開始興復尼子家的計劃。 永祿十二年(1569年),毛利家平定山陰以後,又和豐後的大友氏重燃戰火,在北九州陷入膠著狀態,從而造成山陰軍事的空白。在得到豐後國大友家的呼應後,山中幸盛等350名尼子遺臣得到在但馬國活動的海賊——奈佐日本助的幫助,率軍經過但馬,從隱岐島乘船,在出雲的島根半島登陸,宣佈「尼子家再興」。一舉攻下毛利家的忠山城。勝久、山中幸盛等在出雲的忠山城起兵,開始與毛利元就進行對抗。 繼而,尼子軍攻落毛利家重要的新山城末次城,出雲的國人眾們開始歸順過往的主人尼子家。隨著舊臣加入,尼子再興軍膨脹到3000人,控制出雲大半國,以真山城作為據點,開始進攻月山富田城。 當時守衛富田城的只有天野隆重部下300人,但是他巧妙配置部隊,運用有利的地勢,來阻擋尼子軍的攻擊。元龜元年(1570年)正月,毛利以毛利輝元為主將,吉川元春、小早川隆景為輔,率軍13000餘,直指石見、出雲,前來救援。 尼子軍決定迎擊,山中幸盛率領6800士兵在從石見路到富田城的必經之道——「布部山」構築本陣,迎戰毛利家的援軍。十四日,兩軍衝突激戰,勝負難分。毛利家名將吉川元春看到,尼子軍在各個登山隘口都布下重兵防衛,而其本陣薄弱,向土民問出上山的小道,親自率領別動隊從小道上山,迂迴進擊,對尼子的本陣突然襲擊。由於主要的力量都分佈在登山要道,尼子軍本陣措手不及,大亂。這時候山下的毛利軍本隊也發動了攻擊,在上下夾擊之下,尼子軍敗北。死傷慘重,山中幸盛和勝久逃脫。 布部山之戰後,勝久率領尼子再興軍的殘兵敗將逃往末次城。毛利軍乘勝追擊,大軍很快突入出雲和伯耆,勝久又敗往真山城。接著,尼子軍再敗,真山城落城,勝久又逃去隱岐島。 為繼續對抗毛利氏,尼子氏決定投到當時在近畿勢力如日中天,並準備向中國地方擴張的織田信長帳下,借助織田氏的力量復興尼子家。勝久通過山中幸盛、立原久綱結識織田氏的山陰方面司令官-明智光秀,並由明智光秀引見拜見信長。信長對他們也是讚譽有加,並且賜給山中幸盛名馬「四十里鹿毛」、名刀「貞宗」,讓他們加入明智光秀的配屬。自此,尼子家的餘黨全部歸入明智光秀的中國進攻軍中效力。 元龜三年(1572年)12月,山中幸盛帶領3000名尼子軍士兵回到因幡。當時,山名豐國懾於毛利進攻,於是答應協力尼子家的復興。因幡國大半歸於尼子家傘護之下。但是,天正三年(1575年)2月,尼子軍離開鳥取城去攻擊若櫻鬼城之時,山名卻又被毛利方寢返,尼子軍再度陷於不利處境。8月,兩川攻入因幡,攻破尼子在因幡最後的據點私都城,翌年5月,尼子軍向但馬退卻,堅守三年的因幡又再度失去。 天正五年(1577年)9月,織田信長派遣羽柴秀吉(豐臣秀吉)開始攻略毛利,進入姬路城。進入姬路的秀吉意識到處於因幡,美作,備中結合部的上月戰略位置重要,於是要求赤松氏的上月城主加入織田方,遭到拒絕。十一月,織田開始進攻,尼子軍突破毛利防線,迅速攻落上月城。勝久、山中幸盛屬下的800尼子軍入城守備。但是,當時毛利的同盟宇喜多直家的5000兵眾很快來攻,考慮到兵寡城薄,尼子軍被迫放棄上月城退回姬路。 天正六年(1578年)3月,羽柴軍二萬一千大軍開始向播磨攻略,再度奪回上月城。又配備尼子舊軍守備。立原久綱認為上月城實在太小,難以守衛,請求勝久和山中幸盛放棄,但是山中幸盛認為為了尼子家的復興和報答秀吉,作為援護守衛上月是應該的。 4月,為奪取上月,控制織田勢力的進一步西進,毛利軍的六萬大軍向羽柴發動征伐。尼子軍陷入重重包圍,猶如風前的燭火。秀吉準備救援上月,然而三木城的別所長治在這時候突然發動叛亂。秀吉措手不及,向信長請求援助,但是信長命令他放棄上月城和尼子家,集中攻擊三木城。於是秀吉沒有多餘的兵力援助尼子,只能放棄。但是他派譴一名使者通知山中幸盛,他會派兵佯攻毛利,讓尼子軍乘機突圍而出。 7月,由於籠城雙方的實力太過懸殊,上月城終於落城,尼子軍降。勝久在「保住全城將士性命」的條件下,與嫡男若豐丸、弟弟尼子通久、重臣神西元通切腹自盡,年二十六歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/89364.htm

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