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尼子義久

三刀屋久扶 Mitoya Hisasuke(生年不詳—1591年) 有一說三刀屋本姓諏訪部,是清和源氏滿快流信濃源氏的一族。諏訪部幸扶的子孫擔任出雲國飯石郡三刀屋鄉的地頭,開始以「三刀屋」為姓。三刀屋氏到出雲國後先後仕奉過鹽冶氏、山名氏、京極氏,應仁之亂時仕奉出雲國守護京極持清。 享祿元年(1528年)從父親賴扶那裡繼承家督。在尼子氏下擔任總侍眾,俸祿是三刀屋領地的6785石。 天文九年(1540年)隨主君尼子晴久進攻安藝國毛利元就的居城吉田郡山城,天文十年(1541年)敗給大內氏家臣陶隆房的援軍,於是晴久返回出雲國。在此次敗北後三刀屋氏合肉道氏(肉道隆慶)、三澤氏再度倒向大內氏,但天文十二年(1543年)大內義隆遠征出雲,還未攻下月山富田城時,久扶和其他出雲國人眾又倒向尼子氏,義隆因此戰敗。此後,晴久加強對出雲國內家臣的統制,將偏諱廣賜給家臣,而久扶也在弘治三年(1557年)獲得「久」字的偏諱。 久扶回到尼子陣營過了一段時間,永祿元年(1558年)的忍原崩,尼子氏大勝毛利氏,但在永祿五年(1562年)山吹城主本城常光倒向毛利氏,久扶和三澤為清及赤穴盛清也同樣投身到毛氏。而三刀屋城成為毛利氏重要的軍事據點,在久扶的防守下於永祿六年(1563年)在地王卡擊退來犯的立原久綱。之後的白鹿城之戰、第二次月山富田城之戰皆有參與,和三澤為清、米原綱寬從屬小早川隆景,擔任進攻月山富田城菅谷口的先鋒。終於,月山富田城內的尼子氏向毛利氏投降。 永祿十二年(1569年)山中幸盛以復興尼子氏為名舉兵而起,許多尼子舊臣回到復興軍的旗下,但尼子的舊臣們懷疑久扶的忠誠因而拒絕,久扶只好繼續留在毛利方跟著吉川元春攻打私部城等處,並於天正六年(1578年)的上月城之戰將尼子復興軍覆滅。久扶向毛利輝元交出誓文宣示忠誠,也需跟隨毛利家出征,並擁有獨立的權限。 天正十四年(1586年)跟著毛利氏進攻小倉城。而在肥後國發生一揆時,和子孝扶一同參與鎮壓。但是在天正十六年(1588年)跟隨主君毛利輝元上洛之時和德川家康會面,此舉受到輝元的猜疑而被沒收領地並流放。 之後前往京都,天正十九年(1591年)在四日市村死去。 註:忍原崩是尼子晴久和毛利元就爭奪石見銀山的戰爭,戰後晴久將山吹城交給本城常光;晴久死後其子尼子義久單方面和毛利氏議和,令反毛利的國人眾動搖,後毛利氏再度包圍山吹城,投降後的本城常光被元就誅殺。 (點擊查看)附上一張從三刀屋城跡眺望的照片,三刀屋川堤上種了兩排櫻花樹,附近的木次斐伊川堤防是著名的賞櫻景點,從木次走到三刀屋大約40分鐘,不過三刀屋城跡什麼都沒有。這裡有稀有的櫻花品種"御衣黃",花期大約晚染井吉野櫻兩周。 作者 秋霜烈日 譯文出處 https://sepkalily41.blogspot.com/2018/07/blog-post_22.html 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%88%80%E5%B1%8B%E4%B9%85%E6%89%B6
中井久包 Nakai Hisakane(生沒年不詳) 尼子氏家臣,尼子氏筆頭家老(注一),奉行眾。官位駿河守。有一子中井久家。別名中井綱家;擔任尼子詮久(尼子晴久)的老師。 天文九年(1540年),主君.尼子晴久率軍出征毛利元就居城吉田郡山城,中井久包與子中井久家一同從軍。然而此戰尼子軍大敗,久包僥倖逃得一命。 永祿元年(1558年),石見小笠原氏當主.小笠原長雄守備之溫湯城遭到毛利氏攻擊,尼子晴久親自率兵救援,久包也一同出征。然而因為大雨導致河流水位上漲,大軍無法渡河,永祿二年(1559年)8月小笠原長雄向毛利元就投降,救援失敗。 永祿六年(1563年),毛利氏開始進攻出雲,白鹿城,熊野城相繼陷落。最終於永祿八年(1565年),針對月山富田城的毛利軍總攻擊開始。雖然在防禦戰中久包隸屬於尼子義久直屬部隊奮起抵抗,然而永祿九年(1566年)月山富田城最終還是開城投降。 此後,病死於伯耆法勝寺。 注一:尼子氏筆頭家老說法較多,除中井久包一說外,河副久盛、宇山久兼的說法亦有之。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20#postid-118 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%95%E4%B9%85%E5%8C%85
亀井秀綱 Kamei Hidetsuna(生年不詳-沒年不詳) 祖父亀井永綱の代に尼子氏に出仕。祖父と父亀井安綱は、月山富田城奪取戦に参加し、その功により、家老に任ぜられる。 安綱の子秀綱は、尼子経久・尼子晴久二代に仕え、永正5年(1508年)に経久が大内義興の上洛に従った際にはこれに随行し、永正8年(1511年)の船岡山合戦に参加するなど、家老の一人として活動した。尼子家では亀井安綱の頃より、筆頭家老格であったとされる。 亀井家の家督相続後、安芸国の毛利氏が幼少の当主・毛利幸松丸の死後、大内氏寄りである毛利元就が当主となり、尼子氏からの離反の動きを見せると、大永4年(1524年)、元就の弟である相合元綱らを教唆しクーデターによる元就打倒を画策したが、智略に優れる元就が先手を打ち、この策略は失敗に終わっている。これにより元就が寝返ったとされる。また所領問題で不満を持つ経久の子の塩冶興久の説得に失敗し、謀反の原因を作ったともされる。なお、弟の亀井利綱は興久に味方して享禄5年/天文元年(1532年)に討死している。 晩年は晴久の子尼子義久の代まで仕えて第二次月山富田城の戦いに参加し、そこで杉原盛重に親子共に討たれ死亡(鳥取県境港市に墓所)したとも、毛利氏に投降したともいうが詳細は不明である。 最新の研究では、秀綱は寺社を統率する立場にあり、主君の代理として、出雲国内の宗教勢力(杵築大社・鰐淵寺)と密に書状をやり取りし、多くの寺院の創建や修繕に関わっている。そのため多くの書状が現存している。その現存する書状や棟札などを見ると、秀綱の活動が最後に確認できるのは享禄3年(1530年)の塩冶興久の乱に関連するものであり、それ以降の資料では亀井安綱の名前が出ており、この前後に家督が安綱に継承されたことが確認できる。一次資料によって確認できる秀綱の実質的な活動範囲はここまでであり、従来通説とされてきた永禄年間頃の活動は、その後継者によって行われたと推測されている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E4%BA%95%E7%A7%80%E7%B6%B1
三百位人物:三好清海、三好伊三、肝付良兼、由利鎌之助、肝付兼亮、肝付兼護、穴山小助、島津豊久、伊集院忠倉、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎、山浦国清、高梨政頼、屋代政国、屋代勝永、須田満親、須田長義、蘆田信蕃、小笠原長時、小笠原秀政、犬甘政徳、犬甘久知、二木重吉、溝口貞泰、木曾義利、諏訪頼忠、保科正俊、三木顕綱、三木国綱、長尾晴景、上杉景信、色部勝長、色部顕長、色部長実、河田長親、北条景広、本庄慶秀、安田能元、甘粕景継、鬼小島弥太郎、水原親憲
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
加藤政貞 Kato Masasada(生年不詳—1578年) 尼子清久の子として誕生。父・清久の業績は不明だが、政貞が尼子姓でなく加藤姓を名乗っていることを見ると、祖父・塩冶興久が尼子氏に反乱を起こしたこともあり尼子一門としては苦しい立場にあったと思われる。 永禄9年(1566年)、主君・尼子義久が毛利氏に降伏すると、これに従ったと思われる。しかし、永禄12年(1569年)に尼子勝久を筆頭とする尼子再興軍が出雲国へと侵入した際にはこれに呼応して参加している。元亀元年(1570年)、布部山の戦いで再興軍が敗退すると、政貞は再興軍の勢いを取り戻すべく再興軍側の高瀬城救援や末次城攻めに参加したが敗れ再興軍は出雲から敗走した。 天正5年(1577年)、織田信長の配下羽柴秀吉に従い播磨国上月城の尼子再興軍に加わり籠城する(上月城の戦い)。天正6年(1578年)、毛利氏の大軍に包囲され、勝久や他尼子一門と共に自害して果てた。 現在も上月城には政貞含む尼子再興軍の供養塔が残っている。] 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%94%BF%E8%B2%9E
吉川元春 Kikkawa Motoharu(1530年-1586年) 毛利元就的次子、母為吉川國經之女.妙玖、養父吉川興經、正室為熊谷信直之女.新庄局;幼名少輔次郎,受兄毛利隆元偏諱「元」字,名為元春,繼承吉川氏,名為吉川元春,法名浪院海翁正。 年幼時期 天文九年(1540年),在出雲國的尼子晴久侵攻之際,無視父親元就反對(理由是未元服)而出陣,此戰成為初陣(吉田郡山城之戰)。 天文十二年(1543年)8月,接受哥哥毛利隆元的偏諱(「元」字)而改名為元春(因為「元」字是毛利氏的通字,所以不是隆元所賜的可能性相當高)。天文十六年(1547年),以自己的意願而與熊谷信直的女兒新庄局結婚。 繼承吉川家 在天文十六年(1547年)7月成為母方的從兄吉川興經的養子,這是與興經不和的叔父吉川經世為首的吉川家臣團勸告,於是興經逼不得已才答應。條件是對興經的生命作出保証,於是興經的兒子千法師成為元春的養子,約定在成長後令千法師繼承家督。天文十九年(1550年),元就強制令興經隱居,於是元春繼任家督並成為吉川氏的當主。而後熊谷信直等人受命殺害興經和兒子千法師,於是毛利家成功奪取名門吉川家。 此後元春進入安藝大朝的小倉山城,在要地築起日野山城並把據點移動到該城。與弟弟小早川隆景一同被稱為「毛利的兩川」(毛利の兩川),負責山陰地方的政治和軍事。 與大內、尼子爭戰 在弘治元年(1555年)的嚴島之戰中率領吉川軍幫助小早川軍,擊滅義兄弟陶晴賢率領的大內軍。在弘治二年(1556年)開始遠征石見國,數度擊退尼子晴久(忍原崩、降露阪之戰)。弘治三年(1557年),在父親元就隱居後,與小早川隆景一同支持毛利家並成為家中核心人物。 在永祿八年(1565年)的第二次月山富田城之戰中以主力身份參戰並立下極大武功,於永祿九年(1566年)降伏尼子義久。 從永祿十二年(1569年)開始與希望再興尼子氏的尼子家舊臣山中幸盛等人率領的尼子軍戰鬥。在布部山之戰中擊破尼子軍,同年,與毛利家敵對的大友宗麟之下寄身的大內氏一族大內輝弘侵攻周防國。對此,被授與軍權的元春在大友家的援軍還未完全集結時,一口氣進攻輝弘並令其自殺(大內輝弘之亂)。在元龜二年(1571年)使用謀略攻擊尼子勝久堅守的末石城並捕獲山中幸盛,令勝久敗走(此後,幸盛用計成功逃走)。 與織田信長爭戰 元龜二年(1571年),父親元就死去後,與弟弟小早川隆景一同負責輔佐姪兒毛利輝元(毛利隆元的嫡男)。 被元春擊敗的尼子勝久等人投靠在中央擴大勢力的織田信長,於是勝久等人在得到信長援助之下持續抵抗。還有在天正四年(1576年),於最後的室町幕府將軍足利義昭投靠毛利氏而下向至安藝國鞆後,毛利家決定與織田氏對立。天正五年(1577年),受織田信長之命的織田氏重臣羽柴秀吉率領中國遠征軍侵攻播磨國。元春對此迎擊,於天正六年(1578年)攻擊尼子勝久和山中幸盛死守的上月城,勝久等人在降伏後自殺。而山中幸盛亦遭到處刑,於是令尼子再興軍被消滅(上月城之戰)。 此後元春在各地持續與織田軍戰鬥,天正八年(1580年),三木城被攻陷,城主別所長治自殺。於是備前國的宇喜多直家和伯耆國的南條元續投向織田家,豐後國的大友宗麟亦與信長呼應而侵攻毛利的領地。天正九年(1581年),因幡國鳥取城的吉川一族吉川經家自殺等,毛利家漸漸處於劣勢。 天正十年(1582年),清水宗治等人守備的高松城被羽柴秀吉攻擊,元春與毛利輝元、小早川隆景等人一同前往救援(備中高松城之戰)。不過因為秀吉的水攻而沒能作出積極的行動,而秀吉亦因為害怕與元春等人的戰鬥會令損失擴大而沒有迎擊,於是戰線陷入膠著狀態。 就在這樣的情況下,織田信長在同年6月2日因為明智光秀謀反而橫死(本能寺之變)。羽柴秀吉把本能寺之變的消息向毛利方隱密,更向毛利氏的外交僧安國寺惠瓊送出「毛利家的武將中已經有很多人會投向我們」的消息,因此毛利方陷入疑惑當中,於是雙方達成和睦。結果備中高松城開城,城主清水宗治等人切腹。織田軍從備中國撤退。 根據『川角太閤記』中記載,元春主張在此時追擊,不過被小早川隆景制止。另一方面,在『吉川家文書』中,元春和隆景都認為追擊是無謀之舉,如果失敗的話會令毛利滅亡,於是放過為了討伐明智光秀而撤走的羽柴秀吉。 最後 在天正十年(1582年)末期把家督讓予嫡男元長並隱居。一說這是因為不想仕於秀吉。此後在吉川氏一族的石經有讓出的地方建設隱居館。此館後來被稱為「吉川元春館」,不過其實在元春生前還未完成。 後來毛利氏幫助秀吉奪取天下,天正十三年(1585年),小早川隆景積極地參加秀吉的四國征伐,而吉川軍則以元長為總大將出陣,元春本人沒有出陣。 天正十四年(1586年),受到已經成為天下人的豐臣秀吉強烈邀請,加上因為弟弟小早川隆景和姪兒毛利輝元等人遊說,於是以隱居的身份參加九州征伐。不過此時元春因為化膿性炎症(一說為癌)而令身體狀況轉差,因此在出征前就在豐前小倉城二之丸中死去,年五十七歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%85%83%E6%98%A5
宇山久兼 Uyama Hisakane(1511年-1566年) 宇山久秀的長子,幼名彌次郎,宇多氏為源氏佐佐木一族。 久兼為侍奉尼子經久、尼子晴久、尼子義久三代的老臣,根據尼子氏分限帳上記載,久兼與牛尾幸清、佐世清宗等人擔任家中御家老眾的筆頭重職,所領知行地在石見擁有祿高十八萬七千七百石,同時宇山一族也在控有美作國大部分的封地,月山富田城四周的能義郡及布部郡也都是他的直接領地,同時在官拜飛驒守後,便負責與中央大勢力及將軍幕府間進行外交聯絡工作。由此足見宇山氏在尼子家中的重要地位已達到共存共榮的情形。 在嚴島會戰後併吞了往日大內家大部份領地的安藝毛利家成為了尼子家新的敵手,而毛利家本身也在鯨吞下備後、周防、長門等國後躍躍欲試地想將兵鋒指向尼子家所掌握的出雲。 在毛利軍遠征出雲之際,元就先寢返了三刀屋氏,然後便對作為月山富田城前方防線的衛星城白鹿城出兵,當時久兼就是白鹿城的守將,他眼見白鹿城內僅有兵二千,城中亦缺乏兵糧,因此在陷入被一萬毛利軍包圍攻打的困境後火速向尼子本家請求援軍。當主尼子義久也緊急地派遣了其弟尼子倫久為總大將以及大將龜井秀綱、近習山中鹿之介和立原久綱等統率一萬援軍增援白鹿城。 但是在軍議評定中自認久經戰陣的久兼否決了小將山中鹿之介以他們這些近習為先鋒軍,衝入敵陣攪亂攻擊,再由主力部隊與城兵進行前後夾擊的戰術,自以為是地於上報尼子倫久之後,在龜井秀綱的援軍尚未到來前,便獨自開城應擊,最後在元就靈活的戰術下,由小早川隆景、吉川元春巧妙反構成左右夾擊的態勢而一敗塗地,結果是靠著擔任殿軍的山中鹿之介奮勇作戰,久兼才得以保全自身回到月山富田城。 在白鹿城落城,尼子家遲暮之色已再難遮掩,永祿八年(1565年)時毛利元就對富田本城發動包圍攻擊,元就分別從小森口、菅谷口、鹽谷口三方進攻,雖然因為月山富田城之堅與尼子軍背水一戰的勇猛而一度受挫,但仍然讓月山富田城陷入了籠城的危機,與當初天文九年(1540年)尼子軍圍攻毛利本據地吉田郡山城時的榮光相比,同樣的籠城戰受困的卻變成己方。蒼涼,想必難以從久兼心頭揮去。 精通謀略的毛利元就見不能一蹴而就攻下月山富田城,於是改變分針圍而不攻,並宣稱允許城中的士兵投降。月山富田城中的米糧已接近枯竭,逃兵日益增加,久兼有感城的困狀而憂心,取出家中的所有錢財,派人往丹波,若狹等地方蒐購糧食,走仍在山中鹿之介負責保衛下十分穩固的海路,由中海安來浦悄悄運入城中,總算暫時穩定住幾乎離散的軍心。 當時毛利元就也察覺到了月山富田城中的兵糧又日見增多,於是又高舉旗幟宣佈只要是投降的人員,無論士兵或是武將,一律給予優厚待遇。守城士兵又開始大批大批地投向毛利方,連和久兼同格的牛尾幸清、佐世清宗等家老宿將也覺得尼子家前途無亮而相繼棄尼子而去,倒入毛利旗下。月山富田城中僅剩下久兼這一位重臣,他索性將自家的糧食全部分給士兵,準備與毛利家決一死戰。 老謀深算的元就藉機使用離間計,尼子義久的近側大塚與三右衛門向義久進讒:「久兼將城內兵糧私物化,必有降毛利之心。」疑心生暗鬼的義久也知道窮途末路的尼子家已不能鞏固家臣的忠心,於是下令誅殺了久兼父子,結果反而使得月山富田城內人心惶惶,士氣低落,最後城中總共只剩下大約三百名城兵,尼子義久不得已,自縛開城投降了毛利元就,一度輝煌的「十一州太守」尼子氏從此走入歷史。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/56804995
尼子義久 Amago Yoshihisa(1540年-1610年) 天文9年(1540年)、出雲国の戦国大名・尼子晴久の次男として生まれる。弟に倫久・秀久がいる。幼名は三郎四郎、のち室町幕府13代将軍・足利義輝より偏諱(足利将軍家の通字である「義」の字)の授与を受けて義久と名乗る。なお一説によれば、播磨国赤穂の尼子山城にて一時城代を任されていたというが、詳細は不明。 永禄3年(1560年)12月、父の晴久が急死により家督を継ぐ。未だ毛利氏との石見大森銀山を巡る争いが終結していなかった中での晴久の急死であったため、尼子家臣団の動揺もあって月山富田城内に密葬することとなる。また新宮党粛清による有力な親族衆が殆どいない状態で当主を継承するといった状態であり、更には尼子氏から追放・粛清処分を受けるなど抑圧されてきた国人衆の不満が一挙に噴出し始めていた。 その後、毛利氏は晴久が急死したことを察知し、再び石見国への侵攻を開始する。これに対して義久は父の採っていた毛利氏との石見銀山を巡る対決路線を変更し、室町幕府の仲介により和平をすすめようとしたが、毛利元就はこれを利用して逆に尼子氏の攻略を画策し、和平の条件として石見国への不干渉を申し入れた(雲芸和議)。この条件を義久が了承したため、元就の狙いどおり尼子氏を頼みに毛利氏への反乱を起こしていた福屋氏が孤立し、また福屋氏へ軍事援助を行おうとしていた本城常光、牛尾久清、多胡辰敬らの石見に駐屯していた尼子家臣や温泉英永など尼子方の国人も不利な立場に立たされることとなった。この行動が尼子勢力の崩壊に繋がっていく。一方で、当時の九州大大名であった大友宗麟と同盟関係を結び、毛利氏の軍事力を二方面(大友氏に周防国への侵攻を促すなど)に分散させている。 永禄5年(1562年)6月に本城常光が毛利氏へ寝返ると、温泉英永、牛尾久清は出雲へと退却し、雲石国境の刺賀岩山城は毛利氏の攻撃により落城して、城主・多胡辰敬は自刃した。また赤穴氏や三沢氏などの西出雲の有力国人衆は雪崩を打って毛利方へと転じた。この情勢を契機として、毛利元就は出雲へ侵攻を開始し、永禄6年(1563年)8月には松田氏が守備する白鹿城が毛利軍によって落城し、熊野城も抵抗虚しく陥落した。この出雲侵攻において、尼子十旗を守備する赤穴氏・三沢氏・三刀屋氏などの国人衆が殆ど戦わずして開城したのに対し、一部の国衆は毛利元就に対して頑強に抵抗している。これは父・晴久の影響力や中央集権化が未だ完了していなかったことの証左であり、尼子内部に生じていた内紛や不満によって国人衆をまとめることが出来なかったことも示している。 永禄7年(1564年)には伯耆江美城の落城により、尼子氏の糧道がほぼ押さえられ、尼子方の美作江見氏・三浦氏家臣牧氏・後藤氏とも容易に連絡が取れる状況ではなくなり、事実上月山富田城は孤立してしまう。永禄8年(1565年)からは遂に月山富田城を包囲された(第二次月山富田城の戦い)。毛利軍は富田城へ総攻撃を開始したが、城の守りは堅く城兵の士気も旺盛で、損害ばかりが増えたため、攻撃を中止し兵糧攻めに切り替えた。富田城内では次第に兵糧が欠乏し、士気が衰えるなか、尼子氏累代の重臣亀井・河本・佐世・湯・牛尾氏が毛利軍に降伏する。さらに永禄9年(1566年)に宇山久兼(宇山飛騨守と思われる)を義久が謀反の疑いにより誅殺するなど、城内は混乱の極みとなる。 同年11月28日、義久は月山富田城を開城を決意。毛利元就に降伏する旨を伝えると、元就は三男小早川隆景・次男吉川元春の順に義久の身柄を安堵すると記した血判を送り、これにより月山富田城が開城。富田城が陥落したことにより、出雲国内で抵抗していた尼子十旗の城将達も、次々に毛利氏に下った。元就は義久とその弟たちの一命を助け、安芸円明寺に幽閉している。これによって、大名としての尼子氏は滅亡した。 その後、義久は天正17年(1589年)、毛利輝元より毛利氏の客分として遇され、安芸志道に居館を与えられた。慶長元年(1596年)、長門阿武郡嘉年の五穀禅寺において剃髪、出家して友林と号した。 慶長15年(1610年)8月28日、長門で死去した。享年71。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E7%BE%A9%E4%B9%85
山中幸盛 Yamanaka Yukimori(1545年-1578年) 山中滿幸的次子、母為立原綱重之女.なみ、養父龜井秀綱、正室為龜井秀綱之女;實名幸盛,幼名甚次郎,通稱鹿介,別名鹿之介、鹿之助、鹿助,渾名山陰の麒麟兒。尼子十勇士之一,以山中鹿之介之名廣為人知。 幸盛の前半生は、確実な史料が殘っておらず不明な點が多い。通説によれば、天文14年8月15日(1545年9月20日)に出雲國富田莊(現在の島根県安來市広瀬町)に生まれたとされる(詳しくは#出自の謎を參照。)。 山中氏の家系も不明な點が多い。山中家の系図はいくつか存在するが、有力な説としては宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門衆である。尼子清定の弟である山中幸久を祖とし、幸盛はこの幸久の4代(又は6代)後裔である。 山中家は尼子氏の家老であったが、父・満幸が早世していたため生活は貧しく、幸盛は母1人の手によって育てられた。幼少の頃より尼子氏に仕え、8歳のとき敵を討ち、10歳の頃から弓馬や軍法に執心し、13歳のとき敵の首を捕って手把を立てた。 16歳のとき、主君・尼子義久の伯耆尾高城攻めに隨行し、因伯(因幡國と伯耆國。現在の鳥取県)に鳴り響く豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取った。 幸盛は次男であったため、尼子氏の重臣である亀井氏の養子となるが、後に山中家に戻り當主である兄の幸高(甚太郎)に替わって家督を継いだ。 尼子氏の滅亡 永祿5年7月3日(1562年8月2日)、毛利氏は尼子氏を滅ぼすため出雲國へ進軍する。毛利氏は去る天文4年10月1日(1555年10月16日)に陶晴賢を厳島の戦いで破ると、弘治3年(1557年)には大內氏を滅ぼし、防長(周防國と長門國)を新たに支配していた。また、永祿5年6月には石見國を勢力下に治め、中國地方の一大勢力となっていた。一方の尼子氏は、當主であった尼子晴久が永祿3年12月24日(1561年1月9日)に急死したため、晴久の嫡男・義久が跡を継いでいたが、外交政策の失敗等もあり勢力が衰えつつあった。 毛利元就に率いられた毛利軍は出雲へ入國すると、尼子方の有力國人らを次々と服従させつつ陣を進めていく。そして、永祿5年12月(1563年1月)には荒隈(洗合)へ本陣を構え、尼子氏の居城・月山富田城攻めを本格化させる。 永祿6年8月13日(1563年8月31日)、毛利軍は、尼子十旗の第1とされる白鹿城へ攻撃を開始する。この白鹿城は、宍道湖の北岸に位置し、日本海に面した島根半島と月山富田城を結ぶ要衝であり、補給路を確保する上でも重要な拠點であった。 9月21日(10月8日)、尼子氏は白鹿城を救援するため、尼子倫久を大將とした軍を派遣し、幸盛もこれに従軍する。戦いの結果、毛利軍が勝利し尼子軍は月山富田城へ撤退した(白鹿城の戦い)。退卻の際、軍の後陣に控えていた幸盛は、約200の兵を率いて殿を擔當し、追撃する吉川元春・小早川隆景の両軍を7度にわたって撃退し、敵の首を7つ討ち取った。なお、白鹿城は10月中旬頃に落城している 。 永祿7年(1564年)、尼子軍は杉原盛重率いる毛利軍と美保関で戦い、幸盛もこれに參戦する。このとき、日本海側からの補給拠點である白鹿城を攻略された尼子氏は、中海方面からの補給路を確保するため伯耆國の拠點確保と勢力の挽回に努めていた。尼子軍はこの戦いには勝利するも、続く伯耆國の重要拠點の1つである尾高城の戦いで毛利軍に敗れた。 以後、伯耆國は毛利軍によって制圧されていくこととなる。こうして尼子軍は各地で敗れつつ補給の道を絶たれ、尼子氏の居城・月山富田城は完全に孤立化していくのである。 永祿8年4月(1565年5月)、毛利軍は、月山富田城の北西3kmにある星上山(現在の島根県松江市八雲町) に本陣を構えると、城下の麥を刈り取って月山富田城へ攻撃を開始する。 4月17日(5月16日)、毛利軍は月山富田城へ総攻撃を行う(第二次月山富田城の戦い)。幸盛は塩谷口(しおたにぐち)で吉川元春らの軍と戦い、これを撃退した。 また、この戦いで幸盛は、高野監物を一騎討ちで討ち取った。 4月28日(5月27日)、毛利軍は城を落とすことができず敗れ、月山富田城から約25km離れた荒隈城まで撤退した。 9月、毛利軍は再び月山富田城を攻めた。この戦いで幸盛は品川將員を一騎討ちで討ち取った(山中幸盛・品川將員の一騎討ち)。また同月、幸盛は、白潟(現在の島根県松江市)に滯在していた小河內幸綱ら率いる毛利軍を夜討ちし、多數の兵を討ち取った。 永祿9年5月24日(1566年6月11日)、毛利軍は三たび月山富田城へ総攻撃を行う。しかし、城を落とすことが出來なかった。 11月21日(1567年1月1日)、城內の兵糧が欠乏し將兵の逃亡者も相次いだため、これ以上戦うことが出來ないと判斷した尼子義久は、毛利軍に降伏を申し出る。そして11月28日(1月8日)、義久は城を明け渡し、ここに戦國大名尼子氏は一時的に滅びることとなる。義久ら尼子3兄弟は、一部の従者と共に円明寺へ連行され幽閉されることとなった。幸盛は隨従を願い出たが許されず、出雲大社で主君と別れた。その後、幸盛は尼子家を再興するため盡力することとなる。 第一次尼子再興運動 尼子氏滅亡後、幸盛は牢人となる。その後、永祿9年 - 同11年の間(1566年 - 1568年)の幸盛の足取りは定かでない。諸説によれば、有馬溫泉で傷を癒した後に順禮の姿をして東國へ赴き、武田氏(武田信玄)・長尾氏(上杉謙信)・北條氏(北條氏康)などの軍法をうかがい、越前國の朝倉氏の家風を尋ね入り、その後、京に上ったとされる。 永祿11年(1568年)、幸盛は立原久綱ら尼子諸牢人とともに、京都の東福寺で僧をしていた尼子誠久の遺児・勝久を還俗させると、各地の尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機會をうかがった。 永祿12年4月(1569年5月)、毛利元就が大友氏を攻撃するため北九州へ軍を派遣すると、挙兵の機會をうかがっていた幸盛は、出雲國へ侵攻を開始する。 このとき、幸盛ら尼子再興軍を支援していたのは山名祐豊であった。山名氏の総帥として、長年にわたって尼子氏と敵対してきた祐豊であったが、領國であった備後・伯耆・因幡を毛利氏によって制圧されてきており、勢力回覆を図るにあたって手を結んだと考えられる。もっとも、その後に毛利氏から要請を受けた織田信長の軍によって領內を攻められ、支援はままならなかったようである。 6月23日(8月6日)、幸盛らは丹後國もしくは但馬國から數百艘の船に乗って海を渡り島根半島に上陸すると、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する。幸盛らがここで再興の檄を飛ばすと、國內に潛伏していた舊臣らが続々と集結し、5日の內に3,000餘りの軍勢になったという。そして同月下旬、幸盛ら尼子再興軍は、多賀元龍が籠もる新山城(真山城)を攻略すると、山陰地方の各地で合戦を繰り広げつつ勢力を拡大していった(尼子再興軍の雲州侵攻)。 7月中旬、幸盛は、かつての尼子氏の居城・月山富田城の攻略に取りかかる(尼子再興軍による月山富田城の戦い)。この戦いは、力攻めによる攻略とはならなかったものの、城に籠もる毛利軍の兵糧は欠乏しつつあり、また、城內より投降者がでるなど尼子方が優勢であった。 しかし、石見國で活動していた尼子再興軍が、毛利軍に攻められ危険な狀態となると、幸盛は、城攻めを一旦中止して救援に向う。 石見に駆けつけた幸盛は、毛利軍を原手郡( 現在の島根県出雲市斐川地域の平野部あたり )で撃破すると(原手合戦)、その後、出雲國內において16の城を攻略し、その勢力を6,000餘りにまで拡大させた。 また、元就が尼子再興軍を討伐するため、九州より帰陣させた米原綱寛、三刀屋久扶などの出雲國の有力國人を相次いで味方につけると、出雲國の一円を支配するまでになった。 さらに、伯耆國においても尾高城を始め、中央の八橋城、因幡國との境にある岩倉城など、多くの主要な城を攻略。謀略を用いて末吉城の神西元通を寢返らせたのをはじめ、日野郡一帯を支配する日野衆を味方につけるなど、伯耆國全土にも勢力を拡大していった。その他、因幡・備後・備中・美作においても勢力を拡張し、戦いを繰り広げていたことが分かっている。 加えて10月11日(11月19日)、大內輝弘が大內家再興を目指して周防國山口へ攻め込み、築山館跡を占領する事態が発生する。10月15日(11月23日)、相次ぐ領內の反亂により支配體制の危機を感じた元就は、反亂軍の鎮圧を優先させるため、九州から軍を撤収させることを決定する。10月18日(11月26日)、吉川元春・小早川隆景ら毛利軍は、九州から陣を撤収して長府に帰著すると、10月25日頃に大內家再興軍の反亂を鎮圧する。輝弘は富海で自刃し、大內家再興の戦いは僅か半月足らずで終結した(大內輝弘の亂)。反亂を鎮圧した毛利軍は、12月23日に長府にあった陣を引き払い、居城である吉田郡山城へ帰還している。 永祿13年1月6日(1570年2月10日)、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より大軍を率い出陣する。毛利軍は北上して出雲國へ入國すると、尼子方の諸城を次々と攻略しながら月山富田城へ陣を進めていった。 一方の尼子再興軍は、先の原手郡の戦いや隠岐為清の反亂(美保関の合戦)などによって時間をとられ、出雲國の拠點である月山富田城を攻略することができないでいた。そのため尼子再興軍は、毛利軍の進軍を防ぐため布部山(現在の島根県安來市広瀬町布部)に陣を張り決戦に備える。 2月14日(3月20日)、尼子再興軍は、布部山で毛利軍と戦い敗北する(布部山の戦い)。幸盛は、味方が敗走するなかで最後まで殿として殘り、軍の崩壊を防いだ後に居城の新山城へ帰還している。戦いに勝利した毛利軍は、翌2月15日に月山富田城に入城し、尼子再興軍の包囲から城を解放する。一方の尼子再興軍は、この戦いに敗れたことにより、以後衰亡していくこととなる。 6月、布部山の敗戦により出雲における尼子再興軍の勢力は、新山城と高瀬城の2城となるまで追いつめられていた。7月 - 8月には、両城下で毛利軍による麥薙ぎが行われるなど危険な狀態となるが、9月5日(10月4日)、安芸國で元就が重病に陥り、吉川元春を殘して毛利輝元・小早川隆景らの軍が國許へ帰還すると狀況が一変する。山陰地方の毛利軍が手薄になったことにより、幸盛ら尼子再興軍は再びその勢力を盛り返した。 幸盛ら尼子再興軍は、中海における海運の重要拠點である十神山城や末吉城など、出雲・伯耆の國境にある城を次々と奪還するとともに、一時、清水山要害を攻略して再び月山富田城へ迫った。また、高瀬城に籠もる米原綱寛との連攜を図るため、宍道湖北岸に満願寺城を建設。 吉川元春を追い詰め、その居城である手崎城(平田城)へ攻め込むなど、その攻勢を強めている。さらに、隠岐國の國人・隠岐弾正左衛門尉を味方につけることに成功しており、日本海側の制海権も取得しつつあった尼子再興軍は、再びその勢力を島根半島全域にまで拡大する。 元亀元年10月6日(1570年11月3日)、出雲國における毛利軍劣勢の知らせを受けた元就は、毛利軍を援護するとともに、日本海側の制海権を奪還するため、直屬の水軍部隊・児玉就英を派遣する。この援軍によって、その後の戦いは次第に毛利軍が優勢となり、10月下旬頃には十神山城が、12月には満願寺城が落城するなど、尼子再興軍の勢力は次第に縮小していくこととなる。 そして、元亀2年8月20日(1571年9月8日)頃には、最後の拠點であった新山城が落城。籠城していた尼子勝久は、落城前に脫出して隠岐へ逃れている。 同じ頃、末吉城に籠もり戦っていた幸盛も敗れ、吉川元春に捕らえられる。幸盛は尾高城へ幽閉されることとなるが、その後に隙をついて脫出している。 こうして山陰地域から尼子再興軍は一掃され、1回目の再興運動は失敗に終わった。 第二次尼子再興運動 尾高城から脫出した幸盛は、海を渡って隠岐國へ逃れると、元亀3年3月 - 4月(1572年2月 - 3月)頃には再び海を渡って本土へ戻り、但馬國に潛伏する。 そして、瀬戸內海の海賊・村上武吉や美作三浦氏の重臣・牧尚春らと連絡を取りつつ、再び尼子家再興の機會をうかがっていた。なお、このとき幸盛は亀井姓を名乗っていたようである。 元亀4年(1573年)初頭、幸盛は但馬國から因幡國へ攻め込み、桐山城を攻略して拠點とすると、様々な軍事活動を開始する。幸盛は、因幡國を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を計畫していたと思われる。 このとき、因幡國の実質的な領主は、毛利方の國人・武田高信であった。高信は、去る永祿6年(1563年)に當時の因幡國主・山名豊數と爭って勝利を収めると、毛利氏と連攜をとりつつ因幡の地で勢力拡大をしてきた人物である。 幸盛ら尼子再興軍は、豊數の弟で山名氏再起を目指す山名豊國を味方につけると、因幡國の各地で転戦し勝利を収め、勢力を拡大する。そして、天正元年8月1日(1573年8月28日)、甑山城(こしきやまじょう)の戦いで武田軍に決定的な勝利を得ると(鳥取のたのも崩れ)、高信の居城・鳥取城攻めを本格化させる。 尼子再興軍は、約1,000の兵で武田軍5,000が籠もる鳥取城へ攻め寄ると、その後も攻勢を続け、同年9月下旬に鳥取城を攻略した(尼子再興軍による鳥取城の戦い)。 城に籠もっていた武田家臣らは、尼子再興軍に人質を差し出し降伏した。 鳥取城には山名豊國が入り、尼子再興軍は、私部城に本拠を構え居城とした。 幸盛はその後、10日の間に15城を攻略するなどして勢力を3,000餘りに拡大し、東因幡一円の支配に成功した。 ところが11月上旬、山名豊國が、田公高次などの懐柔により毛利方に寢返る。尼子再興軍は、わずか1ヶ月餘りで毛利氏に鳥取城を奪い返されてしまった。鳥取城を奪われ勢力が不安定となった幸盛は、その後、因幡各地でさまざまな軍事活動・調略を行い、因幡平定に向けて盡力することとなる。 因幡國內で毛利軍と交戦する一方、美作美浦氏や備前國の浦上氏、豊前國の大友氏などの反毛利勢力と連攜を図るとともに、密かに織田信長配下の柴田勝家と連絡を取って體制の立て直しを図っていった。 これら戦いの中で幸盛は、天正2年11月(1574年12月)、美作三浦氏の居城・高田城で宇喜多直家軍を撃退し功績を挙げたとして、大友宗麟から火薬の原料となる塩硝1壷をもらい受けるなどしている。 天正3年5月(1575年7月)、但馬國の山名祐豊が毛利氏と「芸但和睦」と呼ばれる和平交渉を成立させる。 かつて毛利氏と敵対し、尼子再興軍を支援していた祐豊であったが、この頃は信長に但馬の支配権や生野銀山に対する権益を脅かされつつあり、毛利氏と手を組むことは重要であった。 但馬山名氏の支援を受けられなくなった幸盛は、天正3年6月14 - 15日(7月21 - 22日)に因幡國の若桜鬼ヶ城を攻略し、拠點をここに移す。元の居城・私部城には亀井茲矩が入ったとされる。 この若桜鬼ヶ城は、因幡國から但馬・播磨へ向かう山間交通路の結節點に位置しており、敵対する山名氏の本拠である但馬を避けつつ、播磨から京都へ向かうルートを確保するという目的があったと思われる。 6月、吉川元春と小早川隆景は、約47,000の兵を率いて因幡國へ軍を進め、尼子再興軍への総攻撃を開始する。 元春ら毛利軍は、尼子再興軍の諸城を次々と攻略するとともに、8月29日(10月2日)には幸盛が籠もる若桜鬼ヶ城へ攻撃を開始する。尼子再興軍は、毛利軍の攻撃を防ぎ撃退することに成功するも、10月上旬頃には私部城が落城し、因幡における尼子再興軍の拠點はこの若桜鬼ヶ城の1城を殘すのみとなるのである。しかしながら、その後の尼子再興軍の奮戦や、山陽方面で織田氏と毛利氏との間の緊張が高まったことなどにより、10月21日(11月23日)、毛利軍は若桜鬼ヶ城の周辺に多數の付城を築いて因幡から撤退する。 ところが、反毛利勢力の三村氏の滅亡、浦上氏の衰退、また支援を受けていた美作三浦氏が毛利氏に降伏したことなどもあり、尼子再興軍は因幡國において完全に孤立化する。 さらに、元春ら毛利軍主力の撤退後も因幡の毛利勢から圧力を受け続けたこともあって、天正4年(1576年)5月頃、尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し因幡國から撤退する。こうして、2回目の尼子再興運動も失敗に終わった。 第三次尼子再興運動 - 幸盛の死 因幡國より撤退した幸盛は、織田信長を頼り京へ上る。 京で信長に面會した幸盛は、信長より「良き男」と稱され、「四十里鹿毛」という駿馬を賜わったという。その後、幸盛は織田軍の下で尼子家再興を目指すことになる。 天正4年(1576年)、幸盛ら尼子再興軍は明智光秀の軍に加わり、但馬八木城攻めや丹波籾井城攻めに參加する。11月、明智軍が籾井城を攻めて敗れると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍の殿となり、追撃する波多野・赤井軍を迎え撃って切り崩し、軍の崩壊を防いだことで光秀より褒美を賜っている。その他、丹波攻めの際には2度の比類ない働きをした。 天正5年(1577年)、幸盛は、信長の嫡子・織田信忠に従い、片岡城攻めや松永久秀が篭城する信貴山城攻めに參加する(信貴山城の戦い)。幸盛はこのとき、片岡城攻めでは1番乗り、信貴山城攻めでは2番乗りの功績を上げた。また、この戦いで幸盛は、久秀配下の將・河合將監を一騎討ちで討ち取っている。 10月、信長の命令を受けた羽柴秀吉が播磨へ進軍を開始すると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍を離れ、秀吉軍の下で戦うこととなる。 12月(1578年1月)、秀吉が、播磨西部の毛利方の拠點である上月城を攻略すると、幸盛は、主君・尼子勝久と共にその城に入る。尼子再興軍は、この城を拠點として最後の尼子家再興を図って行く。 上月城は小城であったが、備前・美作・播磨の國境に位置し、この地域を治める上で重要な拠點であった。城番となった幸盛は、この區域の守備を行うと共に、織田氏と美作江見氏との仲介を行うなど、美作國人の懐柔・調略を行っていく。 天正6年2月1日(1578年3月9日)、宇喜多軍の將・真壁次郎四郎が約3,000の兵で上月城を攻める。この戦いは、幸盛が約800の兵を率いて宇喜多軍を夜討ちし、次郎四郎を討ち取って尼子再興軍が勝利している。 2月中旬(3月下旬)、三木城の別所長治が信長に叛旗を翻し、毛利氏に味方する。 織田氏と交戦狀態にあった毛利氏は、これを好機と捉え、4月、吉川元春・小早川隆景ら率いる3萬以上の兵をもって播磨に進軍する。そして4月18日(5月24日)、尼子再興軍が籠もる上月城を包囲する。 5月4日(6月9日)、毛利軍による上月城包囲の知らせを受けた秀吉は、荒木村重らと共に1萬の軍を率いて上月城の救援に向かい、高倉山に布陣する。しかし、秀吉軍は、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられたことや、6月21日(7月25日 )の高倉山合戦で毛利軍に敗れたこともあって、6月26日(7月30日)に陣を引き払い書寫山まで撤退する。その結果、上月城は孤立無縁となり、兵糧が底を突き、また城を離れる者も後を絶たなくなったため、7月5日(8月8日 )、尼子再興軍は毛利軍に降伏する(上月城の戦い)。 降伏の條件として、尼子勝久及び弟の助四郎は切腹、幸盛と立原久綱は生け捕られ人質となる。その他、毛利氏に敵対した多く者は処刑され、それ以外の者は許され解放された。 人質となった幸盛は、備中松山城に在陣する毛利輝元の下へと連行されることとなる。しかし、途上の備中國合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏家臣の福間元明により謀殺された。享年34または39。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%B9%B8%E7%9B%9B
曲直瀨道三 Manase Dosan(1507年-1594年) 父不詳、母為目賀田攝津守綱清之女、養父堀部左兵衛親真、養母多賀氏;初名正慶,號道三,本名正盛,字一溪,又稱雖知苦齋、翠竹庵和啟迪庵,本姓為源氏,後來獲賜改姓橘氏,今大路家家祖,為日本醫學中興之祖,與田代三喜、永田德本等並稱「醫聖」。 按『近江栗太郡志』記載,道三原本是近江栗太郡勝部村(現滋賀縣守山市)的佐佐木氏一族勝部氏一門,在雙親死後由伯父伯母養育成人。 道三自小在守山的大光寺吉祥院內學習,按天正五年(1577年)12月翠竹庵道三署名的書狀記載,道三在學成後將自己在勝部村僅有的五反(約5平方公里)農地,捐出其中一反(約一平方公里)給予大光寺。 永正十三年(1516年),道三前往五山文學的中心京都相國寺,成為喝食,學習詩書,並且在此時改姓曲直瀨。享祿元年(1528年),道三前往關東入讀足利學校,並且對醫學產生興趣。道三拜田代三喜為師,學習當時盛行於明朝的李東垣與朱丹溪二個派別的醫學傳統。 天文十五年(1546年),道三重返京都,並且還俗,專注於醫學。道三曾經先後替將軍足利義藤(足利義輝)、細川晴元、三好長慶和松永久秀等武將診症,名聲鵲起,並且在京都建立一間稱為啟迪院的醫學校。 按『雲陣夜話』記載,永祿九年(1566年),毛利元就進攻出雲月山富田城的尼子義久時在陣中病倒,道三曾經前往診症。 天正二年(1574年),道三寫成『啟迪集』,並且在同年獲正親町天皇接見,替其診症的同時獻上此書,正親町天皇便命僧人策彥周良替道三寫序,並且賜道三翠竹院的稱號。織田信長在上洛後,道三亦替其診症,並且獲賞賜名香蘭奢待。 道三的作品除了『啟迪集』外,還有『藥性能毒』、『百腹圖說』、『正心集』、『指南針灸集』和『辨証配劑醫燈』等,門下學生數百人,聞名全國。 天正十二年(1584年),道三替豐後府內的耶穌會傳教士奧爾岡蒂諾診症,因緣際會下信奉基督教,並且受洗,洗禮名是Bellshawl。天正二十年(1592年),道三獲後陽成天皇賜姓橘氏和今大路的家號。 文祿三年(1594年)1月4日死去,年八十七歲,追贈正二位法印。死前收其侄曲直瀨玄朔為養子,以後代代均擔任官醫。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B2%E7%9B%B4%E7%80%A8%E9%81%93%E4%B8%89
毛利元就 Mori Motonari(1497年-1571年) 毛利弘元的次子、母為福原廣俊之女、正室為吉川國經之女.妙玖、側室為乃美大方、三吉隆亮之妹.三吉氏、小幡元重之姐.中の丸;幼名松壽丸,通稱少輔次郎、右馬頭,渾名:乞食若殿、謀神,戒名洞春寺殿日賴洞春大居士。 明應九年(1500年),父親弘元因捲入大內氏及幕府之間的紛爭決定讓位給嫡男.毛利興元,元就和弘元移居多治比猿掛城。 文龜元年(1501年),母親死亡,永正三年(1506年)父親弘元因酒毒逝世,元就自少在失去雙親下長大。及後元就的居城被家臣井上元盛霸佔,因此元就被戲稱為「乞食若殿」。由養母杉大方(弘元側室)養大元就,永正八年(1511年)元服。 永正十三年(1516年),長兄興元病逝,由興元年幼的長男幸松丸就任。而附近的安藝武田氏看見毛利氏的混亂開始入侵毛利的領地,武田元繁率領大軍攻打吉川氏的有田城。吉川氏向毛利氏求援,元就為挽救有田城,代替幸松丸出兵救援,這是元就第一場參與的戰役。他用計謀引誘武田氏先鋒熊谷元直追擊並墮入毛利氏的埋伏圈,熊谷元直隊全軍覆沒,後來總大將武田元繁欲來支援熊谷隊,兩軍在城外附近爆發混戰,最後武田軍主將武田元繁被毛利氏弓箭手狙擊中箭陣亡(有田中井手之戰),此戰又被後世稱為西國的桶狹間。安藝武田氏隨之衰落。 大永三年(1523年),元就在支援尼子經久攻打安藝國的支持大內氏的藏田氏,是為鏡山城之戰,元就用計誘降敵將藏田直信從而攻陷鏡山城,因而威名大振,但毛利幸松丸也在此戰在後,以9歲幼齡病逝,最終家臣推舉元就為毛利家的繼續人。反對他為繼承人包括兩位家老阪廣秀、渡邊勝,在尼子氏的煽動下受到重臣龜井秀綱的指示下他們嘗試謀反,推舉元就之弟相合元綱取而代之。但元就在志道廣良協助下,清除謀反勢力。 大永五年(1525年),由於毛利氏與尼子家敵對及家督繼承人問題內耗下,元就決定轉而臣服於大內義興之下。 享祿二年(1529年),攻滅曾經透過幸松丸介入毛利家的外戚石見國人眾高橋興光。同年,與長年宿敵宍戶家修補關係。將其中一名女兒嫁給宍戶氏家督宍戶元源嫡孫宍戶隆家。後來毛利家亦招攬生城山天野氏及有著殺父之仇的原武田氏家臣熊谷氏,確保安藝國人盟主的地位。 天文八年(1539年),大內氏消滅北九州大名少貳氏,大內氏與大友氏關係得以和解。因而安心向安藝武田氏發動攻擊,首先是向佐東銀山城發動攻擊,元就跟隨戰鬥,城主武田信實逃離佐東銀山城,一度前往若狹國,後來成為尼子氏家臣。 天文九年(1540年),尼子晴久率領三萬大軍入侵吉田郡山城,分兩路進攻毛利氏。先鋒由尼子氏精銳部隊新宮黨擔當,尼子國久為大將經備後進入安藝,元就向姻親宍戶氏求援,宍戶氏及深瀨氏部隊在可愛川附近以投石戰術截擊新宮黨,尼子國久敗走。尼子晴久稍後親率尼子大軍經石見進入安藝,並得到毛利氏舊盟吉川氏加入,在吉田郡山城附近的風越山佈下本陣。元就徵召全境領民加上原有的3000兵準備籠城戰死守,並向大內氏及附近安藝國人眾求援。基於劣勢,毛利軍採取游擊戰減少士兵傷亡,竹原小早川氏及駐紮在豐島的大內氏杉隆相部隊亦與毛利氏合流,尼子勢亦把本陣轉移至青光山。戰事由8月初持續到11月底,他們終於等到大內氏援軍,在陶隆房率領1萬士兵支援下,毛利氏和大內氏部隊成功突襲尼子本陣,討取尼子氏高尾久友,尼子氏戰況危急,原來反對尼子晴久出兵的尼子久幸不惜犧牲己命,掩護晴久撤退,結果被毛利氏中原善左衛門討取。毛利和大內的襲擊成功迫使士氣低落的尼子軍撤退,毛利家確定安藝國的勢力。 同年,毛利軍順勢收復被尼子軍攻佔的佐東銀山城,武田氏家督武田信實逃亡到出雲國,一門眾武田信重切腹自盡,安藝武田氏徹底滅亡。戰後元就將安藝武田氏旗下的川內警固眾組織化,後來成為毛利水軍的基礎。 天文十一年(1542年)至天文十二年(1543年)與大內軍聯合攻打月山富田城(第一次月山富田城之戰),但是安藝國吉川氏家督吉川興經、出雲國人眾三澤為清、三刀屋久扶等叛變,由於大內軍戰線過長,後路一度被尼子軍阻礙,毛利氏家臣渡邊通喬裝為元就的替身,與安藝國人眾小早川正平等人的以死相許奮戰下,元就安全返回吉田郡山城。次年,元就派遣兒玉就忠以及福原貞俊支援備後國三吉氏,但是支援軍被尼子軍所擊敗(布野崩)。 長期臣服於大內氏之下,亦為大內氏立下功勞的元就備受大內義隆的信任,大內義隆將大內氏家老重臣內藤興盛之女收為養女,並許配給曾在山口擔任人質的元就長子.毛利隆元,以此強化大內和毛利的關係。 天文十六年(1547年),元就試圖控制正室妙玖出身的吉川氏,他利用當時吉川氏家臣團的不和,拉攏吉川興經叔父、妙玖的兄弟吉川經世,幫助經世剷除興經寵信的家臣大鹽右衛門尉,並與吉川經世、森脅祐有合謀迫使吉川興經隱居,將次男(吉川元春)過繼吉川氏成為興經的養子,把興經送到毛利領內監視居住。 三年後,元就為免除禍根,委派旗下的國人眾熊谷信直、天野隆重就將吉川興經及其子吉川千法師殺死。另外,元就亦介入安藝國人眾小早川氏的繼承人問題,當時小早川氏分為竹原小早川氏和沼田小早川氏,竹原小早川氏家督興景病亡無嗣,元就先把三子德壽丸(小早川隆景)送往竹原繼承竹原小早川氏,得到手島景繁及磯兼景通等竹原家家臣支持。沼田小早川氏家督小早川正平在月山富田城之戰陣亡,當時小早川繁平(小早川正平長子)雙目失明並不適合繼任家督,元就計劃讓小早川隆景迎娶正平之女,並繼承沼田家,一統兩家小早川。為此元就重施故技拉攏沼田家家臣,如乃美宗勝、椋梨弘平、梨子羽宣平、國貞景氏,但也有部分小早川氏家臣反對,在親毛利派的沼田家臣協助下,反對派的田阪全慶、土倉秋平、近宗長平被殺,小早川氏落入毛利氏的控制下,小早川繁平隱居讓渡家督予小早川隆景,兩小早川氏重新統一。 透過這兩次事件,毛利氏控制吉川氏及小早川氏,確立毛利兩川體制,吉川氏鄰近出雲國和石見國,小早川氏則握有水軍且位處安藝國東南,兩家直接併入毛利氏無疑大大增強毛利氏的實力。元就透過婚姻外交結盟、軍事援助及過繼等手段,把毛利氏勢力逐漸伸展至整個安藝國,甚至接受大內氏的命令進入臨近的備後國,攻打親尼子氏的備後國人眾江田隆連、杉原理興等。 天文十九年(1550年),元就一舉剪除以家臣井上元兼為首的安藝井上氏一族,僅少數井上族人因或與毛利氏有姻親關係;或為元就心腹得以倖免,事件過後毛利氏家臣發表向元就忠誠的宣誓文書。透過這次清洗行動,元就加強家臣對主家的向心力,代表毛利氏正式轉化為戰國大名。 天文二十年(1551年),大內義隆被家臣陶晴賢推翻(大寧寺之變),大內義隆及嫡子龜童丸被弒,陶晴賢不欲負上謀反的罪名,因此向豐後國大友氏過繼大友晴英(大內義長)到大內氏,繼承大內氏。元就一直對陶晴賢的謀反行動不置可否,待義隆死後元就先發制人,出兵攻擊平賀氏的頭崎城及大內氏的槌山城,元就出兵支援平賀氏宗家的平賀廣相奪回被大內義隆指派、來自小早川氏的平賀隆保所佔據的平賀氏家督位置,平賀隆保走投無路下自盡。然而毛利氏仍然未公開跟陶晴賢決裂,石見國吉見氏家督、大內義興女婿吉見正賴首先宣佈討伐陶晴賢,並聯絡元就共事。吉見正賴跟陶晴賢相比實力顯得懸殊,不久戰敗降服。可是這時候,毛利氏卻公開向陶晴賢斷交,並繼續攻打原屬大內氏控制的安藝國西部。 有鑑於兩軍的兵力動員差距,毛利軍最多只能召集4000兵,而陶軍可以召集3萬兵。倘若元就選擇正面跟陶晴賢作戰,可謂毫無勝算。元就決定用計策對付陶晴賢。首先,元就偽造一封書信,刻意洩露給陶晴賢知道,信中涉及毛利氏跟陶晴賢得力家臣江良房榮聯絡,並且得到江良房榮答應擔任內應。陶晴賢不虞有詐,當下捕殺江良房榮。與此同時,元就為避免和大內氏決戰之時受到尼子氏襲擊,元就再次運用偽造書信的策略,同樣刻意把書信洩露給尼子氏家督尼子晴久,元就假造與身兼尼子晴久叔父和丈人、精銳部隊新宮黨領導人尼子國久秘密交往,於是使晴久懷疑新宮黨忠誠,結果晴久召喚新宮黨到月山富田城覲見,以此成功誘殺新宮黨大部分核心成員,包括尼子國久及其子尼子誠久、尼子敬久、誠久數子。尼子誠久第四子在乳母保護下逃亡京都東福寺出家,他就是後來被山中幸盛擁立的尼子勝久。時為天文二十三年(1554年),經過兩次精心策劃的反間計,元就成功削弱大內氏和尼子氏。 為開戰的準備,元就仍需要多做些預備工作,他認為必須把陶晴賢引誘上安藝國南方的嚴島決戰,利用那裏不利於大部隊活動的地形,一舉消滅陶軍,於是他先在嚴島上建築宮尾城,委派己斐直之、新裡宮內少輔率領少量士兵進駐,又派遣間諜進入大內氏領內散佈謠言,宣稱元就害怕陶晴賢攻打宮尾城,讓陶晴賢信以為真。為加強計謀的效果,元就指示擔任自己家臣、嚴島對岸的櫻尾城城主桂元澄寫信予陶晴賢以報父仇為名暗通陶晴賢,願擔任陶軍內應,配合其攻打嚴島雲雲。經過這幾件事,元就成功讓陶晴賢相信攻克宮尾城便能消滅毛利氏。 天文二十三年(1554年),陶晴賢派遣先鋒宮川房長先行出兵三千攻擊毛利氏,雙方在折敷畑山開戰,是為折敷畑之戰。宮川房長部隊和安藝國反毛利氏勢力合流,全軍增加到7000人,但卻被元就、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景四父子從三方面包圍,宮川房長戰敗而亡,支持大內氏的安藝國人眾野間隆實被元就招降後滅族,至此安藝國完全落入毛利氏手中。 天文二十四年(1555年),陶晴賢不顧重臣弘中隆兼等反對決意親征嚴島,弘中等人主張應從陸路攻打毛利氏。陶晴賢得到屋代島水軍的援助,全軍分乘500艘船隻渡海攻打嚴島宮尾城。元就在此時成功爭取到瀨戶內海海賊眾的三家村上水軍加入,據說當元就求助村上水軍時,只要求村上水軍借出船隻一日時間搭載毛利士兵往嚴島。雙方主力在嚴島交戰(嚴島之戰),元就、隆元和元春三父子乘著暴風雨登陸嚴島,並乘夜翻越博弈尾突襲駐紮在山坡下塔之岡的陶軍,另一方面小早川隆景及兒玉就方等率領毛利水軍和村上水軍包圍嚴島對開海面並消滅大內氏的屋代島水軍三浦房清等,陸上的陶軍被毛利軍夜襲而一片混亂,潰不成軍。弘中隆兼及其子隆助嘗試組織士兵抵抗不果,雙雙陣亡。最終僅得4000士兵的元就擊敗5倍於己、號稱二萬大軍的陶晴賢,陶晴賢本人則一路奔逃到陶軍登陸地大元浦,他眼見海面盡是毛利水軍,自覺無路可逃便自盡斷。經此一役,毛利氏加緊進攻大內氏領地,確立橫跨周防、安藝兩國的霸權。 弘治三年(1557年),出兵攻打大內氏(防長經略),接連擊敗或降服大內氏的國人眾,如杉隆泰、椙杜隆康、山崎興盛、江良賢宣等,包圍長門且山城,大內氏家老內藤隆世以毛利氏許諾保全大內義長性命為條件開城投降後切腹自盡,但毛利氏仍強逼義長自盡,大內氏亦告滅亡。同年,亦將家督讓給毛利隆元,但是自己繼續掌握實權。 雖然毛利氏控制大內氏大部份在中國地方的舊領土,毛利軍為奪取石見銀山屢屢向尼子家發起攻勢,弘治二年(1556年)敗給尼子晴久後(忍原崩),永祿二年(1559年)元就再度進攻,雖拿下小笠原長雄鎮守的溫湯城,但無法打下山吹城,毛利軍在撤退時遭到山吹城守將本城常光的突襲受到重創,毛利軍大敗而回(降露阪之戰)。及後,元就假意答應讓出石見銀山的管理權,方能讓本城常光倒戈投降,但本城一族隨即遭到毛利氏誅殺,銀山落入毛利氏手中。本城常光的死令不少一度轉投毛利氏的石見、出雲國人眾,如福屋隆兼、三澤為清、三刀屋久祐等重投尼子氏。 永祿三年(1560年)12月,尼子晴久病逝,由尼子義久繼任。尼子氏出現混亂,幕府將軍足利義輝介入,雖然元就一度無意與幕府協調和解工作,但是為顧及面子,元就決定與尼子氏和睦,史稱雲藝和議。但是毛利氏在第二年撕毀和約。 永祿四年(1561年),尼子軍前線主將本城常光被元就派人勸降。翌年,派兵攻打尼子軍的白鹿城,毛利軍攻佔白鹿城之後基本上將月山富田城包圍起來,對尼子氏來說白鹿城的失陷等於月山富田城已無屏障,大批國人眾被逼降服於毛利氏之下。其後為攻打月山富田城做好足夠的準備。 永祿六年(1563年),毛利隆元在備後國與當地國人眾和智誠春見面後突然急病逝世,對元就造成不少打擊,有傳隆元被下毒暗殺,元就命令和智誠春及隆元心腹赤川元保自盡以示負責。 永祿八年(1565年),毛利軍對月山富田城開始進行包圍,第一次包圍被尼子軍擊退。同年9月,進行第二次包圍,期間成功散佈謠言雲尼子氏家老宇山久兼已和毛利氏內通,尼子義久盡信傳言,將負責處理兵糧的宇山久兼斬首處死。毛利軍經過長時間的包圍下,城內開始缺糧,城中開始以粥代飯,陸續出現投降的士兵。11月,尼子義久向毛利軍投降,與兩名弟弟移送安藝國監禁長達二十多年。當時毛利氏已經成為控制八國的大名。 尼子仍未正式滅亡,部份尼子家家餘臣仍然嘗試作出反抗,山中幸盛推舉尼子誠久在京都出家的兒子尼子勝久,試圖恢復尼子氏的政權,另外大友氏亦準備在九州進行爭奪原屬大內氏的豐前國和築後國領地,長年流亡大友氏的大內義興之侄大內輝弘得到大友氏援助試圖恢復大內氏,向山口發動突襲,毛利陷入兩難情況。毛利氏為進入北九州的門戶——豐前門司城多番和大友氏作戰,並且和古處山城的秋月種實結盟,又策反臣從大友氏的立花山城城主立花鑑載和寶滿山城城主高橋鑑種,經過權衡得失之後,元就決定與大友軍和解,撤兵返回中國地方平定大內氏和尼子氏的殘餘勢力。毛利放棄九州的領土,把大友宗麟一直無法攻佔的門司城讓出,最後毛利軍擊敗受大友氏援助入侵周防的大內輝弘。雖然多個出雲國的城堡被尼子軍攻佔,但毛利軍成功守住險要月山富田城。元龜元年(1570年),毛利輝元率兵在布部山之戰擊敗尼子軍,將尼子軍完全驅逐出雲。 晚年期間,元就開始與京畿活躍的勢力接觸,幕府將軍足利義昭與織田信長關係決裂後,曾拉攏元就參與「信長包圍網」,不過元就拒絕義昭,元就並與信長維持良好關係,在元就逝世,信長派遣使者悼念他。 元就踏入晚年身體開始衰弱,曾經找足利義輝醫師曲直瀨道三治療,並且成功康復。但最終元龜二年(1571年)6月14日,於吉田郡山城病逝,年七十五歲。 出處:https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1