首頁 Tags 小野寺義道

Tag: 小野寺義道

九戶政實 Kunohe Masazane(1536年-1591年) 九戶信仲的長子、母為八戶但馬之女、正室為北の方;別名左近將監。 相傳九戶氏亦是南部一族,也有其他資料稱其出自小笠原氏。九戶氏在政實這代的帶領之下變得十分壯大。 永祿十二年(1569年),受到南部晴政的請求,要求擊退侵略鹿角郡的安東愛季。之後斯波氏侵攻之際也有去支援石川高信,並有講和的貢獻。 天正十年(1582年),南部晴政去世,之後南部晴繼繼承當主。但晴繼在參加完父親的喪禮回歸三戶城的途中遭到暗殺(亦有病死說),因此南部家的家督位置又這麼的空了下來。 南部氏便緊急招集重臣們開評定會。後繼者名單有先前是南部晴政養子身分的石川信直(南部信直),以及一族中最有力勢力的九戶家,推舉政實之弟九戶實親(妻為南部晴政之女)。評定會時推舉實親的聲浪是比較高的,但在北信愛向八戶政榮的調略之下,結果還是由南部信直繼承家督。 而政實對有恩的南部宗家繼承者南部晴繼遭暗殺此事感到相當憤怒,謠傳暗殺晴繼的人正是南部信直,所以政實對信直的繼承感到相當不滿,因此返回本據地。(但也有南部晴繼是九戶家暗殺的說法。) 天正十四年(1586年),政實對於南部信直公開自稱是南部家的正式家督之事非常不快。在天正十八年(1590年)豐臣秀吉的奧州仕置後,政實的行動逐漸轉為激烈,先是天正十九年(1591年)初,拒絕對南部氏的正月參拜,接著3月就以5000人的兵力舉兵叛亂。 而南部信直應對此事,選擇向豐臣秀吉送出使者,請求討伐政實。秀吉便命令豐臣秀次為總大將,蒲生氏鄉、淺野長政及石田三成為輔,率主力軍向奧州開始進軍,同時要求其他的東北大名參陣(小野寺義道、大浦為信、戶澤政盛、秋田實季等),九戶討伐軍的兵力自此上看6萬人。 同年9月1日,討伐軍開始攻擊九戶氏的領地,怒濤般的攻勢讓九戶氏不得不選擇籠城作戰,9月2日便開始包圍九戶城,即使是再怎麼善戰的政實,也不得不感到龐大的壓力。後來選擇在9月4日時,以出家為條件,向九戶討伐軍投降。 最後政實及實親兄弟倆被綁到豐臣秀次的陣中遭斬首,結果九戶一族不論男女老幼,皆遭殺害,九戶一族自此滅亡。不過政實之弟中野康實的子孫以中野氏的身分存活下去,日後成為與八戶氏、北氏同等級的家老氏族,乃南部家老「禦三家」之一。 出處:http://zh.wikipedia.org/zh-hk/%E4%B9%9D%E6%88%B6%E6%94%BF%E5%AF%A6
仁賀保挙誠 NiKaho Takanobu(1560年-1624年) 出羽国由利郡の南部を支配した。実名は文書上確認されるのは「光誠(みつしげ)」であり、これは次男の誠政が将軍徳川家光の「光」の字を憚り、代わりに「挙」の字を当てたためと考えられている(自身も光政から名を誠政に変えている)。なお『寛政重修諸家譜』では、挙誠を「たかのぶ」と読ませている。 仁賀保氏は通字に「挙」を、家紋に「一文字に三つ星」をそれぞれ使用するため大江氏との関係を指摘する旨もあるが、「挙」の通字は文書上は確認されない。これは大井姓が誤伝により大江と伝えられ、これによるものであると考えられる。仁賀保氏はその家系は断続的ながら文書上に確認されており、「光長」「光誠」など「光」が通字であったのであろう。また、家紋は「一文字に三つ星」の他に「松葉菱」も使用しており、大井氏の流れを汲むのはほぼ確実である。 仁賀保氏の成立 仁賀保氏は清和源氏小笠原氏流の大井氏の流れを汲み、その祖先は元々は信濃大井庄の領主であった大井朝光である。朝光は叔母である大弐局より出羽国由利郡を相続し、その縁で由利郡に信濃大井氏が繁栄することとなる。鎌倉時代初期、大井氏は信濃大井庄を本貫の地とし、地頭代を派遣して由利郡を支配していた。これは鎌倉時代末期まで続いていたと考えられる。当初は「津雲出郷」と呼ばれた矢島郷(現在の由利本荘市矢島町付近)を支配した矢島氏が地頭代であったらしい。矢島氏の祖と考えられる大井政光と仁賀保氏の祖と考えられる甲斐守光長は兄弟であるらしく、光長の孫の友光の代には仁賀保郷(現在のにかほ市付近)に進出していたらしい。仁賀保氏の菩提寺である禅林寺にはこの時代からの位牌が残っている。 後、建武の新政・南北朝などの混乱期を経て、由利郡は大井氏からの独立の気運があったと考えられ、それを制するために新たに地頭代として任命されて由利郡に移住してくる者達が多く居たようである。特に、後に赤尾津(あかおつ)氏とも呼ばれる小介川(こすけがわ)氏は大井氏の分家として、由利郡の北から雄物川河口部にかけて勢力を広げ、室町時代中期には醍醐寺三宝院門跡領を横領するほど勢力を増した。友光の四男の友挙は彼らを説圧するために鎌倉より下されたと伝えられる。 無論、当時の東北地方の政治状況から勘案すれば、事は簡単なものではなく、関東管領・出羽探題・室町幕府の思惑が複雑に絡んだものであったと考えられる。当時の大井宗家の当主である持光は鎌倉公方足利成氏の外祖父にあたり、関東管領である上杉氏と対立関係にあった。また、醍醐寺の荘園を横領した大井氏の分家の小介川氏(赤尾津氏)の存在もあり、上杉氏と近い関係にあった大井氏分家の友挙の由利郡下向は、非常に政治的なものであったのだろう。 友挙の子の大和守挙政は、主な領地名である仁賀保郷を以って「仁賀保」を名字とした。仁賀保の名は大永4年(1524年)の長尾為景宛斯波政綿書状の中に出てきており、この時代、仁賀保氏は中央政権に対して馬の献上をもしていたらしき事が推察される。 挙政の子の挙久は優れた人物で、兵を庄内地方に進め、日本海に浮かぶ飛島を切り取るなど活躍したが、矢島氏との戦いに敗れて討死したことにより仁賀保氏は衰退した。この時代、北出羽では湊安東氏、小野寺氏は京都御扶持衆であり、仁賀保氏は定かではないが、同じ由利郡の国人領主である滝沢氏が京都に代官所を持っていた事、御用商人の来訪などからしても、中央政権に近い有力な国人領主としての地位を確立していたらしい。 挙誠の登場 挙誠は仁賀保氏がお家騒動と敗戦により当主が挙久から4代続けて非業の死を遂げた後に、一族である赤尾津氏から養子に入った仁賀保氏中興の祖である。仁賀保氏は歴代、山内上杉家またその分家の越後上杉家、長尾氏と関係が深く、本庄氏や大宝寺氏らと共に上杉氏の影響を受けていたらしい。上杉謙信の死後、長尾上杉氏の影響下にあった出羽庄内の大宝寺氏当主の大宝寺義氏が独立を目指すと、仁賀保氏は大宝寺氏らと戦うことになる。また、義氏は仙北の小野寺義道と同盟し、背後より矢島氏に仁賀保氏を攻めさせた。この為仁賀保氏は国力を大きく落とし、天正10年(1582年)頃より翌11年(1583年)にかけ、義氏に何度か大きく攻め込まれた。このため、仁賀保氏は5代当主の重挙が死亡後、独自に当主を立てられなかったものと考えられる。6代当主の八郎が没した後、仁賀保宮内少輔など有力な一族が居たにもかかわらず、挙誠が赤尾津氏より養子に入ったのは、赤尾津氏を支援した安東愛季の意思が働いたものか。 挙誠が家督を継いだ天正13年(1585年)の時点の仁賀保氏は、小野寺氏の有力一族である西馬音内(にしもない)氏の娘を娶っていた矢島満安と鋭く敵対していたが、出羽庄内地方に最上義光が勢力を伸ばし、上杉方の大宝寺氏と戦闘を繰り返しており、背腹両面に敵を受けるわけには行かないので、矢島満安と和睦し、庄内戦に専念した。この頃、大宝寺義氏は重臣の東禅寺義長の謀反によって殺され、義氏の弟の義興が当主となっていた。義興と東禅寺義長が対立しており、更には大宝寺氏を本庄繁長・上杉景勝が、東禅寺氏を最上義光がそれぞれ支援していた。この戦いは本庄繁長が庄内に攻め込み、東禅寺義長を討ち取り最上軍を殲滅した事によりケリがついた。 さてこの騒動の間、最上義光は不利になりつつあった庄内での戦いを有利に進めるため、由利郡の国人領主にも使いし、自身に与同する様に要請している。この際、義光は豊臣秀吉の惣無事令を実行する代官であるという立場を強調している。無論、秀吉の威光を以って仁賀保氏らを自身の配下にしようとする魂胆であるが、あまり効果が無かった様である。仁賀保氏らは秀吉には出仕するが、義光の命令は聞かないという立場をとったようである。天正16年(1588年)になり義光は出羽探題に任ぜられたとして、再び挙誠らに圧力をかけて来たが、越後から本庄繁長が来襲して最上軍を粉砕した事は先述した。これ以後庄内は完全な上杉領となった。この時、仁賀保氏らは庄内に出兵して最上軍を駆逐して回ったらしい。この上杉軍と挙誠の動向からして、庄内の領有権は歴代上杉氏のものであり、上杉軍・仁賀保氏らは豊臣秀吉の惣撫事令に基づく天下軍として最上方を成敗したという形であったらしい。 この直後、義光は仁賀保氏らを揺さぶるためこれと敵対する矢島満安に使者を出し、これを懐柔することに成功する。挙誠らは満安の単独行動を良しとせず、奸智により矢島氏を攻め滅ぼし、矢島氏を利用して由利郡を自身の領土にしようと画策した義光の野望を挫いた。以後矢島郷は仁賀保氏領となり、秀吉の小田原征伐に加わり、仁賀保郷・矢島郷の領有を認められ、天正18年(1590年)12月24日付の知行宛行状により、由利郡南半分を領有することが決定した。 なお、天正16年(1588年)に最上軍を粉砕した本庄繁長率いる上杉軍は天下軍として賊軍を成敗するという性質を持っていたと解釈すべきである。故に仁賀保氏ら由利衆もこれに加わったものであり、再び翌天正17年(1589年)に安東氏の内紛である湊騒動に対して、由利衆は天下軍として上杉氏より派遣され、秋田実季を支援して戦を鎮めた。よって関東奥羽惣無事令が出されていたのにかかわらず、上杉、仁賀保らの戦闘は私戦は考えられず、天下軍であるとは考えられなかった実季は改易は免れたが、湊安東家の領土は没収され天領となった。 挙誠の領地 挙誠の領地は現在のにかほ市と由利本荘市矢島・鳥海地区に跨る。天正18年(1590年)に奥州仕置が行われたとき、由利郡では仁賀保氏のほか、赤尾津氏、滝沢氏、打越氏、岩屋氏、石沢氏、下村氏、根井氏、玉米氏、潟保氏らの存続が認められた。この内、石沢、下村、玉米、根井、潟保氏は文禄4年(1595年)に他氏の傘下に入ったらしい。 但し、現在にかほ市教育委員会に保管されている「仁賀保家文書」には打越氏・根井氏宛の秀吉からの知行宛行状も含まれている。両氏とも大名として存続しているので、当初から挙誠にまとめて交付され、仁賀保氏の傘下に入っていたらしきことが推察される。後に根井は完全に仁賀保氏の傘下に入り、打越氏は軍事指揮下に入ったようである。また、潟保氏配下の稲葉氏の覚書により、関ヶ原の戦いの折には潟保氏の配下が仁賀保軍に加わっていた事が確認できるので、潟保領も仁賀保氏領になっていたと考えられる。 石高は天正18年(1590年)には3,716石の記載があるが、天正20年(1592年)には8,000石強であることが確認されており、領内に設置された天領分を合わせると1万2,000石はあったものと考えられる。これに後に根井氏・潟保氏分が加わった。 豊臣政権下 他の奥羽の武将の例に漏れず、小田原参陣の後、挙誠は妻子を京都に人質に取られた。翌天正19年(1591年)には九戸政実の乱の討伐軍の一軍として参陣し、『奥羽永慶軍記』によれば大功を立てている。 文禄の役では肥前名護屋城に駐屯し、「おこし炭」の役をこなしている。また、牧使城攻撃の一軍として渡海する予定であったが、落城したため渡海することは無かった。文禄年間末からは北東北総ての大名に言い渡された杉材木の献上事業に豊臣政権が崩壊するまで従事した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、最上義光より東軍与同の誘いを受け、同族の赤尾津氏当主の赤尾津孫次郎と共に東軍に加わり、庄内まで出陣したが、石田三成が挙兵して徳川家康が上洛すると、家康より文書を受けて後、居城に帰還している。その直後、上杉方より唆された矢島満安の遺臣が一揆を起こした為、これを討伐した。この為、庄内の上杉勢を攻めることができず、後に義光より西軍与同の嫌疑を受けた。 しかしながら石田三成が敗死した後、ただ一人徹底抗戦している景勝を攻めた。この際、上杉家臣の下次右衛門の菅野城を始め、数多くの城を攻め落とし、自身も負傷するほど力戦した。このため、後に家康から所領を安堵され、感状を与えられている。戦後、挙誠は秋田実季らと共に西軍与同の嫌疑を受け、慶長7年(1602年)、常陸国武田(現在のひたちなか市)5,000石に移封された。 徳川政権下 常陸武田に移封になった挙誠は江戸に屋敷をつくり、大坂冬の陣では馬廻りの一軍として出兵、翌夏の陣では淀城の守備を務めた。元和2年(1616年)に伏見城番、元和9年(1623年)には大坂城の守衛を務めた。 さて、時の老中土井利勝の家臣に鮭延秀綱という人物が居た。秀綱は元々は最上義光の重臣であり、最上騒動に絡んで土井家に御預けになっていた。その秀綱が主君利勝の諮問に答え、関ヶ原の戦いの時の挙誠の勇戦振りを語った。それに感銘を受けた利勝により元和9年(1623年)10月18日、挙誠は旧領仁賀保に所領を与えられ転封になった。この際、分家の打越氏にも領土の内の矢島郷を与えた様である。よって、仁賀保氏は打越領を含めると旧領をほぼ取り戻したことになる。この際、挙誠は仁賀保主馬という人物に700石与えている。分家であろうかと考えられる。 なお、万石以上が大名であるというのは後世の感覚であり、当時は外様の領土持ちは大名であったと考えるべきである。仁賀保氏も打越氏も領内に居城を持ち、住んでいた。 仁賀保郷に復帰した翌年の寛永元年(1624年)2月14日に死去、享年65(『寛政譜』の没年は誤り)。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E8%B3%80%E4%BF%9D%E6%8C%99%E8%AA%A0
五百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名止々斎、佐竹義重、上杉憲政、結城晴朝、里見義堯、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角承禎、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、足利義輝、足利義昭、福島正則、加藤清正、大谷吉継、島清興、竹中重治、井伊直政、榊原康政、片倉景綱、伊達成実、津軽為信、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、蒲生氏郷、鈴木重秀、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花道雪、立花宗茂、高橋紹運、鍋島直茂、細川幽斎、細川忠興、浅井亮政、林羅山、土井利勝、酒井忠世、青山忠俊、足利義明、稲葉貞通、真田幸昌、小幡景憲、蘆名盛舜、尼子経久、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵
八柏道為 Yagashiwa Michitame(生年不詳-1595年) 八柏道為,八柏館主,稱大和守。八柏氏乃是落合十郎的後裔,自寬正元年(1460)八柏大和守道友入八柏館始稱八柏氏後,世居八柏館擔任小野寺家重臣,多次參與小野寺家平定周邊國人眾的戰事,武勳素著。 在八柏道為繼任八柏館主後,在天文二十一年(1552年)橫手城主橫手光盛糾合金澤八幡宮宗徒謀叛,當主植道出兵討伐時八柏道為亦列陣中,不料征戰中途小野寺家臣增田大學及淺舞內藏助竟然雙雙倒戈和橫手光盛裡應外合,植道無奈敗走轉進湯澤城,在回到湯澤城的路上植道軍被橫手光盛發動的追擊戰打得狼狽不堪,植道身邊的譜代重臣連連折損,在此危難之時八柏道為自願殿後組成三十餘騎的敢死隊衝入進藤原擋住敵軍的追殺。 一時間,八柏軍的勇悍使植道得到喘息的空隙快馬加鞭逃回湯澤城,戰鬥中連八柏道為的從弟,年僅十七歲的孫七也為了護主壯烈犧牲,最後僅道為一人回到湯澤城。 此次大敗後,湯澤城遭到緊追而來的橫手光盛圍城攻打,混戰中植道被一箭射中眉心,絕命當場,藤盛監物抱住植道的遺體逃進湯澤城。驟失當主,使小野寺軍完全混亂,湯澤城也隨之陷落,兵兇戰危之際植道遺兒四郎丸在八柏道為等重臣的保護下投往莊內大寶寺家,三年後借大寶寺家的五千援軍出兵報仇,得到領內被橫手光盛荼毒的百姓支持,攻破橫手光盛軍並將他擊殺,入主橫手城,恢復了往日小野寺家的舊領,四郎丸改名輝道。 在輝道的時代,輝道建立了小野寺氏全盛光輝,作為其麾下軍師的八柏道為也以出色的智謀輔弼輝道構築了小野寺家最大的勢力圈。在天正十四年(1586年)時當主之位已改為輝道之子義道,其時最上義光在暗殺了小野寺盟軍大寶寺家當主義氏侵吞莊內後,趁小野寺家方跟仙北戶澤家火拼一場後將軍勢轉入小野寺領地,數座城池接連陷落,所幸上杉家武將本莊繁長為了援助親子,過繼給大寶寺家的大寶寺義勝而出兵莊內,義光放棄跟小野寺家的戰事,親自出陣莊內。 小野寺義道見機不可失火速出兵五千追擊,以山田清道、八口內定冬、御返事貞光為先鋒直驅最上領邊境的八口內,與最上義光和楯岡滿茂合流後的一萬最上軍於有屋卡對峙。當時最上軍勢為小野寺軍的兩倍,但最上軍背後另有在莊內的戰場,所以兩軍一直都只是以洋槍來往射擊,互相警戒。當時隨軍出陣的八柏道為登上附近的丘陵觀察局勢後地勢後,排下一計命令三十名特別精準的鐵砲射手針對最上軍的先鋒將領射擊,這番挑撥行徑使義光一怒出擊,被八柏道為的假撤退引入一處巖場,倚地利之便布下弓矢、落石夾攻,最上軍慌忙敗退,戰後最上軍死者多達數千之眾,小野寺軍僅僅陣亡三十八人。 翌日,莊內大敗落入上杉家掌中的消息傳來,最上義光重整軍勢在休戰數日後,由嫡子義康率八百騎對小野寺軍急襲,倉皇間生變讓義道無力應付,八柏道為見無力回天於是親身擔下殿軍的職務,拼殺挺住最上軍的攻勢,讓義道從容回到橫手城。 此戰之後,八柏道為深知無法跟上杉軍一爭莊內領地的最上義光必定會將擴張的目標放在小野寺家上,於是以昔日盟友的名義和大寶寺家的新當主義勝再次締盟,並透過他與其父本莊繁長結交,促成和上杉家的交誼,反過來從分別從南北兩方對最上義光進行壓迫。同時為了強化本家的戰力,八柏道為也開始辛勤練兵,並且留下了指導家中眾將的「八柏大和守掟條」三十一條,依照「奧羽永慶軍記」所載的殘篇,其中大致是包含不可斬殺來使、交戰時亦不可割取敵方平民稻米、奪取他人討取之首級死罪等指導性教條。 天正十八年(1590年),豐臣秀吉出兵小田原,小野寺義道雖然前往參陣,但是因為麾下本堂忠親、六鄉政乘搶先一步宣告獨立,且不若最上、大浦、南部是秀吉積極想招徠的對象,所以只得到五萬石的安堵,增田、湯澤檢地代官任命權更被交給最上義光。其後在文祿元年(1592年)秀吉發起朝鮮侵略時,小野寺義道和最上義光、秋田實季前往參陣,然而最上義光卻心懷不軌趁機命楯岡豐前守及鮭延典膳以擁有增田、湯澤檢地代官任命權之名義侵入小野寺家領有的上浦郡,八口內的領主八口內定冬向相交多年且被譽為名軍師的八柏道為求援,但是正逢道為重病無法出兵,但為了援救定冬八柏道為仍迅速調兵遣將從本國派出援軍,但是八口內定冬的情況卻已到最危急的關頭,最後定冬捨命突擊人數是自方十倍之多的最上軍,在一陣奇襲後定冬自知無勝算便自害了。其後最上軍也因為小野寺援軍雲集而退卻。 對小野寺的侵略再次因為八柏道為而受阻,這支撐著小野寺家的老將讓最上義光傷透腦筋,八柏道為是非除不可的。於是最上義光在文祿三年(1594年)模仿昔年毛利元就除去尼子家新宮黨的計謀,讓楯岡豐前守偽造一封八柏道為和最上內通的書信被小野寺義道的妻弟吉田孫市得到,在吉田孫市向義道告發後,義道大怒竟不分黑白,趁八柏道為前來橫手城經過中之橋時派遣刺客將道為暗殺,親手除去了家中最大的柱石,小野寺家也在八柏道為死去後一路急遽衰退。 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=03183&sn=365
飯尾定宗、土岐頼芸、内ヶ島雅氏、明叔慶浚、浅井亮親、多賀貞能、足利義晴、朽木晴綱、三淵晴員、細川藤賢、武田元光、武田信豊、粟屋光若、赤井時家、酒井豊数、下間頼慶、本泉寺蓮悟、富樫晴貞、十市遠忠、越智家増、柳生家厳、筒井順興、筒井順政、湯川直光、畠山稙長、畠山政国、衣笠範景
安東実季 Ando Sanesue(1576年-1660年) 天正15年(1587年)、父・愛季が病死したため、わずか12歳で跡を継ぐこととなったが、その継承に不満を持った従兄で12歳年長の安東通季(豊島通季)が「上国湊安東氏の復興」を掲げて反乱を起こした(湊合戦)。通季は日本海沿岸の海港の確保を願う内陸部の戸沢氏や小野寺氏、北奥の南部氏らの諸勢力とも通じていた。 実季は天正17年(1589年)、機先を制して出陣したが逆に撃退され、自身が檜山城に籠城するなど苦戦を重ねてようやく鎮圧した。通季らの軍勢は実季ら籠城側の十数倍におよび、籠城側は銃を300挺しか持たなかったが、5ヶ月以上も檜山城を守り抜いたといわれる。このときの実季の主力は檜山郡(後の山本郡)に基盤をもつ檜山衆であり、加えて阿仁川流域地方の嘉成氏や米代川中流域の浅利氏一族などの比内衆、また湊から檜山に移った竹ヶ鼻伊予など二十数名の湊衆が与同したといわれる。 この合戦は、北出羽内陸部の平鹿郡、比内郡方面への進出をはかる南部信直やその南部一族から津軽地方の独立をはかる大浦為信との抗争を巻き込んで、北奥羽における政治的激動の震源となった。実季は平鹿郡・雄勝郡地方を本拠とする小野寺義道と戦うが、その隙を狙って東方より侵入した南部信直とも激しく戦っている。 天正17年7月、由利郡の赤尾津氏や津軽の大浦為信との提携をはかることで、戸沢氏や南部氏と結んだ通季を破ることに成功した。 天正18年(1590年)、比内大館を南部氏から奪回した。これには大浦為信の助力があり、浅利頼平は為信の斡旋で比内の地に戻った。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉より小田原征伐への参陣を命じられ、これに従った。 続いて同年に奥州仕置がなされ、天正19年(1591年)には太閤検地がおこなわれた。湊合戦は秀吉によって惣無事令違反と見なされて一時問題となったものの、実季の中央工作もあって出羽国内の所領7万8,500石余のうち約5万2,440石の安堵が認められた(ただし、実高は15万石におよんだといわれる)。旧領の3分の1にあたる約2万6,000石は太閤蔵入地として没収され、実季はその代官に任じられた。 ここで重要なのは、永年にわたる係争の地であった比内(後の北秋田郡)の領有が確定されたことで、比内を地盤とする浅利氏・嘉成氏の領主権は否定された。そして秋田(南秋田郡)・檜山・比内のいわゆる秋田下三郡に加え、豊島郡(河辺郡)を有する大名としての地歩が固められた。なお太閤蔵入地設定の理由としては、蔵米輸送ないし地払いによる運上収益よりもむしろ秋田杉運上のためと考えられている。秋田杉運上は、文禄2年(1593年)の前田利家建造の安宅船の船材運上にはじまり、淀舟材木、橋板を経て、慶長2年(1597年)以降は伏見作事用板(太閤板)の運上として固定した。また領内の土崎湊(現在の秋田港)、能代湊(能代港)の2港を整備して、領国経済を確立させ、両港および越前国敦賀湊(現在福井県敦賀市)などでは米のほか木材を販売している。 奥州仕置後、実季はあらためて平城として、雄物川河口の土崎湊に堀をともなう湊城を築いて本拠をここに移し、秋田城介を号して秋田氏を名乗った。また大館城(大館市)・脇本城(男鹿市)・馬場目城(五城目町)などの要地に功臣・一族を配して、比較的安定した領国支配を築いた。 豊臣秀次を総大将とする天正19年(1591年)の九戸政実の乱における討伐軍、文禄元年(1592年)よりはじまる朝鮮出兵にも参陣している。文禄2年(1593年)の文禄の役での渡海割当は、『浅野家文書』によれば134名であった。 文禄年間にはまた、自領の一部について検地を行った形跡がある。文禄3年(1594年)成立とみられる『秋田城之助殿分限帳』では秋田領は9万8,500石、蔵入地2万9,000石余と算定された。 文禄3年から文禄4年(1594年)にかけては、比内の浅利氏との間に小競り合いが生じている。史料には比内南西部の村がこの時「秋田よりなてきり」「秋田より放火」との記録が残る。浅利氏の家老であった片山弥伝(比内中野)、浅利七兵衛(十二所)、浅利内膳(八木橋)らは、これを機に直接、実季に従うこととなった。 慶長4年(1599年)から翌年にかけては本拠湊城の大規模な改築を行なっている。そこには、多数の大工・鍛冶・大鋸引・葺士・壁塗りが参加したことが記録に残されている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方に立ち、小野寺義道を平鹿郡大森城(秋田県横手市大森町)に攻めた。これについては山形城主最上義光が、実季が裏では小野寺方と通じていて実は東軍方と言えないとして徳川家康に訴えている。それに対し実季は弁明し、家康の嫌疑を晴らすことに成功した。 慶長7年(1602年)、家康の命を受けて常陸国宍戸に転封された。関ヶ原戦の際に不手際があったともいわれるが、常陸国の大名佐竹氏の秋田・仙北への入部にともなうものであった。このとき、姓を秋田から伊駒へと改めている(その後復姓)が、太閤蔵入地とされた旧領が豊臣氏の所領として家康によって没収されたことに対し、実季が不満を抱いたのではないかとも推測される。慶長16年1月15日(1611年2月27日)には、従来自称してきた従五位下秋田城介に正式に補任された。 宍戸藩主となった実季は、慶長19年(1614年)の大坂夏の陣では豊臣方先鋒隊らと激突したものの大損害を出し、敗北を喫した。 寛永7年(1630年)、元和偃武後も戦国大名らしい気骨が横溢していることが幕府の忌み嫌うところとなり、突如伊勢国朝熊(三重県伊勢市朝熊町)へ蟄居を命じられた。嫡男の俊季との不和説や、従来からの檜山系・湊系による家臣間の対立が背後にあったのではないかとする見解もあるが、詳細は不明である。なお、秋田氏は俊季の幕府への忠節と、俊季の母が大御所秀忠の正室崇源院の従姉妹にあたることも幸いして俊季の家督継承が認められ、正保2年(1645年)陸奥三春に5万5,000石移封すると以後幕末まで同地で存続した。 寛永7年以降約30年にわたり、実季は伊勢朝熊の永松寺草庵にて蟄居生活を余儀なくされた。万治2年(1660年)、同地にて死去した。享年85。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%94%B0%E5%AE%9F%E5%AD%A3
安東愛季 Ando Chikasue1539年-1587年 安東舜季的長子、母為安東堯季之女、正室為砂越宗順之女、側室為畠山清信之女;別名近季、渾名北天の斗星、戒名龍隱院殿萬鄉生鐵大禪定門。 安東氏以安倍貞任次子高星為遠祖,在鎌倉時代受幕府之命擔任蝦夷地管理,以津輕十三湊為根據地利用日本海發展商業貿易,被稱為海之豪族,實力跨過津輕海峽,遙領北海道上的和人館主。因而被北條義時封為蝦夷管領。在室町中期遭到三戶南部氏的攻打,當主貞季的兩子在戰敗後各自重起爐灶,先是次子鹿季奪下土崎湊,稱湊系安東家。而長子盛季一脈也在其曾孫政季時攻下葛西秀清的檜山城,遂為檜山系安東家。 繼承家督 繼承父親的地位成為家督後,先求內部發展,積極整頓城下町,善用安東家海上貿易的傳統,派遣家臣清水治郎兵衛政吉駐能代掌管町建設,並負責木材整備工作,在米代川河口建立和北國船隻的交易據點,將米代川上流出產的秋田杉、阿仁礦山的金、鉛等礦產和米、大豆等農産物輸出至京都、關西一帶,構築了緊密的貿易網和情報網,不但替安東家帶大量金錢,也帶來了上方第一手的新消息,同時愛季也活用水運和越後上杉謙信、能登畠山氏、越前朝倉義景等北國大名簽訂商盟,實施遠交近攻的謀略。土崎湊也因此與越前三國湊、加賀本吉湊、能登輪島湊、越中岩瀨、越後今町湊和津輕十三湊合稱北國七湊,是北日本最大的港灣都市。 入侵奧州 永祿元年(1558年),比內豪族淺利則祐之弟淺利勝頼不服兄長獲得繼承權,因而受到愛季利用,成為愛季侵入比內的重要棋子,比內擁有豐沛的森林資源是秋田杉的重要產地,而且淺利氏還支配著大葛、阿仁的礦山,因此早為安東家覬覦。愛季遂趁著這次淺利氏爆發窩裡反之際於永祿五年(1562年)迅速起兵1千5百侵略比內,由於內有親弟勝賴之亂,為了抵禦安東家,淺利則祐離開本據十狐城,將兵力聚集於扇田長岡城展開守城戰,但是寡不敵眾下,淺利則祐終究支撐不住安東家的攻撃,兵敗自盡。戰後,愛季讓淺利勝賴如願當上了淺利氏當主,同時擔任安東家代官管理比內,藉此掌握住比內並能增加來自淺利氏礦山的收入。 永祿六年(1563年),愛季透過莊內的砂越宗順與最上義光結盟,當時沿著雄物川往南便是仙北戶澤氏和小野寺氏的領地,隔著由利郡便是莊內大寶寺氏的地盤,愛季選擇和最上義光聯手正是有意藉義光之力牽制這些敵對勢力,以爭取北上和南部家爭鋒的時間,而最上義光也需要安東家來引開這些敵對勢力的目光,使無法動用最大兵力防守最上家。此時奪下比內的安東家已經與陸奧鹿角郡相鄰接,鹿角郡本為安東家的領地但是卻在室町時代時被南部氏佔去,愛季為此積極策劃對鹿角郡的攻略。永祿6年,愛季派遣接連鹿角邊境的十二所城城代大高築前與鹿角國人眾花輪中務接觸。 而南部方在鹿角郡也以長牛城為中心依夜明島川配置三田、石鳥谷、長內、谷內諸城建設防線,兼之又有大裡、花輪、柴內等郡內國人協助,鞏固著南部家在鹿角郡的支配,令愛季不易下手。然而就在永祿八年(1565年)以降數年間,北奧發生農地大規模的欠收,糧食產量銳減,由於長牛地方本就是稻米的生產重地,加上領內人心惶惶,此時出兵外征,一來可以抒解人口壓力,二來也能趁機奪取南部家的糧食,於是在愛季成功鎮壓因為糧食問題爆發的志戶橋一揆後,便於同年8月愛季聯合比內的淺利氏和阿仁的嘉成一族出兵5千由大館自犀川峽谷越過卷山峠侵入鹿角郡,採用南北夾擊的戰略分別進攻,安東軍一路向長牛、石鳥谷城出擊,另外新降的柴內氏則出兵長嶺、谷內城。南部家當主南部晴政聞悉戰報後連忙調遣田頭、松尾、沼宮內、一方井等岩手眾往援,其時石鳥谷城、長嶺城已經先後陷落,而谷內城也被淺利勝賴所包圍,愛季主軍圍籠長牛城,但是因為冬季來臨,大雪不利攻戰,加上還要準備來年春耕,於是愛季撤圍回國,同時與莊內的土佐林禪棟交誼,藉此牽制大寶寺義氏。 翌年2月,愛季以大高築前為先鋒率領淺利氏、阿仁及投降的鹿角國人,並且調來北海道的蠣崎季廣及由利十二頭聯手,舉兵6千人再度攻打長牛城,城主一戶友義領兵進行城外戰兵敗,其叔父南部彌九郎亦討死,愛季一鼓作氣包圍長牛城,然而南部晴政早有準備,動員一族分家的重臣北、南、東等家起兵援救,愛季迅速退兵。同年10月,愛季再次起兵攻擊鹿角郡,侵襲谷內城,後由於久攻不下,愛季臨時決定轉攻長牛城,長牛城一戶友義應變不及,遭到安東軍全殲,城池被奪,一戶友義逃往三戶,愛季佔領鹿角郡全境。 永祿十一年(1568年)3月,南部晴政以南部信直為總大將,領石川高信、長牛友義協助翻過來滿峠,另外大將九戶政實則經由保呂邊道進入三田城,分別從南北兩面合攻鹿角郡,由於安東家年前方新佔鹿角郡,郡內仍有許多原屬於南部家的勢力存在,當其呼應了南部軍的收復行動,頓時使安東家在鹿角的支配崩解,領內兵士先後投奔南部軍,安東方守將大裡備中無奈潛逃,鹿角郡重歸南部氏掌中,此後兩家於比內、鹿角一線長期對峙。 永祿十二年(1569年),愛季為了緩和南部氏攻略的壓力,與津輕浪岡氏聯姻,津輕浪岡氏與三戶南部家素來交好,同時跟安東家也是自祖輩以來的世交,因此最後愛季在蝦夷領主蠣崎季廣的仲介下將年僅10歲的女兒嫁給浪岡顯村,和與南部家交好的津輕浪岡氏結下姻盟,對安東家來說無疑是在南部背後埋下了一手伏筆,增添許多變數,間接牽制住了南部氏的部分行動。 湊騷動 元龜元年(1570年),原屬於湊安東家的國人眾豐島重村因為在愛季的經濟政策上受損,本來以海運著名的湊安東家所擁有的土崎湊成為愛季的下蛋金雞,但是這份收支卻讓失去支配權的原湊系家臣十分眼紅吃味,兼之整個安東家的重心全在愛季一方,湊系形同附庸,對此不滿的豐島重村於是決定反叛,聯同下刈右京、川尻中務,引小野寺家、戶澤家為後援起兵包圍湊城,監禁愛季之弟安東茂季。(湊騷動) 為解決這場反叛,愛季從檜山城出陣,豐島重村也在又得到莊內大寶寺家協助後,兩軍在推古山對戰,經歷兩年的往來征戰,愛季挾全為強大的軍事力與內政後勤於元龜三年(1572年)獲得勝利,攻下了豐島城,豐島重村敗逃往依靠仁賀保氏。同時愛季掃平了與豐島重村一同起兵的川尻氏、下刈氏,並伺機打擊同樣與土崎湊的交易有著關係的大平氏、新城氏、八柳氏。戰後,湊周邊全為愛季的直轄領,兩安東家在實質上統一,茂季以也將當主之位讓給兒子通季,由愛季擔任後見役,移居豐島城,出羽北部幾乎完全為愛季平定。 上方外交 同時外交觸覺敏銳的愛季雖處於東北羽州,但是經由水運貿易的情報網對天下大勢也有準確的掌握,一方面利用北海道的獸皮、海產與京都來往,並且和制霸中央近畿一帶的織田信長交好,在天正元年(1573年)起開始雙方的書信來往,也派出使者向信長獻上了一頭獵鷹,信長也送來一把太刀作為回禮給愛季,增強兩邊的關係。愛季同時貫徹遠交近攻之略,拒絕大寶寺義氏的和睦之議進而奪下羽根川領。 天正七年(1579年),愛季的使者檜山三次與仙北上浦小野寺輝道、仙北北浦戶澤盛安的使者前田薩摩一同上洛晉見織田信長。天正八年(1580年),愛季在織田信長的仲介下拜領了從五位上侍從的官職,並且讓次子安東實季迎娶了信長的外甥女,細川信良之女為妻,但是與此同時安東家在比內的代官淺利勝賴叛變,愛季意圖迅速出兵平亂,但是卻為淺利勝賴所敗,不得已只好提出和議以暫時安撫。天正十年(1582年),織田信長在本能寺之變中身死,愛季是東北最早知道此一消息的人,並在信長死後,迅速看清中央的局勢,轉與羽柴秀吉通誼。 出羽的北斗星 同年12月,大寶寺義氏進攻由利郡,瀧澤、矢島、打越諸氏偕連戰敗投降,並進而意圖攻打大內村的小助川館,小助川館當主‧由利十二頭之一的赤尾津光政迅速向愛季求援。由於赤尾津氏位在由利郡最北邊,與安東家多有來往,也是愛季侵襲由利郡的橋頭堡,所以愛季連忙派家臣一部勝景為總大將、連同比內的淺利勝賴、阿仁的嘉成重盛共為援軍出陣擊退了大寶寺軍及其援軍小野寺氏,贏得赤尾津氏、羽川氏、岩屋氏等由利北部國人的信賴。 天正十一年(1583年)3月,在大寶寺家退出由利郡後,愛季將矛頭重新指向內部,以邀請淺利勝賴赴宴為由,將他誘入檜山城,在宴中由深持季總、松前慶廣將其斬殺。隨後出兵失去當主的淺利氏,完全併吞比內,勝賴之子賴平投靠津輕為信。 自此,愛季勢力遍及西津輕、比內、檜山、大阿仁、小阿仁、湖東、小鹿島、湊、豐島、赤尾津、羽川,構築安東家的最大版圖,愛季因此被喻為是如同天上北斗星一般的人物。 殞落 愛季接下來將目標訂在仙北,意圖併吞仙北北浦戶澤家,這是因為戶澤家所據的北浦乃是仙北雄物川川筋平原一帶最重要的穀倉,沿雄物川的小野寺、戶澤兩家要對外輸出作物都必須透過舟運經由秋田湊轉口,但是秋田湊卻為愛季掌控,每次通過都會被抽關稅。對愛季來說,單單抽關稅並不能達到最大利益,鯨吞其領地把貿易所得置入自家袋內才是最大利益。 天正十五年(1587年)4月小野寺義道和戶澤盛安不和之際,愛季提出與戶澤聯合打倒小野寺之議,圖收漁翁之利,但是卻被戶澤盛安嚴拒,於是愛季便調轉槍頭,先是對戶澤家採取經濟封鎖,之後以館澤城、淀川城為據點,率兵3千攻打戶澤。 愛季遣家臣鎌田自淀川城出兵截斷戶澤家西方的退路。由於安東家在水運上的經濟封鎖,讓戶澤氏的財源大受打擊,如今愛季又重兵壓境,戶澤盛安在接獲軍報後決議背水一戰,領兵1千2百從荒川城出動,兩軍在秋田、仙北交界的唐松野布陣,戶澤盛安讓家臣進藤築後守分軍於安東軍之東進行遊擊,盛安本人正面迎擊安東軍,在三天的白刃戰鬥後,安東軍敗退,折損3百人,而戶澤軍僅陣亡1百人,只是安東軍的三分之一,猛將嘉成重盛也於是役中戰死。而愛季也在戰敗後,撤兵至男鹿肋本城途中病逝,年四十九歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9D%B1%E6%84%9B%E5%AD%A3
小野寺義道 Onodera Yoshimichi(1566年-1646年) 小野寺景道(輝道?)の次男。子に小野寺保道。出羽国横手城主。 兄で嫡男であった光道が戦死したため、父から家督を譲られる。武勇には優れていたが知略に乏しく、1581年には、支配下にあった鮭延秀綱が離反。同じく影響下にあった由利十二頭の人質の一部が自害した事などから領内に一揆を招いたり、楯岡満茂の謀略によって家臣を誅殺するなど、次第にその勢力を減退させ、最上義光や戸沢盛安との戦いで雄勝郡・平鹿郡などの所領を失った。 天正18年(1590年)には小田原征伐に参陣し、豊臣秀吉に謁見して、所領を安堵された。 だが、その後の奥州仕置において幾つもの不手際によって仙北一揆が起こったのを咎められ、天正19年(1591年)所領の3分の1が没収され、上浦郡に3万1600石を給された。 没収された雄勝郡は最上義光の領土とされたが、義道はこれを認めずに雄勝郡の支配を継続した。 文禄元年(1592年)、文禄の役においては肥前国名護屋に参陣し、その功績から叙位・任官した。 文禄4年(1595年)、最上義光の謀略によって家臣八柏道為を誅殺。 その後、最上義光は雄勝郡を支配するため楯岡城主楯岡満茂が率いる軍勢を湯沢城に差し向けた。 湯沢城が落城した事を聞いた岩崎城主岩崎義高は義道に援軍を要請したが、同日に今泉城、角間城、鍋倉城、植田城、新田目城が最上軍の攻撃にあったため岩崎城の方には手が回らず、ほとんど援軍が来なかった。 その後、前森城主原田大膳が岩崎城に夜襲をかけて落城した。 1600年、関ヶ原の戦いでは最初は東軍に与したが、後に上杉景勝と通じて西軍に寝返ったため、戦後の1601年に徳川家康によって改易され、弟・康道とともに石見国津和野に追放された。1645年、同地で80歳で死去している。 以上のように中央の政争に振り回され、家の存続には失敗した人物ではあったが、その一方で人情味もあったようで、幽閉の身の自分を温かく遇してくれた津和野藩主・坂崎直盛が謀叛の疑いで自害に追い込まれると、秘かにその墓を建立したと言われている。 その後小野寺氏は、坂崎氏の後を受けた津和野藩主・亀井氏の重臣となって明治維新を迎えた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA%E7%BE%A9%E9%81%93
戶澤盛安 Tozawa Moriyasu(1566年-1590年) 戶澤道盛的次子、母為本堂親條之女、側室為仙北在家之女;別名九郎、異名「鬼九郎」、「夜叉九郎」。 戶澤氏是仙北郡豪族,由鐮倉時期便於當地發蹟。在祖父戶澤秀盛年代,與北方的安東家激戰,被安東聯軍所敗,其父道盛更是失去祖地,退守北游。因其祖母奮鬥,方抵禦了小野寺義道的攻勢,最終成功收回了北浦郡和仙北半郡。在安東的壓力下,戶澤氏爆發內亂,親南部氏的家臣擁立16歲的長兄盛重為當主。戶澤氏至此被南部氏兼併,失去大名地位。 天正六年(1578年),父親道盛隱居,由於長兄盛重自幼多病,出家為僧。家督便由年僅十三歲的次子盛安繼承。此後,道盛仍以隱居之身料理著戶澤家的大小事務。 天正七年(1579年),戶澤家家臣前田薩摩守於七月二十五日上洛,向織田信長獻上飛鷹,並得到信長「所領安堵」的許可,這是道盛黯淡的統治中較風光的一幕。 雖然盛安在天正六年(1578年)就繼任為戶澤家當主,但直到天正十四年(1586年)還是一直默默無聞。而這八年,正是北出羽最強者安東家的極盛期。 安東愛季經過近二十年的奮斗,終於在元龜三年(1572年)統一湊與下國的安東家,擊退南部,在北出羽建立起廣大的版圖。安東家獨占著以湊為中心的北日本海的貿易,連織田信長也一度向之示好。隨著南部晴政去世,南部家陷入暫時的混亂,北顧無憂的安東愛季展開對出羽南面諸家的攻略。 首當其鋒的淺利、豐島、大寶寺等國人眾於安東的攻擊調略之下先後走向崩潰:天正十年(1582年),安東愛季假借講和謀殺了淺利勝賴;同年底,荒澤合戰,安東愛季擊敗大寶寺義氏,次年義氏自殺,由利十二頭中的赤尾津、羽川、岩屋諸家向安東降伏。安東家版圖達到最盛期。 天正十四年(1586年),斯波氏、花輪氏等家向安東愛季參禮,其中還包括戶澤屬下的一門滴石氏,安東的獨霸似乎已成為北出羽不可阻擋的潮流。邁入天正十五年(1587年),安東愛季終於把矛頭對准戶澤家。 最初愛季利用戶澤與小野寺的長期不和,一度勸誘盛安與其聯手進攻小野寺,被盛安拒絕。此時的戶澤與小野寺,儼然是唇亡齒寒,由出羽的勢力分布可以看出,假若安東吞並小野寺,戶澤家的領地將被安東家三面包圍,背後又是高山大湖,為安東家所吞並就勢所難免,愛季的要請,是明顯的假途伐虢之計。 洞析形勢與年少氣盛,使得盛安不但拒絕了安東愛季的聯軍要求,反而加強了邊界上的戒備,以示與愛季正面對抗的決心,兩家的沖突由此走向激化。 天正十五年(1587年),安東愛季手下嘉成播磨、鐮田河內攻擊戶澤家澱川城,拉開戰幕。澱川東面荒川城主進藤築後守隨即向戶澤主家求援,此後澱川城陷落。四月二日,安東愛季親率3000騎精銳集結於仙北唐松野,對荒川城發動攻擊,四月五日,盛安引1000騎由小松山出發赴援。此時遭到危脅的小野寺也派出援軍加入戶澤方。除了戶澤家與小野寺之外,出羽其它國人眾如六鄉政乘等也在其中,可見這實際是一場小國人眾聯合對抗安東愛季統一出羽大潮的死戰。 盛安首先以突襲戰術主動攻擊安東軍,並討取安東方嘉成右馬頭重盛。連續5天的激戰,安東愛季突然病發,安東軍被逼撤退。戶澤軍死傷百多人,安東軍則是戶澤軍的三倍。戶澤氏重新奪回澱川城,唐松野之戰以安東軍戰敗而完結。愛季不久病亡,生前統一的檜山安東氏和湊安東氏宣告分裂,戶澤氏和南部氏乘機支持湊安東氏的安東通季與愛季次子實季爭奪家督,安東氏至此走向衰落。 唐松野合戰徹底改變了北出羽諸家的勢力對比,盛極一時的安東因愛季之死而發家內的雪崩,再未回復到之前盛勢;而戶澤則由長期名不見經傳的小國人眾,一躍成為出羽的有力大名。 小野寺氏礙於受到安東氏的威脅,於是出兵緩助戶澤氏,以免唇亡齒寒。但兩家的內在矛盾並沒有因此而解決。唐松野之戰一個月後,戶澤氏突然出兵攻擊小野寺的上浦郡沼館城,小野寺氏雖然正和最上氏對歭,依然派出2000援軍。阿氣野合戰爆發,戶澤氏聯合盟友楢岡氏與小野寺氏開戰,小野寺方的小清水藏人被盛安討取,戶澤氏乘勝攻陷沼館城。但九州征伐的完成,使豐臣秀吉逐漸把目光的焦點集中往關東和奧羽,天正十六年(1588年)五月,秀吉派出使者金山宗洗安撫奧羽諸家,通過金山的調停,最上與小野寺達成和解,這使得盛安再無進攻小野寺之隙。 天正十八年(1590年),豐臣秀吉以前田利家、上杉景勝為先鋒從北陸道、德川家康從東海道,裡見、佐竹、結城由奧州、房總,全面向北條發兵,同時向天下武將發布參戰動員令。津輕為信、最上義光等奧羽大名在收到動員令後馬上前往與秀吉會合,盛安也是其中的一人。 盛安和家中8騎動身隨豐臣秀吉「參戰」。盛安西行的路線,是自仙北去到庄內,再由海路前往京都。當他們到達京都時秀吉已動身前往關東,於是盛安一行又開始追趕秀吉。當在駿河國與秀吉會面後,秀吉當場賜予他寶刀「太閣兼光」,而且賜予盛安北浦郡4萬4千石。然而,盛安不待戰爭完結回鄉,便病死在小田原,年二十五歲,過度的勞累與長途跋涉是他英年早逝的主因。 由於盛安嫡子政盛當時只有4歲的緣故,豐臣秀吉將戶澤氏託付給盛安之弟光盛,由光盛擔任家督繼承人。不過,光盛在朝鮮出兵之時,也以17歲之齡病亡於前去九州大本營的途中,政盛繼任家督。 出處#1 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B6%E6%BE%A4%E7%9B%9B%E5%AE%89 出處#2 http://baike.baidu.com/view/704080.htm
最上義光 Mogami Yoshiaki(1546年-1614年) 最上義守的長子、母為小野少將.永浦尼(大崎氏說?)、正室為大崎義直之女.釋妙英、繼室為清水義氏之女、側室為天童賴貞之女;幼名白壽,通稱源五郎、二郎太郎,受足利義輝偏諱「義」字,名為義光,受領名出羽侍從,別名高榆小僧丸、出羽殿、虎將,戒名光禪寺殿玉山道白大居士。 家督繼承之前 永祿三年(1560年),進行元服禮(一說為永祿元年(1558年)),並與父親義守一同上洛拜見室町幕府第十三代將軍.足利義輝,受義輝賜與偏諱「義」字,改名為源五郎義光。而義光的母親為祝福父子倆人上洛期間的一路平安與武運昌隆所做的繡有「文殊菩薩騎獅像」七個字的刺繡,也在近年間被發現。同時由於伊達氏已經漸漸從天文之亂的內耗中逐漸恢復實力,因此父親義守時代的最上家獨立到接下來持續的領國擴張也大約於同時受到頓挫。 永祿七年(1564年),義光之妹義姬為最上與伊達兩家的友好而嫁給伊達家的家督伊達輝宗,並於永祿十年(1567年)生下長男梵天丸(伊達政宗)。這段婚姻也對於日後兩家之間的外交關係有者非常大的影響。 天正最上之亂 元龜元年(1570年),最上氏內發生混亂,由於對於周遭國人眾與分家的態度和伊達輝宗間領土爭奪的小摩擦,父親義守便與義光產生對立。5月,經宿老氏家定直抱病向義守進諫,兩人換取短暫的和平;同年8月(另一說為翌年(1571年))義守隱居,義光正式成為最上氏家督,但到天正二年(1574年)1月,由於義守對於義光對國人眾所採取的強硬態度深感不安,因此隱居後的義守乃致書信給女婿伊達輝宗派出援軍協同出兵,義光與義守再度爆發對立並轉變成武裝衝突(天正最上之亂)。當時最上家臣與周邊國人眾大都支持義守。最上家與周邊國人眾大致上在當時可以分成兩個派系: 義光方:義光、楯岡光直、大崎義隆、寒河江堯元(寒河江城城主) 義守方:義守、伊達輝宗、大寶寺義氏、白鳥長久(谷地城城主)、上山滿兼(上山城城主)、細川直元(小國城城主)、最上八楯:天童賴貞(天童城城主)、延澤滿延(野邊澤城城主)、長靜守兼、六田氏 最上郡地區領國化 在天正最上之亂的家族內亂之後,儘管義光取得最終勝利,但最上家之分家天童賴貞、東根賴景、上山滿兼等依舊對於義光感到不滿因而進行武力抗爭。谷地城主白鳥長久也於此時向日本京都地區的實力者織田信長派遣使者表示自己是出任羽州探題的最上家的正統繼承者。並獻上巨鷹、良馬給織田信長請求他給予自己出羽守一職。此時的義光面臨的是連最上郡一郡都沒有統一的情形。為此義光整頓家中的法度,之後更為恢復羽州探題最上氏的威信而不斷戰鬥。 天正五年(1577年),義光與以天童氏為首的最上八楯進行短暫的和解,雙方進行停戰,義光也娶天童賴貞的女兒(天童御前)為側室。 天正六年(1578年),上山城主上山滿兼在伊達輝宗的支援下,對最上氏的領地發動侵略作戰。後在義光的頑強抵抗下成功的將上山軍擊退。因為這原因義光便自得意滿起來,魯莽的向伊達輝宗發起攻擊,而察覺到兄長有難的義姬便在柏木山之役中趕到戰場,對義光與伊達輝宗兩人進行說服,成功的使得兩者進行停戰協議。 天正八年(1580年),義光以給予其主家舊領的條件成功的誘使上山滿兼家臣里見義近、民部父子,誅殺同為滿兼家臣的里見民部之兄長里見內藏介,而義光趁此時機發兵上山城,在與里見父子的裡應外合下,誅殺城主上山滿兼,成功的奪取上山城。 天正九年(1581年),義光對村山郡發動侵略作戰。首先在萬騎原之役將天童氏的姻親小國城主.細川直元擊破並佔領小國城。之後更是於夏天對小野寺重臣鮭延城主鮭延秀綱進行調略使其降伏最上氏。 天正十年(1582年),天童御前與義光生下義光三子清水義親沒多久後隨即因產後身體失調死去,因此最上、天童兩家的關係也就再度惡化。 天正十一年(1583年),尾浦城的大寶寺義氏向清水城攻擊,義光對清水城進行救援。翌年,義氏再次攻擊時,義光利用內應的前森藏人,當義氏進軍期間,前森的軍隊向大寶寺義氏突襲,義氏在混亂的期間自盡。 天正十二年(1584年),義光利用嫡子最上義康與白鳥長久女兒的婚姻關係向白鳥長久進行懷柔,之後則是假稱自己病重不已希望長久能夠來到山形城已交代自己死後的後事,藉機暗殺谷地城主白鳥長久,形成山形城日後有名的血染之櫻花典故。(但此典故也有人懷疑乃小說家之創作) 同年義光也攻擊寒河江氏與最上八楯盟主天童氏,可是遭到最上八楯之一的延澤滿延頑強抵抗,最上軍因而撤退,但儘管如此,義光仍讚嘆滿延之武勇並希望將其收為家臣,義光乃利用自己的女兒松尾姬與滿延的長子延澤光昌的婚姻,使滿延、光昌父子歸順義光,因此失去猛將的天童氏與寒河江氏乃被義光擊潰,寒河江家督寒河江堯元兵敗自殺。同時義光也對東根城主.東根賴景的家老里見源右衛門進行調略使其成為已方內應,完成東根城攻略。而剛接替死去的父親天童賴貞繼承天童氏家督之位的天童賴澄則是於同年天童城陷落後投奔伊達家。自此最上八楯宣告完全崩壞。義光也完成壓制最上郡地區全境與該地的領國化。 天正十四年(1586年),小野寺義道侵入最上家領地,雙方於有屋隘口間爆發激戰。在前哨戰中,最上軍敗給小野寺軍,但在戰役的後半段,靠著義光嫡子.義康與家臣楯岡滿茂的奮戰成功的進行反擊並轉敗為勝。 庄內進出與本庄繁長和伊達政宗間的鬥爭 天正十五年(1587年),大寶寺氏秘密與親族上杉家臣本庄繁長串通並試圖接近上杉景勝,但是此消息遭到義光察覺,趁其後援本庄繁長調往協助攻打叛出上杉家的新發田重家時,立即利用內應前森藏人等庄內地區國人眾的力量向大寶寺攻擊,最終大寶寺義興自盡,不過義興的養子大寶寺義勝成功的逃回親生父親本庄繁長領內。 天正十六年(1588年)2月,伊達政宗率兵1萬向義光正室大崎御前的兄長大崎義隆發動進攻,義光率兵5千趕往支援大崎軍並打敗伊達軍(大崎合戰),並策反伊達家重臣鯰貝城主鯰貝宗信,後在義光妹妹義姬突然出現於戰場中懇求最上、伊達兩軍進行停戰後。最上軍與伊達軍便達成和睦,而義姬也因和睦中的條件以伊達家人質身分回到山形城。 同時間,大寶寺義勝與其父親本庄繁長,趁者伊達政宗向大崎義隆發動侵攻期間,向庄內地區發起反攻,並於十五裡原之戰大破以庄內地區以國人眾為主的最上軍,奪回庄內的領地,也趁機向最上氏的領地發動侵略作戰,但隨即在東根城遭到最上軍的奇襲因而撤退。 而日後在庄內裁判權的紛爭中,儘管義光請求之前便有交好的德川家康幫忙說情,但是本庄繁長與大寶寺義勝的外交手腕及上杉家重臣直江兼續與石田三成的關係,使得豐臣秀吉將庄內裁判權的歸屬交給大寶寺義勝,並承認大寶寺氏為上杉氏的與力大名。義光因此在庄內地區的爭奪戰中落敗。 豐臣政權下的義光 在天正十八年(1590年)的小田原征伐中,由於準備父親義守葬禮的關係,義光甚至是比姪子伊達政宗還晚進行出兵,因而幾乎失去領地,幸好在事前拜託德川家康對秀吉的遊說,以及之後義光與其夫人大崎御前一同來到宇都宮城參見豐臣秀吉,因而確保自己24萬石的領地。同時也對於奧州置仕發布後的仙北一揆派兵進行鎮壓並趁機攻佔小野寺氏的部分領地。 天正十九年(1591年),德川家康為討伐九戶政實而來到山形城時,義光便將次子家親送到家康身邊成為其侍童。也成為諸大名裡第一位將兒子送去德川家康身邊擔當貼身侍童的先驅。而同期間,豐臣秀次也為討伐九戶政實而來到山形城,並在此段滯留期間見到義光之女駒姬。秀次對於駒姬的美貌一見鍾情,便數度說服義光將駒姬嫁給自己成為自己的側室之一,起先義光並不同意這婚事,認為應該等到駒姬再年長點時在論及婚嫁。但由於秀次的關白地位,因此義光也沒有強烈拒絕,後來秀次終於說服義光讓駒姬出嫁。同時間,由於豐臣秀賴的出生,義光也派三子清水義親前往大阪擔當秀賴的侍童,希望以此確保最上家的安泰。 天正二十年(1592年),由於豐臣秀吉下令出兵攻打朝鮮的關係,義光因而也率領500名士兵前往九州的前線名護屋城坐鎮,也於同一時間展開山形城的擴建工作。 文祿三年(1594年),義光送一封假的書信給小野寺義道的忠臣八柏道為,成功的讓小野寺義道中義光的離間計誅殺八柏道為,之後小野寺氏在與最上氏的作戰中便經常戰敗,在關原之戰(慶長出羽合戰)時也因加入西軍,而在戰後遭到改易。 文祿四年(1595年),駒姬從山形城出發並抵達大阪,但豐臣秀次卻因謀叛與眾多不良行為的嫌疑,因而遭到秀吉軟禁,駒姬也因而與秀次眾多妻室一同與秀次被軟禁。同年8月,秀次切腹謝罪後。駒姬與秀次妻室一共31人慘遭連坐,被下令押解到京都三條河畔下令處斬,當時駒姬只有15歲。一說駒姬當時也還未成為實質的秀次側室),義光想盡辦法挽救駒姬。但最終噩耗還是傳來。據傳義光夫婦聽聞噩耗時皆悲嘆不已,義光數日內食不下咽,而大崎御前則是在幾天之後便因不明原因隨者駒姬死去的消息傳來而跟著死去。義光也因此事件與伊達政宗一同受到牽連被下令進行自省。此段期間義光長子義康.次子家親也曾為父親義光的安危而進行祈福。 駒姬事件發生後,義光便開始痛恨豐臣秀吉與豐臣家。因而外交態度上出現明顯的改變。一改以往對於豐臣氏進行接近的態度,而是一面倒向支持自己的好友德川家康。當慶長年間於京阪地區發生大地震時(慶長伏見地震),各個大名皆是火速趕往秀吉宅邸確認秀吉安危,但義光卻是第一時間趕往家康宅邸確認德川家康的安危,此外當秀吉邀請家康前去茶會的時候,也自願性的擔當家康的貼身護衛確保家康安危。 慶長三年(1598年),在會津若松城城主蒲生秀行的家臣團之間爆發的鬥爭所引發蒲生家改易的蒲生騷動中,越後的上杉景勝為替豐臣家擔當監視奧羽諸大名的監視者與牽制關東德川家康行動因而入主會津。由於義光與上杉景勝長期在庄內地區的鬥爭與爭奪,加上景勝移封會津後依然握有佐渡島與庄內地區,因此兩者之間也因而產生嚴重矛盾,形成日後最上氏與上杉氏在慶長出羽合戰中激戰的遠因。 在此期間,義光也娶清水城主清水義氏的女兒辰姬(清水御前)為繼室,年紀小義光可能約20至30歲左右的清水御前不但是名協助義光文學與內政的賢內助,據傳也是義光面臨妻女相繼死去與政治上失意的人生最低潮時,帶給他人生一道曙光的女子。 慶長出羽合戰 在秀吉死後的慶長五年(1600年),由於上杉景勝回到領內進行道路整備、城池修築、收集兵器與招募浪人等備戰行動,因而引來周遭大名的舉發,後在上杉氏重臣直江兼續寫出直江狀給德川家康後,引發會津征伐。由於義光與上杉早在以前交惡,加上義光和家康之間的深厚交情,最上氏因而被委任為奧羽地區除伊達外的會津征伐軍總大將,義光命其嫡子義康為自己名代後便率領以6千5百名最上軍為主,共1萬1千名的會津征伐奧羽方面軍蓄勢待發。同年7月,石田三成於京阪地區起兵討伐德川家康,會津征伐軍主力於同月的小山評定後班師趕回西方與石田三成等西軍決戰。而義光底下的奧羽諸路軍在聽聞家康回師之後,也各自帶者自己軍隊撤回己領。 9月1日由於義光支持家康的東軍,上杉氏便以直江兼續為總大將,分別從庄內地區、米澤地區率兵2萬5千向最上氏領地發動侵略作戰,義光自知不敵,因而下令大部分的城兵放棄支城,集中兵力固守堅城池長谷堂城、上山城和主城山形城。 當中畑谷城守將江口光清無視於義光的撤退命令,率領300兵於畑谷城頑強抵抗。當時直江兼續也對於江口的器量感到佩服因而表示只要江口願意降伏的話,便會給與極優的待遇。但是光清無視於直江兼續的勸降,率領城兵頑強抵抗,最後與城兵一同和畑谷城玉石俱焚,而上杉軍也因此場攻城戰傷亡近1千人。畑谷城陷落後,上杉軍主力則繼續深入攻擊最上領,9月14日,上杉軍1萬7千名的主力包圍由守將志村光安與僅1千守軍的長谷堂城。而此期間志村光安與勇將鮭延秀綱奮戰以及城內守軍不斷對上杉軍進行鐵砲和弓箭的攻勢下,長谷堂守軍戰功彪炳,使得直江兼續為首的1萬7千名上杉主力軍久攻長谷堂城依舊無法攻下。此期間在最上家臣上山城城主里見民部、湯澤城城主楯岡滿茂的奮戰下也都順利擊退上杉家的側翼軍與仙北的小野寺軍。 同時間義光也派遣長子義康前往伊達家向伊達政宗請求援軍支援,而此時伊達政宗正是聽聞南部利直打算派軍支援義光因而在南部領內煽動一揆已達到自己擴張領土的目的。政宗在聽聞義康前來求援,而自己留在山形城的母親義姬也寫信請求伊達家支援後,便率兵3千支援最上,但其到達最上領後並沒有直接參與戰鬥,一說即為政宗聽從片倉景綱的意見,打算等到長谷堂的最上、上杉兩軍兵疲馬乏時,再收漁翁之利。 9月29日,當關原之戰的戰報傳給兩軍後,最上軍兵民聽到皆大為振奮,而上杉軍總大將直江兼續聽聞此消息後便解除對長谷堂城的包圍,並立即撤退,義光聯同伊達軍一起追擊上杉軍,但上杉軍卻在此場追擊戰中,在勇將前田利益與水原親憲所帶領的鐵砲隊率領下奮勇作戰,最上軍於此追擊戰中竟付出整場戰役中的最大傷亡,而義光本人也親率軍隊追擊,當時義光身邊的側近軍師堀(築紫)喜吽齋苦勸義光勿衝動出擊,但這時義光本隊卻遭到上杉軍的鐵砲隊火力攻擊,堀喜吽齋為保護義光而子彈從左肩貫穿到右胸當場斃命,而義光身旁的部隊長志村藤右衛門也為保護主公義光隨即成為義光的盾牌,為保護義光而戰死,這時候上杉家的鐵砲隊也成功的打中義光所戴的頭盔,而遠在戰場外的義光嫡長子義康見到父親有難,便率兵趕往父親身邊,成功保護義光。追擊戰最終上杉軍主力回到上杉領國內,而最上軍則是於戰後向上杉家的庄內地區發動侵略作戰,並成功迫使上杉家庄內最後一個據點酒田東禪寺城的守將降伏從城中撤出。 在關原之戰後,最上氏被分配57萬石的領地,當中加封的部分包括上杉氏庄內地區、由利十二黨領地與一部份小野寺義道的領地。 晚年 江戶幕府成立以後,義光為恢復領內的繁榮,因此對於自己的百姓所採取的政策是相當的寬容,也因此相傳在義光時代最上氏的領地都沒有發生過一揆的事蹟。因此義光治下的百姓也常常歌頌到「最上源五郎可是無視稅役的」(最上源五郎は役をばかけぬ)。 之後義光也繼續擴建山形城的規模,不但使山形城成為日本國內數一數二的平城,同時也進行城下町整備,同時也為活絡商人町的發展也對於城下的地子錢與年貢進行免除。並發送土地與整備羽州街道和設立定期市集,同時點對從上杉氏奪來的日本海貿易商港酒田港做非常大的建設與投資。也對於庄內地區到山形城的沿路街道進行改修、擴建。同時義光也對於最上川的水運開鑿下很大的功夫。使其水運量大增並因此改善山形藩的財政,同時也對於工匠為主的職人町設為「御免町」免除各項的勞役,也有部分的工匠受到家臣般的規格待遇。而當時山形城下町數共約31個左右,人口約19,796人,加上最上家臣團,估計當時山形城的人口約到達3萬人左右。 在農政面方面,義光也命家臣北楯利長、新關久正等修建北楯大堰與因幡堰等水利設施使得領內的農業用水獲得解決,庄內平原地區的開發也因而大為發展,即使到今日,日本的庄內地區的農業仍然受到這些水利設施非常大的幫助。 而義光也將庄內地區的大寶寺城進行改築,並更名為鶴岡城,並有意晚年在此鶴岡城進行隱居。但原本義光與嫡子義康良好的關係,卻在短短幾年之內因不明原因而生變,這時候最上家中也有些人有將與幕府親近的次子家親設為繼承人的想法。 慶長八年(1603年,一說為1611年),義光暗殺長男義康,原因不明,這卻是導致最上氏在義光死後家中混亂最後被幕府改易的遠因。(但這件事情近年來也興起一些新的說法,也就是義康暗殺之事也有可能非義光指使,而是由家臣戶井半左衛門自己獨斷暗殺義康。原因在於當義康遭到暗殺之後,義光聽聞消息據傳悲痛不已,甚至痛哭失聲,而義光為準備義康的後事跟早年死去的愛女駒姬的後事也都耗盡心力。) 而義光在『分限帳』提到家臣戶井半左衛門時也有提到「成敗」(處罰)二字。因此義康暗殺是否為義光指使,至今仍舊是個無法確定的定案。 慶長十六年(1611年)3月。義光就任從四位下左近衛少將與出羽守的官職。 慶長十八年(1613年),義光來到駿河城慶祝駿河城擴建完成時開始病發。慶長十九年(1614年),當義光由駿河城回山形城後,於山形城病死,年六十九歲。 出處https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E4%B9%89%E5%85%89
楯岡滿茂 Tateoka Mitsushige(1547年-卒年不詳) 楯岡滿英之子,楯岡氏為最上八楯之一,在應永十三年,最上氏三代家主滿直將四男伊予守滿國分封至楯岡城時始稱楯岡氏。 在繼承父親滿英為楯岡氏七代家督時,正逢最上八楯之首天童氏因不滿主家最上氏新當主義光的強勢集權政策於是連同其他七家力拱義光之弟中野義時奪位。然而在最上義光的反擊下中野義時、天童氏接連戰敗滅亡後,楯岡滿茂也看看清了大勢,改投入義光麾下,之後在最上家的各場合戰中大為活躍。 天正十四年(1586年),小野寺義道率領六千餘均勢南下越過國境八口內侵入最上領,由義光親率一萬最上軍迎擊,兩軍在有屋卡遭遇,最上軍在小野寺方軍師八柏道為設計的伏擊下折損了數千兵馬。最後是義光長子最上義康率領八百精兵反擊,戰中楯岡滿茂跟鮭延秀綱不懈奮戰,方將小野寺軍擊退,本想趁機追擊的最上軍被擔任殿軍的八柏道為橫阻,只好引回山形城。 天正十八年(1590年),豐臣秀吉出兵小田原北條氏,最上義光見勢不可逆於是正式從屬豐臣家,不但得到本領安堵,更獲得了屬於小野寺家領地增田、湯澤的代官任命權,這給了義光入侵小野寺家的口實,當時在義光命令下負責小野寺攻略的中心人物便是楯岡滿茂跟鮭延秀綱。文祿元年(1592年),秀吉發起朝鮮侵略,最上義光與秋田實季、小野寺義道皆領兵至肥前名護屋參陣,最上義光趁機楯岡滿茂讓以擁有增田、湯澤檢地代官任命權之名義出兵小野寺領,從有屋卡越入攻打八口內,雖然楯岡滿茂成功在野戰討死小野寺方的八口內領主八口內定冬,但是小野寺家的軍師八柏道為順利集合草井崎、御返事等援軍來阻後楯岡滿茂也只好收兵撤退。 戰後最上家和小野寺家兩邊的抗爭越加白熱化,屬於最上家的楯岡滿茂和小野寺家的八柏道為雙方各自領兵在國境爭奪上保持一進一退的均勢。最後打破此一形勢的人正是最上義光,最上義光於文祿三年(1594年)施行反間計,楯岡滿茂奉命偽造一封八柏道為和最上內通的書信,然後故意被小野寺義道的妻弟吉田孫市得到,小野寺義道見信後不分青紅皂白,在八柏道為前來橫手城經過中之橋時派遣刺客將道為暗殺。 八柏道為死後,楯岡滿茂身任總大將出兵小野寺方的湯澤城,當時鎮守湯澤城的是八柏道為一族的孫七郎、孫作兄弟。楯岡滿茂領最上軍包圍了湯澤城的三面,獨開一方讓城兵有可以逃亡的道路以打擊城兵的士氣。當時孫七郎兄弟所剩下的兵員僅餘五百人,弟弟孫作獨領三百人出城突擊,但是在楯岡滿茂的早有準備下孫作奮戰之後遭到討取。之後義光又命令由利眾前來援助攻城,孫七郎刺殺妻子、抱必死覺悟統領殘餘的三百城兵再次出城與楯岡滿茂一戰,敗後回城進行十字形切腹自刃。在湯澤城遭到楯岡滿茂攻打時小野寺義道本有從橫手城派出援軍。在打下湯澤城後,楯岡滿茂改封為湯澤城主,負責監看秋田家並繼續和小野寺家對峙 慶長五年(1600年),關原之戰爆發,最上義光支持德川家康,小野寺家因為和最上家的敵對關係倒向石田三成一方,最上義光在長谷堂之戰後重新奪回莊內並攻下酒田城,同時躍馬攻入仙北,討伐無視家康邀請並於橫手城籠城的宿敵小野寺義道。巖谷、瀧澤、仁賀保等由利國人先後投降最上家,時任湯澤城主的楯岡滿茂也領兵平定不投降的赤尾津氏。 戰後,最上義光加封田川、櫛引、飽海、由利四郡,最上家成為擁有五十七萬石的大名,後在慶長八年(1603年)最上義光以雄勝郡的部分領地和佐竹義宣交換他在由利郡的部分領地,取得完整的由利郡,同時楯岡滿茂也因多年之功受命統領由利地方,帶五百騎入龜田赤尾津城。由利郡的五萬五千石領地除了瀧澤氏一萬石、巖谷氏三千石、二千石為最上氏直領外,其餘四萬石全為楯岡滿茂所有,位列最上氏分別帳中的首位,所領的四萬石為最上家中祿高最高的一人。入封由利的楯岡滿茂為了方便對新領地的統治,改在本莊一帶建立本莊城。楯岡滿茂也在領地遷移之際多次隨封地改姓歷經湯澤滿茂、赤尾津滿茂、本莊滿茂等名字,舊領地楯岡由義光之子光直領有。 元和八年(1622年),最上氏家中因為當主繼承問題發生騷動,被將軍德川秀忠以內亂不休之名義改易,楯岡滿茂在由利郡的領地也遭沒收,楯岡滿茂與弟弟滿廣寄居於前橋藩主酒井忠世處,此後生平不詳。 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=03183&sn=375
矢島滿安 Yajima Mitsuyasu(生年不詳-1592年) 矢島義滿的嫡長子,妻為小野寺茂道之女;通稱五郎。 矢島氏與並為由利十二頭國人眾中的仁賀保氏同出一族,乃是甲斐源氏小笠原氏流的大井朝光後裔,因此矢島氏又稱為大井氏。矢島氏和仁賀保氏雖然同出一源,但是經過多年的傳承,兩家在戰國時代已演變成爭奪由利主導權的兩家死敵,但是在父親義滿因仁賀保氏與瀧澤氏的聯軍擊敗,於永祿元年(1558年)因戰傷而死後,矢島氏勢力大退,當時年少的滿安被迫雌伏以積蓄實力。 當時由利一地由十二家國人眾分佔割據,周邊四方卻各有虎視眈眈的一地強豪各自懷抱心思意圖攻略由利,北為安東愛季,東方的小野寺氏、南方庄內大寶寺氏以及山形的最上氏皆非易與,其中滿安選擇與小野寺家合作,迎娶了小野寺一門中西馬音內城主小野寺茂道之女為妻,結成姻親以做後盾。 永祿二年(1559年),矢島氏與瀧澤氏領下的百姓因草場劃分的問題產生爭執,同時在兩家糾紛之際矢島氏家臣沓澤受到瀧澤氏策反,引起滿安的憤怒,派遣麾下將領大河原普玄坊及佐藤築前攻入瀧澤氏領地,瀧澤氏在連戰失利下請來仁賀保氏的援軍,仁賀保氏當主明重在永祿三年(1560年)領軍往援,兩軍在釜淵發生激戰,而滿安也親自領軍應戰,戰陣中滿安仗著六尺九寸的身材優勢,手握四尺八寸的大太刀,腳跨名馬八升栗毛,採用一騎打的戰術於沙場中來回縱橫,硬生生殺敗瀧澤、仁賀保兩家聯軍。發現滿安的強橫戰力,令仁賀保明重生出避免雙方繼續直接對戰的想法,以外交手段向矢島家示弱,達成兩家和議。 矢島、仁賀保兩氏的爭端至此安穩渡至天正年間,期間滿安和北鄰的玉米氏也因為領地地界劃分問題對立日深。天正二年(1574年),矢島氏與瀧澤氏之間的領地糾紛再起,滿安旋即於翌年親自發兵瀧澤氏居城,將之擊潰,並討取瀧澤氏當主瀧澤政家,其子政忠逃向最上家。同年,仁賀保明重為遏止矢島家發展,再度出兵矢島。但是滿安除了武勇過人之外,其謀略亦非俗,在領地中早布有情報網,因此仁賀保明重出兵的情況很快便被滿安探知,趁子吉川洪水渡河不便,仁賀保軍行至中流時親身領兵截擊,打了仁賀保明重一個措手不及而大敗慘虧。翌天正四年(1576年),仁賀保明重為彌補之前失敗的損失,串連玉米氏向矢島氏領地攻擊,滿安再度行使一騎打的戰術,強力切入敵軍陣勢,當場討取了仁賀保明重,擊潰敵軍。 隔年,仁賀保氏舉明重次男安重繼為當主,為替父報仇,仁賀保安重力整軍備出擊矢島氏,為應付這股哀兵,滿安一方面充實防備體制,一方面緊急向小野寺家求援,雙方整頓兵馬後於八月交鋒發生激戰,當主仁賀保安重於混戰中遭到矢島軍討取,仁賀保軍因而大敗且二度喪主於滿安之手。 這番二度戰敗,仁賀保氏的嫡流自此斷絕,遂由分家的治重繼為當主,仁賀保氏被迫隱忍重蓄戰力資源。為阻斷仁賀保氏的復仇希望,滿安用計誘降土門、小川等仁賀保氏家臣為內應,但是因為滿安負責計略的重臣突發疾病身亡,因此拖延了反攻時間,但是在仁賀保氏卻也發生了意外事變,受滿安策反的土門、小川等家臣卻突然暗殺了仁賀保治重,隨後仁賀保氏其他家臣也成功反擊叛將把他們殲滅,由於親族先後陣亡,仁賀保氏迎入鄰近子吉氏一子娶了治重之女為妻,以婿養子的身份入繼。治重之死,截至如今還沒有確切史料可以證明,是肇因於滿安的計略還是仁賀保氏的內部爭端,但是此事與滿安間的關係,總是引人聯想,可說仁賀保氏連三代當主都是因為滿安而亡,兩家仇怨也越結越深。 天正十年(1582年)八月,滿安的後盾小野寺義道與由利眾因為人質問題發生爭端,由利眾素與安東家交好,不甘為小野寺氏壓制,其中有五名被送往小野寺家的人質為保障本家而自刃,由利眾深受感動因此決定背離小野寺家起兵五千人反擊,雙方於平鹿、由利邊境大澤山交戰,小野寺義道憤而動員西馬音內、河連、稻庭氏等共八千兵馬,由利眾中僅有滿安與分家小介川氏跟隨,最後因為小野寺義道指揮不力,大敗在由利眾聯軍之手,戰死者高達四百八十人,同時也讓滿安在由利遭到孤立,形成滿安代表小野寺家獨自與仁賀保氏結合最上家、安東家領導的由利眾對抗的不利局面。但是對,天正十二年(1584年),滿安將本據由根城館移往新庄館。 天正十四年(1586年),仁賀保氏對矢島家燃起復仇之火再度出征其領地,儘管當時滿安臥病在床,卻仍勉力領軍應戰,並且仗著自身豪勇三度以一騎打的方式討取了仁賀保氏當主重勝,這也是仁賀保氏亡於矢島家的第四位家督,但是大將之亡卻反常地激起了仁賀保軍的高亢憤怒,雙方力戰至疲方告退卻。之後,在最上義光出面斡旋下,仁賀保氏迎入和小介川氏有親戚關係的赤尾津氏當主道俊的次男勝俊當養子繼任,同時雙方宣告和睦。 天正十六年(1588年),安東家爆發內訌,湊系的安東道季在南部信直、戶澤盛安挑撥下反叛,攻奪湊城,將當主實季逼入檜山城,並迅速得到了土崎湊周邊的豐島、大平、八柳、新城等原湊系的國人眾支持,壓制小鹿島、湖東、河北,發動十倍兵力直逼檜山城。由利十二頭遂作為安東實季的援軍出兵助實季奪回湊城,滿安也因為與安東實季的家臣大平氏份為親族而參加援戰,並在反攻湊城時擔任先鋒,攻破大門引領友軍入城,助安東實季順利撥亂反正,壓制湊系的叛變。 天正十七年(1589年),滿安遣人進入仁賀保氏領內盜伐杉木,雙方情勢劍拔弩張,各派出兵馬激戰,最後因為仁賀保家的菩提寺禪林寺及矢島家的菩提寺高建寺中的僧人出面來回進行和平勸說,滿安也在老臣建議下同意和睦。同年七月,仁賀保勝俊破棄合約出兵矢島氏,結果反被驍勇善戰的滿安所敗,滿安更一鼓作氣於八月反攻仁賀保家,直逼居館左近,卻反而在釜淵一帶遭到仁賀保軍的包圍,側近金丸帶刀戰死,滿安力戰不懈先後就出相庭市左衛門、小番喜兵衛、金子尾張等家臣,並突擊仁賀保軍,讓矢島軍順利撤走。 此戰之後,仁賀保氏與岩屋氏聯合上書向最上義光指責滿安的惡行,最上義光也早對滿安傾向小野寺家的態度不滿,意圖斷去小野寺家在由利的旗子,承諾將暗殺滿安,並隨即邀滿安前往山形城,滿安對情報的掌握他早知最上義光心懷不軌,因此稱病不去。不料,最上義光於天正十九年(1591年)竟搬出了太閣的名頭,表示要安排滿安前往京都拜見,第二次強邀他前往山形城令滿安不敢落人口實被迫前去。滿安深知最上義光宴無好宴,在安排親弟與兵衛和根井右兵衛尉、小介川攝津等重臣留守後才前往,並且滯留山形期間對飲食、守衛之事完全不敢鬆懈,讓義光一時尋無下手之機。 但素以智計聞名的最上義光又豈是易與之輩,一計不成,又生一計將手伸入矢島家中引誘對連年征戰不滿的矢島家臣,受到滿安倚重的居留守役親弟矢島與兵衛竟與根井右兵衛尉聯手謀叛,並與仁賀保家臣成田忠左衛門串通,謀害了滿安嫡子,聞得此事的滿安岳父西馬音內茂道遂快馬加鞭派人通知滿安。滿安遂在心腹金子安陪的協助下脫出山形城,潛行至家臣猿倉平七的領地,在十二月風雪正大時反攻,鎮壓家中叛變,矢島與兵衛戰死。而這番同室操戈,也讓原本由利眾中戰力最強的矢島家頓時實力減半。 文祿元年(1592年),豐臣秀吉發起對朝鮮的戰爭,由利諸將也都收到調令,滿安鑑於本家在前年的叛亂後實力損傷不少,讓分家小介川氏代理出兵,同時小野寺家受到最上家牽制,仁賀保勝俊觀矢島家已失去所有奧援,不由見獵心喜,與岩屋氏同謀,聯合早對滿安蠻橫態度不滿的其他由利眾,於當年七月強勢壓境包圍矢島家,滿安見態勢不力將居館移往難攻不落的荒倉館。但是在兵力相差太多的劣勢中,矢島家留守家臣不看好滿安,一一接受仁賀保氏的策反,滿安無奈下只能接受家老矢島三右衛門的建議,憑一身武勇帶著家小殺出血路奔向仙北投靠岳父西馬音內茂道。 但是正逢最上義光對小野寺家施使離間計,仁賀保勝俊也擔心小野寺義道藉恢復矢島家的名目侵入由利,因此採用以投向最上家的瀧澤又五郎之計,於文祿二年(1593年)讓與小野寺家有交情的下村藏人和玉米信濃守遣使謊報滿安和西馬音內茂道意圖謀叛,小野寺義道聞訊大怒便派親弟大森康道領兵八百直撲西馬音內城,長年忠心侍奉小野寺家的西馬音內茂道因此大怒,認為這都是滿安才引起義道的疑心,因而主動斷絕與滿安的關係,將他押給大森康道,任憑其處斷,滿安被迫於同年十二月自盡,矢島家就此滅亡。論武略、智計,滿安都是由利十二頭中的佼佼者,但是橫霸的性格及長年不顧領內民生的好戰,也斷去了他的人和,導致他不為臣下所仰亦不為盟友所信,雖然武勇過人,叱吒戰場,終究不免敗亡的命運。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/78275314/

Send this to a friend