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佐竹義昭 Satake Yoshiaki(1531年-1565年) 佐竹義篤的長子、母為小田成治之女、正室為岩城重隆之女、繼室為大掾慶幹之女;幼名德壽丸、別名次郎、佐竹義從。 天文十四年(1545年),父親義篤逝世,義昭繼任為第十七代家督。同年爆發左右關東大局的「川越夜戰」,後北條氏崛起,關東管領山內上杉氏、副管領扇谷上杉氏統治秩序崩潰。 翌年,國人江戶忠通趁義篤逝世,反叛出兵佐竹,義昭聯合小田城小田政治(小田成治養子),展開對水戶的夾擊作戰,一舉攻占入野城,接著在戶村大敗江戶軍。雙方開始長達5年的拉鋸,在義昭持續的壓力下,於天文二十年(1551)6月,江戶忠通降伏,佐竹歸還江戶氏領地。 天文二十年(1551年),北條氏攻擊山內上杉氏平井城,上杉憲政逃亡,向在常陸擴大勢力的義昭請求,想把關東管領職和上杉氏的家名讓於義昭以換取保護(第十二代家督佐竹義人為上杉氏過繼佐竹氏)。但義昭雖對關東管領職有興趣,不過身為清和源氏末裔的佐竹氏,繼承上杉氏的家名不太光彩,因而拒絕。上杉憲政轉而救助於越後的長尾景虎(上杉謙信)。 弘治元年(1555年),義昭派遣家臣橫倉則幹為使者到越後,與上杉謙信交好,而上杉謙信也派遣家臣千阪憲清回訪常陸,兩家通過武藏岩付城主太田資正為中介,達成同盟,在義昭的帶動下,下野宇都宮廣綱、常陸小田氏治(小田政治之子)聯合上杉謙信。 同年,義昭聯同小田氏治共同出兵與北條氏康交結的結城政勝。弘治二年(1556年),結城政勝在北條氏康派遣的援軍太田資正、遠山綱景的支持下,反攻小田氏。小田氏治率兵迎擊,卻在海老島之戰中兵敗,不僅海老島城,連居城小田城都被占奪。但北條氏為抑制佐竹氏,此後又與小田氏治達成和解,並在8月,北條氏派兵幫助小田氏治奪回小田城。 弘治三年(1557年),宇都宮氏的內亂爆發,義昭協助宇都宮廣綱,出陣下野宇都宮郡,擊破壬生綱雄軍,使綱復歸宇都宮城,後來把女兒・南呂院嫁於廣綱,其子為宇都宮國綱。 永祿元年(1558年),與岳父岩城重隆的關系惡化,重隆率軍侵入佐竹領,義昭出陣小裡,與岩城勢對峙,兩軍僵持兩個月。同年六月,以婚姻關係為由而達成和解,各自收兵。 永祿三年(1560年)攻擊結城晴朝並勝利,更進攻白河晴綱的寺山城並獲勝。八月,上杉謙信在上杉憲政和義昭的請求下出兵關東。同年,那須資胤與家臣大關氏和大田原氏對立,大關高增計劃迎義昭次子佐竹義尚(那須資綱)為那須氏的養子來排斥資胤。 永祿五年(1562年),上杉謙信聯合義昭、宇都宮廣綱攻向小山城,結城晴朝率軍來援救小山,兩軍激戰,上杉方取得勝利,攻陷小山氏的祇園城,小山、結城兩氏降伏上杉。不久,小山氏叛回北條,而結城氏則長期在北條和上杉之間搖擺。 同年,在北條氏康的勸誘下,小田氏治反叛上杉謙信,破棄與佐竹同盟,倒向北條氏。當時,小田氏治正與常陸國中部勢力府中城城主大掾貞國(大掾慶幹之子)敵對,貞國因為親緣的關系受到義昭的支援。 由於義昭體弱多病,故於三十二歲盛年時,早早讓位予十六歲的長子.佐竹義重,之後移至常陸府中城隱居,但仍然握有實權。 永祿六年(1563年),上杉謙信再次出兵關東討伐北條氏,義昭親率軍隊前去與上杉軍匯合。小田氏治看准時機,進攻失去依靠的大掾貞國,在三村之戰中擊敗了貞國,並與下野國的那須資胤、結城晴朝結盟,共同抵抗義昭。 同年,那須氏家臣大關高增造反,高增向義昭求助。義昭不顧自身病勢,出陣下野,擊敗那須資胤,將次子佐竹義尚入嗣那須家繼承當主,從而控制那須氏。 永祿七年(1564年)受到與北條氏康和結城晴朝聯手的小田氏治攻擊,但是義昭與上杉謙信和宇都宮廣綱聯手反擊並向小田的領地侵攻並奪取小田城,追擊小田氏治到土浦城(小田城之戰),小田氏治逃往藤澤城。大掾貞國在小田氏治的脅迫下,開始與佐竹敵對。義昭乘機前往府中城,控制局面,追放貞國,改立弟弟佐竹義昌(大掾昌幹)為大掾氏當主,把大掾氏併入從而控制常陸南部。 永祿八年(1565年)11月3日,突然逝世,年35歲。 出處#1 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E6%98%AD 出處#2 http://baike.baidu.com/view/898530.htm
佐竹義篤 Satake Yoshiatsu(1507年-1545年) 佐竹義舜的次子?,庶兄今宮永義(久保田藩士今宮道義祖父)繼承伯父(義舜之兄)今宮周義名跡之故,代其成為義舜之嗣子。 永正十四年(1517年)義舜死去,十一歲繼承佐竹氏家督。因幼少之故,由叔父佐竹義信(義舜之父佐竹義治之子,佐竹北家當主,又稱北義信)作為後見人輔佐。 年輕的義篤並沒有統率佐竹家的器量,與弟弟佐竹義元(後入嗣宇留野家)漸生不和。享祿二年(1529年),義元起兵謀反,攻陷小貫俊通居城部垂城。 天文四年(1535年),佐竹一族之高久義貞也對義篤揭起反旗。此時岩城成隆、江戶忠通開始侵攻佐竹領,高久義貞與此呼應起兵謀叛。然而,義篤在伊達稙宗斡旋下與忠通、成隆兩人和睦,高久義貞陷入孤立的局面。進退兩難的義貞最終向義篤投降,高久義貞之亂終結。 天文七年(1538年),宇留野一族之宇留野長昌起兵謀反。翌年,介入那須政資與那須高資之間的父子爭鬥,與義弟小田政治一同支援政資。 天文九年(1540年)急襲部垂城,宇留野義元走投無路最終自殺,高久義貞謀反之後義元之反亂也落下帷幕(部垂之亂)。義篤將義元方的的兄長今宮永義、小場氏及前小屋氏納入麾下。對外的同白河結城氏與那須氏作戰擴大勢力,常陸國內使江戶氏成為從屬,統一了常陸北部,實現了佐竹氏的戰國大名化。 此外,借室町幕府奉公眾美濃佐竹氏之佐竹基親來訪關東之際與幕府再次構築關係。伊達氏天文之亂時屬於伊達晴宗一方,與伊達稙宗方相馬氏作戰。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=3#postid-140 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E7%AF%A4_(%E5%8D%81%E5%85%AD%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB)
三百位人物:羽柴秀次、石川五右衛門、久武親直、三好政勝、一条兼定、河野通直、来島通康、松平忠吉、阿蘇惟将、松平忠輝、柳生宗厳、松浦鎮信、相良義陽、相良頼房、深水長智、犬童頼安、伊東義祐、伊東祐兵、稲富祐直、島津家久、種子島時尭、母里太兵衛、伊集院忠朗、伊集院忠棟、新納忠元、京極高次、花房職秀、柳生宗矩、百地三太夫、大内義長、大友義統、岩城重隆、赤井直正、本願寺証如、尼子国久、尼子勝久、里見義頼、吉田孝頼、龍造寺政家、鈴木重則、足利義氏、千葉胤富、斯波義統、相良晴広、東郷重位、武田信廉、武田義信
飯尾定宗、土岐頼芸、内ヶ島雅氏、明叔慶浚、浅井亮親、多賀貞能、足利義晴、朽木晴綱、三淵晴員、細川藤賢、武田元光、武田信豊、粟屋光若、赤井時家、酒井豊数、下間頼慶、本泉寺蓮悟、富樫晴貞、十市遠忠、越智家増、柳生家厳、筒井順興、筒井順政、湯川直光、畠山稙長、畠山政国、衣笠範景
壬生綱房 Mibu Tsunafusa(1533年-1590年) 父である壬生綱重が鹿沼城を任されるようになってからは、綱房は壬生城主となった。永正6年には1509年に宗長が鹿沼に訪れた際に家臣の横手繁世と共に催し、句を披露した。この後、横手一伯の娘を側室として迎えたという。永正9年に起きた宇都宮錯乱の時も父に従い成綱方だったと思われる。永正17年(1520年)には、浄宝寺縄吊し合戦で那須氏の居城である山田城を謀略で落とすなどの功績を上げている。 大永3年(1523年)に皆川氏との間で起こった河原田合戦では宇都宮氏の皆川領侵攻に反対しており宇都宮軍の退路を遮断したという。同年、主君・宇都宮忠綱が結城政朝との対立で猿山合戦で敗北し、成綱の三男である芳賀興綱が宇都宮城を乗っ取り、主君・宇都宮忠綱を追って家督を簒奪した際には綱房は忠綱派だったため、忠綱を居城に保護した。しかし、その後、忠綱を見限り、興綱らと裏で繋がり忠綱を暗殺したという。その後は芳賀高経・芳賀高孝ら反忠綱派によって擁立され、宇都宮宗家の家督と継いだ宇都宮興綱に仕えている。 この頃から野心をむき出しにしており、忠綱没後、綱房は日光山を掌握しようと、二男・座禅院昌膳を送り込み日光山の実質的な最高位である御留守職に就任させ、自身は享禄期の頃に日光山御神領惣政所となり、日光山の統治者となった。日光山岳の宿の改修や鹿沼の今宮権現の造営など日光山の統治者しての活動に尽力した。 反忠綱派によって擁立された興綱は当時10歳と若年であり、芳賀高経は興綱を傀儡として扱い宇都宮錯乱で失った権力を取り戻し、綱房もそれに乗じて瞬く間に権力を増大化させていき、興綱の代に宿老の地位を固めた。 興綱が成人して独自の行動を取るようになると綱房は芳賀高経とともに興綱と対立。一度は宇都宮家臣の赤埴氏・戸祭氏らの取り成しによって和解したが、その後再び対立した。天文元年(1532年)に芳賀高経、芳賀高孝と手を結んで興綱の主家乗っ取りの罪を追及し、強制的に隠居させ、今度は成綱の二男である宇都宮俊綱を擁立する。さらに天文5年(1536年)には高経とともに興綱を自殺に追い込んだ。 また、綱房は天文元年(1532年)に鹿沼城の大改築を行い、城を山城から平山城とした。 天文期の頃になると綱房の権力の増大化によって壬生氏の地位は芳賀氏、益子氏に次ぐ相当なものになっていた。壬生領に隣接している小山氏の当主小山高朝が白河結城氏の結城義綱に心苦しいと書状を送ったほどであったという。また、同時期に綱房に対して危機感を抱いた芳賀高経と不和になる。綱房は興綱自害の一件で高経と関係が悪化している当主宇都宮俊綱に接近し高経と対立。綱房は高経の謀反の噂を流したとされる。高経が宇都宮氏と敵対している小山氏と関係を持ち始めたことをきっかけに天文10年(1541年)、古河公方足利晴氏・小田政治・佐竹義篤らとともにこれを滅ぼしている。 天文11年(1542年)、綱房の二男・座禅院昌膳は、壬生氏の力が日光山に及びすぎることに不満を抱き、久野村に隠居した。それに対し綱房は昌膳の謀反の噂を捏造して広めさせ、嫡男の壬生綱雄に攻めさせ、これを滅ぼしたという。 高経がいなくなったことで綱房を抑えられる者はいなくなり、壬生氏は宇都宮家中で非常に大きい影響力を有した。 天文18年(1549年)喜連川五月女坂の戦いで宇都宮尚綱が戦死すると混乱に乗じて宇都宮城を占拠した。綱房は那須氏と和議し芳賀高経の子・芳賀高照を宇都宮城に招いて共同政治体制をしいた。しかし、実質的な支配者は綱房であり、高照は不安を抱いていたという。 綱房は壬生城に嫡男の壬生綱雄を置き、今まで居城だった鹿沼城に弟の壬生徳雪斎を置き、領内各地の城主らには本領安堵を約している。こうして周辺の守りを固め、敵対しているのは尚綱の子伊勢寿丸を保護している芳賀高定のみとなった。 天文20年(1551年)、反乱の起きた結城氏のために古河公方から援軍を要請された時には、嫡男の壬生綱雄を総大将にして出陣させた。この合戦には弟の壬生徳雪斎も従軍していたという。乗っ取られる前の宇都宮氏に匹敵する3000もの兵を動員し、大勝利する。この大戦果によって周辺国に壬生氏の勢いを見せつけることができた。 綱房は、着実に旧宇都宮領を侵攻し壬生領として版図を拡大させ、綱房に敵対する多功氏、今泉氏、芳賀氏を牽制した。塩谷氏はどちらにもつかず中立な立場をとった。 天文24年(1555年)芳賀高照が芳賀高定の謀略によって殺された後に綱房は急死した(芳賀高定による謀殺とも)。綱房没後は嫡男綱雄が宇都宮城に入った。また、弘治3年(1557年)には、綱雄が守った宇都宮城も高定を始めとする宇都宮勢に奪還された。
小田政治 Oda Masaharu(1492年-1548年) 明応元年(1492年)、堀越公方・足利政知の子として生まれる。父の政知は前年に死去していたため、父の死後に生まれたことになる。また、室町幕府第11代将軍・足利義澄の弟に当たる。 但し、『小田事蹟』では小田氏第13代当主・小田成治の実子(三男)であるとしている。この場合、第8代将軍足利義政(政知の弟、1436-1490)から「政」の字を賜っている筈だが、政治が生まれた時には義政も政知に先立って亡くなっており、しかもおおよそ将軍が兄の11代将軍義澄(明応3年(1495年)から在任)の代になっているので、生誕年に誤りがない限りはこの説は誤りとみて良いだろう。よって、成治の嫡男である小田治孝がその弟の小田顕家に暗殺されたため、政知の子を成治の養嗣子に迎えたとする説が有力と思われる。この場合、名前については亡き父・政知と養父・成治から1字ずつ取ったということになる。 永正11年(1514年)、成治の死去により家督を継いで第14代当主となる。 古河公方の内紛では宇都宮成綱・忠綱、結城政朝らとともに足利高基を支持し、佐竹義舜、小山成長、岩城常隆・由隆、結城顕頼ら足利政氏を支持した戦国大名らと対立した。 また、高基が父・政氏に勝利し古河公方になったことで、関東南部で急激に勢力を拡大する後北条氏を危惧し、妹を佐竹義篤の妻にさせ、佐竹氏との関係強化を図った。 享禄4年(1531年)、石岡の戦いで江戸氏を破った。天文6年(1537年)には多賀谷氏と同盟して結城政勝と戦ったが敗れている。他にも古河公方足利家などと戦うなど、多方面で敵勢力と戦い、小田氏の勢力を拡大した。天文14年(1545年)の河越夜戦では足利晴氏に味方して敗れており、政治の晩年ころから小田氏の衰退が始まった。 天文17年(1548年)に死去。享年57。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E6%94%BF%E6%B2%BB
小田氏治 Oda Ujiharu(1534年-1602年) 小田政治之子、母為上曾治重之女、正室為江戶忠通之女.葉月、側室為芳賀貞利之女.稻姬;幼名小太郎、法號天庵、渾名「常陸の不死鳥」。 小田氏為宇都宮氏庶流,其祖上乃是擔任過鐮倉幕府十三人合議眾的八田知家,知家於文治元年(1185年)出任常陸國守護時,修築小田城,後代改稱小田氏。 天文十七年(1548年),父親政治去世,氏治遂繼承小田氏家督。在繼任家督之初,氏治面臨的最大威脅來自下總國的結城政勝。結城政勝於氏治繼承家督當年便首先策反小田氏屬下真壁城城主真壁久干,然後又降伏下妻城城主多賀谷政經,此後更是與北條氏康交好,從而獲得北條氏的鼎力支持。 弘治元年(1555年),氏治聯合常陸太田城城主佐竹義昭共同出兵,進攻與北條氏康交結的結城政勝。次年,結城政勝在北條氏康派遣的援軍太田資正、遠山綱景的支持下,反攻小田氏。氏治率兵迎擊,卻在海老島之戰中兵敗,不僅海老島城,連居城小田城都被占奪。但為抑制北常陸國的佐竹義昭,北條氏康此後又與氏治達成和解,並在弘治二年(1556年)8月,派兵幫助氏治奪回小田城。 弘治三年(1557年)2月,佐竹義昭聯合多賀谷政經進攻由小田氏家臣平塚自省據守的海老島城,氏治率軍迎敵,但再次被擊敗,遂放棄小田城逃往土浦城。直到永祿二年(1559年)4月,才由家臣菅谷政貞奪回小田城。同年8月,結城政勝病死,其子結城明朝也病勢危急。氏治便於9月起兵准備奪取結城城,但遭到結城政勝之兄小山高朝的抵抗,並被結城家有「鬼真壁」之稱的真壁氏干擊潰,倉皇退軍。結城軍隨即反攻,奪取小田氏的北條城。於此同時,佐竹義昭趁亂再次聯合多賀谷政經進攻並奪取海老島城。 永祿三年(1560年),與北條氏康敵對的越後大名上杉謙信初次出兵關東,並邀請關東諸大名一同出軍討伐北條氏。包括氏治在內的幾乎所有關東大名都倒向上杉謙信,唯有結城晴朝仍然與北條氏結盟。次年,氏治聯合佐竹義昭、小山義高一共出動七千兵力進攻結城城。結城氏重要家臣多賀谷政經反叛,結城晴朝陷入孤立局面,只好選擇降伏。 永祿四年(1561年),上杉謙信率軍進攻北條氏康居城小田原城,氏治也參與此役,但最後謙信並未能夠等到攻下小田原城就退回越後。翌年6月,在北條氏康的勸誘下,氏治反叛上杉謙信,倒向北條氏。當時,氏治正與常陸國中部勢力府中城城主大掾貞國敵對,貞國因為親緣的關系受到佐竹義昭的支援。 永祿六年(1563年),上杉謙信再次出兵關東討伐北條氏,佐竹義昭親率軍隊前去與上杉軍匯合。氏治看准時機,進攻失去依靠的大掾貞國,在三村之戰中擊敗貞國,並與下野國的那須資胤、結城晴朝結盟,共同抵抗佐竹義昭。 永祿七年(1564年)4月,佐竹義昭、宇都宮廣綱、真壁氏干聯名致書上杉謙信,指責氏治的背叛行徑。上杉謙信得書後,立即起兵討伐小田氏。由於對上杉軍的行軍速度估計錯誤,當聞知上杉軍已攻入小田氏領內時,氏治大驚失色,立即拼湊起3千軍隊應戰。在山王堂之戰中氏治打敗,居城小田城再次失陷,氏治逃往藤澤城。翌年12月,佐竹義昭病死後佐竹氏發生內亂,氏治趁機又奪回小田城。可是好景不長,永祿九年(1566年)2月,上杉謙信再度出兵討伐小田氏,氏治再度放棄小田城。 永祿十年(1567年)5月,氏治求援於甲斐武田信玄討伐佐竹義重。翌年,氏治通過結城晴朝向上杉謙信表示降伏,在獲得認可後,收回小田城。 永祿十二年(1569年)5月,佐竹義重進攻小田城,氏治率軍將其擊退。11月,氏治進攻佐竹氏家臣太田資正據守的片野城,卻反遭真壁氏干擊敗。翌年8月,自父輩起就為世仇的結城晴朝聯合多賀谷重經(多賀谷政經之子)入侵小田氏領地,在兵力處於劣勢的情況下,氏治派遣家臣菅谷政貞夜襲敵軍,取得大勝。 天正元年(1573年)元旦,趁著前一天因連歌會而防守松懈,太田資正率佐竹軍奇襲小田城,氏治不敵敗逃,此戰中小田氏家臣北條氏高也為佐竹軍策反。氏治立即起兵5千5百擊破佐竹軍,又奪回小田城。2月,義重派遣多賀谷重經攻取小田氏的大島城,守將戰死,但氏治於月內便發動夜襲奪回大島城。後來的手這阪之戰中,佐竹義重、太田資正再次攻陷小田城,氏治逃往土浦城,此後又逃往藤澤城。太田資正進入小田城之後,派遣其子梢原景國同北條治高繼續進攻藤澤城。小田軍開始戰敗,但在氏治親自出馬下,後來轉敗為勝,擊退佐竹軍。同年4月,佐竹軍再次進攻藤澤城,在氏治的再次出馬下,又一次擊敗佐竹軍。 雖然兩次擊敗佐竹軍,但是7月、8月小田氏連續丟失穴倉城和戶崎城。氏治決定從防守較弱的藤澤城遷往土浦城以防禦佐竹氏的進攻。9月,小田氏遭到佐竹軍的兩面進攻,太田資正、梢原景國父子攻打藤澤城,北條高廣、真壁氏干攻打土浦城。小田氏從城內出兵,雙雙擊退來敵,受到兩面勝利的鼓舞,氏治再次燃起奪回小田城的雄心。小田軍又於隨後發生的君島川之戰中再破佐竹軍,一度迫近小田城,但在佐竹氏援軍的防禦下,還是未能奪回小田城。11月,佐竹軍逆轉戰局,太田資正、梢原景國、真壁氏干、北條高廣合軍2千,攻陷小田氏的藤澤城。 在藤澤城失陷後,佐竹軍把目標指向土浦城。根據記載,土浦城北有騎兵難以行進的沼澤地,西有大河,南靠霞浦湖,歷來便是易守難攻之城。天正元年(1573年)12月,佐竹軍圍困土浦城,次年1月,佐竹義重更是加派車斯忠前來支援。氏治嫡子小田守治一度打開城門率兵3百沖入敵陣奮勇殺敵,但是兵力上的差距使得結果變得毫無懸念。2月,氏治夜遁,土浦城遂被攻陷。 土浦城陷落後,小田氏將領或死或降,氏治處於明顯的劣勢。雖然如此,氏治並沒有受到過致命的打擊,所以依然保有再起可能。由於氏治的庶長子小田友治出仕於北條氏政,所以氏治開始轉向北條氏尋求幫助。 天正二年(1574年)11月,北條氏政、氏照兄弟率軍兩萬進攻下總國的關宿城。但在途中遭遇漲水的利根川而無法進軍,遂應友治的請求轉而進攻土浦城。土浦城守將乃是本來屬於小田氏的菅谷政貞,政貞在與氏治秘密聯絡表明心意後不戰而降,氏治遂奪回土浦城。天正五年(1577年),在北條氏政以及千葉氏、相馬氏、江戶氏的幫助之下,氏治逐漸收復失地,再次開始與佐竹義重的對抗。 天正六年(1578年)7月,小田氏領下木田余城被梢原政景攻陷,隨後,氏治派菅谷范政(政貞之子)奪回木田余城,但此後再次被佐竹軍攻陷。 天正八年(1580年)8月,北條氏政派其弟北條氏照、北條氏邦率兵進攻常陸,並在氏治家臣的帶領下攻陷之前被佐竹氏奪取的谷田部城,然而佐竹氏的多賀谷重經又奪回谷田部城。 此後,失去北條氏援助的小田氏無法再與佐竹氏較量,然而因為小田氏善戰的家臣輔助,佐竹氏也無法吞並小田氏。 有說法稱天正十一年(1583年)2月13日,在佐竹軍的進攻下,氏治最終以其孫金壽丸為人質降伏於佐竹氏,但是此種說法頗受質疑。 天正十八年(1590年),再次燃起奪回小田氏世代領地信念的氏治再次出兵進攻小田城。小田城守將是梢原景國、太田資胤兄弟,氏治率軍在城外與佐竹軍交戰並取得優勢,一度迫近小田城。就在此時,得到求援的太田資正率軍趕到,雙方再次發生激戰,結果佐竹軍在付出較大傷亡代價下還是堅守住小田城。 氏治也向北條氏政求援,但是此時北條氏政正忙於應對豐臣秀吉發動的小田原征伐戰,根本無暇顧及氏治的請求。更糟糕的是,豐臣秀吉在滅亡北條氏後,又以「未參加對北條氏的討伐行動,且與豐臣氏盟軍佐竹氏為敵」為由,沒收氏治的所有領地。多年來一直在諸強大勢力的夾縫中艱難尋求生機的小田氏最終滅亡,屢戰屢敗、屢敗屢戰的「常陸の不死鳥」就此折翼。 天正十九年(1591年),氏治通過淺野長政向秀吉謝罪,在得到秀吉許可後,投靠其女婿結城秀康。後來結城秀康轉封,氏治和其子守治一同跟隨前往越前國,同時庶長子友治也出仕於結城家。 慶長七年(1602年)去世,享年69歲,法名南江道薰天庵大居士。 出處 http://baike.baidu.com/view/1274777.htm
水谷正村 Mizunoya Masamura(1524年-1598年) 水谷治持的長子,妻為結城政勝之女-小藤姬,拜領結城政勝「政」字,又名水谷政村,法號蟠龍齋。 水谷氏源於藤原秀鄉的後裔近藤太能成之子能直,在能直隨源賴朝出征奧州時積功領田村莊地頭一職,之後其弟仲教繼承所領稱田村氏,到了仲教之孫重輔之時移封至近江犬上郡水谷鄉,遂又稱水谷氏。後來重輔之子清有領陸奧行方郡猿田七鄉,而居於猿田。 在南北朝時代裡,水谷氏隨結城朝祐跟從足利尊氏屬於北朝方,後在水谷勝氏擔任家督時輔佐結城成朝為回復舊領一事盡力,事後因功位列重臣之座,獲得長沼十二鄉、伊佐三十三鄉、中村十二鄉的領地,於長享元年(1487年)築下館城移居伊佐郡,與山川、多賀谷、巖上三家合稱結城四天王。 天文八年(1539年),武藏吉見城主大串武成、重義父子投向相模北條家,古河公方足利晴氏派遣近臣野渡光時領討伐,名義仍是古河公方臣下的結城政勝於是也出兵支援,由水谷治持和多賀谷家重領軍攻打大串領。此戰是水谷正村的初陣,役中年方十六歲的水谷正村隨父水谷治持出戰,擔任水谷勢的殿軍。當時大串氏也帶兵出戰與水谷、多賀谷軍在吉見、古河國境交接之處遭遇野戰,三百多賀谷軍與四百大串軍正面交鋒,另外二百水谷軍則自側面進襲,經過三日的死鬥水谷、多賀谷軍終擊潰大串氏,大串武成敗回城中自刃,而正村也於戰中討取了武成重元、侍大將田谷右兵衛尉以下等四十八顆首級。 大串合戰之後,水谷治持宣告隱居將當主之位正式交付給正村,同時在結城家中水谷、多賀谷兩族之間的關係卻日益惡化,此事起因為多賀谷家重在大串合戰中取得了大串武成的首級,時常吹噓戰勝之功全在多賀谷氏,輕視水谷軍的戰功,新接任家督之位的水谷正村自然不能忍氣吞聲墮了家威,於是兩人時起口角。當時多賀谷氏所領約有六萬石,水谷氏則只有一萬二千石,天文九年(1540年)時多賀谷氏的執事成田知虎過度無禮,惹怒水谷家臣鶴見內藏助,雙方爆發武力衝突,多賀谷家重遂領兵急襲下館城攻打水谷氏,兩軍在城下展開激烈的戰鬥。兩門重臣未抗外敵,反同室操戈的消息很快便傳入主家結城政勝的耳中,於是連忙派出使者居間介入,才讓兩家罷手,達成和議。 天文十三年(1544年),二十一歲的水谷正村迎娶了主君結城政勝的女兒小藤姬,拜領「政」字,又名水谷政村,同年出兵水谷、宇都宮領之間國境線上的中村城,然而鎮守著中村城的是宇都宮家屈指可數的猛將中村日向入道玄角,中村玄角以嫡子時長迎戰水谷正村,一度將正村往下館城方向迫回,水谷正村也刻意讓忍者散播出水谷軍敗象已現的風聲,使戰勝的中村父子志得意滿地在夜晚時召開酒宴,而水谷正村也伺機於中村城兵將酒酣耳熱之際率三百精兵夜襲,一夜之間逆轉勝敗情勢將中村父子擊敗,中村玄角被石垣落石打中身亡、中村時長逃向宇都宮家,水谷正村一舉攻克了中村城。為了防備宇都宮方的反擊,水谷正村在國境線上另築久下田城,並親自移居於和宇都宮家相接最前線的久下田城,把原來的本據下館城讓渡給三弟勝俊。 翌年天文十四年(1545年)二月,水谷正村的妻子小藤姬因為難產在生下女兒後過世,悲痛的正村遂在久下田城修建蟠龍齋芳全寺,同時結城家的乘國寺剃髮出家法號蟠龍齋,然而就在他為亡妻進行祭祀之時宇都宮方重臣芳賀高定的一門眾八木岡貞家亦受命出征還在修建的久下田城,水谷正村親自率兵出城進行游擊戰,待八木岡貞家攻城時由八木岡軍背後出擊,搭配家臣平澤七郎、村田治衛門統領的城內守軍兩邊挾攻,使八木岡貞家敗戰潰走。同年九月,適逢正村之父治持的忌日,八木岡貞家覬得此機,於忌日當天再度領二百騎兵出襲水谷勢。八木岡貞家的趁虛而入早在正村的意料之中,於是在祭奠之處設置陷阱並在八木岡貞家的退路上安置伏兵,待八木岡貞家殺入一瞬間陷阱隨之發動,令八木岡軍受創不少,同時水谷正村的伏兵也由後方襲來,八木岡貞家當下遭到水谷軍討取,水谷正村在取得八木岡貞家的首級後,以此開路領兵直取八木岡城,拿下了原屬於八木岡貞家的八木岡城。 中村、八木岡兩城相繼淪陷後,宇都宮家當主尚綱為了維持邊境領土的幅員針對水谷氏,於天文十五年(1546年)派遣武田信隆率三千兵馬前往攻擊久下田城,自知本身兵力不足以與宇都宮家主力軍相抗衡的正村遂向主君結城政勝求援,水谷正村匯聚了結城政勝的三百援軍後,將鶴見內藏助、平澤七郎統領騎兵七十人、步兵五百人隱於境內的芳全寺,叔父水谷治持五十騎兵及步兵五百人北方的大木戶,結城家的三百援軍,一百配置於西方的木戶、一百配置於南方的木戶,剩下的一百人則和水谷正村親自率領的五百騎兵鎮守城中。進入水谷領的武田信隆首先攻擊北方的大木戶,水谷治持不敵轉進城中,武田信隆領兵長驅直入,但是與水谷正村匯集兩軍後組成完整陣形使武田信隆一時難越雷池,而左右兩邊的結城援軍一齊殺出,令宇都宮軍陷入三方夾擊,就在宇都宮軍漸漸後退時芳全寺的水谷伏兵立時出擊,宇都宮軍終於全潰,總大將武田信隆以下秋山三右衛門等三百人陣亡,己方更只有戰死騎兵二十八人、雜兵八十餘人的小損失,這也是水谷正村初次將洋槍用於戰場上。 天文十六年(1547年)五月,多賀谷氏在小田政治奧援下反出結城家於下妻自立,多賀谷重政、政經父子更與小田家的軍勢聯合出兵結城領,但是卻為結城政勝於關郡擊敗,翌年水谷正村在結城政勝的命令下與真壁氏朝聯手逼進下妻攻打多賀谷氏,多賀谷重政、政經父子戰敗降服。天文十七年(1548年)二月,小田政治辭世,水谷正村成功說服真壁城主真壁氏幹取消跟小田氏的盟約轉而和結城氏締盟。弘治二年(1556年),結城政勝動員水谷正村、山川氏重、巖上但馬守、多賀谷政廣等家臣集結軍勢加上古河公方、北條家的援兵以三千士兵包圍小田家的海老島城,並在山王堂截擊前來援助海老島城的小田氏治獲得大勝,小田軍戰死近五百人,小田氏領中郡四十二鄉、田中莊、海老島、大島、小栗、沙塚、豐田全為結城家所奪。 永祿二年(1559年)八月,結城政勝病故,結城家迎小山高朝之子晴朝為新當主。隔年,上杉謙信以身為關東管領之名義在佐竹氏的要請下擁上杉憲政兵進關東平原,本來傾向北條家的主君結城晴朝在水谷正村的勸說下倒向上杉方,正村之弟水谷勝俊也附上杉軍驥尾參加攻打下總臼井城,而水谷正村也在結城晴朝麾下與多賀谷氏、山川氏一同參加圍攻小田原城。在上杉謙信退兵後,關東一帶北條家勢力再次興起,此後兩家勢力在關東時有變化消長,而結城晴朝也就在其間首鼠兩端、搖擺不定。 永祿十一年(1568年),時年四十七歲的水谷正村隱居把家督寶座讓給親弟勝俊,但是正村依然活躍於結城家的各處場合中,除了以猛將之名威揚四鄰外,施政上每逢欠收之年便減免年貢的三分之一,因善待領民而廣泛獲得人民的愛戴,並修繕破損的神社佛閣,同時引進白木綿和宇治的茶種提升領國的產業育成。並於外交方面與織田信長、德川家康結交,獻上獵鷹、駿馬,獲得信長回贈的唐物茶入、陣羽織。天正元年(1573年),多賀谷政經再度反出結城家,但為水谷正村於野殿不動阪擊敗,之後多賀谷政經與佐竹、宇都宮、小田圍攻當時和北條家親善的結城家。天正二年(1574年),結城家在宇都宮、佐竹氏的軟硬兼施下投向上杉家,北條家遂於天正五年(1577年)由當主氏直親自發兵,連同父親氏政、叔父氏照攻打結城家。水谷正村、勝俊兄弟聞訊後立即聯合同在反北條陣營中多賀谷氏一起出兵援護主家,其後佐竹義重、宇都宮國綱、那須資胤也都陸續發兵參陣抵抗北條家,最後在上杉軍亦出發來援後,北條家終退兵撤走。 天正六年(1578年),反北條陣營的大黑柱上杉謙信腦溢血身亡,多賀谷重經於翌年再次對結城領發動攻勢,將關郡的大半收入其支配之下,就在重經想收割更多戰果時,水谷正村已然出兵於雛子阪阻其攻勢,在連續四日的戰鬥裡水谷正村以勇猛突進的戰術,硬生生逼退了本在兵力上佔有優勢的多賀谷重經。 天正十年(1582年),織田信長亡於本能寺,為了爭奪其遺領甲斐、信濃、上野,德川、北條兩家於甲斐對陣,期間水谷正村也做為德川方的援軍出兵至甲斐參陣,在新府城謁見德川家康。在德川、北條兩家達成協議締結婚盟,家康將女兒督姬嫁給北條當主氏直由德川家獲得甲信兩國、北條家取上野,德川家不進入關東。信長之死讓北條家在關東的勢力越見穩固,於是結城晴朝在此大勢下再次和北條家交好,水谷正村也因此受命在北條家攻打下野南部時,北上攻打從屬於宇都宮家的笠間氏。 宇都宮家中益子氏與笠間氏由於領地鄰接,在重疊連接之處時有紛爭,結城晴朝見縫插針誘降益子氏並以加藤大隈守父子為援協助益子重綱和笠間氏交戰,在益子氏為笠間氏擊敗後水谷正村便趁笠間氏攻略益子氏的金敷城之際出兵攻打笠間氏的本據田邊城,當時田邊城中只剩羽石時政、時義兄弟及百餘名城兵留守根本不是水谷正村的對手,被水谷軍先鋒鶴見俊行一戰破之,羽石時政更在肉搏戰中被水谷正村親手討取。 天正十四年(1586年),佐竹義重為協助宇都宮家壓制結城家以客將常陸片野城主太田三樂齋資正率長倉遠江守、真壁安芸守等三千兵馬侵攻水谷領,太田資正乃是曾經在上杉家中曾經打過、「川越夜戰」、「國府台合戰」等萬人大戰的老將,之後協助上杉謙信圍攻小田原城轉戰關東,名聲遠播。結城家臣片見伊賀守於太田軍途中在板敷山布防迎戰,但是被太田資正輕易攻破,伊賀守兵敗自殺。水谷正村在向主軍結城晴朝借來援軍後率一千二百騎由下館城出戰,將戰場拉至常陸大和村西部的弓袋卡,水谷正村親率五百士兵為主陣以水谷勝俊率領三百人擔任先鋒、第二隊水谷五郎率二百人經小栗路越過富谷、水谷四郎率二百騎走大國玉之道。而太田資正則以長倉遠江守領五百騎配置在櫻川,一開始雙方隔櫻川互相以弓矢交鋒,之後水谷五郎溯櫻川上游而至,水谷四郎也從犬田的山路轉北進入戰場,使長倉遠江守受到三方面的壓迫,於是太田資正讓太田六郎率三百騎壓制水谷五郎的軍隊,然後親率兩千兵力投入戰場,同時水谷正村也將所率的主力加入戰事,當兩軍各自重新整頓陣形後,太田六郎領一千兵由東與下館方的水谷勝俊交戰、此外長倉遠江守也領七百騎應戰西進的水谷五郎軍。太田三樂齋資正親身帶領一千五百軍勢與水谷正村的主力軍決戰,戰後雙方各自退卻,水谷氏討死五十餘人,太田軍則陣亡了二百之眾。 之後宇都宮國綱為了收復田邊城而出兵,水谷正村迅速反制以水谷五郎為先鋒率三百人出陣上三川,水谷勝俊擔當副將七百士兵經由長田行軍替水谷五郎押陣,然後親率一千兵士正面迎戰三千宇都宮軍。不過就在開戰前夕結城晴朝居中調解令兩軍罷戰。 天正十八年(1590年),豐臣秀吉集結大軍出兵北條氏,包圍小田原城。水谷正村、勝俊兄弟與主君結城晴朝透過多賀谷重經仲介前往石垣山城拜謁豐臣秀吉參陣,戰後論功行賞得到所領常陸、下野三萬二千石安堵的朱印狀。慶長三年(1598年)六月,水谷正村於久下田城病逝,享壽七十五歲。之後其弟勝俊在關原之戰中加入東軍並協助牽制佐竹義宣,戰後加封下館四萬七千石,由結城家中獨立出成為一藩大名。 水谷正村在戰國時代中是罕見的少敗之將,受時人稱譽為「常勝蟠龍齋」名馳遠近,水谷正村除了作戰勇猛、悍不畏死外,他活用智計、眼光精準,善待人民令領民願為其效死命都是十分重要的因素。水谷正村曾經留下以家寶換糧食分給領民的逸話,此事雖然不一定為真,但已然可見他不但在戰場上善戰,同時也是一位擅長治理內政的領主,所以才會贏得人民的歌頌。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/67315206/1
芳賀高定 Haga Takasada(1529年-1588年) 益子勝宗的三子,通稱紀十郎,本名益子宗之,繼承芳賀氏改名為芳賀高定。 芳賀氏以天武天皇之子捨人親王的九代孫清原高重為遠組,清原高重因故惹怒花山法皇而被流放至下野芳賀郡大內莊,其後代遂自稱芳賀氏,七代孫高親時投入宇都宮家麾下,後於源賴朝的奧州征伐中芳賀氏與益子氏大為活躍,芳賀氏因本姓「清原」被稱為清黨,與紀黨益子氏並稱「紀清兩黨」,乃是家中的重要戰力。 芳賀氏作為宇都宮家重臣威勢日重,在宇都宮家第十七代當主成綱時,芳賀景高擔任成綱的輔佐奉行人,家勢達到極盛,其子高勝繼父位後,更出現了高勝發出文書命令後,再由成綱追認的情形,芳賀氏已顯然有凌駕主家之上的態勢。於是成綱為保衛君權,遂謀害了高勝一脈,並強勢讓其弟興綱入繼。後來興綱謀逆,聯合結城氏攻下宇都宮城,殺害姪兒忠綱奪得家督之位,而高勝之弟芳賀高經也伺機與壬生綱房起兵攻打興綱,逼迫興綱自刃。 興綱死後,宇都宮家由其子尚綱繼承,並於天文十年(1541年)舉兵攻打芳賀氏,芳賀高經也據宇都宮南方的兒山城防守,但在寡不敵眾下戰敗。是役中,益子宗之身為紀黨的一員,隨父親勝宗出戰,於初戰中便立下大功,戰後受到尚綱讚賞,並在勝宗允許後讓益子宗之繼承芳賀氏以為賞賜,改名芳賀高定,獲得真岡城。芳賀高經死後,其長子高照遠走奧州白河,後投入那須家。三男高繼年紀尚幼,芳賀高定遂保護之,將他交由實家益子氏養育。 天文十四年(1545年),芳賀高定受宇都宮尚綱之命由鷺宮出陣,抵御結城家猛將水谷正村的侵攻。天文十八年(1549年)九月,主公宇都宮尚綱應古河公方足利晴氏之邀出兵攻打與北條氏相善的那須家,由芳賀高定負責宇都宮城的居留守役,但是在那須高資的善戰下,兵力佔優的尚綱在五月女阪之戰中遭到奇襲射殺,家督戰死的消息一傳開,宇都宮家頓時大亂,宇都宮家老壬生綱房內通那須家和借得那須家相助的芳賀高照趁亂佔據了宇都宮城,鹽谷郡亦被那須高資所奪,混亂的情勢中芳賀高定仍盡忠主家,竭力保護年僅六歲的幼主,帶同宇都宮尚綱之子伊勢壽丸離開險境,並在壬生綱房遣其子綱雄出兵飛山城追擊時,親自率兵牽制。 天文二十年(1551年),芳賀高定巧妙利用那須家中高資、資胤兄弟間的爭端,居中布計,趁那須高資流放其弟資胤之際,說動支持資胤的那須家臣千本資俊合作,以鑑賞名馬為由邀請那須高資,於宴會中將之刺殺,既是報主君之仇,同時也讓那須家陷入二度易主的重整期,斷去了宇都宮城中芳賀高照的有力後援。同時芳賀高定也遣家臣大島大炊助出兵壬生氏的領地岡本鄉,但是被壬生周長擊退。 為了重興宇都宮家,芳賀高定深知依照現下的情勢,宇都宮家並無力獨自撥亂反正的能力,這是因為宇都宮家終究仍是採取國人眾聯盟制的舊體制大名,家中軍權分散在各地國人眾、家臣、以及宇都宮寄眾手中,幼主伊勢壽丸並沒有足夠的權威與實力號召其協助,反之現下佔據了宇都宮城的壬生氏及芳賀高照看似更有崛起一統下野的姿態,因此芳賀高定轉向周遭大名尋求外援,以傑出的外交手段縱橫於佐竹義昭、江戶忠通、小田政治、古河公方、北條氏康等大名之間,為奪回宇都宮城布置計畫。 弘治元年(1555年),芳賀高定於真岡城舉辦芳賀高經的追善供養法事,並擺出低姿態邀請芳賀高照前來參與,芳賀高照不疑有他,認為這是高定一方的示弱,待入城後隨即被芳賀高定的兵士伏擊,被迫切腹,同年壬生綱房也在宇都宮城中急逝,時人一度疑為綱房亦是為芳賀高定所派遣的忍者暗殺,不過完全找不到任何能證實此一說法的有力證據,況且當時綱房已年過七十,其死亡並不出人意外,因此近代史家多持否定觀點。 翌年,壬生綱房之子綱雄為反制芳賀高定的謀略,以那須家為後盾大舉侵犯芳賀郡,連同宇都宮舊臣鹽谷、西方、今泉等家起兵三千連下飛山、八木、祖母井諸城。但隨即在弘治三年(1557年),芳賀高定便以聯姻換來了佐竹家的介入,並運用計謀策反壬生綱雄的外援那須家,借佐竹、那須、江戶三家援軍,於芳賀郡乙連原大敗壬生軍,並進而奪回宇都宮城,將壬生綱雄逼回鹿沼、壬生兩城,令壬生綱雄送表稱降。戰後芳賀高定依照約定讓時年十五歲的伊勢壽丸元服,改名廣綱,迎娶了佐竹義昭之女為正室,兩家結成姻盟。 奪回宇都宮城後,為重興主家貢獻良多的芳賀高定以宇都宮家宿老掌握了家中大權,但是高定仍然不改忠勤,輔佐幼君行政,宇都宮氏的樑柱支撐大亂後統御力大幅下降的主家,同時也與壬生周長相交,令壬生氏分裂成鹿沼城的壬生綱雄親北條,而壬生城的壬生周長親宇都宮,令壬生家分成兩派,降低其抗力,壬生綱雄也失去自父親以來的重要軍師親叔壬生周長的支援。 永祿四年(1561年),上杉謙信南下關東,芳賀高定作為宇都宮家的代表統領清黨、宇都宮各家國人眾率軍出陣參與攻打北條家。同九年,小田氏治與北條、武田同盟,上杉謙信聯合關東大名孤立小田家,並出兵攻打小田城,宇都宮家也和盟友佐竹、結城、小山一同出陣,由於當主宇都宮廣綱體弱多病,因此仍是由芳賀高定作為代官領兵出擊。 永祿十一年(1568年),在芳賀高定歷戰歸國後,宣佈隱居,將芳賀家名還給一手扶養長大的芳賀高照之弟高繼,讓親子信高改繼承小貫氏,還權於芳賀舊族,往赴小貫隱居,入道號機山道鑒,後於天正十六年(1588年)辭世,享年六十八歲。 芳賀高定一生盡忠宇都宮家,在一片下剋上風潮中,費盡心血收復宇都宮家舊領的芳賀高定,大權在握主導著宇都宮家的國策,曾被世人稱道「廣綱不過是他的影子」,但是芳賀高定卻能謹守本分,安定本家,並且還權於芳賀氏,來去一身清白,能得此智德兼備的賢臣實乃宇都宮家之幸,惟可惜因為宇都宮家之體制,縱然芳賀高定身懷高才,也始終無法為宇都宮家做出徹底的改革,興利除弊,甚至連高定實家益子氏後來亦叛出宇都宮家,這或許也是芳賀高定畢生的遺憾吧! 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=00064&sn=1352

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