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三百六十位人物:北条氏直、足利晴氏、松平秀康、岡吉正、一栗高春、北条景広、富田隆実、木下昌直、岡部元信、円城寺信胤、遠藤直経、岡本禅哲、安倍元真、大宝寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫広門、春日元忠、戸蒔義広、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣、高島正重、佐伯惟教、山上照久、毛利元清、阿蘇惟光、織田秀信、正木為春、大関高増、鵜殿長照、那須資胤、織田信孝、西園寺実充、北畠具藤、奥平貞能、尼子勝久、北条氏秀、天野隆重、北畠晴具、朝比奈泰能、京極高吉、松平秀忠、畠山政繁、山村良候、林秀貞、高森惟直、畠山義隆、北畠具房、田尻鑑種、一色義幸、土居清良、平岡房実、小梁川宗秀、石成友通、武田信豊、徳永寿昌、本願寺教如、高梨政頼、片桐且元、朝倉景紀、赤松則房、小島職鎮、横瀬成繁、浦上宗景、佐世元嘉、木造具政、成田長泰、益田藤兼、福原資保、宮部継潤、三雲成持、小野崎従通、大田原資清、志道広良、真田幸昌、木下秀頼、伊達実元、内ヶ島氏理、浅利勝頼、安東茂季、寒川元隣、杉重良、桑名吉成、斯波義銀、織田信勝、泉田胤清、百地三太夫、畠山義慶、有馬義貞、猪俣邦憲、加藤嘉明、稲富祐直、平野長泰、波多野宗高、浅井久政、国分盛顕、児玉就忠、山口重政、石川康長、那須資景、赤星統家、赤松晴政、京極高次、斯波詮直、山崎片家、最上義時、相良頼房、松本氏輔、柴田勝豊、戸沢政盛、藤方安正、脇坂安治、原田信種、小寺政職、猪苗代盛国、岡家利、蒲生秀行、鳥屋尾満栄、吉弘鎮信、村井貞勝、一迫隆真、蘆名盛興、小野寺輝道、神代勝利、篠原長房、島津豊久、矢沢頼康、来島通康、阿蘇惟種、阿蘇惟将、阿蘇惟豊、阿閉貞征、安芸国虎、安見直政、安宅冬康、安田顕元、安田能元、朝倉景隆、安富純治、安富純泰、伊集院忠倉、伊集院忠棟、伊集院忠朗、伊達盛重、伊東義益、伊東祐慶、伊東祐兵、伊奈忠次、井伊直孝、磯野員昌、一栗放牛、一色義清、一色義道、一色藤長、稲葉貞通、宇喜多忠家、宇山久兼、宇都宮高武、羽床資載、臼杵鑑続、延原景能、延沢満延、遠山景任、塩屋秋貞、奥平信昌、岡部長盛、岡本頼氏、屋代景頼、屋代勝永、屋代政国、温井景隆、温井総貞、下間仲孝、下間頼竜、加須屋真雄、河尻秀長、河尻秀隆、河田長親、河東田清重、河野通宣、河野通直、河野通直、花房職秀、花房正幸、花房正成、皆川広照、垣屋光成、垣屋続成、角隈石宗、葛山氏元、葛西俊信、葛西親信、葛西晴胤、樺山久高、蒲生賢秀、蒲池鑑盛、肝付兼護、肝付良兼、関一政、関盛信、岩上朝堅、岩清水義教、岩清水義長、願証寺証恵、吉見広頼、吉見正頼、吉川経安、吉川経家、吉田孝頼、吉田康俊、吉田重俊、吉田重政、吉良親実、久慈信枚、久能宗能、久武親信、久武親直、宮城政業、朽木元綱、魚住景固、近藤義武、金子元宅、金上盛備、九戸康真、九戸実親、九戸信仲、九戸政実、窪川俊光、窪田経忠、熊谷元直、熊谷信直、隈部親永、結城政勝、兼平綱則、犬甘久知、犬童頼兄、原胤栄、原胤貞、原長頼、原田宗時、古田重然、戸川秀安、戸川達安、戸沢政重、戸沢盛重、戸沢道盛、戸田勝成、後藤高治、後藤勝元、後藤信康、御子神吉明、御宿政友、公文重忠、弘中隆兼、江井胤治、江上武種、江村親家、江馬輝盛、江馬時盛、江里口信常、溝尾茂朝、甲斐親英、荒木氏綱、香川之景、高橋鑑種、高原次利、高山友照、高城胤則、高城胤辰、高梨秀政、高梨頼親、国司元相、国分盛氏、黒岩種直、黒川晴氏、佐久間安政、佐久間勝政、佐久間盛政、佐竹義久、佐竹義憲、佐竹義斯、佐竹貞隆、佐田鎮綱、佐田隆居、佐波隆秀、佐野宗綱、佐野房綱、最上家親、最上義守、妻木広忠、斎藤龍興、細野藤敦、鮭延秀綱、三好義興、三好秀次、三好政康、三好政勝、三好存保、三好長逸、三村家親、三村元親、三村親成、三沢為清、三木国綱、山崎家盛、山崎長徳、山田宗昌、山田有栄、山田有信、山内一豊、山名豊定、山名祐豊、四釜隆秀、市川経好、志賀親次、志賀親守、志賀親度、志村光安、斯波義冬、斯波経詮、斯波長秀、氏家吉継、氏家守棟、寺崎盛永、寺沢広高、寺島職定、慈明寺順国、慈明寺定次、七里頼周、執行種兼、車斯忠、種子島恵時、種子島時堯、酒井忠勝、酒井敏房、秋月種実、秋月文種、十河義継、楯岡満茂、小笠原信浄、小笠原成助、小笠原長雄、小笠原貞慶、小貫頼久、小山高朝、小山秀綱、小田氏治、小田守治、小田政光、小田友治、小幡憲重、小峰義親、小野木重次、松浦鎮信、松永久通、松永忠俊
五百位人物:河東田清重、一栗放牛、一迫隆真、稗貫晴家、氏家吉継、四釜隆秀、新井田隆景、宮崎隆親、鱒沢広勝、水谷胤重、大塚政成、郡司敏良、大塚隆成、国分盛氏、駒木根利政、白河晴綱、白河義顕、針生盛信、松本氏輔、佐瀬種常、留守景宗、遠藤盛胤、西野道俊、二本松家泰、二本松義綱、片平親綱、高玉常頼、戸蒔義広、本堂茂親、南部政直、豊島重村、浅利頼平、戸沢盛重、戸沢政重、鮭延貞綱、大和田光盛、本堂忠親、大宝寺晴時、来次時秀、東禅寺義長、東禅寺勝正、織田信安、来次氏秀、仁賀保挙誠、北楯利長、懸田俊宗、小梁川宗朝、小梁川宗秀、船尾昭直、桑折貞長、大道寺盛昌、牧野久仲、佐竹義廉、佐竹義斯、江戸通泰、江戸通政、本多利久、神生通朝、本多利朝、兼松正吉
三百六十位人物:北条氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北条景広、富田隆実、木下昌直、岡部元信、円城寺信胤、遠藤直経、岡本禅哲、安倍元真、大宝寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫広門、春日元忠、戸蒔義広、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣、高島正重、佐伯惟教、山上照久、穂井田元清、阿蘇惟光、織田秀信、正木為春、大関高増、鵜殿長照、那須資胤、織田信孝、西園寺実充、長野具藤、奥平貞能、尼子勝久、上杉景虎、天野隆重、北畠晴具、朝比奈泰能、京極高吉、徳川秀忠、上条政繁、山村良候、林秀貞、高森惟直、畠山義隆、北畠具房、田尻鑑種、一色義幸、土居清良、平岡房実、小梁川宗秀、岩成友通、武田信豊、徳永寿昌、本願寺教如、高梨政頼、片桐且元、朝倉景紀、赤松則房、小島職鎮、横瀬成繁、浦上宗景
吉岡長増 Yoshioka Nagamasu(生年不詳-1573年?) 大友親秀の子・頼宗が野津氏を称し、その子・親次が吉岡氏を称したとされる。親次の弟・親重は佐土原氏を称し、長増と同時期の頃には佐土原鑑親の名も見られる。 とされているが、この系図は後世の吉岡氏が作り直したもので、当時の本物の系図は焼失したらしく、吉岡鑑興のところを見ると、『永禄3年に亡くなった』(実際は天正6年に亡くなる)、『後は吉岡鑑盈が継いだ』(存在が確認できない)、吉岡長増が『鑑忠』と名乗っていた(天文16年にも長増と名乗っているのが確認される)など誤りが多く、吉岡長増の父親は吉岡重孝になっているが本当かわからず、長増以前の人物に関してははっきりしない点が多い。信憑性の高い史料と見られている「大友家婚姻録」には、長増の子に林式部(吉岡鑑興の弟)という人がいるのが書かれている。 長増に関しても初期の活動については不明で、生没年に関しても確たる証拠がないが、大友義長(義鑑の父、1478-1518)から偏諱(「長」の字)を与えられていることを考えれば、少なくとも義長存命中には誕生し、元服を済ませているものと推定される。活動が見られるようになるのは、義長の子・義鑑の代からであり、以下で後述する。 加判衆に就任し、少弐氏の援護のため大内氏と戦った記録がある。 天文元年(1532年)に陶興房が少弐氏を滅ぼさんとして肥前に侵攻。あらかじめ筑後の領主や肥後の菊池義武、相良氏、筑前の秋月氏、肥前の有馬氏を味方につけての出陣であった。これに対し大友は大内氏の勢力拡大を防ぐため少弐氏援護に動いて援軍を送った。長増は後陣の大将として4千騎を率いて出陣。豊前、次に筑後そして筑前を転戦した。筑後では鏡城を落として陶軍の輸送路を遮断した。 翌天文2年(1533年)、大内義隆の命令を受けた豊前の佐田朝景を筆頭とする宇佐郡衆らが豊後に侵攻。長増が大将となってこれを撃退した。 義鑑には冷遇されていたのか、天文3年(1534年)に解任されて以降、目立った活動はない。また、義鑑から偏諱を賜って鑑忠(あきただ)に改名したとされるが、引き続き、長増で統一する。 長増が宿老として復帰を果たすのは、二階崩れの変が勃発し義鎮が家督を継承した天文19年(1550年)のことである。以後は大友三老の一人として臼杵鑑速や吉弘鑑理と共に重用された。 長増は豊前、筑前、肥前方分として三ヶ国の政務を担当し、また日向の土持氏も管轄した。菊池義武の反乱には佐伯惟教らの苦戦のため、志賀親守と共に出陣。小原鑑元の謀反鎮定や秋月文種討伐、門司合戦に参加。龍造寺隆信の討伐には先だって戸次鑑連と出陣。高橋鑑種の討伐には斉藤鎮実と共に城を包囲するなど主たる戦には大半参加した。この高橋攻めの際、一緒にいた立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理は秋月種実の討伐に向かうが緒戦に勝利するも夜襲を受け敗北、筑後に逃れた。事実上の総大将である宗歓は高橋攻めに残っていたが、新たに出陣を命じた田原親宏に宗麟は「吉岡宗歓に油断なく(がんばるよう)伝えろ」と命令している。(永禄10年10月晦日大友宗麟書状より)急遽宗歓を頼りにする宗麟の様子が見られる。 弘治3年(1557年)より、滅亡した大内氏に代わって北九州に進出するようになった毛利氏との戦いの責任者となり、数々の功績を挙げた。中でも長増が本領を発揮したのは、永禄12年(1569年)に毛利軍が大友領に侵攻して来たときであった。その頃、大友軍は毛利軍の猛攻に押され、筑前の大半を奪われて滅亡の危機に立たされていた。これに対し長増は、毛利の主力軍が筑前に集結しているのを見て尼子の遺臣山中幸盛に弾薬、鉄砲資金を援助して尼子の侵攻を手助けし、毛利に下っていた尼子旧臣の米原綱寛に山中幸盛に合力するよう促し成功。長増は大内輝弘を送るにあたり、周辺海域を支配している村上水軍の村上武吉を筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、この寝返りを毛利元就の策略と疑い、8月9日に大友水軍の若林鎮興に筑前の毛利軍に送る食料補給基地(周防にある)を襲わせて村上の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをして、鎮興の攻撃は成功した。大内旧臣たちに大内輝弘に協力するよう調略を開始し、さらに豊前小倉城を攻めると流言を流してわざと毛利氏につかませ、10月9日に田原親宏に小倉城を攻撃させて吉川元春、小早川隆景の注意を釘付けにし、同日、輝弘に兵を与えて筑前に出兵中の隙を突いて毛利領の周防に侵攻させた。10月10日、大内輝弘、周防の秋穂浦に上陸。毛利氏の強みは村上水軍に守られ、大友が周防、長門を攻撃できないことであった。これを突破したことは長門に本陣を構える元就を驚愕させる。この策は見事に当たり、兵がいない周防は輝弘によって次々と侵食されてゆき、驚いた元就は主力軍を全て筑前から撤退させた。こうして、大友氏は滅亡の危機を免れたのである(大内輝弘の乱)。宗歓は一度、引退を口にしており、親しい関係である筑後の田尻親種に対し「私は極めて年を取っており、(後は戸次鑑連たちに任せて)安心して隠居する決意をしていたのだが、今鑑連、鑑速、鑑理の三人が出陣中なので、筑後の領主たち、鑑連たちの日夜の苦労、迷惑を察しなければなりません」(永禄11年から12年ごろの)9月6日付け吉岡宗歓書状より) しかし宗歓は元亀3年の11月まで家老職に居り、どうも引き止められたらしい。 大友の政治をよく担当した吉岡長増、臼杵鑑速を豊州二老という。なお豊州三老は政務と軍事の二つに分かれていて、小早川隆景等のいう豊州三老(または豊後三老)は軍事面の立花道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理を指している。 天文19年の後半、菊池義武の討伐が済むと大友は肥後に検使をおくり長増は他の家老と共に肥後経営を行う。 永禄2年(1559年)の9月、今度は豊前、筑前に検使を派遣していた。長増は豊前方分としては宇佐八幡を管轄していたが今度も領主たちから訴訟があるとみて宇佐八幡宮の政務を代役として吉弘鑑理を派遣していた。このころ多忙であったようでその時の長増の書状に鑑理へ「鑑理に頼んで悪いと思うが私の疲労を察してほしい」と記している。また「宇佐宮側に異存のない様によく相談する事が大事であり、社役以下少しも怠たらないよう仕事をさせなさい。鑑理は機会を見て彼らに助言することが第一です。」と念を押して助言している。同年8月、長増は田北鑑生、吉弘鑑理と共に横岳資誠と小田鎮光(小田政光の嫡男)との領地境界線を裁決し仲直りさせ、9月には戦いを続ける龍造寺隆信と神代勝利を和睦させた。 永禄4年(1561年)、奈多鑑基は娘が大友義鎮の正妻になったことで寺社奉行に取り立てられたため、長増は宇佐八幡の政務から身を引いた。しかし、宇佐八幡の分社、八幡奈多宮の神官であった鑑基は義鎮を後ろ盾にして、本社宇佐八幡の領地を横領、権威の一部を剥奪、さらに前大宮司の家を兵を送って破壊するなど横暴を極める。たまらず宇佐宮の宮司たちは同年9月に長増、臼杵鑑速の二老に訴えでた。驚いた長増は謝罪し、前大宮司のもとに警備兵を送りさらに修繕などを約束した。鑑基には鑑速らと共にこれまでの行為を叱責し、横領などを白紙にする意見をし、実行した。この同年8月頃、島津家老の伊集院忠倉の申し出を受け、豊州二老は日向の伊東義祐と日向の島津家(豊州島津)に和睦命令をだし成立させる。島津と大友の仲介となった肥後の阿蘇惟将の家臣、隈庄親昌は書状で「肥後方分の志賀親守はいうに及ばず、吉岡長増、臼杵鑑速にまで私が仲良くさせてもらっているので、(二人を通じて)義鎮公のお耳に入り、大友が動いてくれたのであろうか」と記し、この頃政治において二人の存在感が際立っているのがわかる。 永禄5年(1562年)の5月、大友義鎮(宗麟)と共に出家、吉岡宗歓と号し、筆頭家老に就任、ならびに対毛利戦総責任者となる。 永禄7年(1564年)7月、幕府の仲介をもって毛利と大友は正式に和睦。だが毛利元就は無視して豊前、筑前の領主らに調略を続けたため宗歓と鑑速は幕府に訴え出た。このころから元就に正攻法は通じないと知った宗歓は策略を巡らす。二度目の龍造寺隆信の討伐では宗麟は痺れを切らし、大友親貞を派兵させたが今山の戦いで大敗(この時、肥後の城、隈部・筑後の五条の将らが捕まった)。主力はいまだ健在であったが、大友氏側から和睦を提案。宗歓は戸次鑑連、臼杵鑑速をつれて佐賀城に入り、龍造寺隆信側と対面し和睦を成立させ、人質の解放と龍造寺が肥前の領主たちから奪った領地の返還等について話合われた。また島津義久が相良義陽の天草を攻めるという噂が立ち、義陽は大友に相談。宗歓、鑑速が対応している。かって豊州二老は他の家老と島津貴久に友好の使者を送っており、永禄5年以降には宗歓、鑑速は薩摩に入り、島津貴久と謁見し伊東義祐の対応をめぐって協議した経験を持っており、島津側にも名前が知られている。またこの2人が島津氏との交渉、対応の担当官でもある。特に宗歓は宗麟時代に和睦交渉をことごとく担当していることが当時の書状で分かっている。さらに領内安定のため、永禄8年に田原親宏の長女を秋月種実に、元亀元年に臼杵鑑速の娘を宗像氏貞に、永禄10年から元亀2年に斎藤鎮実の娘を筑紫広門にそれぞれ嫁がせ懐柔策をとった。 天正元年(1573年)ごろに没したと推測されている。長増はただ一人、宗麟の祖父大友義長の時に元服した人物であり、吉岡家で初めて加判衆になったといわれ、大友義鑑は遺言状で吉岡長増を重職に就けるよう指名し、新当主義鎮は重職の最高職、加判衆に就任させた。一度辞めたものが復帰することも実に異例であった。永禄年間には筆頭家老になり、臼杵鑑速とともに政治の中心人物として宗麟時代の最長老であった。立花道雪は耳川の合戦の大敗後、宗麟、家臣団に手紙を送り「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と書き送っている。享年は70代半ばから80ほどと思われる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B2%A1%E9%95%B7%E5%A2%97
小田政光 Oda Masamitsu(1509年-1558年) 小田元光(もとみつ)の嫡男。子に小田鎮光(しげみつ)、小田賢光(ともみつ)、小田増光(ますみつ)、女子(龍造寺長信妻)がおり、このうち鎮光はのちに援助を受けた関係で大友義鎮(宗麟)から偏諱(「鎮」の字)を賜っている。政光自身、初めは少弐氏に仕えていたが、のちに龍造寺隆信に臣従し、この関係で子の賢光が、同じく宗麟から偏諱の授与を受けていた隆信の嫡男・鎮賢(のちの政家)から1字を賜っている。 政光の小田氏は常陸国南部を支配した小田氏の一族にあたり、常陸介の小田直光(なおみつ)が肥前国に下り、神埼郡蓮池城に拠り、少弐氏に仕えた。少弐資元が周防国の大内氏に敗れ自刃したさいには、その子・冬尚が祖父・小田資光(すけみつ)を頼って落ち延びている。 のちに少弐氏が再興すると政光もこれに仕えるが、龍造寺隆信が台頭すると佐嘉城を攻めたが、反攻してきた龍造寺氏の勢いの前に敗れ、天文22年(1553年)に臣従する。永禄元年(1558年)、少弐氏家臣・江上武種を討伐するために出陣したが、長者林の戦いで敗死した。この時、龍造寺隆信は政光からの援軍要請を黙殺し、政光の死を見届けると小田氏の居城蓮池小曲城を攻略したといわれる。 なお、政光の子らは家臣・深町理忠の働きにより落ち延び、のちに小田氏は大友氏の援助により再興したが、政光の子のうち鎮光、賢光は龍造寺隆信によって非業の死をとげている。肥前小田氏の血筋は隆信に仕えた増光の子孫が残り、のち鍋島氏に仕え存続した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E6%94%BF%E5%85%89
少貳資元 Shoni Sukemoto(1491年-1536年) 少貳氏出身有眾多說法,一般認為少貳氏乃出自藤原氏秀鄉流武藤氏族;治承四年(1180年),源賴朝向平氏舉兵時,武藤資賴率軍參加平氏陣營,不過卻受到三浦氏的牽制,之後甚至被平家免除禦家人的資格,資賴遂憤而投靠源氏。受源賴朝提拔,資賴至大宰府擔任九州惣追捕使(鎮西奉行),資賴不但擔任九州鎮西奉行,又補任築前、豊前、肥前三國的守護職,接著又兼任大宰少貳。不久,武藤氏便把官職名大宰少貳中的少貳,當做自己的家名,改為少貳氏。 明應六年(1497年),大內義興以陶興房(陶晴賢之父)為總大將,率領大軍殺奔北九洲打算一舉討伐少貳一族。太宰府淪陷,兄長高經在逃往梶峰城的途中,遭追兵襲擊喪命,最終父親政資於梶峰城切腹自殺,大內氏才告退兵。 政資的末子資元獲得豐後大友氏和舊臣橫嶽氏支援下再次興起家名。資元以勢福寺城作為居城穩步而順利地恢復勢力,資元更成為肥前守護。而將軍家的意向也有意讓大內氏與少貳氏和睦。享祿元年(1528年),資元獲得松浦黨的支援進入太宰府。這件消息對大內氏在築前的勢力來講當然有著極大的影響。於是大內義隆在享祿三年(1530年)夏,命重臣杉興運興兵討伐資元。 進軍途中築紫尚門、橫嶽資貞、朝日賴貫等昔日少貳氏一族反而作為先鋒加入大內軍。而迎擊的少貳勢有著重臣馬場氏、江上氏,並且更有龍造寺家兼、小田政光等肥前的有力國人眾。兩軍在神埼郡的田手畷遭遇並展開一番激戰。這時龍造寺氏部下中有著「赤熊」稱號的鍋島清昌襲擊大內軍的側面,大內軍受到突如其來攻擊完全亂了陣腳終於敗走。 天文元年(1532年),不甘戰事失利的大內義隆再次派出少貳討伐軍,不過由於龍造寺家兼的活躍,少貳勢仍舊抵擋住大內軍的攻勢獲得勝利。也因為龍造寺一連串的活躍,龍造寺家兼成為少貳氏家中不可或缺的人物。 另一方面,不斷戰敗的大內義隆在天文四年(1535年)終於親自帶兵進攻肥前。大內氏當主親自帶領大軍來勢洶洶殺奔而來,資元也知道這次交鋒毫無勝算,於是採納龍造寺家兼的意見,主動開勢福寺城向大內氏投降。丟掉三根、神埼、佐賀郡等地的資元進入多久氏的梶峰城,其子少貳冬尚逃到小田氏的根據地蓮池城。 翌年,大內軍攻擊梶峰城,後藤氏、波多氏、草野氏等肥前國人眾陸續倒戈成為大內氏的友方,而最被資元所信賴的龍造寺家兼也決定按兵不動,採取旁觀的態度, 最終,資元於梶峰城切腹自殺,年四十六歲。 出處 http://ajax106.pixnet.net/blog/post/6766976-%E5%B0%91%E8%B2%B3%E6%B0%8F%E5%AE%B6%E8%A8%98
江上武種 Egami Taketane(生年不詳-没年不詳) 少弐資元、少弐冬尚に仕えた。天文20年(1551年)、土橋栄益が龍造寺鑑兼を龍造寺氏当主に擁立しようとして龍造寺隆信に造反すると、武種は神代勝利・八戸宗暘・小田政光・筑紫惟門ら19将と共にこれに与し、隆信と対立した。 しかし天文24年(1555年)、在城していた勢福寺城へ隆信の軍勢が来襲すると、武種は防ぎきれず城を出て仁比山へと退いた。 その後は城原城にあったが、永禄元年(1558年)11月、隆信が勢福寺城に入っていた少弐冬尚を攻めるべく進軍してきた際は神代勝利と共に、龍造寺軍先鋒となった小田政光(元少弐家臣で、隆信に降伏し従属)を逆に討ち取るという功績を挙げた。 翌月、隆信との間で和議が成立したが、翌永禄2年(1559年)、隆信が約定を違えて城を攻撃してくる。武種は筑後国へ逃れ、冬尚は自害して果てた。その後、武種は隆信と和睦し勢福寺城へ戻った。 以後は龍造寺氏に属して神代氏攻めなどにも参加したが、永禄12年(1569年)に大友氏が肥前へ来襲すると、援軍を要請したにも拘らず隆信が援軍を出さなかったので、大友方に付き村中城攻めに参加した。 元亀元年(1570年)に大友氏が今山の戦いにより龍造寺攻めが頓挫すると隆信の逆襲が始まる。 翌元亀2年(1571年)、隆信が鍋島信生(後の鍋島直茂)らに2,000の兵を与えて攻めてくる。武種は重臣の執行種兼らの活躍で一度はこれを退けるも、結局は隆信の圧力に屈し、隆信の子の家種を養子に迎えて和睦した。以後、江上氏は家種の指揮のもと龍造寺旗下として活躍した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E4%B8%8A%E6%AD%A6%E7%A8%AE
神代勝利 Kumashiro Katsutoshi(1511年-1565年) 神代宗元的次子,母親為陣內利世之女,別名新次郎。 神代氏其起源據說是神功皇後遠征新羅時,討平國內麝阪、忍熊二皇子謀反的神話人物武內宿禰,由神功皇後讚其戰功曰:「神の代わり」遂授以「神代」二字為姓氏,始稱神代氏。之後神代氏世代擔任築後高良山玉垂院的大宮司,在進入戰國時代後以築後川左岸的神代村建設居館逐步武士化。在勝利之父神代宗元擔任當主時,由於築後川位在筋的神代村乃是連結太宰府和築後的交通要衝,擁有「神代渡し」通行權的神代氏受到了周圍蒲池、草野、西牟田等築後的有力國人眾的覬覦,在他們的輪番侵略下,居中神代宗元無力抵抗,無奈下終放棄祖傳的領地移住肥前,迎娶了千葉氏支配下國人眾陣內大和守之女,定居肥前上佐賀千布村。 神代勝利自幼被當作人質送入東千葉家,由千葉興常扶養長大,在十四歲之前一直在進行武者修行,武名卓著。在從屬少貳家的背振山南麓的山內一帶培育勢力,並與當地的山伏勢力結合,因此於天文元年(1532年),山內也遭到龍造寺家攻打時在神埼郡三瀨城主野田宗利的請求下成為三瀨城城主,同時也宣告出仕北九州名門少貳家,由於少貳家份屬龍造寺家兼的主家,讓家兼不得不終止侵略的步伐。 天文三年(1534年)十月,大內義隆率領三萬大軍出兵肥前攻打少貳家,主公少貳資元不得不在龍造寺家兼的仲介下開城投降臣屬大內家,但是大內義隆仍於翌天文四年(1535年)命陶興房沒收了三根、神埼、佐賀三郡,由於龍造寺家兼的旁觀使少貳家頓失後援,少貳資元在梢峰城被逼自盡,其子冬尚有逃往築後依附小田資光,之後少貳冬尚還是依靠一族的馬場、筑紫兩家及龍造寺一門為主力,加上神代、江上等重臣一族才成功復歸勢福寺城。因為這次能回歸勢福寺城當屬龍造寺一門的功勞最大,所以冬尚任命家兼的二男龍造寺家門擔任執權、而江上元種、馬場賴周兩人補佐。神代勝利也迎娶了冬尚之弟、成為東千葉家當主喜胤婿養子入繼東千葉的千葉胤賴之女為妻,同時跟千葉家、少貳家結親提高家名。 在少貳家中龍造寺一門的勢力日益擴展,同時與少貳家的宿敵大內家相善,其功高震主之行徑引來了少貳冬尚的憂慮,尤其在天文十年(1541年)不甘繼續雌伏於大內家之壓迫的少貳冬尚於築前與大友義鎮聯合意圖聯手對抗大內家,所以在經過主要家臣馬場賴周、神代勝利及小田政光、千葉胤賴登人商討後決議討伐龍造寺一門,於天文十四年(1545年)聯合有馬氏攻下龍造寺家本城水江城,並殺害了家兼之子家純、家門,孫兒澄家。是役之中神代勝利也派遣家臣神代豐前守在神埼郡尾崎村伏擊意圖前往勢福寺城依附少貳冬尚的家兼之孫周家、家泰、賴純,將其殺害。同時神代勝利在戰後也聯合馬場賴周趁西千葉家的千葉胤連避往小城郡時扶岳父千葉胤賴入主晴氣城宣稱繼承了千葉家的正統。 討伐戰中唯一走漏的龍造寺家主家兼當時雖已九十二歲高齡,但仍奮力復仇,聯合鍋島清房及千葉胤連迅速反撲,討殺馬場賴周、政員父子重回水江城。年事已高的家兼在隔年辭世,由出家的家兼曾孫法師丸還俗,稱胤信繼位,並且在天文十七年(1548年)在宗家村中龍造寺重臣小河信安的協助下與村中龍造寺當主胤榮的遺孀成婚,入繼宗家並得到大內義隆的支援,得賜「隆」,改名隆信。 繼承了龍造寺氏的隆信延續著曾祖父家兼的餘恨,親近大內家與少貳家對抗,但是天文二十年(1551年)大內義隆為家臣陶隆房反叛殺害後,北九州頓時震動,失去後盾的龍造寺隆信也喪失在家中的權威,本為村中龍造寺重臣的土橋榮益因此藉口應擁立輩份較長的家門之子鑑兼為家督,在大友義鎮的支持下聯合東肥前十九將謀反將水江城包圍,同時少貳冬尚也以神代勝利為先鋒參加對龍造寺隆信的討伐,隆信不敵開城被流放築後,土橋榮益稱心地龍擁載造寺鑑兼成為新當主,身任家宰,而少貳家也趁機瓜分本屬於龍造寺家的佐嘉城,冬尚也就交由神代勝利、高木鑑房兩人鎮守,龍造寺隆信被迫投奔蒲池氏。 天文二十二年(1553年),龍造寺隆信在蒲池鑑盛、鍋島清久的協助下重回村中城,然後攻打水江城將土橋榮益流放,開始展開對肥前的征戰,將本來從屬少貳家的小田、筑紫、橫岳、犬塚、綾部一一擊敗逼其臣服,後於弘治元年(1555年)二月龍造寺隆信倡議和神代勝利進行休戰的和議,意圖藉和談之際誘殺勝利,勝利自然心知肚明但是藝高人膽大的他仍然準時赴約,宴會之中神代勝利的近臣馬場四郎左衛門識穿了隆信想毒殺勝利的陰謀並成功防範,酒宴半途神代勝利便出言告辭快速退出,由於怕自己的馬也被下毒於是索性盜走隆信的愛馬揚長而去。 知道原來自己的計謀全在勝利意料之中的龍造寺隆信在同年九月著手攻打神代勝利的領地,但是神代勝利以神出鬼沒的戰術飄忽轉戰於山內二十六山令隆信顧頭難顧尾大為困擾,如同被狼群圍攻的大熊一樣,任一頭狼都不是熊的對手,神代軍左攻右被襲、右進左出擊的戰法卻讓龍造寺軍這頭大熊不斷負傷流血,但是因為隆信的忍者偵察到神代勝利所在的準確情報,令勝利的戰術嚴重受挫,龍造寺隆信得知勝利身處谷川城後成功地集合大軍急襲,令神代勝利倉促間無法調集援軍而戰敗,逃入築前依賴高祖城主原田隆種。 神代勝利在原田隆種幫助下居於伊都郡長野,但仍不放棄探尋重奪舊領的機會,在弘治二年(1556年)暮冬時節仗著往年遊走山間的經驗在雪季行軍翻過群山,於翌三年正月結合山伏勢力對隆信配下的熊川代官館發起奇襲,重奪本城三瀨城。當神代勝利回到山內的消息一傳開後,神代勝利迅速集結了三千軍勢,各地城砦也在神代軍和早潛入當地的山伏眾裡應外合下一一奪回。 為了防備神代勝利的反攻龍造寺隆信連忙派遣勇將小河築後守信安出鎮春日山城擔綱對山內的防備工作,小河信安為了瓦解神代勝利的勢力,派出忍者圖謀暗殺勝利,但是當信安與忍者潛入神代勝利在千布城的居所時卻被一名侍女所發現並通報給勝利知道,不料勝利居然不以為意還敬酒給小河信安,讓他安然離去。之後神代勝利很快抓準小河信安遠赴佐賀時對春日山城發起猛攻,信安之弟左近大輔以下一族幾乎悉數討死,殘兵逃往佐賀通知小河信安如此慘況後,信安大為悲憤之下向龍造寺隆信借來援軍親任先鋒於弘治三年(1557年)十月出陣。小河信安的動向全被神代勝利透過忍者得知,勝利在小河信安率領的龍造寺軍一踏入神代領便將三千兵力一分為二,由自己和嫡子長良各率一路分進合擊,並且廣派斥侯偵察龍造寺軍的行軍路線,利用山路的崎嶇地形讓麾下的山伏利用洋槍及各種暗殺手段狙擊龍造寺軍將領石井兼清、中元寺新左衛門、副島左馬允、水町右馬助、江副新八郎、土橋彌七郎、犬塚七左衛門、久保九郎兵衛、大石四郎兵衛等人相繼刺殺。之後兩軍在春日山城北方的鐵布卡遭遇,神代勝利一馬當先,身先士卒採用一騎打的戰術憑藉過人武藝討取了小河信安使龍造寺軍的先鋒部隊崩潰於瞬間,使在後方中軍的總大將龍造寺隆信無奈退兵以保全實力。 在龍造寺隆信逐步擴大領地時少貳方的神代勝利及江上武種卻也始終擁護著少貳冬尚與之抵抗,使龍造寺隆信為始終無法完全少貳家併吞而頭痛不已。永祿元年(1558年)十一月,龍造寺隆信以少貳家的降將小田政光、本告義景、犬塚一族為先鋒率四千五百人向莞牟田口方向進軍,自己則坐守姊川城本陣指揮,得到龍造寺出兵消息的神代勝利和江上武種、千葉胤賴連忙組成援軍會於勢福寺城,在少貳家召開的軍議最後決定由神代勝利率領自軍三千人在城原川西岸布陣,另一路則由江上武種統率帶兩千兵馬進駐神埼村,兩軍合成犄角之勢互相呼應組織防衛網。 當時龍造寺軍也採分兵策略由小田政光、本告義景率三千人跟神代勝利交鋒,另外一千五百犬塚軍則轉往攻打江上武種。神代勝利面對小田政光、本告義景的攻擊,很快便利用地形展開反制將兩軍切開,使本來兵力旗鼓相當的局面變成神代勝利以優勢兵力壓制本告義景,一瞬之間便將本告軍攻潰並討取本告義景,讓小田政光陷入孤軍作戰的窘境頻頻向龍造寺隆信求援。然而坐鎮本陣的龍造寺隆信卻始終採取靜觀的態度任憑先鋒部隊陷入苦戰,龍造寺隆信是冷酷無情也是壯士斷腕,一來他對小田政光這幾個曾經死忠少貳家的降將本就有三分不信任、二來在先鋒崩潰之際任敗軍衝散己陣只會迎來更大的失敗,所以隆信乾脆不理不睬,待小田政光被神代勝利和江上武種圍殲討取後才下令出兵長者林。 討取了小田政光後神代勝利和江上武種緊接著又在長者林受到從姊川城出陣的龍造寺軍的攻擊,久戰疲勞的神代勝利突然接到龍造寺部將福地信重、納富信景攻打己方側翼的消息戰況立刻由新勝的上風漸落敗局,心知已無勝算的神代勝利為防遭到全殲隨即聯合江上武種殺出一條血路退回勢福寺城。龍造寺隆信隨後讓一族中的龍造寺家就及重臣納富信景率四千軍包圍勢福寺城,但是因為神代勝利、江上武種的堅守下龍造寺軍久攻不落,最後在年尾時由川上實相院的座主增純法印居中調解進行和議,龍造寺軍解圍歸城。翌永祿二年(1559年)正月,龍造寺隆信和少貳冬尚的和議達成還不到一季便被龍造寺隆信單方面打破,大軍再次壓境勢福寺城,讓少貳冬尚措手不及兵敗自盡,江上武種轉為依附大友宗麟。同時神代勝利的岳父千葉胤賴也被龍造寺隆信支持的千葉胤連攻敗於晴氣城戰死,胤賴的嫡男胤誠被神代勝利救出,由於胤誠無子於 是便收勝利長男神代長良為養子,將妙見太刀、妙見尊像、千葉系圖等家寶讓渡給神代長良。 永祿四年(1561年)九月,隆信遣使入山內向神代勝利送上挑戰書,約定在九月十三日於兩家邊境的川上進行決戰,神代勝利決意奮力一搏,動員領內所有士兵,軍力合計七千八百人,把本陣設於川上神社並且親自率領兩千兵馬鎮守。另外遣嫡子長良領三千名士兵防衛大手宮原口一線,在南大門布置次子種良統領一千三百名士兵防衛、三子周利則率一千五百名士兵布陣於嘉瀨川東都渡岐口。而龍造寺方隆信則是讓一族中的龍造寺信周領兩千兵力攻打東都渡岐口、南大門方面由兩千五百的納富信景部隊負責攻取,隆信自己本人親率三千五百主力軍在大手宮原口布陣。 九月十三日上午八時,兩軍在川上川流域一帶展開激戰,開戰之初神代長良迅速擊破龍造寺隆信軍的第一陣廣橋信了隊,但是卻被第二陣的福地信重所阻而形成一進一退的混戰,本來膠著的戰況因為神代軍的內部動亂而改變,一個早被龍造寺方收買的神代家臣掀叛暗殺了勝利三子神代周利,使神代家在東都渡岐口的防線崩潰,龍造寺信周得以趁虛而入和納富信景合擊攻破神代種良隊,將種良討取。龍造寺信周、納富信景的軍勢繞過東都渡岐口、南大門一線由後方攻向神代勝利在川上神社的本陣,同時前有龍造寺隆信的進逼,使神代軍陷入了無法挽救的劣勢,神代勝利已知力難回天於是和長良一同浴血殺出重圍先逃往澱姬神社,然後再將家族移往大村純忠的領地領波佐美一帶,但也因此連累澱姬神社遭受兵燹之禍社殿被焚燒,後世也將此事演入神樂之舞中。 神代勝利雖然被龍造寺隆信驅出山內,但是山內一帶地形崎嶇,暗藏著許多山伏勢力,而這些精通暗殺、忍術的山伏集團全都只聽命於神代勝利,因此儘管龍造寺隆信兵進山內並設立代官,卻都無法有效掌理當地,很快地就在隆信班師回到佐嘉城後四個月,神代勝利的舊臣便追放龍造寺家留下的代官重新迎神代父子回歸山內,神代勝利有鑑澱姬神社因己遭殃而進獻了七町五反田地為社產,並奉納太刀「國次」。 在少貳氏滅亡之後龍造寺隆信與大友宗麟之間的彼此征戰已近白熱化,為了解除後顧之憂龍造寺隆信聽從納富信景的建議和神代勝利進行和議並申誓立約,而神代勝利也在長年抗戰後知曉再戰對己方也無利處於是同意將四歲的孫女嫁給隆信的三男鶴仁王丸,在婚約確立後神代勝利於永祿七年(1564年)遷居新建的畑瀨城隱居,家督之位由嫡子長良繼承,翌八年三月神代勝利因胃癌辭世,享年五十五歲。 神代勝利曾經自稱夢想「北山に枕し南海に足を浸す」,其一生皆在與龍造寺隆信對抗,也因此成就了武名。面對強橫的龍造寺勢力,神代勝利始終以抱持本家的尊嚴採取敵對的態度,對以下剋上的龍造寺家,神代勝利即使最後同意結親和睦也不肯臣服,在其生前神代氏始終和龍造寺氏保持對等地位,至終都保持了他的硬漢本色。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/67155450/1

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